絵を描く女
わたしはいつの頃からか、将来は漫画家になるのだと、ぼんやりとした夢を持っていた。
そのことを思い出したように、とつぜん何かを描いてみようとひらめく。ベッドの上に体を起こしてそのへりに座り、手を伸ばして台車を手前に引っ張ってくる。台車から引き出した机の上にノートを広げ、鉛筆を右手に握りしめゆっくりと、線をひいていく。わたしは顔を描こうとしている。曲線はゆっくり、しかし左右に小刻みに触れて、意図した方向とは違うところへと、曲がりくねってしまう。もとの軌道に戻そうとした瞬間、鉛筆の軸は滑り、大きく直角となってはみ出した。
わたしはそれ以上描くことをあきらめ、紙の上にバッテンをひいてノートを閉じた。
午後のホールに女がひとり座っていた。
女は、机の上に雑誌を広げ、何やら作業をしているようだった。わたしは通り過ぎるふりをしてそちらを伺ってみた。女は、雑誌のモデルの写真を、もう一枚の紙に模写している最中らしかった。色鉛筆を使って熱心そうだ。
わたしはソファの向かい側にまわって、そこに腰かけた。怪しまれたくはなかったため、手にはコップを握りしめ、単なるティータイムに座っただけ、という自然さを装うようにした。しかしわたしのぎこちない動作からは、やはり女への興味が見え隠れしていたのだろう、女はこちらに顔を上げてこう言った。
「ワタシの絵をみますか?」
一拍の間をおいて、わたしは答えた。
「ありがとう」
女は少しいびつな発音で、こう話した。
「ワタシは、絵を描くことがすきです」
「そうなんだ。上手だね」
机の上には、差しあたって褒めるには問題ないという程度の画力の絵が並んでいた。横に並べた雑誌のモデルの輪郭を、几帳面な線で再現している。彼女は絵を描く手をとめ、得意そうに口角をあげた。
「ワタシはミンファといいます。中国人です。あなたは?」
わたしは日本人で、佐保というと伝えた。
ミンファは、さらに私に尋ねた。
「サホは、絵を描くことがすきですか?」
わたしは咄嗟に、絵はあまり描いたことがないと返事した。会話はそこで途切れ、彼女はふたたび絵に集中し始めたので、わたしはしばらくその手元を眺めたあと、じゃあねと小さく呟いて席を離れた。
ところどころ黄ばみのある白いカーテンを静かにひいて、ベッドに腰かける。机の上のノートをみて、もう一度思い立ち、鉛筆を握りしめた。ひとの輪郭を、曲線を描こうと試みる。鉛筆を持つ手はやはり小刻みに震え、その振動はそのまま紙の上に落とされた。
わたしはノートのそのページをちぎり、荒く丸めてゴミ箱に投げ入れた。
「佐保ちゃんにTシャツのデザインをしてほしいんだ。」
同期の男の子がわたしにそう言う。彼はよく焼けた顔にニコッと白い歯をみせて笑った。サイクリング・サークルらしく、Tシャツには自転車に乗ったキャラクターを入れたいという。合宿のとき、みんなでお揃いのものを着る予定なのだ。
「わたしの描いた絵でいいの?」
わたしは遠慮がちに聞き返す。
「もちろん、佐保ちゃんに描いてほしいんだ。前にメンバーズリストに絵を描いてたことあったでしょ。あれびっくりした、うますぎて!」
ベッドの上で仰向けになったままでいる。
両腕をあげて、額の上で交差させている。こうすると目元が影になり、窓から差し込む光がすこし柔らかだ。初夏の日差しは明るくまぶしい。わたしは交差した腕の隙間から、ちらりと窓の外に目をやった。雲らしきものはひとつも見当たらず、ただ、空がそら色をしてあるだけだ。まるで小学生が画用紙にべた塗りしたそら色のように、のっぺりとした空。そんなことを思いながらみていると、とつぜん、その画面を何かが勢いよく横切っていった。右上から、左下に向かって、何か黒っぽいものだった。鳥だろうか、鳥が飛んだのかもしれない、わたしはそう考えた。今のはたぶん鳥、きっとそんなような生き物が、大空を駆けたんだ、それとも。
それは、速度とともに落下したのかもしれなかった。
ミンファが今日もホールの机の上で絵を描いている。
わたしはミンファの前の席に座り、その手元を眺めた。
その日彼女が描いていたものは、抽象画だった。A4のコピー用紙に整然と並んだ大小の丸。現代アートみたいだねとわたしが言うと、彼女は口角をあげてこう話した。
「もっとたくさん描いています。毎日アートをつくっています。」
「へえ、みてみたいなあ」
何の気なしにそう言うと、彼女は鉛筆をもつ手をとめてちょっと真剣な表情になり、前かがみに小声でこう言った。
「ワタシのミュージアムをみに来ますか?」
ミンファは道具を手早く片付け立ち上がると、視線で合図するようにわたしの起立を促した。そのあとは自然に、ミンファが先頭に立ち、わたしはそのあとに続いて歩いた。廊下を進んで、わたしの部屋の前も通り過ぎ、奥から二番目の部屋に入った。
部屋の中にさらに白いカーテンで包まれた部屋がある。彼女は、「ようこそ、ワタシのミュージアムへ」と、誇らしそうに言って、カーテンを開けた。
ミュージアムは彼女の部屋だった。壁いちめんに透明のテープで貼られた絵があった。A4のコピー用紙に描かれた抽象画。壁だけではなかった。ベッドの頭の上にも、二辺のカーテンにも、天井にすら、彼女の描いた絵がところ狭しと並べられてあった。すべてが同じようでいて違う絵なのであった。大小の規律正しい丸やら四角やら三角、斜線に波線、色とりどり、モノクロもあり、その中には以前見た雑誌のモデルもみられる。
わたしは呆気にとられて黙っていた。
ミンファは得意そうに笑っていた。
ふと、枕元の一枚に、絵ではないものを見つけた。写真である。一組の男女が、仲よさそうに肩を寄せ合っている。よくみると、髪型は違うが女の方はミンファだ。わたしはようやく会話の続きを見つけ、多少感情をこめてこう言った。
「この女の子はミンファだね!横の男の人は誰?」
すると、ミンファは少し照れたような表情になり、こう言った。
「それは、ワタシの旦那サンです。」
「へえ、いいね!優しい?」
「とても、優しいです」
そしてミンファは、極めて内密な話だ、と言わんばかりに真剣な表情で、小声になりゆっくりとこう続けた。
「彼がワタシをここへ迎えに来てくれます。もうすぐです。この部屋の絵がいっぱいになったときに。」
こんなに、もうすでに部屋は絵でいっぱいなのに?とわたしは思った。絵は360度に張り巡らされていて、まるで天も地もないようだ。少し足元が揺れる。
「もうすぐです。」
もう一度ミンファが言う。
「もうすぐ、彼がワタシを迎えに来てくれるのです。」
風でも吹いているように絵がひらひらと落ちてきた。一枚、二枚とテープの粘着が弱かったのかもしれない、わたしは少し揺れているように思って、枕もとの写真をみた、そうあれは確かにミンファで同じように口角をあげている、でももっと、ずっと子どもの頃のミンファだ。
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