「ヒトはもともと分かれていたの。分かれていたことにより、沢山の物語が生まれたのよ」
八畳間の中心に置かれた背の低いテーブルをはさみ、長い黒髪を首の後ろで束ねた女と、短い黒髪を眉の上で切りそろえた少女が話をしている。二人は親子であったが、歳の離れた双子という言葉が適当と思えるほどよく似ていた。
「分かれていたってどう言うこと?」
そう言って少女は座布団から腰を浮かせテーブルに両肘を乗せた。少女の小動物を思わせる黒目がちな目は、溢れ出さんばかりの好奇心をのぞかせ母親を見据える。
「遥か昔、私たちはオトコとオンナと言う二つのヒトに分かれていたの。二つそれぞれがヒトだったの。オトコとオンナがいなければ赤ちゃんを作ることも出来なかったのよ」
「ええ変なのお。そんなの動物みたいじゃない」
少女は驚きの声を上げる。
「そう。ヒトは動物みたいだったのよ」
「ジャスミンは違うよ。動物じゃないもん」
少女は自分のことをジャスミンと呼んだ。ジャスミンは七歳であったが、まだ自分を表す一人称が名前から変化していない。もっとも、ジャスミンの生活空間では一人称が変化するのはずっと先だ。
「そうよね。ジャスミンはヒトだもの。でもジャスミンのずっとずっと昔のおばあちゃんはヒトであり動物でもあったのよ」
そう言って母親はテーブルに置かれた茶碗を手に取り口元へ運んだ。
「ヒトがむかし動物だったとしたら、殺し合ったりもしていたの?」
「そうよ。でも動物は生きるためだけに殺し合うけど、ヒトは違ったの。生きるためにも殺し合ったし、違う理由でも殺し合ったの。違う理由の中にはヒトが二つに分かれていたことが原因だったこともあったわ」
母親はジャスミンに動物とヒトの攻撃性の違いを説明したかったが、ジャスミンの年齢を考え表層的な答えにとどめた。
「だからオトコとオンナは一つになったのね?」
「そうね。それも理由の一つかもしれない。でもねジャスミン、一つになった一番大きな理由は、赤ちゃんを作るのにオトコが必要なくなったからなの」
Y染色体を必要としない生殖によって、ヒトはどのように進化の階梯を登ったのか。SRY遺伝子を常染色体内に取り込むことすらせず、完全に消し去ったことにより生じた弊害をどうやって克服し、現在の多様性を確保するに至ったのか。母親がジャスミンへ説明すべきことは沢山あった。
「それじゃあ私たちはオンナなの?」
「いいえ。私たちはヒトよ。オトコが生まれてこないようにしたけど、オンナだけになったわけではないの。ヒトになったのよ。ヒトがヒトになるために、オトコとオンナを一つにしたの」
「だから動物みたいに増えすぎたり減りすぎたりしなくなったのね。だって赤ちゃんを作るのにオトコが必要なければ、一人の考えで赤ちゃんを作ることが出来るから、個体数を管理しやすいもの」
「ジャスミンは頭がいいね。そうなの。ヒトが一つになって、ヒトを完全に管理することが出来るようになったの。でもね、一人の考えで赤ちゃんを作ってはいけないのよ……」
母子の会話は続く。
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