扉の先に続いているのは、六畳ほどの正方形の部屋だった。左の壁際には白い机が置かれ、その上は無数の書類の山とノートパソコンに占領されていた。右側には一つのベッドが置かれ、上には硬そうな枕のみだった。室内の中央には机に対応した大きな椅子と、背もたれの無い丸椅子が置かれていた。天井に設置されている蛍光灯はドーナツのように輪になっており、強い白の光が部屋全体を無機質に照らしていた。
「また病院かよ! 何なんだよこの街は!」
学徒に続き入室したボルデインが辺りを見渡すと同時に叫んだ。
その部屋はありきたりな診察室だった。主治医が不在という一点を覗けば、そこは完璧な医療機関の一室だった。
「ラズーンっ! ラズーンはどこだっ!」
一歩進んだ学徒が力んだ。その低音はサンドバッグ役を探しているいじめっ子のような声色だった。熱の籠った怒声は狭い室内に反響し、消え去るまで少しの時間を必要とした。
怒号が消え、数秒、室内には静謐が訪れた。学徒もボルデインも、声を発することはしなかった。学徒は無意識に腰を低くした。それは戦闘準備の体勢だった。両手を握り、鼻で小さく呼吸をする学徒は無人の二脚の椅子を睨んでいた。
「あたしならここだっ!」
「どこだっ!」
後方から聞こえた声に、学徒は叫びながら振り返った。そして猫背で直立しているボルデインの後ろに、あのラズーンの姿を視た。自分よりもボルデインよりも長身なラズーンを睨みながら、学徒は自分のズボンのポケットをごそごそとやった。やがて学徒が取り出したのはあの棒だった。ラズーンがボルデインを助けるために学徒に与えた物だった。棒を握る学徒はボルデインを押しのけ、ラズーンの眼前に腕を突き出した。
「これを、返す」
突き出された右腕、その先の、ごつごつとした素手の中にある銀色の棒を、ラズーンはすぐに受け取った。そしてさっさと白衣のポケットにしまった。
「全ての耳垢が取れただろう? なぁ、使い心地はどうだった? 全ての脳みそが取れただろう?」
ラズーンは薄い笑みを浮かべて訊ねた。
「垢など取っていない。おれがやったのは『破き』だ」
学徒はラズーンを睨む眼力を一切弱めずに答えた。
「破きか! そうか! ならあんたは恩人なるだろうな。あの刑事の大切な恩人になるだろうな!」
学者らしい知的で鋭い声色のラズーンは学徒から目を離し、ボルデインに視線を落とした。無言で二人が会話する姿を眺めていたボルデインは、無知な哺乳類のような目をしていた。
ラズーンはそんなボルデインの阿保面を一瞥し、目を学徒に戻した。
「そしてあんたらは、あたしを恩人だと仰ぐだろうな」
「なんだと?」
「あの棒はあたしが作ったんだ。だからあたしはあんたらにとっての恩人さ」
改めて学徒を視るラズーンの顔には卑しい笑みがあった。それは自分の功績を嬉々として話している園児のような明るく無邪気さを感じる笑みだった。
しかし、学徒は冷たい顔をしていた。そこに人情は無かった。何も無かった。今の学徒は昆虫のような、一切の感情の揺らぎを御した領域に居た。
ラズーンはその無情の表情に驚いていた。純粋な戦慄が身体を駆け巡り、不気味な寒気が背筋を貫いていた。
「どうした学徒。まだこの刑事の容態に不満があるのかい?」
「全てはあんたの原因だろう? あんたはマッチポンプが趣味なのか?」
「あたしはいつでもポンプの役割さ。この街にはまともな医者が居ないからね」
全ての事柄を理化学的に照明することができると信じている科学者のような口ぶりで、ラズーンは学徒を押しのけ、背もたれのある椅子に腰を下ろした。知性を感じさせる眼光が学徒とボルデインを貫いた。優雅な素振りで足を組むラズーンは、机の書類の山に手を突っ込み、一枚の書類を抜き出した。それに書かれていた文字は、学徒やボルデインの頭では到底理解のできない難解さが詰まった文書だった。ラズーンはそんな文字列をすらすらと読み進み、全ての内容を理解すると同時に紙をくしゃくしゃみ丸め込んだ。野球ボールほどの大きさになった書類をラズーンは口に運んだ。がさごそと音を立てながら書類の玉を口内に含むと、ラズーンは咀嚼を開始した。その顔には一切の感情が乗っていなかった。それは、自身が現在行っている行為がひどくありきたりで、飽きを感じてまうほどに何度も繰り返してきた行為であることの証拠だった。口の中で書類玉を噛み砕く際の音は、紙を丸める際に聴こえたがさごそという音だけだった。やがてラズーンは噛み砕いた書類玉をゴクリと飲み込んだ。わざとらしい喉越しの後にラズーンは息を吐いた。その口内には書類の欠片すら見当たらず、ペンキで塗装でもしたのかと見間違うほどに赤赤とした舌が存在しているだけだった。
「それで? 君たちは招待状は持っているんだろうね?」
ラズーンの手にはすでに次の書類があった。
「紹介状なら食べちまったよ」丸椅子に座りながら答えたのは学徒だった。
「つまり、お前自身が紹介状ってことかい」
「そうだっ!」
「そうかい。ならさっさと患者を座らせな。あんたは健全だろう? 純正学徒」
ラズーンは軽い声色で呟きながら、手元の書類を丸めていた。
学徒はボルデインの方を見た。胡乱な瞳で立っている警部がそこには居た。
「警部。お座りください」
「おうっ!」ボルデインは蕎麦屋の大将のような剛力な声と共に丸椅子に着席した。
「では、さっさと始めようか」ラズーンは二つ目の書類玉を完食した所だった。「警部にどんな薬が必要なのか、君にはわかるかい? 学徒」
「ラツーダ!」
「なるほど。君は精神科医を受けたことがあるんだね。しかし、今回警部に必要なのはそういった類の薬ではない。あれらはじっとりと我慢するようなものなんだ。経過報告を欠かさずに、ゆっくりと必要数を調節していくのがお決まりた。しかしね、今、この警部にそんなことをしている余裕は、残念ながら無い。ではどうするか、つまり、手っ取り早くことを進める必要があるんだよ……。ラツーダを十錠一気に飲むと爆発の危険が伴う……」アンティークのような前屈を思わせる囁き声……。
「なるほど」内ポケットから取り出した万年筆でメモを取る学徒は、普段の学業の姿だった。
ラズーンは机の引き出しを開けた。そこにはいくつもの錠剤の模型が収納されており、ラズーンはその中から迷わず一粒の錠剤を取り出した。「これは全くもって、元気な錠剤だ……」
錠剤模型にキスを落としたラズーンは、その模型をボルデインの眼前に持っていった。
「我々が使う薬は刺激が強い。そういった薬に山羊の唾液を使うのは当たり前として、これには特別に、山羊の舌そのものが含まれているんだ」
「山羊の舌! それは伸縮自在な情緒をもたらすのですか?」
「そうだ」ラズーンは息を吐いた。自分は明晰な科学者であることを誇示しているような、極めて無機質な笑みで学徒を視た。
学徒はすっかり魅了されていた。山羊の唾液だけではなく舌そのものを使用した薬がどのような刺激をもたらし、どのような世界を覗くことができるのかが気になってしょうがなかった。一方でボルデインは今までの話を興味無さそうに聞いていた。しかし目線がラズーンの持つ錠剤から一切動いていないことが、彼もまた山羊の舌入り錠剤に本当は興味をそそられている確信的な証拠だった。
学徒は一歩踏み出した。丸椅子に座っているボルデインよりもラズーンに近づき、錠剤の粒を見つめた。
「ラズーン……。いや、ラズーン先生っ……。我々にも、その薬をください……」
学徒はそれから勢い良くお辞儀をした。ラズーンに自分のつむじを見せつけることで、それだけの誠意を内に秘めていることを証明した。
「いいよっ! と渡したいところなんだが、やはりこれも、結局は売り物でね。お金が必要だ……」
「お金ですか……。そんな……」お辞儀から戻った学徒はがっくりと身体を落とし、膝立ちになった。
「あの……」口を開いたのはボルデインだった。「どうにかなりませんかね……。我々二人とも、ここまでの道のりで結構消耗しているんです。どうか……」
ボルデインも学徒同様にお辞儀を披露した。はげている彼の、最もつるつるで最も輝く秘部をラズーンに見せつけることで、自分の誠実さをしらしめた。
「ううむ……。そうだねぇ……」ラズーンは逡巡するふりをした。しかし心の内では次の行動をすでに決定していた。あまりにも素直にお辞儀をする二人が可笑しく思え、弄ぶような態度を見せていた。
「お願いします……。どうか……」
「よし、わかった。ならば互いに三錠ずつ、くれてやるさ」
ラズーンは笑みを浮かべながら、右手で『3』のマークを作った。
「あ、ありがとうございます……。しかし、お金は……」
「金は要らないさ……。使ってみれば、払う気になるさ……」
低く呟くラズーンは机の上の書類の山に素手を突っ込んだ。そして三秒ほどごそごそとやると黒いものを取り出した。それはマイクだった。カラオケなどで目にすることができる一般的なマイク。ラズーンはそれの電源を入れると通常使用用途に従って声を吹きかけた。
「あ、ああっ。初心者用のやつ、六錠。お願い」
ラズーンはマイクの電源を切った。プツンという電気が消滅する小さい音が鳴った。
ラズーンはマイクを再び書類の山に戻した。
「もうすぐ来るさ。幸福への近道ってやつだ……。楽しみなよ?」
四分後、それは到着した。
この診察室の出入り口の扉をコンコンコンとノックする音が鳴った。ラズーンが扉に向かって「どうぞ」と問いかけると、扉は通常通り開かれた。そして室内に入ってきたのはなんとラズーンと同様の顔に髪型をした、薄桃色の看護師衣服を着た女だった。女は円形で銀色のお盆を持っており、お盆の上には六個の白い粒が見えた。おそらくそれが目当ての錠剤なんだろうと学徒とボルデインは思った。
女に「ありがとう」と小声で伝えながらお盆の上の錠剤を右手に取り出したラズーンはにんまりとした顔で手を二人に差し出した。女は何も喋らずにすたすたと退室した。
「さっきの女は何なんだ?」
ボルデインが訊ねた。
「あれはここの従業員さ。私の顔はここでは一般的なんだ」
ラズーンが淡々と答えた。
何の気なしに回答をするラズーンを見て、学徒はそれが本当で揺るぎない真実なんだと思った。
「さあ、それよりもお待ちかねの薬だ。さっさと飲んで、効果を実感したまえ」
ラズーンの素手の中にある錠剤を、二人はそれぞれ受け取った。
「ちなみに水は必要無い。飲むという意思さえあれば、薬の方から君たちの体内に沈んでくれるはずさ……」
二人は自分の素手の中にある錠剤を見つめた。それは小さく、真白かったがよく見ると山羊の顔が彫られていた。さらに三つとも同じ山羊の顔ではなく、それぞれ微妙に表情が違った。
二人は顔を見合わせ、同時に薬を含んだ。口内で唾液まみれになった薬は炭酸のようなシュワシュワという音と共に素早く溶け、唾液と混ざって甘い味を放出した。
二人はそれを、素早く嚥下した。
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