何か私は空虚であった。空であった。
何も感じずあの時は抜け殻のように生きていた。
ただ小中高と何もせず積みもせず生きてきた。
勉学に励んでいた訳でもなく、スポーツを勤しんでいた訳でもなかった。私はそもそもそういう人の鏡の様な者ではない。人でありながら人ならずして生きている。
そして路頭に迷った末、私は小説家となった。
何故なったのかは今でも覚えていない。ただ書斎で寝惚けていたらふと物語を書き始めていたのだった。
そしてまぐれかどうか分からないが、成功した。今まで努力もしてこなかった人間が、突如、幸に恵まれたのだ。
神は私をどうしたいのか、天に問いかけても未だ分からない。
私は一躍街で先生、先生と呼ばれるようになった。その前は誰もかも私を道端にある石コロの様に思っていた筈だったが。
人というのは実に単純な生き物で、結局は「長い物には巻かれろ」の精神で行動している。特に思い入れが無い限り。
そしてまた流行に乗っていくのだろう。業が深く終わりが無い。
愚かだと思うだろうが、人はその愚かな行動を無意識に行う。人間は愚かさの権化だ。
その様に卑屈な考えを持ち始めたのも自身の小説が売れてからだ。
才能だけが開花し、努力もせず幸福を手に入れた自分と、努力を続けたにも関わらず未だに幸福を手に入れられていない他人がどうしても理不尽に思えてくるのだ。
いや、それが理不尽である。私がそう思うのだから。
何か足りない。これほどの幸福があるのに。
私はいつもの様に書きたくもない小説を書いていた。
今いる書斎には読者から貰った本や参考書やらがひしめいている。
ただ私はその本を一度も読んだ事が無い。近々古本屋に出す事にしよう。
ただ私が唯一使っているのは椅子と机のみだ。
万年筆を取り出して、原稿と顔合わせする。
白い草原の様な原稿に私は一人取り残される。
何も浮かんでこない。
いや、本能的に浮かばせてこないのだろう。もしここでアイデアが産まれれば、私はまた幸福になれない幸福に捕まってしまう。
ただここで原稿に世界を描かなくては私はそのうち破産する。
だから書くしかない。・・・でも浮かんでこない。そういう時は私はよく庭の柿の木を見るのだ。
書斎の机からは窓を通し庭の柿の木がちょうど見れるようになっている。
私がこの家に引越してきた時たまたまこの木があった。
秋になると立派な柿の実を蓄える。私はそれ時々干し柿にして食べるのだ。
柿の木は私を睨み、ただ立っていた。
ああ、どうしようか。このまま座って時間が過ぎるのを今日もまた見守ろうか。
そう思っていた時だった。
窓を叩く音が聞こえた。
思わず私は窓を開け辺りを見回した。すると、
「・・・今日は。おじさんが小説家の・・・」
下に少女がいた。八歳位だろうか。だがその歳にしてはやけに小さかった。この辺りの住民にしてみれば随分裕福に見えた。
「・・・む、ああ。私が蛍坂だが・・・どうしたのかね、君」
私が尋ねると、少女は上目遣いで応えた。
「柿をわけて欲しいのだけれど」
それを聞いて私は納得した。
近頃私はあまりに暇なので近所に柿をあげている。別にそれが何になるわけでもない。無意味な散財だ。
その噂が広がった様だ。
「分かった、取ってこよう」
私は一度席を立ち、台所にある干し柿を取りに向かった。
そしてその干し柿を少女に両手を使って渡した。
「ありがとう、おじさん。・・・ねえ、あたしには何だか、おじさんが悩んでいる様に見えるの。何があったのか教えてよ」
突然何を言い出すかと思ったが、こんな少女の前で強がっても仕方あるまい。私は意のままに悩みを打ち明けた。
「私は、こうして突如有名小説家となった。そして巨額の富を得た。・・・だが私の心は満たされてはいないのだ」
「どうして?」
「どうして?、か・・・。一つ思うのは、私は何か大切な事が出来ていない様な気がする。だから私は他人と比較しまぐれで出世した自分が憎く思える。本当にやりたい事で評価されているなら、満足している筈だからね」
私はパイプに火をつけ一息煙草を吸った。
「ふーん・・・。じゃあその『本当にやりたい事』が見つかったら良いの?・・・それなら、あたしは直ぐに見つかりそうな気がするけど?」
少女は何か分かっているかのような口の利き方をした。
「本当か?」
「うん。・・・あ、もう行かなきゃ。干し柿、ありがとう」
彼女はそう言い残しサッと玄関の方に庭を経由してかけて行った。
・・・もし彼女の言う通りならば、私はここまで苦労していないだろう。
では何故彼女はあんな・・・。いや、気にする事はない。作業に取り掛かろう。
私はまた白色の庭に向かった。
翌日の事であった。気温は昨日より少し上がり晴天だった。
昨日までに原稿は一ページのみ消費された。だがこれが進捗が発展したと言っていいのかというと厳しい。また大変な作業になりそうだ。
だが昨日よりは筆は進んでいた。
作業を始めたとほぼ同時に、また窓がドアの様にノックされた。
窓を開け下を見ると、昨日のように彼女が立っていた。
「今日は。・・・これ、昨日の柿のお礼」
そう言って彼女は二、三粒の団栗を私に渡した。
「ああ、それはどうも」
私はその団栗を机に置いておいた。
「・・・どう?アイデア、浮かんできそう?」
「・・・いや、駄目だな。アイデアが浮かびくる瞬間というのがあってだな、それは思考の暴走でもある。だが今は・・・それがない」
そう返すと彼女は残念そうに机の団栗を見ていた。
「気を落とさないでくれ。私が異常なだけだ。君が異常な訳じゃない」
「・・・別にそういう風に渡した訳じゃ・・・やっぱり分かってないわね」
その言葉に私は少し幼児相手にムキになった。
「何を知ったような口を。私の何を知っているというんだ、君は」
私はキッと(相手は怒っているとは分からないだろう)彼女の方を見た。
「・・・少なくとも、私は貴方の事を貴方より知ってる」
「え?」
彼女はそう言って玄関の方に走っていった。
今のは何だったのだ。何かビクッと痙攣する様な感触を感じた。
ただ恐怖からではなく、身近な物から感じるオーラの様な雰囲気を感じる。
一体彼女は何者なのだろう。
・・・私はそう思うと賢くない。馬鹿なもの程伸び代があるというが、努力しなくてはその伸び代も無意味なのだ。
私は夜、作業時間の終わり程まで、貰った団栗を見つめていた。何か掴めそうだったからだ。
ただ小説のアイデアでは無い。それとはまた違う・・・何か別の物が掴めそうだった。
団栗の質感、この丸っこい形・・・。
それを全て見た瞬間、私の心にある創作意欲が刺激されてしまった。
私は引き出しから白紙と古い鉛筆を取りだし、一心不乱に鉛筆の先を擦り始めた。
無心という物は発揮されるとあっという間の事になる。私の創作は誰にも邪魔出来ない。いや、邪魔させない。
今私はただこの団栗と会話しているのだ。
そして十分の時間が過ぎた。
我に返ると、そこには団栗の絵が出来ていた。
影と遠近、全てが混沌としていたが、私は一つの作品を完成させた。
そして創作中の溢れ出る今まで得れなかった多幸感。
私は彼女の言っていた『本当にやりたい事』を見つけたのだ。今日のうちに見つかった。彼女の言う通りだった。
私は、絵描きをしたかったのだ。
一昨日と昨日とは違う、清々しい朝であった。
私は朝一番、出版社に連絡し、執筆を辞めることを伝えた。もうやりたくない事をやる必要は無い。
大丈夫だ。私はやるべき事を見つけたから。
貯金はまだある。最悪絵が失敗しても路頭に迷う事は無かろう。
そう思うと・・・あの執筆活動にも意味があったのかもしれない。
また窓を叩く音が聞こえた。私は窓をバッと開け放った。
「やあ。聞いてくれ。私は・・・君の言う通りやるべき事を見つけた。絵だよ」
そう言うと彼女はパッと笑顔になった。
「良かった。・・・ずっとおじさん、暗い顔してたから。元気になって嬉しいわ。今のおじさんは何だか太陽みたいよ」
彼女はそう言い、彼女もまた言った通りの笑顔になった。
「・・・やっと、これを渡せるわ」
彼女は懐から何やら一個の柿を取り出した。そしてそれを私に渡した。
「絵描きになったなら、その柿をスケッチして練習してみて。・・・ありがとう。柿をくれて」
「いや、とんでもない。礼を言うのは私の方だ。君との出会いが無ければ、私は一生昨日のまま、暗く、卑屈に生涯を終えていた事だろう。紛う事はない。君のおかげだよ」
そう私は言いたかった事を伝えた。人との関係には感謝が生じる。
「・・・じゃあ、またね」
「ああ、また」
彼女は去っていった。
人生とは別れの連続だ。だが私はこの時はこの関係は続くとばかり思っていたのだ。
その夜私はその柿をスケッチした。
初心だということもあり、線は乱雑で影は理論から逸脱している非道い絵だった。
だが私は限りなく満足していた。
『人生は楽しむ者が勝つ』とはよく言った物だ。
名声や富があっても、結局は感じる者次第で幸福感の度数は変わる。
当然得られる金によって仕事の幸福感が変わるとは言えないのだ。
私はその単純な答えにようやく辿り着いたのだ。
私はその絵を額縁に置き、翌日少女に見せようと思った。
だが現実とは許し難い物だった。
翌日も、その明日も、その明後日も私は彼女を待ち続けた。
だが何時まで経っても彼女がまた窓の前に来る事は無かった。
私は空虚に戻った。
今まで自分がやってきた事すら馬鹿らしく思えた。
空の夕日が冷たく現実を押し付ける。
溜息ばかりつく私は自分にとってとてつもなく愚かであった。
その時、少女の柿が目に入った。
書斎に置いていたのだ。
私はその柿を見た時、彼女を無条件に思い出した。
そして分かった。彼女の想いが。
彼女は私に強く自分らしく生きろと言った筈だ。
それなのにどうだ?今の私は。
まるでプライドとという犬に怯える蟻だ。
私は強く生きなくては。彼女がそう望んだから。
私はその柿を本能のまま噛み砕いて食べた。
種が砕けていく。柿の果汁が机にこぼれる。
見ておくれ、君。これが本来の私だ。それでも嫌わないというなら、私をこれからも見ていてくれ。その窓の傍で。
その柿はやけに愚直で、家の柿と同じ味がした。
"柿"へのコメント 0件