藤田さんが無職になった。
久しぶりに『元気なの?』とメールをしたらやや時間を置いたあと
『あー、うん。そういえば会社辞めたんだ。今、プー』
プーのあとにブタの絵文字を付け加えて返信がきた。
『え! 辞めたんだね。じゃあ会えるの?』
なにしろ多忙を絵に描いたような人だったので会うといっても月に1度あればよい方だったしメールをしても返信がないときなどしょっちゅうだった。
『いつ? 会えるの?』
『いつでもいいよ』
レスポンスが早くまるでチャットをしている速度が仕事を辞めたことを顕著に伝えてきた。
3ヶ月ほど前に会ったとき、きっともう仕事辞めると思う、といっていたことを思い出す。
それはもう藤田さんの中では『辞めると思う』のではなくて『辞める』という決定だったに違いない。
『明日の昼間会いましょう』
『うん。いいけど足(車)がないけど』
あたしが迎えにいくから。と返信をし会話を終わらせた。
あたしはもう明日仕事を休むことに決定していた。決定はその日、その瞬間にすぐ決まる。人はいつでも決断を迫られ決定を決めている。会えるかと考えたらなかなか睡魔が襲ってこなかった。眠気がしぶとくこないのでホットミルクを大きなマグカップに入れて両手で抱えながら飲む。ベッドに入るとけれど眠くならずあー、もうとゴロゴロと転がって眠れない夜をなんとかやり過ごした。
「お、」
藤田さんと待ち合わせしたコンビニに着くともういてあたしの車の後部座席に座った。
「あ、前に乗ってくれてもいいのに」
後ろを一瞥する。ラフな服装の藤田さんを見るのは実に4年ぶりだった。藤田さんはしかし顔をしかめる。
「あはは、これじゃ乗れないねぇ」
あたしは助手席にあるカバンや日よけやタオルやペットボトルや食パンや傘を無造作によけながら、あははと薄く笑った。
「いいよ。どこに乗っても」
まあね、あたしはこたえてからハンドルを握る。雨、降ってきたね。と、小声でいいながら。
藤田さんから雨の湿った匂いと家庭の柔軟剤の匂いがし車内の中に他所の家庭の匂いがたちこめる。
会うと必ずいくホテルに向かう。
藤田さんのうちからたった5分のところにあるホテル。真昼間から背徳感と罪悪感。けれど昂揚感。
どちらにしてもあたしと藤田さんをダブル主演にしドラマのタイトルをつけるなら『禁忌な関係・真昼間の情事』というところだろう。
「今は有休消化中だけどその後のことはまだ未定なんだよ。なんだかねー」
部屋は117号室に入った。落ちついたシックな部屋。
ペットボトルのお茶を飲みながら藤田さんは話し始めた。
「けど退職金は出たんでしょ?」
17年勤めた会社だ。藤田さんは頼りなく首を横にふる。
申し訳ない程度にね。申し訳なさそうにこたえた。あら。あたしはおどろいてしまう。
この業界はもうだめだな。藤田さんは誰にでもなくつぶやく。ひどく悲しい声で。
広告代理店に勤めていた藤田さんとはその会社で出会った。その当時は忙しかった。あたしは制作をしていた。雑誌やフライヤー。求人広告など。
男と女の関係になるのは最初出会ったときからもう感じていた。誰もが羨むスマートなその男にはなにせ誘惑が絶えず勘違いをする女性が多かったしあたしの他にも付き合っていた女もいた。けれど藤田さんはどの女性にも本気を見せなかったし本気になれない理由があった。しかしモテるのは仕方がない。容姿が突飛にいいのだから。
突飛にいい横顔を眺めながらあたしたちはベッドでおもむろに無心に寡黙に抱きあった。容赦がなかった。どうにでもなれ、藤田さんとのセックスはいつもどうにかなればいいと思ってしまう。だからどうにでもなった。髪の毛をわしづかみにし背中や腕を噛んだ。痛いけど、痛くない。悲鳴は欲情を誘うスパイスになる。
果てたあと藤田さんとあたしはいつの間にか眠っていた。裸のまま。歯型がついたままで。
いったいどれだけ眠っていたのだろう。ラブホテルは時間があやふやになる。目を開けて藤田さんの方を見るとギョッとした。目を開いていたのだ。無言のまま唇を塞がれる。そのままもう一回した。はぁはぁと荒い息をはいて。汗と涙を垂れ流して。スポーツクラブじゃないんだから、と、藤田さんは呆れたように笑った。
またいつの間にか眠っていた。昨夜寝不足だったのも相まって今度は本気で眠っていた。ハッと目を開けたときうちにいるかと思った。藤田さんもまだ眠っていた。ベッドから出てスマホに目を落とす。え? 嘘でしょ? あたしはほとんど叫んでいた。
ベッドがもぞもぞとしたので起きたかなと藤田さんの横に潜りこみ顔を上から覗きこむ。
「ねぇ、今ね、もう6時よ」
声が濁声だった。さっきやたら叫んだから。藤田さんは、「朝の?」と訊く。
まさかぁ、ふふふ。あたしは笑ってから、夕方のよ、と優しい声でこたえた。
「まずいな」
藤田さんは全くまずくなさそうな声で
「まずい」
まずいを2度繰り返した。
朝の11時過ぎに入室をしている。なので約7時間もいることになる計算だ。朝パンを食べたきりで何も食べていない。
「腹減った」
藤田さんがそういったのであたしもかなり空腹を意識する。じゃあ、牛丼かカレーでも食べて帰ろ。と、いえたらどれだけいいだろう。たとえばこのまま宿泊しデリバリーのピザを頼むなんてことだって。けれど、それは絶対に出来ないのだ。一緒に眠ることは出来てもご飯は一緒に食べることは出来ない。
藤田さんには家庭があるから。
ホテルから出るとすっかり闇が降りていて湿った空気が身体にまとわりついた。ムワンとした夜気にちょっとだけおどろく。
「雨、降ってないね」
「あ、ああ」
あまり喋る方ではないのでお互い。
いつもお通夜のようなやり取りになるけれどどうして抱き合っているときだけは無言が許されあたりまえになるのだろう。
コンビニにつく。
「また連絡するね」
後部座席にいる藤田さんに問いかける。寝癖がついているけれど些細な意地悪をしいわなかった。
うん、じゃあ。藤田さんはあたしの1日の中から退場をし家庭の方に行進をしていく。
1日中。ほとんど眠っていた。藤田さん今夜眠れるかしらねぇ。そう思いつつ、バックギアに入れて帰宅ラッシュの中の道に飛び込んでゆく。テールランプのいちいちが嫌にまぶしく感じながら。
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