(壱)
その時、闇が強く馨った。
岩肌に貼りつき、妖艶に躍動する影法師に彼は目を瞠った。巨大な影は松明に映じて、洞窟内に木霊する手拍子に乗ってなよやかに、優雅に蠢く。男は岩陰に身を潜め、息を殺しながら辺りを窺った。
炬火を中心に車座になって囃し立てるのは異形の者達だった。額に戴いた鋭利な突起が人ではないことを示していた。その膚は赫く、黒く、或いは蒼く、明々と焔に照る体躯は筋肉が異様に発達し、尋常ではない力を秘めているのは一目瞭然であった。異形の者達を間近で見るのはこれが初めてではなかったが、醜怪な風貌は何度目にしても怖気が立った。男は固唾を呑んで慄く胸を鎮めようと努めた。
人に非ざる者達は酒に酔ったふうに好色な笑みをだらしなく魁偉に浮べて、燃え盛る火の傍で淫らに肢体をくねらせて踊る女を眺めていた。
黒髪を結い上げた女は眼元口元に紅をさし、白皙の素肌が透ける薄ものの衣を纏い、赫や碧の宝玉が嵌め込まれた重たげな瓔珞で首と腰を飾り、細い手には孔雀の羽根をあしらった扇を持ち、鬼達が唄う旋律と手打ちに合わせて脚を広げ、腕を上げ、爪先で身を軽やかに翻しては艶やかに嗤う。女が熱っぽい眼差しを向ければ鬼は野卑な笑い声を上げて、益々上機嫌に酒杯を重ねた。そうして再び不思議な調子の唄が繰り返される。女は気が触れた如く高笑いしながら衣の前をはだけて狂乱ともいえる踊りに没してゆく。より淫らに、淫靡な色を乗せてひらひらと蝶の如く舞う。
目の前で繰り広げられる酒宴を、見まいとしながらも男は唇を噛み締めて凝視していた。半裸の女に見覚えがあったので。忘れもしない、彼女の顔。記憶の中では七つの頃のままだけれども。確かにその俤があった。
――八重。
叫び出しそうになるのをどうにか堪えていた。しかし、岩陰にずっと隠れてもいられない。女が一人、鬼が四匹。こちらは独り。供の者達は皆、此処に辿り着くまでに斃れてしまった。分が悪い。だが悪鬼は退治せねばならぬ。女も――救ってやらねば。
彼はぐっと腰に挿した太刀に手を掛け、大きく息を吸った――その時。
「――そこにいるのは誰ぞぇ?」
女の玲瓏な声音が闇を慄わせた。刹那、沈黙が打つ。岩陰越しに一斉に視線が集まったのを感じた。
まずい――出端を挫かれて咄嗟に判断に迷った。手に掛けた太刀を握り締める。汗で柄がぬめる。膚が粟立つ。歯の根が合わぬのを、無理に奥歯を食いしばった。心臓が大きく鳴った。判断を誤れば、死ぬ。
「先程からこそこそと。妾が気付かぬと思うてか。丁度良い、酒の肴にでもしてやろうぞ。姿をお見せ」
女――八重はころころと笑いながら手招きする。鬼達は怪訝そうに顔を見合わせていたが、赫膚の鬼が――筋骨隆々とした体躯に牛の頭を戴いた鬼である――男の方へと歩み寄って来た。彼は儘よと太刀を抜いて岩陰から飛び出した。と、八重は眸を大きく見開いた。太郎――愕然と音がないまま朱唇が呟いた。彼はそれを見逃さなかった。否応なしに胸が高まる。幼馴染との予期せぬ再会と死の淵に立った瞬間の緊張感と。刀の柄を強く握り込む。
太郎は鬼と睨み合い、太刀を構えたまま云う。
「久しいな、八重。お前が神隠しにあって早十年。真逆、鬼の手に落ちていようとは」
「その名を聞いたのは久方ぶりじゃ。のう、太郎。じゃが、お主が知っておる八重はもうおらぬ。妾は百鬼。妾が呼べば地獄の鬼共が皆傅く」
そう告げると傍にいた鬼達が八重の足元に額づいた。彼女の言葉は本当らしい。異形の者達を統べる闇の女皇。つぅと太郎の背を冷たい汗が一筋、滑り落ちた。
炬火が爆ぜ、大きく焔がゆらめく。
八重は冷ややかな笑みを片頬に浮かべる。冷酷な微笑は凄艶さを極めた。彼女に侍る鬼達も何処か陶然とした眼差しで主人を見詰めていた。
「方々の鬼を狩って旅をしている若者がおると耳にしたが……お主のことかぇ?」
「いかにも。聚落を荒し、財宝を盗み、人を喰い殺す鬼を捨ててはおけぬ。喪われた人の命は戻らぬが、せめて財宝は取り戻し、しかるべき場所へ返す。八重、そなたも――」
八重は対峙する太郎をきつく睨めつけた。激しい怨嗟を滲ませた漆黒の双眸の奥底には、束の間、一抹の寂寥が揺曳していた。
「お主の救けなどいらぬ。片腹痛いわ。今更戻れると思うか。このわたしが――」
突如、野太い哄笑が二人の間に割って入った。八重も太郎も瞠目して嗤う鬼――牛頭を見遣った。牛頭は裂けた口を卑しく曲げて楽しげに囃し立てる。
「これは面白い。面白いぞ、百鬼よ。否、八重。お前が昔、泣いて戀しがっていた男も確か太郎と云ったな」
「違――」
「お前がどう思おうとこの際関係はない。我らが愉しければそれで良いのだ、八重よ」
ぎろりと牛頭の金色の眼玉が太郎を一瞥する。と、牛頭の鋭利な鉤爪が八重の細い頤を捉えた。八重は小さな悲鳴を喉の奥で上げて息を詰める。これ以上、弱みを見せてはならぬと毅然とした眼差しを牛頭に差し向ける。獰猛な眼と一瞬、かち合う。極上の金色は無慈悲でありながら、美しい満月のように思えた。
牛頭の厳つい肩越しに強張った面持ちの太郎が見える。目許を力ませた表情は八重の記憶の中の彼と上手く重ならない。貧弱で弱虫で泣いてばかりいたあの男が勇ましい美丈夫となって現れるとは――何か酷い嘘のような気がした。実際嘘であったなら、どんなに良いか。
八重よ――牛頭の声に現実に引き戻される。
「これまで我らはお前を主人として仕えてきた。中々愉快な暇潰しだったが、それにも飽きた。珍しい客人もいることだ、此処はひとつ、余興と洒落込もうではないか」
「な、何を――」
太郎は太刀を構えたまま、背後からじりじりと牛頭に詰め寄る。不意に牛頭が振り向いた。咄嗟に太刀を振りかぶり、勢い良く猪首を撥ねようとした時、闇に閃く白刃は牛頭の強靭な腕によって呆気なく弾かれてしまった。受けた反動に太刀を握っていた手がじんと痺れ、刀を取り落とした。足元に転がった刀を素早く牛頭が踏みつけ、太郎に詰め寄る。蛇に睨まれた蛙とはこのことだ――硫黄臭い息が太郎の頬を撫でる。ぎらぎらと光る金色の両眼が迫り、裂けた口が大きく開かれて鋭い牙が剥き出しになった。
――喰われる。
反射的に目を瞑ったが、予期した衝動はこなかった。薄目を開けると愉悦に染まった酷薄な両の眼に己の顔が映り込んでいた。
「太郎と云ったな、貴様の望みは我らを討つことだったな」
「そうだ。それから、お前達が奪掠した財宝も八重諸共返してもらおう」
「ふむ。女も財宝も貴様にくれてやろう。今となっては大して興味もない。但し、条件がある」
「条件?」
「今此処で八重と目合え」
「何?」
牛頭ッ――太郎が片眉を吊り上げたのと八重が叫んだのはほぼ同時だった。牛頭は惨忍に嗤う。つられたように他の鬼共も嗤った。喜悦に眼を細めて良いぞ良いぞと手を叩く。
「そして八重との子を我らに寄越せ。さすれば、女も財宝も貴様に引き渡そう」
「そんな――」
思いもよらぬ牛頭の言葉に太郎は八重を見た。彼女は絶望に蒼褪めた顔色で幼馴染を見ていた。俄かに腸が煮え返る程の怒りが躰の奥底から突き上げる。憤激に慄える手を指先が色を喪う程に握り締めながら、太郎は八重から顔を背けた。頭上から耳を塞ぎたいような鬼の罅割れた声音が降ってくる。
「何を躊躇う。八重も貴様を心憎く思ってはおらぬ様子。簡単なことだろう。尤も、この女は石女のようだがな。幾ら我らと交わっても人間の男を与えても子を為さぬ」
あまりにも悍ましい言葉に太郎は血の気が引く思いであった。
「この穢らしい外道めッ」
噛みつくような眼で睨む太郎を他所に牛頭はからからと嗤う。
「ああそうだ、我らは畜生にも劣る鬼だ。人間様程優しくはあるまいよ。さあ、どうする? 返事によってはこの場で貴様と八重を喰い殺す」
ちらと見れば、八重は表情を凍りつかせたまま沈黙していた。太郎は暫く黙考した後、重たげに口を開いた。
「――ならば、こちらからも条件がある。取引をしよう」
八重すまぬ――呟きは彼女に届いたか、どうか。
(弐)
……わざわざ東京から? 随分遠いところから来たねえ、あんた。こんな辺鄙なところに来てもなんもないだろう。温泉がある訳じゃなし、歓楽街もありゃせん。観光がしたいなら、ほれ、ずっと南の方だ。ん? 何、観光じゃない? じゃあ何しに来た? 調べてる? 何を? ……ふむ。民間伝承を調べて歩いている、と。学者さんかね? え? 違う? あんたも変わっとるなあ。そんなもん、調べてどうするね? ……はあ、そういうもんかねえ。儂にはあんたの気が知れないよ。……ああ、儂は此処に住んで長いが、土地の言葉はうつらなかったなあ。儂も若い頃は別のところにいたもんでね。……東京と違って此処は随分静かだろう。儂も此処の何もないところが気に入っていてね、余生を過ごすには丁度良い。……で、あんたは儂から何を訊きたいんだね? そんなにそわそわされちゃあ、こっちも落ち着かないよ。……百鬼? あんた、百鬼について調べてるのかね。何でまた……まあ、確かにあの伝説は儂も耳にしたことはあるが……それが真実かどうかは、儂も知らん。凡ては言い伝えだし、御伽噺の域を出ないだろうなあ。それで良ければ教えんことないが。何、儂も暇しているもんでね。話し相手が欲しかったところだ。……おお、それは有難い。じゃあ茶でも一杯……甘味も注文して良いかね? この店の善哉は美味いぞ。あんたも一つどうだ?
そうさなあ……百鬼という姓は確かに珍しい。儂の聞いた話によると大正の頃までは此処ら辺りに百鬼を名乗る者もおったそうだが、今はおらん。少なくとも儂は知らんね。
桃太郎の話はもう聞いたかね?……ああ、それはそうじゃない。違う。儂が聞いたのはこうだ。……太郎という若者が方々で悪事を働いている鬼退治に出たのは、どうやら親の仇をとるためだったらしい。親も鬼に襲われたとな。で、彼には女の幼馴染がいて、鬼の住処に乗り込んだ時、そこで幼馴染と十年ぶりに再会した。彼女はどういう訳か鬼と暮らしていた。鬼に拐かされたのか、うっかり迷い込んでしまったのか……。とにかく一緒にいた。それで太郎は幼馴染を返せと鬼に要求した。すると鬼は太郎に幼馴染との間に子を作って寄越せと云ったそうだ。そうすれば幼馴染を解放してやるとな。……そう、女は百鬼と自ら名乗っていたらしい。で、この土地にいたという百鬼一族は女と太郎の血族だったとな。尤も、これも言い伝えだから、全部嘘かもしれんがね。まあ、其処はともかく。この話は続きがあって――随分、悍ましい話が。これも、真実かどうかは知らん。儂は只、聞いただけだ。……それは――、
(参)
かさこそと耳元で音がする。蟲が這い廻る音だ。眸で見ることが敵わぬそれは皮膚を辿ってやがて肉を喰らうだろう。土の中は湿っていて酷く冷たい。骨まで沁みる冷たさだ。身動きは疎か、眼も開けられないが、呼吸は不思議と苦しくはない。息を吸うとむっとした土の匂いが胸を詰まらせた。
土の中に横たわってどれくらい時間が経過したのか定かではない。只、私はまだ生きている。何時まで生きていられるのか――それも、定かではないけれど。
僅かに動く指先に硬く、ざらついた感触。温度のないそれは樹の根だ。私は今、全身を樹の根に絡め捕られているに違いない。記憶にあるのは未熟な蕾だけの、寂しい枝ぶりをした桜の樹だ。私の肉体がすっかり腐り、土中に融けだす頃にはきっと花は満開になっているだろう。薄紅色の、妖しいまでの美しさを誇る桜は私の生命を吸って、益々妖艶に、淫らに花を咲かすだろう。そうすれば『わるいもの』は村にやってこない。芳醇な生命を漲らせて桜が咲けば『わるいもの』を退ける結界になるのだと幼少の頃から繰り返し聞かされた。
『わるいもの』――それが何なのか、私には分からない。お化けなのか、妖怪なのか、鬼なのか、それとももっと別の悪さをするものなのか。それに『わるいもの』が実際に村に来てしまったら、一体どうなるかも分からない。只、村にとって良くないものだとしか知らされてなかった。
――百鬼の女は『わるいもの』を村に近付けないためにその身を差し出すのが習わしなのだ。
曾祖父だったか、誰かが私にそう教えたのは初潮がきた十四歳の頃だった。身を差し出す、という話を聞いてそう驚かなかったのは、薄々知っていたからだ。笑ってしまうような噂話としてだけれども。何故百鬼の女がそうするのか、訊ねても答えは返ってこなかった。重々しい沈黙だけが其処にあった。
耳がこそばゆい。蟲がいるのだ。鬱陶しい。
不意に最後に見た夕焼けを思い出す。
花がない薔薇園の腰掛椅子に彼と並んで座って見た血が烟るような夕空は、初めてそれを目にした時のような感動があった。真紅に灼け爛れた壮絶な夕焼け空。彼も激しく灼かれている西空を感じ入ったふうに眺めていた。そうして膝の上で広げた或る詩集の一頁を朗読した。不思議な詩だった。どういう意味なのかと問うと、彼は只、静かに笑っていた。黒い瞳の中に赫く灼けた空が映り込んできらきらと輝いていた。とても綺麗だった。彼は何かを云いたそうに唇を歪めていたが、私は気付かない振りをして、夜の色が増してゆく空を見詰めていた。一週間後に控えていた『わるいもの』が来ないように身を差し出す儀式については――まさしく人身御供だ――黙っていた。口外するなとは云われなかったが、彼に話したところで信じて貰えるとは思わなかったし、また伝える意味もないと思っていた。この決定事項は覆ることはないのだから。だが、今にして思えば、彼に何も訴えなかったのは、私自身が儀式という存在を芯から信じていなかったせいだと分かる。それ程深刻には考えていなかったのだ。
瓦斯燈が明るくなる頃、また明日と手を振って彼と別れた。何時もと同じ、さようなら。けれど、彼と顔を合せたのはこの日が最後だった。その日の夜に、山奥にある見知らぬ社殿へと連れて行かれたので。
それは真夜中に行われた。真白な着物に着替えさせられ、目隠しをされて独り部屋に取り残された。其処からは時間の感覚は曖昧だ。朝なのか夜なのか、今が何日で何曜日なのかもあやふやになった。時折聞こえる何かの囀りで何となく今は朝なのだと決めつけていた。
与えられるのは水のみで、最初の頃は随分空腹に悩まされたけれど、次第にそれも感じなくなった。何日か過ぎて――恐らく、社殿に連れて来られて一週間が経ったのだろう――目隠しをされたまま、外へ連れ出された。苔生したような、土の匂いが強く匂ったのを憶えている。数人の人物の気配を感じながら、云われるままにその場に横になった。着物越しに酷くひんやりとした感触がした。そして何か細長いような、ごつごつとした感触も。背に当たって痛かった。
頭の上から男の人の声で読経が――もしかしたら、もっと別の何かかもしれないけれど――聞こえた。低く、良く通る声は骨にまで響くようだった。何度か鈴を鳴らす音がし、続いてざっざっと物音がした。と、俄かに足元が湿った感覚に覆われた。私は生きたまま土中に埋葬されているのだと悟った。その瞬間、ぞっと怖気が上ってきて咄嗟に目隠しを取ってしまった。飛び込んで来た鋭い光――周囲に焚かれた篝火に目の底を射抜かれてとても痛んだ。あの時分、早朝か夜だったのだろう。空は暗く、蕭条とした桜の梢が仄白く見えた。少ししてぼやけていた視力が戻ると、私を取り囲んでいた数人の男達は一様に驚いたふうに目を見開いて、手にしていた円匙を取り落としそうになっていた。私は穴の中に横たえた躰を起こそうとした。が、頭に土を被せられて目が開けられなくなってしまった。その隙をついて土がどんどん穴の中へ入れられていく。躰が埋まっていく。やめて――私の悲鳴は虚しく土中に吸い込まれ、視界は閉ざされたまま、しんと静かになった。凡てが死に絶えたかのような静けさ。聞こえるのは己の拍動する心音だけ。
誰も、此処からは出してくれない。助けてはくれない。
私は生きたまま埋葬されたのだ。
『わるいもの』を退けるために。『わるいもの』を近付けないという、桜の養分にされるために。――こうなっても尚、信じられない思いだった。
私の肉体がすっかり腐り、土中に融けだす頃にはきっと花は満開になっているだろう。薄紅色の、妖しいまでの美しさを誇る桜は私の生命を吸って、益々妖艶に、淫らに花を咲かすだろう。
嗚呼、嗚呼――、
私は少しずつ朽ち果ててゆく――。
(肆)
話に聞いていたよりも鬼塚と呼ばれる場所は寂しい場所だった。茫々と茂った枯草に埋まるように古い木造の建物が一つあり、長い間野晒にされ、手入れもされなかったのだろう、所々壊れ崩れている。形からして社殿らしく見えたが、当時彩っていた丹塗りもすっかり剥げてしまい、特定するのは困難だ。だが、聞いた話を信じたい私は恐らく此処が件の場所なのだろうと思った。
辺りには何もない。少し離れた処にぽつんと桜の老木があった。私は樹に歩み寄り、空に伸びた細い枝に触れてみる。蕾はなかった。
――この下に乙女の骨が幾つも埋まっているのだろうか。
聞いた話に因れば、この桜の樹の下に生きたまま百鬼一族の若い女性が埋められたと云う。人身御供の儀式は四年に一度執り行われ、そうすることで桜は退魔の力を得、美しい花を咲かせて当時恐れられていた鬼を村から退け、人々を守った――らしい。鬼退治と云えば、桃が定番だが、私が耳にした伝承では桃の樹でなく、何故桜なのか素朴な疑問もある。
先日、老人から聞いた話を反芻する。
鬼退治に出掛けた太郎は、鬼の元にいた幼馴染の女と村人達を救うために、五年に一度、子を鬼に捧げると約束した。それで鬼は悪事を働かず大人しく鬼ヶ島に蟄居すると請け合ったらしい。太郎と幼馴染の女は所帯を持って、約束通うり儲けた子を鬼に差し出した、とされている。
鬼を退けるために、子が捧げられ、百鬼一族の女が犠牲になった。
嘘か真か。
どちらにせよ、あまりにも残酷な儀式が今の時代に受け容れられる筈もないし、そもそも鬼だの魔だの、噴飯ものだろう。だがしかし、火のない所に煙は立たぬという訳で、何事はあったのだろう、と思う。否、私がそう信じたいだけかもしれないが。
――此処を掘ってみるかな。
しかし、乾いた土は酷く硬かった。素手で掘り返すのは無理だ。円匙でも買って持ってくれば良かったと今更ながら後悔した。
立ち上がって指に触れた枯れた桜の枝をぱきり、と手折った。と、其処から真赤な血が迸った。鮮血はぼたぼたと夥しく流れ落ちて私の手を汚した。地面が赫黒く染まってゆく。叫び声を上げながら反射的に折った枝を放り投げた。手についた血を払うようにして。しかし手は汚れていなかった。地面を染めた血もなかった。見間違いにしてはあまりにも奇妙だ。
――鬼に惑わされたか。否、百鬼の血にか。
ふと呼ばれた気がして顔を上げた。
只、渺茫とした如月の空が広がっているばかりだった。
(了)
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