女には、いつも時間がなかった。
女は、昼間はひと駅先にある小さな弁当屋で働いている。
自分の生活と、娯楽と、将来のための労働である。
それだから、一日も、一時間でも削るわけにはいかなかった。
女は、仕事から帰宅すると本を読んだ。とにかくたくさん読んだ。
インスピレーションを受けると、その刺激を文字に起こした。
女は、弁当屋の店員という以外に、詩人としての生き方にも憧れているのである。
様々な言葉を、手元の手帳にたくさん記した。
インスピレーションは、本以外からも受けた。
仕事から直帰せずに、映画館に行く日もあれば、芝居を観に行く日もあった。音楽を聴きに出かける日も稀にあった。
新作の詩や小説を買いに出かけることもあり、女の毎日は、気がつくと夜深くになっていた。
さらに女は、映画や芝居の影響を受けて、次第に女優にもなりたいと思うようになった。
文章を書くために観ていたはずの作品は、女優になるための勉強という名目に姿を変えていった。とにかくたくさんの作品を観た。
そして女は、海外への憧れも強く持っていた。
いつか家族や友人と、太平洋の向こう側へ行きたいと願った。
そうすると一層、仕事を怠るわけにもいかなかった。
女にはとにかく、いつも時間がなかった。
ある日女は、小さな芝居小屋の前で、浅黒く日焼けをした男と出逢った。
一目では、外国人かと見紛うほどに濃く焼けた肌の、茶色い目の男は女に言った。
「この芝居を、観るの?」
女は突然のことで、頷くことしかできなかった。
すると男は続けた。
「その券、俺に譲ってくれないか?」
芝居小屋の表には、「満員御礼」の看板が出ていた。
そんなに盛況しているとは思えなかったが、小屋自体が小さい所為かもしれなかった。
「嫌よ。明日もここで同じ芝居をやるそうよ。明日またいらっしゃいよ」
女は、片手で持っていた芝居のチケットを、もう片方の手で覆うようにして隠した。
「はは」
男は女のその仕草を見て、笑った。
「なあに、取ったりしないさ。君は可笑しいね」
軽やかな笑い声をあげた男は、周囲の視線を集めた。
「でも、今日でなくてはダメなんだ。明日の朝には、西へ立つからね」
「なら、この芝居は諦めることね」
「それはできないな」
女と男の押し問答は、暫し続いた。
「あなたもしつこいわね、いい加減観念なさいよ」
「嫌だと言ったら嫌だ。俺はその券を自分のものにするまで、ここを動かないし、君のことだって、動かさないよ」
「どうしてそこまでこの芝居に拘るの?」
女には、このしつこい男の相手をするのに疲れて、諦めの気持ちが芽生えてきていた。
「人は死ぬんだ」
男は突然、妙なことを言った。
「なあに、急に。当然じゃないの」
「そうだろう? その時に俺は、この芝居を観なかったことを後悔するんだ。
来世に影響するよ。うん、きっと影響する」
男は言うと、しきりに頷いた。
「なに馬鹿なことを言ってるの」
女はとうとう呆れ果て、チケットを男に譲ろうとしたとき、
「死ぬ時に、あの世へ持って行けるのは経験だけだ。
そして生まれ変わるときは、その経験を元に来世の運命が決まるんだ」
男はまたしても、妙なことを言った。
「地位や名誉は、あの世へ持って行けない。
もちろん、金品財宝のような物体もすべて。
いくら現世で大切にしていたとしても、死ぬ時はそこでおさらばさ」
女は、男の話に一理あるかもしれない、と思った。
「経験だけは人間そのものに染み込んでいるからね。
そうしてあの世に行って、来世に生まれ変わるとき、神様が俺たちの持って行った経験を査定するのさ」
「査定?」
男の話は、またしても女の理解の及ばない方向へいきかけた。
「そうだよ。コイツはこれまでこんな景色を見て、こんな人と話して、こんなことを感じたのか、と見るんだ。それでその人の本当の適性を見極めるんだね」
「適性……」
「ああ、この人は海や山を見た時、本当の自分に還ったような気持ちがする人だったのだな、ならば来世は南の島の漁師の一人娘にしてやろう。
はたまたこの人は、人が好きでお喋り上手だったのか、ならば代々続く老舗漬物屋の長男にしてやろう、なんて具合にだ」
女は黙って、男の言葉の続きを待った。
「適切に判断してもらうには、現世で様々な経験を積む必要があるのさ。
だから今俺は色んな国へ行き、色んなものを見聞きしているのさ。
俺にはね、時間がないんだよ」
女は、ハッとした。
そして女は、手に持っていたチケットを、男に手渡した。
「サンキュ!」
男は満足気に歯を見せて笑った。
ある日女は、たった一本の電話で弁当屋を辞めた。
特別気に入った小説や詩集を残して、それ以外のものは全て売りに出した。
大した金にはならなかったが、これまで弁当屋で働いて貯めた金とを合わせて、家を後にした。
その後、女がその家に戻ることはなかった。
それどころか女は、たった一人で太平洋を軽々と越え、行方をくらました。
女は、ついに時間を手に入れた。
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