私はその頃、新幹線に乗って方々を飛び回っていた。出かけるには何といっても他人の運転に身を預けるに限った。それは何も贅沢が身に染みていたわけではない。ただ保安上の理由に過ぎなかった。要するにフラッシュバックが怖かったのだ。ここで意味の無いエクスキューズをさせて貰いたい。薬をやらない人間には生涯判らない話だけれど、私たちは決して空想と現実を取り違えたりはしない。IQの足りない奴らは別にしても、唐突に神サマの声が聞こえて『次に目の前を通った女を犯せ』なんて理不尽な使命を課せられたりはしない。目の前を通る奴の頭をぶん殴るたびに視界の左端のスコアが加点されるアクションゲームに参加させられるなんてもっての外だ。このどちらも私は一発キめた時に身を以て体験したけれど、どちらもしっかりと妄想の一種であることを掴み取っていた。だから何も問題ではなかった。本当に恐ろしいのはまるで現実みたいな夢を見ることではない。まるで夢みたいな現実を目の当たりにすることだ。認知の梯子から足を滑らせてバッドのぬかるみに沈み込むと、途端に肌感覚は飴がけされた様に不確かになる。自意識の潜水服の中で如何に正気を保つか。これが私の様な小市民ジャンキーにとっては至上の課題だった。私は、『現実とは結局のところその頼りない五感の刺激に基づいた良く出来た虚構であってそれを皆がほんとうにある唯一の出来事だと信じきっていることに価値があるのだ』と強引に結論づけることで乗り越えた。遅れてきたニューエイジに皮肉を混ぜた程度の稚拙な理屈だけれど、まあ筋は通っていた。自分なりに。だから私はパラノイアックな出来事にどれだけ身を浸していても傍目には正気な態で過ごすことを許されていた。そして当然お分かりになられるかと思う。人が自然と受け入れている諸々を珍妙なフィルターを通して眺めることを余儀なくされる私。瞬時の判断などつけられたものではない。手足の感覚を喪ったまま運転するなど、私が言うのも何だけれどとても正気の沙汰ではなかった。長生きする気は無くても命は惜しい。だから私は自分の身の安全を、運用するには殊に人任せにすることを選んでいた。
話を戻そう。新幹線で西に東にと遊びまわっていた。近場なら迷わずグリーン車に乗った。これは何も保安上の理由などではなくて、たまにはそうした贅沢もしておかないと痩せた頬を見る度に怖気を振るうハメになるからだった。私の小旅行は、表向きは女の為だった。女に好かれるのが商売だったから苦にはならなかったし、とは言ってもどっぷりと女につきまとわれるには辟易していた。だから出先の街で適当な女を見繕ってはそいつで飯を食うのが私のお決まりの手口だった。
名前ばかりのミックスバーや、朝方に本腰を入れて営業するメンズパブ。ソファで酩酊している曖昧模糊とした女やオンナモドキの群れの中には私のオーダーにぴったりとはまるお目当ての一匹や二匹は必ずいたものだった。そいつらの口にする半生と言えば、それもまた判に押したように不幸の目白押しと言ってよかった。顔貌の整っている奴にかぎって特に顕著だった。そいつらが喉に押し込むものといえばテキーラかチンコかしかなくて、不幸の大方は『あまりにも性格が醜いから』で片が付いた。身の回りの人間の悪口しか話題の無いような奴らだ。人間並みに扱われる資格などはなから無い。さらに残りの奴らは『悲しいくらいに頭が悪いから』ですっきりと解決した。弱い生き物が人並に扱われたいなら、消費の渦に組み込まれるしかないからだ。幸せは金では買えないけれど、不幸せを払うには金を差し出さなければならない。酒にオトコにクスリに博奕。だらしなさもまた弱さの類型だ。彼女たちは皆弱くて、渦の中でぐるぐるぐるぐると追いたてられていた。色目を遣う女の中から金魚掬いの要領で相手を決めた。コツを掴めば簡単で、ダメで元々なところなんかが良く似ていた。一晩じっくりと話を聞いて、具合が良いかを身体に聞いて。みんながみんな孤独だった。
そうして都合の良い女を都合よく飯の種にしていたのだけれど、本質の所でそれに意味があったのかと問われれば甚だ理解に苦しむ所だ。我が事ながらに不可解に思う。私は無意味であることに価値を見出している節があった。彼女たちは皆、気を許すとまるで習性の様に私を家に上げた。その頃の私はまだ二十歳を幾つか超えたばかりだった。見目の整った若い男というものは彼女らにとって格好の消費の対象であって、それはお互い様の事だった。女の方からして新しい働き口は無いかと尋ねてくるし、私も換金所の在り処はよく心得ていた。現代の賭場はすっかり清潔な雰囲気で、風俗に口を利いてくれるスカウトと出会うには事欠かなかったからだ。そうして手元に流れ込んだ金の大半はケムリに消えた。その頃の私は片時たりとも毒煙草なしにはいられなかった。格好をつけた言い方をすれば“社会の澱みに嵌りこんだ退廃的な若者”を演じる為に金が費やされた。狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり、悪人の真似とて人を殺さば。毒煙草の甘い香りと女の粘液が私を変質させていった。役柄がぴったりと嵌った頃には、私はもうそういった人間に成っていた。
こうした暮らしを続けていたのは、私の信条というか生き方の前提に拠るところも大きかった。老舗の毒煙草屋でバイトしていた先輩のハヤト君はいつか私にこう云った。
「君ってほんと不思議な奴だよね。金があるのか無いのかも訳わかんないし働いてる訳でもないしさ。どうやって生きてるの?」
私からしてみれば、この背丈の足りない中卒の薬中がホスト然として堂々と暮らしていけている事の方がよっぽど訳のわからない話だった。
「面倒なこと多いじゃないすか」
とチャラく返せば事は済んだ。煙たい場所でのバカ話に硬いトーンは似つかわしくないし、どうせここは本当の世界じゃないんだから特に困りもしなかった。
「そんなことばっかりっしょ」
「まあ、そうすね。でもハヤト君。やっぱりラブアンドピースがよくないっすか?」
「出たよ、ヒモ理論」
適当な言葉を並べておけば、無用な詮索もされないものだ。ハヤト君はパイレックスで延々とケムリを呑みこんでいる。今日の分の作り置きは終わったと見えて、店番も随分と気楽なものだ。ただその表情には曇りがあった。まだ夕暮れには早いのに、眼の下の真っ黒な隈はいつにまして濃く見えた。
「元気ないよね、大丈夫?」
「やっぱ、わかっちゃうワケ。ちょーしんどいのよ」
ハヤト君は黄色い歯をむき出して笑った。
「また、アタマの調子が良くないんですか」
何も彼を馬鹿にしている訳ではなくて、ハヤト君の持病を慮ってのことだった。月の半分を彼はベッドの上でウンウンと唸って過ごしていたから。
「あー、それはちがくてさ。まあめっちゃ調子も悪いんだけど」
とこめかみを押さえるポーズを取って真っ白なケムリを吐きだす。
「なんて言ったらいいかな。先輩のセンパイ?わかんないけど。そいつからから仕事しないかって誘われちゃって」
「ハウスのセンパイ?」
私は早々に足を洗ったが、ハヤト君とは元々カジノの仕事が縁で知り合った。その頃から随分様子のおかしい奴だったけれど、今はもう縦から見ても横から見てもガチガチのジャンキーだ。
「そうそう。ほら、俺もう地元にカンケ―ないから」
色々あって、ハヤト君はここから車で下道を一時間の“地元”とはすっぱりと縁が切れていた。何があったかは深く聞いても浅く聞いても一緒で、ホント交じりの嘘になってしまうから意味がなかった。
「なんか、親とか子とかがどんどん出来てどんどんビックになれちゃう、みたいな感じの」
「それってマルチってやつじゃないですか」
「あーそれ、それそれ。困っちゃってさ」
「やばいじゃないっすか」
スマホを身内に売りさばいて羽振りがいい大学生とは、ちょっと段階の違う危なさだった。
「そーだよ、やばいんだよ。誰に売ればいいのって話で」
長い事クスリをやっていると、大抵は色んなコミュニティから疎遠になっていくものだからハヤト君が頭を抱えるのも頷けた。
「そもそもですけど、何売ってるんですか」
「お酢」
「お酢?」
たぶん、かなり間抜けな調子で私は聞き返した。
「そう、お酢」
ハヤト君がバックヤードのカバンから取り出してテーブルに置いたのは、ワインかなんかが入っていそうな黒い瓶。
「なんか、日本初進出なんだって。センパイの連れてきたスーパーなんちゃらっておっさんはさ、ブラックダブルクラウンシルバー会員らしいよ」
ブラックダブルクラウンシルバー、のところだけやたらと滑らかに口にするハヤト君。
「駅前のデニーズで話したんだけどさ、レクサス乗ってたよ。かっこいいじゃんね」
彼のにやけた顔に、こちらもいつものバカ話のトーンで受け答えて返す。
「お酢で、ブラックダブルシルバークラウンで、デニーズで、レクサス?」
間抜けた並びの言葉だ。
「そ、お酢で」
「ブラックダブルクラウンシルバーで」
「レクサス」
レクサスのところでハモって、二人っきりの店内で盛大に腹を抱えた。
「飲んでみる?」
「え、それ、飲めるんすか」
「完全食品なんだって。酸性がチューワされてとにかく身体にいいって」
聞きかじりの中途半端な口上を述べながら、ハヤト君は紙コップに注いだそれをこちらに寄越した。顔を近づけると赤みがかった液体から痛みが伴うような匂いがする。
「サンプルだってもらったんだよ。タダでいいからさ」
誰が金なんか払うか馬鹿野郎。一気に飲み干すと、唐突に実家を思い出す味がした。
「これ、黒酢じゃないですか」
「だろ?健康に良いんだよ」
丁度良い具合に毒煙草がキマっているのと相まって、そのあまりのくだらなさに胃が痙攣しそうだった。
「いや、もうこれ無理っすよ。インチキもいいとこですって」
そもそもが、こんな薬中ヅラのハヤト君が健康を売り物にできるかどうかなんてちょっと考えれば判ることだ。
「まーそうなんだけどさ」
日が陰って、窓を背にした彼の顔が暗がりにかかるとぱっくり開いた瞳孔がよく見て取れる。
「もう俺、これぐらいしかコネなんかないじゃん?やるっしかねー、つーか」
ハヤト君は、とても自由そうに見えて色んなものに縛られていた。逃げ出した地元にはもう戻れっこないだろうし、追いかけてくる相手もいない代わりに相手をしてくれる人間にも乏しかったから。
「こんなはずじゃなかったんだけどねー。地元の上下関係、っていうの?そういうの超ダルくて」
彼が私に詐欺の片棒を担がせる気がさらさらないのは良く判っていた。それに、こういう話をするのが私相手だけだってことも理解していた。別にそれは、私が信用の置ける人間だということじゃなかった。どこまでもただの他人だったからだ。所在も仕事もはっきりしない、女のヒモで食いつなぐクスリ好きの後輩。それがハヤト君から見た私の全てだったのだと思う。
相手の文脈には決して組み込まれないこと。これが、私が正気なパラノイアでいる為の鉄則だった。不幸というものは大体においてパラノイアックな色調を帯びるものだ。本当の世界を忘れないために、私は私の中でくっきりした一線を、いつも意識していた。
「あ、そうだ。●●ちゃん、そういえばまだこっち居たの」
「なんすか急に」
「だって前言ってたじゃん」
「なんでしたっけ」
「どっか遠くで、とんでもねえデブの女と暮らすかも、って。もう肉屋に売っちゃった?」
「あー、それは」
もう一度だけ話を戻そう。崩れた生活に身体が馴染みきって縦割りのヤンキーコミュニティに組み込まれるのも真っ平だった私は、女を喰い物にすべく西に東にと遊びまわっていた。『あまりにも性格が醜く』て『悲しいくらいに頭が悪い』女たちは皆、思わず笑ってしまう程に想像力が欠如していた。そいつらは私に調子の外れたことを平然と聞いてきた。それは「キミハイッショニシンデクレルノ?」であったり「アナタハワタシヲドウシタイノ?」であったり「コドモトイッショニアソンデクレル?」であったり「アナタハウソツカナイ?」であったりしたけれど、大筋の所はどれも似たようなものだった。深刻な顔をして言うにはあまりもミスマッチなシチュエーションなものだから、どういったジョークで返そうかと躍起になったものだった。
そうして私は、彼女らが理解しやすい風に自身の人生を説明立てる手順に長けていった。愛と裏切りとファックを五対四対一でブレンドした話がそいつらの口には合った。みんな大体が、コンビニとマックが好きで油じみたスナック菓子が好きでゲーセンでぬいぐるみを取ってやると喜んで、根っ子の部分で自分の事しか愛せない類の糞だった。頸から胸から太股まで至る所に噛み跡をつけてマーキングする糞。週一ペースで身体に刻み目を入れて悦ぶ糞。店を飛び続けてとうとう人生からもジャンプして脱出した糞に生きている事自体にストレスを感じて延々と口に餌を運び続ける糞。パラノイアックな出来事にはごくごく慣れ親しんでいたから、人が生きているならばさもあらんと呑みこむことができた。ただあまりにも量が多すぎて、ふと思い出したように吐き戻してしまう。皆様に汚らしい吐瀉物を披露するのは汗顔の至りだが、ご覧になればどなたも唇を歪めて笑うことだろう。では、とっておきの糞の話をしよう。服を着た肉塊の話だ。
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