将来の夢は自殺することです

中原甘依

エセー

5,529文字

自殺への憧れ!首つりへの夢!逸脱することへの果てしない憧憬!

「将来の夢は自殺することです」

作文にそう書いたら放課後教師に呼び出され、こっぴどく叱られた。筆者、小学三年生の思い出である。

あのときなぜ自分が叱られなければならなかったのか、今でもさっぱり分からない。あの若女教師はクリスチャンだったとでも言うのだろうか。

ヴォルテールが「自殺は精神の豊かな人間の洗練さである」と語ったように、自殺とは極めて文化的で社会的な営みである。人間以外に自殺する動物はいないのだ。この自分自身に対する殺人は、自動的に継続される社会生活への主体的な諦念であり、世界に対する究極の反抗であり、生きることへの哲学的ストライキである。自殺とは、自我=世界=生の不確実性に関わる限り、最も人間的な営みの一つなのだ。「真に重要な哲学課題は自殺だけである」アルベール・カミュのこの言葉は自殺というものを最も端的に言い表している。自殺は、哲学とともに、我々を退屈極まりない生から救ってくれる最も個人的なアンチ・ヒーローなのだと言えよう。それは究極の、正に人生を賭けたマスターベーションなのである。

さて小難しい話はこの辺にして、視線を形而下に向けてみよう。警視庁の発表によれば令和五年度の国内自殺者数は21,837人であった。これは人口の0.0176%、十万人に約18人が自殺している計算になる。この資料には他にも詳細なデータが示されており、例えば性別で分けると男の自殺者は女のそれの2.1倍であったとか、月で言えば三月が最も多く、十二月が最も少ないだとか、読み物としても考察対象としても非常に面白いので、ぜひ皆様にもご一読をおすすめする。

中でも私が最も興味を唆られるのは、やはりその方法に関する統計である。下の表をご覧いただきたい。

表は興味深い様々な点で満ち溢れている。例えば年齢別に見ると、その方法にも違いがあることが分かる。「入水」を採ったのは女性では60歳以降、男性では70歳以降に殆ど限られており、シニア人気の高さが伺える。老いた身体は、高所に登ることも、ロープを結ぶことも、飛び降りることも難しい。それに比べ、「水に入る」という動作は、どこか穏やかで、ある意味では日常的ですらある。海辺や川辺に立ち、ゆっくりと足を進めていく。その始まりは、まるで散歩の延長のようにも見える。入水は、死の手段として最も“自然に近い動作”なのである。

反対に「飛び込み」という自殺手段を選んだのは、ほぼ例外なく0歳から19歳までの未成年に限られている。これもまた、注目すべき傾向であろう。

列車は止まり、ダイヤは乱れ、何千人という通勤者の生活が数時間単位で狂わされる。遺族への賠償請求も発生する。誰もが知っている通り、最も迷惑で、最も「目立つ」死に方である。ここに、社会という構造に対する若者の最後の抵抗、あるいは絶望の形をした自己表現を見出すのは簡単なことだが、奥には更に深く捻れた構造的要因が潜んでいそうである。

しかし何と言っても、この表で最も注目すべきは、全世代から圧倒的支持を得ている「首つり」であろう。全ての年齢層でほかを突き放し堂々の一位を飾る姿は、正に「自殺の王様」と言うにふさわしい。澁澤龍彦は晩年、声帯を切除した際にできた首の穴を見て「これでは首つりができない」と嘆いたが、首つりには確かに、人間を引き付ける不思議な魔力が秘められているのである。

現実的な問題に即して言えば、その人気の秘密は、容易さ、手軽さ、秘匿性にある。ロープと土台さえあれば、自宅で手軽に始めることが出来るし、おせっかいな他者に見つかって引き止められる心配もない。準備も手軽で、失敗の不安も少ない。首つりは正に”自殺初心者”にはうってつけの方法である。

また、首つりに関する神話も、その魅力の一つであろう。ある種の人々によれば、首つりはあらゆる自殺法の中で最も「苦しまずに死ねる」方法だそうである。(一体誰が証言しているのか!)しかし少なくとも首つりが快楽を伴うことは確からしい。絞首刑を宣告されるも、運良く縄が切れて命拾いした死刑囚が、首つりで今にも召される瞬間の恍惚感を語った。ある物好きのイギリス人貴族は、ロジャー・ベーコンによって記されたこの逸話を読み、自分も確かめてみようと挑戦するも縄を切るのが早すぎて失敗。彼は「縄を切るのが遅すぎたこともありえた」と自分を慰めたという。この首つりと快楽の逸話は、酸素欠乏や首の神経への圧迫によって、一時的な意識の変容(多幸感)を引き起こすという説によって現代においても支えられているまたこうした首つりと性的快楽の関係性は、性行為中に相手に首を絞められるフェティシズムを思い出していただければわかりやすいかもしれない。

兎も角こんな理由から、首つりは長らく「死の最前線」に居座り続けてきた。私がお粗末な脳には、北村透谷や有島武郎、明治時代の奇術師だったジャグラー操一、最近(?)で言えばガロ系のねこぢる、矢川澄子らが直ちに思い浮かぶ。しかし中でも最も鮮烈な印象を残しているのは、1978年に富山県のキャンプ地で双子の女子高生が同時に首をつった、通称「あみだくじ自殺事件」である。この奇妙な事件の概要は劇作家の別役実が著書『犯罪症候群』の中で非常に分かりやすく要約しているので、大変勝手ながらそちらの文章を拝借することにしよう。

九月五日早朝、富山県下新川郡の園家山キャンプ場の松林で、二人の女子高校生の首吊り死体が発見された。身元調査の結果、二人は同郡入善町の大工、寺林直光さん(四十九蔵)の双子の姉妹であり、県立泊高校一年の尋香さん(十六歳)と、同じく県立入善高校一年の美香さん(十六歳)と判明した。同町で雑貨商を営む母親、寺林俊子さん(四十五歳)との四人家族で、最近家も新築したばかりで経済的には恵まれた家庭であった。二人は、二十メートルほどはなれた松の木に、母親の営む雑貨店から持ち出した荷造り用のロープをかけて、向き合うようにして死んでおり、尋香さんはキャンプ場の管理小屋から持ち出した椅子を、美香さんは付近で拾ったらしい大きな石二つを、それぞれ踏み台にしていた。服装は二人とも、白いブラウスに濃紺のスカートという制服姿であった。
遺書はなかった。両親および周囲の人々はすべて、前日までの二人の行動に特に変わった点はなかったこと、自殺の動機について思いあたるふしはないことを証言している。
ただ、美香さんの所持していたノートの裏に、四本の縦線にいくつかの横線を引いた<あみだくじ>が発見された。四本の縦線のもとには、それぞれ「日本人のX」「自殺」「ROS」「御三家」という言葉が書かれてあり、鉛筆でなぞったあとが「自殺」のところへ導かれていた。
ここに書かれた「自殺」以外の言葉が何を意味するのか、誰も知らない。最初の「日本人のX」については、彼女の他のノートに「アジア人なんてきらい」「ヨーロッパ、プラス日本人で生まれてきたかった」「日本にいてもつまらないしおもしろくない」などという言葉が書きちらされていたそうであるから、それと何か関係があるのかもしれない。「ROS」については、ローリング・ストーンズのことかもしれないという推測が行なわれている。

「あみだくじ」によって命を絶った二人の女子高校生。この事件を知った人間は彼女らの自殺の理由がもつあまりの軽さに、思わず拍子抜けすることだろう。しかしこれこそが、彼女らが首をつった理由ではあるまいか。つまりその理由は、”軽さ故に”社会と個人を大きく揺るがすのである。二人の少女の「軽すぎる攻撃」に足元を掬われて、我々のもつ常識や通念はいとも簡単に崩れ落ちる。社会全体が共有する生や命の哲学、吹けば飛ぶように軽い「ヒューマニズム」はその「軽すぎる死」によって、突如として権威性をなくしてしまう。彼女たちの狙いはまさしくそこにあったはずだ。だから彼女らは同じ制服を着て、わざわざ「向き合うようにして」首をつった。想像して頂きたい。キャンプ場の林の中、同じ制服を着た同じ顔の双子が、向き合うようにしてぶら下がっている光景を。まるで、カルト映画のワンシーンではないか。それは、とても現実におきた自殺とは思えない、余りに劇的でシンボリックな光景であったはずだ。そしてそのアンリアルな光景にこそ、彼女らが最期に世に放った伝言が込められているように思われてならない。二人が「飛び降り」でも「飛び込み」でもなく、「首つり」を選んだのは、その舞台装置としての強烈な効果を知っていたからであろう。

首つりという死に様には、俗的かつ文化的な側面、そして鮮烈な象徴性が宿っている。首つりのロープは我々に否応なしに死を想起させる。これは見逃されがちだが、首つりのもつ特異な記号性の一つである。自殺に用いられる多くの道具は、ふつう、別の主流な用途をもっている。電車、包丁、薬物、水、高層ビル…これらはすべて、命を奪うために造られたのではない。これらには全く違う正規の用途があるのだが、自殺者たちはそれを逸脱し、自分自身を殺すために、誤った使い方でその目的を達成するのである。一方首つりはそうではない。「ハングマンズ・ノット」などと大層な名前をつけられた結びを見よ!たらりと垂れ下がったあのロープを見れば、そこに死体などなくとも、貴方にも直ちに死が連想されよう。ハングマンズ・ノットは、殺すために工夫された結び目であり、それを成すロープは、制度としての死を内包する装置である。そこには、死の陰鬱なシンボリズムが、何の比喩もなしに、ただ露出しているのである。

古くから多くの国で処刑の主流は絞首刑であった。(そして現在においても、東方に浮かぶある島国では、この様式を保持している)そして多くの処刑がそうであったように、吊られた死体は民たちの格好の見世物であった。アンリ2世の王妃だったカトリーヌ・ド・メディシスは、その娯楽のために息子や娘を連れて夜な夜な絞首台に向かった。悪名高きモンフォコンの絞首台である。一度に40人以上を吊るすことができたこの巨大な処刑場の周りには、酒場や店が立ち並び、民衆は光景を大いに楽しんだという。高踏派のフランス詩人テオドール・ド・バンヴィルは、首つり死体が木々に実った果実のように垂れ下がる様子を「聖王ルイの果樹園なり」と歌った。「カトリック両王」イザベル一世は、ぶら下がった死体を見ては大いに喜んだ。イギリスでは見せしめのために、死体にタールを塗り、長きにわたって吊るし続けた。チョーサ研究者として知られるトーマス・ティルウィットは、絞首刑に使われたロープの蒐集家であった。彼は蒐集したそれぞれに、それによって処刑された者の伝記を記すという素敵な悪趣味があった。処刑に使用されたロープは、幸運を招くお守りだと信じられていた。人の形をした悪魔の植物「マンドラゴラ」は絞首刑にされた死体から垂れた精液より生まれてくる奇怪な植物である。また、この死体から手首を切り取り、血を絞り出して乾燥させ、同じく死体から切り取った脂肪で燭台を作ってその上に蝋燭を灯せば、強力な魔力で家中の人を眠らせる泥棒の必需品「栄光の手ハンド・オブ・グローリー」が出来上がった…。

自殺としての首吊りの話題が、いつの間にか首吊り一般に関する話題にまでずれてしまったが、まあ良いだろう。そして、その流れで自殺一般の話題に立ち戻るのも、不自然ではあるまい。

自殺とは、残念ながら殺人が非合法である日本で唯一許された殺人である。しかしよく考えると、これは興味深いことではないか。他者を殺すこと、そして自分自身を殺すこと、この二つに一体なんの違いがあるのだろうか。一方は罰せられ、他方はそうではない。あまつさえ、他方を犯したものは社会から最大限の侮蔑を持って忌み嫌われ、他方は憐憫と同情の念を持って迎えられる、この歪な非対称性を生み出すものは果たしてなんなのであろうか。

ともかく、この歪な非対称性が自殺の持つ不思議な魅力の源泉であることは間違いないだろう。死とエロスを同時に語ることが許されるならば、他者を介在しない殺人たる自殺は、自慰行為と似ている。私が自殺とマスターベーションを重ねる理由はここにあるのだ。私は自殺について語っているとき、またマスターベーションについても語っている。それらはともに、世界=自己の不確実性に関わるものであり、世界=幸福の限界に配置されるものであり、故に社会性の中においてはタブーとして秘匿されるものなのである。

自慰行為に勤しむ少年は極めて個人的な自己意識の果てに、恍惚を見出す。くたびれて首を吊った青年もまた、自己としての世界の限界を刹那に見、その恍惚に身を永遠を埋める。「許された殺人」と「秘められた快楽」はともに、共同体の中で禁じられれば禁じられるほど、タブー視されればされるほど、その眩い光を一層に纏っていくのである。

さて、自慰行為と重ねるなどという最大限の賛辞を自殺に送ってしまったところで、最後にその欠点を述べて終えることにしよう。その欠点とはただ一つ、一度それを実践してしまえば、以降はそれについて語れなくなるというごく単純な事実である。自慰行為ならば今すぐにでもできようが、自殺となればそうはいかない。これが両者の間にある最も深い溝である。自殺は対象化されたスペクタルなのだ。自殺について語ることは、死に最も近い所で留まった知的エッジとしてのサディズムなのである。やはり自殺とはどこまで行っても、「見て楽しむもの」であるようだ。あの女教師もきっと、このことを幼い私に伝えてくれようとしたに違いない。

2025年6月7日公開

© 2025 中原甘依

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