~IT革命の女戦士~
果たして、それから、30分がきっかりと経った15:30に、砂場心理クリニック
のドアがノックされた。
「どうぞ。」と答えた冴子の声が届く前に、ドアのノブがガチャリと回され、
一人の女性が入ってきた。
年齢は30歳前後で、全身を派手なブランド物のスーツに包み、アップにまとめられた
髪から、先の尖がったヒールの先端まで、壱分の隙も無い完璧なビジネススタイルだった。
「初めまして。私が先ほど、電話でアポを取りました、相談者の峰山レイコです。
よろし...。」
そこまで言いかけて、レイコは目を見張った。
目の前の応接セットのソファーの長いすには、無精ひげを生やした、40歳過ぎの男が
高いびきで寝ているのだ。
その奥で、アシスタントと思しき、20歳代の女性が申し訳なさそうに、こっちを
見ている。
「すみません。ちょっと、砂場先生はお疲れのようで。いま、起こします。」
そう言って、冴子は砂場の元に駆け寄り、肩を揺すって起こした。
「先生、クライアントさんがお見えです。起きてください。先生、起きてください、」
先生と呼ばれる男が、この心理クリニックの主であることは、着ている白衣からも
伺い知ることが出来た。
と、同時にレイコは、その砂場と名乗る男を必死で起こそうとする冴子についても
鋭く観察し、自分の中で値踏みをしていた。
“この娘の落ち着きは何? 相談者である私が時間通りに来ているのに、大して
悪びれもせずに、この非常識な男を苦笑交じりに起こしているわ。
みたところ、まだ20歳台の若さのようだけれど、キレイな顔立ちのわりに、
芯はしっかりしていそうね。
こういう娘を使いこなせているこのクリニックは、案外、本物かもしれない。
ここでなら、私の今の病気を治してもらえるかもしれないわ。“
冴子が砂場を起こそうとする間に、レイコの頭の中では、このような考えが巡り、
状況を冷静に分析していた。
砂場の態度を非常識で無礼と感じるより、この型破りな心理カウンセラーなら...と、
むしろ、頼もしいで受け取る度量が、レイコにはあった。
そんなレイコの表情を、薄目を開けて、伺っていた砂場が突然に起き上がり、
立ち上がって、挨拶を始めた。
「砂場心理クリニックにようこそ。
私が、所長の砂場恍です。どうぞ、お掛け下さい。」
そう言って、砂場はレイコに椅子を勧めた。
“やっぱり、この砂場という心理カウンセラーは、自分のペースに患者を巻き込む
ために、初対面から狸寝入りをしていたのだわ。
それも、カウンセリングの第一歩として、このアシスタントの女性も判っていて、
敢えて、来客前に起こすことなく、こういう醜態を見せ付けていたのね。
この心理クリニック、あなどれないわ。気を引き締めて臨まなければ...。“
レイコは、自分が治療に来たことを忘れて、これから新規に始まる重大なビジネスで
初対面の取引先に面会するような気持ちで、挨拶を始めた。
「初めまして。
私、こういうものです。どうか、よろしく、お願いします。」
そう言って、レイコが差し出した名刺には、こう記されていた。
『女性のための総合情報発信企業
有限会社 インフォレディ・アソシエート
代表取締役社長 兼 CEO 峰山レイコ』
砂場も、白衣のポケットから、自分の名刺を一枚、取り出し、
レイコに渡して、椅子に腰掛けることを薦めた。
レイコの名刺を片手に摘みながら、砂場が尋ねた。
「ふーん、峰山さんは、社長さんなんだ。
ところで、お幾つですか?ご結婚は?ご主人の年齢とお仕事は?お子さんは?」
砂場の突然の質問にも、レイコは動じることなく、堂々と応えた。
「はい、私は32歳です。既婚です。
夫は47歳で、植物学者をしております。
子供は、女の子が一人、5歳です。」
レイコのよどみない回答ぶりに、砂場も調子を合わせるかのように、
テンポ良く質問を重ねた。
「なるほど。
で、ご家庭はうまく行っているのですか?
みたところ、お仕事は順調そうですが。」
レイコも顔色一つ、変えずに答え続ける。
「はい、おかげさまで、現在、離婚調停中です。
娘の小学校のお受験のために、離婚を踏みとどまっている状態ですね。
私の仕事の方は、充実しており、今日はそのことでご相談に伺いました。」
そこまで応えた瞬間に、レイコはケリーバックから携帯を取り出し、
「失礼!」と一言、断って、メールをチェックし始めた。
4,5通のメールに目を通したのち、
「ちょっと、電話をさせてください、」」
と、言って突然に、席を立ち上がり、ツカツカとヒールの音を響かせて、
クリニックの外の廊下へと出て行った。
クリニックの中では、砂場と冴子が目を合わせて、唖然としていると、
ドアの向こうから、レイコの電話の声が響いてきた。
「・・・ええ、そうなの。わかったわ。じゃあ、こうして・・・」
「・・・そんなんじゃ、間に合わないでしょ? 徹夜してでも、やりなさい・・・」
「・・・だったら、私が来週、向こうに飛ぶわ。支給、チケットの準備をして頂戴・・・。」
おそらく、電話で要件を3,4件片付けたのだろう。
ドアをノックして、レイコが再入室し、また、ツカツカと応接椅子まで戻ってきて、
砂場に言った。
「どこまで、お話しましたっけ?
ああ、そう。お受験ね。ええ、そのために、主人とは今は離婚をしません。
でも、完全に別居状態です。というより、私がウイークデイは、都内のホテル
暮らしをしているので、家には主人と娘の二人暮しです。」
「ふーん、そうなんだ。
じゃあ、あなたがプチ家出状態なわけですね。
娘さんも寂しいだろうに、ねえ。」
砂場の言葉に、少し、ムッとした表情を浮かべながら、レイコが応えた。
「プ、プチ家出だなんて。そんな軽々しい無責任なものではありません。
仕事をやる上で、より効率的に都内に宿泊しているだけです。
主人は、私とちがって、国立大学の研究室勤めですので、マイペースで
働けますし、娘の面倒も平日はベビーシッターを雇って、ちゃんと看て
もらっています。
その分、週末は私は、接待などの仕事が入らない限り、娘との時間を
最優先にしておりますので、キチンとケアできています。」
「では、今日は、どういうご相談でこちらにお越し頂いたのですか?」
砂場がそう尋ねたとき、再び、レイコのカバンの中で携帯のバイブが震えて
メールの着信を伝えた。
「ちょっと、失礼します。メールをチェックするだけです。」
そう言って、レイコは砂場とのカウンセリングを遮り、携帯メールのチェックを
始めた。
先ほどのメールチェックから、時間にして5分も経っていなかった。
メールを確認したあと、レイコはふたたび、廊下へと飛び出して行き、
ドアの外で、電話のやりとりと5分ほどして、戻ってきた。
その会話の内容は、部下を厳しく叱責するような口調のものだった。
再び、席についたレイコが、少し、ばつが悪そうに言った。
「ええっと、どこまででしたっけ?
ああ、思い出した。私が、今日、こちらにお伺いした理由についてですね。
それは・・・。」
まるで、ドリフのコントのように、同じ行動を繰り返しているレイコに対して、
今度は砂場が言葉を遮って言った。
「はい、だいたいのご事情は、わかりました。
本来ならば、あなたの先ほどからの一連の行動に関しては、
『少しは、落ち着かれてはいかがですか?』と、申し上げたいところですが、
あなたの来院理由が、まさにそれであることが判りましたので、申しません。」
「え、あら。そ、そうですか。
ええ、そうです。そうなんです。」
レイコはいきなり、砂場に核心を突かれ、少し戸惑った様子で応えた。
「あなたの病気は、ズバリ、“インフォ・マニア”ですね。
一言でいえば、“情報中毒”です。」
「あ、はい。そうです。
前に、掛かった心療内科でも、そう診断されました。」
「それに、あなたは、“ワーカホリック“も加わっている。
つまり、“仕事中毒”です。」
「ええ、それは、先週まで掛かっていた精神科医に言われました。」
「より、正確にいえば、あなたの場合、ワーカホリックが、情報機器を
手にしたことにより、インフォマニアになったという状況ですね。」
「それも自覚しております。
でも、前にも伺いましたが、我が身を犠牲にして、一所懸命に働くことが
どうして、悪いことなのですか?
私は、自己満足と自己責任の範囲で、毎日、頑張っています。
もちろん、家族には寂しい想いをさせているかもしれません。
しかし、その分も私なりに、十分、ケアしているつもりです。
ベビーシッターの費用だって、ぜんぜん、バカにできないほど、
掛かるんです。
この前は、ずっとまとまった休みがとれなかったので、ようやく
娘を連れて、ハワイに行くことが出来たのですが、その時も、私は
熱が出たにも関わらず、娘と海に潜っていました。
私としては、常に精一杯やっています。
それなのに、どうして、病気にならなければいけないのですか?
その答えを、どこのお医者さんも出してくれないから、こうして、
こちらのクリニックにまで、わざわざ、時間を作って、来ているの
じゃないですか?私は、忙しいのに...。」
そう一気にまくし立てて、レイコは目にうっすらと涙を浮かべた。
しかし、彼女のプライドが邪魔してか、泣くまでには至らず、逆に、
自分の理不尽な病状を治せない医者連中に対する怒りを砂場にぶつけて
いるようだった。
冴子が、そっとコーヒーを差し出す。
それにそっと、「ありがとうございます。」と会釈をして、
ハンカチを仕舞い、毅然として口をつけた。
その態度には、同性で自分より若い冴子には、自分が泣いている姿は、
死んでも見られたくないという、レイコの強い意志が現れていた。
「どうして、そう一所懸命に働かなければならないと思うのですか?」
砂場は、わざとノンビリした口調で、レイコに尋ねた。
その問いに、レイコは背筋を伸ばして、答える。
「仕事と社会に対する責任感からです。
私の仕事には、私の娘や会社の従業員の生活、それに子供や家庭を持ちながら、
起業して仕事に打ち込んでいる女性の方々への希望となる責任があります。
私はこのIT革命の時代が到来するのを予感して、ITを武器に、女性ならでは
のコミュニティや情報発信が出来るメディアを今から10年前に立ち上げました。
その頃は、インターネットの存在を知っている女性もほとんど、いなかった
ような時代で、その中で、女性がどうすれば、より積極的に社会進出したり、
いろいろな出会いやコミュニケーションが楽しめるのかを真剣に考えて、
女性のための新しい情報環境の構築に勤めました。
そうした努力が認められて、「女性のためのニュービジネス大賞」を受賞
したり、多くのマスコミからも注目を集めております。」
「社長のお顔は、何度か、雑誌やテレビで拝見しましたわ。」
冴子が、横からタイムリーでナイスなコメントをいれてくれる。
「ありがとう。」
レイコがニッコリ笑って、冴子に微笑みかけた。
その表情には、自分のことを認められた嬉しさが溢れていた。
「とにかく、そうした私は、ITを武器に、会社をつくり、仕事をしてきました。
でも、最近は、このITに振り回されて、自分が奴隷のようになっているのでは?
と不安のように思えることがよくあるんです。
だから、砂場先生になんとかしてほしいんです。」
砂場の目をみつめて、すがるように言ったレイコだったが、その時、突然に携帯の
アラームがなり、時刻が16:30であることが知らされると、
「では、よろしくお願いします。
次のカウンセリングの日時の候補日は、名刺に書かれたメール宛にお送り下さい。
では、よろしくお願いします。さようなら。」
とだけ言って、そそくさと席を立ち、ドアを開けて帰って行った。
後に残された砂場は、冴子に向かってポツリと言った。
「今度のクライアントも重症だな。俺の手に、負えるかな...?」
その言葉と共に、砂場は再び、高いびきをかきはじめた。
~ほとばしるエンドロフィン~
IT関連会社の美人社長、峰山レイコの突風のような来院の後、
砂場と冴子は、その対応策を相談した。
砂場の診るところ、レイコ自身、自分の症状や原因については、
十分、自覚しているものの、その一方で現状の職場環境やライフスタイル
を改善する意思がないことも伺えるのがネックだった。
「あの人、自分が忙しくしていないと、逆に落ち着かないんじゃないかしら?」
自分が淹れたコーヒーカップを両手に包んで、冴子が言った。
「それが、まず、ワーカホリックの典型的な症状だよ。
まさに“仕事中毒”とは、よく言ったもので、実際に中毒症状とかなりの
部分で共通するんだ。」
「そうなの?」
「いわゆる、過労死などの問題になるような、会社や職場からの強制による
過剰労働というより、マラソンなどで長時間走り続けると、気分が高揚してくる
いわゆる『ランナーズハイ』に近い状況と捉えたほうがいいだろう。」
「じゃあ、やっぱり、脳内物質とか?」
「ああ、おそらく、エンドルフィンに代表される、脳内で機能する神経伝達物質が
彼女が働いている最中は、大量に分泌されている状況だと思うよ。
これらは、本来、内在性鎮痛系にかかわり、多幸感をもたらす作用があると考え
られているから、いわば、モルヒネみたいなもので、脳内麻薬とも呼ばれているんだ。」
「じゃあ、身体に良くないの?」
「ああ、たしかに他の麻薬物質と同様、脳細胞を破壊し、多量に放出されると、
人格さえも破壊してしまう懸念もあるんだよ。」
冴子は、思わず、身震いをした。
「これらは、主に人間の脳のうち、報酬系と呼ばれる神経系に関係しているんだ。
報酬系は、人間の欲求が満たされたときや、あるいは、それが満たされることが
分かったときに活性化して、その個体に快適の感覚を与える神経系なんだよ。」
「いわゆる、『嬉しい!』という感覚のことなの?」
「まさに、そう。
ここでいう欲求には、喉の乾きや食欲、体温調整といった生物学的や生理的な
生存本能に直結する短期的なものがまずあるのは、わかるよな。
喉が渇いている人が、その状況で水を飲んだときに、脳内ではこの報酬系が
活性化し、快感を得るんだ。」
「ええ、わかるわ。たしかに、水を飲んで水分が補給されるだけでも、
『ああ、嬉しい。』と、感じるわね。」
「このほか、まだ水を飲んでいなくても、水道を見つけたり、清涼飲料水の
自動販売機を見つけただけで、これから水にありつけるという期待感から
『ああ、嬉しい!』と思うだろう。あれも、この報酬系が関係しているんだ。」
「なるほどねー。たしかに、まだ、飲んでいなくても期待感から幸せになれるわね。」
"ラスト・クライアント ~インフォマニア・コンプレックス~"へのコメント 0件