黄金に凪ぐ

夏八木秋成

小説

50,344文字

自分でも気付かないうちに、ゆっくりと何かが崩れていく。
精神を病んでしまった妻を支えようとする男の、過剰なくらいの自意識の果てを、美しい直島の風景と共に描きました。

正常と異常の境目は曖昧なものだと思うのです。
自分のことを「普通の人」だと思っている人、「普通の人で在ろうと意識している人」に読んでもらいたいです。

 

子供は僅かな時間でもすぐに死ぬ。

ほんの少しちょっとだからと目を離したその隙に、死神の鎌は彼らの首に掛かっている。

あと一ミリメートル、寸でのところでかわせたなら、それは奇跡として、とても良い事として扱われる。

良かったね、ごめんねと、親は子の無事を喜び抱きしめる。

自分の不注意を後悔し、助けて下さった神に感謝し(どの神様に対してなんだろう?)この子の魂は救われたと信じて疑わなくなる。

 

 

行方不明だった子供が、七日目に発見されたとニュースで知った。父親がカメラに向かって頭を下げていた。お騒がせして申し訳ありませんでしたと、謝っていた。無事で良かったと、生きていてくれて本当に良かったと、泣いていた。

 

 

生きること以上の苦しみなんて、無いと思うけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ビルを出ると、力を削がれた冬の名残りが首筋を駆け抜けた。一瞬身震いをするものの、僅かに感じ取れる昼間の暖かさと、冬にはいなかった生温かい水の匂いが、既に支配的になり始めている春の気配を確実なものにしていく。まだダウンコートを羽織った人もいれば、少し寒そうにしているスプリングコートのOL。ゴアテックス製の黒いコートの下に、薄手のダウンを羽織っていた僕は、それでもまだ身震いをしてしまう程度に寒さに弱い。何とか首筋の空間を埋めようと、鞄の中からマフラーを取り出して、乱暴に首に巻き付けた。季節の移ろう瞬間を、僕はいつも見逃してしまう。何とか見極めようとしても、こうして変わってしまった後になってようやく気付くものだから、あんなに嫌いだった冬のつれなさにすら、何かとても大切な宝物を失くした時のような、空っぽな気持ちを抱いてしまう。きっとそんな移り気な態度だから、季節は僕なんかには目もくれず、ただ黙って過ぎていこうとするのだろう。

妻からのメッセージを確認して、一つ小さな溜め息を吐いてみた。まだ薄ぼんやりとした白いもやが眼前を覆うのを確認すると、「帰ったら荷造りよろしく」の文字も一緒に滲んで、少し憂鬱さが和らいだ。

二人で旅行に行くのは何年ぶりだろう。明日から、そう、どこに行くんだったっけ?四国方面だったのは覚えているが、あまり興味のない場所だったから、全く記憶にない。まだやらなければらない仕事も残っているし、何より僕は旅行が嫌いだ。出掛ける前の準備ほど面倒なものはないと思うし、興味のない場所なら尚更だ。躁状態のときの衝動的な提案には、なるべく慎重にと医者からも言われていた。でも、「ねぇ、旅行とか、どう?」と言われたとき、僕はそのまま、ほぼ無意識に頷いていた。

そのまま妻の状態が快復すればいいだなんて、そんな希望的観測があったわけではない。ただ、いつものような跳ね上がった思い付きとは違って、少しぼんやりと、でも何か強い意志を伴って発せられたアイデアのように感じられ、このまま曖昧に返事をして機会を逃してしまったら、恐らく一生、彼女の空白は埋まらないままになってしまうのではないか。そう思ったのだ。

そしてそれは、自分自身にも当てはまることのように思えた。この数ヶ月、妻の病気が発症してからというもの、初めてのことだらけで心身ともに休まる暇はなかった。周りの知り合いに精神を患った経験のある人など皆無だったし、そもそも妻がそういう状況になっていることを、他人に知られたくはなかった。結局わかったことといえば、インターネットの情報は当てにならないということだけだった。何を話しかけても反応しないとき、突然調子が良くなり、今までみたこともないくらいの活発さを見せるとき、その対策や適切な対応について記載されていても、必ずと言っていいほどそれに対する否定の意見がどこかに書かれている。その情報を打ち消す新たな情報を探しては、それをさらに否定され、その繰り返しだった。くだらないシーソーゲームによって、恐怖心を煽るだけ煽ってくるその各情報の元を辿ると、名前も顔も知らない、画面やケーブルの向こう側にいる誰かに行き当たる。それに気づいてから、振り回されるのが何だか馬鹿らしく思えてしまい、医者の言うことを素直に聞いて、彼女のそばからできる限り離れないで暮らすように心掛けることにした。それでも、仕事と両立させることには限界があったし、自分自身も妻の病状に飲み込まれてしまうような感覚に陥ってしまい、次回の診療時、一緒にカウンセリングを受けようかと考えてしまうほどだった。

妻の提案は、だから、我々にとってとても有効なものに思えた。きっと彼女もどこかで現状の打破を望んでいるのだろう。そう思うと、理解出来ないことだらけだったこの数ヶ月の、彼女との間で深まり続けた溝が少し埋まったように感じられて、安堵した。二つ返事で旅行を快諾したのは、そんな気持ちからだった。

 

深呼吸をして、返信を打とうとしたとき、電車は御茶ノ水駅に着いた。乗り換えるはずの電車が既に到着していて、いつもより多くの人がホームでスマホをいじっている。青白い光に照らされた表情は、皆一様に険しく苛立ちに満ちていた。

「只今新宿駅にて非常停止ボタンが押されたため、中央線快速電車はしばらくの間当駅にて停車いたします。運転再開見込みは」

予感を確信へと変えるアナウンスに、またひとつ、僕は白い溜め息を吐いた。今度のそれは、深く、長かった。

 

 

 

 

 

 

2月13日

 

くっそ寒い。あたしの嫌いな季節。本格的に嫌いになってく月。二月。

何なの?どういうつもりでこの季節ってこういう気温なの?こういう空気なの?

ただでさえ古いアパートだから足先から冷えていくっていうのに、これじゃまるでシベリア収容所。捕虜の気分。

誰に捕らえられてるんだろうって考えると、嫌な奴の顔がものすごい勢いで脳内を駆け巡っていくから、もう考えないようにしよう。

日記書いたし、歯磨いて寝ようって思った矢先、嫌な奴、もとい母からのメール。

あの人はいつもそう。あたしが嫌がることしかしない。

何が「お誕生日、おめでとう」だよ。

めでたいもんか。勝手に産んだくせに。

 

 

 

 

 

 

東京から岡山、宇野港に着くまでは、妻に言われるがままに電車に乗り、乗車とともに眠りについてはまた起こされて移動の繰り返しだったので、どのような景色が過ぎていってここまでたどり着いたのかがわからず、ふと幼い頃のディズニーランドの帰り道を思い出した。楽しかった記憶のまま、気がつくと、父に抱えられた状態で自宅の匂いが鼻腔を通り抜けるあの瞬間。ディズニーは時空を歪めることもできるのかと驚愕し、魔法の存在を実感したと共に、夢はほんの一瞬で醒めてしまうくらい、脆く不確かなものであることも知った。ただあの時と違うのは、目覚めたあと、その楽しさをもう一度味わいたいという未来への希望がないところだ。単純に、せっかくの時間を惰眠に費やしてしまったという後悔だけが残っている。

ボウっとした頭がまだ澄み切らないうちに、船の時刻を確認しに行った妻がベンチに戻ってきた。

「あと十五分後。飲む?」

東京でも見慣れているパッケージのお茶を差し出され、あの頃との違いはここにもあるなと思った。ディズニーランドから自宅までタイムスリップしたような感覚も、それまでの楽しかった想い出が、まるで夢のような時間に思えたのも、現実との境目を自らで引いていたからだ。いや、もっと言うと、現実の世界が狭かったのだろう。自分の知らない世界は夢と同じで、自分の世界とは関係のない、全く未知のものだったからこそ、そこで繰り広げられる自分の感情すらも、ある種他人事のように捉えることができた。歳を重ねるにつれ、少しずつ自分の現実世界が拡張し、夢の領域が狭まってくると、見知らぬ土地でも自らの生きる現実世界との接点を見つけ出すことができるようになる。ただ生きて、経験を重ねていくだけで、魔法も夢も、いつの間にか自分で失くしていた。

「なに?険しいんだけど、顔。」

下唇だけを注ぎ口に当て、器用にお茶を流し込む彼女の表情は、明らかに浮き立っていた。わずかに上がった口角と、そこに惹きつけられるかのように下がり気味の目尻。はしゃいでいる自分を何とか周りに悟られないようにと、時折無表情を保とうとしている様子は、以前の彼女そのものだった。今朝からずっとこのような調子だったのだろうか。もしかすると、昨夜のメールを打っていたときからだったのかもしれない。それならばやっぱりと、惰眠を貪り続けた往路を再び後悔した。

小型船に乗り込み出発を待っていると、ちょうど地元の高校生達も一緒に乗船してきた。東京よりも更に春めいた生温さのためか、皆学ランの袖を肘辺りまで捲っている。細かな傷によって鈍い光を放つ金釦と、膝の周辺の生地のテカリ具合が、彼らの若さに由来する快活な日々を物語っていた。

「今日のたっつんの顔、あれ今年一番じゃったわ。」

「ほんとこれ以上笑わせんなよ。」

「笑かすつもりねぇって。あれ素じゃ。」

「あんな小せぇ虫におうじとる奴始めて見たわ。」

ともすると粗暴にも聞こえてしまう彼らの耳慣れない西の口調が、標準語では味わうことのできない小気味よいリズムを作って、観光客だけで作られていた他所行きの空気をすぐさま土地の色に塗り替えていった。

「なんか、いいね。」

妻が余りにもそっと口にしたものだから、彼らの会話と船のエンジンの音に混ざり合って、その言葉に気付くまでに時間が掛かった。数秒してから慌てて彼女の顔を見ると、特に反応を気にするような素振りも見せず、ただじっと高校生達を見つめていた。先月までは僕の返事が少しでも遅くなると、まるで自分の存在を無かったことにされたような気分になるのか、喚きながら何度も叩いてくるような日も多かった。どうにか一緒にいるときは自分の全てを妻に集中させて、安心させてあげないと。そういった気構えを継続していくことに、始めは戸惑いと徒労を感じていたものの、二ヶ月もすればそれが当たり前となった。飽きるまで話を聞き、適当に聞こえないように、かと言ってわざとらしくならないように相槌を打ちながら、彼女が寝静まるのを見届ける。それから家のことや明日の仕事の準備をする。それが日常に化けるまでに、そう時間は必要ではなかった。

だから、まずい!と思いすぐさま彼女のほうに目をやったとき、こちらを責め立てるような涙目で見つめる妻が当然いるものと思っていたから、彼女自身が全く自然に口にした言葉が、そこにある空気に溶け込んでいったのを目の当たりにして、僕一人だけが浮き上がってしまっているように感じた。妻はすでに、「地元の子供達とそれを微笑ましく見つめる観光客」という、船内に作られた偶発の日常の一部となっていた。これはもしかすると、彼女の中に戻り始めている凡下の欠片が、少しずつ形を成してきているのではないだろうか。そう思うと、このまま良い方へ良い方へと願いたくなる気持ちが膨らみ出して、時期尚早と分かっていても、この旅行から帰ったあと、また以前のような日々を送ることができるようになるかもしれないと、ニヤつくのを抑えられずにいた。お互いのことを思い合いながら、何の変哲もない、穏やかで静謐な毎日をまた二人で過ごせるようになるかもしれない。

彼女を含めたその場の空間が一つの情景として成立している中で、この密かな想察は、僕自身をそこからより一層浮き彫りにするものだった。

出発時刻を二分程過ぎた辺りで、船はゆっくりと前進し始めた。大小様々な島が彼方に見え始めると、エンジン音もそれに合わせて大きくなり、高校生達の会話もより活気の満ちたものとなってきた。

「そう言えば日曜どうすんの?」

「まだ海入るにゃあ冷てぇもんなぁ。」

「え、俺行かんよ。」

「は?なんで?」

「勉強するけぇ」

「うっわ!うっっわ!!出た出たこねーなのー。へー冷めたー。」

「しょうへい勉強する必要ねぇじゃろ。頭ええんじゃけ。」

「そうじゃあ、付き合えよ日曜くれーさー。」

妻はやり取りを眺めながら、やはりニヤつく顔を取り繕い切れていなかった。同じような表情をしているだろう自分も、傍から見れば彼女と心躍る旅の始まりを共有しているように見えるのだろうか。そう思うと、少しの罪悪感が胸の奥底に深くのしかかるようで、思わず船内の景色から目を逸らした。

「おい待てよ!人のケータイ見んなって勝手に!」

「先週の写真見るだけじゃって、他は見ん見ん。」

「エロ動画保存しとっても俺ら気にせんけぇ安心しとけ。」

「っっねぇよばーか!」

「必死過ぎじゃろ。あ、これ後で送って。」

耳から入り込む独特のテンポとその内容のくだらなさに、先々のことには目もくれずに今という時間を無意識に生き抜く未成熟な力を感じて、少し疲れ始めている自分がいた。窓から覗く瀬戸内海のさざ波が、午後の柔らかい陽射しを受けて黄金色に煌めき出すと、彼らの持つそのかけがえのない一瞬の輝きを、更に水際立たせていた。

 

 

 

 

 

 

3月4日

 

得意げに両手放しでチャリこいでる奴見ると、転べって心 の中で何度も念を送る。

すれ違った女が嫌いなグルマン系の香水をすごいつけてると、くせぇんだよ死ねブスって思う。

スタバの店員が笑顔で話し掛けてくると、お前私の友達? って思う。

電車で痴漢を目撃した。声を出せないでいる女子高生と、自分の左手中指に全神経を集中させて彼女の股間を弄くり回すおっさん。

私が助けるべきだったのに、「男はいいよな、そうやって女の子に触れるんだから。」ってぼんやり考えてるだけだった。

 

私は、自分が大嫌い。気持ち悪い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高校時代、同じクラスに多田という奴がいた。僕から見たら相当な変わり者で、まず他人と接することを自分から拒んでいるように見えたし、それなのに「友達がいないことが恥ずかしいし、寂しい」だなんて平気で言う。かと思えば「必要以上に人間関係を広げるような奴は軽蔑してるね、俺は」と強がってみせたりもした。(「強がりとかじゃねぇって、いやマジで。友達ってのは適正な人数っつーのがあるんだよ。分かってねぇなお前本当に。」)(全然分からなかった。人間関係が広がれば色んな友達も出来るし、多いに越したこと無いだろ?)。

休み時間になると教科書をしまうのと同時くらいの素早さでヘッドホンを付けて、腕組みをして眼を閉じていた。いつも何の曲聴いてんの?と聞くと、「…絶対馬鹿にするだろ」と言って教えてはくれなかった。一度ちらっとiPodの画面を見たことがあるけど、何かクラシック音楽っぽい名前のものが表示されていたので、言われてもわからないから申し訳ないなと思い、それ以降この質問はしないことにした。

当然、多田はクラスで浮いていた。クラスの他の奴らは皆「あいつ何気取りなの?」とか「ヘッドホン出すときの速さとかマジきめぇ」「腕組み(笑)」などと言っていたけど、それがいじめに発展したりということは無かった。みんな馬鹿にしたり悪口を言ったりはするけど、それ以上の存在としては認識していなかったのだ。そして多田は、それ以上の存在になり切れない自分に対しても怒りを募らせていた。

「わかる?いじめられる奴ってのはまだ幸せなほうなんだよ。俺から言わせればね。」

俺から言わせればね、は多田の口癖だった。大体「俺から」のところで一回眉毛が上に上がって、「言わせればね」のところで右の口角が上がる。少しニヒルな表情と言えば聞こえはいいが、皆からムカつくとか、何気取りだよ?とか言われてしまうのはこういうところが原因なんだろうなぁと、毎回見る度に思っていた。

「一番不幸なのは何も触れられないことだよ。何にも引っかかるものが無い存在ってゆうのは、それだけで存在を否定されるようなもんでさ、いじめなんかよりよっぽど酷い状態だと思うね、俺は。」

そう言いながら、多田はいつも持ち歩いているフリスクを掌に五粒くらい出すと、大袈裟なくらい頭を振り上げて口の中に放り投げた。ボリボリと骨に響くような音を聞きながら、果たして本当に多田は触れられない状態にいるのかを考えてみた。

僕から見る限り、いじめには発展しなくともクラスの連中はみんな何かしら多田の言動について引っかかるところがあるように思えた。直接的な危害などはなくても、本人の知らないところでそれなりの注目を浴びているのではないだろうか?悪目立ちと言ってしまえばそれまでだけど、多田の理論で言えばそのほうがましなはずだ。

「いじめにももちろん種類はあるけどさ、陰口ってゆうのは間接的過ぎるから触れられない状態と同義だぜ?」

思考を覗かれたような気がして、一瞬びくっと肩が動いてしまった。そして、多田はそれを見逃さなかった。

「ん?なに?ちゃんと陰口言われてんじゃんお前とか考えてた?ちゃんと存在認識されてんじゃんって?」

先程の口癖を言うときと同じように、右の口角を釣り上げながら、多田はじっと僕の目を見つめてきた。咄嗟に目をそらしたが、それが図星だと告げる合図になってしまったことにすぐ気付き、否定も出来ずに目線を地面へ落とすしかなかった。

「おまえはわかりやすくて、俺好きだよ。」

西の空は、二センチくらいの幅で太陽の尾を引いていた。そこから橙、紅、紺碧、群青、濃紺と、東の空から続く暗闇に追われていた。僅かな明かりのお陰で、暗闇はより一層その深さを強調され、足元の履き潰したローファーはほとんど闇に染み込んでいた。足を前に出す度に、そのつま先が一瞬白く光ることで、何とか僕の足の存在を知ることができた。

「あとおまえはさ、俺の存在を否定しないだろ?だから好きだな。」

「いや、元々好きじゃないんだよ、陰口とか無視したりとか。」

皆が余りにも多田を変わり者扱いするものだから、実際どんな奴なのか興味を持った。たまたま最寄り駅が一緒で、ちょうど部活の終わる時間も同じくらいだったから(僕は弓道部で、多田はクイズ研究部というマイナーな部活に入っていた)、改札口で見掛けたとき、何となく声を掛けた。それからはほぼ毎日、駅から分かれ道になるコンビニの前までの道のりを、二人で話しながら帰るようになった。駅から離れるとすぐ田んぼだらけになるようなところだったから、滅多に人とすれ違うこともなく、この時間のこの街には二人しかいないんじゃないかと思うくらい、僕らの会話はいつも自由に膨れ上がっていた。

「元々好きじゃないんだよ? ははっ、おいちょっと勘違いしてねぇか?」

「は?何が」

少し馬鹿にされたように聞こえて、ムキになって多田のほうを見ると、明らかな蔑みの表情でこちらを見ていたものだから、僕は面食らってその場に立ち止まった。多田の顔は笑っていたが、その目には少しの敵意と、何か汚れ切ったボロ布でも見るかのような賤しみが込められていた。一気に汗が噴き出してきて、耳が熱くなるのを感じた。

「おまえは俺を否定しない。でも、それはおまえが俺に新切に話し掛けてくれるからとか、その優しさに触れて俺が浮かれてるみたいな、そんなんじゃないぜ?」

多田も立ち止まり、真っ直ぐに僕を見ながら、いつもより数倍も遅い口調ではっきりと話し始めた。

「おまえは確かに話し掛けてくれてる。でも、それはただの興味本位ってだけじゃないだろ?自分でよく考えてみろよ。例えば…」

「例えば?」

一呼吸置いて、また右の口角を上げて多田はこう言った。

「おまえ、教室でも俺に話し掛けられる?」

耳の熱が鼓膜を突き破り、そのままキーンという音がけたたましく頭や顔の中を満たしていった。足元は最早完全な暗闇に覆われて、そのまま多田と自分の間の空間を塗り尽くしていった。目の前に見えるのは、多田の鋭く光る眼と、口から零れているやたらと白い歯だけだった。

「できないだろ?そりゃそうだよな、俺なんかと話してるとこ見られるの、嫌だもんな。こんなわけわかんない奴と親しくしてるだなんて、どうやって説明したらいいかわかんねぇもんな。だからこうやって帰り道の誰もいないとこだけで、友達っぽいことしてるんだろ?」

相変わらず笑顔のままで話し続ける多田は、最早人間の形を保っていないように見えた。眼が暗闇に慣れてきて、先程よりも多田の輪郭は朧気ながらも確認できるようになってきていたのに、それが果たして本当に人間なのか、わからなかった。ただ闇の中を蠢く思念のようなものから、自分が最も恐れている言葉を次々に投げかけられているだけのように思えた。

「でも俺は楽しいぜ?友達ごっこ。それにさ、お前がそうやって教室では知らん顔しようとしてくれると、俺は自分の存在が確認出来て、もうすっっごい嬉しいの。あの空間で、俺がちゃんと居ることが証明できるのはお前のお陰なんだぜ?他の奴らは俺のこと、俺の存在を否定して生活してるけど、お前は絶対否定しない。やってることは無視したり陰口叩いてるとこに一緒にいたりって、あいつらと同じような行動取りながらもさ、お前は俺を否定し切れてないんだよ。時々なんかの拍子で目があったりしたときの、お前のバツの悪っそーうな顔見ると、俺本当にぞくぞくしてきて、なんなら勃起しそうなくらい興奮すんだよ。だからさ、俺はお前のこと、好きだよ。単純でわかりやすくて、良い奴だよ本当。」

違うとか、そういうつもりじゃとか、言いかけては止めての繰り返しだった。どんなに頑張って否定したところで、嘘になるだけなのはわかっていた。実際、初めて話した日の翌朝、教室でいつも通りヘッドホンをつけて真っ直ぐ黒板を見つめてる多田を見て、ここで話し掛けたら、周りの奴らにどんな風に思われるだろう、「おまえあいつと仲良くなったの?マジで?」などと聞かれたらどう答えようと考え、怖くなってそのままシカトした。目の前を通る時、小さな声で「…おは」と声が聞こえたにも関わらず、だ。

多田はそれすらも嬉しかったのだろうか。いや、そんなことあるわけない。あれは絶対に傷ついていたはずだ。それでも、僕は今の今までそれを無かったことにして、毎日帰り道限定の友達ごっこ(のつもりはなかったけど)を続けた。その中で少しだけわかり始めた多田の性格を考えると、色んなところが歪んではいても、根底に流れるものは「孤独」ただそれだけだ。その孤独に耐えきれないから、色んな解釈を使って自分を守っている。僕が見てきた多田はそういう奴だった。そういう人間の不器用な部分を凝縮したようなところも好きだったし、今まで出会った人にそんなタイプの人間はいなかったから、僕は僕なりに、傷つけてしまったかもと思いながらも、二人でいる時間を楽しんできたつもりだった。

しかし、それすらも全部、傲慢だったのだろう。楽しんでいたというよりも、どこかで多田のことを可哀想なやつ扱いしていたのかもしれない。少しでも自分と話すことで、友達のいない淋しさを埋めてあげられるかもしれない、そういう奴に親切にしている自分というのに、僕は少なからず酔っていたのかもしれない。およそ偽善的な振る舞いを無意識にしていたことを知り、あろう事かそれを相手から知らされてしまったという事実に、これまでに感じたことのない恥じらいを覚えた。どれだけ自分のことを崇高な人間だと勘違いしていたのだろう。何様のつもりなんだ?僕は。

「だからさ、別にこのままでいいんだよ。お前はそのままで毎日過ごしてくれりゃ。」

多田の言葉が本心なのか、自欺なのか、僕には分からなかった。ただ、少なくともこのままでいられる自信が自分には持てないことは分かり切っていた。それもまた、多田への申し訳ない気持ちや懺悔心ではなく、単に自分自身が多田に後ろめたい気持ちを抱いたままで居続けたくないと感じたからだ。もっと言うと、支配されているような感覚が許せなかった。見透かされたこの瞬間から、もう僕は、多田への絶対服従を余儀なくされていた。可哀想な多田の友達役を買って出た僕は、いつの間にか自分の弱さを人質に取られて、このままずっと、多田の傍を離れることが出来なくなろうとしていた。僕のほうが立場的に上じゃなかったのか?なんでこんな多田なんかに。そういう気持ちをほんの少しでも抱いていることに気付かされて、これまで築いてきた自分という人間像に疑問が生じた。

僕は元来、周りと調和していくことを正義としていた人間だ。波風を立てようとする人の神経が理解出来なかったし、自分というものに特別な個性を求めたり、これ見よがしに自らの意思や欲望を周囲に当て散らかす人が信じられなかった。そういう人間はおよそ野性的で、とても幼稚に見えた。僕の中には全く無い感覚を持っている、未知の世界からやってきた侵略者のようにも思えた。しかしこれ以上多田と一緒にいると、僕が如何に卑劣で高慢で、自らが軽蔑し或いは恐れていた幼稚な侵略者そのものであるかということを思い知らされることになってしまう。それがとても怖かった。こんなことで取り乱してはいけない。封じ込めないと。多田に合わせて、何ともない風を装って、またいつものように会話と呼吸を合わせて、笑顔を作って、

「おい?終わったぜ、話。帰ろう、『よしあき』」

 

僕の、名前を、気安、く、呼ぶ、な。

 

 

次の日から、多田と会うのをやめた。教室でも完全にいないものとして過ごした。やってみると意外と簡単で、視界に入り込む多田の姿も、三日もするとロッカーや机やカーテンみたいに、僕の生活を演出する背景の一部になっていった。僕と話さなくなってから、多田がどんな顔をしてこちらを見ていたのかも、授業中や休み時間、放課後をどうやって過ごしていたのかも、何も分からなかったし、気にならなかった。ただ一つ、名前を呼ばれたあの瞬間の、自分の中に潜む鬼のように激しい嫌悪感だけは、拭い去ることが出来ずにいた。

多田が学校に来なくなったのは、それから二週間後。退学したと聞いたのは、二年生に進級したあと、学ランを着ていると汗ばむようになってきた五月の始め頃だった。

その後のことは、何も知らない。

 

 

 

 

 

 

3月25日

 

気付いたとしてもさ、言わないでよ。普通言いふらす?

そりゃ気持ち悪いよね、言いふらすか…。

坂本さんにどう思われたってどうでもいいけど。

好みでもなんでもないし、あんな女笑

でもみゆきちゃんの目はなぁ、痛かったなぁ。

そうだよね、不審に思うよね。

辻褄、合うよね。触りすぎてたわ、あたし。

明日からどうしよう。てゆうかロッカーから着替え全部持 ってきとけば良かった。

明日絶対使えない。早起きしていくか…。

 

 

 

 

3月26日

 

小学生の集まりかよ、ほんとに。どいつもこいつもクソばっか。

サバサバ系なだけだと思った~。とか、馬鹿にしてんの?

トイレで化粧してたら、入ってきたナツと鏡越しに目が合った。

「あっ」って言って別のとこ行きやがった。

なに?あたしはトイレも使っちゃいけないの?

なんでこういうことになると、すぐ下ネタのほうにみんな結びつけるんだろう。

誰でもいいわけじゃない。そんなんあたりまえ。

あたしは化け物か!

化け物なんだろうな。みんなからしたら。

 

 

 

 

4月9日

 

きもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもい。

絶対課長に言ったの坂本さんだ。ちらちらこっち見てたもん。

男を知らないだけだよ?協力してあげてもいいよとか、馬鹿かよおっさん。

人のこと、治る治らないで話進めるのやめて。病気なんかじゃない。

あたしは今までずっとこのままで来てる。

鼻息がかかる感じがまだ残っててきもい。きもいきもいきもいきもい。

人の肩に気安く触んなよ。なんであんなおっさんに。

あーもう、あたしが悪いのかな?あたしがいけないの?

坂本一派がにやにやしてんのはムカついたけど、みゆきちゃんもちょっと笑ってた。

あたし、もう好きな人からも馬鹿にされる人間なんだな。

きもいのは、課長よりもあたしなのかな。

もう一回お風呂入ろ。

 

 

 

 

 

 

 

 

いつの間に眠ってしまったのだろう。気付くと妻は隣にはおらず、外は日没を終えようとしていた。部屋の中からは聞こえないけれど、きっとザザァっと穏やかで心地よい音を響かせながら押し寄せているであろう地平線の波間を、太陽の頭の残りが赤々と照らしていた。空のほとんどはもう紺碧を通り越して漆黒に染まろうとしていて、中途半端に光が残っているものだから、夜以上にその黒の深さが強調されている。携帯の画面を確認すると、まだ18:38の表示。ここからそれなりに夜も長いのに(夕飯だってまだだ)、もう今日という日が終わっていくようで、それだけで自分が十年くらい歳を取った気分になる。それでも昼間の惰眠の後悔のようなものは無く、むしろ今度は自分の意識の無いうちに時間が刻々と過ぎていってくれたことに、安堵すら覚えていた。何も解決しているわけではないけれど、ひょっとすると、眠っている間に何かが劇的に変化しているのではないかという期待を持たずにはいられない。そして、大体その期待は裏切られ、僕はそのまま、まだ夢の中にいるのかもしれないという妄想にシフトしていく。それなら、まだ何も前進していないのも頷ける。だってまだ、夢の中にいるのだから。

ここ最近、どうもこういった調子の寝覚めが多くなっている。昼間のあれなどは珍しくて、大体起きてもまだ夢の中のような浮遊した状態で、頭がなかなか働かない。自分の思考が遅く感じるというよりも、周りの全てが三倍速くらいの速さで動いているように思えて、着いていこうにも取っ掛りを見つけられずに途方に暮れる。まるで、世界中の中で僕一人だけがふわふわと浮かぶシャボン玉の中に隔離されて、目まぐるしく流れていく世界に戻ろうと思いながらも、この高さでシャボン玉が割れたら、真っ逆さまに落ちていって、体ごと潰れてしまうかもという恐怖で、身動きもできずにただ上から眺めているだけのような、上手く表現できないけれど、そういったような状態になってしまうのだ。今まであまりこういったことが無かったものだから、遭遇するたびに困惑もするし、何よりひどく疲れる。それでも、最初のうちは勇気を出して自らシャボン玉を割っていた。その度に下に落ちて潰れてしまいそうになっていたけれど、段々とその状態にも慣れてきて、今ではずっと、それこそ夢の中ですら、シャボン玉の中に居続けている。浮遊しっぱなしの状態も、それはそれでいいのではないかと思えるようになってきて、何か色々と忘れていっている気もするけれど、それこそこうやって、一日の沈む瞬間を安堵と共に迎えることができるのだから、悪いことばかりでもないだろう。

そんなことを寝起きの頭で考えていると、妻が部屋に戻ってきた。どうやら外に行っていたらしく、潮風に当てられて、肩まである髪の毛がほんの少しごわついて見えた。

「電気付けるよ。暗い。」

「外出てたの?」

明かりがつくと、部屋の中は再び日の出を迎えたように、そこかしこの輪郭をはっきりとさせた。

「ご飯の時間、七時でしょ?だから戻ってきただけ。」

ご飯が無かったら、戻ってこなかったの?

言い掛けてやめた。うん、と返されたら、僕は恐らく泣く気がした。

 

夕飯の間、妻は明日の予定について独り言のように喋り続けていた。

「朝のうちから活動したいんだけど、問題はきちんと時間に起きられるかってこと。いつも通りの感じで寝ちゃうと、ほら、最近ずっと時間バラバラじゃない?長く眠れるときは平気で十時間とかなのに、短いと三時間くらいで起きちゃったりとか。」

「うん。」

「でも今朝はちゃんと起きられたから大丈夫かな。電車間に合うかどうか不安過ぎて、逆に眠れなかったっていうのもあるけど。むしろ不安に思うくらいのほうがちゃんと起きられていいかもしれないね。そしたら朝ごはんを七時とか、一番早い時間に設定しといて、もうそこ間に合わなかったら終了!みたいな。そうしよう。それがいい。家プロジェクトって何軒かあるから回るの大変そうだけど、朝から行けば全部回れると思うんだよね。」

ほとんどテーブルに話しかけているような目線のまま、妻は喋り続けていた。それにも関わらず、彼女の皿の上に盛り付けられていた白身魚のムニエルは、着実にその身を減らしていた。あまりにも口を動かし続けているので、唇の端に付いた橙色のソースが徐々に下に垂れ落ちそうになっていて、僕はそれをいつ指摘しようかと様子を伺っていた。そのままソースが顎にまで達して、彼女がそれに気付いてしまい、「どうして言ってくれなかったの?」と、羞恥と憤怒の表情で僕を睨み付けてから席を立ってしまわないような、それでいて楽しく喋り続ける彼女の話のリズムを乱すことのないような、絶妙なタイミングはいつなのかを見計らっていた。

「美術館は出来ればゆっくり観たいから。あ、別に家プロジェクトがどうでもいいとかってことではなくね。むしろ美術館は天候とか気温関係なく観れるから、後回しでいいかなって。あ、それも別に美術館がどうでもいいとかってことではなくね。」

「わかってるよ、大丈夫。ねぇ、」

「地中美術館は特にゆっくり観たいの。タレルの作品あるじゃない?お空がくり抜かれたみたいなやつ。あれ夕方に観たいから、出来ればお昼ご飯のあとに入館って感じがいいな。だからそれまでに家プロジェクト制覇!ね。ちょっとハードだけど、ね。」

妻は浮かれていた。一目見ただけで躁状態に入り始めているのがわかるくらいの変わり様だった。脳の処理と表情筋の動きが一致しないまま言いたいことが溢れているような感じで、時折噛みそうになりながらかなりの早さで話していた。昼に宇野港で見た以前と同じ彼女の姿はどこにもなく、小型船の中で膨らませた凡庸な妄想が見事に打ち砕かれた虚しさと共に、どうして中間を保っていられないのかという彼女に対する苛立ちと、そんなことでいちいち腹を立ててしまう自分自身への嫌悪と、間もなく彼女の顎の先端にまで行きそうなソースに焦りを感じて、僕はとりあえず自分の食事の手を止めた。

「そんなに焦らなくても、帰るの明後日なんだし。詰め込まなくても、大丈夫、なんじゃないかな。」

自分を落ち着かせるように、少し間を置きながら口にしてみると、思いのほか不機嫌そうに響いてしまった。彼女もそれを察知したのか、少し表情が曇ったあと僕のほうをまっすぐに見つめた。

「…最後の日は。全部回れるとは、思ってないし、一日で…。予備日必要じゃない?焦ってるってゆうか。違うし。…違くて。なんか、最後の日はちょっと。せっかく…、島なんて来ないんだし。」

口角と目線が徐々に下に落ちていき、カチャカチャと音を立てていたナイフとフォークの動きも止まった。失敗してしまった。もはやタイミングを見失うというレベルの話ではなくなっていた。話を遮るどころか、久しぶりに見せた彼女の楽しそうな表情まで奪ってしまい、僕は一体、何をやっているんだろう。まだ「ごめん、ソース付いてるよ。」と言って、話を中断させたほうがましだった。

「あぁ、ごめん。えっと…。」

謝ってみて、何に対して謝ればいいのかわからなくなってしまい、すぐに言葉が止まってしまった。口の中の水分が、膝の上に広げたナプキンを握る手のひらに全て移動してしまったかのように、じわっと嫌な汗をかきながら喉が渇き切っていくのを感じた。水が飲みたい。

「最後の日は、ね、ゆっくりしたいの。私もだけど、芳くんも、ゆっくり…。疲れるでしょ?私といると。最近、ははっ。」

自虐的とはいえ、確かに妻は笑って言った。突然のことで、僕は思わず彼女の目をのぞき込んでしまった。ただ興奮して、あれもやりたいこれもやりたいと、思いついたことをひたすら口にしているだけなのだと思っていたものだから、彼女の中に漠然とでもプランが出来ていることが、そしてその中に僕のことがしっかりと含まれていたことが驚きだった。勝手に置き去りにされたような気持ちになっていた自分に気づいて恥ずかしくもなったが、それ以上に嬉しさが勝った。また少し、以前の彼女に戻ってくれたような気もして、数分前の自分とは別人かのように、気持ちは高揚していった。

「そんな、疲れるなんて。でも、そうだね。ゆっくりできるほうがいいよね。せっかく島なんて来たんだし。」

「でしょ?あれ…、わ、やだ。ソース。」

恥ずかしそうにナプキンで口を拭う妻の目に、僕を責める気配は微塵も感じられなかった。

 

部屋に戻る前にちょっと寄りたいところがあると言われ、僕は黙って着いて行った。おもちゃのようなエメラルドグリーン色のモノレールに乗って、ゆっくりと山を昇っていくと、コンクリートで固められた無機質な壁が佇んでいた。

有名な日本人の建築家が設計したというその建物は、各客室のドアが取り囲むように真ん中に水を湛えた不思議なものだった。まるで山頂の火口湖をコンクリートで固めたようで、自然が作り出す有機的な荘厳さとは違った、他人事のような不気味さがあった。血の通った人間が作り出したものなのだから、本来であればそこには生命を感じられるはずなのに、そこに静かに佇む抜け殻のような水溜まりは、囲われた照明の光を身体中に含んで、蠢く空の闇と必死に対峙していた。

「一泊五万くらいらしいよ、ここの部屋」

と、どこかの情報を全く興味が無さそうに口にすると、妻は奥の階段をスタスタと上がっていってしまった。僕はその後を小走りでついて行った。

階段を上ると、先ほどの客室の上が芝生の広がる庭になっていた。静寂の水面から一転、瀬戸内海からの生温かい初春の海風が、まだ少しごわつきの取れていない妻の髪を撫でたあと、僕の頬をかすめていった。全くの暗闇の中、漁船の灯りがぽつりぽつりと浮かび、その先には岡山の港が煌々と佇んでいた。

「例えば、今日のあの船に乗り遅れたとするじゃない?本土の高校に通う子とかが。」

妻はじっと港の光を見つめながら独り言のように小さな声で言った。

「多分、こういう島だから、船を持ってる知り合いなんて皆いそうだけどさ、そういう人付き合い出来ない家に生まれた子は、誰が迎えに行くんだろうね。」

「まぁ、高校生なら市街に出て朝まで時間潰すとか?」

「それ東京の考え」

また少し、彼女の気持ちの中から暗雲が立ち込めていくのを感じた。

「そんで、それ、幸せな学生生活送ってきた人の考え。あのね?そういう親家族のいる環境に育った子は、繁華街で時間潰すなんて高度なことは出来ないの。このままどうなっちゃうんだろうってゆう恐怖から逃れるのだけで精一杯で、ただ島の方向を見つめるしかできないのよ。泣きたいのを必死で堪えて、誰が見てるわけでもないのに、あーぁ行っちゃったなぁなんてボソッと呟いてみたりなんかして、別にこんなの何でもないって感じを演じるのよ。」

段々と口調が強くなり、スピードが上がる。今、彼女はその架空の人物になりきっている。今にも泣き出しそうなのを必死に堪え、何とかその恐怖や悲しみを僕に知ってもらおうと訴え掛けている。

「ごめん、想像力の欠如。」

「そうね、…想像力の欠如。」

そう言うと、妻は少し笑ったようにも見えた。しかし、すぐに前へ進んでいき、横顔は一瞬しか捉えることが出来なかった。

空を仰ぎ見ると、漁船の灯りよりも更に強い光を放つ月が、明日にも満月になろうと息巻いていた。僕の影をはっきりと芝の上に落とし、この場にいる事実を改めて突きつけようとしていた。小幅でせかせかと歩く妻の影は、芝の一本一本に波打ちながら、光の一切届かない闇の海原のように、不気味な行進を続けていた。

「いまも、こっちを見てる気がする。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初めて妻の異変に気付いたのは、終電帰宅連続六日目の深夜だった。

さすがに明日は早めに帰りたい。定時とまではいかなくても、‪二時間、いや‪一時間、三十分でもいい。一本前の電車でもいいから、今日より早く家に帰りたい。そう思いながら、エレベーターの中の鏡に映る草臥れた自分の姿を見ていたとき、妻から電話が掛かってきた。

「もしもし。なに?もう着くよ。」

「ねぇ、家開けられる?」

「は?え、なに?…あぁ、鍵無くした?あるよ大丈夫。」

「…」

「もう着くよ、九階。」

そのまま電話を切り、エレベーターの扉が開いたとき、つい今しがた交わした会話の得体の知れない気味の悪さに、全身を硬直させた。妻は残業など滅多にしない。‪十九時頃には家に帰ってきているはずだ。今は何時だ?もうそろそろ‪二時になるぞ?その間僕に連絡をすることもなく、妻は一体、何をしていたのだろう?

エレベーターを降りて共用廊下を歩いていくと、自宅の前に妻が立っているのが見えた。携帯電話を握りしめ、鍵穴をじっと見つめていた。少し震えているようにも見えたが、それが寒さのせいなのか、それ以外の理由からくるものなのかは分からなかった。

「おい、どうしたんだよ?鍵は?失くしたの?」

声を掛けると、しばらく僕の顔を見つめた後、はっきりとした口調で「開けられないの」と一言、それっきり俯いたままとなってしまった。

こんな時間まで一体何してたの?と問い掛けようとして、足元に無造作に置かれているスーパーの買い物袋や、彼女の紫に変色した唇や、ケータイを握りしめる真っ白な手を見て、何してたの?という問い掛けが間違いだということに気付き、何も追求することなく、芯を抜かれたように足取りが覚束ない妻の手を引っ張り、一緒に家の中に入った。

彼女は‪七時間、何もしていなかったのだ。

 

その日から病院に行って診察を受けるまでに、一ヶ月以上掛かった。もっと早く提案をすれば良かったのかもしれないが、彼女自身が自分の変化に困惑している中で「それは病気なんじゃない?」と言ってしまうと、彼女の自尊心を傷付けてしまいそうな気もしたし、僕がそこまで大袈裟に事を荒立てるのもどうなのだろう、病院に行きたいとなれば彼女は自分から言ってくるだろうとも思った。だからその日も、お風呂上がりの彼女に、明日は会社は休んだほうがいいんじゃないかなとだけ言ってみたものの、彼女はそれを拒否して、次の日もいつも通り七時には家を出ていった。しかしそこから、毎晩家の鍵が開けられず、僕が帰宅するまでの間は、近くのファミレスで時間を潰す日々が続いた。それ以外のことに関しては、家事や身支度など卒無くこなしていたし、会社でもこれといって出来ないことは増えていない様子だった。ただ家の鍵だけが開けられない。何度も開け方を教えて、実際に見せてみたり、手を添えて鍵を持たせて一緒に開けてみたりもしたが、一人で開けることだけができなかった。始めはその変化に戸惑いながらも、一緒に家に入る度、苦しそうに申し訳なさそうに俯いている彼女が不憫で仕方なかったし、それ以外に取り立てて変わったところがなかったので、一時的なものだろうと思いながら接していた。

しかし、二週間経った頃、僕はつい妻に対して苛立ちを露わにしてしまった。いつもなら新宿駅で降りる初老の男性が、その日は新宿に着いても席を立つ気配もなく、そのまま僕の降りる駅まで座り続けていた。なんだこいつ、いつもなら降りるのに、寝てるわけでもないしと、訝しげに見つめていると、

「おい、何見てんだよ兄ちゃん。」

と、思ったよりも重低音でこちらを見上げながら男性は言った。まさか声を掛けられると思っていなかったものだから、僕は思わず怯んだ。小さな声ですみませんとだけ言い、そのまま真っ直ぐ窓に映る自分の姿を見つめた。隣に立つ女性が、こちらをちらりと見た。後ろに立っている学生二人組が振り返って、ニヤついた顔で何かを喋っている。静寂の車内で注目を一身に集め、顔中が紅潮していった。暗闇に映る不明瞭な色彩の窓の中でも、その色ははっきりとわかってしまい、僕は自分自身を見つめることすらも恥ずかしくなってしまい強く目を閉じた。いつもなら妻に、何時着の電車に乗ったのかメッセージを送るのだが、最早スマホを見ることすら適わず、そのまま最寄り駅まで視界を切ったままでいた。

駅に着くと、そのまま妻のいるファミレスまで歩いていった。その間も、まだ男の声が脳内に響いたままだったので、ヘッドホンを装着し椎名林檎の「弁解ドビュッシー」を選択すると、その声をかき消すかのように音量を上げた。必要以上に歪ませたギターの音と、歌詞の判別しづらい彼女の歌声が、雑音と混ざり合って僕の中を満たしていった。少しずつ苛立ちが無くなりかけたとき、ファミレスの店内でオムライスを食べながらスマホを眺める妻の姿が目に入った。今耳元で鳴り響いている轟音が、一瞬のうちに消えて無くなり、再び男の声が頭の中を支配した。

「おい、何見てんだよ兄ちゃん。」

僕は再び赤くなった。しかし今度は、羞恥の気持ちからではなかった。

外で立ち尽くす僕に気付くと、妻は一瞬驚いた表情を見せたあと、微笑んでこちらに手を振った。ちょうどオムライスを食べ終わったところで、コートを着て鞄を持つと、会計を済ませて外に出てきた。

「連絡なかったから、びっくりした。いきなり立ってるんだもん。ごめんね、寄ってくれて。」

突然のことに嬉しそうな彼女の顔を見ていると、僕の怒りは益々強くなっていった。

「昨日より寒くない?帰ったら暖房入れなくちゃ。」

ぐうぅと、胃の中で空腹の合図が鳴った。なんで、こんな。

「…?どうしたの?ねぇ…。『よしあき』?」

歩き始めない僕に向かって、妻は不思議そうに名前を呼んだ。その瞬間、耳の中がとてつもない力に圧迫された。

なんで、どうして、僕がこんな目に。

僕を見るな。僕の、名前を、呼ぶ、な。

「鍵くらい、自分、で開けろよ。なんで、出来ない、んだよ。」

怒りで声が震えて、思うように喋れない。一言発する毎に、血管の中を熱いものが急激に駆け抜けていくのを感じた。夜の闇が逃げていくように、視界が白んでいき、妻の姿がぼやけ始めた。

「教っ、えたじゃん。挿して、回すだ、けだろ。何?甘えてん、の?なんで普通に、飯食ってんの?その時間、何?俺今日、今日は…。俺。」

今日は、何なんだ?自分は一体、何が言いたいんだ?どうしてこんなにイライラするんだろう。何故怒っているんだろう。誰に?何を?

「大体さ、何なの?鍵、開けられない、って。他は全部、普通じゃん。全部今まで通り、やってんじゃん。」

少しずつ舌が動き出すと、次々と言葉も浮かび始めた。耳元のヘッドホンは未だ轟音をかき鳴らし続けていて、それよりも大きな声を出すことに必死だった。

「大丈夫かな?って最初は心配したけど、さすがに俺もずっと優しくはできないよ。イライラだってする。今日だって色々…あって。もちろん全部が全部絵里のせいじゃないけど。つーかさ、なんで鍵開けらんないの?意味わかんねぇよ。」

自分が何を言っているのか、何を言いたいのか、実際にどれくらいの声の大きさで喚いているのかさえも分からないまま、口が動くのに任せて捲し立てた。妻のことも、鍵のことも、電車の男性も、僕を覗き見る周りの人達も、最早全てがどうでも良くて、ただ大きな声で押し寄せる自分の感情を吐き出すことだけを考えていた。

気付くと、妻は僕に抱き着いていた。胸の辺りに顔を埋めて、首を小刻みに横に振っていた。

「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。」

それまで身体中を駆け巡っていた熱いもの達が、汗となってどっと吹き出し、僕を更に不快な気持ちにさせた。同時に、妻に八つ当たりをしてしまったことへの罪悪感が猛烈な勢いで襲い掛かり、それ事振り払うように反射的に妻の肩を突き放した。

「あ、ごめっ…。」

まるで自分の意思ではないような自然な行動に、自分自身で吃驚してしまった。よろけた妻は何とか体勢を整えると、僕とは目も合わせずにそのまま踵を返してマンションに向けてつかつかと歩き出した。

感情を抑えられなかった自分に失望しつつ、知らぬ間に溜め込んでいたものが放出されたことに不謹慎な爽快感を得て、僕は妙な気持ちのまま妻の後を追った。ヘッドホンから流れるけたたましい音楽に気付くと、途端に耳が痛く感じて慌てて停止した。

帰宅後、病院に行ってみようと提案してきたのは、妻の方からだった。

 

 

 

 

 

 

6月18日

 

仕事探せって、軽く言うなよくそババア。

もうあの人はあたしに関わらないでほしい。

またバレたらと思うと、新しい職場なんて探せない。

 

 

 

 

8月7日

 

コップに牛乳を入れて、飲む。

飲み干したあと、もう少し飲みたいなって思って、また注ぐ。

ちらっと視界に入る水槽の中はコケだらけで、あんなに好きだった魚達の姿は朧気にしか見えない。

もしこの牛乳を中に注いだら、あの子達はどうなってしまうんだろう。

一滴だけなら、まだ大丈夫だよね。

明日はもう一滴。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局、朝早くから行動をするという予定は、妻の寝坊により全て白紙となった。宿泊客が少なかったお陰か、時間を過ぎてはいたが何とか朝食にはありつけたものの、その後部屋に戻ってから、妻はしばらくベッドにうつ伏せになったまま動かなかった。きっと自己嫌悪に陥っているのだろう。僕は特に声を掛けることなく、窓際の椅子に腰掛けて海を眺めながら、もしかしたら今日はこのまま一日終わるかもなと、ある程度覚悟をして気持ちを落ち着かせていた。東京にいる時の休日ではよくあることだったので、もう憤ったり呆れたりするようなことも無くなった。気分に左右され、振り回されて一番辛い思いをしているのは彼女自身だ。そこに追い討ちをかけるかのように、僕の感情をぶつけても仕方がない。揺らめく波に呼吸を合わせて、ゆっくりと瞼を閉じた。

「ごめんね…。」

枕に埋もれてくぐもった声が後ろから聞こえた。席を立って、横たわる妻の傍に腰を下ろしそっと頭を撫でると、涙で濡れた目をこちらに向けてきた。

「予定、変更していい?」

「うん。大丈夫。…もうしてる。」

僕の冗談にふふっと微笑んだ彼女の顔は、純粋無垢そのものだった。その表情は、僕の庇護欲を増大させながら、何度も出会いたいと思わせる。もしこの病が治ったら、二度と会えなくなるのだろうか。

 

南寺と呼ばれるその黒々とした巨大な平屋の中は、自由に入ることが出来ない。数人のグループがRPGのパーティさながら、先頭を歩く案内の女性の後をゾロゾロと着いて行く。角を曲がるところで彼女が止まると、全員着いてきているかを確認し、また次のポイントまで歩いて行く。大の大人が大勢でスパイごっこをしているようで、ふふっと笑いが零れたりもしたが、徐々に暗さが増していく中で、自分の息が上がってきているのを感じて焦っていた。僕は暗いところが苦手だ。中に進むにつれ、明らかに歩幅が狭くなり始めているのがわかる。進みたくない。でも、他の観覧客が後ろからゾロゾロと続いているのを想像すると(すでに人影すらも肉眼では見えないくらいになっていた)、進まないわけにはいかなかった。

「壁に沿ってコの字型に椅子がありますので、なるべく奥まで進んで腰を下ろしてください。」

と案内の女性が言うと、後ろからピタッと着いてくる妻が、僕の服の裾をしきりにつんつんと引っ張るので、何?と聞くと、

「何でも。お散歩みたいで楽しくなっちゃっただけ。暗闇散歩。」

と呑気なことを言うものだから、完全な暗闇の中で冷や汗をかいていた僕は少し絆された。

しばらくそのままでとの指示が出ると、何も見えない空間の中で、それぞれの小さな話し声がざわめきとなって空間に満ちていった。入る前に見た外観と反響音からして、比較的大きな空間のようだけど、一体このあと何が起こるのか、或いは何も起こらないのか。作品名やその他、特に情報を仕入れずに来てしまったものだから、全く想像が出来ず、ただひたすら座りながら次の出来事を待つしかなかった。

「ねぇ」

「何?」

妻の返事はこちらに飛んで来なかった。きっと前を向いたまま答えたのだろう。

「これってこのあとどうなるの?」

「あとちょっとでわかることなのに、聞く必要ある?」

不機嫌さはなかったものの、当たり前のことを聞かれて少し呆れたニュアンスの声に聞こえたので、その後は何も質問をしなかった。視覚が奪われた分、聴覚がいつも以上に鋭くなっているのだろうか。ちょっとした声のトーンで相手の顔や気分を過剰に想像してしまうようで、これ以上会話をするのが怖くなった。

そもそも、僕はいつも話す相手の顔や仕草や声を気にしている。この話題は興味が無いんだなとか、ここがこの人の笑いのツボだとか、今少しイラッとしたなとか、他のこと考えてるなとか、相手から発信される色々な要素を僕の中で咀嚼して、次に話すことや僕自身の声色などを考え直す。だから、人と話をした後はどっと疲れるし、明らかに周囲が引いているのに、自分の話したいように話し続ける人を見ると、その場の空気が淀み始めるのがわかってハラハラしてしまう。何とか元に戻そうと、話題を変えたり、わざとらしくならないようにアクシデントを起こしてみたりする(酔ったフリをしてコップを倒すのが得意技だ)。話している本人からは睨まれたりもするが、僕にとってはそいつの心情よりも周りの空気の方が何倍も大切で、大多数の人間から好かれる方を毎回選ぶ。波風の立たぬように、元の空気に戻れるように自分がその場をコントロール出来たときなどは、心の底から安心する。同時に、自分が今ここで最も必要とされていた人間に思えて、何か一つ大きなプロジェクトを任されてそつなく完遂したような、軽い爽快感も伴う。きっと、無意識に芽生えている承認欲求の表れなのだろう。そう考えると、場の空気関係無しに自分の主張を貫こうとする彼らと、根本は同じなのかもしれない。ただ、僕のそれは秘密裏に行われる悦楽であって、彼らの押し付けがましい自分勝手な欲望の叶え方とは異なる。少なくとも、迷惑を掛けていないという点で、僕のやり方のほうが崇高だ。

…崇高?なんだ、それ。まるで相手を見下すような、自分が格上のような表現。今考えていたのは、僕か?僕なのか?僕が僕自身を崇高だなんだって、考えたのか?そんな思い上がった高慢な考えを、持っていたのか?

「え、なんか白くない?」

数メートル先に座っている女性の声が耳に入ってきて、我に返った。もちろん未だ暗闇の中に身を置いているので、思考の渦の中と景色は大差なかったが、遠のく意識を少し引き戻すことが出来た。それでも、心臓はスピードを緩めることはなかった。

「ね、見える?ポヤァって、白いの。」

妻が僕の腕をとんとんと肘で突くと、鼓動とシンクロして鼓膜を直接キックされているような衝撃を受けた。暗闇の中で顔中が火照っていくのを感じながら、この切迫した恐怖から何とか逃れようと、辺りに目を凝らした。注意深く首を左右に回すと、左側に映画のスクリーンのような長方形の白い物体がぼんやりと見えるような気がした。まるで亡霊のようなその朧気な光が、果たして本当にそこに実在するものなのか認識できなかった。周りが見えると言うから、自分も見えていることにしている、ある種幻覚のようなものなのかもしれない。その可能性は充分にある。僕がいつも気にして、何とか読もうとしている空気というものだって、そもそもそんなものは存在していなくて、ただ僕が勝手にあるものとして作り出してしまっているのかもしれない。気付かないうちに、僕はずっと、存在しないものを勝手に作り出してはそれに怯えて、振り回されている。皆があると言えばあると言い、無いと言えば無いと言う。だとすると、僕は一体、この目に何を映して生きているのだろう。

「ちょっと映画館のさ、感じしない?」

「え、あぁ、本当。スクリーンみたいなやつ、だよね?」

「うん。」

妻の一言で、疑念が溶けていった。良かった、自分の見えていたものは確かに存在していた。しっかり自分で見ることが出来ている。おかしな幻覚に囚われているわけではなかった。大丈夫。僕は、大丈夫。

見えるとか見えないとか、しばらくざわついていた薄闇の中で、先程の案内の女性の声がした。皆恐る恐る立ち上がり、ゆっくりと光の方へと進んでいくと、スクリーンのような光に人の形の影がのそのそと蠢いて見えて、より光の存在を確かなものにした。

「実はこの見えている光は、皆さんがここに入ったときからずっと光っていました。とても仄かに光っているので、個人差はありますが、暗闇に目が慣れてくると見えるようになります。」

女性が話している間にも、徐々に色々なものが見え始めていた。横を向くと、妻の横顔のラインが何となくわかるようになっていた。真っ直ぐに光を見つめているその姿は、一瞬今まで出会ったことのない女性のように見えて、僕は再び自分の見えているものの存在を疑わしく思ったが、声を掛けて確かめることはしなかった。

 

入り組んだ道を歩いていくと、次第に辺りの物体が光を照り返し始めた。出口まで辿り着いた頃には、焼き尽くされてしまうのではないかと思うくらいの強烈な太陽光を浴びて、瞬間世界が白く蕩けた。

「眩しいっ!最早痛い。」

両手で瞼を覆いながら、妻は少しふらついていた。駆け寄って腕を支えると、

「大丈夫、やめて。」

と少し強めの口調で返された。咄嗟に手を引っ込めて、僕はそのまま硬直した。僕が思いもよらない思考を目の当たりにして人知れず吃驚していたように、きっと彼女も、何かしらの思考を巡らせていたのだろう。無理矢理にその詳細を探ろうとすると、妻はまたどんどんと沈んでいってしまう。

ふと後ろから笑い声が聞こえてきたので振り向くと、高校生くらいの男の子が四人、自転車を漕ぎながら笑い合っているのが目に映った。春めいた瀬戸内海の気候とはいえまだ少し肌寒いにも関わらず、皆半袖のTシャツ一枚という出で立ちで、周囲の目などまるで気にしていない様子だった。この距離では会話の内容は聞き取れなかったが、きっと彼ら自身も何がそんなに面白いのか分からないくらい、中身のない、しかし大切なやり取りをしているのだろう。行きの小型船に居合わせた高校生達と同様、彼らもまたそこに展開される光景の掛け替えの無さをこれっぽっちも理解しないまま、瞬間を閃光のごとく駆け抜けていた。その姿が、まるで宇宙の中を突き進んでいく星の光のように思えた。何万光年も先から届くはるか昔の光を、僕達は今この時点から見つめることしかできない。猛烈な速さで過ぎ去っていく光を、自分も昔、持っていたのだろうか。懐かしさと羨ましさと、色々な感情を綯い交ぜながら、まだ闇から覚め切れていない茫洋とした視界に広がるそれらの光は、強烈な輝きを僕に向けて放っていた。

浮かない心持ちのまま、手に持っていたパンフレットに目を落とすと、「ジェームズ・タレル  Backside of the Moon  1999年」と書いてあった。僕はまだ、裏側に隠された暗闇の中を彷徨っている。何が道標になるのかも、その一筋の光がいま目の前にあることも、知っている。

荒天の予感に怯えながらも、何故かそこには安寧が待っているような気がして、次の目的地が何処なのかも知らぬまま、導かれるように妻の後を追った。

 

 

 

 

 

 

8月18日

 

かなり久しぶりにえりぽん先輩。夢だけど。

昔と変わらず、あたしに笑顔で話し掛けてきてくれた。なんて言われたのかはよく覚えてないけど、きっと今までだって会話の内容なんてどうでもよくて、あの人と話せることだけで嬉しくて嬉しくて。

えりぽん先輩、なんであたしなんかによくしてくれたんだろう。

嬉しいのに苦しいって、わかる?この気持ち、わかる?絶対自分のものにはなってくれないのに、そこを諦めないと関係を続けていけないってゆう、この虚しい気持ち、わかる?一年離れてたら、いつの間にか隣にはいつもあのボケっとした男が横にいて、でもそいつに向かって、あたしと話すときよりももっともっと可愛い笑顔見せてるえりぽん先輩を影から見つめる気持ち、わかる?惨めで惨めで悔しくて、でも誰にも言えないあたしの気持ち、わかる?

会いたいよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

佐竹が死んだと知ったのは、十月に入ったばかりの頃だった。やっと少し涼しくなり始めたと思ったのも束の間、再び暑さのぶり返した日の息苦しい夕方で、羽織っていたカーディガンの袖が腕の汗で湿り気を帯び始めているのが気持ち悪くて仕方がなかった。下に着ているのが半袖のティーシャツだったので、さすがに十月で半袖はどうなのだろうかと思いながらも、我慢出来ずに脱ごうとした瞬間、

「やばっ、まだ半袖着てんだけどあの人。」

という声が聞こえて、全身が痺れて動けなくなった。そっと振り返ると、大学生くらいのカップルが半袖シャツ一枚のおじさんを見ながら「さすがにもう十月なんだしさー」などと話していた。自分に対してではなかったことに安堵しつつ、自分の体温調節をすることにすら周囲の視線を気にしている自分というのは一体何なのだろう、いくらなんでも気にし過ぎなんじゃないか?と、とつおいつ考えながら、結局袖を軽く捲ることで妥協した。暦と視線に負けた。

「…ん?あ、ごめんちょっと。悠馬くんからだ。」

一緒に歩いていた妻が立ち止まり、もしもし?と電話に出た。僕に起こったこの数分の間の挫折劇には、何も気づいていない様子だった。

しばらく電話が終わるのを横で待っていると、電話先の相手に頷く度に、妻の表情が曇っていった。わかった、ありがとう、と言って電話を切ると、しばらくどこともない場所に視線を落としたまま、その場に立ち尽くした。明らかに浮かない表情ではあったが、何故か少し清々しい気配も漂わせていたように思う。

 

初めて佐竹の話をされたのは、大学一年の三月だった。春休みに入り授業も無くなっていたが、バイトのある日や彼女の所属する写真サークルの集まりが無いときは、ほとんど毎日のように会っていた。大学のラウンジで昼食を一緒に食べた後、お互いに行きたい場所の候補を出し合った。いい案が出ない時は、とりあえず新宿や渋谷をブラブラ歩いた後、そのまま何となく、ラブホテルへ行くのがパターンだった。

「そうだ、四月からさ、高校ん時に仲良かった後輩がうちの大学来んの。」

うつ伏せで頬杖をつきながら、彼女は嬉しそうに僕に教えてくれた。まだ射精後の脱力感で腑抜けていた僕は、空返事をしながら天井を見つめていた。つららのようにキラキラとしたビーズの装飾が何本も垂れ下がっている大仰なシャンデリアが、一定の感覚で微妙に揺れている。上の階の振動か、それとも横の部屋の振動か、どちらにしろ、今この瞬間も腰を振っているカップルが隣接する部屋にいるというのが何だか可笑しくて、だらしなく開いた口の隙間から自然と息が漏れた。

「ん?なに?」

「いや、なんでも。その後輩、男?」

「仲良かったって言ったじゃん。女の子だよ。」

クルッと身体の向きを変えて、うつ伏せになってみた。頬杖をついている彼女の顔が少し上の方に見える。まだ少し紅潮している頬が、彼女の瑞々しい肌の透明感を際立たせていた。化粧を落としたこの顔が、僕は一番好きだ。手ぐしだけでささっと整えられた髪の毛も、いつもよりハッキリとした鋭さの無くなった優しい眼も、余計な艶のないそのままの唇も、全部が好きだった。

「今度紹介するね。多分芳くん、嫌われると思うけど。」

「なんでだよ。会ったこともないのに。」

思い出し笑いのようにクスクスと笑いながら、ぬるま湯のような彼女の身体が僕に抱きついてきた。二の腕から感じる彼女の胸の膨らみに再びドキッとしながら、そこから伝わる心臓の鼓動と僕のそれとが少しずつ折り重なって、まるで一つの物体に融合していくように感じた。このまま一緒に混ざり合えれば、彼女の見る、彼女の感じる全てを、自分のものにすることが出来るだろうか。僕だけが彼女の全てを包み込んで、受け入れることが出来るだろうか。

「あの子、私のこと大好きだから。」

彼女の方に向きを変え、そのまま一緒に溶け合ってしまうようにと抱き締めた。萎えていたはずの自身は、力を取り戻していた。

 

彼女の予想通り、佐竹は僕のことを少なからず好意的には見ていなかったようで、紹介の場は尽くキャンセルされていった。それでも、彼女は何とか僕と佐竹を会わせたかったようで、何度もセッティングを試みていた。嫌がってるならやめれば?と言ってみても、

「そんな。私の付き合ってる人だもん、あの子にも知ってほしいし、あなたも私の仲良い子のこと知ってた方が、色々心配しなくて済むでしょ?」

と言って、取り合おうとしなかった。何故そこまで躍起になるのか分からなかったが、さすがにこう何度も会ったことのない人間から敵意を示されると、僕も良い気はしなかった。

結局その後、僕は遺影越しに佐竹と初対面を果たすこととなった。

何の関係も持ったことのない人間の葬式に出るというのは初めての経験で、どこにいても、どこを見ていても、とても心許なく居心地が悪かった。

居た堪れない気持ちでいる中、以前テレビのドキュメンタリーで見た、聖地エルサレムの映像を思い出した。それぞれの宗教信者達が、思い思いに聖地巡礼に対する心の充足を感じている映像が映し出される中、嘆きの壁に向かってひたすら祈りを捧げる黒装束のユダヤ教徒達の後ろを、明らかに観光客と見える白人の青年がカメラを構えてニヤニヤしながら歩いていた。目の覚めるようなスカイブルーのティーシャツが祈りの集団の中に於いては異彩を放っていて、取材目的ではなさそうな締まりのないニヤついた顔は、不謹慎という言葉そのもののように見えた。恐らく無料で配られているだろう白いキッパを被っていたが、それがより彼の場違い感を強調していた。

あんな風に自分も見えていないかどうかが気になって、なるべく神妙な面持ちを保とうと必死だった。悲しみやら何やらといった感情は当然湧き上がってこないので、俯き加減のまま無表情で佇む妻の横で、なるべく釣り合いの取れるような表情をする為に、少し眉間に力を込めて前列の参列者の踵辺りを見つめていた。

焼香の番になり、妻と二人で並んで祭壇の前に立つと、こちらを見つめて静かに微笑む若い女性の遺影があった。ショートボブの真っ黒な髪の毛は艶やかで、綺麗に天使の輪が掛かっていた。遠慮がちに上げた口角と、照れ臭さが滲んでいる細めた眼の間に、少し紅潮した頬が緩やかに盛り上がり、恐らく撮影されたときの実年齢よりも若く幼く見えた。その写真の彼女が横たわっている棺桶の前で、僕は見様見真似のお焼香をして、小さく「はじめまして」と呟いてみた。返事は無かった。当たり前だろと、心の中で自分に突っ込んだ後、やはり僕がここにいることは不謹慎だと改めて感じた。軽く頭を下げ、祭壇の横に立つ佐竹の母親と目が合った瞬間、その不謹慎さは頂点に達した。

未だ肉親を失ったことのない僕にとって、その心情は計り知れなかった。どんなに苦しくどんなに辛いことなのか、共感出来る要素を微塵も持ち合わせていないからこそ、憔悴し切った人間の虚ろな眼差しは、およそ尋常とは言えない狂気を内包しているように見えた。本来なら、可哀想だとかお気の毒にとか、そういう感情を持たなければならないはずなのに、ただただ恐ろしいとしか思えず、その感情自体がやはりとても不謹慎だった。

佐竹の母親は僕から目線を移動させると、まだ頭を下げたままの妻の方をじっと見つめていた。彼女が顔を上げたとき、「あっ」と小さく声を出し、手に握っていたハンカチの間から、くしゃくしゃになった一枚の写真を取り出して、今度はそれをじっと見つめていた。何だろう?と気になっている僕をよそに、妻はそそくさと元の席へと歩き始めていた。

「ねぇ、さっきさ、お焼香のとき、お母さんなんか写真みたいなの出してなかった?」

葬儀所を出てから妻に聞いてみると、少し不機嫌そうな顔で彼女は答えた。

「多分、私達の写真じゃない?ディズニー行ったときのだと思う。」

何かに怒っているとき、彼女は歩幅が広くなる。

「厳しかったのよ、お母さん。ああいうとこ行くのは時間の無駄だって。だから一度も行ったことないって。」

それ程高さのない礼服用の黒のパンプスが、コツコツと音を鳴らしてテンポを速めていく。

「高校卒業の時に、一緒に連れていったの。でも何日かしたらお母さんにバレて、私が現像して渡した写真、全部捨てられたって。多分、その中の一枚。」

語気を強めながら、歩くスピードと比例して早口になる彼女は、明らかに憤っていた。頬と耳が赤みを帯びているのは、秋にしては温暖な今日の天気のせいだけではなかった。

「二人で耳つけて撮ったやつだったもん。ちらっと見え」

ひっ、という小さな叫び声と共に、彼女が立ち止まった。突然だったので、追いかけるように並んで歩いていた僕も、前につんのめった。

「あの、ごめんなさいね、突然。」

佐竹の母親は、妻と僕の顔を交互に覗き見たあと、薄っすらと愛想笑いを浮かべた。どことなく佐竹の遺影に似ているように見えた。

「えっと、お名前…。仲本、さん?で、合ってるかしら?美優子の、高校の先輩、の。」

探るような聞き方に何となく嫌味を覚えて、僕はすぐにこの人と関わりたくないと思った。まだ元気だった頃の祖母が、母の一挙手一投足に対して物申す時にとても似ていて、お名前だの、かしら?だの、普段は使っていないだろう口調も、わざとらしくプツプツと途切れたような喋り方も、そっくりだった。言われるたびに小さく肩を丸めて下を見つめる母の惨めな姿が思い出されて、思わず妻の方へと体を寄せた。

「はい、そうです。仲本絵里です。この度は本当に、ご愁傷様でした。」

それでも妻は、まるで気にしていないかのように、訪ねられたことに無表情で答えて、やや深めに頭を下げた。

「わざわざ来て下さって、ねぇ、本当にありがとう。あの子、あの子もね、きっと、喜んでるはず。」

愛想笑いを崩さないまま、佐竹の母親は妻に声をかけると、今度は僕の方を見つめてきた。その目が先程と変わらぬ狂気を孕んでいて、思わず目を逸らしてしまった後、慌てて取って付けたかのように「ご愁傷様でした。」と言いながら頭を下げた。

「あの、こちらは、仲本さんの恋人?さんかしら、ね。美優子とも、親しくして下さっていたの?」

訳もなく親指と中指を擦り合わせながら、手汗がじわじわと溢れ出てくるのを感じていた。背中からも汗が吹き出してきて、自分の体温が一気に上がっていくのがわかった。どう答えようか。まさか今日初めて顔を見ただなんて言えない。

「彼は、夫です。美優子さんとは何度か面識があったので。あの、ごめんなさい、仲本は旧姓なんです。今は槙野といいます。先にお伝えすれば良かったですね。」

慌てる様子もなく妻が嘘を盛り込んだ助け舟を出してくれたので、開けかけた口をゆっくりと閉じて一つ唾を飲み込んだ。襟元の隙間から入り込む秋風で汗が冷やされて、軽く身震いをした。

「あら、ご結婚されてたのね。それは、ねぇ、おめでとう。そうだったのね…。うん。」

何かを思い出しながら、佐竹の母親はうんうんと頷いていた。妻はまだ無表情のままでいたが、僕には彼女の敵意が見えていたので、それが佐竹の母親に伝わってしまうのではないかと気を揉んでいた。

「失礼だけど、そしたら、お子さんは」

「まだです。」

被さるように妻が答えると、少しの間を置いた後、佐竹の母親は震える声で話し始めた。

「そう、なの。そしたら…あなたも、ね。覚えておいてね。子供なんて、すぐに死んじゃうの。ね?ちょっと目を離してる間に、こうやって母親なんて残して、一人で遠くに、行っちゃうの。」

思いがけない言葉の数々に、僕たちは面食らってしまった。子を亡くした親というのは、これほどなのだろうか。僕も妻も、どう答えていいのかわからず、ただ俯き加減に話を聞くしかなかった。

「でも、それが一番幸せなのかもしれない。生きてることが、ね、苦しいってこともあるでしょ?死んだ方が、楽って。だから私、私ね、いま幸せよ?あなたには感謝してるの。あの子、あなたには、心、開いていたんでしょ?」

先程のくしゃくしゃの写真をポケットから取り出すと、妻の手に強く握らせた。一瞬ビクッと体を動かした妻を見つめながら、佐竹の母親は目を細めて続けた。

「恨んでなんて、いないからね?」

 

数日後、妻のサークル仲間から、心不全となっていた彼女の本当の死因について聞かされた。出血性ショック死。リストカットによる自殺だった。

 

 

 

 

 

 

8月24日

 

直島行ってみようかな。

ホテルの周りはちょっと俗っぽいけど、島感強め。

あんなに色んな作品あったら、生活してても楽しそう。

いや、地元の人達はそうじゃないのかも。どうかな。

ああいうとこに産まれてても、あたしはあたしだったのかな?

違う生き物だな、多分。

そしたらあたしなんていらないんじゃない?

あたし自身が違う生き物になりたがってるのに、あたし必要?

 

 

 

 

8月30日

 

ジェームズ・タレル「Open Sky」

空なんてどう考えても遠いのに、段々近くに見えてきちゃ うのがすごい。

手伸ばしたら雲なんてすぐ触れそうだった。

でもよく考えたらそれって錯覚で奥行無くしちゃってるか らなだけだよね。

結局距離なんて変わらないのに。

勘違いでもいいから近くに感じられるほうが幸せかな。

そうやって自分のこと騙し続けてったほうが幸せかな。

あ、それってあたしじゃないじゃん、もはや。

違う人になれるのかも。

そしたら届かないものの近くにずっといられるのかも。

普通の女の子の友達とか、母とか。

 

 

 

 

9月20日

 

えりぽん先輩。えりぽん先輩。あの一回しか夢に来てくれない。

会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい。

なんで?なんで夢に出てきたの?そもそもなんで私と関わったの?

自分で自分を騙していくなんて、自覚無しで生きていくことなんてきっと難しいことじゃないのに。

恨む。恨むよ。私は自分が普通じゃないって、知りたくなかったよ。

知らないままで普通に生きていけたのに。

恨むよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここ。地中美術館って言うの。」

と妻が指し示す方には、山の上にも関わらず、土の中に埋められてしまったようなコンクリートの建物があった。温暖な四国の空気のせいか、東京ではまだそれほど感じられない花粉の気配に、鼻腔がやられている。ここまでの道程が軽い山登りだったのもあって、僕は息苦しさから逃れたい一心で建物の入口へと駆け寄った。

「ちょっと、いきなり?そんな楽しみだったんだ、睡蓮。」

「え?睡蓮…?あぁ。いや、うん。まぁ…。」

妻にそう言われるまで、ここに睡蓮の絵があることなど全く知らなかった。そんな小さなことも覚えていてくれたことに驚くと共に、彼女の中に私の存在がしっかりと確認できたことが何より嬉しかった。

山に埋もれた室内は、所々天井から自然光が取り入れられる仕組みになっていて、壁に反射したそれらが柔らかな光を拡散させて薄ぼんやりとした空間を作り上げていた。

蓮池の飾られている部屋は土足禁止で、スリッパも用意されていたが、僕は靴下のまま中に入ってみた。ツルツルと丸い小石が敷き詰められた床の上を歩きながら部屋の中央まで進むと、三方を蓮池の絵で囲まれ、まるで地下の空間が池の底のように感じて、沈む直前に見た美しい景色を回想している水死体になった気分でいた。ゆっくりと腰を下ろして小石の床にそっと手で触れてみると、一粒一粒が水分を含んでいるかのように豊かな冷涼さで満たされていた。空間に反響する周りの人々の話し声や衣擦れの音が広がっていく度に、その輪郭が滲んで溶けて、もはや音の体を成していないところまで行き着いては消えていった。あぁきっと、水の中の沈黙はこうして作られていくのだろうと、そのまま一緒に沈黙に徹することで、自分の身体が水の輪郭に馴染んでいくのだろうと、そう思った。

「思ってたより、ずっと大きい。」

胡座をかいている僕の横に立って、妻はポツリと呟いた。半分口を開けたままぐるりと周囲を見渡すと、はーんと溜め息混じりの声を出してから、ストンとしゃがみ込んだ。

「あ、座るともっと大きい。」

「なんか、底まで沈んじゃったみたいじゃない?」

「池に?」

「池に。」

「うーん。…沈む前じゃない?」

そう言ったあと、妻は頬杖をついて首を傾げていた。

「前って?どういうこと?」

僕の質問に、妻は何も答えなかった。逆の意味をしばらく考えてみたものの、次第に目の前の蓮池に心が浸されていくようで、いつの間にか会話のことすら忘れていった。

滲んだようなこの絵画は、本当にただ睡蓮の浮かぶ池を切り取っただけなのだろうか。もっとなにか、心の奥底をざわつかせる仕掛けが施されているように思えてならない。しんと静まり返った明け方の空の下、耳を澄まさないと聴こえないくらいの小さな小さなメキメキという音を立てながら、誰にも気付かれずに花弁を広げる睡蓮の花々。朝露の粒に映る空の紺碧と花びらの桃色が逆さになって、それをひんやりとした風が撫でると、ぷるるっと震えて世界が歪む。自然光の下で柔らかく浮かび上がる三枚の睡蓮は、まるで昔、どこかで目撃したような、随分と前から知っていたような景色に思えて、このままずっとここに沈み込んでいたい気持ちにさせられた。深呼吸をして、あぁ、この感じはシャボン玉の中と同じだと気付いた。ここの空間は、僕を隔離して世界から浮かばせてくれる、あのシャボン玉と同じだ。

「もうちょっといる?」

妻の声で、パタッとシャボン玉が弾けて、僕は元の場所へと戻った。先程よりも人が増えたのか、空間に反響する声の輪郭は少しはっきりと聞こえてくるようだった。

「あ、いいよ大丈夫。行こ。」

立ち上がろうとしたとき、妻が右手を差し出してくれた。シャボン玉の外に出たはずなのに、まだ守られているような気がした。

 

美術館の中にあるカフェで軽食を取ったあと他の作品も見て回ったが、睡蓮の印象が強過ぎたのか、ほとんど風景を見ているような気持ちでいた。そのまま順路の通りに進み、天井が正方形にポッカリと空いている空間に足を踏み入れると、

「あ、ここだ!」

と妻は弾んだ声を上げ、小走りに壁際のベンチに腰掛けた。

「さっき行った南寺と同じ人の作品。」

嬉しそうに説明する妻に対して、僕は「へぁ」と間抜けな返事を返した。まだ日の高い時間なので、白藍に塗り潰された空が正方形いっぱいに広がっていた。ずっと見つめていると、次第に一枚の巨大な布のように思えて、輪郭も心無しか歪んで見えてくる。水の中から水面を見上げたら、このような感じなのだろうか。少なくとも、睡蓮の池は違うはずだ。睡蓮の葉や根の間から覗く空は、もっと濃い色のように思えた。

「ねぇ」

妻が上を見上げながら聞いてきたので、僕も上を見続けた。

「今さ、さっきの睡蓮のこと考えてたでしょ?」

「え、なんで?」

びっくりして横を見ると、悪戯っぽく笑いながら妻がこちらを見た。気に入った作品を一緒に見ていながら、心ここに在らずだったことを咎める様子が無かったことに少しホッとしつつ、こんな態度じゃ図星だと言っているようなものだと自分の対応力の無さを恥ずかしく思った。ここ数ヶ月の自分なら、こんな失態はしなかったはずだ。

「すごいね、そんな好きだったんだ、あれ。」

「いや、まぁ。うん。」

「私はここの方が好きかなぁ。あとちょっと、いてもいい?」

先程、妻が僕のことをどれくらい待っていてくれたのか分からなかったが、きっと自分が思っている以上に長い時間だったのだろう。今度は自分の番だと思い、そこから妻が立ち上がるまで、一時間近く一緒に空を見上げ続けた。

 

外に出ると、午後の光が薄暗さに慣れた目に突き刺さった。一瞬眉を顰めたあと、白んだ風景の色が徐々に濃さを増していく。

「結構ゆっくりしちゃったね。」

妻は嬉しそうにそう言うと、僕よりも少し前を歩き始めた。僕の知る限り、昨日も今日も薬を飲んでいないはずだ。南寺を出たあとは、多少波が荒れそうな気配があったものの、今は落ち着いているように見える。だからといって、無駄に活動的になっている様子もないので、もしかするともしかするかもと、ここに来てからの彼女の自己統制ぶりに、その先の希望を抱かずにはいられなかった。

「いいところだったね。来るまでの坂道は、ちょっときつかったけど。」

僕の返事にあははと大きく笑い声を上げ、妻はこちらを振り返った。春先の柔らかな光に照らされて、足並みに合わせて踊る髪が茶色に透かされる。ほとんど化粧っ気のない、そのままの色をした唇や、血色良く桃色に染まった頬。戻ってきている。僕の好きだった彼女が、戻り始めている。そう感じた瞬間、顔中の血液が外に飛び出していきそうになり、鏡で見なくてもわかるくらい紅潮しているであろう自分の頬が、嬉しさのあまり思い切り引き上がった。こうして笑い合える日がまた訪れるなんて思いもしていなかった。例え一時的だとしても、この瞬間が一度でもあるのなら、もうそれで十分だ。

再び前を向いて歩き出す彼女を追いかけて、手を繋ごうとしたその時、

「あれ?槙野?」

一瞬、通りすがりの人達の会話が耳に入っただけだと思っていたが、その声が自分に向けて発せられていることに気付いたとき、同時に聞き覚えのあるこの声の主を直視することに、とてつもない恐怖を覚えた。右片方だけ吊り上がった口角と、鈍色に浮かび上がる歯列、僕へと向けられた侮蔑の視線。思念体のように闇が蠢き始める薄暮の中、ポーズを取りながら、心の奥底ではずっと相手を白眼視していた事実を突きつけられて、全身を襲った自分自身への強烈な嫌悪は、今でもこの声を聴くだけで血管という血管を駆け巡る。あの日以来、その姿を背景としてしか見ていなかった自分に、穏やかな瀬戸内海の陽射しの下で、果たして拝顔することなど出来るのだろうか。そういう恐怖と同時に、折角の静謐な妻との時間をこれから崩されるであろう予感に、これ以上ないくらいの憎悪と怒りも感じていた。

恐る恐る、でも確実に敵意を滲ませながら、その人物のほうを睨みつけた。

「やっぱり!槙野!えー、こんなとこで!すっげぇ!」

誰なのか分からない、会ったことも見たこともない溌剌とした青年が、そこにはいた。同い年くらいだろうか。スポーツ刈りにした髪の毛は少し汗ばんでいて、揉み上げの辺りの毛束からは滴が垂れていた。Tシャツの袖から覗く健康的に焼けた腕は、僕の腕よりも太く、生命力に溢れていた。まるで久しぶりに出会した旧友を、驚きと共に見つめるようなその瞳は、周りの木々の青さを閉じ込めて煌めいていた。

誰なんだ?お前、誰なんだよ。声にならない意思が、歯の隙間からはぁはぁという息遣いと一緒に空気に溶けていく。酸欠状態の金魚のように口を開閉するしかなかったのは、どう考えても違うはずなのに、その声と、右側の口角だけが上がった特徴的な口元が、予想していた人物そのものだったからだ。

「覚えてる?俺、高校んときちょっとだけ絡んだことある…、あ、いや覚えてねぇか。ほんと、数ヶ月とかだったから。」

少し困りながらも、僕に会えて嬉しいという顔は崩さないまま、青年は僕の肩を軽く叩きながら言った。

「覚え、てるよ。…多田だろ?」

名前を口にした途端、目の前の多田は実在する者になった。胸骨を響かせる低音と耳障りにも思える上擦った高音とが混在する特徴的な声が、一言ひとことを発する度に、僕の気分はひやりとする沼のようなものに沈んでいくようだった。ついさっき見たばかりの睡蓮が、あの心落ち着く冷涼な空間が、全くの偽物だったということに気付いた。蓮池の底は、今まさに感じているような気分なんだろう。表面の美しさに別れを告げ、根元に潜む重く冷たい汚泥の中へ、恐怖で冷や汗をかきながら埋もれていくんだろう。

『うーん。…沈む前じゃない?』

妻の言葉が頭の中に響いた。僕はまだ沈み込んでいなかった、そして妻はそれに気付いていたのだろう。肺の中まで泥で満たされたみたいに、身体が重くて動けない。

「マジか…!覚えてんの?いやぁ、そっかぁ。なんか嬉しいなぁ。ははっ。」

本当に、本当に嬉しそうな顔をしている多田を見せられれば見せられるほど、僕の中で疑念は増殖し続けた。嘘なんだろ?本当はずっと僕のことを恨んで憎んで、ちっぽけな臆病者だって、嘲ってたんだろ?

「あ、えっと…こちら奥さん?」

そうだ、隣には妻がいたんだと、多田の言葉ではっと気付くと、蓮池の底から急浮上をしていくかのように、周りの空気が澄み始めた。あの時のように、僕は今一人で多田と対峙しているわけじゃない。そう思うと、少しずつ息を吐き出せるようになった。

「あ、あぁ。妻の、絵里。高校んときの、あー、クラスメイト…。多田ってゆう。」

クラスメイト、間違いではない。大丈夫。友達と言ったら、きっと多田はまた僕を軽蔑の目で見るはずだ。クラスメイトで、大丈夫。いつの間に握りしめていた両手からは、じんわりと汗が滲み出ていた。

「はじめまして奥さん。」

記憶の多田からは考えられないような爽やかな笑顔と差し出された右手に、妻は何も躊躇うことなく握り返していた。

「はじめまして。妻の絵里です。すごい、こんな所で再会なんて、ね?」

「ん?うん。」

「二人は旅行?」

煌めき続けている瞳を左右に動かしながら、多田は尋ねてきた。初春の透明な光を全て味方につけて、僕の奥底で蠢き続けていた薄黒い泥の塊を、サーチライトで照らすかのように見つめられると、思わず目を逸らさずにはいられなかった。左手薬指に、指輪は無かった。

「そうなんです。結構久しぶりに二人で。」

「へぇ!槙野、現代アートに興味あったんだ、意外だな。」

眺めていた左手が、再び僕の肩を叩いた。重さをずしりと感じる二回の衝撃に、少し体がよろけた。

「あ、私。私が直島行きたいって言ったんです。ね?」

よろけた僕をさり気なく支えるように、妻は僕の右腕に両手を添えてこちらを見た。きっと笑顔でいたのだろうけど、僕はまともに顔を合わせることが出来なかった。

「そっか。面白い作品、沢山あるでしょここ!俺も好きで何度も来てるんだけど、来る度に違って見えるんだよ、作品も風景も。」

「どこっ、どこに住んでるんだ?今….」

黙ったままでいるのも、多田にも妻にもおかしいと思われそうで、何とか質問をしてみたものの、思いの外喉に声が詰まってしまい、余計に動揺をしている感が強まってしまった。頭の中で吹き出していた汗が流れ始めて、首筋辺りが痒い。

「おう、今は岡山にいるんだよ!親父の地元でさ。高校中退した後、ばあちゃんとこに住み出して、それからずっと。」

僕に話し掛けられた嬉しさを全力で表情に出しながら、多田が躊躇いなく中退という単語を発したものだから、僕は思わず肩をビクつかせてしまった。

「今はフリースクールっつーの?色んな事情で学校行けない奴らが集まって、一緒にどこか出掛けたり絵描いたり歌唄ったりさ、そういうとこの手伝いみたいなのやってんだよ。」

「へぇ、なんかすごい。ね?」

「あぁ、うん。偉いな、そんな、すごいよ、…ほんと。」

きっと多田自身も、そういうところに通ったのだろう。そこでどんなことを経験したのか、どんなことを思って過ごしていたのか、このまま話が進んだら聞くことになってしまうんじゃないか?そう思うと、土踏まずの辺りがゆっくりと反り上がって、腹部の内臓がググッと上昇するのを感じた。僕のことを、どう思って過ごしていたのかを。

「いやいや、全然すごくないから!ちゃんと働いてるってわけでもないし。こうやってふらっと自分の好きなとこ行ったり、結構遊んで生きてるよ。やばいだろ?」

やばいだろ?と言いながら、多田の眉毛が一度上に上がり、その後右の口角がニヤリと動いた。体つきや見た目がどんなに変わっていても、やはり目の前にいるこの青年は紛れもなく多田だった。些細な言動の中にかつての多田の欠片を見つける度に、体中の空気が口の中から吐き出てきそうになる。

「なぁ、そうだ!このあと時間あったりする?この先にカフェあるんだよ。良かったらほら、色々話したりさ。」

色々?話す?何を?僕のことを?僕らのことを?僕がお前を可哀想な奴って思いながら、友達みたいな振りして一緒に下校してたことを?孤立してるクラスメイトにも声掛けたりしちゃう自分のことを、良い奴、偉い奴と思い込んで悦に入っていた卑劣で愚かで恥ずかしい僕のことを?

自分が今、どんな表情をしているのかも、どこを見ているのかも分からなかった。ただ、妻の手が触れている右腕以外、体の隅々まで重怠く冷え切った泥で満たされているのだけはわかった。池の底は、小石の床なんて比ではないくらい、こんなにも冷たいものなのだろうか。

「すげぇオシャレなとこだから、奥さんもきっと気に入ると思うよ。平日はまだそこまで混んでないし。な?一時間とかそんくらいでもいいしさ。せっかく会えたんだし。」

スポーツマンのようながっしりとした体格には似つかわしくない、小学生の男の子のようなはしゃぎ方をする多田は本心からそうなのか、それを訝ることすらも出来なかった。もはや多田の本心なんてどうでもよくて、とにかくもう二度と、関わりたくはなかった。

「あー、ごめんなさい。せっかくなんだけど、私達まだ見たいところがあって…。私が予定詰め込んじゃったから、結構余裕ない感じになっちゃってるんです。だから、本当せっかくなんだけど。ごめんなさい…。」

先程よりも妻の手が僕の腕を強く掴むと、そこからじわじわと澄んだ水が流れ込むように、泥の塊が滲んでいくのを感じた。僕の代わりに断ってくれたことに感謝しながらも、まだ体は動かせずにいた。

「いや、いやいや、謝んないでいいっすよ!俺こそごめん、突然。そうだよな、旅行だもん予定立ててるよな。いやなんか、ちょっと懐かしくて嬉しくてさ。思わず。ははっ!ごめんごめん!」

少し残念そうにしながらも、頭をぽりぽりと掻きながら、多田は笑いながら謝ってきた。傷付いている、絶対に。ダメージを最小限に抑える為に、以前の多田ならもっと卑屈な思考で回避していたはずなのに、今は笑顔で取り繕っていた。本当にこれは多田なのか?と、またしても僕は目の前の男が多田本人なのかを疑った。

「本当にごめんなさい。せっかくの再会を、私のせいで…。」

「奥さんのせいじゃないっすよ!全然!あ、じゃあ槙野、せめて連絡先!教えてくれよ、な?」

出来ればもう関わりたくない気持ちのほうが強かったが、このまま拒否してしまうのは三十代になった大人の対応としてどうなのかとも思ったし、ほんの少しだけ、妻に断られた時の多田が可哀想にも思えて、そのままお互いのメールアドレスを交換した。

「じゃあな!連絡する!」と満面の笑みと腹から響く声を僕にぶつけながら多田は坂道を下っていった。徐々に小さくなっていく多田の後ろ姿を見送りながら、随分と浅い呼吸をしていたことに気付いた。ゆっくりと鼻から大きく息を吸うと、先程の睡蓮の空間が目の奥に広がり始めた。ゆっくりと、シャボン玉が膨らんでいく。

「ごめんね、話したかった?多田さんと。」

妻は心配そうに僕の顔を覗き込むと、更にぎゅっと僕の腕を掴んだ。

「いや…。だって旅行に来てんだし。本当、ちょっと絡んだことあるくらいの奴だったから、そんな大して、なんか、話すこともないってゆうか…。」

曖昧な言い訳をしながら、また歩き出そうと右足を前に出してみると、また体がよろけた。わっと小さく声を出した後、すぐに体勢を整えて、今度は普通に歩き始めることが出来た。ひんやりとしたあの泥の塊達は、いつの間にかどこかに消えていた。

「そ?なら、良かった。」

今度は右手をぎゅっと握ると、妻も再び横に並んで歩き出した。中指の先が少し震えているように感じたが、僕が握り返すと、震えは収まった。

「なんか、芳くんのお友達に対してこんなこと言うの申し訳ないんだけどね。私、あの人ちょっと苦手、かも…。」

俯き加減に発せられた妻の発言に、思わず足を止めた。

「え、そうなの?」

「うん、なんか…。怖いってゆうか。」

妻の手が力強くなっていくのを上回るように、僕も強く強く握り返した。

「嘘っぽい感じがした、全部。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜明けとほぼ同時に目が覚めた。

昨日は結局、多田と別れたあと二人でそのままホテルへと戻り、地下のラウンジで夕飯までの時間を潰した。お互い特に会話をするわけでもなく、珈琲を飲みながら風に揺れる不思議なオブジェをぼぅっと眺めて、僕は妻の言う多田の嘘っぽさについて考えていた。

過去の多田を知らない妻が、現在の多田の取り繕った(ように僕には思えた)見た目や言動を感覚的に見抜いていたのだとしたら、当然僕の動揺についても見抜いていたのだろう。多田の嘘っぽさは、即ち僕と彼の関係性の歪さに繋がる。いじめっ子といじめられっ子だったり、親友だったのに絶交した過去があったり、様々な可能性が妻の中に渦巻いたのだとして、そのどれも勝手に想像してくれて構わなかった。ただ、真実には辿り着いていませんようにと、それだけを願った。友達ごっこの標的と、無意識の残酷な偽善者。その関係には、絶対に気付いてほしくなかった。気付かないのであれば、僕が多田に昔いじめられていたとか、そういった誤解を抱いてくれて結構だとさえ思った。多田をどう見たのか、どう感じたのか。嘘っぽいと感じたのはどんなところが?聞きたい気持ちよりも、恐怖の方が数倍も勝った。

妻はそのまま何も言わず、僕に何も聞かず、夕飯の時間になると「そろそろ行く?」と聞いて席を立った。微笑みかけてくれることが、僕を余計に惨めにさせた。

夕焼けを逆回転させているかのように、暗闇が色付き始める。何も乗り越えられていないはずなのに、また新しい一日にリセットされていくようで、昨日起きた色々が夢の中の出来事のように思えてきた。窓を細く開けて外の空気が部屋の中に糸のように入り込むと、そのまま僕の周りを取り囲み、透明な繭を作っていく。次第にそれは水のように潤いを持ち始め、いつものシャボン玉になった。大丈夫。僕は、今日も大丈夫。

「ちょっと寒いね。」

ベッドの中でもぞもぞと動いている塊から声がした。そのままゆっくりとベッドに近付いていき、バッと掛け布団を剥いだ。きゃーっという叫びと同時にケラケラと笑い声が溢れ出る。横に寝転んで脇腹をくすぐると、更に笑い声は大きくなった。お互いにふざけ合って笑顔を重ねることが、ここからまた増えていくはずだ。そんな予感が頭を満たしていくのに、何故か喜びがひたひたのぬるま湯に溶け出ていく気がした。薄まった嬉しいという感情は、そこから波に乗って地平線を目指して流れて消えた。

「ごめん、起こしちゃった。」

しばらくくすぐりあったあと、ボサボサになった妻の髪の毛を撫でながら、そっと抱きしめた。

「ううん、私、芳くん起きる前から起きてたよ。」

「え、そうなの?」

なんか眠れなくてねと言う彼女の表情には、これからダウンサイドに向かう時の薄い影のようなものが見えていた。僕のせいだろうか。せっかく順調に進んでいるように思えていたのに、また振り出しに戻ってしまうのだろうか。だがもしそうなったら、また一から彼女を支えていけぱいい。やはりこんな旅行一つでは、そう簡単に心の状態は元に戻らないんだ。でも僕がしっかり傍にいてあげれば、それで二人のバランスが取れるなら、そうすればいいだけだ。また彼女の力になれるよう、彼女のことだけを思って行動しよう。この数日で少し弛み過ぎた自分自身を改めよう。そう思い始めると、ぬるま湯は足元から引いていき、もう一度自分のあらゆる感情が帰ってくるのを感じた。

「もう一回、寝る?」

聞いた時には、既に妻はベッドから下りていた。

「ううん、いい。それよりちょっと外行かない?朝のお散歩、滅多に出来ないでしょ?今日帰っちゃうんだし。」

こういう時はいつも、眠ることでしかリセットの方法が無かった妻からの意外な提案に、思わずまごついてしまった。気持ちを引きずったまま、眠る以外の行動を取ろうとする彼女は、やはり少しずつ快復の方向へと進んでいるのだと感じた。振り出しに戻ることなく、彼女は彼女らしさを取り戻し始めている。何気なく笑い合ったり、揺れ動く感情を上手くコントロールしながら、着実に日常の欠片を拾い集めている。その行き着く先に、また今までの穏やかな毎日が待っているはずだ。二人だけの静かで変わり映えの無い、待ち望んでいた日々がまた、戻ってくるはずだ。美しい予感がじわじわと湧き上がる。嬉しい、きっと。多分。恐らく。

「もう一回、寝ようよ。」

感情と裏腹な言葉が小さく口を付き、再びぬるま湯が僕を飲み込んでそのまま左目から滴が零れ落ちた。

妻に声は届かなかった。ゆっくりと体を起こし涙を拭くと、僕は着替えの支度を始めた。

 

大気中のぬくもりは身を潜めたまま、放出する機会を伺っている。海風が吹く度に軽く身震いをしながら、前を歩く妻の後ろ姿を追っていた。腕を組み、少し首を竦めながら、一歩一歩前に蹴り上げるような動きでフラフラと歩いている。靴のつま先に付いていた細かな砂が一粒ずつパラパラと舞い上がり、少しゆっくりと地上に戻っていく。目を凝らすと、それぞれの色や形、大きさが異なっていて、じっと見つめているとそれぞれの主張がとても煩い気がして、自然と眉間に皺を寄せてしまった。僅かに残る妻の足跡をわざと避けながら歩いてみると、やじろべえのように上半身を左右に振られる。いつかどちらかに倒れるのなら、砂の上より海がいい。

「やっぱりちょっと、寒いね。」

後ろを振り向かずに、妻が言った。僕は何も答えなかった。うん、海がいい。

「あ、何この石。」

突然、妻が立ち止まりしゃがみ込んだ。後ろから覗いてみると、桜色をした小さな石を指で摘んでしげしげと眺めていた。そのまま妻の後ろに腰を下ろし、海の方を見た。遠くから聞こえるザザァという波の音は、すぐ足元ではちゃぷちゃぷと楽しげな音に変わっていた。あっちが海で、こっちは水なんだ。近付けば近付くほど、小さなもの達はその細部を明らかにしていく。木を隠すなら森の中、とはよく言ったもので、集合体の一部として紛れ込んだときの安堵感は、僕が一番好きな感覚だ。剥き出しの個性なんて必要ない。他人にも自分にも、振り回されるのではなく流れに沿いたい。やっぱり、海がいい。

「少しさ、お話してもいい?」

妻はまだ石を見つめていた。丸まった背中と、肩に掛かる緩くうねった髪の毛を見つめながら、また僕は何も答えなかった。

「寒いねって言ったばっかだけど。」

海の方へと体を向き直し、少し鼻に掛かった笑い声を混ぜながら妻は言った。

「冬の間の…多分、芳くんに一番迷惑掛けちゃってたときのお話。」

「うん。」

僕は、海がいい。

「私が自分をコントロールできないときってね、九割の力が感情のほうに向かってるんだけど、一割だけ冷静でいられるところがあるの。その冷静な自分は、ただ暴走する残りの自分を見つめているだけで何もしてはくれなくて、手のつけようがない自分に対して、醜いなとか、そんなに怒ること?とか、ちょっと落ち着けばいいのにとか、そういう感想を独り言みたいにブツブツ言ってるの。その私に気づいてしまうとね、九割の感情的な私はもっとヒートアップしていっちゃう。お前なんで他人事なんだよ?!お前も私だろ!!わかったようなこと言ってんなら止めろよ!って、思っちゃうわけ。でもそんなの実際に目の前にいるわけじゃないから、言葉にしてぶつけることも出来なくて。芳くんを叩いたりしてしまうのはそういうこと。あ、別にだから許してねとか、そういうんじゃないから。」

薄らと隆起する波の形を見つめていると、海面と大気との隙間がまるで無いことに気付く。水の中で動こうとすると、自分の皮膚にまとわりつく海水を感じることができるけど、普段の生活の中で大気の動きに意識を向けることはほとんどない。風が吹いたときや、素早く腕を動したときに「そういえば周りに空気があったんだ」と気付ける。ただじっとその場にいるだけで、ほんの少しの隙間すらもない、もっと言えば身体の中、肺の奥の奥まで空気で満たされて生きている。深呼吸をして、たっぷりと息を吸い込みながら、隙間なく鼻腔を塞いで気道を目一杯押し広げて肺の中に侵入してくる空気の塊を想像すると、地上にいるのに溺れているような気分になってくる。息苦しくて、今すぐに全て外に出してしまいたくなる。

「昔はもっと自分のこと、ちゃんとコントロールできてたような気がするの。昔、って言っても、もうものすごい昔。小学生とかそれくらい。あの頃ってまだ本当に子供で、人生経験なんて呼べるほどのものも何もない状態だったのに、何だか今よりもずっと大人びてて、てゆうか、大人に近づこうとしてたのかな。もっと相手の顔色とかちゃんと見れてたような気がする。あ、こういうこと言っちゃうと傷ついちゃうかなとか、先生は多分私にこうして欲しいんだろうなとか。学校って、周りに合わせないと生きていけないじゃない?私は特にこれといった主張なんていつも無かったし、皆が仲良くしてて、私もその中で楽しく笑ってられればそれで良かったから。なるべく空気読みながら、私の周りが平穏無事でいられるようにしてきたの。でも多分、その時から自分の中のフラストレーション?はあったんだと思う。自分の中の思いとか通したい気持ちとかが、段々と出てくるようになってきちゃって。そうやって、年取る毎にそれがどんどん出来なくなっていく感覚はあったんだけど、まだ他の人に比べたらきちんと抑制できてたと思う。それが一気に、なんか、こう…。あの子がね、死んだあとから一気に…。」

空気に襲われて苦しんでいる僕は、妻の告白を半ば上の空で聞いていた。息がしっかりとできるように少しずつシャボン玉が膨らんでいくのを想像して、やっと僕の上半身を包み込むくらいの大きさになってきた頃、妻の言葉の端々がシャボン玉の壁を通り抜けて入ってきた。見えない空気というものを読みながら、調和を保つことだけを考えて生きてきた僕にとって、その告白は僕自身を守りぬくシャボン玉と共鳴し合って、難なく侵入をすることができた。彼女と少しずつ同化し始めている。僕は思わず靴を脱ぎ捨て、素足をゆっくりと海の中に入れてみた。熱を奪い去っていく海水に身震いをしながら、妻と僕と海とがじわじわと溶け合っていくのを感じた。

「あの子が死んだって聞いたとき、私ちょっとホッとしたの。どんなに頑張っても叶わないことがあるって、すごく辛いことでしょう?そのまま生きていくには、あの子は弱すぎたのよ。」

風が吹くと、まだ少し肌寒い。しかし、頭上では燦々と降り注ぐ太陽が、僕らと世界を暖めながら、彼女の言葉にも光を落とし始めた。

「きっと救われたんじゃないかなって。いつも辛そうで苦しそうで、その原因は何なのかはその時分からなかったけど、私に懐いてくれていたから、少しでも楽しい世界を教えてあげられたらなって思ってた。沢山色んな話もしたし、飲みに行ったり遊びに行ったり、何かあると必ずってくらい誘ってたし、それにいつも着いてきてくれて、私ちょっとでも出来ること、あの子に対して出来ることしてるって思ってたの。でもなかなか淋しそうな顔が無くなることもなくって、やっぱり私じゃ無理なのかなって。だから、ホッとしたの。死んだって聞いて、ホッとしたの私。」

気付くと海は凪いでいた。光を浴び続けて、その表面から少しずつ水蒸気が立ち昇っていく小さな音さえも聞こえそうなくらい、静かに、そこに佇んでいた。この海の中には、何兆億個体という生物が日々の生活を営んでいて、休まることのないその慌ただしさを思うと、この静寂は海にとってとても貴重な時間のように思えて、なるべく波を立てないように、ゆっくりと浸していた足を抜き取った。ひやりとした空気が濡れた肌を走り去った後、太陽は世界と一緒に僕の足も炙り始めた。

「そしたらね、あの子のお葬式のあと、多分一週間くらいあとかな、ノートが一冊届いたの。普通のやつね、あの、何だっけ、あ、大学ノートか。表紙に何にも書いてないし、何なんだろうって思って開いてみたら、日記だった。字を見てすぐあの子のだってわかったの、いつも右上がりのおかしな字だったから。死ぬ前の数ヶ月分くらいのものだったんだけど、会社でね、色々あったみたいで。あの子自身のことで周りから嫌なことされたりしたみたいで居づらくなって辞めたみたいなの。なんか、多分セクシャルなこと?あの日記だけだとよくわからないってゆうか、勝手に推測しちゃいけないような感じなのかなって。でもとにかく、あの子にとっては死活問題で、それを助けてくれるような人もいなかったみたいで。…あとはいつもみたいに、お母さんについて書かれていたりもして。最初は、あの子の恋愛観だとかそういうのに気持ちを着いていかせるのに必死で、読み進めていくにつれて、何であの子がこんなに苦しい思いしなきゃいけないんだろうって、周りにいた人たちに対しての怒りとか、自分が救ってあげられなかった悔しさとか、本当色々な感情が湧き上がってたんだけど。最後の方のね、数週間くらいで私のことが書かれてて。…私に、会いたいって。会いたいって書いてあるのにね、恨むよって、一緒に書いてあった。」

ちりちりと焼け焦げる音が足の皮膚から聞こえてきそうなくらい、朝日は力強くなっていた。生ぬるさが骨の辺りまで染み込んできた頃、僕はまた、今朝のぬるま湯を思い出して軽く身震いした。僕の感じる幸福と、今まで当たり前のように感じていた幸福が乖離し始めているような気がした。いつの間にかこの数ヶ月が日常に成り代わって、僕自身、元に戻ることを拒んでいる。考えてみると、妻と一緒にいる時間は以前よりも増えているし、僕の思考を彼女が占める割合は格段にその裾野を広げている。穏やかさのない瞬間ももちろんあるけれど、受け流す術を身に着け始めた今、それは大した問題には思えなかった。むしろ、この島に来てから感じる彼女の快復の兆しにこそ、圧倒的な逃れられない恐怖が潜んでいるように思えた。妻が変わっていくのと同様に、僕もそれに合わせて自らを変化させていったのだろう。或いは元々、こういう人間だったのかもしれない。周りとの調和を維持することに必死だったのも、多田と言葉を交わそうとしたのも、僕はずっと心の奥底で、誰かに必要とされたいと、誰かが自分を求めてくれるようにと強く強く願っていたからだ。昨日、南寺の暗闇で考えていたことは、まさしく僕そのものだった。人から認められて、求められて、自分の存在を確かなものにしたかった。あの時の多田と何も変わらない。僕もあいつも、他人からの承認だけを絶対視して、自分が何者なのかを決定付けようとしていた。ただそれだけだった。

そして今、僕は妻の求め無しでは生きていけないほどにまでなっている。今更になってわかったことじゃない。気づかないふりをしていただけだ。

僕は妻に、このままでいてほしい。

「私、すごい愚かな考えしてたんだなって。…ほんと、愚かって言い方がすっごくしっくりくる。救われたかなとか、楽しい世界を教えてあげられたらとか、お前何様のつもりだよ!って、ほんと、そんな感じ。あの子の苦しみなんて、私が想像できる範囲のものでは全然なかったし、そこに中途半端に手を出した私は、結果的にあの子の全部をむき出しにさせたまま、無責任に放置した。日記を読んで、あの子をどんどん飲み込んでいって、それが私の中で爆発しちゃったの。全部飛び散っちゃって、そのあと、私も空っぽになっちゃった。それでも、苦しい悲しい消えたいムカつく悔しい悲しい消えたいって、何度も何度も同じような感情が空っぽの私を通り抜けていくの。もう私は受け入れて抱きしめてあげることはできないのに、それが分かってないのよ、みんな。ずっとぐるぐる私のなかを通り抜けていくの。もうやめて!って叫んでも、気にしないようにしようとしても、みんな私の中に入り込もうと襲ってくる。このまま私、感情に襲われ続けながら、空っぽで生きていくことになるのかなって思ったら怖くなってきて、何でこんなこと最後の最期でやりやがったんだろうって、そこからはもう憎むことしかできなくて、でも憎み過ぎてどんどん自分が嫌な奴に思えてきて、もしかしたらあの子も内心私のことを嫌っていたのかもしれない、心の底から大嫌いで死んでほしいって思っていたから、こんなことしたのかなって。で、そう…気付いたら、家の鍵の開け方が分からなくなってたの。」

上空をウミネコが一羽、右往左往しながらおかしな軌道を描いて飛び続けていた。悠々と見えるその動きは、きっと間近で見たら想像を超えた速さなのだろう。距離が遠い物体ほど遅く見えるし、近いものほど素早く見える。一番近くにいたはずの妻の変化が、僕には見えていなかったのかもしれない。或いはもっと近い、僕自身の変化については更に見落としているのかもしれない。

「ただ挿して回すだけなのに、どうしてもね、できなかったの。直前まではわかってるの、どうやって開けるのかもどの鍵を使うのかも。でも、いざドアの前に立つとね、駄目なの。このドアはどうしたら開くのかな?って考えてると、そもそもこのドアはどこに通じるドアなの?とか、この中に入って私、何をするつもりなの?とかどんどん考えちゃって。…そのうち思い出すの。あぁ、このドアの向こうには私の日常が待ってるんだ、そこに…あの子も。あの子のあのノートも、あるんだ、って。そうすると、もう鍵の開け方なんて思い出すつもりもなくなって、絶対この家に独りで入っちゃ駄目だってゆう気持ちだけが一杯になって。…だからね、芳くんを待ってたの。来てくれるの、待ってたの。」

妻の言う「芳くん」が、僕は好きだ。彼女だけが使う僕の愛称が鼓膜を震わせるとき、目に見える色とりどりの映像がより鮮明になって僕に覆い被さってくる。世界のパレットの一部になった僕は、自分が何色なのかは分からないまま、しかし確実にそこにいることだけは実感できて、心底安心した。それは存在の再確認というよりも、新たな自分の創造に近かった。

多田や、もしかすると佐竹も、この感覚と一緒のものを持っていたわけではないように思う。あいつらは自分自身を認めてくれる誰かを欲していた。自分という存在を細かく噛み砕いて、欠片の一つひとつに好き嫌いをつけながらも、その全てを否定せずに受け入れてくれる誰かを求めていたんじゃないかと思う。彼らの中にある【本当の私】を。

ふっと、意地の悪い笑みが零れる。二人とも馬鹿だ。本当の私なんているわけないのに。むしろ、何かを取り繕ったり、外界から見られている自分だって【私自身】だ。全てが【本当の私】の一部に過ぎない。それに気付かずに他人に責任の所在を押し付けて、いるはずのない自分探しに必死になっている。周囲の人間にとっては、はた迷惑な話だ。だから僕は、自分を再構築する。周りの空気に馴染んでいく自分を、その場その場で作り上げては壊しての繰り返しだ。そして、もうそのトリガーは彼女の言葉以外には有り得なくなった。芳くん、芳くんと、彼女が僕を呼ぶたびに、僕は世界の一部になれる。そしてその世界は、彼女の世界そのものでもあった。僕だけがそこに触れられる独占的な感覚に酔いしれて、僕は僕自身を亡くしてしまっているのかもしれない。しかし、それでいい。それこそが僕の存在を確かなものにしてくれるのだ。僕の中にいる僕を押し殺すことで、僕という人間は成立するのだ。だから、もっと求めてほしかった。このままずっと、求め続けてくれればそれでよかった。

「芳くんはさ、優しいから、きっと本当に本当に沢山我慢してくれてたと思う。頼り過ぎちゃいけないよな、甘え過ぎてそのうち愛想尽かされるんじゃないかなって、いつも考えてた。でもなかなか私、一人でどうにかすることできなくて。一度だけ、芳くんすごく怒ったときあったでしょ?まだ私がちゃんと病院行く前くらい。あの時ね、心底思ったの。私は本当にこのままだと独りになっちゃうって。それで、きっとこれはあの子の呪いだって。あの子が私から芳くんを引き離す為にかけた呪いだって、思ったの。それが何だか許せなかったし、私のせいで芳くんが辛い思いをするのも嫌だった。だからどうにかして、私は私を元に戻さないといけなかったの。」

海水でべたついた足を何となくさすりながら、僕は妻の言葉がシャボン玉の中に入ることができなくなっていることに気付いた。僕がいつ辛い思いをしたのだろう。頼り過ぎだなんてことはないし、彼女に愛想を尽かすなんてことは一生ないと断言できる。むしろ僕は、もっと望んでいる。お互いに忘れてしまった色々を抹消して、今はただ、僕を見つめて求めてくれれば、それでいい。後ろを振り向いて、僕の方へと歩み寄ってくれれば、それでいい。前に進んでいく後ろ姿なんて、見たくない。

「随分時間掛かっちゃってるんだけどね。本当、…ごめん、ね。芳くんはどんどん私に優しくなっていくし、その度に甘えそうになっちゃうんだけど、それじゃ意味ないから。自分を変えていかないと、何も意味ないから。何とかしようしようって、焦ってばっかで余計に八つ当たりが酷くなったりもしちゃって、薬も飲み忘れて振り出しに戻っちゃったりとか、そのせいで私本当駄目な人間なんだなぁって落ち込んだり。振り回されてる周りの人達のこと、何も考えられないくらい自分で精一杯で、そんな自分に更に自己嫌悪感じて。」

その辛い記憶を中和するのは、彼女自身ではない。僕だ。僕しかいない。自分でどうにかなんてする必要はない。僕がいる。僕の存在は、その為のものなのだから。一人でどうにかしようとなんて、しないでほしい。

言いたいことは溢れてくるのに、喉が首筋に貼り付いてしまったかのように、声帯はビクとも震えなかった。

「でもね、この何ヶ月か調子が良いの。ちょっとね、安定してるの。…実は薬ね、ほとんど飲んでないの。また戻っちゃうんじゃないかって不安にもなったんだけど、何か飲まなくても大丈夫な気がして。そしたらね、本当に波が小さいの。薬が効いてるときみたいな、平坦で、生きてるんだか死んでるんだかわからないようなフラットな状態じゃなくて、波はあるけど激しくないの。それが段々普通になってきてね。多分芳くんも、ちょっと感じてたんじゃないかなって思うんだけど…。どう、かな?」

妻の言葉に、頷くことしか出来なかった。確かに、以前に比べたら、彼女の言動に激情を感じることは少なくなっていた。そしてそのことに、喜びよりも焦りを感じることのほうが多かった。ここに来てからは、それが顕著に現れ始めているし、僕はもう自分の気持ちを隠すつもりもなかった。僕は妻の現状を、快復していくことへの恐怖を感じている。そこに僕自身を見つけられないからだ。

「よかった…。少しずつね、できることが多くなっていってるの。ベランダにずっと出たままで枯れちゃったパキラとか、せっかく植えたのに水あげなくなっちゃった朝顔とか、見るとね、ちゃんと可哀想って思えるようになったし、私自身を責め立てる道具にはならなくなってきたの。部屋の片付けも、随分長いこと芳くんに任せたまんまだったけど、一日ひとつ、何か元の場所に戻そうって、それができたらよしって自分に言ってあげるようにしたりして。先生のアドバイスなんていつも上の空で聞いてたけど、私を元に戻すためにやらなきゃいけないこと、沢山教えてくれてたんだなって、やっと気づいたの。」

妻が話を進めるごとに、声のトーンが上がっていくのがわかった。それは興奮とも違った、心の底から喜びに弾んでいる音の塊だった。僕の支え無しに、一人立ち上がろうとしている彼女の姿は、皮膚の奥底に潜む禁秘の部分すら透かそうとするほど、柔らかく力強い黄金色の朝日に照らされて輝いていた。同時に、僕の存在は次第に世界のパレットから垂れ落ちて、色を無くしながらその影をより濃く落とし始めていた。

「そしたらね、まだ早すぎるかなって思ったんだけど、どこか遠くに行ってみたくなって。どこが一番いいのかなって考えてたら、急にあの子の日記をもう一度開いてみようって気になったの。自殺行為みたいなものでしょ?私にしたら。でも、何かもう大丈夫だなって思えて、ちょっと開いてみたの。そしたらね、ちょうどここのことが書いてあるページだったの。タレルの、あの空が開いてるやつのことが書いてあった。多分あそこに書かれてたのは、私のことだったのかなって、すごく冷静に考えられたりして。全然襲われることもなかったの。それでちょっと安心して、そしたら、今私がこれを見たらどんな色に見えるのかなって、実際に行ってみたくなったの。」

遠かった。妻の姿は、最早僕の目の前には存在していなかった。既にここに来るまでに、彼女の中に大きな変化が起こっていたと知って愕然とした。いや、その変化に対して、僕自身が反比例の姿勢を強めていったに過ぎないのかもしれない。そうなると、【普通】じゃなくなっているのは、僕と彼女のどちらなのだろう。

何度も何度もシャボン玉を大きくしようと頑張ってみても、彼女の言葉が次々にぶつかって、その膜を破いていった。やめてくれ。お願いだから、壊さないで。

「部屋に入った瞬間、私あんなに優しい青空って見たことなくてびっくりした。芳くんも見たでしょ?透明な水色だったよね。私、あの空が見ている間にも少しずつ表情を変えてくのが面白くて。あの子は少し悲観的ってゆうか、本人的にはポジティブだったのかもしれないけど、ちょっと感傷的なこと書いてたのね。私にもそういうふうに見えちゃったらどうしようて、ちょっと不安だったの。でも違った。私には確かに、水色に見えたの。ちゃんと色があって、私はそれを誰かにしっかりと伝えられるって思えたの。見えるものや聞こえるもの全部、共有して喜んで分かち合えるんだって。今まではそれが芳くん一人に行っちゃって、負担になっちゃってた部分もあったと思うんだけど…。私この先、誰か一人に頼りっきりで生きていくような、弱い人間のままではいたくなかったの。もっと強くなって、今まで芳くんにもたれかかってた分も、誰かを支えられるくらいの強さに変えていきたいの。今ね、私それ、できる気がしてるの。強くならなきゃいけないんじゃくて、強くなりたいの。守れるようになりたいの。それは芳くんのことももちろんなんだけど。あの、もっと別の。その…。」

何となく分かっていた。気付かない振りをしていたのは、何も自分についてのことだけじゃない。このところの彼女の気持ちの変化の中には、僕以外の気配があった。僕だけが彼女に影響できるはずだったのに、二人の不可侵な聖域に堂々と割り込めるほどの大きな存在が、そこにはあった。

彼女が快方に向かう理由は、僕であってほしかった。僕が彼女を救うという構図は、崩れてはいけなかった。そうやって少しずつ、池の奥底、ひやりと佇む泥の中へと彼女を引きずり込んでいたのは、紛れもなく僕自身だったのだ。

そしてそこから、彼女は引き上げられようとしている。僕以外の大きな、僕と彼女の間にいる、大きな。

「子供、できたの。」

妻はすでに泣いていた。まるで自分が子供のように、これから母親になっていく自分への戸惑いと、それでも前に進むしかない現状を恨むように、喜ぶように、泣いていた。その顔が、僕の見たことのない表情で、困ったような、無垢で健気で、感情がふつふつと奥から湧き上がってくるような、野性的で原始的な、美しい女性本来の姿をしていた。

僕の愛した人は、こんなにも強かっただろうか。もっと脆く、僕の支えなしではその姿を保てないくらい、弱く可憐で、刹那的な少女性を持った人ではなかっただろうか。

しかし今、目の前の女性は、とても涼やかな眼をしている。戸惑いの中でも光を見失わず、僕の先、もっとずっと先にある未来を見据えて泣いている。彼女と正面から向かい合ったのはいつぶりだろう。思い出せないほど、僕らはお互いの存在を認めようとしていなかったのかもしれない。

一つの記号の中に、膨大な意味を内包するその姿が、その表情が、僕の中の全てを揺さぶって、ほぼ無意識に涙を流しながら、その体をきつく抱きしめていた。新しく膨らみ始めていたシャボン玉は、跡形もなく弾け飛んで消えてしまった。愛おしさと、僕だけが置いてきぼりを食らってしまう恐怖心とで、僕の脳は溶け出しそうだった。

「あなたと、私の。子供。」

震える声でそう呟いたあと、僕の髪に優しく滑らせるその手からは、最早今までの彼女の面影は感じられなかった。それはもう、母性という名の大きな膜の中から取り出した愛情のひとつに過ぎず、決して僕だけに向けられたものではなかった。密かに願い続けていた、何の変哲もない、穏やかで静謐な二人の日常。二人だけの日常。それはもう、願ったその瞬間から永遠に叶わないものだったことを、その現実を、容赦なく目の前に突き付けられた。

溶け出した脳は熱さを増して、身体中を駆け巡る。圧倒的な孤独と恐怖を、指先まで到達した思考の潮の疼きによって、これでもかという程に思い知っていく。行かないで。傍に居て。僕のことだけを見ていて。僕をちゃんと愛し続けて。こんなにもこんなにも、求めているのだから。あんなにもあんなにも、求めてきてくれたのだから。行かないで。行かないで。置いて、行かないで。

 

情けないくらい何度も心で叫びながら、まだ見ぬ新しい生命とその母体が、自分と溶け合って消えてなくなるように、何度も何度も祈りながら、力の限り抱き締め続けた。

 

海は凪を崩さず、僕らを他人事のように見つめていた。

 

 

(了)

2021年11月24日公開

© 2021 夏八木秋成

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