ママね?今日ね、こんなことがあったの。
ぼくがね、ママ?ぼくが、この前友達のあきとし君が僕のうちに来たでしょ?あの少しのっぽの男の子よ?うん、その子。優しくてね、いつも僕と遊んでくれる子ね。
それでね、その子と遊んでいる時にね、ぴょんぴょん見つけたのね。あのゲコゲコーって鳴くのよ?でも、ぼく本でしか見たことなかったから、初めて見たのね?それであきとし君に聞いたの、見たことあるって。そうしたらね、あきとし君もね、見たことないんだって。うん、ねー、あきとし君何でも知ってるのにね。
だから、そのぴょんぴょんにね、ぼくたち近づいたのよ。うん、びっくりしたけどさ、かわいかったからね。するとね、そのぴょんぴょんどっか行っちゃったのよ。ぴょーんぴょーんって。だからあきとし君とね、一緒に残念だねえー、って言ったのね。
あーあ、ぴょんぴょんに近づきたかったなあ。ママね?ママよ?
私達は常に恐ろしい影に付きまとわれており、それに逃げることは不可能である。極めて邪悪な存在ではあるが、それは死という純粋たる概念によって形容しえるものでは無い。死とは恐怖の対象とは一般に考えられているが、それは実は救済措置であり、私達は死ぬことによって、現実から逃避することが初めて可能となるからだ。例えば、キルケゴォルやカミュらは、それが現実的ではないとしても、自殺は実存に関する問題に対する解決策としては考えうることであると、述べている。私も、時にもっと早く死ねばいいのだが、と漫然と考えることがよくある。それを、自分が何か虐めのような、そうした自分を否定されるような人間的尊厳を喪うようなことに遭遇してしまったときなどに考えるのでは全くなく、ただ徒然なるままに考えてしまうのだ。それは死というものを、人間が行いうる最大の救済策として考えていることに他ならない。故に、人間を脅かす存在は死ではなく、寧ろ人々を蝕みうる存在とは現実なのだ。
それならば、その死よりも邪悪であり、いわば凶禍として考えられるものとは、一体何だろうか。先の通り、それは現実なのだろうか。否、それはあるまい。現実はその実体こそは清かに見えねども、それと私達とは近傍的な関係にあるため、私達は常にそれに脅かされていることなど容易に知覚しえるのである。問題の対象は更に曖昧な煙のような、そういった摑みどころのない漠然としたものである。しかし、実のところを言うと、私もその影を追えども、その姿を得ることが出来ずにおり、蕭蕭たる思いが私の心に蟠っている。それでもその不穏な闇がなお私達の心の内奥でrifeしているのは確かなことであり、それが今にも襲い掛かろうとしていることだけはわかるのである。
……に対して、神クレンス=メルトゥナはこう宣います。汝、その弓を引かば、即ち己も死にゆくことになろう。それに対して、彼はこう返します。なにゆえに、私の飛ばさんとする矢をして、私を殺めしむることになるのか。それに応じて神はこう言います。あらゆる万物は、汝の鏡である。而るに、その鏡は汝の虚像ではなく、汝自身を映すのだ……
だからね、ママね、ぼくね悔しいのね、ママ?
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