三十歳になったらお母さんのように結婚していて子どもを二人産んで坂の上のニュータウンの一戸建てとパート先のジャスコと子どもの保育園が頂点の三角形の辺を毎日行ったり来たりして、なんだかんだ平凡で穏やかな人生を送るだろうと思っていた。そんなに現実は甘くない。旧帝理系院卒転落人生非正規雇用返済残額三百万。行き詰まったわたしは二十代最後の日――つまり今日、ついにようやく死ぬことにした。けど食品工場の夜勤明けにブロンをひと瓶分ODするんじゃなかった。ドーパミンの過剰放出。報酬系の着火。求不得苦の劫火がわたしのメンヘラ脳神経を焼き切る。神奈川の、ごみごみした工場と古い神社しかない町の迷路のような路地の奥、家賃六万円のワンルームのベッドに倒れこんで、わたしは、狂い死にを覚悟した。叫ぶ。叫ぶ。隣人の壁ドン。叫ぶ。もう一度壁ドン。精神科の予約をもう何度もすっぽかしたから頓服用の向精神薬はとっくに切らしていた。やだやだ。もう少し楽に死なせて。わたしの脳は言うことを聞かなくなった。勝手に動き出した手はスマホを持ち、指先は画面のうえを激しく踊りだした。X、Instagram、YouTube、ダイヤモンド・オンライン、東洋経済オンライン、幻冬舎ゴールドオンライン。高校や大学の同級生たちが金と名声と幸福を手に入れて、読むだけで共感性羞恥を覚えるような自分語りを垂れ流していた。――炎上しそうなエピソードはご丁寧に全部カットして。わたしよりも定期テストの成績も、大学の偏差値も、GPAも低かったヤツらが、起業して億万長者になったり、NPO法人を立ち上げ地域の顔になったり、古臭いJTCメーカーに行った社畜でも、東南アジアだったり南米だったりで駐在員生活を満喫していたり、はたまた売れっ子アイドルや作家、ゲームクリエイターになったりしていた。憎い。憎い。パワハラに遭って一年で大企業を辞めたわたしは底辺を這いつくばり、年収二百万で、ゴミ屋敷に埋もれている。レオパレスだから壁が薄い。埃だらけの無駄なロフト。幅七十センチのキッチンは電気コンロがひとくちしかない。temuで買った衣装ケースは壊れて開かなくなったから、服は床に山積みにしていた。いつ買ったかわからないお菓子の袋が、服の山のそばに散乱していた。学生時代から使っている、ちゃぶ台のうえにはストゼロの空き缶が積まれている。いい加減捨てなきゃ。洗ってない皿。箸。小学生のときから使っているゲームボーイアドバンスとニンテンドーDS。払うのを忘れた、公共料金の払込票の束。キャッシュ決済? なにそれおいしいの? ガスはもう止められていてシャワーも浴びれなくなっていた。ドーパミンが最大火力に到達した。感覚が鋭くなりすぎて、自分の、古い油のような体臭に吐き気がした。頭がおかしくなりそう。視界に黒くて小さな穴がポツポツとできて、増殖して、わたしの視界を欠落させる。金も安定した職も、ましてや人間としての尊厳もなく、生理的安全も満たせていない。健康で文化的な最低限度の生活を営なませてほしい。わたしが持っているものは、癒えない無価値感と、無駄な罪悪感と、マニアックすぎてマネタイズできない研究の知識と、修士課程の修了証書。あ、あと奨学金って借金も。返済残額をまた思い出した。胃に焼き石を入れられるような痛みが走る。脂汗が出る。――できることならトラックに轢かれて異世界で人生をコンティニューしたい。人生はなんでやり直せないんだろう。吐き気。胃酸がこみあげ、枕にたらーっと吐き出してしまう。仙台の、バカでかい大仏と馬鹿でかいジャスコのある、坂の上のニュータウンに生まれ、中学の社会科教師の父親と、専業主婦のおかあさんと、妹と暮らしていた。毎年、八月五日には、ジャスコの屋上駐車場へ行って、坂のはるか下、数キロ先の広瀬川から打ちあがる花火を、家族で眺めるのが恒例行事だった。それが、一年で唯一の楽しみだった。父親は、家族さえも教師として評価した。いい成績をとれば褒められ、悪い成績をとれば頬が真っ赤になるほどぶたれた。それを黙って見過ごしたお母さんと、わたしを、見下して黙々と勉強に励む妹。――わたしは大事にされたことがないから、自分の命を、無価値のゴミだとしか思えないし、他人の命も、無価値としか思えない。広瀬川のそば、花火の打ち上げ会場のそばに大学があった。小洒落たカフェで、トールサイズのハニーカフェラテを飲みながら、「無能に人権を与える意味が本気でわからない」と同級生たちに話したら、みな、ひきつった笑みを返してきたっけ。「なにバカなこと言ってるの」って善人ぶったことを言う子もいたけど、平和で和気あいあいした同級生たちも、成績開示の日には、目をギラギラさせて、図書館のパソコンに張りついていた。そして、単位を落とした子の陰口をLINEで言いあっていた。――みんな、本当は、無能を見下したくていつもうずうずしているんだ。わたしは、無能とバレない努力だけはまだ一流でなんとか世間体を保てた(社会人になってから化けの皮が剥がれたけど)。常に孤独だった。研究室でも、メンバーに自分の尊厳を売ったから、過酷なアカハラを受けずに済んだ。けど、股を開かなくても、わたしに優しくしてくれた子がひとりいた。千葉の高専から編入してきたなつぴょんだった。なつぴょんはとっておきの秘密を教えてくれた。――男の睾丸は爆弾に改造できるのだ。なつぴょんのお父さんとお母さん、二人の経営するペンションに出入りする「同志」のおじさんたち、おばさんたちがよく爆弾を製造していて、睾丸爆弾も、ペンションの客を使って作るという。研究室の盆休みに、成田のなつぴょんの実家に行ったときのことはいまもはっきり思い出せる。武器庫と食料庫を兼ねたガレージで全裸の男たちが薪のように積みあげられ、カラダをぴんと伸ばし眠っていた。なつぴょんは「ここにいる睾丸たちは、革命のために必要なの」と男たちの山の中腹に手を突っこんでペニスに握り、「これが導火線」と教えてくれた。製造方法は複雑で、とても暗記できるものでなかった。ようやく、スマホを動かす手が止まった。脳から劫火が消え去ったわたしはベッドから這い出る。壁時計は十二時を指していた。ブロンを飲みすぎると時間間隔がおかしくなる。わたしの人生はあと十二時間だった。壊れた合板の本棚は、読みかけの小説だったり漫画だったりが、雪崩を起こしていた。わたしはその雪崩に手をつっこみかき分ける。いつ食べたかわからないポテチの袋。飲み忘れの薬の袋。無くしてしまったと思った、教祖さまの説教集の下に、それはあった。――外観は萌えキャラ(今は死語だ)が書かれたエロ同人誌。タイトルは「おちんちん爆発侍」。なつぴょんが、工学研究棟の狭っ苦しい研究室で██する前の日、学生寮でわたしを抱いてくれたあとに渡した、睾丸爆弾の製造マニュアルだ。結局、なつぴょんは革命なんてできずに、キスの味を呪詛のように遺して旅立っていった。爆発侍を開く。睾丸爆弾を作るには男と█と██と███が必要らしい。█と██と███は駅前のマツキヨで売っているからすぐ調達できる。わたしに睾丸を差し出してくれる男も、職場にたくさんいるし、何度か体を重ねた男もいる。そうだ。菓子パン工程の三浦くんがいい。あの子はわたしに惚れている。あの子も、わたしと同じような人生を辿っていて、同類同士で慰めあっていた。それに、セックスの相性がいい。失神するまでイカされたのは三浦くんだけだ。もしかしたら、天国か異世界か、はたまた地獄に連れていって、気絶するまでセックスさせれば、なつぴょんが喜ぶかもしれない。三浦くんは昼勤だから五時過ぎにはもう帰宅するだろう。LINEで連絡する。よし、夜になったら動こう。――急激な眠気。わたしはベッドに戻って少し眠った。もやもやとした夢のなかで、私を苦しめてきた人間たちがみな、爆弾になって、炸裂した。熱。光。打ち上げ花火のように高く舞う彼らは無惨に地面に落ちた。四肢がもげて、内蔵が腹からぶち撒かれ、頭が縦に裂け、白い脳がぼとりと転がった。わたしも、今夜、ああなっちゃうんだ。救済。教祖さまを称える賛美歌が聞こえる。ああ、今月のお布施、振り込むのを忘れちゃった。いいや、どうせ死ぬし。瞼がぱちっと開く。部屋は薄暗かった。電気をつける。もう五時だった。メイクなんてしないで、マスクをかけて、作業着のまま、レオパレスを出る。相模線とかいう、神奈川なのに単線という路線の駅前には、ローソンとマツキヨと、工場の作業員向けの安い居酒屋がちらほら並ぶだけだった。マツキヨに入って█と██と███と、それからチャッカマンを買った。はなの舞へ急ぐともう店の前に三浦くんがいた。テーブル席に座り、二人で日本社会への恨みを吐きあって、ビールを飲んで、なにも行動できない自分たちを慰めあって、刺身を食べて、奨学金の返済残額で張りあったり(なぜ?)、またセックスしよって言って、ソシャゲのガチャを死んだ目で回していた三浦くんは目に輝きを取り戻した。店を出て、ローソンでコンドームを買おうとする三浦くんをわたしは制止した。爆弾製造にコンドームは天敵だった。三浦くんは少し考えこんで「明日誕生日だったよね」とショートケーキを買ってくれた。なんだよ、覚えていたんだ。神かよ。レオパレスへ連れていき(三浦くんの部屋はもわたしの部屋より少しだけ綺麗な程度だった。うちに呼べる数少ないセフレだ)、三浦くんはわたしに欲望をぶつけて、種付けプレスで子宮に精子を注ぎこんでくれた。だいしゅきホールド。好き。好き。最高。孕ませて。しゅきピ❤ 快楽爆発幸福物質大量放出絶頂失神屍のようにぴくりとも動けない。二十分後にようやく意識を取り戻したわたしは三浦くんに告白して首を死なない程度に締めた。三浦くんは満更でもない顔をして気絶した。もしかして三浦くんも死にたかったのかな? 倒れた三浦くんをベッドに横たえた。ここから睾丸爆弾を製造する工程はなつぴょんとご両親と同志たちのために絶対に明かせない。ただ、わたしは手を動かしながら、脳のなかがすーっと冴えわたったのを感じたのだけは言っておく。最後に█を丁寧に睾丸に擦りこんだ。これで完成。三浦くんがわたしに注ぎこんだ精子の故郷――ぷにっとした睾丸は爆弾になったのだ。わたしは三浦くんのペニスを頬張った。精子と愛液の匂いがする。それは死の匂いのようでもあり、生の匂いでもあった。ねぶるように舌ををこねくり回す。むくむくと起き上がったペニスは天井をさした。わたしはタオルでペニスから体液を吹き払うとチャッカマンで亀頭に点火した。別にペニスを勃起させなくてもいいらしいが、なつぴょんが研究室で導火線に火をつけたときはこうしていた(LINEのビデオ通話で██の実況をしてくれたのだ)。ペニスの先にぼうっと火が灯り、ジジジジと、蝿の羽がこすれるような音をたてた。太く立派な棒、わたしに人生最大濃度の快楽をもたらしてくれた棒の先に火がゆらめいていた。――永遠に訪れることのない、三十歳の誕生日を祝おう。わたしはレジ袋からいちごのショートケーキを取り出して、食べた。甘い。幸せを三浦くんに分けたい。いいことを思いついた。三浦くんのぷにぷにした鼠径部にショートケーキを乗せる。はは、ペニスの炎がバースデーケーキの蝋燭みたい。わたしは、幸せだ。勝った。大成功だ。二十代のうちに死ねるんだ。――午後九時だった。三十歳までに死ぬという、高三の八月にジャスコの屋上で花火を見たときになぜか決めた目標を、締め切り三時間前に守ることができた。なにかの提出物とか、締切とか、ちょくちょく破ってしまうわたしが、人生の最期に、しっかりと締め切り前に自分の意志を実行できた。わたしはショートケーキを食べ切った。わたしのカラダは、花火みたく、高く、綺麗に打ちあがるのかなと思った瞬間、導火線は燃え尽きた。刹那、睾丸が光り輝く。胡桃の割れるように睾丸は粉々に砕かれ、強烈な熱と轟音が中から放たれた。
――久しぶり、なつぴょん。こっちでひとりは寂しかったでしょ。彼氏、連れてきちゃった。3Pしよっか。
浅谷童夏 投稿者 | 2024-12-22 21:16
睾丸爆弾って丸くて柔らかく、何だか滑稽で哀切な感じがします。もし睾丸爆弾ができたとして、それで自殺するのは男にはハードル高そうだけど、女性の無理心中には結構使われそう。無事、自殺の締め切りに間に合った主人公には、しっかり成仏するまであの世で3Pに励みまくってほしい。