入浴を済ませ、蒼一が自室の襖を開けると吊るした蚊帳の中――伸べた床に白き影が黝い闇に蹲っていた。
――まただ。
気配を窺いながら蒼一は細く息を洩らす。
白い影がこうして彼の目の前に現れるのは今夜で丁度七日目であった。
それが姿を見せた当初、何かの見間違えか、目の錯覚だろうと思った。正体を確かめる前に忽然と消えてしまったから訝しみつつも、あまり気には留めてはいなかった。が、しかし謎の白影は翌日も蚊帳の中に――蒼一の寝床の上に曖昧模糊としてあった。その次の日も、また次の日も、連日連夜決まって彼の布団の上に座るようにして現れた。日を重ねるごとに白い影は存在を強めるように色を濃くし、輪郭を確かにして、出現している時間も長くなった。とは云っても、五分にも満たない時間であったけれど。
蒼一は電燈のスイッチを捻ろうと手を伸ばして辞めた。なだらかな稜線を描く白い影をじっと凝視をしながら息を詰め、足音を殺して蚊帳の前に進み出る。すると彼の気配を感じ取ったのか白いものが僅かに身動ぎした。蟠る夏の夜闇の中で眸が合った――気がした。ふっと空気が幽かに揺らいで甘やかな香気が漂う。何処かで嗅いだことがある匂いであったが即座に思い出せない。
もどかしさに蒼一が眉間に皺を刻むと視線の先で確かにそれが笑った。
「あなたは一体――」
殆ど無意識に蒼一の口から言葉が零れた。
刹那、遠くで雷鳴が轟いた。それが切欠のように「これから酷い雨が来ますわ」白き影が発話した。女の円やかな声音は酷く肉感的であった。まるで知らない女の声だった。ねばつくような、甘い声。
蒼一の思考は目まぐるしく、忙しなかった。
彼女はいつ家の中に上がり込んだのか、また何処から入ったのか、何故自分の前に現れるのか、初めの頃、煙のように姿を消した現象は何であったのか、そもそも相手は何者であり誰なのか――。
疑問は幾つもあれど未知なる相手に不思議と恐怖心はなかった。寧ろ幾許かの好奇心が胸に兆していた。
蒼一が云うべき言葉を探して黙していると女は彼の心中を見透かしたように「わたくしは貴方を善く知っています。そして貴方も、わたくしを知っている……いつも傍にいますものね」莞爾する。
「どういう意味です? あなたの云っていることが僕には解らない。あなたは一体誰です?」
「こちらにいらして」
女は蒼一の問いを躱して艶めかしい吐息を洩らす。蚊帳の裾へと伸ばした彼の手が惑う。と、女の白い手が蚊帳を掻い潜って蒼一の手を掴み、引き込んだ。女の手はふくよかで柔く、熟しきって腐り落ちる寸前の果実のようだった。少し力を込めて握り返せば彼女の手が無惨にもげるかと思われた。
蒼一は寝間着代わりの浴衣の裾を乱しながら布団の上に膝を進めて女と対面を果たした。眼前の女の顔にまるで見覚えはなかった。先の彼女の言葉は愈々深い謎となって蒼一に迫った。
女は死装束にも見える眞白き浴衣姿を纏い、そのなだらかな肩にひとつに束ねた豊かな黒髪を流していた。彼女の姿態は幽鬼のようでありながら、艶を帯び、湿度を保って何処かしどけない。薄紅色の唇は緩やかに花開いて色香を漂わせていた。
女は妖艶に微笑んで蒼一の滑らかな頬をそっと撫で、彼の眸の底を覗き込むようにして白い貌を寄せる。息が触れ合う距離。蒼一は目を瞠ったまま、美しい毒に中てられて動けなかった。
ああやっとあなたに触れられる――感に堪えたように声を慄わせて嫣然と告げた。
やがて、雨が降り出した。
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布団の上に押し倒された蒼一は展翅された蝶の如く身を硬くしていた。自由になるのは両の眼ばかり。彼は只、己の躰の上に馬乗りになる女を熱く潤む眸で見詰めていた。俯いて蒼一の顔を見下ろす女の肩から帳のように黒髪が流れ落ちて彼を包む。幽かに香油の甘い香りが毒のように廻る。
「……貴方にこうして触れるまで、長かった……」
肉感的な掌が蒼一の夜着の前を乱し、薄い胸を間探った。触れ合った部分からじんと痺れるような熱を持つ。蒼一は息め詰めて下唇を噛みながら躰の深部が漣立つのを堪えていた。しかしそれもいつまで耐えられるものか酷く危うい。
彼女が何者なのか、この状況が何であるのか、引き出されようとする肉体の感覚から意識を逸らして思考するも、女が首筋につと指を滑らすだけで、濡れた吐息が僅かに膚を撫ぜるだけで、散り散りになってしまう。蒼一は異様に研ぎ澄まされた官能に戦き、翻弄された。
若い男の躰に馬乗りになって善いように弄する女は滴るような凄艶さを伴って眦を濃く染めていた。彼女の躰を巡る血は沸騰したようになっているのだろう。色付いた唇から零れる息は熱く、粘度のある空気が夜の底に沈殿し、狂わんばかりの色情が渦巻く。慾に息が、苦しくなる。
蒼一は最早、どうすることも出来なかった。津波に呑まれるようにして肉体が悦楽の頂点へと浚われそうになるのを、押し止める術があろうか。
「――蒼一さん。わたくしを、受け入れてくださいますわね?」
女はうっとりと囁いた。
蒼一は涙の膜が張った眸を大きく見開いて、見た。
女が浴衣の前を開いて晒した躰を。
緩やかに起伏する乳房には静脈が薄青く透けていた。肋骨がその存在を薄らと明かしていた。腰が優雅に括れていた。そしてその下には猛々しい男の徴があった。彼女は女の躰を持ちながら男の性をも有していたのだ。
女の腕が伸びてきて抱き締められた蒼一は静かに瞼を閉じて、唐突に悟った。彼女が何者であるのかを。
彼女は一輪の花なのだ。
蒼一が丹精込めて、情愛をかけて育てた花――夜顔。
女の躰は蔓の如く蒼一に絡みつき、縋って離さず、熟れた花芯が彼の痩躯を貫いて侵食する。夜顔に包まれながら食虫植物に捕えられてしまったのだと、ぐずぐずと腰から下が崩れてゆく法悦に溺れながら蒼一は充溢した官能を解放したのだった。
意識が暗部へと沈んでいく瞬間、一際大きい雷鳴を聞いた。
閃いた蒼い稲妻に女の肉体が生々しく闇に映じて、雨は夥しく夜を流れてゆく。
翌朝、目を醒ました蒼一は何も憶えていなかった。
只、庭にある夜顔が露に濡れながら萎れているのを見て、理由の知れない妖しい胸のときめきを感じるばかりであった。
(了)
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