学徒散策。②

巣居けけ

小説

11,245文字

妙な寝ぐせと独特な加齢臭の中の刑事だな……。

二階へと続く階段は室内の隅に追いやられていた。

壁と同色の黒い階段をよく見ると、ところどころにシミが付着していた。それは自分以外にもこの階段を上がり、二階にて『品定め』をした人間が複数人居ることを意味していた。小汚いそれを睨む学徒はここに居る人間どもの低俗さを改めて思い知りながら、シミをなるべく避けて階段を上り始めた。ミラーボールの閃光が届いてないらしいその空間は、出入り口の上部分に設置されていたあの小さな円形照明と同じ物が等間隔で壁に埋め込まれており、夕暮れ時のような薄い橙色に包まれていた。

十数段駆け上った先に小さな踊り場があった。その二畳ほどの空間には何も無く、学徒は足を止めることもせずに無視をして、残りの階段を駆け上がった。

さらに十数段を上がると、先は一畳ほどの空間になっていた。天井にはやはり橙色の照明が等間隔に設置されていて明るかった。すぐ奥には扉が聳えていた。真白い扉には赤文字で『立ち入り禁止』と書かれていたが、学徒は構わずノブをひねって入室した。

十畳ほどの室内は明るかった。一階とは違いしっかりとした蛍光灯が灰色の天井に設置されており、白色の光で満たされていた。壁は全て白かったが正面の壁に黒色の扉があった。床は明るい木目調だった。

家具の類が置かれていない室内を見渡した学徒は、驚愕の感情に包まれていた。引きつった顔がそのまま制止し、声すらも上げられぬ驚きに全身が震えていた。

警部のボルデイン・ニッパーだった。はげで大きな体躯を持ち、灰色の背広を着た警察官の彼が、床の中央にうつ伏せで倒れていた。両腕はロープによって腰の辺りでひとまとめに縛られていた。また、学徒の方を向いている顔には目隠しの黒い布が巻かれ、口には茶色のガムテープが貼り付けられていた。

学徒は考えるよりも先に早足でボルデインの元へ向かった。素早く跪き、ボルデインの右肩に手を乗せた。大量の汗を流しているらしく背広越しにねっとりとした熱気が伝わってきた。と同時にボルデインの身体がビクリと跳ねた。目隠し布のせいで視界が使い物にならないため、急に肩に現れた感覚に驚いたようだった。学徒はボルデインの耳元に口を寄せ、「警部、自分です。警部、大丈夫ですかっ」と囁いた。するとボルデインは顔を天井に向けて呻いた。ガムテープのせいで言葉にはなっていなかったが、叫びのようなそれは苦痛を訴えているように学徒には聞こえた。

学徒はまずガムテープを剥がそうと考えた。その旨をボルデインに伝えると、ボルデインは再び体をのけぞらせて低く呻いた。原因はわからないが、やはり辛苦を訴えているようだった。学徒はとにかく会話ができるようにならなくては、と思い、ボルデインの口元のガムテープを一気に引き剥がした。強力な粘着部分が音を立てて皮膚から剥がれ、ボルデインの大きな口が露になった。次に学徒は目隠し布を簡単に取っ払った。半開きになっている瞼から覗くボルデインの瞳には、憔悴しきった、今にも消えてしまいそうな弱弱しい光が浮かんでいた。
「警部っ、警部っ、どうしてこんなところにいるんですかっ!」

学徒はボルデインの両肩を揺さぶりながら訊ねた。するとボルデインは再び低く呻いた。双眼から涙を流し、自由になった口からは明確な苦痛に耐えている声が漏れていた。わけがわからなかった。どうして話しかけただけでこんなにも辛そうな声を出すのかが、学徒には見当がつかなかった。
「警部、どうしたんですか!」

学徒はボルデインの肩を揺らしながら訊ねた。殆ど叫びに近い声量だった。
「うううううううっ。脳が壊れるっ……。やめてくれぇっ」

ボルデインはやはり呻くように声をひねり出していた。
「警部! どこか痛むのですかっ? どうしたのですかっ!」
「うるさいぃっ。声をっ、声をやめてくれ……。脳が揺れるっ、壊れてしまうっ……。だめだっ」

そこで学徒はハッとした。声だった。自分がボルデインに話しかける度、ボルデインは呻吟していた。どうやら声が脳に反響し、耐えがたい激痛を与えているようだった。学徒は口を強く閉じた。横一文字にして不用意に開かないことを自分自身に誓った。今のボルデインの前で必要以上に声を出してはならなかった。

学徒は学生服内ポケットからメモ帳と万年筆を取り出した。今の状況でボルデインとやり取りをするには筆談しか無いと考えた。

学徒は開いたメモ帳を床に置き、万年筆を走らせた。書き終えるとメモ帳をボルデインの眼前に持っていき、文字列を読ませた。
『今から筆談で会話をします。あなたはどうしてここに居るのですか』

文字列を読み終えたボルデインは数秒間思考を回すと小さく口を開いた。
「違法薬物、の、捜査だ……」

どうやらボルデイン自身が声を発するだけなら何も問題は無いようだった。どういう原理なのかはわからなかったが、とにかく学徒は次の質問を素早く書き、さっとボルデインの眼前に持っていった。
『どうしてあなたが薬関係の捜査を?』

それは自分の脳が判断するよりも素早く、本能が感じ取った違和感のような疑問だった。ボルデインは、警察官としては殺し案件のみを担当しているはずだった。ボルデインが居酒屋などで、自分が逮捕した犯人がどれだけ凶悪な奴だったかを自慢げに語っていることは、数か月に一度会うか会わないかの浅い付き合いの学徒でも知っている『ボルデイン警部の迷惑行為』のうちの一つだった。それほどに、自分が殺し案件に携わることを切望しているこの男が、どうして違法薬物の捜査に単身で乗り込んでいるのかが、学徒には見当がつかなかった。
「少年に、依頼された……」
『少年?』学徒の脳裡には、あのクラブ客の中で最も薬に詳しい男を教えてくれた少年の顔が浮かんでいた。しかしその少年とボルデインの話の少年が同一人物であるという確証がなかったため、まだ伏せておこうと考えた。

ボルデインは掠れ声で続けた。
「綺麗な目をした、少年だ……。兄貴が薬で、おかしくなっちまったらしい。調べてくれって頼んでくる顔が、どうにも性的でな……。エロくてな、シコくてな。はは、断れなかった……」

ボルデインは弱弱しくも、意地の悪い笑みを浮かべた。その顔を見下ろす学徒は脳内の熱がさっと冷めていくのがわかった。この男をこのまま放置してもいいのではないかと強く思った。まさか性欲で動いているとは思わなかった。敏腕刑事のボルデインのことだから、わざわざ一人で捜査をしていることにもきっと重大な理由があるのだろうと考えた自分が、ひどく滑稽な存在に思えてしょうがなかった。

ため息を吐きだした学徒は一分ほどボルデインを睨むと、再度メモ帳に万年筆を走らせた。
『どうして拘束されているのですか』
「これは……。やつのせいだ……。油断してしまった……」
『やつとは?』
「ああ……。ラズーンだ……。あいつがここの薬物を仕切ってる……。おれは、やつを追い詰めた……。絶命の一歩手前まで追いやった。でもそこで、逆に、捕まって……。ミラーボールにされちまったっ!」

掠れ声を半開きの口からこぼした後、ボルデインの頬を一筋の涙が下っていった。ミラーボールにされたという意味がどうにもわからなかったが、涙で潤んでいる双眼の奥には、どうすることもできない悔しさと、ラズーンに対する怒りだけが浮かんでいた。学徒はその目を五秒ほど見つめ、自身の胸の中にしっかりと焼き付けてから、床の上のメモ帳に万年筆を走らせた。
『ミラーボールにされたというのは、どういうことですか』

その文字列を読んだボルデインは、今までのようにすぐに喋り出すことはなかった。何か躊躇しているような色が顔に浮かんでいた。学徒が不思議そうに眺めていると、虚を見つめていたボルデインは意を決したように固唾を飲んで口を開いた。
「言葉通りの、意味だ……。おれは今、床に対してうつ伏せになっているだろう? おれの股間辺りの床には穴が開いていて、それは一階の天井まで貫通しているんだ……。見えないだろが、おれはやつにつかまった際に性器を露出させられて、床の穴に睾丸を入れられたんだ。一階から見ると、天井から睾丸がぶら下がっている状態になる……。それが、ミラーボールだっ!」

学徒は一階の唯一の光源であるミラーボールのことを思い出していた。確かにあれはミラーボールというには小さすぎだったし、ミラーボールというには光が強すぎた。発光の色が金色一色という点にも違和感を抱かなかったわけではないが、まさかあれが人の睾丸であるとは思わなかった。
『なるほど。よくわかりました。ひとまずここから脱出しましょう。まず腕のロープを解きます』

文字列を見せた後、学徒はボルデインの返答を聞かずに彼の腕を縛っているロープに触れた。白色のそれは三周巻かれており、蝶結びが施されていた。皮膚に食い込むほどにきつく縛られてはいたが、結び目自体は普通の蝶結びだったので道具を使わずに解くことができた。

解いた後、学徒はボルデインの肩を叩いた。立つことを促す合図だった。
「まて。おれは睾丸が一階の天井に出ているから、今は立ち上がることができない……」

しっかりと合図を受け取ったボルデインは呟くような小さな声で答えた。
「ならどうすれば……」学徒は無意識に呟いていた。声を発したことに気付いてボルデインの顔を見ると、歯を食いしばって痛みに耐えていた。

学徒は思考しながらメモ帳に万年筆を滑らせた。
『無理矢理引っ張ってみるしかないのでは?』
「……千切れて、しまうだろうが……」
『しかし、いつラズーンがここに来るかもわかりません。多少強引でも試さなくては』
「そうか……」それは今にも消えてしまいそうな極小の声だった。それから数秒ほど虚を見つめたボルデインは、一つの決断をしたような硬い顔つきで学徒を見上げた。「頼めるか」

学徒は力強く頷いてみせた。するとボルデインは少しだけ微笑んだ。学徒は素早く立ち上がり、ボルデインの背の方に周るとその身体を跨いだ。そして腰辺りを両手で掴んだ。ボルデインは両手を床に付けた。準備は整った。二人は一斉に力を込めた。学徒は両手と下半身に、ボルデインは両腕にありったけの力を入れ、床から身体を引き剥がそうとした。しかし身体は数センチほど浮いたところで止まった。ボルデインの睾丸が嵌っている穴に引っかかっているようだった。学徒は構わずに引き上げようとした。その瞬間にボルデインが呻いた。うううっ、という低い大声が部屋に響き渡った。睾丸と身体を繋ぐ皮膚が限界まで伸び、裂けていくような痛みが全身を駆けているようだった。ボルデインは両腕から力を抜いて、床にだらんと落とした。すでに睾丸からの痛みで限界だった。全身を灼熱が包み、汗でむわっと火照っていた。しかし学徒はそれでもボルデインの身体を持ち上げた。大股に開いた腰に全力を注ぎ、ぬううっ、という低い声を上げながら身体を上げた。睾丸に掛かる痛みは増していった。ボルデインは涙を流しながら制止を訴えていた。「やめてくれっ! もうやめてくれ!」と叫んでいたが、学徒はやめなかった。やめる気など微塵も無かった。学徒はボルデインの睾丸を犠牲にしようと考えていた。違法薬物の取り締まりだけではなく、現役警察官であるこの男を救出したとなれば、名誉教授の地位に就いた後に安泰な学者人生を送ることができることは間違いなかった。そのためには絶対にボルデインを床から引き剥がさなくてはならなかった。ここで睾丸を犠牲にしてもらうしかなかった。

強烈な出世欲を胸に、学徒は歯を食いしばり、全身の筋肉に力を入れた。ボルデインの悲鳴が絶叫に変わった。学徒はボルデインの身体と床との間にできた隙間に両腕を滑り込ませ、腹の位置で両手を強く握った。そして腰に最大限の力を込めて引っ張った。やがて肉が弾けていき、ついにボルデインの身体は完全に床から離れた。

ボルデインの身体を横に投げ出した学徒は、ボルデインの睾丸が嵌っていたという穴を覗いた。そこには困惑の顔でこちらを見上げているクラブ客の姿があった。突然ミラーボールが落下したことで、クラブ内にはどよめきが広がっているようだった。床をよく見ると落下した睾丸が落ちていたが、クラブ客がそれに気づいている様子はなかった。穴から確認できるだけでも五十人のクラブ客がそこには居た。学徒は改めてこのクラブの規模の大きさを実感しながら穴から目を離した。

学徒は次にボルデインを見た。仰向けに倒れ、ゆっくりと呼吸を整えている彼はすっかり消耗していた。青ざめている顔の全体が汗でぬめりと垂れ、天井から降り注ぐ蛍光灯の光をぎらぎらと反射していた。表情は無く、弛緩した頬が呼吸に合わせて揺れていた。学徒はボルデインの下半身に目をやった。上着と同様に灰色のスラックスのチャックは全開で、蛭ような見た目の陰茎が露出していたが、その陰茎は赤く濡れていた。陰茎の下部についているはずの睾丸は無かった。少しだけ残っている皮はずたずたに裂けており、無理矢理ちぎり取られたようになっていた。
「ボルデイン……。君の睾丸はすでにミラーボールなんだ。さらに言えばミラーボールは、すでに一階に落ちた。もし今からでも通常の睾丸として使用したいのなら、検査をしたほうがいいと思う。君はちゃんとした処置を受けるべきだ」

天井に視線を向けながら口をパクパクと動かし、必死に酸素を取り込もうとしているボルデインを横目に、学徒は心療内科の主治医のような顔つきで独りごちた。身体が小刻みに震えているボルデインは、やはり睾丸を無理矢理引き剥がしたことで相当な痛みを味わったようだった。
「おれの性生活は……。これから、どうなるんだ……。なぁ、おまえっ」

ボルデインの掠れている声を遮るように、大きな音が室内に鳴り響いた。乾いた衝撃音だった。学徒はすぐに顔を上げ、音の出どころに目を向けた。ボルデインもゆっくりと首を動かしていた。あの黒色の扉が開かれていた。そしてそこには女が立っていた。

医師のラズーン・エルバーだった。黒髪をほぼ天辺の位置でまとめて後ろに流している髪型に、長身でひょろりとした体躯を持ち、緑色のスクラブスーツの上から白衣を羽織った医学者の彼女が、にやけ顔で入室していた。
「ラズーン……」

学徒はゆっくりと立ち上がりながら小さく囁いた。自分に言い聞かせるような小声だったが、ラズーン本人にはしっかりと届いているらしく、彼女はにやけ顔の口角をさらに吊り上げて学徒の元へと近づいた。黒いハイヒールのコツコツという子気味の良い音だけが響いた。
「そうさ、神出鬼没のラズーン・エルバーさ」
「知ってるさ」

学徒は吐き捨てるように答えた。
「そうかい。ならよかった」

学徒を睨むラズーンの声は、研ぎ澄まされた刀剣のように細やかで、高音だった。ボルデインが画鋲を踏んづけた時のように表情をくしゃりと潰した。ラズーンの高音はより強い痛みを脳に与えているようだった。

学徒は深呼吸をした。変わらずにやけ顔をしているラズーンは完全に自分を見下していた。しかしそれは油断の証拠だった。自分の圧倒的な力に酔い、こちらの力を見くびっていることが胡乱な瞳と歪曲した唇でわかった。

学徒は再び深呼吸をした。換気が完璧に済んだ脳で、この大犯罪者をどうにかしようと考えはじめた。
「あんたがここで薬を流している。そうだろ?」
「ああそうさ。なあ、あたしはペンウィー・ドダーの弟子なんだよ。知っているだろう? 医学に脳を浸したペンウィー・ドダーさ」
「ペンウィー・ドダーだと……?」

その名前は学徒も知っていた。偽装の免許証をいくつも所持し、まるで医学界隈を渡り歩くようにさまざまな医学的組織や研究所に侵入し、猟奇的で違法な手術や実験を繰り返している異常な犯罪者が街に潜んでいることは何年も前から耳にしていた。しかしそんな彼に弟子なる存在が居たことは初耳だった。あの手の犯罪者はどこまでも独りよがりで、他人と必要以上に関わることなど絶対にしないだろうというのが学徒の見解だった。
「まあ、あたしも先生には、もう数年会ってないんだけどね。……まあそんなことはいいんだ。それよりも」

ラズーンは学徒を見つめたままボルデインを指さした。
「あんたはこいつの脳にある異常を取り除きたい。そうだろう?」

今のボルデインにある異常、つまり、他人の声によって激痛を感じてしまう症状のことだった。
「できるのか?」
「もちろん。だってこの刑事の脳に細工をしたのは、あたしだからね」

ラズーンはまるで自慢の発明品を見せびらかすような態度だった。整った鼻梁の二つの穴から軽く息を吹きながら、控え目な笑みで自分の実績をアピールしていた。

学徒はそんなラズーンの餓鬼のような態度に苛立ちを感じながらも、ここは出来る限り相手を持ち上げるべきだと言い聞かせ、平常心の表情を保った。そして、「どうすれば、警部の脳を治すことができるのですか」と訊ねた。入学したばかりの大学一年生が古株の教授に質問をする時のような少しだけ上擦った声だった。
「なら、土下座しなさい」
「は……?」後頭部に強烈な一撃を食らったような感覚があった。
「土下座だよ。知らないの?」

嗜虐心を隠すことなく顔に出したラズーンの笑みを前に、学徒は強烈な屈辱を感じていた。全身が熱を帯び、顔面が急速に赤くなっていくのを感じた。腹の奥では『何か』が蠢いていた。その『何か』とは殺意だった。目の前のやぶ医者を今すぐに殴り倒したいという欲求が背筋を貫いていたが、学徒の身体はそんな内心とは別に、冷静にしゃがんでいた。この大犯罪者に土下座をするのは本当に嫌だったが、脳は『土下座をしない』という選択肢が無いということをしっかりと理解していた。だからこそ殺意に満ちた感情の中でも、学徒はすばやく、ラズーンに対して土下座をすることができた。

正座をした後にラズーンのつま先の前に両手をつき、上半身を一気に倒す。そして額を床に擦り付けると、頭を上から押し込まれる感覚が現れた。ラズーンが頭を踏んづけているようだった。さらに燃え上がる屈辱と殺意に身体を震わせていると、上から「良い足置きだ」という高音が降り注いだ。弾けた笑いこえから、ラズーンがどれだけ上機嫌になっているのかがわかった。屈辱的ではあったが、これでボルデイン警部の脳の異常を取り除く方法を教えてもらえることは確定したように思えた。すると後頭部に別の感覚が降ってきた。それは明らかに足とは違った。まず感覚は頭の上にずっとあり続けるのではなく、一度コツンと頭を叩いてからはどこかに消えてしまった。どうやらこの二つ目の感覚とは、頭に降ろされたというよりは頭に落とされたようだった。

一体何だったのだろうか、と学徒が考察に脳を使っていると、上からラズーンの声が降ってきた。
「ほら、それを使いなよ。それ」

学徒はゆっくりと頭を上げてみた。すると右手の近くに銀色の棒のような物が落ちていた。ラズーンの声が示す『それ』とはこの棒のようだった。学徒は棒を拾い、じっくりと観察してみた。真新しい鉛筆とほぼ同じ長さで、とても小さなスプーンか、あるいは洗練された耳かきのような見た目だった。半球状にくぼんでいる先端を見つめたとき、学徒は、粉類を掬い出すのにはこの棒以上の適役はいないだろうと確信できた。さらに、同時に、この棒でボルデインの鼓膜を破壊すれば、彼の異常も無くなるのではないかと思えた。
「じゃ、あたしはまだ仕事があるから」ラズーンは軽く言い捨てると、くるりと踵を返し、開かれたままの黒色の扉に向かって行った。部屋の外に出る寸前で振り返り、「使い終わったら、感想とか、聞かせてね」と最後の台詞を正座の学徒に吐くと、大げさな動作で扉を閉じた。

バタン、という轟音が響き、すぐに室内の清らかな空気の中に溶けていった。

学徒は握った棒を視た。そしてすぐに横で仰向けになっているボルデインを視た。今までのラズーンとの会話による激痛が彼の額に大粒の汗を浮かばせていた。青ざめている顔はシワだらけで苦悩に満ちていたが、唇だけは弛緩していた。だらしなく開かれている口からは微小な息遣いが聞こえた。どうやらボルデインはすでに限界の境地に居るようだった。度重なる激痛が、彼を死のすぐ近くに追いやったようだった。

学徒はメモ帳を開いた。真新しい頁に万年筆を走らせ、ボルデインの眼前に突き出した。
『警部、いまからあなたの異常を取り除きます。いいですね?』
「た、のむ……。もう、限界だ……」

ボルデインの声はほとんど吐息だった。学徒はそんなボルデインの表情に目を向けた。心なしか、顔色がさらに青ざめているような気がした。

学徒はすぐに施術に取り掛かった。最初は右耳からにした。ボルデインの頭を横に倒し、右耳を天井に向け、その小さな穴に棒を突っ込んだ。目的は鼓膜の破壊だった。そうすることでボルデインの聴覚を奪い、他の声や音そのものを彼の脳に届かなくすることが狙いだった。外耳道を通る棒の先端はすぐに壁のようなものにぶつかった。目視では確認できないが、おそらくそれこそが鼓膜であると学徒は思った。鼓膜をコツコツと二回ほど、ノックをするように叩くと、棒を一気に押し入れた。するとプチンという感触が棒を伝って指に上がってきた。同時にボルデインの目が見開かれ、瞳は上瞼の方を向いた。本当に鼓膜を破ったらしく、学徒はささやかな達成感に包まれた。ほんのりとした小さい達成感だったが、それでも何かをやり遂げた時の感触は心地よかった。そのままの勢いでボルデインの頭を動かし、左耳にも素早く棒を突っ込んだ。先端はすぐに鼓膜に当たった。学徒は右耳と同様に、ノックを二回すると勢い良く棒を押し込んだ。しかし今度のはそう簡単に破れてくれなかった。鼓膜は強力なゴムのような質感で、棒を押し込めば押し込むほど強く反発した。学徒は棒の持ち方を変えた。今までは鉛筆を持つように三本の指で持っていたが、アイスピックを握るように五指を使って握った。そしてボルデインの耳に押し込んだ。ゴムのような柔軟な鼓膜はやはり棒を押し返してきたが、学徒は棒をかき混ぜるように、ぐりぐりと小さな円を書きながらより強くねじ込ませた。するとどこからともなくカチカチカチという音が響いた。音の出どころはボルデインの口だった。破れそうになっている鼓膜に口周りの筋肉が反応し、上下の歯列が開閉を高速で繰り返しているようだった。学徒は棒を両手でしっかりと握りしめ、全身の体重を乗せた。ぐりぐりぐりと押し付けるようにすると、ようやくボルデインの左の鼓膜は破けた。ビニール袋に指で穴を開けた時のような感触が棒から全身へと上がり、学徒を達成感で震えさせた。学徒は思わず小声で「よしっ」と叫んでいた。

棒を耳の穴から取り出すと、先端は黄色い液体で汚れていた。親子丼の卵のような明るい黄色で、棒を揺らして落そうとしても全く落ちないほどの粘り気がある液体だった。学徒にはその液体がどのような液体なのかが全くわからなかったが、なんとなくこの液体を舐めてみたいと思った。棒の半球にくぼんだ先端にべっとりと付着して、どれだけ揺らしても垂れることのないこの液体の味や触感を知りたいと本気で思った。すると自分の意思を超越した電撃のような衝動が腕を動かした。それは学徒の本能が発している衝動だった。学徒は自分の口に迫る棒の先端を見つめながら、先端の液体の味を知りたいという欲求は、自分の本能そのものが発している欲求であることを思い知った。そしてその衝動に流されるように口を開けた。

舌に棒の先端が乗り、舌の表面と液体が触れ合った瞬間、学徒は身体の芯を貫く痺れを感じた。強烈な酸味を全身で感じているようだった。さらに自身の脳が急速に形を変えてくことに気が付いた。それは自分の脳という粘土が好奇心旺盛な幼稚園児にぐにゃぐにゃと好き勝手動かされているような感覚だった。また自分が今まで学習で得た知見が、全て無き物にされているような感覚があった。知識という本棚にぎっちりと詰め込まれていた分厚い本が一斉に紙屑に成り下がっている感覚が手に取るようにわかった。学徒は口に入れた棒を引き抜いた。しかしその先端にあの黄色い液体は付着していなかった。液体だけは舌に貼り付いたままのようだった。学徒は立ち上がり、二、三歩ほどよろめきながら口の中の唾液を吐き出した。しかし舌の上の液体が放出されることはなく、代わりに痰と共に口から発射された唾液はボルデインの頬に着弾した。黄色い液体はすでに舌の上で溶け込み、学徒の舌の組織に順応してしまったようだった。

鼓膜が破られたことによる痛みがようやく癒えてきたボルデインは、低い呻き声を出しながら指で頬を摩った。そして素手に付着した学徒の唾液と痰を何の気なしに舐めた。これまでの激痛のせいで刑事特有の鋭い判断力が損なわれているようだった。学徒の唾液と痰を口内でぐちゅぐちゅとやるボルデインは徐々に顔色が回復していった。死体のようなひどく青色い顔面に生気が戻り、元の少し焦げている肌色になりつつあった。瞳にも生き物らしい輝きが戻っていくと同時に、ボルデインは立ち上がった。しかしそれは、どん底から這い上がった勝者のような力強い立ち上がりではなく、河川敷での日向ぼっこを終えて帰宅しようとした際のゆるやかな立ち上がりだった。
「ボルデイン、あんたはどうしてっ……」

学徒の口内にはまだ液体による痺れが残っていた。全力疾走をした後のような激しい息切れを起こしている彼は細めで直立しているボルデインを睨んだ。彼の目線はすぐにボルデインの顔から下った。そして彼の股間で止まった。ボルデインの股間には睾丸があった。先ほど床から引っ張った際に千切れたはずの睾丸が完璧に復活していた。全開のチャックから垂れている睾丸をボルデインは丁寧にスラックスの中にしまった。そしてチャックをぎゅいっと閉め、混乱している学徒にベテラン刑事らしいにんまりとした笑みを向けた。
「大丈夫かい、学徒」
「ああ……。あんたは?」
「おれなら、問題はないさ」

ボルデインはいつもの低い声だった。それを聞いた学徒は遅れてその違和感に気づいた。つい先ほど両方の鼓膜を破いたにも関わらず、どうして普通に会話ができているのかが不思議だった。しかしその疑問にはすぐに回答が出た。それはボルデインが舐めた自分の唾液と痰だった。あれを舐めたことでゲイのボルデインの体内に眠る治癒能力が覚醒し、睾丸だけではなく鼓膜も復元したようだった。
「あんたがどうして刑事になれたのかが、わかったきがするよ」

学徒は舌を奥歯に押し付けて、ぐりぐりと動かした。そうすることですでに舌に溶けていった液体が発する痺れを誤魔化そうとした。
「とりあえず、あの扉の向こうに、ラズーンが居るんだろう?」

ボルデインは低い声を発しながら、ラズーンが去って行った黒色の扉を指さした。学徒も流されるように扉を視た。白い壁にはめ込まれている真っ黒い扉の向こう側に何があるのかはわからなかったが、学徒はすぐに扉の向こう側に行きたいと思った。扉をグッと睨んだ後、ボルデインの顔を視るとどうやら彼も同様の志であるらしいことを察知した。扉に眼力を飛ばしている彼も、未知の危険よりもラズーン確保のほうが優先だと考えているようだった。

学徒は無言で扉へと向かった。声など掛けなくとも、ボルデインならついてきてくれるだろうと確信できていた。学徒はドアノブに右手を掛け、ひねる前に後方をちらりと確認した。すると冷静さを取り戻しているボルデインの小さな瞳と目が合い、素早く頷くと彼も頷いた。改めて扉の方に向き、深呼吸をしながらノブをひねり、扉を押し込むと同時に室内へと侵入した。

2022年9月5日公開

© 2022 巣居けけ

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