僕は自身の背中に火をつけたかった。夏太朗兄さんの話を聞いて、背筋が凍りついたからさ。北斗の言った冗談を思い出し、僕は姉にキスされる画を想像してしまったんだ。
僕はその凄惨な画を押し潰したくて、両手で頭を強く押さえた。その画がなくなるのなら頭蓋骨なんて陥没しても構わないとまで思ったね、うん。
「ごめん、亜男くん!」と夏太朗兄さんは慌てた様子で僕に謝ったんだ。「弟の君には話しちゃいけない話だった! また言葉にこき使われちゃったみたいだ!」
「違うんだ」と僕は頭を押さえながら首を横に振った。「亜利紗と夏太朗兄さんがどんなキスをしようが、それはどうでもいいって言うと失礼だけど正直どうでもよくって……。ただ、今キスのことで大きな問題を抱えてて、それで頭を押さえてるんだ。それと、僕らが言葉をこき使っているわけではなく、僕らのほうが言葉にこき使われていることはちゃんと分かってるから謝らないで。平和とか絆とか、そういった言葉にはとりわけこき使われているのも分かってるから。まあ僕は言葉に『こき使われてあげている』って考え方を採用してるけど」
僕がそう言うと夏太朗兄さんは、僕でよければ話を聞くよ、と言ってくれた。
そういうわけで僕はキスされたことと、ヒカルさんの例の呟きを聞いたことを彼に打ち明けたんだ。すると夏太朗兄さんは、ヒカルさんにキスされたに違いないね、と僕の望んでいた言葉を惜しげもなく僕に浴びせてくれた。そしてさらに夏太朗兄さんは、ヒカルさんに嫌われたかもしれない、と嘆いた僕を優しく励ましてもくれた。彼の発した、僕も出し抜けにキスされたいなあ、という言葉は気持ち悪かったけど、僕は夏太朗兄さんのことが好きになった(別に嫌っていたわけじゃないんだ。好きでも嫌いでもなかったのさ)。
僕は夏太朗兄さんとその日、キスの素晴らしさを夜明けまで語り合ったんだ、しらふで。
☆
キス事件から遡ること半年くらい前の話さ。僕は備瀬家の居間でスターフルーツ(カットすると断面が星型になる果物さ)を食べていた。そのとき居間には、利亜夢欠乏症でブレントウッドから帰って来ていたママと、姉と、利亜夢と、利亜夢の友だちの男の子と、話に関係ないがチャッキーもいた。
何はともあれ、スターフルーツとは食べ物だ。投げるものじゃない。だから僕は利亜夢を叱ったのさ。利亜夢が「流れ星!」と叫びながら友だちとスターフルーツでキャッチボールを始めたからだ。がしかし、僕はスターフルーツを投げる彼を止められなかった。なぜって、ママと姉のとった行動を見て呆れ返ってしまい、僕は利亜夢を叱りつけるのをやめてしまったのさ。
ママと姉が何をしていたのかというと、二人はおのおの手を合わせて願い事を唱えていたんだ。宙に舞うスターフルーツに向かって、さ。それのみか、ママと姉は利亜夢とその友だちに「三回言えないから低速で投げなさい!」とそんなクレームをつけるありさまだった。僕は姉を叱った。母親失格だ、と。子供に食べ物を投げさせる親がどこにいるのだ、と。ママに対しては初孫だし、はるばる海を渡って来たから黙認した。というか、ママには何を言っても無駄! ママは利亜夢を溺愛してるんだ。彼女は利亜夢が殺人を犯しても、「上手に殺せたね!」とか言って彼の頭を撫で回すだろうさ。もはやママの手は孫の頭を撫で回すためにあり、利亜夢の頭は祖母に撫で回されるためにあると言っていいね、うん。いつだったか姉がママに「死んだら柩に入れて欲しいものある?」と尋ねたとき、「利亜夢!」とママはそう速答したこともあった。〈燃えるもの〉という火葬場の規定に反してはいないさ。だけど、この回答にはさしもの姉もひいてたね。とはいえまあ、利亜夢も祖母ちゃんの柩に入りたいのかもしれない。彼も彼で祖母ちゃんに懐いているのさ。何でも買ってくれる祖母ちゃんだし、それに夏太朗兄さんの両親はもう他界しているから、利亜夢にとって祖父母は僕のママだけなんだ。僕の祖父母も存命しているのはパパの母親である東京の祖母ちゃんだけだから、利亜夢が祖母ちゃんに懐く気持ちは分からなくもないのだけれど……。
と、僕がこんな半年前の話をしたのは如何に利亜夢が誰にも邪魔されずに自身の思うままに第一の人生を送っているのか、それを分かってもらいたいためさ。彼の母親の機嫌に問題がなければ、利亜夢の邪魔をすることは誰にもできない。そう、僕の口に性具を押し当てることくらい、彼には朝飯前なのだ。
僕はポルノを人並みに観賞するけれども、性具なんて使ったことはおろか、現物を見たこともない。にもかかわらずそれが性具だって一瞬で分かったのは、性具にしか放出できないと思われる霊的なエナジーを感じ取ることができたからさ。僕はその日、アイマスクとイヤーマフをしていなかった。必要なかったのさ。夏太朗兄さんとキスの素晴らしさを語り合い、ハンバーガーとコーラくらい仲良くなった喜ばしい日だったから、心地よい眠りは約束されていたんだ。それなのに! 僕は頼んでもいないモーニングコールに快眠を妨げられてしまった。利亜夢の手にする性具の咆哮、けたたましいモーター音に叩き起こされたんだ。僕が目を開けると、文字通り目と鼻の先にこの世のものともあの世のものとも思えない物体――性具があった。性具はシリコーンのような材質で、人間の口元だけを象ったものだった。そしてそいつは舌を出していた。その舌は不規則に(僕にはそう見えた)運動していた。もしもそいつに言語能力が備わっているのなら「何を食べて生きているのか」というこちらの問いに、「背徳を食べて生きている」とその口は答えるだろう。
「おはよう」
目を開けた僕に向かって利亜夢はそう言ったんだ。その状況で爽やかに朝の挨拶をしてくるのは利亜夢か、サイコ映画に出てくる殺人鬼くらいだろうね。
ベッドの脇に立っている利亜夢を見つめながら、僕は上半身を起こしたんだ。一方の甥はというと、彼は僕と目を合わせたまま、手にしている性具の電源を平然たる態度で切って微笑んでいた。物欲しげに舌を出したままで止まった性具の全体像を、僕はこのとき初めて確認できた。懐中電灯のような形だった。
「おはよう」
僕は利亜夢に挨拶を返すことから始めたんだ。そして僕は深呼吸をして、心身の緊張をほぐしてから優しい声で彼にこう尋ねたのさ。ちゃんと洗ったのか、と。性具だってことは勘づいていたから、衛生面のことが気にかかったってわけ。
「パパの部屋の住人なんだろ、そいつ。『もう一度訊くが』と、もう二度と言わせるなよ、利亜夢。昨日僕の口に押しつける前に、ちゃんと洗ったのかい?」
利亜夢は首を傾げるばかりで僕の質問に答えなかった。で、僕が間を置かずにこの悪童を問いつめようとした、そのときさ。ある人物によってそれは遮られたんだ。姉が寝室に入って来たのさ。
「やはり持ち出したか」と言って姉は利亜夢から性具を取り上げたんだ。「利亜夢、これはおもちゃじゃないんだよ。あ、いや、おもちゃなんだが……もう触っちゃ駄目! 『どうして』って言葉でママを困らせてもいいよ、利亜夢。ママね、今日はあなたの父親のせいで罪のない子供を殺したいくらい機嫌がいいから」
利亜夢は母親に向かって微笑んでいた。そうして彼は母親の機嫌がこれ以上よくならないよう、足音を立てずにそうっと寝室から出て行ったんだ。
事の真相は何となく分かったんだけど、僕は姉に説明を求めた。すると彼女は素直に応じ、性具の電源を入れたり消したりしながら僕に説明した。僕は不規則に運動しているとみられる性具のその舌を目で追いながら姉の説明を聞いた。
「実はこれ、女性を満足させるおもちゃ。昨日ヒカルからもらったんだが、ちょうどお前が寝てたから利亜夢に持たせていたずらさせてやったのさ。それよりもお前がこいつと愛し合うのをみんなで見物してたんだが、亜男、お前すごい食いついてたな。そんなによかったのか? どんなふうによかったのか逆に説明しろよ。お前が失った理性なんて可愛いもんさ。接骨院の先生がむち打ち患者を集めるために暴走運転をしようと企むくらいのもん。それに足の裏だってずっと地上と接吻してるわけだから、性具と接吻することなんて恥ずかしいことでもなんでもない。だから答えろよ、亜男。変なことは考えてなかったけど、めちゃくちゃ変なことは考えていたんだろ?」
僕は何も答えなかった。姉がぞんざいに扱っているファーストキスの相手を、僕はただじっと見つめていた。そして僕は誤解されるような話をした夏太朗兄さんを心の中で非難した。僕はその性具が夏太朗兄さんの嗜好品(積んだ徳を降ろしたくなったときに親しむ)だと思っていたのさ。キスの素晴らしさを語った人の息子があんなモノを持っていたら誰だって誤解するじゃないか!
姉と夏太朗兄さんはその性具が原因で喧嘩になったらしかった。下品な姉が冗談で夏太朗兄さんに性具を見せたところ、冗談の通じない夏太朗兄さんは「卑猥だ!」と怒って部屋を出、僕に電話したってわけ。
とはいえ、姉と夏太朗兄さんの夫婦仲が険悪だったのは三日間だけさ。僕も出し抜けにキスされたいなあ、と夏太朗兄さんは僕に語っていたわけだけど、彼はその夢を叶えたせいで妻に服従せざるを得なくなったんだ。夏太朗兄さんのその夢を叶えてやったのは妻である姉さ。姉は夫と喧嘩を始めて三日目の夜、その夫にたらふく酒を飲ませ眠らせたあと、彼の口に例の性具を押し当てた。そして姉は夫が性具に発情する様子をスマートフォンで撮影した。夏太朗兄さんが性具の唇を求めるさまは、撮影者が嫉妬してしまうほど激しいものだったという。翌朝、鬼嫁がその動画を世界へ発信するぞと夫を脅迫したことで夫婦喧嘩は終結した。卑猥だと罵ったそいつと卑猥な行為に及んでしまったから、夏太朗兄さんは泣き寝入りしたのさ。
――ファーストキスの相手が性具だったなんて、僕には想像もつかないことだった。でもそれよりも、利亜夢から性具を取り上げた姉が寝室から出て行くときに明かしたこと、そのことのほうが僕の想像を絶するものだった。姉はこう言ったのさ。
「ヒカルって実は男なんだけど、気づいた?」
僕にキスしたのは誰?〈了〉
"Adan #25"へのコメント 0件