「犯人はあなたですね、海野靖子さん」
八つ橋警部の人差し指が靖子の顔を捉える。靖子の隣に立つ旅館の女将が「えっ」と小さな声を上げて後ずさった。
「あなたが殺したの?」
靖子は涼しげな眼で女将を一瞥したあと、八つ橋警部に向けて言った。
「なぜ私が犯人だと思うの?」
八つ橋警部はじっと靖子を見据える。そして両手を上げて大げさな動作でトレンチコートの襟もとを直した。
「それは、あなたが……」
八つ橋警部が靖子が犯人足る理由を説明しようとしたとき、靖子は脱兎のごとく駆け出した。
「え? なんで? ちょっ、ちょっと待ってくれ!」
靖子は待たない。靖子は客室を出て玄関まで走って行くと、スリッパを乱暴に脱いで誰ものか分からない靴を履いて旅館を飛び出す。八つ橋警部も急いで靖子を追いかけた。
「ちょっ、ちょ待てよ、推理の途中で逃げ出すのはルール違反だ!」
それでも靖子は待たない。靖子は走りながら腕時計に目を向ける。今は逃げなくてはならないのだ。
温泉街を駆け抜けること数分、靖子の視界から建物がなくなり潮の匂いが鼻腔をくすぐった。靖子は立ち止まり辺りを見渡す。足元から伸びる岩畳の先に海が見えた。靖子は幾つもの切り立った石畳から、水平線に向け長く伸びた石畳に目標を定めまた駆け出す。後ろから八つ橋警部の叫び声が聞こえるが、振り返ることなく突端に向けて走り続けた。
突端まで来ると靖子はようやく立ち止まり振り返った。石畳の根元で息の上がった八つ橋警部が、両膝に手を付いて呼吸を整えている。八つ橋警部の隣りにはなぜか靖子の母親もいる。どこかで合流したようだ。
「やっちゃん、危ないからこっちに来ましょ!」
靖子の母親がそう叫んだ。靖子の立っている場所は断崖絶壁だ。時折大きな波が岩壁に当たり、今にも岩畳を崩してしまうのではないかと錯覚する。もう逃げる場所などない。
「どうして逃げるんだ。推理を聞かずに逃げ出すなんて前代未聞だ、マナー違反だ!」
呼吸の戻った八つ橋警部が靖子に向けて叫んだ。
「それは……」
靖子は腕時計に目をやる。
「こんなところに逃げてどうすんだ! 逃げ果せるわけがないだろ!」
波の音が静まり海鳥の声が聞こえる。絶好のシチュエーションだ。
「私がここまで逃げてきた理由は……」
「理由は何だ? 俺の推理も聞かず、こんなところまで逃げてきた理由はなんなんだ!」
八つ橋警部のネクタイが海風に吹かれはためく。
「それは……」
ひと呼吸おいて靖子が言葉を繋げた。
「それは、最後の一〇分だからよ。火曜サスペンス劇場の最後の一〇分だからなの!」
そう叫ぶと靖子は東尋坊から身を投げた。
(了)
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