僕の書いたシナリオの原稿用紙をお婆さんは破り捨てたわけだけど、僕はその原稿用紙に何の未練も感じなかった。デスティニーさんに会えるのだ。すぐに!
僕は天にも昇る心地だった。一方の北斗はというと、彼はうなだれていた。そんな北斗を見て僕の嬉しさは倍増した。成層圏くらいまでなら本当に飛べそうな気がした。
さて、デスティニーさんが来ることをお婆さんから聞いて、ほんの二分後くらいさ。僕らのいる店の前でデスティニーさんの車と思しき黄色いステーションワゴンが停まったのは。
「LOVEとMONEYは両思いなんだ」と僕はその車を見てそう呟いたんだ。そして僕はその車の運転席のほうに目を凝らしたのさ。
運転席から出てきたのはラフな格好をした人だった。男の人だった。三十代くらいで背の高い、ハンサムな人だった。
僕は車の助手席と後部座席に目をやった。デスティニーさんが同乗していないか確かめたんだ。が、誰も乗っていなかった。言い換えると、数多の虚無が相乗りしていた。ぎゅうぎゅう詰め。
「残念。今日こそは両頬のほくろを同時に押してやりたかったのに。妹の旦那が来たか」とお婆さんが言った。
妹の旦那。僕はその言葉の意味をすぐに理解できた。けれどもお兄さんには妹が二人いて、目の前の男性はデスティニーさんでない、もう一人の妹の旦那さんなのだと僕は改めてそう理解しようとした。まあ何ていうか、自己防衛本能が快調に作動したっていうか、うん。
「妹の旦那って、両頬にほくろがある人の旦那でいいんだよね?」と北斗がお婆さんに訊いた。
僕はこのとき北斗の頭から生えた二本の角を認めた。アンブローズ・ビアスが愛用したペン先くらい鋭く尖った角を、だ。北斗は僕のためを思ってお婆さんにそんな野暮な質問をしているわけではないんだ。彼は自分のために質問しているのだ。
僕は立っていられなくなった。その場にへたり込んでしまった。なぜって北斗の質問に対するお婆さんの回答が、自身の両頬を人差し指で同時に押しながら首を縦に振る、というものだったからさ。
北斗は有名人にでも会ったかのような様子だった。彼は明るい声でデスティニーさんの旦那さんに握手を求めていた。そのままサインも求めそうな勢いだった。
それから僕はお兄さんがデスティニーさんの旦那さんと北斗に抱えられて車の後部座席に放り投げられるさまを黙って眺めていたわけなんだけど、ほどなくして息を吹き返してきたアルコールに再び襲われることとなった。目を閉じると、僕はいくらでも世界を回転させることが可能になっていた。このときたしかに世界は僕を中心に回っていたと思う。
「アキレス腱でも切れたのかい?」とお婆さん。「うちの店でリハビリしていきな」
お婆さんは僕を気遣ってくれた。彼女の顔がかの有名な修道女の顔と重なって見えた。とりわけ鼻が。
僕はどうにかこうにか立ち上がった。そして僕はお婆さんのご厚意に甘えて、足を引きずりながら店に入ったのさ。
お婆さんの店は五坪ほどのカウンターバーだった。カウンターの中の三段になった飾り棚には世界中の色んな種類の酒をたくさん並べてあって、天井から吊られた三本のペンダントライトの青白い光が、一枚板と見られるカウンターテーブルを照らしていた。客はいなかった。そして店内にはオードリー・ヘプバーンの歌うムーン・リバーが流れていた。
はてさて、かの有名な修道女に案内された場所で地獄を見るなんて、誰が想像できるだろうか。それはオアシスを求めて砂漠を彷徨い、やっと見つけたオアシスで溺死してしまうようなものじゃないか。問題は店内の壁さ。このときの僕にとってその壁面と遭遇することが如何に酷か、ここまで読んでくれた心優しい暇なあなたなら分かってくれると信じている。
店内の壁がどんなものだったのかというと、その壁はテーマの窺い知れない前衛的な絵で――見る人が見ればバンクシーよりもメッセージ性を感じる絵で埋め尽くされていたのさ。そう、壁全面にデスティニーさんの絵が飾られていたんだ! 僕の見た限りではすべての絵の右下に「デスティニー」としっかりサインが入っていたし、言葉で言い表せない絵のタッチは紛れもないデスティニーさんのそれだったんだ。
つづく
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