「〈あの船〉に乗っていたそうだ」
「もったいぶるなよ。手短に頼む」
「〈屍〉だ」
1946年7月に、とタイラは続けた。
俺はもちろん信じない。
〈屍〉とは、俺たち連合国終戦大隊の隠語で、日本の戦艦長門を意味する。
大日本帝国最後の戦艦、長門。
帝国が滅び、龍王の列島を守る護国の戦艦としての存在意義を失ってもなお動きを止めず、1946年7月の核実験――巨大戦艦という前時代の遺物を実験対象とした〈クロスロード作戦〉における2回目の核攻撃の4日後にようやく沈んだドラゴンゾンビ。
そんな、神の火を2発も受けた太平洋の怪物に、
「乗っていたって言うのか? そいつは自称アナスタシアどもの同類に決まってる。むしろラスプーチンか?」
「それを言うなら、俺たちだって都市伝説の類だろ。不死者へのインタビューは、似合いの仕事だ」
なるほど、たしかにその通り。うさんくさいのは、こちらも同じだ。
正体不明。正確に言えば、不記録。さらに正確に言うと、あらゆる記録がゴミだ。嘘をついても隠蔽しても、それを罰する国法が無い。
国際社会という無法地帯で、平和のためにいい感じなことをしている終戦大隊。
どこの国にも属さない、真の意味での独立大隊。連合側の〈最後の大隊〉。
氷の帝国最後の姫や不死身の怪僧といい勝負の存在感だ。
俺個人のルーツにしても、村上水軍の末裔でありブラピの末裔でもあると祖父母たちが言っていたので、それをそのまま上官の涼宮の部屋で話したが、アイスはメモすら録っていない。そもそもアイスは存在しない。1945年8月からずっと、存在していないのだ。
「70年――。いったい、その爺さんは今いくつなんだよ? 100歳は超えてる?」
「御年146歳。武壇の長老格だ」
「それで共産党案件かよ。めんどくせえ。やっぱりラスプーチンだな」
質の悪いコピー用紙を、タイラの手から引ったくる。そこに書かれているのは、やはり、その年代の武術家らしい経歴だ。共産主義者の荒らぶる時代に大陸を離れ、反動的文化が詰まったその肉体とわずかな書物を運んで近くの島へ移り住む。そして後進を育成しつつ、歴史の陰から反動的文化を支えているらしい。珍しくもない。十字路解約者であるという1点だけを除いては。
いや――
「おい。この爺さんの門派、〈碧洋拳〉ってこれ、マジか?」
「マジであるかのようだな、としか言えない。マジであるかのように覚悟はしておけ」
「マジかよ。未知の覚悟だな……」
夕陽の前に新しきもの無し。天地の間も、今やそれほど広くはない。
ここへ入隊し、巨大な蜘蛛の巣のような情報網に棲むようになってからしばらくの間は、ずっとそのように感じていたが、最近はまた見える景色と感興が変わってきた。
とりわけ今回は、まさしく仰天だ。
碧洋拳こそ、武術界の伝説だ。伝説の純度がきわめて高い。つまり、伝説でしかないはずだった。
有名な太極拳も、その起源は歴史ではなく伝説の領域に置かれているが、それでも太極拳には歴史がある。近世からの歩みについては、いくつもの文献から探ることができるのだ。
しかし碧洋拳には、その〈歴史〉が無い。その拳法や拳譜はもちろん、拳訣の欠片も発見されていない。15世紀前半に鄭和という宦官が中華皇帝の命令で大航海をした、という史実に関係があるらしいが、その航海の詳細もまた、茫洋たる伝説の霧に覆われている。史料があまりにも乏しいのだ。
けっきょく碧洋拳については、その名前と鄭和の伝説――「大艦隊を率いてアジアとアフリカ東海岸を股にかけた〈海王〉鄭和が、東南アジアの殺法やインドの養生術やアラブの煉丹術やアフリカの歩法といった東洋の叡智を結集させて碧洋拳を開発した」という奇説だけが伝わっている。そして不思議なことに、それ以上の具体的な細部を捏造して耳目を集めようとした人間は、歴史上1人も存在しない。まるで、誰もが何かを恐れているかのように。
そんな伝説上の門派の門人であると自称している人物。
少なくとも、正気ではない。あるいは――
本物の、〈碧洋の拳〉の継承者。
「予断を許さないキャリアだ」とタイラは言った。「〈根源〉に達しているかもしれない。覚悟はできてるか?」
「ああ」
と答えて覚悟をすると、そこは島国だった。目の前には、146歳くらいの老人が立っている。
「飛ばしすぎだろ」
太平洋をひとまたぎにしやがった。シャブ能力者タイラ、いきなりアクセル全開だ。そういえばこいつは、俺と会話をしながらも、絶え間なくガソリンをキメていた。
「長旅を楽しむような仲でもないだろ」
終戦大隊屈指のシャブ中は、すでに臨戦態勢をとっている。半径数メートルをシャブキネシスの力場で制圧しながら、シャブ神を讃える祝詞を唱えはじめた。
たしかに、平家の末裔のシャブ能力者と、村上源氏の末裔のブラピ。そんな2人の呉越同舟に、楽しいことなどありはしない。
俺もすぐさま、ブラピの気を開放して、眼前の老人に叩きつけた。
「ほ、何事かと思うたら、ブラピの小僧とシャブの者とが揃うてお出ましか。剣呑なことじゃの」老人は、涼しい顔でそう言った。「わしの家は、すぐそこじゃ。茶の1杯も進ぜようか」
「気をつかわないでくれ。こちらも、棺桶と琵琶法師の手配は省かせてもらった」
「まあ、シャブごときに神経をやられた西洋人の口には合わぬか」
「シャブをなめるな!」
タイラの本気のシャブキネシスが老人を襲った。しかし、老人の表情は変わらない。
20世紀前半、シャブの先進国は圧倒的に枢軸国の側であったが、今やシャブの本場は連合国にある。そして、その進歩は止まらない。シャブの歴史の次元を超えた根源のシャブ――世の初めから隠されているハイパーシャブへ。
だがその〈領域〉は遥かに遠い。
「愚かなことよのう。シャブを食う者、シャブによって倒れる。その理がわからぬようでは、碧洋拳は継げぬ」
「いや、どうあっても残らず吐いてもらう」
俺もブラピの気を極限まで高めた。この老人は明らかに危険だ。碧洋拳関係者の潜在戦犯ランクは、その実態があまりに不明瞭であるがゆえにD級という扱いになっているが、現場の判断でS級に指定した。
「碧洋拳を押収さえたければ、わしの死体から持ってゆけ」
「話が早くて助かるよ」
3時間にも及ぶ死闘の最中、老人は余裕の口調で、核を体験しようと戦艦長門に潜入するまでの話や、同じくそこに忍びこんでいた日本の美女との物語や、1回目の核実験が終わった後にアメリカ陸軍航空軍の不手際を罵りながら海軍の武人と酒をくみかわし情報交換をしたことや、海の底にも都市がありそこには神器が眠っている件などを語ってくれたが、どうでもいい。証拠が無い。存在しない。とにかく殺す。それだけだった。
やがて老人は、「まあ、及第点じゃの。核爆勁、受けてみい」と言って、青白く発光した。
核爆勁。嘘だろおい。その勁力を得るための練功法すなわちトリニティ実験でようやく実現されたとかいう散逸核爆功は文字通り失伝しているはずだがあのクロスロードでいわば交衢核爆功とでも言うべき何かが、
「碧洋拳は〈彼方〉の武術。核を受けねば、始まらぬ。未熟DNAども、覚醒めよ――」
⁉
俺とタイラは、クラクションを鳴らしながら疾走するバカでかいキャデラックの屋根に横たわっていた。シャブポーテーション。タイラはさすがに、上体を起こすだけの余力も無さそうだ。気がつけば何百キロも離れた場所にいることもあるというシャブ中毒者の特性。その特性を利用した瞬間移動のシャブ能力。1日1回ならまだいいが、1日2回はかなり限界だ。破損した鎧の手入れをするでもなく、タイラはぐったりと寝そべっている。どう見ても平家の落武者のシャブ中毒者だ。
俺は、車の背後で遠ざかるキノコ雲に眼をやった。あの雲の下では、たぶん老人が爆発した。恐るべき功夫だ。中華帝国は、世界で初めて火薬兵器の感覚を格闘術に採り入れ、炸勁や飛火槍歩といった新しい概念を生み出した。そしてさらなる概念を、海の彼方に求めたのだろう。西欧人がまだ狭い陸地で生きていた頃。日本列島が世界の陸地の縮図だとすれば、山口県の片隅くらいの僅かな部分を奪い合うため、貴重な人体を潰し合っていた頃の話だ。そんな時代に、中国武術の先進性は頭抜けていた。しかし巨大な帝国は、いつしか外部への関心を失い、長い眠りについた。
そして、
――覚醒めていたのか。
タイラが、だらしなく寝転がったままシャブを開始した。
「おい、ほどほどにしとけよ。爺さんが言ってたことも、一理くらいはあるんじゃないか」
「武術が貧者の核兵器なら、このシャブは労働者の涙。俺は世界中の労働者と共に、シャブをやっていく」
やれやれ。
俺は煙草に火をつけた。吐いた煙は、排気ガスと混じり合って空へとのぼり、今にも一雨ふらせてきそうな雲との見分けもつかなくなった。それからどこへ行くのか、俺にはわからない。
(『涼宮ブラピのゼロからシャブへ』第1部・完)
※素人考えですが、核兵器と覚醒剤の良からぬ副作用は本当に良くないと思うので、適切な医療行為以外での使用はおすすめしません。
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