了介が、僚友の植村と一緒に沼に着いたのは、まだ冬の名残が水の上に薄く貼りついている頃であった。空は白みかけているが、蘆の影は黒々と立ち、風もないのに時折かすかに揺れた。そんな時分だった。
昨日、了介が六時限目の国語を終えて、資料室の、「浅香了介」と書かれた名札の棚に資料を仕舞おうとした時のことだった。丁度隣のクラスで歴史の授業を終えた植村が這入ってきて、途端に口を開いた。
「鴨狩に行かないか」
と、どうやら彼の旧友が多々良沼で鴨狩に行ったらしく、随分と爽快なものだから是非行ってみ給えと薦めたらしい。孤りで行くのも何だからと、了介を勧誘したのである。いつ行くのかねと訊ねると、明日だと云った。了介は明日が木曜日だと知っていたが、その明日が、学校の創立記念日だということを思い出した。
二人は鴨を撃つのに好い場所を精撰った。彼らは前方に背の低い蘆の多い木陰を見つけた。木陰から沼の端っこまで二十メートルほどであった。
了介は猟銃を持っていた。持ってはいたが、それが己の意志の延長であるとはどうしても思えなかった。古びた、親爺からのお下がりだった。その古い所為か、銃は孤高として冷たかった。まるで、孤高であるがために掌の温度を拒んでいるらしかった。
遠くで水を払う音がした。群れた鴨の一羽が姿勢を変えたのであろう。やがてまた静まる。静寂というものは、音の無い状態ではなく、音を呑み込んだ後の状態をいうのだと、そのとき了介は妙に納得した。
植村は、早速一発の弾を込めて、撃つことに疑いも持たずに、放った。いや、疑いを持たぬように生きてきたのかもしれぬ──人は、疑わぬことによってのみ、安堵を得ることがある。了介は音に循って、鴨の群れを見た。薄明の水面に、黒い点が幾つも浮かんでいる。彼らは互いに寄り添い、首を羽の中へ差し入れ、同じ夢を見ているように見えた。群れの中央にいるものほど、安心しているようでもある。植村は外した。
了介は銃床を肩に当てた。照準の円の中に、或る一羽が収まった。その姿は驚くほど静かで、まるで初めから死を承知しているようでもあったし、逆に初めから何も承知していないようでもあった。彼は悠々と毛繕いをしていたのだ。その姿こそ、了介に安堵の表情を赦さなかった。
彼はまだ、引き金を引いていない。しかし、彼の中ではすでに何かが撃たれていた。
それは恐らく、長い間、彼が抱えていた、名状し難い倦怠のようなものであった。彼を鴨狩に誘ったのは植村が初めてではなかった。若い頃──彼がまだ教職の己を認識していなかった頃──に級友と共にこの多々良沼に来て鴨を撃ったことがあった。
その時は、ただ青春を謳歌する名目で、別段撃つという行為に疑いも躊躇いも持っていなかった。そうして彼は二、三疋と続けて撃った。或る夏の終わる日のことだった。しかし彼が、さあ四疋目にいこうかとつぶやいて、引き金を引こうとした時のことだった。その照準の先には、群れが寫っていた。了介は、群れの中から適当に一疋撰び抜いて撃ってやろうと、照準をゆっくりとズラしながらその一疋を探した。──行成、彼の脳内に、撃つという行為は、獲物に向けられる以前に、己の躊躇へ向けられるのかもしれぬ。という見解が降りかかって来た。否、降りかかって来たのではなく心中から浮き上がってきたのであった。了介はそのことを、理屈としてではなく、皮膚の内側の冷えによって理解した。その日からであった。彼が、生を奪う苦しみを知ったのは。四疋目を撃つことはなかった。
やがて、隣から放たれた銃声が、蘆と沼とを決定的に引き裂いた。沼を発った群れに、空が急に狭くなった。一羽が、遅れて水面へ落ちた。
私はその様子を、まるで第三者のように、他人事のように見ていた。落ちた鴨は、死してなお羽を打ち、円を描いて水を濁らせた。その円が次第に広がって、やがて周囲の波紋と区別がつかなくなった。
「中ったね、──いい中りだ」
植村は満足げに息を吐いて低く云った。彼の声には、望んだ結果を手にした者の慥かさがあった。了介はそれに同調しかけて、廃した。同調することが、彼と同じ側へ身を置くことのように思われたからであった。
そう思いながらも、了介は、銃を下ろさなかった。
空にはまだ数羽が旋回していた。群れを失ったそれらは、行き場を定めかねるかのように、同じところを何度も巡っていた。撃たれた一羽の存在は、もはや空の秩序から除かれているのだった。しかし、除かれたことに誰も驚いてはいなかった。平然と日常の飛行を続けるのであった。
了介はふと或ることに気付いた。──人の世もまた、この沼と大差はあるまい。群れの中にいる限り、吾儕は自らを安全と錯覚する。だが銃口は常にどこかから向けられているのだ。そして撃たれるとき、吾儕は初めて、自分が群れの一部にすぎなかったことを知るのだ。……
落ちた鴨の羽ばたきは、いつの間にか熄んでいた。
沼は再び静まり返った。静寂は、先ほどよりも一層濃くなった。音を失ったというより、何かを飲み込んだあとの重さのような長々しく重々しい間があった。
了介はようやく引き金に指を掛けた。
植村が、蘆をかき分けて水際へ降りて行った。長靴が泥に沈む音が、妙に生々しく耳に残った。彼は水面を探り、やがて羽の端を掴んで、静まり返った鴨を引き寄せた。
「見ろよ、まだ煖かいぜ」
植村はそう云って笑った。その笑いは、獲物を得た喜びというより、何かを慥かめるための笑いのようであった。生きていたものが、今は動かぬという事実を、指先で認識するための。
了介は近づいてその鴨の煖かさを慥かめようとして、足を止めた。温かさというものは、必ず冷えることを前提にしている。ならば、いま彼の掌にある温もりも、まもなく、失うという約束を帯びているのだ。
鴨の目は、半ば開いていた。そこには恐怖も安堵もなく、ただ曇った空が映っていた。了介はその目に、自分の顔が映るのを避けた。己がこの出来事の一部として固定されてしまうことは彼にとって忌む事物だったのである。沼にはまだ波紋が残っている。群れがようやく集束したのである。
善悪というものは、沼の波紋のように、広がるうちに形を失う。……
植村は新たな穴場へと、先に脚を晉めた。嚢の中の鴨が、彼の歩みに合わせて微かに揺れていた。その揺れは、すでに命の重みではなく、ただの質量に過ぎなかった。
了介は少し遅れて後に従った。脚元の霜が、踏むたびに白く砕けた。春は慥かに来ている。だが、それが了介に何かをもたらすという確信は、どこにもなかった。ふと振り返ると、沼はもうただの水であった。蘆も、空も、雲も、すべてが斉しくそこに映っている。さきほどの銃声も、落ちた一羽も、初めから微塵も存在しなかったかのように、それに似た意義を示し続けていた。了介はここで、沼には自我があると思うようになった。
彼は奇妙な羨望を覚えた。水は何か覚えることもなく、何かを選ぶこともない。ただ映し、ただ受け入れる。それに比べて人間は、選び、覚え、そしてその記憶に縛られる。己の経験のみに縛られて、或る方面からの意見を激しく好み、或る方面からの意見を断固として拒むのが人間の気質なのであれば、何物も好まず拒まずただ諾なう水に限りなく近い人間でありたいものであると、彼は一種の傲慢を知り得た。
植村は、弾の在る限り鴨を撃ち続けていた。了介は隣で見ていて、銃に弾を込めながら考えていた。思いの外、水の音は小さかった。その音を、彼は鴨に課せられる生の重みとして聴いた。彼は遂に猟銃を手に取って、照準を群れの中の一疋に定めた。
──群れの中にいる限り、彼らは安心している。しかし撃たれる時は、いつも群れの中からだ。
了介はそう思いながら、勢い能く引き金を引いた。パンッと軽い乾いた銃声が沼を突っ切って群れの端を泳ぐ鴨を捉えた。
「巧いじゃないか」
植村はちゃんと感想を述べた。いつまでも焦れったく銃を構えない己に辟易しているのかと了介は思っていた。彼はちゃんと友だった。植村嘉一郎という名の、列記とした彼の友だった。
了介は撃った鴨を拾い上げた。沼から上がると植村が銃を放った。彼は二度撃って二疋為留めた。「善し」と一言、入れ違いに、徐々に沼に入っていった。
植村が獲物を拾っているのを眺めながら、了介は生と死について熟考していた。己は狩る側で狩られることに怯えて睡ることはないし顫えて餐を喰う必要もない。しかし彼らは、真っ当に狩られる側だというのにも関わらず、狩られることに満更意識しているようには思えない。仲間内が撃たれてこの沼を去らないのがその原拠である。生に縋って彼らは群れる選択をする。しかし、群れることこそが生に縋る必需的行為だろうか? 然らば彼らの死ぬ訳の存在意義は悉皆ある筈もない。ただ沈黙を貫き通して、──否抑も、彼らは死という概念さえ知らないのではないだろうか? 彼はこれ以上撃たないと定めた。しかし撃たれた一羽の存在は、彼の沈黙を免罪するわけではなかった。撃つことに加担しなかったというだけで、群れの外に立てるわけでもない。了介は、彼らの群れることによって創り出した静の場を、一発の銃声によって動かし乱し奪うことに倦きた。羽に吸われる静の波紋は、しかし動によって生み出されたものではないか? 鴨の群れはこの矛盾の上に立っているのだ。彼らの脚元、沼の下で、生と死、静と動についての論争が凄烈である。互いに打衝かることはないけれども互いに身を削り弊するまでに激しい論争を、静の下で続けている。これは永遠の動によって一時の静が生み出される構図である。了介の眼はいつしか濡れていた。彼の、その群れに対する慈悲の涙が流れたのである。──嗚呼死を知らぬ鴨の群れよ。汝らは何故に、死を知らぬまま、そう悠然と水面を渡るのか。生きることを甚しき。加えて死を知らぬこと、その認識を沼に沈めること甚しき。嗚呼死を知らぬ鴨の群れよ。汝らは何故に、そう羽を繕いながらも、己が今死の淵に居坐ることを知らぬのだ。譬え死が怖るべきものでないと一蹴するのであれば、どうかおれを済ってくれ給え。死を扱うことに腰抜かす愚か者を、どうか正してくれ給えよ。……
「上々だ。今晩は鴨鍋を戴くとしよう……しかし見てたか? おれが、彼奴らがぼうっとしている合間を連ねて撃ったのを──あれはおれも驚いたね。猟師でもやってみるかな、ハハハハハ」
植村は十疋撃った。彼は嚢に九疋入れて一疋を、首根っこをつらまえていた。了介は、自分の嚢に眠っていた一疋の鴨を彼に渡した。植村は、最初は気の毒そうにしていたが了介が「気にせんでも、鴨鍋が殖えるぜ」と云ったら喜んで受け取った。
学校の鐘が、やがて鳴るだろう。己はまた、黒板の前に立ち、青い気配の学徒たちの面前で、正しさという概念を語るのだろう。その正しさの中に、死の扱い方について述べる日がいつの日か来ることだろう。それでも了介は、臆することなく厳粛と青い生徒たちに死の扱いと生の無力さについて説かなければならないと決心した。
少し遠くに、蘆の延びた薄い地が突き出している。冬の暮れだ。冬の終わりの、春初めの、夕暮れだ。了介は猟銃を背に掛けた。
沼にはまだ群れが残っている。──……
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