エトランゼのアフリカ紀行

猫が眠る

小説

10,502文字

ひっそりと息をしている。このまま死んでしまうには惜しい。どこへ行く当てもない。避難所はただ一つ彼女の魂のなか。

一 赤いバラと深海のブルー、白

 

どこかで水滴のしたたる音がした。彼女の右手のひとさしゆびの先には、細長い四面体をねじったような、がらすの瓶があった。その瓶の色は深海のように深いブルーで、赤いバラが一本だけ生けてあった。彼女は、細いひとさしゆびの先を瓶の底から瓶の口角まで走らすと、てのひらから直径一センチほどの丸く白いじょうざいを取り出して、瓶の中に落とした。白いじょうざいは深海の中で、その纏いを解いていった。そして、その実在は消えて無くなった。

「砂糖は愚か───」彼女は呟いた。

 

わたしは彼女の前に跪いて、てのひらを差し出した。彼女は自らのゆびを、ひとさしゆびから順に解き、てのなかにあった三つのじょうざいを大理石の床のうえに落とした。じょうざいは床の上で踊り四方に散らばった。わたしは這いつくばって、それらをひとつずつ拾っていった。彼女の白いワンピースの裾からのぞくひだりあしのくるぶしにがわたしのまなこの白に映った……。彼女は裸足だった。微かにのぞく彼女のつちふまず……。

鈍い痛みがわたしを襲った。痛みはあたまからからだのなかを突き抜けていった。その瞬間にわたしの世界が消えると、次第に洞窟で囁いているような音が聞こえた。

「───からないわ、あなたにわたしのことはわからないわ、あなたにはわからないわ、なにも」

彼女のくちびるはわたしのみみに触れそうな距離にあった。

 

わたしはアイボリーのワンピースごしにわたしのひざがしらが濡れていくのを感じていた。彼女は童謡をくちずさむかのように、ゆるやかにつまさきを一歩ずつ前に差し出していき、ついに、彼女のからだがわたしのかたわらを通りすぎた。

わたしは大理石のゆかにかがみこんで、散らばったブルーのがらすのかけらの一つをてにとると、あたかも彼女のこまくに愚かなメロディを流し込むかのように、そのかけらで赤いバラを切り刻んでいった。切れ切れにゆかに散らばった赤いバラのはなびらと、砂粒ほどの大きさになったがらすのかけらを、わたしは右のてのなかゆびと柔らかなおやゆびで摘まんで、左のてのひらの上に集めていった。

這いつくばってブルーのがらすのかけらを左のてのひらに集めているわたしを彼女は背後からじつと見つめていた。視線が水晶のなかの光のようにわたしのからだを貫いた。彼女はさっそうとわたしのかたわらをとおりすぎ、ひざがわたしのまなこの眼前の大理石におりてきた。

 

彼女はそのしせいのままで、切り刻まれた赤いバラとブルーのがらすのかけらを左のてのひらにそっとのせ、そのままてのひらをわたしのほおに近づけ、わたしにほほえみかけた。

「さあ、載せて」

わたしは右のてのひらの奥に押しこんであった白いじょうざいを彼女の左のてのひらの上に落とした。

「水を持ってくるから待っていて」彼女はたちあがって三歩あるくと、ダークブラウンのテーブルにてをのばし、とうめいながらすのコップを右のてに持って、三歩あるいて戻ってきた。そうして小さな声で

「さあ、あげる。さあ、あなたにあげるわ」

彼女はそう言うと、這いつくばっているわたしのあごを左のてで撫でて、わたしのくちびるをゆっくりひらかせた。

 

わたしのくちのなかへ赤いバラと深海のブルー、白いじょうざいがなだれ込んできた。私には、その映像が彼女のまなこのなかに映っているのが見えた。わたしのしたは羞恥心からすこしだけうなだれて、くちびるの端から零れていた。

彼女の左のてがそのぜんぶをわたしのくちのなかに流し終えると、

「次は、これ」と、彼女は右のてに持っていたぐらすを差し出した。

そのぐらすは透明で、上部のくちが少し広がっていた。それは彼女のお気に入りのぐらすだった。青ざめたみずが、その四半分ほどを満たしていた。

わたしはくちをとじて彼女のまなこをみつめた。そこには何もうつっていなかった。

 

「さあ」彼女の声は彼女らのまなこの間で反射しあって、墓石のなかで響いているようだった。「植物がみずをほっするのはなぜ?熾火がくうきをほっするのはなぜ?つめがきずをほっするのはなぜ?あなたがわたしをほっするのはなぜ?」

わたしはすでにのみほしていた。なにもかも。

 

 

二 八つのがらすの都

 

どこかで水滴のしたたる音がした。めをあけるとわたしは柔らかなベッドの上にいた。けものの唸り声が聞こえた。からだをあげて、みわたすと、その音の原因が分かった。八角形の部屋を取り囲むようにけものたちが唸っているのだ。けものたちの部屋とわたしの部屋とはがらすの壁で遮られていて、がらすの壁の向こう側も小さな空間があって、けものたちはそこに閉じ込められているようであった。けものたちははらを空かせているかのようにいくども唸り声をあげた。

 

一の檻には何者もいなかった。二の檻にはカンガルーとサル、三の檻にはサイとムササビ、四の檻にはシマウマとウシ、五の檻にはヘビとカンガルー、六の檻にはクマとオトコ、七の檻にはオオカミとイヌ、八の檻にはネコと小さなゾウがいた。わたしのべっどは一の檻のそばにあり、部屋の中央にはぴあのがあった。その傍らには白いワンピースの彼女が立っていた。

 

彼女がひとさしゆびのつめで鍵盤を軽く叩くとぴあのの音が鳴った。それと同時に二の檻の裏の壁から無数の剣が突き出してきて二体の獣を貫いた。カンガルーはおなかの袋が破け、そこから顔面に穴の開いた子どものカンガルーが落ちてきた。もう一本の剣はサルの眼から突き出た。サルはわめいていた。しばらくして剣が元の場所に戻ると眼球がサル身体に引っかかって落ちた。その眼球に向かって彼女はかんじとわらいかけ、隣の鍵盤をなかゆびの第二関節で叩いた。すると六の檻のなかで四方の壁と天井がひらいて、大きな金属のはんまあが出てきた。はんまあは四方八方にふりおろされ、檻のなかのクマとオトコは打たれた。金属のはんまあと二体のけものの身体がごつごつと鈍い音をたてた。

 

クマの低い呻き声、オトコは体を守るようにうずくまって「助けてくれえ」と叫んだ。はんまあは獣たちを叩き続けた。そのときわたしは彼女の右のあしに鮮やかにあかのちが流れるのを見た。ちはくるぶしでしばらくとどまり、オトコは叫び声をあげ、再び流れ出しかかとへと達した。クマが倒れた。

 

彼女が指で鍵盤を叩くと、ぴあのは音をならし七つのがらすの壁の向こうで獣たちは悲鳴をあげた。彼女は「亡き王女のためのパヴァーヌ」をひきはじめた。獣たちの苦悶の唸り声とその旋律が重なり合い、部屋中を満たした。わたしはその旋律に身をゆだねるように、柔らかなべっどに横たわり、めをつむった。その旋律と豊かな咆哮にみみをかたむけると、彼女のあしを流れていたあかのちの鮮やかさがあたまのなかをめぐった。

 

彼女は三度「亡き王女のためのパヴァーヌ」を繰り返し、弾いた。三度目を弾きおえると音を出す獣はいなくなっていた。

 

胸の上にてが置かれた。目を開くと彼女のめがわたしを上から見つめていた。

「その白べっどからおりるのよ」

わたしはしんこきゅうをして、胸に置かれた彼女の右のてをにぎった。べっどからおりると、わたしもまた、彼女と同じ白いワンピースを着ているのに気がついた。白いワンピースの裾はもう濡れていなかった。彼女はわたしの左のてを握って、ゆっくりと歩きだした。くるぶしから流れたちが大理石の上に鮮やかな赤い線を引き、わたしはそれを足の裏でたどって歩いた。

 

彼女は一の檻がらすに触れるほど近づくと、振り返り、わたしのめをみつめると、彼女のめのなかに、七つの壁の惨状が映った。四肢をもがれた獣、胴の部分に楕円の穴があいた獣、潰されて原型をとどめていない獣。どの檻のがらすにも多くの血がへばりついていた。そのすべてが彼女のめに映っていた。彼女はわたしのうでをつかんで振り返らせた。

「あれが、なんだかわかる?土となるものよ」「あれが、なんだかわかる?彼女らを侮辱するものよ」「あれが、なんだかわかる?彼女らの罪よ」「彼女らはあの骸によってのみ清められるのよ、あなたをここに呼んだのはそのため」

 

彼女はわたしのほおをなで、わたしのめのまえにきた。ひとりでに、わたしの口は開いて、したを出した。彼女のめにうつるわたしのしたを深海のブルーのがらすが貫いていた。そのがらすは細く、したの先端から奥まで貫き、わたしのしたの一部になってしまったかのようだった。その両側に広がるしたは薔薇色に染まり、馥郁とした香りがした。

「まるでせいきのようね」

わたしは呼応した「xとx」。

 

 

三 蝶になる夢を見た

 

どこかで水滴のしたたる音がした。わたしはしのびあしで地下へおりていった。地下には彼女の部屋がある。戸に鍵はしまっていなかった。わたしは部屋の隅にある小さな白い箪笥のとってを引き、中から白いじょうざいをとりだした。飲み込むと、わたしのからだは宙を舞った。わたしは自由になって、部屋を上へ上へと飛んだ。そうして大理石でできた厚い天井や床をぬけて、彼女のいる居間へとむかった。彼女もわたしと同じように浮遊していた。がらす越しに月のひかりを浴びている彼女のかかとが月のひかりに反射してきらめいているのが見えた。わたしは飛んでいって、彼女のかかとに接吻した。

 

「わたし、伺候しにきたの

「どこへでも行く、あなたの行く場所なら」

すると彼女は言った。

「それはてれびの向こう側、という意味かしら、浜辺のところへ?ああ、わたしほしい、ああほしい」

そこで、わたしはいそいで浜辺へとむかった。行く途中でオトコが崖沿いを歩いているのが見えた。思わずわたしは地面に降りてそのオトコのうしろを忍び足で歩き始めた。しばらくして「ねえ」

オトコが振り返った。

 

「何をしているの?」とわたしは訊いた。

「何してるって、歩いているんですよ。家路についているところです。お嬢さん、そんなかっこうじゃ危ないですよ、裸足だし……ここは街灯もないから真っ暗です……」

わたしはオトコを海の方へおしやった。オトコは岩だらけの崖を転げながら海へと落ちていった。わたしは清められた。

 

浜辺に着くとわたしはくちを大きく開けた。すると、香りに惹きつけられて蝶が集まってきて、一匹、二匹とわたしの口の中に入っていった。くちのなかが蝶でいっぱいになると、わたしはしたに刺さった深海のブルーのがらすの筒を使って、蝶の羽をくちのなかで切っていった。すべての蝶の羽を切り終えると、蝶の胴体を咀嚼して飲み込んだ。すぐさまわたしは屋敷に帰ると、コーヒーを沸かし、瓶に注いだ。その中にくちのなかの蝶の羽をだえきといっしょにコーヒーのなかに吐き出した。

瓶をがらす窓越しの月のひかりにあてて、わたしはそれを眺めた。そうしているうちに壁に取り付けられた白樺の机にもたれて眠っていた。

 

朝の五時ごろに目覚めたわたしは左のてのひとさしゆびでかおをなぞっていった。よかった、今日もわたしはあった。わたしは昨晩白樺の机に置いた瓶のなかにてを入れて、左てのなかゆびとおやゆびで羽を一枚々々取り出し、朝のひかりにあててよく乾燥させた。

 

二三時間のあいだわたしは乾いてゆく蝶の羽をずっと見ていた。蝶の羽はおおかた乾燥してきた。彼女が地下からのぼってくる気配がした。そして彼女が居間に入るのを見ると、わたしは乾燥した蝶の羽をてに、その後を追った。彼女が右てから白いじょうざいを取り出すのを見ると、わたしはひざをついて懇願した

「……おねがい……おねがい、ちょうだい……」

彼女はわたしを一瞥し、慣れたてつきで、白いじょうざいを自らのくちに含ませ、くちの開いたぐらすで水を流し込んだ。のどが動くのが見えた。

「あなた、仕事は?」

間髪入れずわたしは答えた。

「ええ、お望みのものを!」

彼女は無言でじょうざいとぐらすとを大理石の床にぞんざいにばらまいた。わたしは跪いて、まずは蝶の羽を床に並べ、白いじょうざいを左手のなかゆびとおやゆびで摘まみ上げ、くちにはこんで、ぐらすの水で流し込んだ。

 

朝食は乾燥した蝶の羽とトマトだった。彼女とこの屋敷に来ていらい、これいがいの食べ物をくちにしたことはなかった。トマトだけの日もあった。コーヒー漬けした蝶の羽はごちそうだった。

「おいしいわ、ええ、とってもおいしいわ」

彼女がそう笑って言ってくれたので、わたしはとても満たされた気持ちになった。

 

 

四 爪を喰う女

 

どこかで水滴のしたたる音がした。朝食を食べ終えると彼女が「じゃあ、この続きをしましょう」と言うので、わたしは着替えるためにひとりクローゼット部屋へ向かった。同じサイズ、同じ色のワンピースからは選びようがなかった。クローゼット部屋には大量の白いワンピースがあった。わたしはそのうちのどれにしようか迷った。左てのひとさしゆびでワンピースの袖や裾に触れながら、部屋のなかを歩いた。どれも同じ色だったけれど、いちばん白いと思ったワンピースを選んだ。着ていたものを脱いだとき、トマトの汁がこしのあたりにこぼれて染みになってしまっていたのに気がついた。わたしはそのワンピースを切り刻んで、染みになった部分だけをくちのなかにいれて飲み込んだ。残った布切れは窓から外に捨てた。断崖に位置するこの屋敷から放たれた布切れは宙を舞って市井の住む町の方へ飛んでいった。

 

居間にもどると、白いワンピースを着た彼女ははだしで大理石の床の上に立っていて、澄んだ黒いめをわたしのほうへ向けた。

「昨晩、眠れなかった。

「あなたが、蝶の羽をとってきてくれるかと思うと、とっても胸が高鳴ってしまって

「どこにいてもあなたのことはわかるものね、あなたは昨晩、清められたのね。

「森へ行きましょう、あなたは昨晩海へ行って清められたわ。だから今日は森へ行きましょう、血が必要なのよ。森にはたくさんの獣たちがいるわ。あなたは獣のにおいを嗅いだことがないでしょう。こんなに素敵なはながかおにあるというのに、もったいないわ」

 

彼女とわたしは、少し標高の低いところにある森までおりてきた。そこにはジャガーやサルなどがいて、そこらじゅうの樹木にココナッツの実がなっていた。わたしはなかでも一番熟していそうなココナッツの実をとりに樹木によじ登っていった。彼女はわたしの不良な行いを軽蔑を含んだ笑みを浮かべて下から眺めていた。そのまなざしに気づくとわたしはある種の快感を覚えた。それは観光客に眺められる悪趣味な伝統の自尊心と同じようなものだった。亜鉛のような重さのココナッツの実をもっておりると、当然のように彼女はてを差し出してきた。そしてわたしは同様に当然のようにココナッツの実をわたした。彼女はそれを近くの石にたたきつけて割れ目をつけると、すすすとココナッツのしるを飲みほした。すると、そのにおいにつられたかのように、ハイエナが森の闇の奥で目を光らせた。

 

「あの子をてなずけるのよ」と彼女が言った。わたしはおそるおそる光る目の方へ近づいていった。ハイエナもわたしのほうにそろりそろりと足をなめらかに踏み出して、わたしの

方へ近づいてきた。突然ハイエナが口を大きく開けて雄たけびをあげたので、わたしは思わず後ずさった。わたしがあしを後ろに引いたその瞬間、ハイエナがわたしにとびかかってきた。ハイエナはわたしにのしかかると、わたしのかたに牙をたてた。わたしの白いワンピースは赤く染まった。痛くなかったと言ったらうそになるが、それはもう既にして痛みではなく清めとなっていた。そのとき、彼女がハイエナのそばに近づいてきて、その頬の毛を左てのこゆびでなでた。すると、わたしのかたに噛みついていた力が弱くなった。彼女はこんどはわたしのかたを左てのくすりゆびでなぞった。わたしのかたの痛みはすうっと消えていった。ハイエナはそろりそろりとあとずさりしたかと思うと助走をつけて彼女に襲い掛かった。彼女はハイエナにのしかかられて地面にせなかから倒れこんだ。ハイエナは彼女の上に覆いかぶさり、舌を出して、彼女のみみたぶを舐めだした。彼女がハイエナの頭をなで、ゆっくりとじょうはんしんを起こすと、ハイエナは身をひるがえして飛び去るように逃げ去った。

 

「わたしの方へきて」彼女が言った。

わたしは土の上に座り込んでいる彼女の前に身をかがめた。彼女はくびを回して、ハイエナに舐められたみみをわたしのかおに近づけた。彼女のみみからは血肉の匂いがした。

「これが獣のにおいよ。あのハイエナはさっきリスを食べたところなの

「あなたもリスを食べたい?」

わたしは逡巡した。リスを食べたいかと言われれば、食べたい。なぜなら彼女がそう言っているのだから。しかし、食べたくないというのも本音だ。リスのような爪のとがった動物を食べるのをわたしは好まない。わたしが考えているあいだに、彼女はすばやくてを草むらにつっこんで、リスを高々と持ち上げて見せた。わたしはリスの爪を食べるしかないわ、とあきらめた。

 

「食べるわ」

「そうこなくっちゃ」彼女は嬉々とした笑みを浮かべた。彼女はワンピースの裾をまくりあげてその中にてを入れると、ナイフを取り出した。ナイフの刃が真昼の陽光にきらめいた。

「ヤッ」わたしは掛け声をかけた。彼女はそれに合わせて威勢よくナイフをリスの腹に突き刺した。リスは目を白黒させて、やがて絶命した。

彼女は慎重に足と手を切った。

「これはとってもからだにいいのよ」

今度はわたしが目を白黒させて気絶しそうになった。その爪には木切れがはさまっていた。

「さあうちに帰って鍋で煮込みましょう」

 

彼女らは家に帰るとさっそく作業に取り掛かった。毛皮と内臓のほとんどは食べられないから、とりのぞくと、あとは、爪と脳とすこしばかりの筋肉しか残らなかった。それらをぐつぐつと煮込んでいるときの彼女は楽しそうだった。彼女はいつも楽しいことしかやらない。「わたしは快楽でできているの」というのが彼女の口癖だった。

「これだけでは味気ないわね。せっかく食事の続きをするのだから、他の物もいれましょうか

「そうだわ、あなた、昨晩、蝶を食べたわね、それを吐き出して」

わたしはのどのおくに左てのひとさしゆびをつきさして、蝶の胴体だけを吐き出した。

「いい具材になるわ」

これまでトマトとときどき蝶の羽しか食べてこなかった彼女らにとって、これは確かにごちそうに違いなかった。でもやっぱりわたしには不安があった。彼女はその不安を読み取ったかのようにこう言った。

「さあ。その爪を先に食べてみて」

わたしはおそるおそるすぷーんでリスの爪を掬ってくちのなかに入れた。すると、わたしのしたに挿されたがらすが爪を貫いて、その養分を吸いこんだ。

「おいしい!」

わたしは思わずこう叫んだ。まるで毛布のようにやわらかくてあたたかな味だった。爪の味はからだじゅうに広がってゆき、その養分は獣の遺骸となってわたしのからだを清めていくようだった。わたしはむさぼるように爪を掬ってくちびるの前に垂らしたしたに運んだ。ふと、我に返ると、彼女がものほしそうなめでわたしのほうを見ていた。

 

「ごめんなさい、わたしばかり」

「いいのよ、いいのよ、だって、わたしには、代わりのごちそうがあるもの」

「それはなあに?」

「あなたのつめよ」

わたしは思わずからだをこわばらせた。

「わたしのからだでは彼女は清められないわよ」

「あなたの全身には獣の遺骸がいきわたっているのよ

「つめだってその例外じゃないわ」

彼女は庭から大きなつめきりばさみを持ってくると、わたしの右のてのひとさしゆびのさきにあてがった。わたしはそんなことを気にもとめずに、夢中ですーぷをむさぼっていた。

バキッ

大きなつめきりばさみはひとさしゆびの第一関節のところまで切っていた。

「あら、わたし、間違っちゃったかしら」

彼女はあっけらかんと言った。わたしはリスのすーぷをむさぼるように飲んでいたのでそのことに気がつかなかった。彼女は切れた右てのひとさしゆびを取ると台所まで持っていって切り刻んだ。そしてそれをフライパンに敷いて焼いた。

 

「これがいいのよ」

香ばしい匂いがし始めて、わたしもすーぷをむさぼるのをやめて彼女の悦楽とした表情に見入った。彼女はてぎわよくトマトを輪切りにするとそのなかに放り込んだ。胡椒をひとふりすると、皿に盛りつけた。長く伸ばし続けたつめと、白いひふが、ちとトマトで染められていた。

彼女らはもぐもぐ食べた。その時間は彼女らの咀嚼音だけが部屋の中に響くようだった。

彼女らはそれらを食べ終えると満足した。わたしは皿をシンクのなかに放り込むと、冷たくこう言い放った。「彼女は清められたのよ」。しかし、彼女はすでにテーブルの上で寝入っていた。

 

 

五 カレ

 

どこかで水滴のしたたる音がした。わたしは居間のドアを開き、八角形の部屋に入った。一の檻のがらすの壁を通り抜けると、死に絶えた動物たちは処分され、七つの檻は綺麗にされていた。だがただ一つ、六の檻だけには生き残ったオトコがまんじりともせず座っていた。彼女がて加減したようだった。しかし、顔は変形し鼻は右に折れ曲がり、瞼は両方とも腫れあがっていた。しかし、食事は毎日提供されているようで、肌の褐色はよく、身体もあざだらけではあったが、健康体そのものであった。わたしは、切れた右てのひとさしゆびの先を六の檻のがらすの表面に滑らせると、オトコがぴくりと反応した。

 

「あなたはいない」

わたしは囁いた。わたしの声はがらすを透過してオトコの鼓膜に響いた。オトコは懇願するようなまなざしをわたしに向けた。わたしはそれに呼応するようにがらすの壁をすり抜けた。オトコは座ったまま、わたしの様子をうかがっていた。わたしはかがみこむとオトコのせいきにくちを近づけ、もう一度囁いた。

 

「あなたはいない」

そしてそれをくちに含むと、したで円を描くようになぞった。わたしのしたに挿しこまれたがらすの筒がオトコのせいきのねもとをなぞると、オトコは呻き声をあげた。オトコのせいきはねもとから切れた。わたしは口に含んだそれをしたの薔薇の香りでつつむと、床の上に吐き出した。カレはそれを左てで摘まみ上げるとしげしげと眺め、くちに放り込んだ。わたしはカレと親密な仲になった。

わたしはカレに尋ねた。

「名前は何というの?」

「名前はいまなくなった」

「そう、じゃあ、わたしとカレは似た者同士ね」

「そうだね」

カレらは数か月をそこで過ごした。

 

居間で眠る彼女の寝息だけががらすの壁を透過して静かに聞こえていた。カレらはなんでも食べた。ポロネーゼ、カリーとナーン、中華そば、焼き飯、牛のステーキ。そうして何度でも排泄した。六の檻の中には小さな穴があってそこに入れればいいだけだった。食事の楽しみの次に来るのが会話の楽しみだった。

 

 

六 傾いた陽

 

ここで水滴のしたたる音がした。わたしとカレは互いの血を注射器でまさぐりあった。採った赤い液体を霧吹きのなかにいれ、居間で眠っていた彼女の真っ白なワンピースに吹きかけた。彼女は永遠が一瞬かのように呼吸を止めて眠っていた。赤いビーズをあしらわれたドレスを身にまとった彼女は、さながら深海の王国の女王だった。わたしは彼女の右のかかとに縦にカットを入れた。そこからは匂いのない花の香りがした。彼女が伏した丸テーブルの淵からブルーの血が流れてきた。その血をカレは磁器の薄い皿に受け、しばらくぼんやりと滴る様を眺めてから、おもむろにくちのなかに運び込み、飲みほした。

 

「彼女は確かにうまい」

「そのはずよ、だってわたしが手塩にかけて育てたのだもの」

わたしは呻くようにそう答えた。彼女は眠っている間、排泄をどのようにしていたのだろう、とわたしが考えていると、その考えを読み取ったかのようにカレが答えた。

「便は毎日決まった時間にわたしが採取しにいっていたのさ。そうしてそれが彼女らの飯になっていたというわけさ」

「それであんなにレパートリー豊富だったというわけね」

 

彼女だけに効く蝶の羽の鱗粉を使うことは彼女自身の発案だった。

(「そうよ、わたしだけに効くの、だからあなたは心配しなくていいのよ。時機にわたしは息を止めて眠る日が来るわ」そう言って彼女はわたしに片目を瞑って見せたの)

わたしとカレは半日かけて土を掘り起こし、人が十数人は入れるほどの穴を屋敷の脇に穿った。そして、二人がかりでかかとからブルーの血を流している彼女を乱暴に机から引きはがし、その穴のなかに放り込むと、再び半日がかりで彼女を埋め立てた。それもただ平らにするだけでなく、周りから土をかき集めてきて三メートルほどの山にして見せた。

わたしはその日の(というよりむしろ人生の)仕事を終えたカレにルイボオスティを振舞った。カレはひとくちそれを飲むと、剥がれかかった左てのひとさしゆびの爪を右のてで指示して

「ほうらごらん、すぐに落ちてゆくよ」

しかしそれはなかなか落ちてこなかった。雨が雲から地上に落ちるまでの時間、立派にカレらの視点を一点に留めた。わたしはその間なくなったひとさしゆびの先を懐かし気に眺めていた。そしてカレの爪ははカレらの後ろでピラミッドにジャンボジェット機が突っ込んだ瞬間に、唐突にはらりと散った。

「散華!」

わたしは息を飲むと同時にその言葉を放った。

同時刻、彼女が土のなかでむせながらひとり息をひきとった。

2020年10月31日公開

© 2020 猫が眠る

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