ある夏の朝、ぼくはH町に戻りました。ぼくが家に着くと、お兄ちゃんはラジオ体操も朝食も済ませていました。会うのは久しぶりでしたが、顔は前と変わりませんでした。違っているのは楽天イーグルスのキャップだけです。ちょっと前はこれが、ジャイアンツのでした。
「虫取りに行くぞ」
お兄ちゃんはそう言って、どこから持ってきたのか緑色の虫かごをぼくに渡しました。お兄ちゃんのほうは虫取り網を手にしています。
「大丈夫」
お兄ちゃんはそれだけ僕に言うと、水筒を肩に提げて出発しました。日に額を焼かれ、汗をだらだら流して、ぼくらは山のほうへ三十分歩きました。
「今日はカブトムシを捕まえなくちゃいけないからな」
白神山地は入ってはいけない場所だとぼくは思っていましたが、いつの間にか、山の中の湖を散策するコースが整備されて、入口には案内の看板が多くあり、少し先には売店まであるようでした。林の中は直射日光が届かなくても、蒸し暑くなっていました。お兄ちゃんがブナの木の周りや地べたを一生懸命にかき分けて虫を探し出そうとしているなか、ぼくは木の根元に座り込んで、真上を見ていました。葉が揺れながらきらめく姿をみて、ひとつ深呼吸をしました。その時、初めてぼくは自分がプカプカと浮かびはじめるのを感じました。けれど、その感覚はすぐに眠気にとって変わられたので、その時はほとんど意識することはありませんでした。
「カブトムシいねえ」
ブナとブナの間から差す熱い光が、顔にあたって目が覚めた時、お兄ちゃんがそうつぶやいているが聞こえました。
「あと三十分、カブトムシ探したら帰らないと。午後は勉強とゲームをやらないと」
木々の間を走り回るお兄ちゃんをぼくはぼけっと見つめ続けました。この日、虫かごにはいったのはテントウムシ一匹だけでした。それでも、お兄ちゃんは気力がまだまだあるのか、家に帰る足取りは早く、ぼくの方は息をきらしながら汗だくで帰りました。
「ほら」
お兄ちゃんが水筒から麦茶をくんで、コップをぼくに手渡してくれました。乾ききった喉を水筒のプラスチックのコップを通じて麦茶が通る感覚は、以前の夏休みの思い出すべてがアスファルトの熱気とともに立ち上がり、またぼくをプカプカ浮かばせるような気がしました。とはいえ、やはりそれも一瞬でした。お兄ちゃんのキャップはもうイーグルスのものになっているからです。
家に帰った後、久しぶりに六畳の和室に入った瞬間でした。あの感覚は幻ではない気がしてきて、ぼくは和室のなかでまた浮かびあがりそうになり、この時、はじめてはっきりと、重力とは逆方向へ心身を持ちあがらせる、あのプカプカした感覚に気づいたのです。お年玉で買った望遠鏡、巨人時代の上原浩二のポスター、釈由美子の水着グラビア、ファイナルファンタジーⅧ、バイオハザード3、大乱闘スマッシュブラザーズ、ポケモン金銀、宇多田ヒカルのデビューシングル、ドラゴンアッシュのセカンドアルバム、ハンターハンターの最初の数冊。全開にした窓から差し込む熱い日の光が、すべてをノスタルジーで輝かせています。ぼくがまず何からしようかと考えていると、学習机の下、お兄ちゃんの足元にある本棚の中にドラえもんが一巻から数冊あるのが見えたので、久しぶりに読むことにしました。のび太の未来を救うためにやってくるドラえもん。ジャイ子と結婚し、子宝に恵まれ、会社を立ち上げるのび太の未来を救うために。火事にあったり、借金取りに追いかけられたりしていますが、とっても充実した未来にも見えます。ドラえもんは異教徒の征圧のような形で、ひとつの未来を破壊しにやってきたのです。
三時くらいになると、お兄ちゃんは読んでいた宇宙に関する本を置いて、初代プレイステーションを起動させてファイナルファンタジーⅧをはじめました。ぼくもドラえもんを読むのに飽きて、お兄ちゃんの横で寝そべりながら、その様子を見ていました。お兄ちゃんが操作していく先に何があるのかがわかり、そこにドローポイントがあるのをお兄ちゃんに教えたくなりましたが、ぼくは黙っていました。そのまま寝て起きると、もう夕方でした。お兄ちゃんは部屋からいなくなっていました。何気なく学習机の上をみると、夏休みの絵日記がおかれていました。カブトムシは丁寧に描かれていましたが、赤鉛筆で×がその上に書かれていました。はじめ気付きませんでしたが、カブトムシが描かれているのは今日の日付でした。『午前中、弟のためにカブトムシを捕まえた。午後は宇宙の勉強を進めたあとに、ゲームをした。夜は天体観測をした』。文中の『カブトムシ』という文字の上には赤鉛筆で二重線がひかれ、脇に『テントウムシ』と添えられています。この町では中学生も夏休みには絵日記が宿題になっていました。そして、お兄ちゃんは毎年、夏休みの初日に宿題を全て終えていて、絵日記も例外ではありませんでした。初日以後の夏休み、お兄ちゃんは日記に書いた通りに過ごすのでした。ぼくは前と違って、このことが本当に恐ろしく感じられましたが、それでもお兄ちゃんの気持ちが分かる気もしました。ぼくがこの町に戻ったのも、夏休みを取り戻すのが理由だったせいかもしれないからです。
お母さんが買ってきた総菜のから揚げを食べ終えると、お兄ちゃんは予定通り望遠鏡を窓の外に向けました。一時間も二時間もお兄ちゃんは、天体図と望遠鏡を交互に睨みながら、飽きることはないようでした。
次の週末も、ぼくはまたお兄ちゃんと一緒に過ごしました。お兄ちゃんが宇宙の勉強をしている間に、ぼくはプログラミングの勉強をしました。ぼくがゲームをひとつ作り上げると、それがごく簡単なものでもお兄ちゃんは喜んでくれました。
「お前はセンスがあるよ。いつかきっと、もっと面白いゲームがつくれるよ。なあ、お前はいつかおれも宇宙に行けると思うか?」
「お兄ちゃんが、そういうなら、そうだよ」
二人で勉強をしているとき、ぼくらはほとんど無言でしたが、その間も六畳の和室全体はワープで宇宙の果てを目指すコックピットのようにプカプカと浮かんでいました。いつの間にか、週末兄と一緒に過ごすのが、その夏の楽しみになっていました。
ときどきお兄ちゃんは日記に書いてあるイベントを実現しました。もう、カブトムシを捕まえるような難しいものはなくて、スイカを食べたり、かき氷を食べたり、線香花火をしたりという簡単なことでした。カブトムシの次に難しかったのが、ファイナルファンタジーⅧをクリアするというイベントで、それまであまりゲームは進んでいなかったので、その日、お兄ちゃんは一日中プレイステーションのコントローラーをつかんでいました。
お盆のあたりに事件は起こりました。事件といっても、お兄ちゃんと一緒に暮らしているときにはよくあったことですが、同じようなケンカでも久しぶりにすると、ずいぶん深刻なものになってしまいました。お母さんの買ってきたポテトチップスをぼくが一袋全部食べてしまったことを、お兄ちゃんは本気で怒っていました。怒ったときのお兄ちゃんは昔から口が悪くて、亡くなったお父さん譲りでした。
「お前なんて、一生つまんねえゲームでもつくってろ」
お兄ちゃんはゲームが好きでも、宇宙の神秘に比べればバカバカしいと思っているようで、ぼくはそれに怒りました。
「お前が、宇宙に行けるわけねえだろ」
ぼくがそう言うと、お兄ちゃんは布団をかぶって泣き出しました。ぼくも悲しくなってしまいました。以前のお兄ちゃんなら、ぼくに言い返すことくらい簡単なはずだったのです。
その翌週、H町に行こうかぼくは悩みましたが、お母さんから電話があって、すぐにでも帰ってきてもらいたいと言われました。望遠鏡を二階から投げ飛ばしたり、家の障子を倒したり、お母さんのことを『ババア』と呼ぶようになったり、お兄ちゃんにいつまでもやってこなかった反抗期が突如としてやってきてしまったというのです。
週末の早朝、ぼくが家に帰ると、お兄ちゃんは自分の部屋にいませんでした。机の上の絵日記を見ると、赤鉛筆で修正ばかりされていました。文字は二重線ばかりひかれて、もともと描かれていた人の絵からは血しぶきが噴き出ているようにみえました。この日の予定を見ると白神山地の青池で泳ぐことになっていましたが、青池は血の海のようになっていました。ぼくはお兄ちゃんに謝ろうと思って、歩いて白神山地を目指しました。この日も陽射しは強く、額から汗が一粒流れるたびに、ぼくの興奮は強くなっていくようでした。
きっと未来は変えられる。お兄ちゃんが日記に赤線を引いたように。学者にだってなれるし、プログラマーにだってなれる。悪い未来だって良い未来だって、今までの価値観なんか構わずにドラえもんのように無慈悲にぶっ潰すんだ。そうして、つくりたい未来をつくりさえすればいい。
ぼくはそう思いながらブナ林のなかを、早歩きで過ぎていきました。とはいえ、木漏れ日がぼくの顔の上で様々な表情を変えていくように、ぼくの考えもそれ以上はまとまりませんでした。ただ、その間もお兄ちゃんが死ぬ気でいるのではないかという思いだけは変わりませんでした。それは今から思えば、ぼく自身にそんな気があったせいかもしれません。そんな心もちで、きちんと案内の看板を見て青池にたどり着けたのは奇跡というほかありませんでした。
この世のものとも思えない神聖な青さが目に入った瞬間、全てを汚してやろうかというような悪魔的な笑い声が響いてきました。それから、水が激しくたたかれる音がしました。白神山地が世界遺産に登録されてから初めての動乱といってよかったでしょう。水面全体が揺れ、青池がまるで怒っているかのようでした。お兄ちゃんは青池の中で、全力でバタフライをしていました。お兄ちゃんは、池の反対側につくと地面にあがり、またさっきと同じ笑い声を森に響かせました。ぼくのことを見つけると、全裸のお兄ちゃんは猿のような高い声をあげました。そして、お兄ちゃんはグーにした手を、高々と天に向かって上げました。ぼくは、また青池に飛び込むのかと思いました。が、次の瞬間、グーにした手は下半身に持っていかれました。それから少し時間がたちました。なにが起こるのか分からずぼくはお兄ちゃんをじっと見つめていました。鳥の声だけが響き、水面も、もう落ち着いてきました。お兄ちゃんの後ろからは、動物でもこの様子が気になるのか、林の間から一頭の鹿がこちらを心配そうにのぞきこんでいました。
その時です。お兄ちゃんの下半身から、赤い液体が大きな放物線を描いて池に飛び込んでいったのです。お兄ちゃんの笑い声がまた響いて、ぼくはすっかり力が抜けました。血尿でした。ぼくたちはやっぱり兄弟なんだと実感しました。ぼくも、三十歳を過ぎてからは時々、原因不明の血尿が出てしまうのです。
「お兄ちゃん、この前はごめんよ」
ぼくは言葉だけではなく、態度で表現をしたいと思って池の近くに立つとズボンを脱ぎました。ぼくから血尿は流れませんでしたが、朝から水を飲まずにいたせいか濃い黄色い尿がながれました。
青、赤、黄。色だけみればとてもきれいな組み合わせでした。とくにお兄ちゃんの血尿の鮮やかさといったらありませんでした。永遠に変わらないと思われる青池の水へ、時空を切り裂く刀のように流れ込んでいきました。そうして、その切り裂かれた時空の中へ、ぼくも思い切ってダイブしました。そこはもはや水の中ではなく、またプカプカと、かつてないほどプカプカプカプカと、ぼくらの心身は浮かびあがるのでした。ここは白神山地でも地球でもなく、二十世紀でも、二十一世紀でもありませんでした。ぼくらは時空を飛び越え、宇宙を自由にプカプカと浮かんでいるのです。
コンソメパンチ 投稿者 | 2022-07-18 18:29
拝読しました。
ノスタルジーが感じられて楽しく読めました。
小林TKG 投稿者 | 2022-07-21 08:20
ディスク4枚ありましたよね。FF8って。なっつ。
あと、ディスク交換の時たまにバクってましたよね。懐かし。
最後の方の、僕らの心身は浮かび上がるっていう所が好きです。心身にしたところが。どちらか一つだけではなく、二つとも浮かび上がらせたところが、なんというか、取り返し、後戻りできない感じがして。
諏訪靖彦 投稿者 | 2022-07-22 07:04
難しいです。血尿に込められた意味を見出すことが出来ませんでした、私の手首から流れる血は虹色であなたのお目を潰します的なことなのかしら。合評会に参加されたら解説願います。
わく 投稿者 | 2022-07-22 07:20
ノスタルジーではなく、おっさん達の狂気を表現したかったんですが、ノスタルジー描写が多すぎということでしょうね。反省します。
ヨゴロウザ 投稿者 | 2022-07-22 22:51
素晴らしかったです。お読みかもしれませんが、吉田知子の『無明長夜』というやはり一人称ですます調で静かに狂人の見る世界を綴るすごく良い小説があるのですが、それを思い出しました。
彼ら兄弟が30過ぎになっているのに中学生の夏休みをやっているとわかる以前にも、すでに行間から狂気が漏れ出ていて、こうやって書くのはかなり難しそうに思ったのですが苦労の跡を感じさせないのにも敬服しました。青を切り裂く赤という鮮やかな色彩の原料が血尿というグロテスクさも作品の空気に合っています。唯一ラストは、弟の作ったゲームのくだりと対応させたのでしょうが、ちょっとだけ雑になってる気も少ししましたが、とても好きな作品です。
大猫 投稿者 | 2022-07-23 19:44
この兄弟は大人なのか中学生なのか、弟だけが夏休みに故郷へ帰っているのはなぜか、あるいは成長した弟が未来から過去へ戻ってきているのか、ドラえもんのように過去を変えようとしているのか、その割にはそれっぽい動きもないし、等々、疑問を感じながらはっきりしたことは分からぬまま読み進め、最後のシーンに至るのですがやはりよく分かりませんでした。ところでこれは褒めています。分からないまま読まされるのもまた面白く。
わくさんはちんちんネタが多いようで、私にはその意味も意義もやっぱりよく分かりません。でも世界遺産の美しい青い池に血尿という組み合わせ、たまりませんね。気持ち悪いけど。
Fujiki 投稿者 | 2022-07-24 06:11
よくわからなかった。「プカプカと浮かびはじめる」というのは、この故郷が地球外で作られた仮想空間だということなのか、それとも何か比喩的なものか? 『惑星ソラリス』で、ソラリスの海によって再現された故郷の父親と遭遇するラストを連想した。「ニ十世紀」の最初の文字だけがカタカナなのが生理的にものすごく不快なので直してほしい。あるいは、これも読み手を困惑させるための演出なのか?
新山翔太 投稿者 | 2022-07-24 08:14
二人の関係性、主人公の思春期等、難しい心情がよく描けていると思いました。
時々出てくるゲームの名前も、懐かしい物ばかりで舞台の年代により深く入り込めました、
春風亭どれみ 投稿者 | 2022-07-24 20:39
出てくる小ネタの数々がまさに同世代そのものではと思っていたので、堂々と「30代 is おっさん」と突きつけられるこの作品はなかなかえぐられました。ええ、揺さぶられましたとも。
松尾模糊 編集者 | 2022-07-24 22:51
わくさんの射精(今回は血尿)に対する執念を感じます。自分はVIIにハマりましたし、VIIIもクリアしましたので懐かしかったです。語り手が兄の方が分かりやすくなったのかなと感じますが、この分からなさが魅力とも言えます。突き進んでください。
Tonda 投稿者 | 2022-07-25 02:34
コンテンツをいろいろ登場させるのは、そのぶんイメージは膨らむけれど、少し情報過多というか、物語の本筋と繋がらない固有名詞がたくさんあって少し混乱してしまうのではと思います。
最後のカラフルな描写はおもしろいと思うので、そこを映えさせることにもっと注力して構成を練ってみるといいのかなと、、
波野發作 投稿者 | 2022-07-25 12:30
井上陽水の歌のイントロが聞こえてきて、穏やかなのすに浸っていたところ襲い掛かる赤字修正からの不穏に次ぐ不穏。雪崩るように崩落し始める夏休みの思い出に鳥肌が禁じ得ない今日この頃皆様いかがお過ごしでしょうか。会社休みます。
鈴木沢雉 投稿者 | 2022-07-25 13:55
純文的ぼくのなつやすみ、みたいな感じでしょうか。いや純文もぼくのなつやすみもそんなによくは知らないですけど。
ノスタルジーといえばぼくのなつやすみはやったことないですけど、NOSTALGIC TRAINはやったことあります。
諏訪真 投稿者 | 2022-07-25 16:24
非常に絵画的に纏まっているなと思いました。
青とか赤とかのコントラストとか、イメージすると鮮烈ですが、纏まりすぎているだけに登場人物の必然性がやや薄れた感も。
古戯都十全 投稿者 | 2022-07-25 17:38
この中年兄弟のお母さんはどんな心境かと裏側を想像してしまいました。
ノスタルジーに浸りたいだけなのか狂っているのか、あるいは真剣に自由を求めた結果なのか。考えさせられます。
Juan.B 編集者 | 2022-07-25 19:20
世界遺産から見ればおしっこなんて些細なことだ。宇宙はこんな二人の存在も受け止めているのだなあ。これからも二人には頑張ってほしい。FFよりはドラクエ派。