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薄弱(第3話)

一色孟朗

小説

3,489文字

 

それまで人の存在も忘れるほどに静寂であったというのに、突然森川夫人がヒステリックに叫ぶと同時に幾らかの食器が割れる音が屋敷に響いた。

何事かと山崎が駆けつけると、泣きべそをかきながら「申し訳ありません、申し訳ありません」と繰り返しながら割れた洋物のティーカップを拾う女中を容赦なく罵倒し、その女の頭を杖で叩く森川夫人がいた。
「あれだけよく見ておくようにと言ったじゃあないか! アノ子はね、その辺の子供と違って特別なんだ!」
「申し訳ありません……申し訳……」
「這いつくばってる暇があるならさっさと捜しておいで! 怜士になにかあったらただじゃおかないよ!」

縺れる足で飛び出した女中を見届けると森川夫人はヨロヨロと椅子に崩れ落ち、しずしずと泣き出す。

山崎が「奥様、どうされたのですか」とその肩に手をやると死人の如く血の気の引いた顔をあげて「怜士が……」と震える唇から声を絞り出した。
「怜士が拐われてしまった」

その言葉を聞いて「アア、またか」と山崎は思った。

森川夫人は少々心配が過ぎる傾向があり、息子である怜士がいつの間にやらふらりと何処かへ出掛けるといつもヒステリーを起こし取り乱す。

怜士は森川家の後妻がようやく身籠り加えて難産の上で産んだ可愛い息子で溺愛するのも無理のない話だが、それは最早病的なものと化している。一度息子の姿が見えなくなれば誘拐されただと喚いたり、本の頁で指を切っただけでも誰かに切られたのではないのかと家中の者を尋問したりと被害妄想が激しい。山崎も何度かそのとばっちりに遇っていた。その癖、ヒョッコリと怜士が姿を現すと何事もなかったようにケロリとするものだから質が悪い。

当の怜士はというと純真無垢な幼児のように帰ってくる。当然起きていた騒動なぞ知らず、そしてそれを誰かに知らされることもない。こちらもこちらで質が悪いのだが、置かれた環境から逆に誰もが哀れんだ。何も知らない腫れ物扱いの籠の鳥。
「大丈夫ですよ、すぐにお戻りになります」
「いいや、アノ子はもう戻ってきやしない。何処かへ連れていかれて殺されてしまったに違いないんだ」
「奥様、奥様、落ち着きなさい」

老いても表面上だけは若々しさを保っている夫人の皺だらけの手を握って山崎は言い聞かせた。
「怜士様ももう十八。子供ではありませんから、お一人で外出されることもありましょう。必ず戻られます。一度でも帰らなかった日はなかったでしょう? 奥様は怜士様を信用していないのですか」
「そんな馬鹿なこと……あるわけないじゃないの」
「それでしたら帰りを待ちましょう。さぁ、少し横になられてください。ただでさえ奥様はお疲れなのですから」

まだ何か言いたげにしながらも森川夫人は山崎に促されるままベッドに横たわり、手を組んで「ドウカ、ドウカ……アノ子が無事に戻りますように……お願いします、オネガイシマス」と呟き続けた。

山崎は少し溜息をもらし、部屋の扉をそっと閉じた。

この一家に仕えて三十年余りが経つが、そろそろ退き際ではないかと感じていた。それは年齢的な理由だけではない。

森川家は確実に崩壊している。

主の森川庚一が脳溢血を起こして倒れたのを切っ掛けに総てが壊れた。他愛のない小さな雪融けから始まった雪崩れのように……小さな白蟻に芯を喰われ腐った巨木が倒れるように……手の施しようのないほどに大きく甚大なものが音もなく突発的に起き、この家の人々をオカシク狂わせているのだ。正常な者は自分も含めて最早誰もおるまい。

しかしこのまま逃げおおせる訳にもいかなかった。森川庚一の古い友人として、また嘗て戦場で誓いあったことを今更棄てることは不可能だった。

森川家と共に心中を……。

胸を押さえながらそんな事を考え、すぐに首を振って邪念を振り払った。

掠れた咳が聞こえ山崎はすぐにその主の元へ走った。

森川家の主は天井の一点を見つめてベッドに転がっている。山崎が枕元にきたとしても視線を向けることもなければ言葉を発することもない。ただ要求があれば咳をして山崎呼び、要求は何なのか山崎がひとつずつ聞いて求めている単語が出るとまた咳をして返事をする。
魂が辛うじて留まっている骨と皮だけに成り果てた老体を見るたびに心が痛んだ。
……やはり、死ぬべきではないか。何も出来ない不自由な身体で生かされることは地獄であろうて。魂の解放をしてやるのが筋ってもの友じゃあないのか。

再び魔に誘惑され胸ポケット手を入れた。

今ならこの薄く開いた口に毒薬を注ぐことが出来る。魂の解放、魂の、カイホウなのだ……。

ふと庚一と目があった。衰えた肉体の中で唯一まだ瞳に輝きがある。それはとても鋭いが、優しくもあった。

山崎は思った、なんと言うことを考えていたのか……主を、友を殺そうだなんて……誓いを一方的に破ろうだなんて、と。

唇を噛み罪悪感に苛まれていると、庚一の口から声が漏れる。無論、意味のある単語などではなくただの音でしかないのだが、山崎はそれだけでも十分理解していた。
「旦那様……」

枯れ果てた彼の手を山崎は強く握った。夫人のものとはまた違う皺だらけの皮。戦場での誓いを思い出す何本か足りぬ指。浮き出た静脈は強く鼓動している。
『山崎、今は生きるのだ』

鮮明に蘇る主に山崎はハイ、と答えた。

山崎が主の身の回りの世話を済ませ部屋から出ると、階段を丁度昇りきった森川家の長男、慶一郎と遭遇した。赤く腫れ上がった顔は一見では慶一郎とわからなかった。ずぶ濡れになった服から雫が落ちて絨毯に薄く染みをつけている。少し泥臭いものが鼻をかすめた。

山崎が驚き言葉を失っていると、慶一郎はエヘヘといたずらが見つかったようにはにかみながらも唐突に「今日の昼食はなんですか?」と聞いた。

「それよりもそのお顔は」
「ああ、これは少し問題がありまして」

困ったように笑ったが、そのあとに続く言葉はなく唇を指でなぞりながら「きっとこれが最後の罰になるでしょうから平気です」と呟く。

慶一郎は壊れている。彼の発する言葉は時折意味をなしていないフアフアとした妄想の一種であるし、森川家の崩壊へと繋げ更にそれを加速させているのも彼自身だ。それに加えて可愛い息子、怜士を正式な後継ぎとしたい継母から幾多の暴言と迫害を受けていくにつれて脳がおかしくなってしまった。山崎はそれが不憫で仕方なく夫人に見つからないようにひっそりと支えようとするが、現実は思い通りにならないものである。脳を患っている以外は穏やかで平凡な慶一郎が時折強情で暴力的に我が儘を通すのも庚一の血統と言えよう。無茶を止めようとして何度か殴られたこともある。

近頃は人が変わったように穏やかであるが、それでもなにも知らぬ他人の目から見れば狂っていることに違いはない。
「とにかく手当てをしましょう」
「いいんです、このままで構いません。僕には時間がありません。それよりも頭の薬が欲しいんです。頭が痛くて、うるさくて堪らない。僕は行かねばならないのに、こうも頭がうるさいと僕は清閑な心であの人に接することができる気がしないのです」
「あの人?」
「魂の救済者ですよ。これで僕はこの家で唯一のエノクになれるんです」

相も変わらず意味不明なことを言うが、ここまで嬉々として語る慶一郎は久しぶりだった。

板を打ち付け窓としての機能を失われた光なき部屋で見る彼は、慢性的な頭痛と妄想によって常に苦悶していた。症状を抑える薬を山崎から受けとり効果が現れてくると囁くように言うのだ。
「僕はお継母サンから早く死ぬことを強く望まれているけれども、僕自身はまだ死ぬことができません。出来るなら自分の死を見届けたいのです。勿論、現実は……そんなことは夢物語です。しかし救済者さえ現れれば不可能ではないと僕は考えました。救済者が僕を幾つかに分けて独りではないことを見届けてから死にたいのです。だってそうでしょう? 死は自分では確認出来ません。だけど、僕は自分で見なければ……我が主のもとへ行けない。ああ、でも怜士が……彼はいつも僕を赦そうとするカラ…………生きていてはいけないのに……?」

いつもそこで呂律が回らなくなり最早理解することは出来ない。次に目覚めたときには妄想と話し、他人なんぞ目に入らぬ。
「ではお着替えになってお待ち下さい。直ぐに取って参りますので」と言って薬箱を探しに向かおうと階段を半分降りたところで「山崎サン」と呼び止められた。
「あなたも救ってもらえるように頼んでみますから、安心してください」
笑みを浮かべた慶一郎の姿に山崎はまた若き日の主の姿を思い出さずにはいられなかった。

2024年8月16日公開

作品集『薄弱』最新話 (全3話)

© 2024 一色孟朗

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