夏太朗兄さんのその答えは僕を納得させるものではなかった。あんな女と「気づいたら付き合っていた」なんて、いくら逆玉に乗れるチャンスといえども僕からすればそれは催眠術にでもかからない限りあり得ないことなのだ。だから僕はもう一歩踏み込んだ質問をしたのさ(サークル活動については話が長くなりそうなので訊かなかった。安い餌をつけた針に食いつく下魚だと思われたくもなかったし)。
「亜利紗は正しい言動をしようとすることにエネルギーを使うのではなく、自分のした言動をどうすれば正義に転換できるのかってことにエネルギーを使う下等生物じゃないか。それに大学時代の亜利紗は卵焼きもまともに作れなかったよね。少しでも魅力を感じるところがないと交際しようって気に普通ならないと思うんだけど、夏太朗兄さんは亜利紗のいったいどこに惹かれたの?」
僕にそう訊かれた夏太朗兄さんは腕を組んで「うーん」と言いながら考え込んでいた。難しい質問であることは確かだ。
で、僕の問いかけから十三分後のことさ。考え込んでいた夏太朗兄さんが次のような言葉を発したのは。
「キスが……」
このときの荻堂亜男にとって〈キス〉という単語以上に心惹かれる餌はあるまい。当然のことながら僕は夏太朗兄さんの口から出たその単語のついた針に食いついた。夏太朗兄さんはその単語を口にしたことを後悔している様子だったけれど、僕は夏太朗兄さんに「キスがどうしたの」としつこく迫った。すると夏太朗兄さんは口を開いてくれた。渋々といった感じだったけど。
「まだ亜利紗と付き合う前、サークル仲間たちとサラダボウルっていうボーリング場に行ったときの話さ。僕はボーリングをワンゲームだけやって、それからずっとそのボーリング場のトイレの個室にこもっていたんだ。べつにお腹を壊していたわけでも、ボーリングのスコアが五十を越えなかったからいじけていたってわけでもなく、実は、僕はそのボーリング場で人種差別に遭っちゃってね、うん。人種差別をするのは人間の本能に刷り込まれているものだから仕方ないし、どういった人種差別に遭ったのかを話すのは長くなるから控えさせてもらうよ、人種差別する人を人種差別することになりそうだし。とにもかくにも、サラダボウルで人種差別に遭うなんて思ってもみなかったからショックだったよ。シーザーサラダにクルトンが入っていないときのショックとは比べものにならないほどに……」夏太朗兄さんはアイスコーヒーを一口飲んで続けた。「そろそろ戻らないとサークル仲間たちと便器に迷惑がかかると思って便座から立ち上がったそのときさ。僕が入っていた個室のドアを誰かがノックしたんだ。僕はすぐにドアを開けたんだけど、開けてびっくりしたよ。なんと目の前に亜利紗が立っていたんだ。僕は亜利紗だって分かった瞬間、彼女の腕を掴んで個室に引き入れた。僕がそんな行動をとったのはどうしてかというと、男女共用トイレじゃなかったからなんだ。誰かに見られたらまずいと思ってね。さて、亜利紗のどこに惹かれたのかって質問だったね。その質問の答えは『舌使いの巧みさ』かな。というのも、そのときトイレの個室で亜利紗といい雰囲気になって、その個室でやった彼女との初めてのキスがすっごくよかったんだ。すっごく。いま思うと人種差別されてよかったよ。人種差別もこの世界に必要なんだね。あのとき人種差別を受けていなかったら僕と亜利紗は付き合っていなかったかもしれないし、それに僕と亜利紗が交際に発展しなかったとなると利亜夢は存在しないわけで。こうして亜男くんと家族になれたのも人種差別されたおかげだね!」
つづく
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