ここ数日間、何かとても臭い。
私自身が臭いのかと色々調べては見たが、足の裏、耳の裏、奥歯、ワキ、そして衣類に至るまで特に何も臭くない。
では私の部屋が臭いのだろうかと、ゴミ箱から畳、壁、天井、エアコン、窓のサン、等々、あらゆる場所を調べてみるが、やはりどこも臭くない。
しかし臭い。
ずっと臭いわけではなく、それは時折ぷ〜んと漂って来る。何の匂いでどんな匂いなのかと尋ねられても困るのだが、とにかく臭いのだ。そのどこから漂って来るのかわからない臭いに悩まされ、もう気が狂いそうになって来た。
こんな事では仕事も手に付かないと、私は会社を休み、大きな大学病院に行く事にした。
これまでに近所の耳鼻咽喉科には何度か行き、鼻の穴の中にピュッピュッと液体を流し込む「鼻洗浄」という実に不快な治療はして貰ってはいたが、しかしそんな子供騙しでこの臭みが消えるわけが無い。
さすがは近所の鼻くそ耳鼻科である、青っパナ垂らしたガキばかりを毎日相手にしているだけあり子供騙しがお上手な事この上ない。
ところでこの「耳鼻咽喉科」という言葉を聞いて、何やら後ろめたい気持ちになってしまうのは私がロリコンだからだろうか?
まぁそんな事はどうでもいい。
とにかく、私は権威ある大学病院へと向かったわけだが、そこでもやっぱり耳鼻咽喉科の「咽喉」という言葉に妙に反応しながら白いカーテンの中に入って行ったのだった。
「はい、力を抜いて下さい……」
若い頃の森進一のような顔をした医師が私の鼻の穴にファイバースコープというクダを差し込む。これは何やらカメラらしく彼はソレで私の内部を見ようと言うのだ。
さすがは大学病院だ。やることがイカレてる、いや、イカしている。近所の鼻シューシューのちびっこ耳鼻科とは大違いである。
私はソロリソロリと挿入される細いクダに「あっ……いや……そんなに奥まで……だめ……」などと診察台の上で密かに日活ロマンポルノごっこをしていたのだが、そんな余裕は鼻先までだった。
突然喉の奥に猛烈な痛みが走った。
「うごぉ!」
私は目ん玉を飛び出さんばかりに開き、「まてまて!話せばわかる!」と医師の白衣を掴んだ。
「はい、もう少しですから我慢して下さいね……」
後から橋田壽賀子系のドラマに出て来そうなオババ看護婦が私の体を押さえつける。
なぜココで我慢が必要なんだ!我慢するのがイヤだからキミ達を頼ってわざわざココに来ているわけじゃないか!こんな苦痛を与えられるなどとは聞いてないぞ!これならまだ臭い方がマシだ!
私が足をバタバタとさせていると、「おふくろさん」時代の森進一のような顔した医師は、パソコンの画面を眺めながら「う〜ん……膿も溜っていないようだしな……」とノンキに呟く。
「ほら、気管も綺麗ですし……」
森進一医師はそう言って私にモニターを見せた。モニターに映っていた私の鼻の穴はまさしく昨夜オナニーのネタにした「お○んこドアっプ動画」そのものだった。
体を押さえつけられ鼻の穴に管を入れられるというSM的な診療を終えた私は、一刻も早くこの場を立ち去りたかった。本来、人目に曝されないような「恥ずかしい部分」をパソコンの大画面に映し出され、森進一と橋田壽賀子系看護婦にそれを見られながら「綺麗じゃん」、「綺麗ですね」などと散々言われてまで普通でいられる程私は変態でも露出狂でもない。
「とりあえず」と渡された「鼻洗浄剤」の処方箋を受け取るや否や、私は急いで受付窓口へと走った。
これでは何の為に権威ある大学病院にまで来たのかわかったもんじゃない。これだけの辱めと苦痛を散々与えておきながらも、結局は近所のちびっこ耳鼻科と同じ「鼻洗浄剤」で終わらせようとするこの変態医師と痴女看護婦をこのまま許してなるものか!と、私は断固抗議してやるつもりで受付窓口へと走ったのであった。
受付の女は、それはそれはびっくりするくらいバカだった。
幼児期に高熱を出したのか、それとも激しく頭を打ち付けた事があるのだろうか、その女は私の最もな抗議に対し、口をポカーンと空けたままアホヅラさげて私の顔を見つめているだけだった。
「とにかくですね、私は臭いんですよ。臭くて臭くて堪らないんです。なのにあの森進一のような顔をした医師はですね、その臭いを取り去る努力をするどころか私を辱め、更にいわれなき苦痛を与えたのでありますよ。どう思いますか?こんな事だから大学病院はいつまでたっても財前教授の呪縛から抜け出せないのではありませんか?違いますか?……」
私がどれだけ熱く語ろうと、その女はただポカーンとアホヅラ下げて聞いているだけである。
そうこうしていると、またしても橋田壽賀子系ドラマに出て来そうなオババ看護婦が現れた。これ系のオババというのは、役に立つわけでもなくズリネタにもならない。患者からしてみたらまったくもって不必要な存在である。
「どうしましたか?」
オババ看護婦がそう言って受付のバカ女とバトンタッチした。
オババはゆっくりと私の目を睨む。もの凄い目力である。下手に逆らおうものならどえらい事になりそうだ。
「はい……あのぅ、私、臭いんですよ……」
「……帰ってお風呂に入ったらいいでしょう」
「いえ、そーいうーことじゃ無くて、時々原因不明の臭みがどこからともなく襲って来るんです……はい」
「……それで?」
「はい、それでですね、先程、耳鼻咽喉科に行きまして鼻の穴にカメラを入れられとても痛い思いをさせられたわけですが、しかし、それは痛みを与えられただけであり何の解決もなされていないわけですよ、実際。こんな事でね、権威ある大学病院と言えるのでしょうか? まぁ、あまりこーいう事は言いたくないですが、こんなことだから里美教授も大学病院に見切りを付けたのではないでしょうか? 違いますか? 私の言ってる事間違ってますか?」
オババ看護婦は更に目力を強力にさせ私を睨んでいた。
やはり里美教授の事は言うべきではなかったかとふと後悔したが、しかし、はっきりと言ってやる事こそ、本人、いや病院の為である。
「……わかりました。では、耳鼻科ではなく心療内科に御案内します」
「心療内科?……それは臭いのと何か関係あるのですか?」
「はい。鼻に異常がみられないのにそれでも臭いという事は脳に何かの異常があるのかも知れませんからね。一応、そちらで検査を受けてみてはいかがでしょうか?」
オババ看護婦は、「いかがでしょうか?」と聞きながらも、もうそこに行く気満々だ。
カウンターから出て来たオババは「それではこちらへどうぞ」と私に振り向きながらもさっさと廊下を進んで行くのであった。
その心療内科という聞き慣れない科は、一般の科とは少し離れた場所にあった。
いくつか渡り廊下を渡って行く。渡り廊下から見える中庭は、妙に緑が多く小さな小川までチロチロと流れている。その蝶々が舞う楽園のような中庭は、なにやら新興宗教的な雰囲気を醸し出していた。
「それではこちらで静かにお待ち下さい」
目力オババはそう言って私を待合室の長椅子に座らせると、またスタスタと渡り廊下を渡って行った。
妙に静かな待合室だった。あっちの待合室のように、患者達がワイワイガヤガヤと騒がしくない。看護婦などは足音も立てずに歩き、妙に小声で喋っている。
そして何よりも凄いのが待合室の壁である。あっちの待合室には所狭しとベタベタと貼付けてあったポスター類がこっちの壁には1枚も張ってなく、ただただ白一色の壁なのである。しかもその白は、中庭からやたらと降り注いで来る陽に照らされ、キラキラと輝いていたのだった。
ふと気付くと、とっても小さな音量でクラッシックのBGMが流れていた。そしてよくよく気付くと今座っているこの待合室の長椅子のクッションも、あっちとは比べ物にならないくらいフカフカではないか。
私は「ふっ」と小さく笑った。
やっぱり言う時はとことん言ってやるべきだな、と、このVIP待遇を眺めながらつくづくそう思った。
私は急速に穏やかな気分になって来た。そして、なかなかやるじゃないか大学病院、とそう褒めながら、キラキラと輝く中庭の小川などをボンヤリ見つめていたのだった。
そんなVIPにまた1人の患者がやってきた。
黙ったまま私の正面に座ったその患者は恐ろしく顔の長い男で、それはまるで馬、いや、もしかしたら本物の馬かもしれないと心配になるほどのどえらい馬ヅラだった。
馬ヅラはこのVIPの常連らしく、私のようにキョロキョロと辺りを見回す事も無く堂々とした態度で長椅子に座っている。
私は「さすがだぞ馬ヅラ」と、彼のその堂々とした態度を見つめながら、深く「うん」と頷いた。
そうしていると、足音も立てずやって来た看護婦が私の足下にスっとしゃがんだ。
「今日はどうなさいましたか?」
看護婦は深夜に内緒話をするかのような小声で私にそう聞くと優しくニコッと微笑んだ。顔ははっきりいってブスだが、しかし、それなりの雰囲気を携えている女だ。
キミならヒルトンホテルの1階ロビーの喫茶店でも十分通用するだろう、などと思いながら、とりあえず彼女に笑みを返した。つまり「微笑み返し」というジェントルマンのマナーだ。
彼女は私の微笑み返しに更に微笑み返しをするかのように「うふふふふふ」と笑うと、「大丈夫ですか?」と物凄くスローな口調で聞いて来た。
その大丈夫ですか?の意味はわからなかったが、しかし、彼女のその微笑み返しは尋常ではない。そう、それは明らかに私に好意を示しているという合図とも受け取れる、そんな意味深な微笑み返しなのだ。
今年で48歳になる私にはこれまで結婚という言葉は縁のないものであった。
彼女いない歴48年。
素人童貞の私は、女性との接触といえば老いた母と会社の事務員、そして毎週木曜日に必ず通っている「ハッスルキャバレー・ピンクパンサー」のマサコちゃん(推定年齢45歳・九州は熊本県出身)しかないと言っても過言ではなかった。
そう、私はウブである。生粋な初心。
まぁ好きになった女は今まで数知れずいたが、しかし「恋」というものをまったく知らない、女という生き物をまったく知らない、ウブな男なのである。
私はね、どちらかというと硬派なんですよね、実際。軟派はどうも好きになれない。やっぱりトシちゃんよりも、私はマッチ派だね。ほら、私の祖父ってのが職業軍人だったでしょ、だから今時の若いヤツラみたいにチャラチャラとしてたらそれこそゲンコツを喰らわされましたからね、厳しい祖父でしたよゲンコツラッパは。あ、ゲンコツラッパというのは祖父のニックネームです。はい、もちろんそんなニックネームは私だけしか呼んでませんでした。いやいや本人に直接そう呼びはしませんでしたよ、そんな事言ったらそれこそゲンコツラッパだ。え?ゲンコツラッパの名の由来?
……そんな事、他人のアナタに話さなくてはならないのでしょうか?
だって、ほら、あなただってイヤでしょ、自分が勝手に付けた自分の祖父のニックネームをネットで晒すなんて……
でもいいです、今日は特別だ、教えましょう。
ま、要するに、私は子供の頃、祖父からガツン!と強烈なゲンコツを貰うと、その都度、プッと屁を洩らしていたんですよ。ええ、そうですもちろんソレは意図的に洩らしてましたよ、ま、わかりやすく言えば、小さな反抗、とでもいいましょうか、私にはほら、子供の頃から権力に屈しない反骨精神というものがありましたからね。ま、そんな大日本帝国的なゲンコツラッパに、微力ながらに抵抗していた私はいわゆる硬派なんです。風俗や出会い系なんかは時々利用してますけど、でもやっぱ合コンとかナンパとかってのはね、ほら、やっぱ死んだ祖父が軍人やってたから、そんなチャラチャラした事はできないじゃないですか、ニッポン男児として。反骨精神として。ま、そんなわけで結婚っていう縁がなかなかなかった私なんだけど、でももう歳だしね、ほら、やっぱ年老いた母親に孫なんかみせてやりたいじゃない、だから、そろそろ潮時かな?なんて思ったりしてんですよね実際ははははは。
そんな事をアレコレと思いながら私は、彼女の微笑み返しに更に微笑みを返してやった。
すると、するとである。
突然、正面に座っていた馬ヅラ男が「テメ〜バカたれ〜」と実にウスノロな口調で、まるで若乃花の少年時代のモノマネをするバナナマンのような口調で、私に向かって叫ぶではないか。
すわ! もしや恋敵か!
私は瞬時に馬ヅラ男を睨み返した。
こんな時の私は物凄く動物的な反射神経が働くのである。先日も、年老いた母宛に掛かって来た電話が振り込め詐欺だと気付いたのは、何を隠そうこの私であり、受話器の向こうで「お母さん……俺、交通事故を起こしてしまったよ……」と泣きながら演技する詐欺男に「息子は私だが何か?」と毅然な態度を示してやったものだ。おかげで年老いた母は少ない年金を騙し盗られる事も無く平穏無事に生活しているわけだが、ま、あの時のニッポン男児的に勇ましい私をこの看護婦に見せてやりたいところではあるが、そんなわけにもいくまい。
ならば今ここで、職業軍人の孫と生まれ、毎年欠かさず靖国へ行く硬派な私をお見せしてやるべきだろう、もしかしたら将来の私の嫁になるかもしれない女なのである、そのくらいのサービスをしても罰は当たらないだろう。
そう思った私は、腹の底から声を振り絞り「なんだキサマー!この馬ヅラ仮面めー!」と軍人の孫らしく叫んでやったのだが、しかし何分これほどの大声を張り上げるのは、2年前の正月の朝に、寝小便をちびった年老いた母に「元旦早々たるんどる!」と怒鳴った以来であり、なにかこう喉の辺りが引き攣ってしまい、「馬ヅラ仮面め!」の「馬ヅラ」という部分が裏声になってしまい少々迫力に欠けた。
しかしそれでも私の怒号は効果があったようで、看護婦はサッ!と私に抱きつき、そして馬ヅラ仮面はシクシクと泣き出した。
「怒っちゃダメ」
看護婦は私の両腕を掴みながら、真正面から私の目をジッと見つめた。それはまるで、霧の立ち込める波止場の片隅で、大勢の愚連隊を相手にひと暴れようとしていた小林旭が、ツケマツゲのお化けのような浅丘ルリ子に「やめて!」と止められているような、そんな切ないシーンだった。
「……大丈夫。私は弱いものには手を出しませんから」
私は看護婦にそう静かに語りかけると、看護婦は「偉いわねー」と言いながら、マリアのような微笑みで私の頭をナデナデしてくれたのだった。
診察室に入ると、そこは待合室以上に清々しい空間だった。
医師が座る机の後の大きな窓。窓の外は緑一色の大パノラマだった。
しかも驚いた事に、医師が座る机も一般診察室にあるような事務的なモノとは違い、まるでアメリカの州知事が使っているようなそんな豪華なデスクだった。
「こちらへどうぞ」
私に椅子を勧めるこの医師は、見るからに名医というオーラが漂っていた。
歳はまだ若そうだ。さだまさしのような品粗な面構えをしてはいるが、しかし、どこか安心させてくれるそんな雰囲気を持っていた。
「どうしました?」
さだまさしは私の顔を正面からジッと見つめると静かにそしてゆっくりと顔を綻ばせた。
「はい。実は、臭いんです」
「ほう。臭い。で、それはいつから?」
凄い。こんな対応をしてくれた医師は過去にいなかった。今まで、私が「臭いんです……」と言おうものなら、大概の医師は理由を調べようともせず、ただ鼻の穴を洗おうとするばかりだった。
そんな医師達の中で、この医師だけは違っていた。
「……1週間……いや、2週間くらい前からですかね……突然、嫌な臭いがプ〜ンとしてくるようになったんです」
「ほほう……プ〜ンですか……」
さだまさしは「ちょっと中を見せて」と言いながら、私の鼻の穴に小さな懐中電灯を向けて来た。
私は例のファイバースコープの痛みを思い出し、つい条件反射で「わあ!」と顔を背けてしまった。
するとどうだ、私の後にいた例の微笑み看護婦は、優しく私の両肩を抱きしめながら「大丈夫よ、ちょっと先生覗くだけだからね」と、まるで激しく乱れた後のベッドの中で囁くかのように、私の耳元でそう囁くではないか。
あの耳鼻咽喉科とは全然違う!
あの耳鼻咽喉科では私がどれだけ「やめて!」と悲願しても、一向にヤメようともせず強引にグイグイと奥まで異物を突き刺して来たではないか、しかもそれを見ていた橋田壽賀子系看護婦などは、まるでそれをセセラ笑うかのように見ているだけであったではないか!
あの悪徳医師と鬼婆看護婦に比べ、この二人はどうだ!
この優しき医師と看護婦は、まさにイエスキリストとマリア様ではないか!
そんな彼らの優しさに安堵した私は、微笑み看護婦の腕に寄り添いながらさだまさしにその身を任せた。そして、まさに気怠い午後の昼下がりの団地の一室で、浄水器を売りに来た若いセールスマンに誘われた人妻の如く、秘密の穴をソッと開いては中を覗かせてやったのだった。
さだまさしはペンシル型の懐中電灯で穴を覗き込みながら、小さな声で「少し濡れてるね……」や「毛が多いね……」などと実に官能的に私を責めたてた。
そんなさだまさしの言葉責めと微笑み看護婦の甘い香りに包まれて、48歳の私は不覚にも勃起してしまったのだった。
「趣味は何?」
さだまさしはゆっくりと足を組むと、ほんわかと微笑みながら私にそう聞いた。大きな窓から降り注ぐ太陽の光り照らされたさだまさしは、どこかブルジョアの香りが漂っていた。
趣味?
私に趣味と呼べるものがこれまでにあっただろうか?
職業軍人の孫として生まれ、贅沢は敵だと言い聞かされて育った私に、ヨットやゴルフなどというブルジョアな趣味があるわけない。
ま、しいていうなら、年老いた母親が真っ昼間から大声で唸っている『詩吟』であろうか。若い頃はあのガラガラ声で唸る母の詩吟がイヤでイヤで堪らなかったが、しかし最近になって私も詩吟のワビサビというものがなんとなくわかるようになってきた。
そんな私は、最近、母に内緒で詩吟の歌詞カードなどを拝借しては、トイレに籠ってこっそり唸ってみたりしている。
しかし、さすがにこのブルジョアな医師を前にして、まして婚約者になるかも知れぬ微笑み看護婦を背にして「趣味は詩吟です」などと言えるはずが無い、私にはこれでも軍人の孫としてのプライドがあるのだ。
そんな事をアレコレと悩んでいると、さだまさしは「じゃあ好きな事は何?」とまたしても上品な笑顔でそう聞いて来た。
好きな事?
ま、しいて言えばオナニーか?
最近ではネットで無料のサンプル動画なんかを見てシコシコとヤルのが私の唯一の楽しみだが……
これも無理だろう。
言えるわけが無い。そんな事言えば、好奇心旺盛なさだまさしの事だ、必ず「ほう……無料動画ですか……どんなカテゴリーをよく見るの?」などと聞いて来るに違いない。
そうなれば必然的に、「結構、アブノーマルなやつですね。最近は獣姦モノにハマっちゃってて、こないだもヤギのアナルに中出しする動画を見つけましてね、オーストラリア人のデカペニスを尻穴にブチ込まれたヤギが小さな目をシパシパとさせながら『メェェェ〜〜〜』と鳴くシーンなんか、蛍の墓のドロップのシーンよりも感動しましたよ」などと、答えなければならなくなる。
これではせっかくのフィアンセがどえらい事になってしまう。
そう思いながらも言葉に詰まっていると、更にさだまさしは質問を続けて来た。
「好きな食べ物ってなんですか?」
そら来た。
この手のブルジョア野郎は、必ずと言っていい程、まずは食い物から攻めて来るものである。
食い物から差別のきっかけを作ろうと企んでいるのがみえみえなのだ。
私は好物と言えば、何を隠そう「たまごぶっかけごはん」である。ホカホカご飯の上に生卵をボテッと落とし、醤油と味の素で味付けをしたら一気にグシャグシャと掻き混ぜるアレだ。
しかし、たまごかけごはん程貧乏臭い食い物はない。しかも実に野性的で見事に下品な食べ物だ。
私はこう見えても大日本帝国陸軍山砲兵第288連隊長を祖父に持つ男だ。たまごかけごはんごときで安目を売るわけにはいかないのだ。
しかし、だからといってなんと答えればいいのか?
カレーライスか?
いや、48歳にもなって好物はカレーライスです!なんてあまりにもバカっぽい。
では、『里芋の煮っ転がし』とでも答えようか?
いやいや、しかし、ここで『里芋の煮っ転がし』などと答えれば、好奇心旺盛なヤツの事だ「誰が作るの?」と聞いて来るに違いない。彼らは私が独身であるという事を知っているはずだ、さっき待合室で「アンケート」と書かれた幼稚な用紙に色々と書かされ、ヤツラは私のデーターを十分に把握しているはずなのだ。
ならば「母です」と答えたらどうなるだろうか?
まぁ、このさだまさし的な阿呆は「ほう……おふくろの味ってやつですね……」などと目を細めるであろうが、しかし、後のフィアンセは立場的にどう思うだろうか?
嫁と姑。
実にやっかいな問題である。
それを今ここで議論するつもりは私にはない。
私はただ、臭いから何とかしてくれと治療を申し込みに来ただけであり、ここで嫁と姑の問題を大きくする事を望んではいないのだ。
「おふくろが作る里芋の煮っ転がし」に対し、悪戯に彼女を傷つけたくはなかった。そう思った私は、この質問もさりげなく答えを避けたのであった。
そうやってさだまさしの質問を次々に躱していた私は、遂にさだまさしの怒りに触れる事になってしまった。
さだまさしは、一向に黙秘権を貫き通す私に、なんといきなり「グー、チョキ、パー」をやってみろと、実に屈辱的な暴挙に出たのだ。
私は出来る事ならそんな馬鹿馬鹿しい事はしたくはなかった。しかし、これ以上、さだまさしを怒らせる事は後のフィアンセにとっても悲しい結末となってしまいそうで怖かった。
私は恥を忍んで、彼の命令通り「グー、チョキ、パー」をゆっくりやった。
しかし、彼の怒りはそれでは治まらなかった。なんと彼は、素直に従う私に対し「もっと早くやってみて」と言うではないか、しかも、今度は「グー、チョキ、パー」ではなく「チョキ、グー、パー」をやって見ろと屈辱したのである。
私はチンパンジーではない!
私は、加藤優を庇いながら荒谷二中の落ち武者教師に「加藤はみかんじゃないんです!」と叫ぶ坂本金八の如くそう心で叫びながら、己の意志に反し、「チョキ、グー、パー」をしてやった。
「ふ〜ん……ちゃんとできるねぇ……じゃあさぁ、この色は何色に見える……」
そう言いながらデスクの中からカラフルな画用紙を取り出したさだまさしに、もうこれ以上の辱めは結構だと、遂に私はさだまさしに物申した。
「先生。臭いのとソレとどういう関係があるのですか?」
私の最もなこの御意見に、さだまさしだけでなく後のフィアンセまでも絶句した。
「うん……というのはね、あなたの場合、思い込みという事があるかも知れないんですよ……」
「……と、いいますと?」
「うん、簡単に言うと、どこも臭くないのに臭く感じている、って事です。本当はどこも何も臭くはないのに、あなただけが臭いと思い込んでしまっているという一種の『思い込み』があるのではと思いましてね……」
「それと、チョキ、グー、パーと、どんな関係があるのでしょう?」
「まぁ、いわゆる、脳です。このテストはあなたが脳に障害を受けていないかを調べていたわけでしてね……」
さだまさしはそう言いながらカラフルな画用紙を再びデスクの中にしまい込んだ。私が思っていたより正常な答えを返すため、それはもう必要ないと判断したのであろう。
「最近、何か刺激の強い物の匂いを嗅いだとか、刺激の強い物を見たとか、そーいう事はありませんでしたか?」
さだまさしはデスクの引き出しを元に戻すと、またゆっくりと足を組みながら私に向かって静かにそう聞いた。
刺激の強い匂い……
そーいえば、先週、「ハッスルキャバレー・ピンクパンサー」に行った時、こんな事があった。
指名したマサコちゃんが、私の席に来るなり「いつもありがとねー」といきなり私に抱きついて来た。その時、偶然にも私の数本の指が、マサコちゃんのスケスケネグリジェの腋の下にヌルッと滑り込んでしまった。マサコちゃんの腋の下は生温かく、そして妙にネトネトしていた。
その後、私は、モー娘。の『LOVEマシーン』がけたたましく鳴り響く店内で、安っぽいミラーボールに照らされながら、マサコちゃんとオセロ中島の話しをした。話しをながらも、私はその湿った指が気になって仕方なく、オセロ中島が家賃を払わない事や樹木希林が嘆いている事など最早そんな事どうでも良く、私はただただその湿った指が気になって仕方なかった。
そんな私は、もうどうにも我慢ができず、不意にマサコちゃんがくしゃみをした瞬間、素早く指先を鼻の下に移動させ、さりげなくクンクンと匂いを嗅いでやった。
指に漂うその匂いは、まるでローソンの店内に漂う『おでん』のような不気味な匂いを漂わせていた。不意に『おでん』を嗅がされた私は吐き気を催し、慌ててマサコちゃんから顔を背けると、横に置いてあった観葉植物の植木鉢の中に少量のゲロ(出前一丁の麺を数本とホウレン草らしき青物)を吐いたのだった。
あの匂いは人間技を遥かに超えた凄まじい悪臭だったが、まさか、あれが原因だったのだろうか……
いや待てよ、しかし、私はその後、家に帰ってから、微かに指に残っていたマサコちゃんの『おでん』の残り香を嗅ぎながらオナニーをしたではないか。しかも、興奮のあまりその指をペロペロと舐めながら「マサコちゃん……」などと口走り、想像を絶するエクスタシーに達したではないか。
という事は、あのマサコちゃんの匂いは、ある意味私にとっては『いい匂い』であり、一概に臭いとは言いきれない……。
そう悩んでいると、さだまさしが「一度だけ嗅いだというものではなく、継続的に嗅ぎ続けている臭い匂いというものは何か心当たりはありませんか?」と、おにぎり弁当の端に付いているキャラブキのような目を緩ませながらそう言った。
継続的……
そこまで考え、私は「はっ!」と心当たりに気付いた。
「ありますか?」
私のそんな表情に気付いたさだまさしがすかさず身を乗り出して聞いて来た。
「はい。確かに継続的に臭い匂いを嗅がされている事があります」
「嗅がされている?……誰にですか?」
「はい。部長です。私の会社の黒崎部長です。彼はことごとく私の失敗のあら探しをしては、それについてグダグダと長ったらしい説教をするのですが、その時の黒崎部長の息。あれは人間技とは思えない口臭で、マサコちゃんの『おでん』の匂いなんかよりももっともっと強烈で破廉恥なニオイです」
「ふむふむ……黒崎部長の口臭か……」
さだまさしはカルテに素早くそう書き込むと、すかさず「それを嗅がされている時間は?」と顔を上げた。
「そうですね……だいたい2、30分って所でしょうか……」
「それは毎日?」
「はい。ほぼ毎日ですが、しかし多い時は1日に2、3回という時もあります」
「例えて言うなら、その黒崎部長の口臭というのは、どんな臭いなのかな……」
「はい。ズバリうんこです。しかも猫のうんこ。私の家では年老いた母がメタボリックな三毛猫を飼っているのですが、そのホームズの、あっ、このホームズというのはその三毛猫の名前なんですがね、いえいえ、私はこんなおキマリな名前なんかつけませんよ私はこれでも軍人の孫ですよ、三毛猫だからホームズなんて、恥ずかしいにも程がありますよ。ホームズという名は母が付けたんですよ、母は若き頃からセンスの欠片もありませんでしたからね……ま、そのホームズがね、いつも隣りの家のガーデニングにうんこをやらかすんですがね、ま、私としましては少しでも植物の肥料になるからいいじゃないかと思うんですが、増岡さんはね、あ、増岡ってのは隣りのおじいちゃんの事です、かれこれ6年間も町内会長を務めているなかなかの御仁ですよ。でもね、その増岡さんがね、何を血迷ったのか『猫の糞は汚いからなんとかしてくれ』なんて自治会なんかに投書したりしてるんですけどね、ま、誰もあんなボケ老人は相手にしてないからそんな事はどーでもいいんですが、ま、とにかく黒崎部長の口臭はホームズのうんこよりもずっとずっと臭いです。これは私、神に誓っても言い切れます、なんなら池田大作に誓ってもいいです、はい」
「……うんこですか……で、あなたはその黒崎部長の口臭を、今、思い出す事はできますか?」
「今……ですか……ま、やってみなければわかりませんが……」
「じゃあちょっとやってみて下さい。出来るだけリアルに黒崎部長の口臭を思い出してみて下さい」
私は言われるままに静かに目を綴じた。
黒崎部長の口臭……黒崎部長の口臭……
何度かそう唱えると、微かにあの独特なウンコ臭さが脳裏に浮かんで来た。
しかし、それはどことなくホームズのウンコの臭いだ。黒崎部長の臭いはそんな生半可な物ではない。私はあの口臭に目眩を感じ、何度会社の床に倒れた事か、それほど彼の口臭は強烈なのだ。
そんな黒崎部長の顔を必死に思い出しながらあの強烈な口臭を思い出していると、だんだん口の中がモヤモヤとガス臭くなって来た。
そうそうこんな感じだ。いつも臭いと感じるときは、こんなメチルタンガスのような香りが、まず最初に口の中に広がるのだ。
続いて鼻から息を吐いてみる。その残り香はできたてホヤホヤの石焼きイモの香りのように重く生暖かい。
そして再びゆっくり鼻から息を吸い込む。
「あっ!」
私はおもわず声をあげてしまった。
「黒崎が匂って来ましたか?それはいつもプ〜ンと漂って来るその嫌なニオイと同じニオイですか?」
「はい、間違いありません!黒崎です!黒崎部長のウンコ息のニオイと同じニオイです!あぁ!臭い!」
さだまさしは「やっぱりか……」と呟くと、ゆっくりと椅子をデスクに回し、何やらカルテにコキコキと書き始めた。
そして机に向かったまま、私の背後にいた微笑み看護婦に向かって「三津村さん、ソウゼニックをお願いします」と呟いた。
すると突然微笑み看護婦が、ガタガタと体を震わせながら黒崎臭に脅える私の肩を優しく抱きしめ、「もう大丈夫ですよ〜ほら、この石鹸の匂いを嗅いでみて下さ〜い」と、柑橘系の固形石鹸を私の鼻に近づけた。
私はまるで酸素補給するマラソン選手のように、その石鹸を鼻に押し当てスースーと匂いを吸い込んだ。
私の鼻の穴の中に漂っていた黒崎臭が、一瞬にして私の鼻の穴から消えて行ったのだった。
「まぁ、これは一種の強迫観念という精神障害のひとつですね……」
さだまさしはそう言いながら、再び私の方へと椅子を回した。
「強迫観念……ですか?……」
「そうです。あなたは黒崎部長に説教される度に、必然的にその嫌な臭いを嗅がされ続けているわけで、あなたは説教されるという嫌な行為を受けながらもその臭いを脳にインプットしてしまっていたんですね……」
さだまさしは短い足を組み替えると更に説明を続けた。
「つまり、あなたの中で、黒崎部長の説教というのは極度の苦痛であり、その苦痛をふとした事で思い出す度に同時に脳にインプットされていた黒崎部長の口臭が甦って来るというわけです」
「脳にインプット……それを取り除く事はできないんですか?」
「可能です。ま、時間は掛かりますが、その黒崎部長の臭いが甦る度に、すぐ別のニオイを嗅ぐといった地道な自己治療をしていれば、そのうちインプットされたデーターが徐々に消えて行くと思います。が、しかし……」
「しかし、なんですか?」
「しかし、せっかくそうやってデーターを消し去ろうとしていても、また黒崎部長の説教と口臭を受けると、それが再び脳にインプットされてしまいまた元に戻ってしまうといった恐れがあるんです……」
私は柑橘系の固形石鹸を鼻に押し当てながら、「先生!ではどーしたらいいのでしょうか!」と涙目になって叫んだ。
「まぁ、黒崎部長の口臭を治療するか、もしくは、あなたが説教されないように仕事を頑張るしか、方法はないでしょうね……」
「私!仕事ヤメます!仕事ヤメて、黒崎部長をパワーハラスメントで告訴してやります!ですから先生、裁判で証拠になるような診断書を書いて下さい!」
「……仕事、ヤメますか……しかしですね、仕事をヤメたからといって、あなたがこの臭いから逃れられるとは限りませんよ」
「え?でも先生、さっき黒崎部長のニオイを嗅がなければいいとおっしゃったじゃないですか!」
「いや、嗅がなければ直るとは言ってません。あれは、嗅がなくてもよくなれば直るという意味です」
「?…………」
「つまり、強迫観念という精神障害は、精神の病であって鼻の病気ではありません。この場合、臭いニオイを嗅ぐ嗅がないはあまり関係ないのです。あなたの脳にはもうしっかりと黒崎部長の口臭がインプットされていますからね。ですから、あなたの治療に大切なのは『嗅がないようにしょう』ではなく、『嗅がなくても良い状況』を作る事なんです」
私はこのさだまさしの言っている意味がわかるようでわからなかった。
「先生。もっと簡単に、ズバリ、一言で教えて下さい。どうしたらこのニオイから逃れられるでしょうか?」
さだまさしは静かに椅子を立ち上がった。両手を後ろに組みながら大きなパノラマ窓にゆっくりと歩み寄ると、窓の外に広がる緑をジッと見つめながら、ひとこと「仕事で失敗しない事です」とポツリと呟いた。
そしてゆっくりと私に振り向き、大きなパノラマ窓から見える緑を背景にしながらさだまさしはニヤリと微笑んだのであった。
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「社長、日本海物産から3万個の発注が来ているのですが、どうしたものでしょうか……」
専務の栗林が嬉しいのか悲しいのか複雑な表情でそう言いながら社長室に入って来た。
「3万個か……生産はまだ間に合っていないのかね?」
私はパノラマ状に開かれた大きな窓から緑が広がる外を眺めながら栗林に聞いた。
「はい。今月は既に50万個も生産しているのですが全て売り切れでございまして、ここ2、3日のうちには6万個の生産が可能なのですがしかしそれは海外への発注品でございまして……」
「海外?」
「はい。今や我が製品は海外でも大流行でございまして、香港、韓国、シンガポールとこの2ヶ月間で200万個という業績を伸ばしております」
「何を考えているんだキミは!海外よりも日本だよ日本!まずは日本で大ブームを起こし、我が社の名前を一躍有名にしておいてから更に新製品を撃ち続けるんだ!海外などそれからでもかまわん!その6万個はすぐに日本海物産に回すんだ!」
栗林専務は私の剣幕に「ひっ!」と肩をすぼめると「かしこまりました!」と一礼し慌てて社長室を飛び出して行った。
そんな栗林専務の足音を聞きながら大きな溜息を付くと、私は窓際の椅子の上にゆっくりと腰を下ろした。巨大な窓の外に広がる緑。その大パノラマは心療内科の診察室で見ていた風景と同じように清々しく輝いていた。
原因不明の臭いに悩まされ、初めて心療内科のドアを叩いてから、はや8年。
私はさだまさしの的確な治療のもと、黒崎部長に叱られないよう必死になって仕事を頑張った。そして遂に原因不明の臭いから解放された私は、いつしか会社では業績トップのエリート社員になっていた。
臭いから解放された私はさっそく会社を辞め、自らが病んだこの神秘なる「前頭葉」に惜しみない研究の日々を費やし、そして精神科医のさだまさしの協力のもとあるひとつの商品を開発した。
それが『前頭葉さわやかフレッシュ!ナヤポン』である。
ナヤポンとは、いわゆる「香水」のようなモノで、それを嗅ぐと幸せな気分になれるという、まったく私の病の逆手をとった新商品だった。
ただしこのナヤポンは、ただ匂いを嗅げばすぐに幸せになれるというものではなかった。
このナヤポンという特殊な製品は、その香りを脳にインプットしなければならないのだ。
例えば、好きな映画を見ている最中にナヤポンを定期的にクンクンと嗅ぐ。又は、好きな女の子とデートの最中に時々クンクンと嗅ぐ。はたまた、セックスの射精時にナヤポンをクンクンと嗅ぐ。
つまり、自分が『幸せだ』と思う瞬間にナヤポンの香りをクンクンと嗅ぐ事によって、ナヤポンの香りが脳にインプットされるのである。
このインプットは人によっては様々だが、正常な前頭葉の持ち主であれば早くて1ヶ月程度でインプットが可能となる。
インプットが完了すれば、あとは幸せな人生が待っていた。
悲しい事、辛い事、嫌な事が起きた瞬間に、このナヤポンをクンクンと嗅ぎさえすれば、たちまち脳からアドレナリンがバクバクと溢れ出し、自分が『幸せだ』と思っていた時の気分をそっくりそのまま甦らせてくれるのである。
だからナヤポンをインプットさえしていれば、失恋、失業、病気、事故、災害といった最悪な場に遭遇したとしても、ナヤポンをクンクンと嗅ぐだけでとたんに幸せになれる。どんなに辛い事でも、どんなに悲しい事でも、ナヤポンを嗅ぎさえすれば、ナヤポンによって引き出された『幸せな記憶』がたちまち気分を良くしてくれ、その最悪な困難を常にプラス思考で切り抜けられるという、実に実に夢のような商品なのである。
これは当たった。
その昔、全国的に一大ブームを巻き起こしたヒロポン(覚醒剤)は「疲労がポン!」と飛ぶからヒロポンという名称が付けられたらしい。
だから私は、現代の合法的なヒロポンを意識し、その商品名をナヤポンとした。
つまり、「悩みがポン!」と消えるのキャッチフレーズとして売り出したのだ。
ナヤポンの成功で莫大な財を築き上げた私はノリに乗っていた。六本木に18階建ての自社ビルを建て、300人の社員に囲まれながら、白金の自宅と六本木ヒルズに囲う女の部屋をロールスロイスで移動した。
ナヤポンのおかげで自殺者が激減したと厚生省から勲章をもらい、イラクに派遣されているアメリカ軍に大量のナヤポンを寄付してはオバマ大統領から直々に感謝状を受け取った。
それもこれも、私の病気の原因を発見したさだまさしのおかげであり、そして私の病気の原因だった黒崎部長のおかげである。
あの時、さだまさしが『前頭葉の神秘』を私に教えてくれなかったらナヤポンはこの世には出ていなかっただろう。
私はそんな偉大なる2人に感謝の意を示し、自社ビルの屋上に2人の銅像を建てた。緑に囲まれた屋上庭園にひっそりと佇む2つの銅像。必ず私は、毎朝この2つの銅像に拝んだ。朝の清々しい空気と燦々と輝く太陽の光を浴びながら、私は2人の銅像に向かって「1日も早く日本国民全員がナヤポン中毒になってくれますように」と密かに願う。
そして億万長者の大富豪になることを夢見ながら、今日もまたナヤポンをクンクンと嗅いでいるのであった。
(臭いんです・終)
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