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「……デェ、不愉快であるからその女を突き飛ばしたと言うことかい」
ぼくの前でふんぞり返って座っている大男……小椋と名乗った刑事はぼくを睨みながら鼻で笑ったので、思わず俯いて小さく「ハイ」と答えた。
机に置かれた写真の中から無表情でぼくを見つめる女と目があった。
綺麗な女……だがこの女から生気を感じない。写真だから、ではない……存在が無機質なのだ。ぼくが見た白磁肌の女と何処と無く結び付くのはきっとこの陰鬱な瞳だろう。深い井戸へ石を投げ込んで辛うじて見える波紋のゆらめきに似ている。それはぼくの魂を吸い込みそうでとても不可解に魅惑的であった。
「だからこの女を殺しちゃいないと、そう言いたいんだな?」
「エエ」
「でもねぇ、実際お前さんが突き飛ばしたのはこの女で間違いがないんだよ。見たやつら全員がそう言ってる。そのツンツル顔の幽霊みたいで,しかも真昼時の駅構内にすっ裸の女なんざァいたら誰もが覚えてるだろうよ。それが誰一人見ちゃいないんだぜ? 罪逃れのペテンと言われてもおかしかねェ」
「しかしそれでも……ぼくが見たのはそれで間違いないんです」
「キチガイぶるのも大概にしねぇか。なんなら今すぐ正気に戻してやらぁ」
熊のような分厚い手に胸ぐらを捕まれ頬を殴られた。ぼくは、ぼくは正気である……犯罪者でもない。ぼくは人を殺しちゃいない、ぼくが殺したのは……そう主張しようと目を合わせると鉄拳がまた頬に入るのだ。
幾度殴られたかわからない、ぼくはそろそろ気を失いそうだった。刑事がまた大きく腕を振り上げたのを感じてアア、モウダメダ……と目を閉じた。しかしなにも起こらなかった。腫れた瞼の間からもう一人の刑事が取調室に入ってくるのが見えた。
刑事と呼ぶには些か眼光が鋭すぎるぼくを殴り続けていた小椋とは対照的にヒョロリと縦に細長いその男は蛇によく似ていた。
「小椋、そいつァ釈放だ」
「は……本気ですかい」
「申し出があった」
「誰からです?」
「被害者の女サ」
「そんなはずは……だって女は」
「いいからさっさとしねぇかッ、このウスノロ!」
小椋と呼ばれた刑事は乱暴にぼくの胸ぐらから手を離すと謝罪もなく「出ろ」と低く言った。ぼくは痛む頬を緊張で冷えた手で覆いながら逃げるように、なぜか本能的に頭を下げて部屋を後にした。
すれ違う他人がぼくを見る顔は皆同じだった。困惑と気味悪さ。それほどまで……? 確かめようにも鏡がない。ただ、指先で触れるだけでも自分の顔が酷く醜いことになっているのはわかった。少しでも、しかしここまでくると最早無駄な行為でしかないのだが……腫れと痛みをましなものにさせようと
ぼくは土手をおり、川で顔を洗った。
泥臭い……滴る前髪を撫で付けてぼくは水面で歪む己の顔を見る。なんという不愉快な表情か。まるでアノ女と同じじゃあないの。
そもそもアノ女、一体なんの目的があってぼくの前に現れたのか。
この日の白昼、ぼくは憑かれたように突如思い立って駅へ行った。
ぼくは慢性的な頭痛持ちで、それも毎日午前十時に激痛に襲われるのだが……珍しくこの日は壮快であった。であるから、いつもならなんの思考も働かない頭に意味を成していない言葉と模様が湧き出て消える、これは時折起きることで……常に頭の中が騒がしいもののそれでも気分は良かった。
踏み切りにかかりぼくはフト、枕木と線路に対して漠然とした興味が湧いた。
線路には青鷺と鳶が列車にはねられ無惨な姿を晒していたのだ。おおよそ察するに先に轢かれたのは青鷺で、それを啄むべくしてやって来た鳶が喰うことに夢中になりすぎて後で同じ様に轢かれたのだろう。
随分前に死んだものらしく、先日の豪雨に流されたのか血も肉片も無ければそこに湧くべき虫もいない。ただの羽だけになった二羽はグロテスクなだけの死骸というよりも芸術的聖像に値するように見えた。
これはもしかしたらぼくに何かしらの福音を呼ぶのではないか、そう思いながらうろ覚えな祈りをデタラメに捧げ横切った。
踏み切りを渡りきった時だ……背後から啜り泣く声がした。
振り向くと女がいた、そう、アノ女。それは不自然なほどに白い肌で鵜の濡れ羽よろしく、艶めいた長い黒髪の女が一糸纏わぬ姿で線路にしゃがみこんで震えていた。
ぼくは思わず女に近付き声をかけた。
「もし、どうかされたのですか?」
ぼくの思い込みは違った。てっきりこの女は泣いているものと思っていた、しかし実は違う。
笑っている、この女は笑っている。
おかしな女だ。ぼくの本能がここから立ち去れと告げるように踏み切りの警鐘が鳴り始める。
「もし、もし、ここにいては危ないですよ。列車に轢かれてしまいます」
ぼくは女の腕を掴み引いた。冷たい、人の体温を感じさせない。無機質。この女には生がない、ただの物体だ。
女はゆっくりと頭を動かしあげた。その顔を見てぼくは驚いた。
此の女は人でない。
顔にあるべき血の通つた温かで柔らかな皮膚はそこに無く、瞼も無く、眼も無い、眼窩の穴がポツツカと空いてぼくを見ている。唇だけがほんのり薄紅色をしていて、そして薄気味悪く笑うのだ。鳥肌と吐き気を沸き起こすほどの、笑み。
しかしぼくはそれに惹かれてしまった。冷たく白い表面に浮かんだ毛細血管が白磁を彩る貫入に見えてついつい手を伸ばし撫でる。
ヒンヤリと伝わってくる冷たさが何故か心地よい。眼窩に指を入れてみた。空洞が広がっていると思ったが、意外にもぼくの指は濡れた。そこからだ、この女に花を挿してやりたいと思ったのは。なぜならそうすれば少しは気味の悪さも和らぐだろうから。
警笛が間近に聞こえてぼくはハッと自己を取り戻し、女を置いて急いで線路から退いた……その直後、女と鷺と鳶が高速で駆け抜ける列車にかき消された。
過ぎ去った後にあったのは鷺と鳶。女は何処にも居ない。確実に轢かれたのをぼくは目撃したのだ、だけど何処にもその痕跡は無かった。少し線路を歩いて行っても見つからなかった。
そもそも列車は停まることなくそのままの速度で走り去っていたのだからあの女の存在を否定しているということなのか。単に気付かなかったにしても何故痕跡がない。
亡霊だったのか……でもぼくはこの手で確かに触れた。あの冷たい肌と液体。濡れた指はとっくに乾いてしまったけれど、代わりに甘い香りが僅かにする。ぼくは試しに指を舐めた。自らの汗の味がするだけだった。
ぼくは女を探すのを諦め駅へ歩んだ。途中あんなに壮快で明瞭だった頭の中に靄がかかった。思考の電気が遮られてボンヤリとしたかと思えば、ぼくはいつの間にか駅にたどり着いている。道中の記憶はない、ある意味白昼夢というか一種の妄想の類いは見た気がするけれど。
何故か手には菊の束を抱えていた。果たしてぼくは花屋に寄った夢は見たろうか。新聞紙のなかのまだ開ききっていない菊の白い花弁の集まりを見つめているとアノ女の顔を思い出した。ついさっきのことだというのにもう曖昧だ、顔に靄がかかっている。しかし不快感だけはそっくりそのまま甦り胃袋が蠢く。
ぼくは花弁を一片ずつ摘まみ取り、ホームから線路に棄てる。意味はない、そうしなければ正気を保てない気がした。
ぼくの前に誰かが立ったので顔をあげた。
女だ、俯いて聞き取れないほどの声で何かを呟いている。興味を持ったぼくは聴神経を集中させて聞き取ろうとした、そしてそれは主への祈りであるとわかった。
こんな気持ちよく晴れ渡った空の下、この女の周りだけ鬱々としていて奇妙に愉快に思った。濡れ羽のような黒髪が風に吹かれて艶かしく揺れるとぼくはドキリとした。髪の束ヒトツヒトツが黒い蛇となってがぼくを狙って首をもたげている……ぼくは睨まれた野鼠で本能的に動けなくなった。
ぼくに気が付いたか、女の体が少し揺れ後ろを振り返ったのだ。髪の間から見える顔は……ああ、また人ではない。
踏み切りであったアノ女じゃあないか。顔に空いた孔からぼくをどうやって窺っているのか知らないが、じっとりとぼくを見ている。たかが孔の奥にある暗闇から視線を確実に感じるのだ。
嫌な頭痛が芯から湧き始めてきた。あんな、あんなに清々しい気分でいたのに……目の奥が熱くて堪らない。
靄のかかる頭を振っても一層濃度があがるだけだ。
ぼくが頭を抱える姿を女は笑いはじめた。すすり泣きに似た声で肩を震わせ笑った。そして歪んだ口がぼくになにかを告げた。それにぼくは酷く屈辱を覚えた。
なにが面白い……ぼくはこんなにも苦しいのに。見ず知らずの女に意味もなく嘲笑されねばならないのか。
急激にぼくの血潮は沸きあがり、女の背中を強く押した。それはとても軽く鳩に触れたようなフンワリとした感触だった。
耳をつんざく列車のブレーキ音と女の叫びが混じり聞こえる。叫び……悲鳴ではなく歓喜。周りも同じようにそれに加わり聖歌合唱の如く構内に響き渡った。
ぼくはただ立ち尽くすだけだった。持った菊の束が手からすり抜け足元にバラバラと広がる。
アノ女にした行為はぼくの苛立ちを無くしさっぱりと晴れやかな気分にさせると思っていたのだが、表面上は静寂だったが心の奥深くではモヤモヤとした曖昧なものが湧き出そうでいた。
線路に落ちた女を見ようと野次馬の列が出来上がる。それがあの女に対する葬列のように見えた。
突如ぼくは横から突き飛ばされ地面へ叩きつけられた。数人の男がぼくを取り押さえ、腕を締め上げた。ぼくは痛みに悲鳴をあげるが、上にのしかかる男に肺を押さえつけられて声も出ない。
「人殺し、人殺しだよ!」周りがそう喚き、ぼくを見る眼の全てが嫌悪と軽蔑に満ちてる。足元に落ちている聞くに誰も目を向けることなく踏みにじり、白かった花はどす黒く汚れていくのをぼくは涙混じりの眼で見ていた。
やがて駆けつけた警察官に身柄を拘束されると、小椋という刑事に事情聴取という名の拷問を受けることになり……あの暴力だ。
コンクリートで囲い固められた取調室はやけにヤニ臭くて眼に滲みた。そこでぼくがいかほどに真実を弁明したところでなにも信じてもらえなかった。それどころか狂言だ、キチガイだ、誤魔化すな外道、犬以下などと怒鳴りあの大きな拳で頭を何度も殴られることとなった。あの時もう一人の刑事が止めに入らなければ死んでいたのではないか。
警察なんぞ正義の皮を被っただけの悪党なんだ、と父が言っていたことを思い出させた。
そう言えば……あの名前のわからない蛇のような刑事が被害者の女からぼくを釈放するように申し出を受けたと言っていたが、あの女は生きているということか。ぼくはテッキリあの青鷺や鳶のようにズダボロに轢かれてしまったと思っていたのだけれども、運良く列車の下に逃れることが出来たのだろうか……あの一瞬の間に。
そうだとしてもあの女がぼくを釈放することに疑問がある。ぼくなら自分が知りもしない人間に殺されかけたのなら訴えを起こすだろう。それなのにあの女は……それをせず、それどころかぼくを救うだなんて。
鷺と鳶の死体を見たときと同じ、漠然とした興味がぼくの中に再び湧き始めていた。どうにかしてあの女に会い聞かねばなるまい、こんなぼくを救う意図を。
もしかしたらぼくが長きに渡って探し求めている聖母やもしれぬ。
慈悲深き聖母がいよいよぼくを救いに降りなすったのだ!
顔をあげたぼくの目はあるものを捉え瞳孔を拡げた。
川の中に佇む人がいる。白い肌を曝し、顔にまとわりついた濡れ髪の間からぼくを見つめているなにもない眼窩。
アア、またアノ女だ。
その目を見た瞬間、ウワンウワンと頭鳴がし始め胃酸がぼくの喉を焼いた。それでもアノ女は見るのを止めなかったし、ぼくも目を逸らすことができなかった。
アノ女はぼくを不幸にしようと呪っている……ぼくを獣にしようとしている……アノ女は殺さねばならぬ、そしてあの女に赦してもらいこのチッポケな命を救って頂かねば……。
ぼくは手元にある石をアノ女に向かって投げつけた。石は女の元には届かず手前でポシャリと音を立て消えた。それでもアノ女はぼくを見るのを止めないからぼくは手当たり次第の石を投げ続けた。投げれば投げるほど女が近づいてくる気がする。ぼくの目は遠くを捉えているのに。
苛立ちに叫び上げアノ女を罵り、ぼくは石を片手に川へ踏み込んだ。女は逃げなかった、怯えもせず逃げもせずぼくを見つめているだけでそれが更にぼくを憤慨させ暴力を肯定した。
ぼくは女を石で殴った。棒のように突っ立っているだけの女の身体が遂に倒れ込み水中へ沈んだ。それでも女は揺めきの中からぼくをまだ見つめているものだからぼくは何度も腕を振り上げた。でも次第になんの手応えもなくなってぼくは手を止めた。
アノ女はどこにもいなかった。下流へ流れてしまったのかしらんとも思ったけれどそうでもないようだ。
またアノ女はぼくの前からポッと消えてしまった……残る欲求不満に耐えきれずぼくは叫ぶ声をあげた。
ヨゴロウザ 投稿者 | 2024-08-15 22:51
夢野久作ぽくていいですね。私も久作好きです。続きも楽しみにしております。
一色孟朗 投稿者 | 2024-08-16 22:27
ありがとうございます.
夢野久作ぽさを感じていただけて嬉しいです.
彼にはまだ遠く及びませんが励みにします.