今までになんどもふと思い出されてきた幾つかの出来事、幾人かの人々について。
大学1年生冬、古典ギター愛好会の冬旅行の最中、俺は電車に乗っている、もちろん他の部員たちも一緒だ。すぐ隣に輪ができている。途切れ途切れだが話題を提供試合っている。俺はドアにもたれて通り過ぎていく無数の線路にある石ころを眺めている。俺は口をきかない。はたから見れば失礼であろう。俺は居心地の悪さを感じている。胸が浮つく感じがある。昔何ものとも言えないあの感情を飲み込んだ時と同じ場所が、胸の下の方にあるあの場所から、何かが出てこようとしているのか。固まりきった地面に生じたたくさんの亀裂から、いく筋もの光線が胸の中に散っている。胸の上まで浮かんでこようとしている。この落ち着かなさ。この居心地の悪さ。こんな奴ら、気取る。違うランクなんだ、口をつぐむ。前からこの気持ち悪さを感じていた。例えば高校の時だ。俺はかっこよかった。歩いていても電車に乗っていても教室にいてもたくさんの視線が向けられた。チラッチラッと目線を感じた。全ての目線を意識した。全ての視線が嬉しかった。全ての視線を貪った。全てが自分を満たしてくれた。ある時は塾なり学校なりの男教師が俺の顔を見た。何人かは興味を持って微笑みかけてくれた、喋りかけてくれた。気さくだった。何人かは萎縮した目を俺に向けた。気を使いながら、声を震わせながら、力を入れて喋りかけた。気さくに話してくれる時、なぜか心が安心した。胸の下の方、何かが疼きかけているあの場所が鎮まった。気を使わずに話すことができた。今思えば、たったそれだけなのに、ただ話しかけられたそれだけなのに安心するとは尋常ではない。単純な会話、いや授業中だったらただ単に質問をされるだけなのに、それだけでも俺は安心したり、ギクリとしたり、胸のしたのあの辺りの様子を伺った。萎縮して話しかけられた時、そこには明らかな羨望があった。羨ましさと同時に卑屈、いや劣等感があった。俺はその度に思った。「ごめんなさい、俺は本当はこんな人間じゃないんです」「俺は本当はあなたが劣等感を感じるような人間ではないのです」「申し訳ありません」いつも頭の中で謝っていた、いつも申し訳がなかった。そんな時は決まって、胸の下の方にある固まりが疼いていた、固まったはずの地面に亀裂が入っていた。胸をざわつかせた。ただ歩いているだけなのに、ただ話を振られただけなのに。電車のドアに寄りかかっている、茶色の石ころがいくつも通り過ぎていく。相変わらず俺は口を開かず、胸の中から溢れる落ち着かなさを押さえつけていた。電車から降りても俺は集団の一番後ろを黙って歩くだけだった。一人俺の友達がいた。ゆういつ同格だと認め、また少し憧れを持っている男がいた。俺はそいつと静かに話した。そいつとだけ話をしている自分の姿が、周りの部員の目に映っていること、彼らがわずかに気を使っていることを確認し、胸の中で優越感を味わっていた。「せっかく一緒に来ているのに二人だけで話してるな」「二人だけで話して間に入れてくれそうもないな」実際俺は他の人が話に入ってきてもそっけない態度を取っていた。そしてやはり同じく優越感を感じていた。気を使ってくれているのに、単純に話しかけてくれただけなのに、、、その少し前に渋谷のクラブに行っていた。初めてのクラブだった。声をかけた。本来はじゃんけんに負けた俺が声をかけるべきだったのに、気を揉んだ友人が声をかけてくれた。驚いたことに一発目で引っかかった。看護師だった。会話をするのが怖かった。馬鹿にされる、下に見られる、男として存在を無視される、後尾の対象から除外される軽蔑の目、憐媚の目、それを向けられはしないかと怖かった。口を開くのも怖かった。馬鹿にされる、除外される。果たして彼女たちは食いついてきた。友人が話題を持ちかけた。良い反応が返ってきた。この友人は俺よりもかっこよくなかった。俺は安心した。こいつが大丈夫なら俺のことも馬鹿にはしないな、いや本音を言うと、こいつに食いつくなら俺と一緒にいれて嬉しいはずだな。なんと傲慢なのだろう。きっと俺の頭の中には、彼女に小心な自分からは想像もできないような甘い言葉を投げかけ、そして当然彼女がそれを喜ぶ顔、そしてその心を想像し、自分のかけた言葉、ひいては自分の存在自体が彼女のメスとしての心を躍らせている確認で自尊心を満たすのである。例えばそれが成功したとする。小心に秘めた大胆で肥大した甘言、自分は女に求められて当然だ、いや実際は相手が自分を男として受け入れるまでの会話すらできないあまりに繊細な心とその裏に潜んだ傲慢さ。またあの分からない感情を胸で飲み込むのかという細心さ、恐る恐る機嫌を伺う顔の先に、自分を受け入れた気色が認められた暁には隠れていた傲慢さがあわられる。傲慢さを胸に、望みかなって身体をものにしたとしても、彼女は一体俺にとってなんだったのだろうか。彼女は俺が、自分自身は女に相手にされ得る人間なのだと確認するための傀儡で、認められたい、相手にされたいと言う欲求を満たすための道具にすぎないのではないか。道具は目的が叶った後は必要なくなる。使っては捨て、使っては捨てられる。確かに俺は、一人の女を通して自分が男として女に求められる人間なのだという確認ができた後、つまりは身体をものにした後、その女を必要だと思わなかった。この女は俺を認めた。何千万人のうちの一人は俺を認めた。次の女は俺を認めるか?確かめたくなる、試したくなる。認められた、また要らなくなる。何千万人のうちの二人は俺を認めた。繰り返す、繰り返す、多くの女は俺を認めなかった、俺を男として除外した。そんなはずがない、俺は認められるはずの人間だ。実際に高校の時はモテたのだ。全員が俺のことを認めていたのだ。そんなことはない、繰り返す、俺は鏡と人だかりの間をなんども何度も往復する。俺はクラブ通いがやめられなくなってしまった。もう何十回行ったであろう。初めて行ってから5年がたった。百回を超えているかもしれない。音楽はもはや好きではない。雰囲気ももう関係なくなった。俺はただ自分の男としての存在証明を確認しに行っていたのだろう。なんども何度も、夜を徹して、休むとこなく街をさまよい、朝を迎えた。
"vol.6"へのコメント 0件