少しずり落ちた掛け布団を両手で顎に近づける。兎は寝付けなかった。兎は先日狼に捕まったばかりだ。きっとそのうち狼に食べられてしまうんだわ。私ももうお仕舞いなのね。若かった無知な自分にさよならするとき。お母さん、今までありがとう。兎は狼に食べられる自分を天井に想像していた。興奮はなかなか収まらない。なんて怖い狼。
兎が狼に捕まってから一日、一週間、一ヶ月、一年と、時間はどんどん過ぎていった。兎は苛立っていた。朝食の時間、兎はダイニングへ階段を降りていく。
「おはよう。」
「……」
「なんだ、元気ないじゃないか。」
狼の挨拶に応える気にはなれなかった。兎は皿の上の人参を齧りながら、そっと狼の方を睨むように見つめる。狼は兎の視線に気付かずにコーヒーを啜る。
兎はもう限界だった。兎は机の上に飛び乗った。そして皿の上に横たわる。
「もう一年も経ったのに、何故私を食べないの。」
狼は最初驚いた様子だったが、次第に申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「君の気持ちに気付いてやれなくてごめんよ、ウサギちゃん。」
今晩食べることにするからと言って、狼は家を出ていった。兎は期待と不安でいっぱいだった。狼が帰って来るまでに食卓をきれいにしておかなくては。兎はテーブルクロスを替え、ダイニングライトを掃除する。調味料はこの前狼には内緒で通販で買ったやつがある。それからあのソース。兎はナイフとフォークを拭きながら、そこに自分が映る度にニヤけた。狼が帰る一時間前には風呂の準備はできていた。
「ただいま。」
捕まった日と同じ目で、兎は狼を食卓へ誘う。
「これは準備がいいね。」
兎にナイフとフォークを渡されて、狼は少し鼻息を荒くする。兎は用意しておいた調味料とソースを自分の身体にかけ始めた。
「これくらいでいいのかな。」
「僕だって分からないさ、初めてだもの。」
兎は料理の完成を狼に目で伝える。
「それじゃあ頂くよ。」
狼は唾を飲み込んだ。
「ちょっと待って。」
口を開けた狼を見て、兎は足先を彼の鼻に押し付ける。
「まさかその歯茎で直に私に触れるつもりじゃないわよね。」
狼は狼狽した。
「いやあ、帰り道に買ってくる筈だったんだけれどつい忘れてしまってね、入れ歯。」
「言い訳はよして。」
不機嫌な口調で兎は狼を跳ね除ける。
「入れ歯してくれなきゃ食べさせてあげない。」
「じゃあ今日は食べさせてくれないってことかい。」
「私は今まで優柔不断なアナタに散々焦らされてきたのよ。これくらい我慢しなさい。」
今度買ってくると言ったのに、狼は一向に入れ歯を買ってこない。彼は私を食べる気がないのかしら。
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