とほほ部長

千葉寛之

小説

7,857文字

妻と死別したとほほ部長が娘の3姉妹と遭 遇するエロプライベート(恥ずかしい)気まずいとほほ部長は単身で四国のお遍路めぐりへと逃避行。家族の絆を考えさせる素敵なお 話。

トホホ部長は白装束に身をつつみ一心不乱に歩を進める。四国八十八ヶ所の霊場巡拝、いわゆるお遍路の旅を行っている。十一月とはいえ雲ひとつない空から注ぐ日差しは強くトホホ部長の禿げ上がった前頭部を容赦なく照りつける。先ほど入ったファミレスに菅笠を忘れて来た事をトホホ部長は心底後悔した。徳島空港に降りたってすぐ購入したスニーカーの靴底は踵が内側へと斜めに磨り減っていた。背中を幾筋もの汗がつたっていく。弘法大師の化身である金剛杖を強く握り締める右手は、あたかも新たな人生の希望を必死に掴み取ろうとしているようである。

 

いつものように知子と大学の友達である美津子は、マクドナルドで他愛のない話をしている。灰皿に山盛りになっている吸殻が長時間居座り続けていることを物語っている。ストローを噛みながら知子が問いかけた。

「ねえカラオケでも行かない?」

「じゃあ知子がお金貸してくれるなら行ってもいいよ、今月も家賃払えてないんだよね」

美津子は新潟から上京してワンルームマンションで一人暮らしをしている。地元大手の不動産屋の一人娘で両親の仕送りだけで生活している。浪費が激しく家賃や光熱費分の費用まで使い込む事が日常茶飯事で、家賃は三ヶ月分も滞納しているので管理会社から退去勧告を受けている。現在、真剣に水商売に手を染めようか悩んでいる。

「何か簡単にお金稼げる方法はないかな」

美津子はぽかんと空を見つめる。再び鬱屈とした時間が流れる。すると突然、知子がこんな事を言い出した。

「あのさオレオレ詐欺とか振り込め詐欺ってあるじゃない、あんな風に簡単にお金稼げる方法思い付いちゃった」

「何それ?」美津子は話に聞き入った。

知子の説明はこうだ。妊娠したから子供を堕ろすお金を恵んで欲しいと中絶費用を請求する内容のメールを無作為に作成した宛先に送信する。もちろん、そのアドレスが実在しなければ宛先不明としてメールで戻ってきてしまうし、仮に送信できたとしても心当たりがなければ無視されてしまう。けれど万に一つ送信された人物に愛人が居て思い当たる出来事があったとすれば金を巻き上げられる可能性があるという新手の架空請求詐欺だった。

「それヤバくない?警察に捕まるって。だいいち知らないアドレスからのメールで信用する人なんかいないでしょ?」反対する美津子に、知子はこう言い返した。

「大丈夫だって、迷惑メールが多いからアドレス変えたって言えば怪しまれないでしょ。それに警察に通報するとか言ってきた相手には送信先を間違えました、って一言謝れば納得するでしょ」

「そうかな」なおも美津子は腑に落ちない表情をする。

「そうだよ。それにお金を請求したって、振込み詐欺と違って世間に知られたくない後ろめたい事実だから通報される事もないでしょ。」知子はそう念を押した。

「そうかな」

「絶対大丈夫だから、やってみよう」

二人は極めてゲーム感覚で妊娠詐欺を始めた。美津子の携帯電話は料金未払いで発信できないので知子の携帯電話を使うことになった。

「メールアドレスどうしよう」知子は美津子に問いかけると鞄から産業・組織心理学エッセンシャルズというタイトルの教科書を取り出して、そこに記されたフレーズから選ぼうと提案した。出来上がったアドレスは[email protected]やkikikanri@softb

ank.ne.jpなど実用的可能性の低いアドレスばかりになってしまった。文章は、久しぶりアドレス変えました。実は大事な話があります、子供できちゃったみたい、として送信した。結果は宛先不明で全てのメールが戻ってきてしまった。

多国籍企業の内部化理論と戦略提携、民法 財産法を学ぶ、社会保障法解体新書、など次々と教科書を変えてそれぞれの教科書から抜粋したフレーズを用いたアドレスで送信を続けた。五十通近く送信したのち初めて返信があった。その人物は直接話がしたいからこれから会わないかと切り出してきた。知子と美津子は本当に返信があるとは期待していなかったので目を丸くした。何度かメールをやりとりを繰り返して一時間後に新宿西口のルノアールで会う事で話がまとまった。もちろん知子も美津子も本物の愛人ではないので取り立てる方法は二人で話し合った末、こうする事にした。自分は妊娠した愛人の友達で、本人は直接会う事をためらっているので代りに治療費を受け渡す役を買って出たとする。それでも疑ってくるようなら会社や家族にバラすと脅しを掛ける二段構えの作戦だ。

待ち合わせ場所の座席には美津子が座り、知子は背中合わせの隣の席で見守る事にした。約束の午後四時になった。それから五分ほど経って店内に中年男性が入ってきた。美津子が男に声をかけて男は美津子と向かい合わせに座った。知子は小さく振り向き男の顔を盗み見て目を疑った。その男は紛れもなく知子の父親である村田隆であるからだ。知子は割って入ることも出来ずにそのまま座っている。美津子は何故自分がここにいるのか経緯を説明する。隆は納得して聞いている。彼女は今どこで何をしているのか、といった隆の問いに美津子は当たり障りのない返答でごまかして怪しまれないように努めている。元ヤンキーで人間の弱みに付け込む事に長けている美津子の詰問が始まった。隆はテレクラで知り合い割り切った関係でこれまで二三回関係を持ったと吐露した。ここまで築き上げた社会的地位を失う事は避けたいので示談金を払うことで関係を絶ちたいと一息に話し終えた。知子は耳を塞いでいる。

「あの親父マジちょろかったんだけど、他にも引っかかるやつ結構いるんじゃない」

三十万円をテーブルに置き、隆が店を去った後、美津子は勝ち誇って話す。知子はしばらく呆然とうつむいたままで居た。新手の詐欺を考えてから鴨を見つけ、その鴨から金を巻き上げた。それが自分の父親だったという激動の展開がわずか数時間のあいだに巻き起こった。現実を咀嚼できずに頭が混乱した。それからすぐに悲しみと腹立ちが同居して訪れた。

隆が外に出たとき、ちょうど空からぽつりと雨が降り出した。店内に傘を忘れた事に気付き、店内へと引き返した。先ほど座っていた席に近づくと、示談金を渡した女と別の女がいた。見覚えはあるが、孕ませた女でない事はすぐにわかった。それは彼の娘、知子であると気付くには時間は掛からなかった。はてなの表情で隆は思考をめぐらせている。

「本当あの親父バカだよね、自分が騙されていることに全く気がつかないの、あれだけ疑いのない人間も珍しいよ」

隆は二人が札束を分け合うところを見て、詐欺の被害に遭った事に気がついた。

「きさまらー」

足早に近づいてくる隆の存在に気が付いた知子と美津子は怯み、二人店を飛び出して人ごみへ駆けていった。隆はそれを猛追した。

「待てーおまえら何者だ。知子どういうことだ。何で父さんを騙した?え?答えんか」

美津子は知子を見た。

「あんたあのハゲと知り合い?」

「…あれね、私の父親なの」

「え?」

「本当に偶然よ、それより信じられない。こんなのに引っかかるなんて…汚らわしい」

「はあ、そう。なんか、ごめんね知子」

「とりあえず、この金はあんたの親父に返したほうがよさそうね」

二人は札束を隆に向かってばら撒き、そのまま走り去った。知子が振り返ると遥か後方で父親と数人のホームレスが散らばった一万円札の奪い合いを繰り広げているのを見た。

その晩、知子は帰ってこなかった。

 

翌朝、いつもどおり隆は七時四十五分発の中央線快速に乗り込んだ。多少余裕のある車内は国分寺駅のホームに並ぶ長蛇の列が車内になだれ込むことで体が圧迫される程の殺人的な乗車率になる。今日も四谷駅までの不快な時間が始まった。

武蔵境駅への到着アナウンスが車内に鳴り響いた。車両の減速と同時に乗客の体が前方にのけぞる。同時に隆の背中には物凄い重量が圧し掛かる。耐え切れず体勢を崩して前方につまずいた。すると突然車内に悲鳴がこだました。その悲鳴の主は目の前の女子高生だった。

「痴漢」と叫び声が上がり、隆の手は女子高生に掴まれた。車内に一瞬の沈黙が走るとともに視界に入る全ての乗客の視線が隆に注がれた。隣でさっきから隆の靴を踏んでいた二十代前半とも見える正義感の強そうな背広を着た角刈り男が隆の胸倉を掴んだ。

「てめえ何やってんだよ」

「何もやってないよ、ちょっとつまずいて」

「今すぐ降りろ、君も被害者なんだから一緒に来なさい」

角刈り男が女子高生にもそう告げると、隆は無常にも痴漢容疑で武蔵境駅のホームに降ろされる羽目となった。ナッツぎっしりスニッカーズのような車内には動ける隙間なんて微塵もないはずなのに、一人の角刈りの勇者に協力的な周りの乗客たちは海を割るモーゼの如く左右に少しずつずれてドアへと続く道が切り開かれた。注目の中、隆は角刈り男に首根っこをつままれて連行された。

「違う、私はやってない」

隆は自分の身の潔白を説明しなくてはならない。角刈り男を挟んで向こう側にいる女子高生に問いかけた。

「おねえさん、私を困らせて何が楽しいんだ」

隆は半身になり身を乗り出して女子高生の顔を覗き込んだ。女子高生の隆の視線に気付いて二人の目があった。そして愕然とした。隆は慌てて角刈り男に呼び止めた。

「君、君、ちょっと聞いてくれ」

「往生際の悪い野郎だ、さっさと認めて、この娘に謝れ」

角刈り男の拳は隆の頬を捉え、めり込みながら振りぬかれた。ホームで整列乗車の誘導をしていた駅員が駆け寄ってきて角刈り男の背中を羽交い絞めにして制止させた。

「ちょっと暴力はまずいから、事情は事務室で聞きますから。とにかく落ち着いて」

駅員にそう促されて、三人は駅事務室に入った。駅員はソファー椅子に三人を座らせて警察に連絡したので警官がここに到着するまでしばらく待つようにと告げた。

「すみません、この男の人は私のお父さんです」女子高生はか細い声で呟いた。

「そうだよ、話そうとしても聞こうとしないんだから困るよ」頬に氷をあてながら隆も続けざまにそう言った。

女子高生は隆の娘の祐子だったのだ。祐子は続けてすみません、と言いながら小さく会釈して事務室を飛び出した。

「あいつは示談金目的のでっち上げでもしようとでも思ったのか、けしからん。とにかくこれは何かの間違いですから、色々とご迷惑をお掛けしましたね」

隆は平静を装って娘に罪を擦り付けたが、心臓は張り裂けんばかりに大きく激しく鼓動していた。結局、警官が到着してからも被害者不在と証拠不十分で警察署で取り調べを受ける事も拘留される事もなく、その場で開放された。角刈り男は土下座をして謝罪した。角刈り男の処遇は隆の計らいで傷害罪は取り下げとなり警官は帰っていった。それから隆はいつもより一時間の遅れで会社に出勤した。

「おはようございます村田部長。あれ?部長お顔どうされたんですか?」すぐに部下の近藤が近づいてきて、眉ひとつ動かさず極めて事務的な口調で隆の腫れ上がった頬を見ながらそう言った。

「追加発注の件で、先方が今日打ち合わせをしたいとの事ですが、ご都合いかがでしょうか」

隆は、ろくすっぽ返事せず近藤が再度問いかけた。ようやく隆が気付いた。

「え?わ、私?あのさ、ちょっと用事あるから」

隆はそのまま総務課で有給休暇の手続きをとった。帰りがけに東小金井駅で途中下車し

た。サラリーマンを三十五年も続けて初めて有給を使った。都心近郊のベッドタウンの

この小金井地区は、朝方には勤め人達は都心へ赴き、子供は学校に閉じこもる。そのため昼間は年寄りに主婦と乳幼児が取り残されただけの力のない街になる。何をするわけでもなく隆は駅前から商店街をぶらぶら歩いた。こんな経験は初めてだから手持ち無沙汰になり、とりあえずTSUTAYAに入った。本能の赴くままに迷うことなく店内の一番奥の縦長ののれんを潜った。こんなときはまずスッキリするに限る。「おしゃぶり専門学校」「ミス東○大の過激プレイ」というタイトルのDVD をレジに持っていき会計をする。会員証を渡したとき、「お父さん」と呼びかけに顔を上げるとレジに立っている店員は娘の理香子だった。「こんな昼から何やっているの。それに何これ?」DVDのパッケージを軽蔑する眼差しで見つめる理香子がそこに居た。

「何でもない。ゴホン」隆はとりつく島もなく商品をそのままに店外へと早足で出て行った。

 

四人はエレベーターに乗り込み十七階のボタンを押した。エレベーター内のしばしの沈黙を打ち破ったのは十七階です、という自動アナウンスだった。ドアが開き四人はエレベーターを降りてエレベーターホールの柱の影から張り込みをする刑事のようにちょこんを顔の出し自宅の部屋の方向を見た。部屋の明かりはついていない。そのまま差し足で部屋のドアの前までやってきた。ドアの両サイドに背中を貼り付けるようにしてドアに耳を当てた。音はまったく聞こえない、どうやら留守にしているようだ。

「念のためインターホン押してみよう」

ピンポーンとチャイムが二回繰り返して鳴った。

「よし居ないわね、じゃあ突入!」

「大丈夫?」

不安がる二人を尻目に鍵穴に鍵を差し込む。

「大丈夫、行こう。龍ちゃん何かあったら遠慮なく投げ飛ばしてね」

「お、おお、おう」

男はどぎまぎしながら不安な面持ちでそう答えた。かくして自宅マンションのドアが開いた。

長女の理香子の呼びかけで自宅マンションへと戻ってきた次女の知子と三女の祐子である。相次ぐトラブルから父が発狂していたときに備えて理香子の旦那である龍之介もついてきた。

「やっぱり帰ってないわね」

家に上がりリビングの電気をつけた理香子が振り向きながら玄関に居る三人にそう言った。知子と祐子と龍之介も靴を脱いで家に上がった。

理香子がパート勤務するTSUTAYAから隆が逃亡して三日が過ぎた。今日まで知子と祐子は東小金井にある理香子のアパートに転がり込み生活をしていた。理香子と龍之介は高校の同級生で二人が二十歳のときに結婚してから龍之介の実家が所有している2LDKのアパートで暮らしている。

リビングのテーブルには隆の書置があった。今から旅に出ます。いろいろ済まない。会社はしばらく休みますがリストラされた訳ではなく有給休暇なのでご安心を。と散文的な文章が短く綴られていた。四人はそのままテーブルを囲んで座った。

「まあ、人生こんな事もあるわけだよ。俺の上司なんか不倫が原因で三回も離婚しているからね。しかも前妻に一人ずつ子供もいて養育費がバカにならないらしいよ」

「高校のとき隣のクラスに澤田っていただろ、あいつの親父なんて毎晩とっかえひっかえスナックのねえちゃん家に連れ込んでたらしいよ。日替わりママだってさ」

「男は外で遊ぶものですよ。俺にはお義父さんの気持ちが痛いほどわかる」

郵便局に勤務する実直な青年の龍之介は隆への慰めのつもりで言ったらしいが妻の理香子が般若面をつけたような顔で龍之介を見つめる。

「違う違う。俺は不倫なんてしないよ。あれフォローになってなかったかな」

元インターハイ二位で柔道部出身の龍之介は大きな体を縮め申し訳なさそうに首を傾げながら人差し指でつぶれた耳を掻いた。

「それは置いといて、これからどうするかよ。お父さんに連絡して、すぐに戻って来てもらうのか、それとも休暇を満喫させて、落ち着かせてから戻ってきてもらうか」

旦那を持つ理香子だけあって、父の奇行には動揺もせず今後の策を案じている。

「えー、嫌だ。もう一緒に暮らすのとか考えられないよ」

知子はテーブルにうつ伏せになり激しく拒否した。祐子も同様に顔をしかめている。

「二人ともお父さんがお金稼がなかったら学費どうするの。甲斐性なしのあんた達にはお父さんが必要なの。だからせめて学校を卒業するまで我慢しなさい」

「そんな事言ったって無理だよ。お姉ちゃんは何もされてないけど私はお尻触られたんだからね。もう絶対にこの家には戻りません」

スナック菓子ポリンキーをつまむ指を止めて祐子が猛講義する。

三姉妹の口論はしばらく続いた。取り残された龍之介はコンビニへとスクランブル発進して、缶ビールとつまみを買ってきた。

ビールで一息ついた理香子と知子は落ち着きを取り戻した。祐子は自分の部屋に籠もり荷造りをしている。頬を赤らめた理香子はおもむろに書棚からアルバムを取り出しパラパラとめくり出した。

「ねえ知子、この写真覚えてる?お母さんと一緒に撮った写真」

写真には幼い三姉妹と笑顔の母。背中には三姉妹の成長が刻まれた柱が立っている。その柱には身長を測る為に引かれた線が何本もある。母親の死から何が大きく変わったのか、母の生命保険と父が築いた財産で慣れ親しんだ一軒家から駅前のタワーマンションの中層階へ引越した。眼下に見下ろす街は夜になれば星を地上に散りばめたように光を放っているが、何万光年彼方の天体のように現実味のない景色だった。狭くて古い家でも窓を開ければ庭一面に広がる芝の緑が恋しかった。テレビから流れる野球中継の音だけが部屋に響いている。生ぬるい缶ビールを傾けながら龍之介はテレビの前に寝転んで日本シリーズに夢中になっている。テレビ画面は巨人グライシンガーが投じた球が西武中島へのデッドボールになり乱闘騒ぎの場面を映していた。酔いも手伝い龍之介は声を荒げて巨人を罵っていた。理香子と知子は顔を見合わせどちらからともなく思わず苦笑いを浮かべた。

 

トホホ部長は第十一番札所、藤井寺でロウソクを灯明し線香をあげ般若心経を読経した。晩秋の夕日を浴びながら地面に長く伸びた影を引きずって藤井寺をあとにした。今日の昼、義理の息子である龍之介から電話があった。こっちは大丈夫だからいつでも帰ってきてくださいという旨の気遣いの電話であった。

電話を切る間際、女遊びの一つや二つは男の美学ですよ、と龍之介が調子付いた。君に娘を泣かせるようなことをされては困る、と隆は思わず一喝してしまった。龍之介の不器用さはここでも空回りしたが、トホホ部長は勇気付けられ足どりを軽くした。

トホホ部長は玄関に置いてある水の入ったバケツを目印に藤井寺近くの遍路宿に着いた。出迎えに来た女将がバケツの水で金剛杖を清めてくれた。女将といっても七十代の後半に差しかかる老婆で、宿を一人で切り盛りしている。お遍路さんの世話を生きがいに、この年まで現役でいる。宿の造りは古く床のいたるところがミシミシと音を立てる。すぐに風呂に入り、刺身を中心に魚料理の夕食をとった。老婆はお接待と呼ばれるお遍路さんを持てなす独自の風習に従って瓶ビール一本を無償でつけてくれた。翌日に目指す焼山寺はこの旅で初めての山越えになるので、早朝出発に備えて早めに就寝した。

その晩、夢枕に先立たれた妻の春子が立った。これがまさしく三途の川なのだろう、川を挟んだ向こう側で春子がやさしく手を振って立っている。白装束に身を包んだ春子は病床で力尽きた姿から見違えるほど肌の色艶がよく明眸皓歯の美しさだった。

トホホ部長は叫んだ「母さん、私はやってはいけないことをしてしまった」

春子は静かに頷いている。

「母さん私もそっちへ行っていいか」

春子は鷹揚に微笑みながら両手をそっと広げ、口を真一文字に結びなおすと同時に素早く両手を交叉させて大きなバッテンをつくった。

2010年5月7日公開

© 2010 千葉寛之

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