僕が自宅マンションに戻ったのは夜の十一時くらいだったと思う。
僕は家に帰るつもりはなかった。どうすればまたヒカルさんに(できれば姉を介さずに)会えるのか、その手立てを熟考するためにカントリークラブのコテージにチェックインしていたんだ(僕にキスをしたのはヒカルさんだと僕は断定していた。ヒカルさん以外考えられなかったし、ヒカルさん以外の誰かだと考えたくもなかった)。
僕がカントリークラブの宿泊をキャンセルしてまで家に帰ったのはある人に電話口で、一晩泊めて欲しい、と泣きつかれたからさ。その人に助けを求められたのは初めてだった。
「つらいことに慣れないのはその人間の力量の問題ではなく、そもそも人間——いや生物はつらいことに慣れてはいけないってことだと思うんだ」とその人は居間のカウチに腰を下ろしてそう言った。
備瀬夏太朗。姉の夫であり、利亜夢の父であり、僕の義理の兄である。
彼は僕の姉と同い年、数えで二十五だ。冬生まれの夏太朗兄さんは中背で、痩身で、肌の色が白くて、重力に従順な一重の垂れた目をしていて、縁なし眼鏡をかけている。夏太朗という名前がこんなに似合わない人はいないと思うね。髪型も重たいミディアムヘアだし、服装だっていつも地味だし。印象としては“存在感のある透明人間”[注1]って感じなんだ。ジョブカフェでキャリア・コンサルタントの仕事をしてるらしいけど、この人にそんな仕事が務まるとは到底思えない。就職希望者に正しい職業選択をさせる仕事なのに、彼自身の職業選択は誤っていると思う。
僕は夏太朗兄さんに何があったのか尋ねる前に彼に飲み物を出した。もちろん酒以外の飲み物――この日はコカ・コーラ。夏太朗兄さんは酒癖が悪いんだ。彼は普段大人しいのに酒を飲むと人格が変わる。毒舌家になる。ヒカルさんと舌を絡ませたと思われるその日の夜に毒太朗にまで絡まれるなんて、それはいくら日曜日といえども陽気すぎる!
というわけで僕も酒を飲まずにコカ・コーラで我慢することにしたというのに、この男は、色んな意味でコカ・コーラは嫌いなんだよね、と言って他の飲み物を僕に催促した。
あいにく他の飲み物はアイスコーヒーと水と炭酸水と酒しかなかった。だから僕は夏太朗兄さんに、アイスコーヒーでいいかい、と尋ねたのさ。
「コーヒーに関しては今は距離を置きたいんだ、好きだからこそ。亜男くん、僕は別に引火するような飲み物でも一向に構わないよ」
夏太朗兄さんはそう言ってキッチンのほうを見た。親愛なる我が義兄はどうしても酒を飲みたいと見えた。
つづく
[注釈]
1.透明人間
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