III
「変態だな」と北斗。
「神様として生まれてこなくてよかった。そんな変態女に呼びかけられたらたまんないもん」と宇座あい。
「初めて神に同情した」と毒太朗。
摩子の前から逃げ帰った日の夜、僕の部屋の居間は三人の招かれざる客に侵食されていた。まず先に北斗と宇座あいの貧乏カップルがドミノ・ピザ目当てにただ飯を食らいにやって来、そのあと外で飲み足りなかったと思われる低給取りの毒太朗がただ酒を食らいにやって来た。彼らは「無料」の引力に逆らう力を備えてないんだ。ついでに言わせてもらうと彼らは社会を創造する力もないし、そして言わずもがな社会を破壊する力もない。他人の人生と琉球ゴールデンキングスの戦術にとやかく言うことだけが彼らの生き甲斐であり、是が非でも人生を浪費すること、それが彼らに課された使命なんだ。うん、そういうわけでね、僕は彼らに自身の務めを遂行させてやることにしたのさ。摩子のことをすべて話して彼らに好き勝手言わせてやることにしたってわけ。もちろん摩子の名誉に関わることだから彼女の名前は伏せたまま。まあ名前を言っても摩子のことは北斗も宇座あいも知らないはずだけどね。僕と摩子は高校の同級生なんだ。僕と北斗と宇座あいは幼稚園から中学までずっと一緒だったけど高校は違う。僕だけ那覇の高校へ進学したのさ。
「もう一度確認するが、義弟」毒太朗が言った。「その話、嘘じゃないだろうな? これ以上童貞の妄想に付き合えるほど俺は暇じゃない。アルコールの摂取に忙しいからな」
「ど、夏太朗兄さん」北斗が言った。「嘘じゃないと思うよ。こんな具体的に妄想できるほど亜男の頭に脳みそ詰まってないから」
「亜男は」宇座あいが言った。「ママのおなかの中に脳を置き忘れて生まれて来ちゃったからね。脳を置き忘れたから馬鹿なのか、馬鹿だから脳を置き忘れたのか、そんな鶏が先か卵が先か的なことは亜男のママのおなかに訊いて」
僕は彼らにiPhoneを差し出した。摩子を空港に迎えに行く際に彼女とやり取りしたメッセージを彼らに見せたんだ。摩子が僕の妄想から生まれたキャラクターでないと分かるその証拠を提示したのさ。
「よし、それじゃあ」毒太朗が言った。「チェリーボーイハンターになりたいなどと抜かすクレイジーな小娘と出会ったことは信じてやろう。だがその小娘の見てくれがいいなんて醜い嘘はつくな。そんなクレイジーなこと考える奴が器量好しだなんてあり得ない」
「ど、夏太朗兄さん」宇座あいが言った。「亜男は面食いだからそれも本当だと思う。こいつ自分は不細工のくせに『醜女に人権はない』とかほざく奴だから」
毒太朗が舌を出して僕を見た。
「要するに」北斗が言った。「やるかやらないか決めかねてるってことだろ? それじゃあ助言してやる。病気持ちじゃないっていうその女の発言を信じてやっちまうべきだ。やって病気を移されるという笑い話をお前は俺に提供すべきなんだ、亜男」
「いや、駄目だ!」毒太朗が声を上げた。「金持ってるくせに童貞を卒業するなんてそんな理不尽なことがあってたまるか!」
そんな理不尽な、と僕は思った。
「ことに及ぼうが及ぶまいが」と嘔吐しそうな顔で言ったのは宇座あい。「気持ちが悪い。亜男がチェリーボーイのままでもそうじゃなくなっても気持ち悪い」
「ちょっと待ってくれよ、みんな」僕は言った。「僕は彼女と一儀に及ぶつもりはない。僕がこの話をみんなに打ち明けたのは、チェリーボーイハンターになって世界を巡礼したいっていう彼女の暴走をどうしたら止められるのか――みんなの意見を聞きたいと思ったからなんだ」
僕が彼らに意見を求めたのは彼らをまともじゃない人間として認めていたからさ。摩子は到底まともじゃないから、まともじゃない彼らの意見が参考になるのでは、と思ってね。毒を以て毒を――ってやつ。
「そもそも」北斗が言った。「その女本当にチェリーボーイハンターとかいうふざけた仕事に勤しむつもりなのか? ただのプレーガールだろ」
「彼女はプレーガールなんかじゃない」僕は反駁した。「プレーガールだったらどうしてベルリンで僕を誘わなかったんだい? 僕は一週間ベルリンにいたんだぞ。しかも彼女は僕を追いかけるように沖縄に帰ってきた、十何時間もかけて。ただのプレーガールがそんな労力をかけてまでわざわざ僕なんかを追いかけて来るなんて考えられない」
「たしかに」と三人が声を合わせて言った。
「分かった」宇座あいが言った。「実はその娘チェリーボーイにしか発情しないんだよ。チェリーボーイフェチ」
「それだ」と北斗が膝を打った。「うん、それだ。もうドイツのチェリーボーイは絶滅したのかもしれないな、その女に乱獲されて」
「いいや、違うな」と毒太朗が打ち消した。「よくあるただの美人局だろう。高校の同級生なら義弟が金を持っていることを無論承知しているはずだ」
「ど、夏太朗兄さん」僕は言った。「僕は彼女の本名も分かっているのにそんなすぐ捕まってしまうようなことを彼女がするわけないじゃないか。それから宇座あい、チェリーボーイにしか発情しないのなら彼女はそのことを隠さず僕に告白するはずさ。彼女と喋ってみれば分かると思うけど、彼女はとてもオープンでストレートな娘だからね。とにかく世界中のチェリーボーイを救いたいっていう彼女の志は嘘じゃないんだ。それを踏まえた上で意見して欲しい。それを踏まえないで意見を述べるのなら今日はもうお開きだ。帰ってくれ」
北斗、宇座あい、毒太朗の三人が目の前のテーブルに視線を移した。諸々の酒がテーブルに並べられていたからね。
「それじゃあお前の望みどおり」北斗がウイスキーのボトルとソーダ水のペットボトルをたぐり寄せて言った。「それを踏まえて意見してやるよ。でもお前、耳の穴は清潔だろうな? 二つの意味で」
「ああ。もちろんさ」僕は耳の穴を軽くほじくった。「清潔という言葉と荻堂亜男の耳穴って言葉はもはや同義語と言ってもいいだろうね」
僕はプライドを捨てて彼らに意見を求めていた。まともじゃない摩子を救うために僕はまともじゃない彼らの意見をどうしても聞きたかったんだ。
「しかしその小娘」毒太朗が言った。「どうやって童貞と非童貞を見極めるんだ? 男の自己申告を無条件に信じるってのか?」
「彼女は」僕は言った。「僕のことをチェリーボーイだと見破ったんだ。見極める目は確かだと思う」
毒太朗と北斗が顔を見合わせた。北斗は肩をすくめていた。
「鋭い女子なら」宇座あいが言った。「童貞と非童貞を見極められるかも。私も分かるかも。何となくだけど」
「亜男、お前の思ってるとおり」と言ったのは北斗。部屋が妙な沈黙にしばし包まれたあとにね。「その女が純粋にその馬鹿げた大望を抱いてるんなら止めるのは難しいだろうな。その馬鹿げた巡礼を始めて痛い目を見れば止まるんだろうが、しかしその後の人生は本当の巡礼をすることになるだろうよ」
僕は嘆息を漏らした。
「その娘が本気で表現者として生きていきたいと思ってるんなら」宇座あいが言った。「その馬鹿げた巡礼を始めて痛い目を見ても後悔なんてしないのかもしれないよ。やらないほうが後悔するって思ってるのかもしれない。それにもし痛い目に遭っても『そうなった自身の運命それが作品だ』と言って転回できるわけだし。コペルニクス的な。いずれにせよ表現者としての体裁は保てるわ。私が思うに、その娘は単に賛否両論という現象を社会に巻き起こせば成功だと思ってる通俗な表現者組合の一員なんじゃないかしら? でもチェリーボーイをハントするという所業でトリックスターないしカルチャーヒーローという肩書きを手に入れたいんなら、チェリーたちに下腹部を啄ませたあと生きながらにしてその下腹部を猛禽類に延々と啄ませる腹積もりもしておかなきゃいけないわね、肝臓ではなく。彼女のそれが猛禽類の口に――じゃなかった嘴に合えばの話だけれど。ハハハ。まあ私は世界中のチェリーボーイをハントしていく人間を表現者だなんて思わないから、不承知の声も上げない『無視』という態度でもって『君の存在は社会に必要ないんだよ』ってその娘にはっきり言ってあげるつもりだけどね。無視という礼儀作法でその娘にとことん関わってあげる私ってやっぱり優しすぎるかしら? まあ優しすぎる私のことを私があらためて認識できたのは悔しいけどその娘のおかげ。でもだからと言って礼を言うつもりはない」
「その小娘が表現者の悲しい性の支配下に置かれているのであれば」毒太朗が言った。「義弟の如き乳臭児にはそれを止める力も無論権利も有してはいない」
「その女が表現者だろうが救世主だろうが亜男にはどうでもいいことだ」北斗が両手で宇座あいと毒太朗を制した。「亜男、素性の知れないコールガールより頭のおかしい高校の元クラスメイトのほうが思い出としてはいくぶん爽やかだ。もうその女とセックスしてしまえ。いいか亜男、お前はこのままずるずるチェリーボーイを続けていると、女に対して過度な幻想を抱いちまう気色悪いおっさんになるのが落ちだ。お前はその女に本気かもしれんが、その女はお前にとってあくまで通過儀礼の女ってことにしておけ。俺がこんなことを言うのは、その女が補助輪になりたいっていうある種の通過儀礼的な存在になることをそいつ自身が求めてるから言ってるんじゃないぞ。単にその女と建設的な恋愛は無理だからそうしろって言ってるんだ」北斗はグラスのハイボールを飲み干して続けた。「亜男、はっきり言うがその女、自分のことしか考えてないぞ。愚かな自分を表現することしか考えてない。そんな女に本気で惚れてどうする? いいか亜男、よく聞け。大切にしておくべきは『最初に誰とやったのか』ではなく『最後に誰とやったのか』だ。だからもうその女とやってしまえ。そして病気を移されて俺を笑わせろ!」
まともでピュアな僕には思いつかない意見だった。僕は女性から慕われない不遇の時代が長いこともあって、初めて一儀に及ぶ人と結婚するのだと無意識にそう決め込んでいた。
「横槍を入れるようだけど北斗、もう手遅れよ」宇座あいがシードルをグラスになみなみと注ぎながら言った。「乳臭児に逃げられたわけだからその娘そうとう傷ついてるはずだわ。もう亜男には会いたくないって思ってるわよ、きっと」
「そうだな」毒太朗がブランデーをラッパ飲みして言った。「しかも置き去りにされた場所がいかがわしい名称の公園だからな。立ち直れない」
「それは」僕は言った。「本当に気の毒なことをした。でもまあ彼女の実家は那覇だって言ってたから帰宅するのに困るようなことはないと思うのだけれど……」
さてどうしたものか、摩子についての討論会はここまでなんだ。このあと居間では北斗、宇座あい、毒太朗による〈人生の浪費〉という題の劇が展開された。とうぜん手短に述べる。まず北斗が下心満載で摩子に会ってみたいと言い出し、それを聞いた宇座あいがグラスのシードルを彼の顔にぶっかけた。するとそれを見ていた毒太朗が「もったいない!」と叫んで北斗の顔を舐め回すというアクションを起こした。毒太朗に顔を舐め回された北斗は「消毒!」と叫びながらウイスキーを自らの顔にかけたのも束の間、また毒太朗に「もったいないじゃないか!」と憤慨されて彼は再び顔を舐め回されるという――僕はそんな低俗な喜劇を見せられたんだ。
うん、したがって僕は寝室に入ってドアの鍵を閉め、ベッドに横になってアイマスクとイヤーマフを装着したのさ。酒は少ししか飲まなかったけど僕はすぐ眠りに落ちた。疲れてたんだろうね、低俗な喜劇も見せられちゃったし。この十八時間後、摩子とホテルにチェックインすることになるなんてこのときは夢にも思わなかったよ。
つづく
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