オノレ・シュブラックの失踪

己戸春作

小説

3,441文字

誰もオノレ・シュブラックを捕まえられない。幾つもの名作を残した奔放な文学者アポリネールの佳品を、己戸先生が端正な日本語に。

緻密極まる捜査も実らず、警察は謎に満ちたオノレ・シュブラックの失踪を明らかにできなかった。

僕はオノレ・シュブラックの友達だったし、事件の真相を知っていたので、何が起きたのか裁判所に知らせておく義務があると思った。申し立てに応じた判事は僕の話を聞き終えると、慇懃な態度になった。それがひどく怯えた様子で、僕を気が狂った人間だと思っているのがありありと分かった。そのことを判事に言った。するとさらにかしこまった態度になり、立ち上がって僕を扉の方へ押しやった。書記官を見ると、立ったままこぶしを握り締め、僕がおかしな行動をとろうものならすぐに飛び掛かってやろうと身構えていた。

僕は食い下がらなかった。実際、オノレ・シュブラック事件の真相はあまりに不可思議で、想像を超えたものだったからだ。新聞報道を通して、シュブラックが奇人であることは知られていた。夏も冬も、彼はコート一枚しかまとわず、足もスリッパだけで通していた。シュブラックはお金をたくさん持っていたので、僕はその外見に驚き、ある日理由を尋ねたことがある。

「すぐに服を脱ぐためさ。そうしなきゃいけない時に備えてね」とシュブラックは答えた

「結局、服なんか着ていなくても、すぐ慣れるものだよ。下着も靴下も帽子も要らない。僕は二十五歳からこうやって暮らしているけど、病気になったことは一度もないよ」

その言葉を聞いて僕は気が晴れるどころか、ますます好奇心をかき立てられた。

「それなら」と僕は考えた。「どうしてオノレ・シュブラックはそんなに素早く服を脱ぐ必要があるのだろうか」

それから僕はたくさんの仮説を考えたのだった。

 

■   ■   ■

 

ある晩、一時か一時十五分だったか、僕は帰宅途中に自分の名前が小声で呼ばれるのを聞いた。その声はそばの壁から聞こえたようだった。僕は驚き、気味が悪くなって立ち止まった。

「通りに誰もいないかな?」とその声は繰り返した。「僕だよ、オノレ・シュブラックだ」

「一体、どこにいるんだ?」と僕は叫んだ。四方を見回したが、どこに友達が隠れているのか分からずじまいだった。

見つけられたのは、歩道に落ちていたおなじみのコートと、横にあったおなじみのスリッパだけだった。

「これこそ」と僕は考えた。「オノレ・シュブラックがすぐに服を脱がないといけない事態なのか。ようやく大きな謎が解けそうだぞ」

それから僕は大声で言った。

「友よ、通りは無人だ。出てきていいよ」

突然、オノレ・シュブラックが壁から剥がれるように現れた。僕は壁にまったく気がつかなかったのだ。全裸の彼はすぐにコートをつかみ取り、全速力でコートを着てボタンを締めた。それからスリッパを履き、僕の家まで一緒に歩きながら堂々と語ってくれた。

 

■   ■   ■

 

「驚いたな!」と彼は言った。「これで僕が変な格好をしている理由が分かったね。だけど僕がどうやって君の前から完全に姿を消したかは分からなかっただろうけど。とても単純なことだよ。擬態と同じ現象が起きているだけだ……。自然は偉大な母親さ。危険に襲われても弱すぎて身を守れない子どもたちに、周りの環境に紛れ込む能力を与えたんだ……。いや、そんなことは全部知っているよね。蝶々が花のように見せかけたり、昆虫が葉っぱの物真似をしたり、カメレオンが身を隠すのに一番ふさわしい色に変化したり、畑のウサギと同じように憶病なホッキョクウサギが、氷の大地のように白くなって、ほとんど見えない姿で走り去ったり。

そうやって、弱い動物は巧みに自分の姿を変える本能を利用して、敵から逃れるんだ。

僕はといえば、一人の敵から絶えず追い回されている。恐がりだしけんかをしても身を守れないから、こうした動物と同じように、恐怖が迫ると自分の意志で周りの環境に溶け込むんだ。

初めて僕がこの本能的な力を発揮したのは、もう何年も前のことだった。僕は二十五歳のころ、見た目も感じもいい人だとたいていの女から思われた。そのうちの一人は人妻だったんだが、僕が抵抗できないほど尽くしてくれた。だけどこの関係が命取りだったんだ! ある夜、僕は彼女の家にいた。夫は何日間か留守にしているということだった。僕らが神々のように一糸まとわぬ姿でいると、ドアが突然開いて、夫がピストルを手に現れた。その恐怖といったら言葉にできないね。僕は昔からずっと卑怯な人間なので、ただ逃げたいという思いしかなかった。壁に張り付き、壁の中に紛れ込めたらいいと願った。すると思いがけないことが起きた。僕は壁紙の色になり、手足は思い通りに信じられないほど平らに伸びていき、壁と同化して誰も僕のことが見えなくなったみたいだった。実際、見えなくなっていた。夫は僕を殺そうと探し回っていた。夫からすれば僕の姿を確認していたから、僕が逃げ出したなんてことはありえなかった。夫は狂い出し、怒りを妻の方に向けると、乱暴に妻の頭に六発の銃弾を撃ち込んだ。夫が出て行くと、本能的に僕の体は普通に戻り、色も戻った。僕は服を着て、誰も来ないうちに、部屋を出た。それから僕は幸い、擬態能力を自分のものにできた。夫はというと僕を殺せなかったから、僕を殺すことに人生を捧げた。夫は長い間、世界のどこまでも追いかけ回してきたが、僕はパリに移り住んで、夫から逃げ切れたと思った。しかし、さっき君が通り過ぎるほんの少し前、その男に気づいたんだ。恐怖で歯がガタガタ鳴った。服を脱いで壁に紛れるのがやっとだった。夫は僕の近くを通り、歩道に脱ぎ捨てられたコートとスリッパを不思議そうに見ていた。これで君は僕が薄着をしているのが理にかなったものだと分かったね。みんなと同じように服を着ていたら、擬態の能力は発揮できないんだ。殺し屋から逃れたい時に素早く服を脱げないから。壁に張り付こうとする時に服が邪魔になったらいけないから、とにかく裸になることが大事なんだ。

僕はオノレ・シュブラックの能力を目撃し、祝福してあげたのだが、羨ましくもあった……。

 

■   ■   ■

 

その後の数日間、僕はそのことしか考えられず、気がつくといつも自分の姿と色を変えようと意識を傾けていた。バスに、エッフェル塔に、アカデミー・フランセーズの会員、くじの一等当選者に化けようとした。その努力は無駄だった。そんなものにはなれなかった。それだけの力強い意志が僕にはなく、オノレ・シュブラックの本能を目覚めさせたすさまじい恐怖も、とてつもない危険もなかった……。

 

■   ■   ■

 

それからしばらくシュブラックの姿を見かけなったが、ある日、彼が取り乱してやってきた。

「あの男が、僕の敵が」と彼は言った。「どこにいても僕を狙っているんだ。擬態能力を三回使って逃げたけど、僕は怖い。怖いよ」

彼がやせたことに気づいたが、言わないでおいた。

「やることは一つしか残されていない」と僕は言った。「こんなに情け容赦ない敵から逃げ切るには、ここを離れるんだ! 村にでも隠れるんだ。後始末は僕がやるから一番近い駅に行こう」

彼は僕の手を握って言った。

「付いてきてくれ、お願いだ。怖いんだ!」

 

■   ■   ■

 

僕らは黙って通りを歩いた。オノレ・シュブラックは落ち着かない様子で、絶えず後ろを振り向いていた。突然、シュブラックは叫び声を挙げて、コートとスリッパを脱ぎながら逃げ出した。僕らの背後から一人の男が走ってくるのが見えた。僕はその男を捕まえようとしたが、するりと逃げられた。男はピストルを持ち、銃口をオノレ・シュブラックの方に向けていた。シュブラックは兵舎の長い壁にたどり着くと、魔法のように姿を消した。

男は驚いて立ち止まり、怒りの叫びをあげた。いけにえの姿を奪い去った壁にでも復讐するつもりか、男はオノレ・シュブラックが姿を消した場所へピストルを撃った。それから走って消え去った。

人が詰めかけ、それを警官が追い払いに来た。僕は友達の名を呼んだ。しかし返事はなかった。

壁を触ると、ぬくもりがまだ残っていて、六発の銃弾のうち三発が人間の心臓の高さに撃ち込まれているのに気づいた。残りの銃弾は漆喰のもっと上のところをかすめていて、その辺りにうっすらと、顔の輪郭が見えるように思えた。

2008年2月18日公開

© 2008 己戸春作

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