僕はドアの前から動けなかった。立ち往生とはまさにこのことさ。でも、そんな立ったまま死んだ気分になれたのも一瞬さ。背中から北斗に体当たりされたんだ。ドアを開けて勢いよく店に入って来た北斗に、僕はそのドア付近から三メートルほど前にぶっ飛ばされたんだ。すなわち、期せずしてスーパーマンの気分にもなれたってわけ。一瞬だけ。
「亜男! あの酒飲み、二十万近くあったこの店のツケを最近ぜんぶ払ったらしいぞ! それからお前が惚れたあの自称画家のおばさん、子供が五人もいるらしいぞ! 怪我はないか?」と北斗が明るい声で言った。怪我はないかって言葉をそんな調子の声で言ってはいけないし、何より真っ先にそれを言わなければいけないのは言うまでもない。
白黒のチェス盤模様のこの床はいったいどれだけの色彩に白黒つけられてきたのだろうかと、僕はそんなことを考えながら床と慰め合うようにそこへ顔をこすりつけていた。僕は立ち上がらなかった。怪我をしたわけじゃない。立ち上がろうと思えば立ち上がれたけど、立ち上がろうと思う気になれなかったんだ。
「お婆ちゃん、壁を埋め尽くしてるこの絵ってさっきの酒飲みの妹が描いた絵だよね。何でこんなに飾ってるの? 不気味なものをあえて飾るっていう魔除けのつもり?」と北斗がからかうような口調でお婆さんにそう尋ねたのが聞こえた。北斗もデスティニーさんの絵だってすぐに分かったみたいだ。サインも入っていたし、分かって当然さ。
「壁の絵は全部私が描いた絵だよ、趣味で」とお婆さんは言った。「客に無理やりプレゼントしてるんだが、君、もらってくれるかい? さっきの飲んだくれは断固として受け取らなかったが、迎えに来たほくろの妹には何枚かプレゼントできたよ、無理やり」
お婆さんは嘘をついている、と思うのはいけないことかい? 僕は床にさよならのキスをして立ち上がったんだ。
「じゃあ訊くけど、お婆さん。ほくろの妹さんにプレゼントしたっていうその絵のタイトル、憶えてる?」
僕がやや喧嘩腰にお婆さんにそう尋ねたのは、デスティニーさんから買った絵の裏にサインと同じ筆跡でタイトルが記されていたからなんだ。絵を描いた本人ならタイトルを答えられるでしょ、という趣旨の質問さ。
「ええと確か」とお婆さんは腕を組んで考える素振りを見せてから答えた。「踊り子と踊り字を踊り食いする踊り場と、豚の価値を把握している真珠と、それと――」
もう結構、と言って僕はお婆さんの発言を遮った。そして僕はカウンターチェアに腰かけて、この店で一番強い酒を一杯だけ頂戴、とお婆さんに頼んだ。
「デスティニー婆ちゃん、絵、一枚もらっていい? 記念に」と北斗が言った。この悪魔がお婆さんのことをわざわざ名前で呼び始めたのは僕への当てつけに相違ない。
看板のライトが消えていて気づかなかったが、お婆さんの店の名称は「バー・デスティニー」だった。それからお婆さんは僕に酒を出してくれたあとに、デスティニーというのは源氏名だって話をしてくれたのだけれど、そんなことはもはやどうでもいい。
僕の肩に手をまわして北斗が言った。「大好きなデスティニーさんの絵に囲まれて酒が飲めるなんて、最高じゃないか、亜男」
「ああ」と言いながら僕は頷いた。「もう死んでもいい」
情けないことに、デスティニー婆さんから出された酒を飲み干したあたりから僕の記憶はない。目が覚めたら、自宅のベッドの上だった。
僕は起きてすぐ、豚の絵がないことに気がついた。そのまま居間に出てテレビのそばに目をやると、そこに掛かっているはずの踊り子の絵もなくなっていた。
よろめきながら部屋中を捜してみると、二枚の絵は金庫に入っていた。北斗も午前中だけいるお手伝いさんも金庫を開けられるはずないから、どうやら僕が自分で入れたらしい。とはいえ、僕は絵を捜し当てたものの、デスティニー婆さんのその二枚の絵を金庫から出さなかった。どうしてかって? ベッドに戻って二度寝するのを豚に邪魔されたくなかったからさ。
画家のデスティニーさん〈了〉
※次回「Adan #12」は、10月5日(土)の夜にアップします。また読んでくれると嬉しいです。
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