「道を尋ねたいのだが……ここらに医者はないだろうか」
ひとまずこの子を一刻も早く温めて、清潔な服に着替えさせてやらねばならない。昨夜ずっと寒い思いをしていたのだから、もしかしたら熱を出すかもしれない。初めて訪れた知り合いもいない町でまず最初にすべきことは、医者を探すことだった。
「この道を真っ直ぐ行くと大通りに突き当たる。そこを左に折れてすぐだ」
遠慮もなく疑わしげな視線を浴びせつつも道を教えてくれた村人に礼を残し、言われた通りに行ってみると、往来に身を潜めるように建つ一軒の診療所が見つかった。江戸の頃に建てられたものに最近になって補修を施したのか、昔ながらの煤けた瓦屋根の下に近代的な縦長の上げ下げ窓が同居している。扉の横には看板にしては控えめな大きさの文字で池沢医院、と書いてあった。
重い木の扉を押し開け中に入ると、外のうららかな陽気とは対照的にひんやりとした空気が満ちていて、アルコールのツンとするにおいがした。外観よりも一層往時の風情を残す室内には誰もいないのか、明かりを落とされひっそりとしている。
少し留守にしているだけなのか、それとも往診等でしばらく帰ってこないのか。 すみません、と控えめに声を上げてみたが、返事は聞こえてこない。
やはり他をあたろう――踵を返そうとしたそのとき、どこからか聞き間違いとも思える小さな物音が聞こえてきた気がした。
「誰かいるのか?」
やはり返事はない。しかし、待っていると奥からぱたぱたと足音が近づいてくるのがわかった。やがて処置室と書かれた目の前のドアが開いて、人影が姿を現した。
「池沢先生に御用ですか? すみません、先生は今往診に出ていまして……」
奥から出てきたのは若い男だった。春らしい薄い灰色の着物に紺の兵児帯を緩めに締め、肩から藍鼠色の羽織を引っ掛けている。恐らく女性に好かれるであろう涼やかで整った目鼻立ちをした男は、どこか繊弱で繊細な印象を抱かせた。
「軽い怪我程度でしたら私でも診られますが……どうかなさいましたか」
その言葉から察するに、彼は恐らくここで医者見習いをしている若者なのだろう。その割には体力のなさそうな細い体つきをした男は、困ったように眉根を寄せてこちらを見ていた。
「いや、俺じゃない。この子を……」
背負った子どもは町に入ったあたりからずっと小さな寝息をたてている。起こさないようにそっと前に抱え直すと、彼は驚きに短く息を吸い込んだ。
見せてください、怪我は、と尋ねながら、幼い体にそっと触れる。
「泥だらけじゃないですか、着物もこんなに水を吸って……ひとまず体を拭いて着替えさせてやらなくては」
そこで待っていてください、今手拭いと湯を――彼はてきぱきとした様子で奥の部屋に戻ろうとした。が、突如痰の絡んだ咳をし始める。
「お前さん、もしや医者見習いじゃなくここの患者か? 俺がやるから休んでいろ」
さっき聞こえた物音は彼の咳だったのか、とようやく気がついた。
「大丈夫ですよ、お気になさら……っけほ、けほげほ……っ」
作り笑顔でやんわりと制した男だったが、すぐに止まらない咳が笑みをかき消していった。ついには息が続かなくなったのか、苦しげにしゃがみこむと胸をおさえてぜいぜいと喘ぎ始める。
「すみませ、ん……っぜほ、ぜッぜひっ、ぜぇいっ、ッ、 あ」
落ちた羽織を慌てて掛けてやりその上から背を擦ると、見た目より痩せているのか背骨の形が手のひらをはっきりと伝わってきた。息を吸うのはいいが上手く吐き出せないらしい。咳とも呼気ともつかない呼吸をする度に背中が小刻みに震え、胸元からはひゅうひゅうと嫌な音が響いてくる。
しゃがんでいることさえ辛くなったのか、彼はがくりと膝をついた。頬に落ちた横髪の合間から、酸素を求め苦しげに開かれた唇が見え隠れしている。
あまりに突然で、何か行動を起こす暇もなかった。胸の喘ぎは高い笛の音のようなものに変わり、胸元をきつくおさえる手は酸欠のせいで爪の先まで色を失っている。素人目にも相当に切羽詰まった状況だということはすぐにわかったが、だからといってどうすればいいのか。
「先生! 休んでいてくださいと言ったのに!」
誰かが外から入ってくるのと、酸欠を起こした男が体を支える力を失いぐったりと肩に凭れかかってきたのはほぼ同時だった。
入ってくるなり叫んだのはくたびれた白衣を纏い、重そうな鞄を持った壮年の男で、ひと目でここの医者だと見て取れた。彼は倒れた男のすぐ横に膝をついて様子を確認するとすぐに、鞄からちょうど手のひらに乗るくらいの大きさのガラス製らしき器具を取り出す。大小ふたつの穴の開いたそれは、祭で見かけるおもちゃの笛に似ていた。
医者はさらに白衣のポケットから小さく折り畳まれた薬包紙を取り出すと、中の薬を慣れた手つきで小さい方の穴に入れ、燐寸で火を点けた。まもなく大きい方の穴から白い煙が細く立ち上り、それを今にも途切れそうな浅い呼吸を繰り返す男の唇にそっと差し入れる。
効果はすぐに現れた。切れ切れだった呼吸が次第に安定していき、肩の震えが治まっていく。木枯らしの吹くような胸の異音は随分と遠ざかり、着物に皺が寄るほど握りしめられていた手から力が抜けた。やがてぼんやりと目を開いた男が多少ふらつきながらも自力で身を起こしたのを見届けて、医者は改めてこちらに向き直った。
「で、そちらの方はどうなさったんです?」
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