ペンウィー医師の診察。

巣居けけ

小説

3,598文字

唐突に眉毛をありえない速さで動かしながら口を開いた。

そんなわけだからおれは小切手を河原に落とし、過ぎ去って行く風に情熱的でしかも物質的で、昆虫的でしかも道徳的な短いキッスを落として招待状をもう一度睨んだ。白い長方形の紙の上には確かにおれの名前が、そして下には、あろうことかペンウィー・ドダーの名前が記載されていた。
「チクショウ。本当に行かなくちゃダメなのか?」とおれは自分に問いを投げた。すぐに辺りの景色が歪み、おれはすっかり個室の便器に座っている詐欺師のような様相に変化した。おれは腰辺りに温もりを感じながらため息を吐き、「本当に行かなくちゃダメなのか?」と再度口にした。

どうしておれのような健康体の人間が医療施設に足を踏み入れなくてはならないのか。そもそもペンウィー・ドダーとは何者なのか。IMSとはどこの国にあるのか。おれは思考を巡らせて考えたが、それらしい答えは一切でてこなかった。ついにおれは、『この招待状自体が何かの間違いである』という可能性に至った。しかしおれは知っていた。この街の医療機関や医療チームメンバーは絶対に間違いをしない。正確無比な彼らは絶対に招待状の送信ミスなど侵さない……。

おれはこの巨大公園を堂々と横切って向かった。途中の演説場では同性愛をひっきりなしに叫んでいる金のウルフカットの女に小銭を渡し、立ち並ぶ山羊の黄金の像の軍団に敬礼をして、ようやく建てられたばかりの心身療育センターにたどり着いた。

受付に、大股でいどむ……。すると山羊頭の女の係員がびっくりしたように飛び上がっておれの顔を睨んでくる……。おれはそんな彼女のことを無視して名刺を取り出して投げつける……。
「ペンウィー医師は何階かね?」
「五階です……」

まったく、高ければいいというわけでもないんだぞ……。おれはため息を吐きながら名刺を回収し、近くのエレベーターに乗って五階に向かった。

五階の受付カウンターでは一人の人間の看護婦が深海を連想できる深く光のない冷たい瞳でおれのことを睨んでいた。
「あの、ペンウィー医師に用があるんだが」
「ああ。あなたがそれですか……。先生は三号室です。ちょうど学会が終わったもので」
「まるで学会以外にすることがないみたいだな」

三号診察室は温かい光に溢れていた。滑らかな引き戸(おそらく都会で手に入る上物の油をさしてある)を滑らかな手触りで動かして入室すると、奥の椅子にペンウィー医師が座っているのが見えた。
「まあ座りたまえ」

おれは彼女のしっとりとした低くて落ち着いた感じの適した大きさの言葉に操られるようにして手前の丸椅子に腰を下ろした。それからおれはゆったりとした眼光でペンウィー医師のことを観察した。彼女は落ち着いた意思表示の中でじっとりとおれのカルテを睨んでいた。頭はいま流行りのウルフカットで、墨のように黒く、左右が肩に付かない程度の長さだった。(おそらく彼女こそがウルフカットの流行りを巻き起こした張本人だとおれは予想する……)そして銀色の出どころ不明な時計をつけた右手はデスクに投げ出されており、左手はだらんとデスクの下に伸びていた。おれはその彼女の左手をじっと見た。どうやら黒いボールペンを人差し指と親指で撮んでいるらしく、適当にカタカタと動かしていた。
「それで先生。どうして今日はおれを呼び出したんですか?」
「……君は双極性障害だったね?」
「は、はぁ……。そうですが」
「名前はなんだったかな?」
「ラストリスです。ラストリス・ガーターベル。……カルテに書いてありますよね?」
「そうだ。確かにそうだ」そこでペンウィー医師はないはずの眼鏡をクイッと指で押し上げた。それから口の中で「ラストリス……、ラストリス・ガーターベル……」と復唱し、何度か楽しく愉快に頷いた後、「ラストリス君、と呼んでも良いかね?」と訊ねた。おれは彼女の気概に流されるように肯定した。すると彼女はまた数回カタカタと頷いてから急に喋り出した。「でもねラストリス君。これは君の認識力テストのようなものなんだよ。私はいま君がしっかりと自分の名前を認識し、口に出すことができるかどうか調べたんだ。わかるかい?」
「は、はい……」おれは再度彼女の気迫に押されて肯定した。
「それで、君はどうして躁鬱になったのかね?」ペンウィー医師は右手のボールペンでおれを指さしながら、いかにも医学者らしい無機質でおれの脳で再構築されるような声で問いかけた。

おれは答えづらい問題を前にして二秒ほど躊躇すると、それからひねり出すように声を発した。「……通っていた大学のシステムが急に変わって、それについていけなくなって、気づいたらこうなってました」
「ああ、君の大学に改革をもたらしたのは私だ」
「アンタか!」おれは丸椅子から飛び上がって叫んだ。その声は室内の空気と混ざり合って透明な硬い電波となり、やがてゆっくりと、その場に居たことを誇示するように溶けていった。「アンタのせいか!」おれはたまらず二度叫んだ。

ペンウィー医師はくすくす笑いをやめた。そして突然動かなくなると、そのままじっとおれの顔を見つめ、かと思えばまた唐突に眉毛をありえない速さで動かしながら口を開いた。「まあ、本題に戻るとしよう。我々はもっと合理的な手伝いをするべきなんだ。君もそう思うだろ? 我々の硬い交渉的な関係性に終止符を打つべきじゃないんだよ」
「もっともですね」おれは耐えられない真実になんとか食らいつきながら低い声を漏らした。
「実際のところ、君の病状の回復の見込みは限りなく少ない。なぜかといえば、君自身に回復の手助けができないからなんだ。君の中に眠る鍵のような概念が、我々医療チームに良い顔をしていない」ペンウィー医師はそれから大きくのけ反り、金属同士がぶつかる時に発せられるような音の笑い声を漏らした。それはおれの鼓膜を不快に揺らし、おれは自分が何か特別感のある難病にかかったような感覚になった。

ペンウィー医師はおれのカルテを眺めた。それからデスクの近くの棚に手を伸ばし、分厚いファイルを取り出して開いた。「こんなものはここにしまっておこう」道化師のような雰囲気の声色のペンウィー医師はおれのカルテを持ち、ファイルの一番後ろのページに差し込んだ。「はい! これで君も完治っ」ペンウィー医師は晴れやかな朝日のような口調で叫んだ。その声には医学者らしい勤勉で細やかな細胞の感じが少しも無かった。硝子窓が軋み、おれの肩が自動的に揺れ動いた。
「ははっ。そんなわけないじゃないですか」

おれはペンウィー医師が持っているファイルが一体何センチなのかを調べるために少し大げさに前に身体を乗り出した。するとペンウィー医師との距離が急速に縮まり、彼女のよく手入れされている短いウルフカットの毛先が鼻に触れた。
「『ハレンチ』だな……、君は」ペンウィー医師は甘やかすのような溶ける低い声だった。
「す、すみません」おれは慌てて彼女から離れた。それと同時におれは彼女が握っているファイルの分厚さが六センチであることを知った。おれはそれまで硬くひねり出すことができなかった糞がようやくすっぽりと吐き出せた時のような快感に全身が包まれた。

おれは自分の顔が急速に熱されて赤みを帯びていくのを感じて混乱した。すると視界の色彩がゆっくりと溶け合い、マーブル模様のようになっていった。
「大丈夫かい……、若い君よ……」ペンウィー医師の右手がすぐ近くまで迫ってきている。おれは流されるようにその手のひらに顎を乗せた……。ペンウィー医師の血の熱が伝わってくる……。おれは素早く目を閉じて開き、しかし変わっていない視界の不鮮明な情景に脳が変形していくのを感じた……。
「ふふっ。大丈夫かい?」

ペンウィー医師の鮮明な声と、母体のような柔らかい微笑みがおれの脳に突き刺さる。シワに添って脳が裂け、いくつもの細胞の塊になっていくのを感じる……。おれはペンウィー医師の手の中から頭を上げた。勢い良くのけ反り、ゆったりと身体が後ろに落ちていく。おれは自分の身体を支え切ることができなかった。

するとペンウィー医師がゆっくりと立ち上がり、流れる足取りでおれの後ろについた。おれは彼女の腕の中に落下していった。

視界のすぐ上にペンウィー医師の顔が視える……。彼女のどうしてか甘い香りがおれの鼻を貫いて、脳にまで到達して亀裂を修復する……。ペンウィー医師が笑っている。それは今までの金属的なくすくす笑いではなく、れっきとした淑女らしいさわやかな笑みだった……。
「君は医学者にるといいさ……」

ペンウィー医師の声がおれの全身の細胞を震わせている……。おれは自分がメスを握って立っている姿を想像する……。すると脳が熱を帯び、全身を浮かせる……。手術着や白衣を着たいという薬品臭い衝動に駆られる……。
「君は医学者になる?」
「は、はいぃ……」

おれは微細な揺れの喘ぎ声でそう答えた。

2023年1月18日公開

© 2023 巣居けけ

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