川辺の人
Tに捧ぐ
古ぼけた家が立ち並ぶ川沿いに女の家はあった。トタンの屋根の家で、扉は鉄でできていたが、錆びて赤茶けていた。女は独りでその家に住んでいた。僕とその女──英子(えいこ)さん──が知り合ったのは、真夏の花火大会が開かれた夜のことだった。
僕は、遠くで打ち上げられる花火を見るために、その夜、その川に来たのだった。川に架かっている橋には、──橋が高いところに架かってあったせいだろう──大勢の花火見物客で溢れていた。僕は人混みが嫌いだったから、土手を下りて河原でひとり小さな花火を遠くに見ていた。
ふと気づくと女がサンダルをつっかけてこちらにやってきた。その女が英子さんだった。歳は三十ほどであろうか、と僕は最初に見たときに思った。だとすれば、僕の七つ上と云うことになる。
英子さんは袖なしのベージュのワンピースを着ていた。長い髪は後ろで一つに束ねられていた。英子さんは僕の方に近づいてきたと云うよりも川に来たかったようだった。その証拠に僕の横を素通りして、河原を川の方に進み、川に手を浸した。花火で照らされた横顔は幼げでどこかに女らしさもある、そんなところが、僕の目には妙に垢抜けない女の艶やかさが新鮮だった。僕は──今だからこう言えるが──夏の虫が炎に惹きつけられるように、英子の容貌やその川の水に手を浸す仕草──腰を屈めた時に見えた膝に目を惹きつけられた。花火が遠くでパァンと鳴った。その音に背中を押されるように、僕は思わず「もし──」と話しかけてしまった。
女はすくっと立ち上がって振り向いた。
「え?」
僕は動揺した。それだけ条件反射的に話しかけてしまったのだ。
僕は動揺を押し隠すように、
「あ、いや……花火が綺麗ですね」と言った。女は静かに
「ええ。」と答えた。
僕はその女──英子──の余りの静謐さに驚いて、ますます動揺してしまった。女は真直ぐに僕を見た。そして
「川の水は冷たくて、ね」と言った。その後に「気持ち好い」が本来ならば続くはずが、尻切れ蜻蛉だった。女は、また川の方に向き直り腰を屈め、川の水に手の平をつけた。僕は女が自分の方を見なかったことを良いことに、冷静さを取り戻しつつあった。
「気持ちが好いわよ」
後が続いて出てきた。僕は冷静さをとりもどしつつあった、その目で客観的に女を見て、やはり垢抜けないところがある女だと思った。都会的な女なら「気持ちが好いわ」など続けるはずはないからだ。僕はまだその女がどう云う女かは計りかねていた。そこでその女の背中に向かってこう投げつけてみた。
「花火は見ないんですか」
その言葉の反応つまり、その女と云う硝子の反射でもって女を計ろうとしたのだ。
「ええ。一回で充分。何回も見たってつまらないもの、音だけ聞いてるだけでいいわ。パァン、パァンって。」
僕はこの女が何を考えているのか、そもそも考えに何らかの方向性があるのかさえ分からなくなってきた。
「つまんない?じゃあなぜこんな暗い時間に川まで下りてくるんです?」
「家に冷房が無いから暑くって仕方がないのよ、だからこうして川に涼みに来ているって訳。」
僕は尋ねた。
「近くに住んでいるんです?」
女は少しの躊躇いの素振りも見せずにこう答えた。
「ええ、近くだわ。ここからじゃ土手が邪魔で見えないけれどすぐそこよ。トタン屋根のボロい家って言えば分かるか知ら」
僕は自分の借りているアパートもすぐそこだったから大学へ行く途中で橋の上からその家を見ることがあった。しかしあんな寂れた家に人が住んでいようとは思わなかった。
「ええ、分かります……」
女はニヤッと笑って、すぐにその笑いを引っ込めた。そして再び真直ぐ僕の目を見つめた。僕はもうどうやって応対していいのか分からなくなっていた。
女は一度引っ込めた笑いをもう一度引き戻し、揶揄(からか)うような目つきでこう言った。
「あなた、大学生?」
「ええ、そうですが……」
──
しばらく女は沈黙して、──その内に花火が一度バァンと鳴った。
女は花火に目もくれなかった。
「顔に書いてあるわよ、あんなボロい家に人が住んでいるなんて思わなかった、って」
僕は狼狽が隠せなかった。
「いや、いえ、そんな、こと……」
「好いのよ、本当にボロいんだから」
女は急に近づいてきて僕の腕をつかんだ。そして軽く引っ張った。
「こっちへいらっしゃい、ほら、大学生さん」
僕は引っ張られるままに川辺のところまで来た。
「ほら」女は僕の手を川の水の中へいざなった。川の水は確かに冷たくて、気持ちがよかった。
「どう?」と女が僕に訊いた。
「ええ、気持ち好いです」と僕は正直に答えた。女は僕の手を川の中の水に押し込んだままこう言った。
「どう?うちへ来ない?」
僕は戸惑った。家に行くと云うことはどう云うことなのか、そもそも独り身なのか……。女は僕の心配を見透かしたかのようにこう言った。
「大丈夫。うちには誰もいないわ。一寸(ちょっと)、お茶でも飲んでいかない?それともビールが良い?暑くて喉渇いたでしょう」
「じゃあ、まあ……」と僕は曖昧な返事をした。女は僕の手を離して立ち上がると、
「じゃあ決まりね。あたしのうちへいらっしゃい。外見はボロいけど中は結構綺麗にしてあるのよ。」
僕は引っ張られるようにして土手を上った。二人とも手は汗で濡れていた。土手を上りきったところで女はくるりと後ろを振り向いて僕に言った。
「そう云えば、名前を言ってなかったわね。あたしは英子(えいこ)。英語の英に子どもの子。どう如何にも凡庸って感じの名前でしょう。親は子って爵位がある子どもだけにつけられたのよって言ってるけど。親が何を思ってこんな名前をつけたのか疑問に思うわ。それであなたは?」
僕は尚も女の勢いに戸惑いながらこう答えた。
「僕は滝沢……浩介です、滝沢浩介です。沢は渓流の方で、浩は三水に告白の告と書いて普通に介……」
「じゃあコウ君ね、そう呼ばせてもらうわ、あたしのことは英子(えいこ)で好いわよ」
英子さんはそう言うと僕の手を離して先を歩き始めた。
花火が遠くの方でバァンバァンと鳴った
──
部屋は英子さんの言ったとおり、手狭だったが小綺麗にされていた。玄関の戸を開くときにギィッと音がしたのにはさすがにギョッとしたが、中に入ってみれば、何と云うこともない質素な部屋だった。あるのは冷蔵庫と一口のガスコンロ、シンク、電子レンジ、丸テーブルに布団一式と云った感じだった。
「テレビもなくて退屈だろうけど、まあ、ゆっくりしていってよね。それでお茶にする?それともビール?ビールが冷えてるわよ。って言っても第三のビールってやつだけど。」
僕は遠慮がちに答えた。
「じゃ、ビールで……」
「そうこなくっちゃ!」
英子さんは冷蔵庫からビール缶二つを取ってきて一つを僕に手渡した。
「まあまあ座って、さ、座って」
僕は木の丸テーブルの座敷に胡坐をかいて辺りをぐるりと見渡した。玄関から入ってすぐ右にシンクとコンロがあり、そこは小さなフローリングだが、進むと七畳ほどの和室があり、丸テーブルが真ん中にどかんと居座っている。そこから左手に進むと洗面所があり、浴室がある。右手には網戸がある。そこから唯一少しの風が入ってくるが、それでも暑い。玄関から真向かいには襖があり、そこに衣類などを仕舞っているようだ。さらにその隣にはドアがあり、裏庭に繋がっているようだ。
「乾杯しましょ」
「はい」
「しかしあたしたち何に乾杯するのか知らね。そんなこと知らないわ。さ、乾杯。」
僕と英子さんはプルタブを開けた。プシュッと炭酸の抜ける音がした。
「乾杯」
僕と英子さんは缶をぶつけた。僕は緊張のあまりビールを一気に飲み干してしまった。
「好いわね、その飲みっぷり。好きだわ。何本でもあるからお飲みなさい」
そう言うと英子さんは立ち上がってビールをもう一本冷蔵庫から取り出してきた。座ると、僕にこう訊いてきた。
「で、コウ君は、大学生なわけでここら辺の学生なの?」
「そうです」
「ってことは平安大学ね。こう見えて案外賢いのね」
「案外ってどんな風に僕を見てらしたんですか……」
「敬語なんて気持ち悪いからやめてくれない?」
「はい、分かりました……じゃなくて分かった。」
英子さんは莞爾として笑って見せて、ビールをグッと呷った。僕もビールのアルコールが身体に回ってきたのか、思考も体の方もほぐれてきた。
「で、英子さんは何をしてるひとなの?」
英子さんはエヘヘと笑って、
「何にもしてないわよ。ナマポよ、ナマポ。ナマポって分かる?」
僕は肯首した。
「生活保護のことですよね」
「そ、そう云うこと。もちろん独身だし、親も今はどこにいるやら分からない。友だちもいないしね。つまりあたしは天涯孤独ってこと。このうちは昼間になるとトタン屋根が熱くなって部屋もとても堪えられない暑さになるから、川に避難しているわ。何にもすることがないから、川に石投げたりして遊んでいるの。侘しい生活よ。大学生活を謳歌しているコウ君にはこの侘しさは分からないだろうけどね」と英子さんは寂しそうに笑った。僕はあわてて言った。
「そんなことないですよ……僕も日々無聊な毎日を過ごしています……」
「えーほんとかなア?大学生って楽しい時間を過ごしていそうなんだけど。」
英子さんは缶ビールを一本空けた。
「じゃあ、もう一本取ってくるね」と言って冷蔵庫に行って缶ビールをとってきた。
「缶ビールはたくさんあるんですね」と僕は言った。
「缶ビールで冷蔵庫はいっぱいよ」
英子さんは再び立ち上がって、冷蔵庫を大きく開け放った。確かに冷蔵庫にはこれでもかと云うほど缶ビールが詰め込まれていた。
「本当にたくさんですね」
「でしょ?尊敬してよね。」
「尊敬に値しますね、これは、本当に」
「だから敬語はやめてっていったでしょ」
僕はビールをもう一缶飲み干して、
「そうだったね。敬語はやめるよ」
「そうそう、それで良いのよ。で、どこまで話は進んだんだっけ?」
「僕の大学生活が退屈だと云うところまでだよ、それと英子さんの生活もね」
「あたしの生活の方は本当にダメね、石を川に流す生活よ」
英子さんは顔を赤くしていた。
「もう酔っぱらったの?」と僕は訊いた。
「酔っぱらっちゃったわ、あたしこんなにすぐ酔っぱらう性じゃないのに、何でだろうね」
英子さんは肩をくっつけてきた。
僕はどぎまぎしてしまった。
「ちょっと英子さん」
「コウ君好いじゃない、もっとこっち寄って、寄って」
英子さんの唇の艶やかさが目の中に飛び込んできた。それとともに自分の情けなさが、身に染みてきた。学友のいない大学生活、市販薬のブロンを大量に飲んで日々を誤魔化す毎日だった。いっそのこと英子さんにすべてぶちまけてみようかと云う気にもなった。しかし艶やかな唇がそれを押し留めた。唇と唇は重なった。僕は獣のごとく英子さんを畳に押し倒した。僕は英子さんの下半身をまさぐった。果たして英子さんはパンティを履いていなかった。そしてそこはすでに濡れていた。僕は必至でジーンズとパンツを脱いで、そそり立つものを英子さんの中に押し込んだ。
真夏は夜でも暑かった。二人とも汗だくになっていた。
「英子さん……」
「コウ君……」
その晩僕はアパートに帰らずにトタン屋根の家で寝た。
朝は暑くて目が覚めた。トタンの屋根に太陽が当たると熱が家の中に籠るのだった。僕と英子さんは裸で布団の上に寝そべっていた。網戸から日差しが差し込んできた。風はほぼ無風に等しかった。あるとすれば、濁った川の臭いだった。その臭いが鼻を突いた。その臭いと暑さとで僕は目が覚めた。
「英子さん」僕は声をかけた。しかし英子さんは眠ったままピクリとも動かない。すーすーと息を吸ったり吐いたりしている。僕は冷蔵庫に行って缶ビールをとってきた。そして「お目ざ!」と叫んだ。
英子さんはおもむろにむくりと体を起こして
「なあによそれ?」と言った。
「太宰治が目を覚ました時に決まってそう言ったんだ」と僕は答えた。
「朝からうるさいわ……って云うか大学はどうしたのよ。こんな朝っぱらから大学生が酒なんて飲んでて言い訳?」
「大学ったって夏休みなんだ、だから飲んだってかまわないんだ」
「へえ、そうなの、じゃああたしと同じ身分ってことね。プー太郎。」
「まあ、そうとも言えるな、大学生ってのは人生の休暇みたいなもんだよ」
僕は英子さんの裸体をまじまじと見た。小さいが胸には張りがあって太股にかけての曲線美が僕の心を打った。なんて艶めかしい身体だろうと僕は思わず見とれてしまった。
僕は英子さんに年齢を尋ねていないことに気づいた。思い切って質問をぶつけてみることにした。
「英子さん、何歳なんですか?」
昨日と同じベージュのワンピースを着ながら英子さんは答えた。
「今年で三十一よ。それがどうかした?女性に年齢を訊くのって失礼と習わなかったのかい、君は」
「いや……僕の八個上ですね、それを確認したかっただけだよ、嫌だな、敬語が出てしまう。」
「もう気にしなくて良いわよ、出てしまうものはしょうがないんだから。昨晩だって散々出してたじゃない。」
「そう云うことじゃなくて……」
僕は途方に暮れたが、とりあえずシャツとパンツとジーンズを履くことにした。
「これから何をするんですか。」と僕は訊いた。
「川で魚を採るのよ、自給自足。」
「えーあんな汚い川の魚を採るんですか?僕小銭ありますし、コンビニにしましょうよ」
英子さんはいやいやと言わんばかりに首を振った。
「ここに来たからには自給自足。分かった?」
「分かりました……」
「洗濯機は裏手にあるからね。もっともコウ君は着替え持って来ていないから使わないだろうけれど。って言ってもあたしも使うのは夏場でも二日に一遍だけなんだけどねー」
それって不衛生なんじゃないかなと思ったが黙っておいた。英子さんにまた窘められるのがオチだと思ったからだ。
僕はビールを一気に飲み干した。
「ウィーッシュッ!」
「酔っ払いね、まったく」
僕は英子さんのそばに近づいた。汗の匂いがした。僕はその汗を好ましく思った。英子さんが着ているベージュのワンピースの──と云うよりアイボリーを汚くしたような色──その色は如何にも英子さんらしかった。
「魚採りに行くの?」
僕はわざと耳元で囁いた。
「もちろんよ」
英子さんは平気で答えた。
僕は英子さんから促されて和室の奥にある裏口から出た。裏口に出ると洗濯機が置いてあったが、それは濯ぎと脱水が分かれている旧式の洗濯機だった。
僕がまじまじとそれを見ていると英子さんはそれに気が付いて
「古い……って顔してるわよ」と僕に言った。
「いや、実際古いでしょ、こんなん。」
図星をつかれた僕は口を尖らせてそう言った。
「そうね」英子さんはそう言うと颯爽と身を翻し倉庫の方へ向かった。そこには白くて錆びた倉庫があった。鉄の引違いのものだった。
「そこに何があるの?」
「何って釣り竿に決まってるじゃない」
英子さんは扉を開け、中から釣り竿を二本取り出した。
「僕もするんすか?」
「あったりまえじゃなーい。釣れなかったら、今日の食いぶちは無しよ。」
僕と英子さんは再び裏口から部屋の中に戻って和室を抜けて表へ出た。八月の光は轟々と暑さを増していた。
僕らは土手を上って河原に下りた。川に近づくと英子さんが
「ほら」と言って、川に向かって浮きを放り投げる。
「ポチャン」と云う音がする。僕もそれに倣って釣り竿を振り上げる。そして物を遠くに投げるイメージで釣り竿を振る。
また「ポチャン」と云う音がした。僕と英子さんは二人で並んでいる。夏の日差しは熱く照り付ける。英子さんの汗が眩しく輝く。
僕は人差し指で、英子さんの汗を潰してみせる。英子さんは意にも介さずニヤッと笑う。
いっこうに魚はかかる気配がない。僕と英子さんは共に沈黙する。静寂(しじま)ではない。油蝉の鳴く音が聞こえている。僕が英子さんを眺める。英子さんは浮きの方を黙って眺めている。
ただただ暑くなってくる。河原には草が生えていたがその間から熱気がむんむんと立ち上ってくるのだ。
魚はいっこうにかからない。
しまいに「暑いよー」と僕が音を上げた
「がまん、がまん」と英子さんも言ってみせるがベージュのワンピースには汗が滲んでいるのが見える。僕にはそこから饐えた色気が漂ってくるように思われた。
僕はふと思った。英子さんはこんな暮らしをしていて飽きないのだろうか、と。
そのことを英子さんに訊いてみようと思ったその時、英子さんが釣り竿を置いて、石を川に投げ始めた。ひたすら地面にある小石を川に向かって投げ続けている。
僕が「何やってんの、英子さん」と訊くと、
「そりゃ見ればわかるでしょ。石投げてんのよ、って。川に石投げてんの。特に意味はないわ」
「意味はない」確かに彼女はそう言った。じゃあ、なぜ?
英子さんは小石を拾っては投げ続ける。石を拾いながら投げてきたからいつの間にか英子さんは橋のたもとまで行っている。
橋の上には小さな子どもたちが十数人いた。幼稚園児たちのようだ。子どもたちは川の方を見て──いや英子さんを見ているのだ──何やらはしゃいでいる。英子さんもそれに応じるように小石を投げるのをやめて手を振る。
「何してんの」と僕は声をかける。
「いつもこうやってお話してんのよ。一種の清涼剤ってやつね。」と英子さんは答える。
「どう云うこと?」
「毎日あの子たちがあの橋の上に現れる時間を把握しているってこと。」
「それって良いんですか?」
「保育士さんたちも見て見ぬふりしてくれてるし、いいってことよ。と云うか今日は釣れなかったわね。今日はこれで引き上げることにしましょ。あの子たちがきたら引き上げることにしてんのよ。それにしても暑いわね」
英子さんは「ふーぅ」と息を吐いて腕で額を拭うと、子どもたちに「バイバーイ!」と言って手を振り、土手に向かって歩き始めた。
僕は英子さんの釣り竿もとって急いで英子さんの後を追いかけ始める。
「英子さん、英子さん、釣り竿忘れていますよ。」
英子さんは土手の途中で振り返って莞爾と笑ってみせた。
「なあに?持って来てくれたの?そんなオンボロ置いてきたところで誰も取りやしないわよ」
僕は英子さんに追いついて釣り竿を渡すと「今日の食いぶちは無しってことですか?」と訊いた。
「まあ、そうなるわね」と英子さんは平然と言い退けて、土手を上って行った。僕は黙ってついて行った。
戸が「ギィッ」と開く音がして僕と英子さんは部屋の中に入った。屋根のトタンはちょうど南中した太陽の熱で部屋全体をサウナのようにしていた。部屋に入って右手にある網戸から入る風だけが涼しくて──しかしその涼風も焼け石に水と云った按配で、部屋の中はまさにサウナ状態であった。
「暑い」僕は独り言ちた。
英子さんはそれに反応して、
「こんなんで暑いって言ってたら、あと二時間もしたらもっと酷いわよ。もう飲みましょ。ビール、ビール!」
英子さんは冷蔵庫を開けて、ロング缶を二本取り出してきた。
「これが今日の主食って訳ですか。」
「まっ、そう云うこと。こんだけ暑いと冷えたビールが美味しいわよー」
僕は英子さんから缶を受け取ると、すぐさまプルタブを倒した。「プシュッ」と云う小気味好い音がした。
僕も汗だくて白シャツは水を被ったみたいになっていたが、英子さんも負けず劣らずでくすんだアイボリーだったワンピースはベージュに色をはっきりと変えていた。
僕はそのベージュ色を見ながら、ビールを喉から胃へと流し込んだ。唐突に、ブロンが飲みたくなってきた。ごくごく喉を鳴らしている英子さんに向かって僕は言った。
「あの……ブロン飲んでも良いでしょうか」
「ブロン?ああ、ブロンね。あんな不健康なもの飲んでるの?別にあたしはかまわないわ、って。」
僕はポケットから瓶を取り出して十六錠数えてビールで一気に流し込んだ。
「イケない子ねえ、そんなものを飲んで。ビールの方がよっぽど健康的か知れないわ」
「……」
「何よ、黙っちゃって。」
「いや、何でもないよ、さあ飲みましょう」
「あっそ。そう云えば乾杯してなかったわね。乾杯しましょ。二人の不健康を祝して乾杯!」
僕と英子さんは、半分も残っていないロング缶をぶつけ合わせた。
僕はブロンも飲んでいたので、ビールをすぐに飲みほした。暑さもあってビールは体中にすぐ回ってきて、僕は立ちあがると同時にフラついた。
「ビールもう一本いただきますね」
「いいわよーどんどん飲んでいきなさい」
僕は冷蔵庫を開けて大量のビール缶から、ロング缶を取り出してすぐにプルタブを倒した。
「あたしたくさん飲む人好きよ!」
僕は飲みながら英子さんの隣までフラフラ歩いてきて、ドサッと座った。僕の肩と英子さんの剥き出しの肩が触れ合った。僕は自然と英子さんの肩に凭れ掛かるようになった。
「で、何でコウ君はブロンなんて飲んでるわけ?何か悩みでもあんの?」
「んーもう生きてるのが辛いって感じだね。人生もういいやって感じで飲んでる」
「あたしも同じ感じよ、気が合うわね。あたしもブロン飲んでみようかなあ、くれる?」
英子さんは肩をグッと寄せてきて、急に僕の頬にキスをした。僕はドギマギしたが、
「……いいよ、あげる、最初は十二錠」と答えた。
僕はポケットから瓶を取り出して、数えて十二錠出して、英子さんに渡した。英子さんは一気にそれを口の中に放り込むと、ビールで流し込んだ。英子さんのビールも空になっていたので、僕は機転を利かせて「あ、僕取りに行くよ」と言って立ち上がった。すると英子さんは突っ張り棒を失くしたかのように床に横たわった。英子さんの言ったとおり、部屋の中の暑さは、常軌を逸してきた。英子さんの背中は汗でびっしょりだった。僕は冷蔵庫を開けてビールを取り出してきた。僕は英子さんの背中から
「英子さん、大丈夫ですかー?」と声をかけた。
「うーん、もっと飲も。」と英子さんは答えた。
僕はプルタブを倒して、英子さんの缶を開けた。そして一口、ビールを口に含むと寝そべっている英子さんの顔を左手でこちらに向けて振り向かせ、唇と唇をくっつけてビールを英子さんの口の中に流し込んだ。英子さんはニヤッと笑った。
「なあによそれ、誘惑してんの?」
「ええ、そうですよ」
英子さんは座りなおすと、僕からビールを受け取ってグッと飲んだ。
「やっぱり暑いときのビールは格別だわ。ブロンも回ってきたのか知ら」
英子さんはふらっと立ち上がると、シンクの所に行って、水道の蛇口から水を出して、水の中に左手を浸した。そして右手でビールを呷った。
「こうしていると──」
少しの間があった。
「気持ち好いですか」
「好いわ」
シンクの傍らに立って左手を水に浸してビールを飲んでいる英子さんに僕は近づくと後ろから抱きしめた。そして、こう言った。
「もっとビール欲しいんじゃないですか。」
「ええ。いくらでも」
僕は右手に持ったビールを一口、口に含むと英子さんの唇に唇をつけてその液体を舌で押し込んだ。英子さんの喉はごくっと云って身体の中にそれを取り込んだ。僕はワンピースの裾から手を入れて、英子さんの太ももの間に手を這わせた。そこは濡れ切っていた。僕はその中心に中指をあてがって、その中へ差し込んだ。滑らかに僕の中指は英子さんの中へ入っていった。
「アッ……ハァハァ」
英子さんは左手をシンクの底につけていた。その上に水がバシャバシャとかかっていた。
「英子さん……」
僕は英子さんの中から指を引き抜くと、その手でシンクの底で水に打たれている英子さんの左手をつかんで、引っ張り上げた。水滴が宙に舞った。そして僕はその手をそのまま引きずりおろすようにして英子さんを押し倒した。床も英子さんの手から滴った水で濡れた。
シンクの底を水が打つ音だけが聞こえていた。
僕と英子さんは五回交わった。
──
「コウ君?」
「うん?」
「あたしのこと好き?」
「性的に、好き」
「じゃ、良かった」
英子さんは深呼吸をするように息を吸って、煙草の煙を吐くようにゆっくりと、息を吐いた。
部屋中に僕と英子さんの体臭が籠っていた。英子さんはワンピースを取って床を拭くと立ち上がり、水道の蛇口を締め、
「コウ君も着てた服かして」
僕は服を渡した。
英子さんは和室の奥にある裏口を開けるとそこに消えた。洗濯機の回る音がして、英子さんが再び現れた。英子さんは鼻歌を歌っていた。
「コウ君、シャワー浴びよ」
「うん。」
英子さんは僕のものを丁寧に洗った。そして口に含んだ。英子さんの中からは、僕の体液が流れ続けていた。僕は再び射精した。英子さんの中からそれが流れ終わるまで、僕と英子さんはひたすらシャワーを一緒に浴び続けていた。
僕と英子さんはバスルームを出ると、同じバスタオルでお互いの体を拭きあった。拭き終えると僕は急に睡魔に襲われて、和室に裸のまま横たわった。英子さんも僕の隣に横たわった。
僕はいつの間にか眠りの中にいた。
起きると英子さんはいなかった。部屋は暗闇と静寂(しじま)と熱に包まれていた。左手首にはめた腕時計を暗闇の中で目を凝らして見ると午前一時だった。
「英子さん」と呼び掛けてみたが返事はない。
僕は裏口から出て、まだ生乾きのシャツとジーンズを着た。そして再び部屋の中に戻り、表口から出た。土手を上り、河原に下りると果たしてそこに英子さんはいた。彼女はアイボリーのワンピースを着て川に右手を浸していた。
「英子さん」僕は呼びかけた。
英子さんは振り向くと
「なぁに」と虚ろな視線を僕に向けた。
「こんな夜中に危ないですよ」と僕は言った。
「そんなの割り切っているからあたし平気よ」
僕はその返事の意味が分からなかったが、英子さんの真似をして左手を川の水に浸した。僕は英子さんの左にしゃがんだから、自然と向き合う形となった。英子さんの瞳の中を覗き込むと、そこは驚くほど虚ろだった。
僕は左手を川の中で這わせて英子さんの右手を握った。
「うちへ帰ろう、英子さん」
英子さんは首を横に振った。
「良いの、このままにして」
僕はしばらく手を握っていたが、諦めて、立ち上がって、「じゃあ部屋で待っているからね」と言って、土手を上った。そして振り返ると英子さんがその姿勢のまま川に右手を浸してしゃがんでいる姿が見えた。その姿はひどく幼く見えた。
僕は部屋に戻ると缶ビールのロング缶を一気に飲み干して眠った。
朝暑くて目が覚めると横に英子さんがいた。ワンピース一枚だけでスースーと無防備に寝息を立てているその姿は、ひどく幼げに再び僕の目には映った。とても年上には見られなかった。
僕は冷蔵庫を開けてビールをチビチビ飲みながら、英子さんが起きるのを待った。
──
僕の二十三の八月はそのようにして過ぎた。八月のあいだ中、僕はほとんど英子さんと一緒にいた。しかし八月が終わり、大学が始まると、自然と僕が帰る家は自分のアパートになっていた。大学の行き帰りにふと、橋の上からトタン屋根の家を見ることはあった。しかし河原に英子さんの姿を見ることはついぞなかった。
大学が始まって、数少ない学友の一人に「夏休みの間何してた?」と問われると、僕はただ
「川に石を投げていた」とだけ答えた。
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