朝も早々、二軒隣の嘉助の部屋から怒鳴り声が聞こえてきたもんだから、なんだなんだと戸を開けて、表へ飛び出してみたところ、隣の部屋の長吉も戸口から顔だけひょっこり出していた。おいおい、いったい何事だィ、とまだ目やにをくっつけている長吉に尋ねてみれば、顎だけしゃくって隣の嘉助の部屋をさす。長吉のぼつぼつ髭の生えた顎の先では、嘉助が玄関先で地面に額をこすりつける女に向けて、おうい誰か、塩ォ持ってきてくれねェか! と怒鳴りあげているところであった。塩ォったって、なあ、と長吉はおれのほうにまた視線をもどす。なあ、とおれもうなずく。めっきり涼しくなってきて、ようやく朝寝が愉しい季節になってきた頃だというのに、これじゃあおちおちまどろんでもいられねぇ。そのうえ嘉助ときたら、このご時世に口面具すら付けずに怒りにまかせて唾を散らしてやがるときたもんだ。嘉助に怒鳴りつけられて、白い額を地面にこすっているのは女房のお初さんである。お初さんは「あんた、あんた、たのむから」と悲痛な声で何やら嘉助に向かって懇願しているが、嘉助は聞く耳持たずにうるせぇうるせぇ出ていきやがれと啖呵を切ると、部屋の戸をぴしゃりと閉めてしまった。ただでさえおんぼろの長屋の戸が今にも外れるんじゃあるめぇかという勢いで、おれと長吉はまたちょっと顔を見合わせる。嘉助の野郎は確かに気が短いところはあるが、あんな剣幕でお初さんに怒鳴り散らかすなんて誰が見たって只事でない。いったいぜんたいどうしたこった。
戸が閉まった後も玄関先で、啾啾と泣くお初さんを見かねて長吉の部屋にあげ、ひとしきり涙が枯れっちまうのを待ってから、何があったんだいと訊いてみる。お初さんが言うには、原因はわくちんにあるという。
江戸の町に疫病が流行して久しい。愈々待ちに待ったわくちんが開発されて、おれたち下々の者にも徐々にそれが行きわたりはじめてきた。数日前にはこの長屋にも御上から接種券が配布され、おれと長吉はちょうど明日にも揃って接種場へ出かけようと話していたところだった。お初さんも当然嘉助と一緒に打ちに行くつもりだったのだが、接種券を見せると嘉助は煙管から煙をぷかぷか出しながら「俺ァ打たねぇよ」と言ったのだそうだ。そんなの困るわ、とお初さんは言った。あんたに何かあってからじゃ遅いんだから、馬鹿言ってないで一緒に打ちましょうよ。嘉助はお初さんの説得に頑として応じなかった。聞けば、どうやらわくちんを“打つ”のが自分の信条に反するのだという。
今じゃ見る影もないけれど、数年前まで嘉助はとんだ博打狂いだった。囲碁将棋から花札、双六、賽子に、果ては蝿取蜘蛛を飼育して蝿を取らせて一喜一憂するような、妙ちきりんな賭博にまで手を出した。それでも一人もんならまだおれたちだってああだこうだは言うめぇが、何しろ当時の嘉助はすでにお初さんと所帯を持っていた。自分が稼いだ金からお初さんが内職でほそぼそ貯めたへそくりまで、有り金ぜんぶ博打に使っちゃ月末にへこへこおれたちのところへやってきて、金の無心をするどうしようもねえやつだった。ところがあるとき、お初さんが高熱を出して寝込んじまった。ただの季節風邪かと思いきや、二日経っても三日経っても熱がひかない。それどころかすっかり食欲がないのも手伝って、みるみるお初さんは衰弱していく。長屋の皆で集めた金をつかって、お医者を呼んだはいいものの、お医者にも原因はわからなかった。嘉助はすっかりおろおろしちまって、だけどおれたちだってどうしていいのかわからない。「もう神様仏様にすがるっきゃねぇよなァ」と悲嘆してほとんど涙まじりに言った長吉の言葉を聞いて、嘉助は着の身着のまま草履も履かず、真冬の木枯らしが吹くおもてへ飛び出していった。気でも触れたかと思ったが、気でも触れなきゃやってられねぇ時もある。おれたちは嘉助を追わずに一晩お初さんに付き添った。
もうだめだ、だめかもな、いやそんな滅多なことを言うもんじゃあるめぇよ、しかしなァ……なんて言い合いながら、寒くて昏い夜が明けた。ところが不思議なことに、おれはいまだ信じられねぇんだが、翌朝日の出とともにお初さんはけろっと治っちまった。ぱちっと開けた目はしっかり枕もとのおれたちに焦点が合っていて、熱も汗もすっかりひいて、頬はぴかぴか、まるで紅でもさしたかのように血色がいい。なんだかお腹が空いたわ、なんて言いながら、起き上がって猫みてぇにううんと伸びまでして見せる。おれたちは訳もわからず、でもよかったよかったと皆で抱き合い喜びあった。と、そこへがらがらっと戸を開けて、嘉助のやつが帰ってきた。真っ青な顔で髪はぼさぼさ、泥だらけの足で目の下にはひどい隈まで作っていやがった。まるでこっちが病人の様相だ。あら、あんたお帰り、とお初さんが言い、嘉助はまだ布団の上にいるそのつやぴかのお初さんの顔を見て、土間にへたりこんでおいおい泣きだした。
あとで聞いた話によれば、嘉助は裏のお稲荷で、朝までお百度参りをしていたそうだ。神仏の類なんざ信じたところで札が増えるわけでもあるめぇに、なんて言っていたような嘉助がそんなことをしたなんて、よっぽど切羽詰まっていたんだろうか。とにかく嘉助は一晩中、藁にも縋る思いでお稲荷に詣でていたというわけだ。どうかどうかお初のやつを助けてくれ、とお稲荷に向かって嘉助は手を合わせた。裸足の足の裏はすりむけて、つめたい夜風が獣のような声で鳴いていた。嘉助はお稲荷に祈った。たのみます、どうかたのみます。もしも助けてくれたなら、おれはもう金輪際、博打をしないと誓いましょう。賽子も花札もいっさいやらねぇ、生涯二度と、どんな種類のもんも打たねぇと誓いやす。だから、どうか、どうか。
「それでわくちんも“打ち”たくねぇって言ってんのかい」
おれが訊くと、お初さんは赤い目でうなずいた。
「もでるなだか波照間だか青山テルマだか知らねぇが、そんな訳のわかんねぇもん“打”っちまっちゃあ神様に顔向けができねぇよ、なんて言うのよ。どうにかしてよ。」悲しいと言うよりはほとんど憤怒に近い声色で、お初さんは訴えた。なるほどねェ、と長吉が言い、何がなるほどなもんかい、とお初さんはぴしゃりと言いかえす。「わくちんは賭博じゃないんだから、そんな洒落みたいなことで拒否するなんて馬鹿な人だよ」
そりゃそうだ。けど嘉助の言いぶんもまあわからなくはねぇ。何しろもともと神仏を信じていなかったようなやつが、あの一件ですっかり信心深くなっちまった。裏のお稲荷はもちろんのこと、今ではぶらぶら歩ってるときに見かけたどんな小さな鳥居にも、一礼するのを欠かさない。元来信じやすいやつよりも、もともと猜疑心があるやつがはまったときのほうが厄介なのは詐欺と同じだ。鴨にうってつけなのは、何でもかんでも口にいれるやつと、ちょいとばかり猜疑心のつよい現実家気取りの二種類だ。前者は言わずもがな、後者はちょいと奇跡のひとつを見せてやりゃ、ころっと騙される。何しろやつら、自分の目で見たことしか信じねえ。自分の目で見たことしか信じねぇから最初は疑ってかかるが、見たからにはもうずぅっと信じこむって寸法よ。
おいおい、お前ェの詐欺まがいの仕事と神仏を一緒くたにするんじゃねぇよ、と長吉が口をはさむがおれは続ける。そのうえ嘉助のやつ、現実家気取りでいながら性根は博打狂いときたもんだ。博打に狂えるようなやつはよ、どんなに口先では否定していようが胸の奥ではどっか奇跡みてぇなもんを信じてるんだよ。だから鉄火で勝負に出れるし大番狂わせも期待する。鴨には持ってこいってわけよ。
お初さんは相槌を打つでもうなずくでもなく黙って話を聞いていたが、鼻をすんっと鳴らしてもう一度、「ほんとに馬鹿な人」と言った。泣くだけ泣いて気が済んだのか、それとも冷静になってふっきれたのか、お初さんは「もういいわ」と言うと、袂から接種券を取り出して、「あたしもあんたたちと一緒に明日打ちに行くわ。あんな阿呆の唐変木のことなんか知るもんかい」と言い捨てた。
それで次の日おれたちは、三人そろって接種場へ行ってちくっとわくちんを打ってきた。なァに最初は三人とも、腕に針を刺すのがおっかなくってびびっていたが、刺されっちまえば大したことはねぇ。数分前まで半べそかいてやがった長吉なんかは、なんでぇ蚊に食われるより他愛ねェとげらげら笑っていやがった。副反応の注意なんかが書かれた冊子をもらい、おれたちは高揚した気分のまま家路についた。
翌朝、嘉助の大声が長屋に響き渡った。ただし今度の声は怒鳴り声じゃなく、ぎゃあともぐわあともつかぬ悲鳴で、なんだなんだと戸を開けて、おれはまたおもてへ飛び出した。嘉助のやつは、玄関前で尻もちついて、ああとかううとか言っている。どうやらすっかり腰が抜けているようで、膝も肩もがくがく震えていやがった。「おいおい、どうしたんでェ」と声をかけてみれば、こっちを見ずに部屋ん中を指さして、「お初が、お初が、」とくりかえす。ちょうど出てきた長吉と、二人で嘉助の指の先、部屋ん中をのぞいて見れば、そこにはお初さんが立っていた。寝間着姿でまだ乱れた髪をして、ちょっと困った顔をしたお初さんはしかしいたって元気そうだった。なんだ元気そうじゃねぇかとほっとしたのもつかの間、おれたちの視線はお初さんの左腕に釘付けになる。
お初さんの左腕はぱんっぱんに腫れあがり、真っ赤になって蒸気していた。筋肉はまるで箱根の峠道のように隆々ともりあがり、さながらかの名力士・雷電為右衛門のようだった。腕だけが。
肩から先だけ雷電為右衛門になったお初さんは、肩からこっちはいつものお初さんだった。薄い体にくっついた雷電の腕は寝間着をはち破り、活火山のように湯気を出している。
「副反応みたいなのよ」
眉を八の字に下げて、困り顔のままお初さんは言った。「朝、なんだか腕がかゆいなぁ、と思って起きたらこうなってたの」
まだ足が立たねぇ嘉助の脇にみんなで座り、長吉が部屋から取って来た注意書きの冊子をまじまじ読んだ。なるほどこりゃあ、もでるな腕っちゅうやつだ、とおれたちはうなずきあった。放っておけば自然に治る、あんまりひどい場合はかかりつけ医にご相談を。まあとりあえず大事じゃなくてよかったな、と長吉はお初さんでなく嘉助に言った。お日さんはすっかりのぼってきていたが、部屋にもどってさっさと二度寝がしたかった。
冊子をひととおりぱらぱら見てからお初さんは、困ったわ、と言ったがさほど困ってもいないようだった。筋骨隆々の逞しい左腕を、むしろいとおしそうに撫でている。それって力も強いのかね? おれが訊くと、そうねぇ、とお初さんは言った。言いながら、嘉助の腰にひょいと雷電の腕をまわす。それからヨイショと小さく言って、ひょいっと嘉助を持ち上げた。おどろいた嘉助は宙でじたばた手足を動かしながら、やめろ、やめろ、と騒いでいる。
「そうみたい!」お初さんは楽しそうに言った。おれと長吉は瞬間ぎょっとしたけれど、しかし嘉助の姿があんまり滑稽だもんで思わず我慢できずに吹きだした。
「嘉助、おい、よかったじゃねぇか」「これでしばらくはいつでも腰が抜かせるなァ」
おれたちが腹抱えて笑っているのを見て、嘉助は顔を真っ赤にして怒っているが、何しろ胴体をあの大腕に拘束されているもんだからそれこそ文字通り手も足も出ねぇでいる。すると、お初さんは何かをひらめいたようで「そうだわ」と言った。
「ちょいとこのまま、接種場まで行ってくるわね」
そう言うと、お初さんは寝間着に寝ぐせの姿のまんま、脇に嘉助を抱えて走って行った。その後ろ姿を見送って、おれたち二人は砂利のうえで、また腹がよじり切れるほど大笑いした。
けっきょくお初さんに押さえこまれたまま嘉助は無事にわくちんを打ったんだが、わくちんは二回接種が原則だから、一回打てたのはいいが二回目ははてどうするのかねとおれと長吉は話していた。さすがに二回目は雷電に捕まらないように、嘉助もうまいこと逃げっちまうんじゃねぇんだろうか。軒先でそんな話をしていたら、すっかりいつもの細腕にもどったお初さんに遭遇した。おれたちは野次馬根性で、嘉助のやつ、二回目接種はどうするんだいとお初さんに訊いた。お初さんはそれがさぁ、と持っていた盥をとーんと叩きながら話し始めた。
お初さんに抱えられて接種場の小屋についた嘉助は、設けられた看板をひとめ見て、おいおいここがそのわくちんを打つところかよ、とお初さんに訊いた。ええそうよ、とお初さんは答え、ずかずか中へ入って行った。介助者ですと言って鶏みてぇに嘉助を抱えたまま列に並んで、愈々お医者の前に来た。接種場の小屋に入ったときからじっと黙っている嘉助を見て、お初さんはようやくこの人も観念したのねと内心ほっとしていたのだが、お医者に向かって嘉助は「ちょっと待ってくれ」と言った。お医者はすでに注射針を携えていたのだが、「どうしましたか」と丁寧に訊きかえした。お初さんは「あんたやめてよ、もう観念しなさいよ」と言ったが嘉助はうるせぇちょっと黙っていやがれ、と言いかえした。
「この接種場の前によ、『白神接種場』って書いてあったんだが、『白神』っちゅうのは何のこったい? お前さんの名前かい?」
お医者ははじめ嘉助の言っている意味がわからなかったと見えて、ちょいとぽかんとした顔をしたが、すぐにああなるほどと合点がいったと見え、「しらかみ、ではなくて、あれはわくちんと読むんですよ」と言った。
嘉助は「なんだって」と声を荒げた。「ってぇことは、この、これが、これが白い神さんっちゅうことか?」お医者は、そうですね、まあそういうことになりますね、と答えた。
立派な人だわ、とお初さんはそこで喋るのを一度止め、感じ入ったようにため息を吐いた。あたしだったらそんなこと訊かれたら、ちょっと笑っちゃうかもしれないもの。なのにあのお医者ときたら、馬鹿にしたりせずちゃあんとあの人の話を聞いて、「じゃあ今から、神様を入れていきますからね」って言ってくれたわけ。さすがよねぇ。だから二回目も安心よ。あの人、次はきっと正装でもして朝一番にはりきって出かけるんじゃないかしら。
なるほど、それですっかり嘉助は転向したってわけだ。何しろ神仏の類がかかわっているんだから、信心深い嘉助としちゃあ従わない通りがない。どころか、今ではあっちこっちに設けられた接種場の前をとおるたび、いちいち礼して手を合わせている始末らしい。このまえ、ちょうどその現場に遭遇したもんだから、おれは参拝中の嘉助に言ってやったんだよ。おいおい嘉助、滅多矢鱈に詣でるな、ってな。それでは皆様、御後がよろしいようで。
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