雪は崩れ落ちた山門の屋根につもり、時折石段の上に落ちて泥水とまざりあった。
境内は白一色、松の枝からこぼれ落ちた雪が手水舎の水に溶けて消えた。
国宝の仏殿があったらしい禅宗の廃寺は、仏殿も山門も書院もすべて、原形を留めずに主だった柱と土台だけになっている。
かつて複雑な構造を為していた木材や瓦の残骸は、時間をかけて朽ちこまかい木片となり、霊鷲山から下る荒っぽい風に流されどこかへと飛ばされた。
下界にはない清潔さが好きで、昔からちょくちょくこの寺跡に来る。
ここでは時間の経過が遅く、視覚情報の変化も少ない。目まぐるしく変化し加速していく外の世界とは対照的だった。粉雪は降り止む様子が無く、徐々に境内を覆い、押し潰してしまおうとしていた。
隣で濃紺のスーツを着た男が腕を組みながら震えている。
なにか熱心に俺に話しかけているのだが、生憎彼の話すことばを理解する気はない。
ただ足元の雪と泥だけを見ている。
無視されていることと酷い寒さによって、彼はどんどん元気がなくなっていく。
既に俺の頭は完璧に閉じてしまっていて、周囲は静かなのに彼の声は頭に入ってこない。
頭の一部に霞がかかったようで、自分の意思とは別の方向へ進みたがるような、抗えない感覚がある。
頭の中の霞は消えそうで消えない、人というものに対する甘い夢の残りかすだった。彼が今朝俺の小屋を訪れたことで、霞は俺の頭の中を埋め尽くした。
俺は彼の話を全く聞いていないけど、彼の提案に従う事に既に決めている、従うべきだと直感している。
山から下りる風が強くなってきて、ダウンジャケットを着こんでいる俺でさえ冷えてきた。俺よりも薄着の彼は、力なく問う。
「世の中のテンポが速すぎるとおもわないか」
さすがに返事をしなきゃいけないな、と考えて答えてやることにした。
「そうでもないんじゃない」
俺は昔東京に居たときのことを考えていた。
また彼は問う。
「日本には死ななきゃいけない人間がいるとおもうか」
彼の声は寒さと苛立ちで少しうわずっていて余裕がない。
「まだたくさんいるよ」
俺は答える。
こんな田舎に引っ込んでいたから関わらずにすんだが、東京には一目見ただけで殺したくなるような人間が山ほどいる。
さっきからこの男はとっくに自信をなくしていて、俺に甘えている。俺は彼の喜びそうなことを言ってやった。この先どうすればいいか示した。くだらない冗談にも付き合ってやった。彼はとたんに元気が出てきて、さあ、和泉、一緒に東京へもどろう、と言った。
人間性や人権という幻想が跋扈する日本の倫理感の中では測れない、ましてや民主主義という大雑把なシステムにはできないことがある。歴史の転換点ではそれぞれの社会規範の外部から仕事をする人間が必ず現れる。構造に組み込まれたアノマリー、異なった幻想を持つ異端者、誰よりも個別でどんな集団にも依存していない人間だ。
大丈夫、俺は十分若い、まだ強い個のままだ、あと二十年は強く在るだろう。
くだらないシステムに対して力の行使をもう一度、今度こそ自分の意思によって行うんだ。
人の中に戻るということは何か目的がなくてはいけない、彼はそれを用意してくれる、それだけで十分だった。
俺は山口の田舎暮らしから東京へ向かうことになる。
忌むべきシステムを壊す為に、かつて俺たちが願ったことを叶えるためだ。
暗闇に慣れた眼は周囲の隅々まで把握する。
境内の松の葉一枚にも俺の意識は届いている。
この寺跡に居る時は寒さのせいか感覚器官が敏感になる。目の奥の神経は鋭く研ぎ澄まされている、自分のダウンジャケットに積もった雪の結晶の形までしっかりと見える。氷水のように冷たい山の空気を深くゆっくりと吸って、吐く。冷たい空気がからだの中のの炎に触れ、熱を帯びて排出される。白い息が暗くなった夜空へ昇って消えた。
彼は山門の端をよけて通り石段を滑らないように慎重に降りていく。俺は後を追うが、誰かの後についていくのは不快だ。俺は彼を追い抜いて石段を下り終わり、まだ途中でもたもたしている彼と山門の残骸を見上げる。
もうここに戻ってくることは無さそうだ。
彼はいちいち滑りそうになっているが、俺は絶対に手を貸さない。
石段の両脇には昔丁寧にケアされていたと思われる楓の林がある。楓の足元にたっぷりと積もった雪は音を吸い耳を不要なものとした。風もいつの間にか止んで、辺りは無音となった。城下町の風情を残している街並みは、雪のせいか一人も人間を見つけられなかった。彼を待つあいだに、周囲の情報量が少ない分、頭の中は鮮明に、かつて手にしたものと失ったものを順番に思い出すことができた。
幾度も反芻した、少しずつ朧気になっていく記憶だ。
大丈夫、これさえあれば必要なものは無い、俺は俺だけの多くの虚しさと、少しの達成感の間をうろうろするだけだ。
人と接することが快楽ならばもういらない。
閉じた世界で小さな達成感だけを堪能しよう、それが幻想だったとしても、自分自身の独房の中で、死んでいくことを受け入れよう。
俺という個はこの日本という社会で、ある一定の役割を演じることになるだろう。
それがこの国にとって幸運かどうかは、これからわかることだ。
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