ペンウィー・ドダーは店内に入室し、すぐに一番奥まった席に座った。カーキ色の短パン越しに、椅子の持つ冷たさが触った。
そこはすぐ隣になぜか黄色い葉の観葉植物が置かれており、よく耳を澄ませると豊かなクラシック系の声の無い曲が微かに流れていた。ペンウィーは自分の自慢の白衣を整えた。誰かに見られるわけでもなかったが、ペンウィーは医者として常に他人からの見た目をこだわっていた。
ペンウィーはすぐに右手を上げた。すると店内を駆け巡っていた、橙色のエプロンを着た一人の女が近づいてきた。
「ご注文はっ?」
「ここは何屋だ?」
ペンウィーは女に即答した。
「は、はい?」女は右手に持ったメモ帳を弄びながら目を丸くした。
「ここは何屋だ?」
ペンウィーは澄ました顔で質問を連呼した。すぐに肩に当たらないほどの長さの黒のウルフカットを、顔を微細に動かして震わせた。
すると女は胸ポケットから万年筆を取り出してから口を開いた。「ここはカフェですよ。なんでもあります」
「なら私の次の仕事もここにあるか?」
ペンウィーは右の眉毛を高速で上下させながら質問した。その声には女の人間性を試すような色があった。
「え、ええと……」女は万年筆を高速で動かしながら口をまごつかせた。「ど、どうでしょう……。ヒヒヒ」女は引きつった笑みを浮かべた。
「む? その、ヒヒヒ、という笑い声……」ペンウィーは女の顔を覗き込みながら甘い声で囁いた。「それは、君の癖か?」
「え……。は、はいっ……」
「なら心中したまえ」
ペンウィーは腕を組みながら低く嘶いた。
「し、心中ですか?」
「そうだ。そうすることで、貴様の体力と魂のような臓器が一度に介し、さらに向こう側という医学的な先天性にたどり着くはずだ……」ペンウィーは自分の記憶を探るようにしながら囁き続けた。「そうして、さらなる発展と次なる世界のたどり着きと、永遠なる財団に素手を与えるんだ……」
「そ、そうですか……」女は万年筆をさらに動かした。その目はありとあらゆる箇所を見つめており、あからさまに動揺していた。「それでっ……、ご注文はっ……」
その時、万年筆から飛び出した黒のインクがペンウィーのかけている丸眼鏡に飛び散った。視界が一気に黒に染まったペンウィーは驚きで上半身を後退させた。
「なんだねっ! これはっ!」
「すみませんっ!」
ペンウィーは落ち着きを取り戻しながら眼鏡を取り、付着しているインクを右手の指で拭った。しかしインクはこびり付いており、眼鏡のレンズの上で薄く伸びた。「これは、取れないな……」
「すみませんっ、すみませんっ……」女はぺこぺこと謝罪を連呼するだけでその場から動かなかった。どうやらマニュアルにない異常事態に混乱し、身体が停止しているようだった。
「どうしてくれるんだと聞いているんだが……」ペンウィーは眼鏡のレンズを何度も擦りながら質問した。レンズはすっかり真っ黒に染まり、すでに透明な箇所は無くなっていた。
「すみませんっ、すみませんっ……」女は相変わらずぺこぺこと動作するだけだった。まるでそういう機構の玩具のようだった。
「どうすれば……」
「お嬢さん、それならおれの眼鏡を使えばいいさ」という謳い文句と共に、ペンウィーの席に近づいた背の高い女・黒花園未加が、エプロンの女の後ろからのっそりと現れた。彼女は黒のランニングシャツと長い迷彩柄のズボンに、腰には日本刀、さらに足にごつごつとした黒のブーツ、その上から黒のコートを着ているおかっぱの園未加だった。にやつきながらペンウィーと対する席にどかっと座り、自分の顔にかけている丸い眼鏡を指差した。
「これでいいだろ? なあ、アンタ?」
「そうだな……」
ペンウィーは自分の眼鏡をテーブルに置いて、園未加の丸眼鏡を奪った。そして自分の顔にゆっくりとかけると、両目をぱちくりとさせてから顔を傾けた。
「おかしいな……」
「どうした?」
「どうしました?」
「眼鏡を掛けているのに、視力が上がっていない……」
すると園未加が弾けたように笑い出した。右手で膝を何度もパンパンと打ち、店内を統べるほどの大声で笑った。
「なにがそんなにおかしい? どうした? どうした?」ペンウィーがなぜか視力が上がらない丸眼鏡をクイと上げて園未加に質問した。
「そりゃあ、それをつけただけじゃあ視力は上がらないだろうな。なんせ、それはおれがさっきそこの店で奪ってきたモンだからな!」
園未加が自分の自由研究を報告する小学五年生のような声で宣言した。
「なるほどな……。これでは宇宙を観れないのか……」
「宇宙!」園未加が上半身を乗りあげてペンウィーの頬に接近した。すると園未加の鼻毛が多い鼻孔にペンウィーの甘い体臭が触れた。「おまえは宇宙を観るのか?」
「ああ……」ペンウィーは丸眼鏡を外して、テーブルの上の自分の眼鏡の横に並べた。「総じて海水だが、未来のような温かさがあるっ……」
「あのっ」
女がここぞとばかりに声を出した。接近しているペンウィーと園未加が同時に女の方見上げた。
「ご、ご注文はっ?」
「そうか。ここではそれが定例なんだな?」園未加が女の腕からメモ帳を取り出して眺めた。メモ帳には乱雑な字で官能小説が記載されていた。「どうやらここではセックスが定例らしいな」
「お前はどうする?」ペンウィーがテーブルに肘を乗せて、顔の前で両手を組んで園未加に質問した。「お前はどうする?」
「おれは……」園未加はメモ帳を女に返却すると、ペンウィーの横にある観葉植物の黄色い葉を一枚ちぎって口に入れた。「これでいい」
すると店の入り口が慌ただしく開かれた。女が反射的に出入り口の方を向き、入ってきた大柄な男に大声で「いらっしゃいませっ!」と叫んだ。
入ってきたのはボルデイン・ニッパーだった。灰色のスーツの上からトレンチコートを羽織っているはげの彼は、店内を猟犬のような眼光で見つめた。そして店の隅でくすぶっていた園未加を認めると、ずんずんと向かっていった。
「なにかようか?」
「アンタに手錠をかけにきた」
ボルデインはがらがらとした声で園未加を見下ろした。
するとペンウィーが立ち上がってボルデインに右腕を突き出した。
「待ってくれ。私の眼鏡がどうしようもなくなってしまったんだ」
「ならコイツを使えばいいだろう」
ボルデインが大儀そうに吐くと、自分の灰色のスーツの内ポケットから焦げ茶色の手ぬぐいを取り出してペンウィーに渡した。
「おお、ありがとう」
ペンウィーは手ぬぐいを受け取ってインクまみれの眼鏡を拭き始めた。ボルデインの体温が移っている布は、眼鏡にこびり付いた強烈なインクを完璧に拭い、透明で綺麗になった眼鏡をペンウィーは嬉しそうな顔でかけ直した。
するとボルデインが他から一つの椅子を持ってきた。ペンウィーと園未加が座っている席に接近させると、そのままどかっと座り込んだ。
「ええと、ご注文は?」
女がメモ帳の新しい頁を開きながらボルデインに訊ねた。
「黒珈琲を頼む」
ボルデインは園未加を睨みながら素早く吐いた。すると女が「かしこまりぃっ!」と震えながら叫び、すたすたと厨房に帰っていった。
「それで? アンタはおれを捕まえに来たのか?」
園未加がボルデインの浅黒い顔を睨み返して訊ねた。ペンウィーが「それは難儀なことだ」と呟いた。
ボルデインは腕を組みながら息を吐いた。
「そうだ。まさかこんな店に潜伏しているとは思っていなかった。それに……」ボルデインは横のペンウィーに目をやった。「ペンウィー・ドダー大先生まで居るとはな……」
「私はここでランチを嗜もうとしているだけだが?」
ペンウィーはにやつきながら高い声を出した。
「でもよ、女はさっさと帰っちまったぜ?」
「君が返したんだろう?」ペンウィーはボルデインを睨んだ。
「注文を訊かれたら答えるだろ? ここはカフェだぞ?」
「それもそうか……」
「いいや!」園未加が大きな声を出した。「全ての注文を受けずに帰っていったアイツが悪い」
「それもそうか……」
「ここで事情聴取をやろうと思う」
ボルデインが唐突に宣言した。
「驚いたな。ここは取調室でもあったのか」
園未加が片手を上げながらにやついた。
「まあ落ち着けよ」ペンウィーが園未加を制した。そしてボルデインを視た。「警部、たしかにここで刑事らしい仕事をすることは可能だ。それは向こうのチラシからも読み取れる。しかしな……」ペンウィーは身体を乗りあげてボルデインに近づいた。ボルデインの鼻毛がよく見えた。「アンタは殺し担当じゃなかったのか?」
ペンウィーは低く呟く程度の小さな声だった。
「確かにそうだ」ボルデインは頷きながらペンウィーを肯定した。「しかしな。市場と共に自分の役割を変えていかなくちゃいけない。医学の世界の人間ならわかるだろ? 掃除なんだよ」
「掃除っ!」園未加が弾けたように笑い出した。「それは傑作だ。アンタはれっきとした空気の他界だったか!」
「まるでリングの中だけだな……」ペンウィーが阿波踊りのような身体の蠢きを演じてから、テレビの中だけの海底の底を瞳に宿した。「階層と、いわゆる炎天下発生装置のような黒くて四角い生命体に助けを求めている時点で、水滴を飲み干すことはできない……」
するとお盆の上に三つのコップを乗せた女が近づいてきた。
「何者だっ!」園未加が歌舞伎役者のような大げさで古風な動きでお盆の上のコップを取り上げた。「これは……、水か?」
「はい」
「終了したのではないか?」ボルデインが指差し確認をしながら訊ねた。
「はい。しかし、復刻とサーヴィスです」
「天使じゃないかっ!」ペンウィーが立ち上がり、園未加からコップを受け取ると中の水を音を立てて飲み干した。「旨いっ!」
するとボルデインも園未加からコップを奪い、中の水を一気に飲んだ。「これは理解のある蜃気楼と夢見がちな河川敷の電波……」
園未加も自分のコップを確認すると水を飲んだ。しかし食道には流さずに、唾液と合わせてガラガラと口内で動かすと、一気に女目掛けて吐き出した。
びしょぬれになった女はそのままにやけ顔で園未加を視た。「これはありがとうございます」
「どうして水を吐いたんだ?」
ペンウィーがコップを指の上で回転させながら訊ねた。
「そういう気分だったんだ……」
園未加が叱られた男児のような声を出した。
「言い訳をするなっ!」
ボルデインが怒鳴り、女の頬を平手で打った。その勢いで女は店内の床に倒れた。ボルデインがそんな女に馬乗りになった。そして握り拳を振り下ろした。女が「ありがとうございますうっ!」と叫んだ。ボルデインはさらに拳を打ち下ろした。女が再び「ありがとうございますうっ!」と叫んだ。ボルデインが立ち上がった。ペンウィーが白衣から新型のスマート・フオンを取り出して女の顔面を撮影した。女の顔面は陥没していた。肌と頭蓋が崩壊し、血が流れていた。やがて女の顔面にいくつもの蛆虫が湧き出した。蛆虫たちは女の露出した赤い肉を喰い始めた。
「おい、こいつはいけないことになってきたぞ……」
ペンウィーが控え目な声でスマート・フオンの動画撮影機能を起動した。
「園未加。お前の刀でどうにかできないか?」
ボルデインが顎に右手を添えながら提案した。
「やってみよう」
園未加が刀を抜刀した。店内の照明からの光を受けてきらりと輝く刀身を振るい、園未加は女に群がる蛆虫の一匹を刺した。びゅちゅり、という音が響き、蛆虫の身体から紫色の粘液が流れて萎れた。
「これはひどい!」
「まったくだ!」
「ところで警部、事情聴取をすると言ったな?」
ペンウィーがスマート・フオンをしまいながらボルデインに訊ねた。
「ああ、そうだったな」ボルデインは咳払いをしてから、いかにも警部らしい低い声を出した。「では、黒花園未加への事情聴取を始めるっ!」
「まったくイカした野郎だぜっ」
園未加が座り直しながら口元を緩ませた。
「いいか園未加、お前にはいくつかの容疑が掛けられている」
「ほう?」
「どんなものなんだ?」ペンウィーがいかにも医学者らしいぎらついた目で訪ねた。
「まず、数件の殺人。これは数か月前の小学校での出来事が主だ。次に三つの窃盗。これにはさっきの、つまりその眼鏡も含まれる。最後に麻薬だ」
「麻薬?」園未加が右手を上げた。「おれがいつ売人から買ったって?」
「ここでやっただろ?」ボルデインがペンウィーの横の観葉植物の葉を睨んだ。「それとも、言い訳でもするか? ああん?」
「まってくれよ。へへ……」園未加が両手を挙げてにやついた。「おれは確かに葉っぱをやったさ」
「認めるのか?」
「ああ……。おれは山を登るよりも、自動販売機の下を探ってから世界を地図で埋めるよ……」
「代替案だけどな」
「でも……、試合のような立体感のある浮き上がりと声の螺旋と階段を上げるだけの体力があるのなら、聖書でもスパゲッティでも職人でも掃除でも巻き込めばいいのではないか?」
「それはちがうだろう……」ペンウィーが足を組んでから机の腕に手のひらを乗せ、数回撫でつけるとボルデインの顔を視た。「明日よりも強烈で赤色の世界なんて、存在そのものを理解するよりも先に崩壊して、すぐに硝子の上の廃墟になるんだぜ?」
「なるほどな……、ところで」ボルデインが東の窓を見つめてから奥の厨房に目をやった。「黒珈琲はいつくるんだ?」
「知るかよ」
ペンウィーがボルデインの頬を引っ叩いた。
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