(8章の2)
こんなにも感覚や意識がしっかりしている世界が夢だというなら、もしかしたら、現実の世界だって夢なのではないだろうか。わたしは自分の末に、一縷の希望を持った。このあと間もなく、わたしの意識はあの病室に戻ることになる。そして、さしたる時間を経ずに死ぬことになるが、そこで真の現実世界の目覚めが待っているかもしれない。そこであらためて、長々と生きられるかもしれない。わたしはポッと火が灯るように、気持ちが晴れ渡った。
しかし、まさかな、と苦笑して首を振った。多分に希望が入っている想像だし、なにより死んでみなければ分かりもしないことにすがってみたって、根本的な救いにはならない。
でも、とわたしは思う。死後に世界があると考えることが、こんなにも心の安らぎを生むものなのかと。
わたしはイスラム教徒がうらやましい。敬虔なキリスト教徒がうらやましい。どのようなものだろうと、宗教心を持つ者がうらやましい。命が尽きたとき、神の傍や天国に行けるのだと考えられることが、とてもうらやましかった。
信仰心がなく、まもなく死を迎えるわたしにとって、宗教はどれもこれも一緒だ。もちろん一神教と多神教など、諸々の面で違いがあることは分かる。しかしそれは学問上のことだ。死の寸前の無神論者にとっては、そんな理論など意味がない。
わたしにとって宗教はどれも同じ。どこが同じか。それは、どの宗教もネクストステージがあるというところだ。どれも、次の住処がある。神の元だったり、天国だったり地獄だったり。いずれにしても、死後も自身の魂は、意識は、残るということになっている。
しかしわたしには、ネクストステージがイメージできない。わたしにとって死後は、「無」だ。眠っているときの、意識のない状態が永遠に続くというもの。意識を作る大本の機械、つまり脳を含めた体というものがなくなるのだから、死後に意識が残るわけがない。肉体は滅んでも魂は残るという考えが、どうしてもできないのだ。
「無」というのは、考えれば考えるほどに怖い。ずっとずっと眠ったままの状態で、何千年、何万年、何億年と、時だけが進む。目覚めることは一向にない。今ある自分の思考というのはどうなるのか。
無宗教のわたしにとって、理論による救いはない。信じられないのだから、どう考えようとも、結局は死後が「無」になるということに行き着いてしまう。
まぁ、考えたってしょうがないことだ。わたしはそれを振り払うため、今度、田んぼを想像し、現れた田園地帯のあぜ道を歩く。雑草や土のクッションが足に伝わり、絶望感が薄まって開放的な気持ちになっていく。
ちょろちょろと流れる水の音が耳に心地好い。稲が微風を受け、海の波のように揺れている。
懐かしい。懐かしいが、しかし実際わたしは田んぼというものを、肉眼で見た記憶がほとんどない。ましてや、そこを走り回ったことなどなかった。
昭和40年代の後半から50年代初め。わたしが物心付いて、外で遊びまわっていた頃だが、都市部では田んぼがつぶされ、宅地化されていった。町名に田園と付いているところはあったものの、それはどこも、住宅地だった。畑は多少の段差があっても問題ないが、田んぼは水を張るのでそうもいかない。平坦な地でなければならないということは、家を建てるのに都合がいいということでもある。結果、都市部に人が密集していく過程で、片っ端から宅地造成されていってしまった。
畑も田んぼも農作物を育てる場だが、風情が感じられるのは断然田んぼだ。水がふんだんにあることで生き物も多く集まり、自然が豊かに感じられる。農作業に追われていればうんざりだろうが、昭和末期から平成の時代に、それも都市部に生きたわたしには、田んぼというものは気持ちを安らかにさせる、これも一つの原風景だった。
わたしは田んぼのあぜ道をのんびりと歩く。地面から小さな影がひょいひょいと飛び散る。わたしが踏み込んだことに驚いてバッタなどの虫が逃げ散っているのだ。
額から流れ伝う汗を、わたしは指先ですくって舐めた。しょっぱさを感じる。まったくもってリアルだなぁと、わたしは苦笑した。
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