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犬鷲 一

犬鷲(第1話)

萩原蔵王

その山村には犬鷲の親子が棲んでいた。あまりの珍しさに将軍が来るほどだったが、村の猟師たちは獲物を奪う犬鷲たちを嫌っていた。ある日、とうとう我慢のできなくなった猟師の一人が父鷲の羽翅を撃った。怪我を負った父鷲は巣に帰ってそのまま眠りについた。しかし、父鷲の羽翅から垂れた血が子鷲の口に偶然落ちて了って──。

小説

1,343文字

   一

 

今は昔、在るかも知らぬ北国の、それも野鄙やひな山の麓に、名もなき小さな村が御座ございました。その村を見下ろす小さな山の崖際がけぎわの、ぽっかりと空いた小さな洞穴ほらの中に、犬鷲いぬわしの家族がんでりました。なんでも蝦夷えぞの方から飛んで来たとか云うものですから、みやこから大勢の見物人やじが、吾こそはとこぞって村に訪れるのであります。将軍様も見に来られたとか。そのような始末で御座いますから、村は小さくとも其処々々繁昌はんじょうしている様で、一人の絵師が崖に悠々とたたず風貌ふうぼうを見事描き上げて京へ売ったものが、遂にはその、質素剛健ごうけんたる犬鷲の風采みなりを、京の武士が大いに気に入って、近頃ではその絵師はせっせと崖を遠望して揮毫きごう*するようになったのであります。村には幾十人かの戈人かじん*が居りますが、将軍様の御下知ごげちによりますと犬鷲への発砲は堅く禁じられて居るようなので御座います。戈人たちは毎朝山に潜る度に、彼等の啼声ていせいを聴いて山の容子ようすがハッキリと判るのだそうで──。たとえば犬鷲が平生いつもより慌ただしく啼いて居るのであれば、熊やらかみやらが鹿を多く喰ってしまって居るのだそうで、平生より低く遠く響くのであれば、少し湿っている訳ですから、もうすぐ大雨が降るぞといういましめなのだそうです。

しかし戈人たちも、決して悠々たる彼らを好く思っている訳ではないので御座います。兎や仔禽ことりやらは、みな犬鷲がかすめて行って了いますから、彼らは毎日仔兎や熊に葬られた、腐った鹿の死骸むくろから少量の無事なししを剥ぎ取るしかないのです。時折鹿を見かけることはありますが、手軽な兎は根刮ねこそぎ奪われてゆくので御座います。ですが、将軍様の御下知に逆らえばどうなるか考えたいものではありませんので、戈人たちは今日も、口惜くやしい思いで山を下りるのでした。

或る年紀としの冬のことでありました。戈人の一人がとうとうえかねて、遂に父鷲の羽翅はねに向けて猟銃を放ったのです。殺してしまっては不可いけませんので、この戈人は姑息こそくにも羽翅を狙ったのであります。弾は見事に父鷲の、左の羽翅に命中しました。父鷲はよろけながら、それでも猛禽もうきんとしての勢威せいいを張り続けて居りました。別の戈人がもう二、三発放ちました。一度桜の枝で悪戯ちょっかいをかけた戈人が、その父鷲の大きく鋭利な爪で、散々にやられて帰ってきたことがありました。ですから一発撃っただけでは彼らの憤慨ふんがいは収まらなかったのであります。放った弾の内一発が、父鷲の脾腹ひばら*に喰い込みました。戈人たちがそろそろ逃げおおせようとしたときに、父鷲はようやく断崖の棲処すみかへと帰って行きました。

断崖の棲処に帰った父鷲は、洞穴の奥に這入はいって静かに眠りに就きました。彼が気力を治すのには莫大な時間が必要だったのでした。そして彼には、その莫大な時間を有すのに、眠入ねいることしかできませんでした。母鷲は血を垂れ流しながら帰って来た夫の身を案じていたのでしょうか、甲高かんだかくも静かな啼声を上げました。しかし父鷲はそれを気にも留めずに、じっとまぶたを閉じて眠りにつくのでした。

仔鷲はそのとき、父鷲の傍に坐り込んで居りました。そうして一つ、欠伸あくびをしたかと思うと、父鷲の羽翅から垂れた一滴の血が、っくりと仔鷲の口の中に流れ落ちたのです。仔鷲はそれをなめらかに呑み込んで、眼を見開いて父鷲の素形すがたをじっと凝視みつめるのでありました。──

© 2026 萩原蔵王 ( 2026年2月15日公開

作品集『犬鷲』第1話 (全2話)

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