学徒散策。①

巣居けけ

小説

6,488文字

山羊の香りの錠剤が勢い良く迫って来る……。

純正の学徒はナイトクラブへ向かっていた。澄んだ闇が漂う、深夜のことだった。

ナイトクラブに出入りするような人間。いわゆるクラブ連中は、街の全てから白い目線を向けられていた。それは得体の知れない怪物を警戒する尖った目だった。連中が殺人などの犯罪行為に走らないかをいつでも見張っているのが街だった。しかし彼らには、他人に危害を加えるほどの度胸など全く無かった。彼らはただ好きな恰好をして、好きな曲に身を任せたいだけの道楽主義的集団に過ぎなかった。だからこそ日中はおとなしく過ごし、街が静寂と闇に包まれた深夜にクラブに出入りしていた。

勤勉という概念がそのまま人の形をしているような学徒も、そのことは重々承知していた。だからこそ、その手の連中には我関せずを貫いていた。時には居ない者として扱ったこともあった。害も無く、ただ勝手に騒いでいるだけの連中にどうこうするだけ時間の無駄だと本気で思っていた。しかし、今度の彼らは違った。違うようだった。彼らはクラブの騒ぎに乗じ、違法薬物のやり取りをしている。そんな情報が三日前、学徒の耳に偶然入った。日直として学級日誌を書いている最中に聞いた、廊下でたむろする教師陣の会話の中から仕入れた情報だった。

学徒は考えた。名誉教授候補の優秀学徒として過ごしている今の時期から単身で違法薬物の取り締まりを行い、実績を作っておけば、敵の多い名誉教授になった際に役に立つことは明白だった。そして違法薬物取り締まりに対して躊躇や恐れは皆無だった。常用者どもを駆逐し、街の平和に貢献することができると考えると、恍惚とした熱い感情が体内を流れた。決して楽観的になっているわけではないが、自分なら完璧にこなすことができるという確固たる自信があった。

 

深夜の路地裏には闇が佇んでいた。それは夜空の清らかな黒色とは違い、全ての光を飲み込むほどの強烈な闇だった。そのため通常の人間である学徒は、常に目頭に力を入れて道を凝視しなくてはまともに歩くことすらできなかった。また、夜とは違法薬物常用者どもの時間でもあった。お気に入りの違法薬物を使い、すでにどこか別の場所に意識を飛ばしている連中や、学徒のことを薬物の沼に落ちたい堕落青年であると見誤り、手ごろな粉を手渡してくるサンタクロースが蔓延っていたが、学会に対して誰にも負けないほどの強烈な忠誠を誓っている学徒は、その全てを無視して歩いた。

狭い道を進み、幾つもの角を曲がり、無数の坂を下った先、学徒はついにクラブ入り口にたどり着いた。小汚い路地裏のコンクリート壁にはめ込まれた、黒色の扉。上部分には小さな円形の照明が設置されており、橙色の光が扉を妖しく照らしていた。そっと耳を当ててみると、中で流されているらしい爆音の音楽が心臓の鼓動のような音として鼓膜を揺さぶった。不埒なものだ、と内心で独り言ちた学徒は、いよいよ扉を開いた。

室内を見渡すよりも先に、爆音の音楽が学徒の全身を打った。一瞬、どこかから銃撃を受けたのかと驚いた。それほどの衝撃が音だけで学徒の脳に伝わり、震えさせた。また、音を感じ取った脳は学徒に不快な感情を生み出させていた。高音で歪んだギターや連続する雑なドラムに、ターンテーブルのスクラッチ音で構成されている曲は、学徒には大げさな雑音として聴こえていた。

黒色の学生服に学生帽という、この場にそぐわない恰好をしている自分に注目しているクラブ客は居なかった。故に学徒はこの雑音に慣れるまで、後ろ手で閉めた出入り口の前で直立していることができた。

やがて脳の震えが収まり、耳が慣れると、学徒はようやく室内を見渡した。長方形の大きな空間が広がっていた。学校の体育館ほどの大きさで、壁も床も黒色だった。光源らしい光源は天井の真ん中にぶら下げられている金色のミラーボールだけだった。しかしそのミラーボールは異様に小さかった。拳ほどの大きさしかなく、黒色の天井に設置されているそれは夜空に浮かぶ星のように見えた。また、そんな極小のミラーボールはどうしてか真ん中辺りが内側にへこんでいるように見えた。ミラーボールは閃光弾のように煩く強く輝いていて、じっと睨み続けると視界に影響を及ぼすほどだったが、それほどの光だからこそ他の照明を一切必要とせず、広いクラブのほぼ全てを照らすことができているようだった。

学徒は薄闇に包まれたクラブ室内を静かに歩いた。室内にはぶかぶかのシャツや長ズボンに身を包んでいる若者が数百人は居た。そして誰もが、どこからか流れている音楽に身体を揺さぶっていた。ほぼ全てのクラブ客の顔には緩んだ笑みが浮かんでいて、全体に漂う堕落の雰囲気に学徒は軽い嘔吐感と目眩を感じていた。しかし学徒はそれらの不快な感覚を気力だけで押し殺していた。ここで倒れていては、クラブ内で蔓延しているはずの違法薬物の手がかりなど掴めるわけがない。学徒は「しっかりしろっ!」と内心で自分自身を𠮟咤し、腰に力を入れた。

それから深呼吸をし、微小ではあるが酒のような香りがする空気で肺を満たした学徒は、まず客の会話に注目してみようと思った。連中の会話から違法薬物の証拠を掴もうと考えた。

適当に目に付いた女の二人組にそっと近づいた学徒は、さりげなく会話を盗み聞こうと聴神経を高ぶらせた。
「うわっ。なんだこのポーション。特注?」

赤いへそ出しシャツと、肌にぴっちりと張り付いている黒の長ズボンという出で立ちの長髪の女は、手持ちのグラスに入った緑色の液体を凝視していた。顔には不安が浮かび、細めた双眼には液体に対しての疑心の光があった。
「いいや。私の精液」

隣に居る金で短髪の女は緩んだ笑みを浮かべていた。
「え、お前の精液、緑色なのかよ」
「うん。だって、蛙と山羊と人間のハーフだから」

そこまで聞いた学徒はそれ以上の盗み聞きをやめた。この二人から有益な情報が手に入るとは思えなかった。

学徒は静かに辺りを見渡し、今度は黒い半そでシャツにジーンズを着た男と、白色シャツの上に赤スカジャンを着、下は紺色のジャージズボンを履いた男の二人組に注目した。
「でも、宝くじが当たる確率って、雷に撃たれる確率と同等らしいよ」
「なら雷に撃たれるほうがいいな。ご利益ってやつがあるから」スカジャン男は半そで男の方を見ずに呟いた。

学徒は無表情で別の客に目を光らせた。心の底から、この二人の会話も役に立たないなと思った。

黒のタンクトップに迷彩柄の長ズボンを着た大柄な男と、紺色背広の上に白衣を羽織っている男が一緒に立って会話をしていた。白衣の男は身振り手振りで何かを説明しているようで、大柄の男は何度も大きく頷いたり、何かに驚いた表情を白衣の男に向けていた。学徒はこの場にはそぐわない恰好をしている白衣の男が気になり、そっと二人に近づいて会話を盗み聞いた。
「おや、肌がとても冷たいですね。ははっ、心が温かい証拠かな」
「いやおれの心は冷てぇよ」
「ではあなたは、こちらの物を使うと良い……」

白衣の男は背広の内ポケットに手を突っ込んだ。学徒はそこで目を見開いた。もしかしたらこの男が取り出すのは違法薬物かもしれない。もしかしたらこれは、今までのどんな証拠よりも決定的な瞬間になるかもしれない。学徒は視神経を研ぎ澄まし、白衣の男の緑のゴム手袋の手に注目した。
「ほら、これだ」
「んん? センセ、これはなんだよ?」
「グミだ! あなたには柔軟性が無いっ! これ食って知れ! 柔軟性!」

白衣の男が握りしめていたのは長方形の箱だった。全体が赤く塗装されているそれは、表面の中央には白文字で『楽しいグミグミ!』と書かれ、その下に五つの味があることを示唆する表記があった。また、ちらちらと見える側面を観察すると実在するお菓子メーカーのロゴが見え、少なくとも箱自体は市販のグミであることがわかった。
「本当にグミなのかい? 食ってもいいかい?」

大柄な男は受け取った箱を覗き込みながら訊ねた。少しだけ震えている声には、疑いと不安があるようだった。
「もちろんさ! これ食って知れ!」

白衣の男は先ほどの文句を繰り返し使用した。気に入った常套句らしく、両手を掲げて宣言するように発していた。

学徒はそこで二人の盗み聞きをやめた。あれの中身が違法薬物である可能性は極めて低いと考えた。理由はこんな場所で偽装をする意味がないからだった。

そして学徒は、こんな場所に集まる人間がまともな会話をしているわけがないと思い直した。半ばうんざりとした心持ちだった。もう直接的な聞き込みを行ったほうが、質の良い証拠が手に入ると強く思った。

顔だけは平然を装い数歩ほど適当に歩いていると、数十人ほどのクラブ客と一緒になって騒いでいる一人の男が目に入った。彼が何かを発するとそれに反応して数十人が騒いでいた。きっとあの男は団体客のリーダー格に違いないと見定め、学徒は早足で近づいていった。
「やあ、君たち、眠れないのかい?」
「そうさ。なあ?」

長身のクラブ客はよたよたとおぼつかない足取りで後方に群がる連中の方を向くと、檄を飛ばした。連中は一斉に、握り拳を作った右腕を天井に向けて伸ばすと、力強く、そして思い思いに叫んだ。怒号のようなそれはこの室内の壁をがたがたと揺らすほどだった。
「おれたちに眠れた夜なんて、無いさ」

再びよたよた歩きで学徒の方に向き直った長身のクラブ客は、銀色になっている犬歯を見せつける笑みで学徒を圧した。ぐにゃりと歪んでいる双眼は焦点がいまいち合っておらず、さらに瞳の中の光はぎらついているにもかかわらずぼやけて胡乱だった。どうやら男は大量の酒を呑んで酔いの中に居るようだった。全身からアルコールの悪臭が漂っていることから、文字通り浴びるように呑んだようだった。学徒はにへにへと笑っている男を蟲の死骸を見るような冷ややかな目で一瞥すると、足音すら立たない素早い足取りで別のクラブ客の元へと向かった。こいつは駄目だと思った。こいつは確かな異常性をはらんでいると思った。そして一人だけではなく、複数人のクラブ客から話を聞くことで、ここに居る客どもの異常性を確実なものにしようと考えた。
「ねえ、学徒さん」

すると後ろから右肩を突かれた。飛び跳ねるように驚いた学徒は素早く後ろを向いた。しかし後方には誰も居なかった。不思議に思いながらなんとなく下を向くと、学徒は再び驚きの感情に目を見開いた。自分の後方には、どこからどう見ても小学生ほどの少年が立っていた。白の半そでシャツにカーキ色の短パン、そして足には黒色のスニーカーを履いている少年は、学徒の顔をまるで見世物を見物している嫌らしい中年男のような笑み顔で見上げていた。
「なんだ、お前」

学徒は低い声で尋ねた。
「学徒さん、ここで楽しんでる人じゃないでしょ?」

少年はまだ声変わりしていない高い声をしていた。そして顔色を変えずに学徒に一歩近づいた。
「なんだと聞いているんだ。お前はどういう人間だ? クラブ客、なのか?」
「あれかな。あの刑事さんと一緒で、ここで流れてるお薬について、調べに来たのかな」

少年はやはり顔色を変えずに、またもや学徒に一歩近づいた。すでに二人の距離は無いに等しく、少年は顔をほぼ真上に向けて学徒の顔を見つめていた。
「だって君は、扁平足だからね」
「扁平足、だと……」
「うん。お薬についてはあそこのオニーサンに聞けばいいよ。ここで一番詳しいから」

少年は右腕を床と平行にして真横に伸ばすと、人差し指で人物を指さした。学徒は少年の銀河系のように煌びやかで黒い瞳を数秒ほど睨んでから、指先の人物をちらりと見た。ソファーに無言で座っている男を確認すると視線を少年に戻したが、その時すでに、少年は眼前から姿を消していた。
「なんだったんだ……」

体内の隅の方でくすぶる不快な感触が、学徒の背中に悪寒を与えていた。純粋な気味の悪さが、後味として脳に残っていた。

学徒は学生帽を被り直しながら、少年が指さしていたロン毛の男に近づいた。少年に対しての不信感は消えなかったが、それよりも今は薬の捜査を優先すべきだと考えた。

目標の男は室内の隅に置かれた大きな革の赤いソファーに座っていた。茹で上がったラーメンの麺のような黄色い長髪を持つ彼は、室内に轟く音楽に身を任せてはおらず、他のクラブ客のことを観察しているような、どこか傍観者気質な冷めた目をしていた。寂しげな雰囲気を全身から出している彼は背もたれに身体を預けることはせず、前のめりの姿勢で両膝の上に両肘を乗せ、両腕でアーチを作っていた。
「なあ、今日は、どんな一日だった?」

ソファーの傍らにたどり着いた学徒は、ロン毛のクラブ客のことを見下ろしながら訊ねた。彼から敵意は微塵も感じなかったので、こちらも尋問のような鋭い声質ではなく、友人に調子を訊ねる際の軽い声を発した。
「散々だ」

ロン毛のクラブ客は腕のアーチを解き放ち、後頭部を撫でつけた。猫背だった体勢から背筋をピンと伸ばしていた。
「散々、か……」学徒はため息のような声で共感していた。「隣、良いか?」

ロン毛のクラブ客は小さく頷いた。学徒は素早くソファーに腰を下ろし、ロン毛と同様に背筋をピンと伸ばした体勢で視線を合わせた。面長な顔は曇天のように沈んでいて、青色の瞳に浮かぶ光も弱弱しいものだった。彼が散々な一日を過ごしたのは本当のようだった。
「なあ、聞かせてくれよ。お前の散々を」
「ああ……。本当に耳は泥を吐き出すし、マンホールが三つになっちゃったんだよお!」

ロン毛はひときわ大きい声で叫んだが、それよりも大きな音楽が全てをかき消し、大衆からこちらが注目されることはなかった。
「ああ、そうかい」学徒は適当に同意しておいた。話している意味は全くわからなかったが、同意以外の余計な事は喋らない方が良いと判断した。学徒は男の澄んだ瞳の奥を覗こうとした。そうすることでこの男が本当に薬に関わっているのかを判断しようとした。結果はすぐにわかった。黒だった。確かに男は今日一日の『散々』のせいで気持ちが落ち込んでいるようだったが、暗い瞳の奥には、自身に課せられた使命を何としてでも果たそうという強い気概のようなものがあった。そして課せられた使命とは薬物販売に違いなかった。学徒はゆっくりと息を吐き、素早く吸った。興奮と緊張で熱くなっている脳に冷静さを吹き入れた。そして男の面長な顔をしっかりと眺め、乾燥している唇を湿らせてから口を開いた。
「なあ、ところでヤクに詳しいと聞いたんだが……」
「ああ、そっちの客か。わかった、今出す」

ロン毛は平然とした声色だった。ここで違法薬物を販売していることに一切の罪悪を感じていないことがわかった。ロン毛は尻のポケットに右手を入れようと腰を浮かせた。学徒はそこで制止を入れた。
「いや。実は手持ちがなくてね。ひとまずどんなモノを売っているのか、教えてくれないか?」
「ううん……」再度座り直したロン毛は、尻ポケットに入れようとしていた右手で顎を数回撫でた。顔からは表情が消え、熟考しているのがわかった。
「それは無理だ。なぜなら、おれはただの店員だからな」
「店員だって?」
「ああ。おれの後ろにはクライアントがいる。そいつは薬を作っている。確か医学系の人間で、おれはそいつからもらった薬をここで売るように指示されてる。もちろん報酬は出るけど、ここでの売り上げ次第だ。だからカネを持ってない人間は信用できない。これはおれの薬じゃないからな」
「そうか。しかし、こっちにもどうしてもヤクが欲しい理由がある。どうにかならないか?」
「常用者はいつでも薬を欲してる。だからおれのような奴が儲かる……」ロン毛は両手を上に伸ばし、伸びをしながら言葉を吐き出した。「……ならば、二階に行け。おれのクライアントは今二階で、ここの様子を見てる。直接話をすれば、品定めくらいはさせてくれるだろう」
「なるほどな。感謝するよ」

学徒は学生服の胸ポケットから二千円札を取り出すとロン毛に投げつけ、素早く立ち去った。

2022年9月5日公開

© 2022 巣居けけ

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