風が冷たい。
遥か遠く離れた場所から、私たちに嫌がらせをしにわざわざ来たかのような不快さがそれにはあった。柔らかさを失った重い雲は、それに流されず凍って町から動かない。ああ、もうすぐ、降るだろう。マスクをせず無防備な顔に、寒さよりも痛みが響く。その反面、厚い手袋に守られた両手は蒸して、汗が肌を溶かすみたいで気持ち悪い。今のところ私には、快適と感じる部分が無かった。身体にも……そうだ、内側にだって無い。落ち着きなんて何処にも。乾いた頬の水分は、別のところに移動した。渇いた胸は、水を待っている。
隣で歩く一凛の白い息。見るたび、汗が溜まる。このあと、それを彼女にじっくり見られるだろうと考えると、耳に火が点く。一凛のポッケに入れた手も、私のように濡れてるだろうか。それさえ、すぐに解ることだ。もう彼女の家がすぐそこにある。何の嫌味もない、ありふれた一戸建て。しかし、私にとっては特別な家だ。もっと言えば、二階の部屋が特別なのだ。カーテンが掛かった窓の奥。あそこに、誰も視てはいけない、お日様でさえ、覗いてはいけない空間がある。彼女だけが照らす、激しくゆっくりとした時間があるのだ。
「さっ、入って入って」
鍵を開けて、彼女は屈託なく笑って招く。暗くて温かい家に。私は誘蛾灯に惹かれる虫みたいに、その中に入っていく。もう、寒くて堪らないから。光が見えたら、それが何なのか解っていても近くに行きたい。
「またお母さんライブ行っちゃってさぁ。昨日も行って明日もだから、合計金額スゴいことになってるよ」
「一凜、それ昨日も言ってたよ」
「マジで? じゃあ、明日も奏に聴いてもらうね」
「なんでよ」
やっと口角を自然に上げられた。我ながら、もう慣れるべきだと思うけど、一凛の部屋へと続く階段を上がるとき、いや、一凛の家に向かうときはいつも笑いづらくなる。緊張なのか、期待なのか、とにかく色々コントロールが利かなくなる。でも部屋に入ったら良くなるのかといえば違う。むしろもっと……もっと駄目になる。そのドアが開かれたら、私は身体に従うのだ。脳はただの受信機になる。心は一旦彼女に預ける。全て、これが全て。
「奏……ずいぶん汗かいてるじゃん。……ここ、熱いね」
「……うん。くさい……?」
「全然……」
「………そう」
「……わたしの手冷たいでしょ」
「ううん……そんなことないよ」
私は一凛が好きだ。それが今の私の……全部。そう、全部だ。家族から逃げて、友人たちもみんな切ってしまった私の中に、一凛の白い手が、ぴたりとはまる。すがり付くには、小さすぎると思う。
私のはあんなに汗をかいたのに、彼女のは、潤っているものの、かわいている。
知っている。彼女の何もかもを、私は知っている。だから、決して融け合うことが叶わないと、解ってる。それでもいい。今はこれで――二人の声が交ざるだけで――十分じゃないか。
一凛にあたためられて、心が気化して、荒い息になって部屋に溶けてく。外の事を考える力はもう無い。頭が真っ白。反面、紅く紅くやける身体はよく動く――ねぇ、一凛だってそうでしょう……? そうだよね?
「奏、楽にして」
「うん…………」
「なんか、いつもよりあかいね……」
「そう……かな……でも、冷たくない?」
「うーん……奏はいつだってあったかいよ」
きっと嘘だ。あたたかさなんて、私があなたにあげられたことないじゃないか。
“うそつき”の形に唇だけを動かしたら、すぐに高い声が漏れた。今の気持ちが身体から染み出ていって、一凛に視られてバレてしまうかもと不安になる。でも隠せない。口を押さえても、目を強く閉じても、耳元で一凛が囁くだけで、容易く崩れて、私の奥底がさらけ出る。
「大丈夫……大丈夫だよ、奏」
いつも一凛はそう言う。手を優しく握って、温もりを分けてくれる。私は……もらってばっかりだ。本当は、私にそんな価値は無い。なのに、いつもいつも馬鹿みたいにあたためてもらって……もっと……って……。ああ……あつくて……寒い……。一凛……一凛……一凛…………。
「奏……」
頬を撫でる柔らかい手が、なにもかも切り裂いてくれそうで、私は両手ですがりついて、気づけば彼女の名前を何度も呼んでいた。
「奏……奏……」
一凛の私を呼ぶリズムは、私よりずっとゆっくりだった。子供を寝かしつけるように、穏やかだった。
あなたの透き通った声が体に重なる。私に、視えない痕をつける。肌を埋め尽くすほどつけてほしい。私が見えなくなるくらい。バラバラにしてほしくて、そしたら自分をあなたに相応しい人に組み立て直せる気がして、私は身をよじった。よじってよじってねじってねじれて――きっともう降ってる――そうして部屋いっぱいにこころが漏れ出た。
閉じた瞼にキスをされて、私はゆっくり眼を開いた。結露したガラスのように視界はぼやけていたけど、一凛の微笑みはすぐにわかった。
だんだんはっきりしてきた目で、私はふと、窓を見た。少しだけ空いたカーテンの隙間から冷えた光が洩れている。その先の光景に、目眩がする。
赤い雪が降っている……とても綺麗な赤い雪……。
「……見てよ……一凛……雪が、赤くて素敵……」
私は、そう思う。だから一凛に外を指差しそう言った。
一凛は言われて外を眺めて、固まって動かなくなった。
身体が……痛い。
血が出るくらい、あなたのことが好き。真っ白だった頭が、あなたへのきもちで赤くすりきれる。私の恋はいつもそうで、私の好きはいつもそうで……でもきっと許されない。そんな資格も価値も、私にはないから。だからいつも赤い雪が降る。そういう空からの警告なんだ。神様からの警告なんだ。
……嫌い。赤い雪なんて嫌い。みんなと違う雪なんて嫌い。家族と違う雪なんて嫌い。あなたと違う雪なんて嫌い。そして何より……何より……それをいつも綺麗って思う私が嫌い。それを変えられない、気持ちを抑えられない私が…………一凛……一凛……寒いよ……手が……震えて止まらない……。
「奏」
私はいつの間にか、眼をぎゅっと閉じていた。一凛が手を強く握って名前を呼ぶ声で、私はまた眼を開けた。朝焼けのようなとてもまぶしい微笑みが、私を照らす。
「奏……綺麗だね」
「一凛……?」
「雪、赤くて綺麗だね」
私は、黙った。息も透明になって消えるほど。
「真っ赤で……はらはら降って。花が雲から落ちてきたみたいで……ほんとうにきれい――」
「うそつき」
私の声に一凛の言葉は切り裂かれた。
「うそつき……うそつき……うそつき!!」
私は一凛の手を振りほどこうとした。けれど、一凛はもっと強い力で固く手を握って離さなかった。
「あなたに……赤い雪なんて見えるわけない! そんなの、そんなのわかってる!! あれは私がイカれてるって世界に言われてるんだよ! 私がおかしいって、みんなと違うって、同じ景色もみれないってそういう証拠なの……! そう……言われてきたの……ずっと………だから……だからうそつかないで……」
赤い雪はまだ降っている。一凛の家の屋根にも積もってきてる。きっともっと積もって、いつかあなたをおしつぶす。
声も上げずに、一凛は泣いていた。小刻みに震えて、凍えてるようだった。痛そうにして、辛そうにして……私の手をついに離した。
もう終わりだと思った。でもきっと当然なんだ。私は一人で景色をみるよう出来てるんだ。そういうふうに生まれて、そういうふうに自分を組み立ててしまった。
いや、それは言い訳だ。私はただ、ずっと最低な人間で、ただ、愚かなだけ。だからあなたすら突き放す。
「かな……で……」
ごめんね一凛……私が私でごめんね……。
深くうなだれた彼女に、私は謝り続けた。それしか出来なかった。だけど、もしかしたらそんなのは、彼女をナイフでめった刺しにするのと変わらなかったかもしれない。もっと傷つけてるだけかもしれない。
結局私もうなだれて、自分の顔を両手で覆って、その冷たさに愕然とした。きっと流れてる血が冷たいんだ。辛いのに、涙すら出てくれない。私は本当にみんなと同じ、人なんだろうか。いや、あなたと同じ、人なはずない。
真っ暗な視界に、一凛の姿が映し出されて消えない。無数の記憶の窓に、今までに見た、あなたが全部。ああ、どれもきらめいてる。なのに一つだけ、かなしいあなたがいる。すすり泣いてて、酷い有り様で、かわいそうで、彼女だけ光が失われかけていた。私はまた自分を責める言葉を用意した。しかし、思考は止まった。“その一凛”が突然涙を拭って、強く私を見つめてきたのだ。他の輝く窓たちはカーテンを勢いよく閉めたように一瞬で脳裏から消えた。たった一つの、たった一人の彼女だけが私の頭の中に残った。そして、手をのばしてきた。私に向かって、窓を越えて、真っ白な手を差しのべて、それで私も必死になって、一凛の名前を叫んで、手をのばした。なのにあなたに近づかなくて。もがくたび腕も体も暗闇に切りつけられた。痛くて痛くてたまらなかった。ぐちゃぐちゃになりそうで、どんどん血で赤く染まって醜くなっていく……でも……あなたの方へ行きたい……ゆるされるなら、あなたと同じ色になりたい――
「愛してる、奏」
私は顔を上げた。ゆっくりと、海からあがるように。すると、一凛が泣きながら微笑んでこちらを見ていた。
一凛は戸惑う私の頭を撫でた。撫でる度に、
「愛してる」
と言ってくれた。彼女の温もりが、お日さまみたいにあたたかい……。
「奏……ごめんなさい、うそをついて……」
謝らないで。
「わたしは……雪が赤く見えたことなんてない……今降っているのも……白い雪にしか見えない……それなのに……」
私が悪いの。
「それなのに……あなたと同じって言って……あなたを傷つけて………………ほんとうに……」
「愛してる一凛……」
一凛の声を塞き止めるように、私は言った。
「あなたが好き……一凛……あなたが好きなの……真っ白であったかいあなたが……ずっと……なにより愛してる……」
言い終えて、しばらく、私たちはお互いを見つめ合って、動かなかった。それは実際には数秒のことだったかも知れない。しかし、まるで時間がこの部屋から目を離したように、光がのろまに私たちの間を行き来していた。その中では、一凛の黒い瞳が、世界の全てだった。それだけは確かだった。そしてその刹那の終わり、一凛は突然立ち上がり、ベッドから降りて部屋の窓を開け放った。赤い雪が部屋に入り込んで来たため、私は驚き、慌てて一凛を止めようとして、ベッドから転げ落ちるように彼女に駆け寄った。
「一凛……! なにしてるの……!?」
一凛は雲を睨み付けるように見上げ、そこから落ちる雪に合わせて視線を降ろして、震える声で呟いた。
「やっぱり、赤くない……どうして赤くないんだろう……わたしの雪……」
一凛の横顔は、何かを悔しがってるようだった。けれど、彼女はすぐに表情を柔らかくして、私を見て、話してくれた。
「奏、わたしは……奏が言ってくれるほど、真っ白じゃない……。ひどいところ……たくさんあるよ……。みんなに同調して、人の悪口を言って、誰かを傷つけて、イジメもとめられなくて、誰も助けられないで、苦しくて泣いてる人から目を逸らして、自分はただ、毎日をただ生きてた……。本当に、酷いやつなんだよ、わたし。なんでこんなダメなんだろうとか、生きてる価値あんのかなって思ってた。でも奏が……奏がこんなわたしを好きって言ってくれた……! それでどれだけわたしが……わたしが……救われたか……生きていいんだって、おもえたか……だから……奏、きっとね……あなたが誰より素敵な人だから、綺麗な雪があなたに降るの。この雪は花束なんだよ。世界から、神様からほめられてるんだよ……!」
私は……言葉を返せなかった。止めどなく涙が溢れてしまって、声をあげるばかりで……。誰より素敵なのは一凛なのに……違うのに……私なんて……!!
私なんて私なんて私なんて私なんて私なんて私なんて私なんて私なんて私なんて私なんて私なんて私なんて私なんて私なんて私なんて私なんて私なんて私なんて私なんて私なんて私なんて――
――私で、いいの?
「あなたがいいの、奏」
ぐちゃぐちゃな私に一凛はキスをした。命が熔けるほど熱かった。何度も何度も重ねてくれて、今までの真っ黒な記憶すべて、痛いほどの光の中、消え失せてわからなくなった。
「一凛……! 一凛……!」
「奏……わたしも、あなたと同じ雪が見たい……」
そう言って一凛は自分の左手の親指を噛み始めた。どんどん力を強くしていって、私が止めようとする前に、皮を噛みきってしまった。
あかい血が、どくどくとこぼれる。私の視線は導かれるようにそこに注がれた。そして彼女が左手をゆっくり窓の外に出すと、私の首と眼もそれに合わせて動いた。
一凛の血は滴り、彼女の家の一階の屋根、積もった雪へと落ちていった。
「……やっぱりだめか」
雪を見下ろして、一凛はため息をついた。
「こんなんじゃ、こんな色じゃ、奏の赤い雪に敵わないよね……」
私は一凛の血の雪から目が離せず、固まって答えられなかったのだ。だって……。
「ごめん、奏。赤くしたら同じの見れるって思って……びっくりしたよね……」
「うん……綺麗」
一凛は目を丸くした。私も多分そうなっていただろう。
一凛の血は“あかかった”。赤い雪に馴染まないどころか、落ちた部分を塗り潰してしまった。
綺麗だった。恐ろしいほど綺麗だった。こんな『あか色』は見たことなかった。だから私は窓から身を乗り出して、そのあかい雪を両手ですくいとった。
手の中でもきらきら輝いてる。ずっと眺めていたかった。だってこんなにあったかい……だけどすぐにとけだした……。
「ああ……! やだ……! 消えないで! やっと、やっと本当に好きになれたのに……!! とけないで……とけないで……とけないで……このまま――」
言葉が途切れた。
私を一凛が抱き締めたからだ。
「うん。とけないよ」
彼女は私を撫でながら、ゆっくり窓とカーテンを閉めた。
「ずっと消えないよ。奏のそばで、ぜんぶ。ぜんぶ…………」
暗い部屋の中、彼女の腕の中、私の手の中で、雪は消えた。消えてしまった。だけど悲しくなかった。だって、あなたの色だけ肌に残ったから。
私と一凛は静かにベッドに戻り、もう寒くないのにまた抱き締めあって、冬眠するように目を閉じた。
「ありがとう……」
って二人の声が、液体みたいにまざった。
ああ、どうか、どうか二人で、ずっと、同じ景色を見れますように。
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