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時間のない女

Hinanochi

インドのサンサーラ(輪廻転生)の考え方を発想の基盤としています。

女は、男からどんな経験をもたらされたのか。
詐欺師まがいの男は、女からどんな影響をもたらされたのか。
人は互いに影響し合って、どの一瞬も経験をし、経験を与える存在であるのだということです。

タグ: #サンサーラ #スピリチュアル #哲学 #小説 #輪廻転生

小説

2,199文字

女には、いつも時間がなかった。

女は、昼間はひと駅先にある小さな弁当屋で働いている。

自分の生活と、娯楽と、将来のための労働である。

それだから、一日も、一時間でも削るわけにはいかなかった。

 

女は、仕事から帰宅すると本を読んだ。とにかくたくさん読んだ。
インスピレーションを受けると、その刺激を文字に起こした。
女は、弁当屋の店員という以外に、詩人としての生き方にも憧れているのである。

様々な言葉を、手元の手帳にたくさん記した。

 

インスピレーションは、本以外からも受けた。

仕事から直帰せずに、映画館に行く日もあれば、芝居を観に行く日もあった。音楽を聴きに出かける日も稀にあった。
新作の詩や小説を買いに出かけることもあり、女の毎日は、気がつくと夜深くになっていた。

さらに女は、映画や芝居の影響を受けて、次第に女優にもなりたいと思うようになった。

文章を書くために観ていたはずの作品は、女優になるための勉強という名目に姿を変えていった。とにかくたくさんの作品を観た。

 

そして女は、海外への憧れも強く持っていた。
いつか家族や友人と、太平洋の向こう側へ行きたいと願った。
そうすると一層、仕事を怠るわけにもいかなかった。

女にはとにかく、いつも時間がなかった。


ある日女は、小さな芝居小屋の前で、浅黒く日焼けをした男と出逢った。
一目では、外国人かと見紛うほどに濃く焼けた肌の、茶色い目の男は女に言った。

 

「この芝居を、観るの?」

 

女は突然のことで、頷くことしかできなかった。
すると男は続けた。

 

「その券、俺に譲ってくれないか?」

 

芝居小屋の表には、「満員御礼」の看板が出ていた。
そんなに盛況しているとは思えなかったが、小屋自体が小さい所為かもしれなかった。

 

「嫌よ。明日もここで同じ芝居をやるそうよ。明日またいらっしゃいよ」

 

女は、片手で持っていた芝居のチケットを、もう片方の手で覆うようにして隠した。

 

「はは」

 

男は女のその仕草を見て、笑った。

 

「なあに、取ったりしないさ。君は可笑しいね」

 

軽やかな笑い声をあげた男は、周囲の視線を集めた。

 

「でも、今日でなくてはダメなんだ。明日の朝には、西へ立つからね」
「なら、この芝居は諦めることね」
「それはできないな」

 

女と男の押し問答は、暫し続いた。

 

「あなたもしつこいわね、いい加減観念なさいよ」
「嫌だと言ったら嫌だ。俺はその券を自分のものにするまで、ここを動かないし、君のことだって、動かさないよ」
「どうしてそこまでこの芝居に拘るの?」

 

女には、このしつこい男の相手をするのに疲れて、諦めの気持ちが芽生えてきていた。

 

「人は死ぬんだ」

 

男は突然、妙なことを言った。

 

「なあに、急に。当然じゃないの」
「そうだろう? その時に俺は、この芝居を観なかったことを後悔するんだ。

来世に影響するよ。うん、きっと影響する」

 

男は言うと、しきりに頷いた。

 

「なに馬鹿なことを言ってるの」

 

女はとうとう呆れ果て、チケットを男に譲ろうとしたとき、

 

「死ぬ時に、あの世へ持って行けるのは経験だけだ。

そして生まれ変わるときは、その経験を元に来世の運命が決まるんだ」

 

男はまたしても、妙なことを言った。

 

「地位や名誉は、あの世へ持って行けない。

もちろん、金品財宝のような物体もすべて。

いくら現世で大切にしていたとしても、死ぬ時はそこでおさらばさ」

 

女は、男の話に一理あるかもしれない、と思った。

 

「経験だけは人間そのものに染み込んでいるからね。

そうしてあの世に行って、来世に生まれ変わるとき、神様が俺たちの持って行った経験を査定するのさ」
「査定?」

 

男の話は、またしても女の理解の及ばない方向へいきかけた。

 

「そうだよ。コイツはこれまでこんな景色を見て、こんな人と話して、こんなことを感じたのか、と見るんだ。それでその人の本当の適性を見極めるんだね」
「適性……」
「ああ、この人は海や山を見た時、本当の自分に還ったような気持ちがする人だったのだな、ならば来世は南の島の漁師の一人娘にしてやろう。

はたまたこの人は、人が好きでお喋り上手だったのか、ならば代々続く老舗漬物屋の長男にしてやろう、なんて具合にだ」

 

女は黙って、男の言葉の続きを待った。

 

「適切に判断してもらうには、現世で様々な経験を積む必要があるのさ。

だから今俺は色んな国へ行き、色んなものを見聞きしているのさ。

俺にはね、時間がないんだよ」

 

女は、ハッとした。
そして女は、手に持っていたチケットを、男に手渡した。

 

「サンキュ!」

 

男は満足気に歯を見せて笑った。


ある日女は、たった一本の電話で弁当屋を辞めた。

特別気に入った小説や詩集を残して、それ以外のものは全て売りに出した。
大した金にはならなかったが、これまで弁当屋で働いて貯めた金とを合わせて、家を後にした。

その後、女がその家に戻ることはなかった。

それどころか女は、たった一人で太平洋を軽々と越え、行方をくらました。

女は、ついに時間を手に入れた。

© 2026 Hinanochi ( 2026年8月21日公開
※初出 note(Nanochi2

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