おれに果ての先の理解力を求めると? それで立体の中心に到達できるのか? そんなわけで調書のおれは自分によく似合う黒色のコートを着、始発のサイクリングで駅を咀嚼した。そう、街の全ての人間や山羊なら誰でも知っている、あの、全ての柱だけが黄色く、点字ブロックはどいつもこいつも桃色をだしている錠剤臭い駅だ……。
「これ、落としましたよ?」
後方からの声におれは慄く……。そして二年前の栗鼠だった時期を思い返しながら振り向く。するとそこには女児が居た。いちごミルクのような薄い桃色の長袖シャツ、胸元には黄色の刺繍で有名な『ドット・レー・ランチ』のサイン……。そんな彼女は、おれが右手で持っていたはずの黒のコートをおれにささげていた。
「これ、落としましたよ?」
「ああ、ありたがとう……。君は」
「それでは!」彼女はそれからさらに向こう側のエスカレーターに吸い込まれていく。おれはそんな歪曲した彼女の頬をいつでも思うことを誓う……。
電撃の飛来の風の色を答える駅員の妙に角ばった両肩右からを順に一撃だけ叩き、彼の甘ったるいビールのような香りの唇に呪文を通す……。「おれはキャンペーンで資料を積む……」新しい雑誌の切り抜いた証拠写真だな、まったく……。
すると駅員はこう答える。「主従関係曰く、答えることのできない問には風船を撫でろ……。だ」
おれは頭が左右に蠢く奇病の真似をしながら続ける。「新しい風船で糖分を?」
「ええ」駅員は自分の性倒錯に関心を得ている事務の人間らしい顔つきで針を刺すような眼光を続ける。おれはそんな彼の二枚目の顔にキッスを落とし、去り行く新幹線の迫り来る風圧に身体を任せた。
コートが伸び、駅員の身体を突いている……。二秒後に彼はコートの端を掴む。おれも同様にし、後に飛び降りた先の線路を両足でそれぞれ踏む……。さらに伸びたコートの先の駅員にこちらに来るように迫る……。しかし彼は駅の地面にとどまる……。
「一番安いヤツを頼むよ。なあ……」
彼は視線の下の方に移動したおれを視ながら、おれの汚れたコートのシミの数に慄いている。おれにはそれがコートを伝ってよくわかった。今現在、おれと彼の感情の揺れ動きや登場や喪失はコートという電線にて繋がっている。まるで山羊がよく視る夢のような空想の世界だ。
だからおれには彼が生粋の女児マニアであり、今晩はもつ煮込みを嗜もうとしていることがはっきりとわかった。ついでに白状しておくと、おれもおれで今晩は隠し持っておいたとっておきを披露し、独りだけの宴会に興じようとしている。
全ての飲食系組織には悪いが、この山羊予備軍を街から出すわけにはいかない。だからおれは視線の上の方の彼、警察官の彼の眼窩を舐める妄想を続けた。彼を引き付けているコートに流れるおれの妄想の音が、おれと彼の耳に鳴る……。それはゼリー状の液体が管を通るような、ぼこぼこという風味の音。彼は途端に耳を塞いだ。なるほど、彼はどうやらおれの身体がさっさとくたばれば良いと思っているらしい。快速の列車による轢き殺しを切望か。
おれはたまらなくなって彼に話しかける。「なあアンタ、どうして苦い蟲を食らった時のような顔をしているんだ? アンタは別に警察官からの家宅捜査に嫌な思い入れがあるわけでもないんだろ?」おれはすでに彼が家宅捜査マニアであることも見抜いていた。
彼は耳塞ぎをやめた。しかしそれは、おれの説得のような文言を聞いて心を改めたというよりは、別の行動に捕らわれたからのようだった。
「まあ……」彼は幼稚園児のような肌の香りのする声色で喋る。「トイレ……。そこに行かなくては……」
その時、コートを伝ってこちらにやってきた感情は尿意だった。
「行くぜ」おれはコート握りしめる素手に力を籠める。そして線路の位置から駅に上がろうとする旨を彼に伝達する。「いけしゃあしゃあと、行くぜ! それはもう、いけしゃあしゃあと!」
「いけしゃけしゃけと……」二人の周りを水槽の香りが巻く……。そして魚の臓物の音。
ルラシドンと名乗った彼は巡査部長として活動する刑事だった。おれは彼の純然たる尿意をコートを通じて感じていたので、彼は実際の所は出世の欲の無い刑事であることも理解していた。だからこそ、彼との世間話に出世や成長の類の話題を持ち出さなかった。おれは点字ブロックを律儀に歩む彼の真横で犬に徹した。国家の犬である刑事は皆が皆、自分だけの犬を求めている。そしておれは職業柄、そういった他人の要望に応える癖のようなものがある。だから彼が直線に伸びる激しい桃色の点字ブロックの列を丁寧に渡る時、その横で四つん這いになり、さらに犬らしい無言の見つめを開始した。
そしておれたちは駅のトイレにたどり着いた。そこには二つの扉が並んでいて、片方が青色、もう片方が赤色だった。犬のおれは主人である彼がどっちの扉を開くのかを観察した。すると彼は迷いなく赤色のに手を伸ばした。おれは無言の了承を全身の体毛、といってもおれは犬のフリだから、その体毛はそこにあると思い込んでいるだけの架空の体毛、で演じた。彼の伸びた右腕の先端の素手はノブを掴み、扉を開けた。
途端に女児の香りが吹いた。同時に人糞と、山羊の糞の香りが漂ってきた。
「ううっ! やばい……」壊れかけのラジオから轟く複数を一括にしたような声。
彼が呻いた。おれは彼の方に首を動かして、犬らしく鳴いてみせた。「わん! わん! わん!」
おれは次に自分の頭の位置から生えているはずの大きな耳を動かした。それは頭自体を大げさに震わせることで、耳も遅れて旋回するというやつ。蠢く両耳は吹いている風と香りをより強いものにし、辺りにまき散らした。そして彼は左手で口を鼻を覆った。
「やめてくれ! ぼくは山羊アレルギーなんだ!」
「そうなのか? ならさっさと入ったほうが良いと思うぜ?」おれはその時ばかりは名誉な犬の真似をやめて助言を発した。
彼は開いた扉の隙間に入り込み、トイレの内部へと進んだ。もちろんおれも後に続いた。
先に広がっていたのは純正なトイレ個室たちだった。一畳にも満たない個室が淡々と並んでいるだけのトイレ空間……。おれは自分の鼻で大げさな呼吸をした。すると微かだった女児の香りが強く感じられ、おれの股間の息子が膨張していった。血液が集まり、堅く太くなっていく陰茎を連想しながら、横の彼がどのような行動に出るのかを無言で見守った。
「あああぁ……。ああっ! もう家に帰りたい……。ぼくはアレルギーなんだ……」
「わん! わん! わん!」
「なああ、君は何か言わないのかい?」アナウンサーのような透明で汚れた二方向からの声。これはトイレ室の左右の壁から聞こえてくる。「あんたは犬じゃないんだろ?」
おれは彼の宝石のような瞳を見つめながら四足歩行をやめた。「おれはコートさえ無事ならなんでもいいさ」
「それって、酷くないか?」この時ばかりは彼は、女性のような低音だった。
「そうだな。でも、公平なんだよ。秩序がある……」
おれは自分から見て最も最短の距離でたどり着くことができる扉のノブをひねり、個室の出入り口を開いてみせた。そこには誰も居なかった。人の座っていない便器がどうにも性的に視えたので、おれは黒色ズボンと白のパンツを下ろし、便器の白に向かって自分の白濁を噴射した。
「あんたってどこでも理解ができるのね?」
「賭け事だ!」おれは強弱の激しい声色で唱えた。
「よしわかった」彼は心の底から理解したような汚れの無い笑みだった。「残りの個室扉を、順に開いていこう。そして中に女児が入っていた場合、そちらの負けだ。どうだい?」
「いいね」おれは身体をくねらせて賛同した。「君ってやつは、ゲームを考える才能があるんだな」
「ううん。……確かにあんたの話は文学的だけど、今は話の先を濁している場合じゃないと思うぜ」と唱えながら、彼は二つ目の個室扉を開いた。新作の油が塗られているためか、その扉はとても滑らかに開いていった。そして見えた中には誰も居なかった。しかし、個室の壁に掛けられているはずのトイレットペーパーが無かった。
「ねえ! ここにあんたのコートを掛けておくのは?」
「いいね!」おれは彼の提案に従って、本来はトイレットペーパーが備えられているはずのフックに自分のコートを掛けた。黒色のコートは個室便器に収まらないと考えていたが、実際に掛けてみると意外にも相性が良く、汚れた黒色は素直に便器の白と混ざっていた。
「さて、次はあんたの番だな」
おれは三つ目の個室扉に手をかけた。すると後ろでニヤニヤ笑いを続けていた彼が手刀の形にした両手を顔の前で付け合わせた。つい先週後頭部に移植した第三の目でそれを視ていたおれは、彼が神の類に祈りを捧げている姿を邪魔しようと振り返った。
「あんた、新興宗教を知っているのか?」
「馬鹿にしてるのかい? 神頼みを?」彼は閉じた目を開けることなく答えた。
「そうじゃない。否定しているんだよ」
「ならいいだろ。ぼくは信じているし、馬鹿にもしてないし」
「ああそう……」おれは恋焦がれていた人間の負の部分を見つけてしまった大学生のような顔で視線を扉に戻した。そしてノブを一気にひねり、開いた。少しだけ滑りの悪い扉は五秒の時間をかけて大きく進み、おれに個室の内部を見せてきた。
そこには女児が居た。白の便器にちょこんと座っている彼女はいわゆるウルフカットという髪型で、瞳には職人が手掛ける陶芸作品のような重く凄まじい光があった。そして彼女の左右の瞳の色は違っていた。おれの方から見て左が青、右が赤だった。
そして彼女は薄桃色の長袖シャツだった。
「あの時の君じゃないか!」
「知りませんね」
「ならっ! んっんんん……。君、きみ、ドット・レー・ランチとは何者だ?」
「知らない。あんたの上司なんじゃないの?」
「なるほど……。そういうのも、あるのか……」
おれは衝動的に、自分で意識するよりも圧倒的に素早く下半身を露出した。像の鼻のような細く長い陰茎を女児に見せつけながら、そのアンテナを右手の人差し指と親指で掴み、女児の左右の目の間、眉間の辺りに狙いを定めた。
それはすぐにやってきた。身体の下の方から上がって来る強烈な尿意。おれは腰回りの筋肉をできるだけ弛緩させ、それに身を委ねた。
全てから解放される感覚。放出することで全身に駆け巡る爽快感。おれは最高の心地の中で尿を出し、それを女児の眉間の位置に吹き掛けた。べっこう飴のような透明感のある黄色は女児の眉間にこびり付き、その色だけが付着した。
やがておれは十秒にも及ぶ放尿を終えた。それまでおれを縛っていた尿を放出したことによる喪失感がないわけではなかったが、それでも目の前の女児の眉間に自分の尿の色を映すことができたことによる達成感はすさまじかった。全身がずぶ濡れになった女児からは女児特有の柔らかい匂いのほかにおれの尿の腐った臭いがあった。白のワンピースは全体的に濡れ、肌に吸着している部分もあった。
「おら、礼は?」
後方の彼が、彼女の父親を連想しながら促した。
「礼は? 礼、礼」おれも続いた。
すると彼女は一瞬だけ言葉を選んでいるような、逡巡した顔色を出した後に、おれのことを見上げて口を開いた。
「ありがとうございます」
「ん。良い子」
おれは彼女の額にキッスを落とした。
尿の味の奥に、彼女の肉体的で甘美な味があった。
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