集合住宅の二階、玄関ドアの中央上部に『守田』と書かれた表札が掛かっている。古賀裕子はドアわきのコンクリート支柱にはめ込まれたプラスチック製カバーの真ん中の黒いボタンを押した。部屋の外にも聞こえる呼び鈴のあと、ドアの奥から「はーい、ちょっと待ってくださいね」とくぐもった声が聞こえてくる。古賀が笑顔を作る練習をしていると玄関のドアがゆっくりと開いた。
玄関のドアから顔を出した女は大きなお腹を左手で支え、右手でドアを押し開きにこりと笑う。幸せが溢れだしている顔だ。ドアの先に全裸の中年男性が立っていても同じ笑みを浮かべるのだろうと古賀は思った。
「守田美津子さんのお宅でしょうか?」
女はにこやかな表情のままこくりと頷いて古賀に聞き返す。
「はい、そうですけど、どちら様でしょうか?」
「こんにちは守田様。第一生命の古賀と申します。この度、弊社で新しく扱うことになった保険について、こちらのアパートにお住いの方に話を聞いてもらっています。お時間は取らせませんので話だけでも聞いていただけないでしょうか?」
古賀はそう言いながらドアチェーンが掛かっていないことを確認し、あくまで自然に玄関に足を踏み入れた。美津子は一歩引いて柱に手を置いて式台の上に立った。腹の大きさから立っているのも大変に見える。
「保険外交員の方かしら。でも、保険は主人の会社で入っていますので」
「保険にも色々種類がありまして、ご主人様の入っている保険では対応できない事故や事件が起こらないとも限りません。最近凶悪事件が頻発していますよね? 刑事事件の被害者になった場合、裁判が進むまで保険金が支払われないケースが多々あります。現状の保険では適応できる範囲が限定的で不十分なんです」
「でもこの辺いたって平和な住宅街で凶悪事件なんて起こりませんよ」
「去年神奈川県の藤沢市で起こった悪魔祓いバラバラ殺人事件も何の変哲もない住宅地で起こった事件です。事件が起こってからでは遅いんです」
「そうはいってもねえ」
美津子が逡巡していると古賀は肩に掛けたトートバックの中に手を入れミッキーマウスのキーホルダーを取り出した。すると美津子の目が輝く。
「お話を聞いていただいた方にはこちらを差し上げることになっています」
美津子は少し考えてから、「汚いところですけど」と言って一組のスリッパを式台の上に置いた。古賀はスリッパを履いて「お邪魔しますと」言って美津子の後ろを付いて行く。玄関のすぐ先はリビングになっていて中心に大きなテーブルが置かれていた。
「さあ、どうぞ座ってください。小さな部屋に似合わないテーブルでしょ? でもね、子供が産まれたらテーブルが大きくて困ることはないって義母がいうから最近大きくしたの」と言って美津子は笑った。
古賀が「失礼します」と言って椅子に座り、隣の椅子にトートバッグを置く。すぐに美津子も古賀の正面に座った。
「ずいぶん大きなお腹ですね。臨月ですか?」
美津子はお腹をさすりながら答える。
「ええ、予定日はもう過ぎていていつ産まれてきてもおかしくないんだけど、この子なかなか外に出てこようとしないのよね。主人なんか会社に行っても時間があれば電話を掛けてきて「まだ産まれないのか?」とか言ってくるの。それがこの子のプレッシャーになっているのかもね」
そう言って笑ったあと、美津子が「あら、いけない」と声を出して椅子を引いた。
「お客様が来ているのにお茶を出すのを忘れていたわ」
「大変でしょうから結構ですよ」
「ううん、お医者さんにも少しは動いた方がいいって言われているから」
美津子は立ち上がって台所に向かって歩いて行った。古賀はリビングを見渡す。他の部屋に通ずる場所以外の壁とテーブルの隙間には『アムウェイ』書かれた段ボール箱が所狭し並び、うず高く積まれていた。奥の部屋には炬燵が置かれて、電源コードを避けるようにまたアムウェイの段ボール箱が積まれている。
「今お湯を沸かしているからちょっともう少し待ってくださいね」
美津子が戻って来た。古賀は段ボール箱に向けた視線を美津子に向ける。
「あの段ボール箱気になりますか?」
「ええ」
古賀は正直に答える。
「子供が産まれると色々とお金がかかるでしょ? だから副業をしているの。アムウェイって会社の商品なんだけど、人や地球にやさしい台所用洗剤や洗濯用洗剤、最近では無添加調味料の販売もしているわ。私はそれらの代行販売をしているのよ」
「代行販売って儲かるものなんですか?」
「それには秘密があってね、ふふふ、私がセールスレディみたい」
古賀が含み笑いを向けると美津子が立ち上がった。
「お湯が沸いたみたいだからお茶入れてくるね。そのあとゆっくり説明するわ」
美津子が古賀の横を通り過ぎたあと、古賀は音をたてないように椅子を引いた。そして、美津子がこちらに背を向け戸棚の中を探っているのを確認してから炬燵の置いている部屋へと移動する。炬燵の中に潜り込むと特殊形状のコンセントを引き抜き炬燵から出る。台所を見るとまだ美津子はリビングに背を向けている。古賀は壁コンセントから引き抜いた炬燵の電源ケーブルを両手首に巻き付け台所に近づいた。
急須から湯呑にお茶を注ぐ美津子の背後に近づき、電源ケーブルを美津子の首に掛けて古賀は身体を回して力を込めて引っ張る。美津子の「な、なに?」と言う問いには答えず古賀は力をさらに込めてしゃがみ込む。美津子は電源ケーブルに手を回すが、指が入る隙間もないほど古賀は強く力強く引っ張り続ける。そして「ゴギ」と舌骨の砕ける音がした。
「言葉は出せないだろうから私の言うことだけ聴いて死んでいって。あなたは子供のためにアムウェイで副業しているといった。でもね、あなたが子供を産み育てるため、幸せな人生を歩むためにしていることは、多くの人にとっての不幸せの上に成り立っているの。あなたのささやかな幸せのため、友人を亡くし、金銭を亡くし、絶望の淵で死んでいった人間が沢山いるのよ。おそらくあなたはそれに気が付いていたでしょう。あなたは下位会員が大量の在庫を抱えながら自分を支えていることに気が付いていたはずよ。そんなあなたにママになる資格なんてない」
美津子の足が床から離れ、古賀が美津子の身体を完全に支えてもなお古賀は力を緩めない。暫しその体制を続けると背中のあたりがジワリと暖かくなった。美津子が絶命したことを確認した古賀は首から電源ケーブルを引き抜き美津子の身体を床に降ろした。そして椅子の上に置いていたトートバックを掴んでから美津子の身体を引きずりながらリビングルームを抜けると、炬燵のいてある部屋に向かい、床と炬燵の間に美津子を座らせた。
「子供に罪はないからね」
古賀は美津子のマタニティワンピースの袖を掴みその下のスリップごと胸の下までたくし上げる。下着の両端を掴んで膝までずり下げる。すると臨月特有の下腹がぼてっと大きく膨らんだ腹が現れた。古賀はトートバッグからナイフを取り出すと右手でハンドルを握り美津子のみぞおちの下にあてがう。ゆっくりと力を込めて皮膚、腹直筋を裂いていき子宮壁にたどり着いたのを確認すると正中線に沿って下腹部に向かって一気に引き裂いた。パカッと子宮壁が左右に分かれ子宮貯留液と血液が混じった胎児が顔を出した。そして古賀と目が合う。
胎児は泣いていた。予定日を過ぎていたからだろう。古賀が美津子の腹から取り出した途端自立呼吸を始めた。元気な子供だ。古賀は美津子と子供を繋ぐ臍の緒を切り炬燵の横に子供を寝かせナイフをトートバックにしまっていると電話のベルが鳴った。美津子は予定日を過ぎても産まれてこない子供と自分を心配してちょくちょく夫が電話を掛けてくると言っていた。おそらく電話の主は美津子の夫だろう。暫し待つも電話のベルが止まない。帰り支度をしていた古賀は受話器が外れないように慎重に電話機を取ると電話線を伸ばし、美津子の裂けた腹に突っ込んだ。これで少しは耳障りな音が小さくなる。
手を付いたと思われる柱やリビングのテーブルをハンカチで綺麗にふき取り部屋を出ようとしたところで古賀はあることに気が付いた。古賀は美津子の亡骸と子供が元気良く泣き叫ぶ部屋に戻りトートバックを開ける。そして中からミッキーマウスのキーホルダーを取り出し美津子の腹の中に押し入れた。
――了
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