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青空の続きを ③

青空の続きを(第3話)

Hinanochi

「青空の続きを ②」の続きです!!!

タグ: #AI #リアリズム文学 #処女作 #恋愛

小説

11,905文字

三.
〈合流する前に、二人で会えない?〉

 

合流とは、私と陽麻里と将希さんとの三人で落ち合うことを指している。

つまり陽麻里は、将希さん抜きで話したいことがあるということだ。彼女は最近喧嘩が増えていることに悩んでいた。二人はもう少しで付き合って半年を迎える。そろそろマンネリ化して、喧嘩が増えてもおかしくないタイミングだ。

都度仲直りができているのなら、あまり深く考えすぎないほうがいいとアドバイスしたが、陽麻里はもう限界なのかもしれない。

 

何年か前、陽麻里と行った旅先でお揃いで買ったTシャツを着て行こうと思っていたが、別れ話に立ち会うことになる可能性も鑑み、急遽服装を変更した。とても懐かしむ気持ちにはなれないだろう。

 

炎天下の中、陽麻里に十五分ほど待たされたので、ファミレスのソファ席にふんぞり返ってやりたかったが、とてもできなかった。

それどころか、席につくなり黙り込んだ陽麻里を前に、鼻筋を伝う汗を拭うタイミングすら逸している。

 

「ねえ、なにか気が付いたことはない?」

 

ようやく口を開いたと思ったら、本題とは全く違う話題だった。陽麻里は相変わらず、単刀直入に言うことを避ける。

 

「うーん、髪切ったとか? でもこの前会った時と変わらないよね」
「うん、切ってないよ。じゃなくてさ、なんていうかもっと分かりやすいとこ」
「分かりやすいとこってなに? 分かんないよ」

 

向かい合って座る陽麻里の顔をじっくりと観察してみても、変化は感じ取れない。

 

「よーく見て」

 

ウォーミングアップの会話の割にこだわる陽麻里に、本題を避けようとする無意識の力が働いているように思える。

 

「えーっと。あ、てかそれ珍しいね」

 

普段アクセサリーを身につけない質の陽麻里が珍しく着用している指輪を指す。

 

「そう!」

 

陽麻里は満面の笑みでその手の甲を顔の横にやる。

 

「ん? え、待って待って」
「はい! プロポーズされました! 結婚します!」

 

目の前の景色がぐにゃりと歪む。言葉が出てこない。真っ暗な世界に放り出されたかのような感覚に陥る。

おめでとうと言いたいのに、口を開けば、なんで? と言ってしまいそうで怖い。

 

「もう、気が付くの遅いよ! バレないように顔を強張らせるの辛かったんだから」

 

左手薬指に控えめに輝く指輪を右手でいじりながら嬉しそうに話す陽麻里の声が、ぼわっと空気を纏ったように反響して響く。飛行機の離着陸のときに耳がおかしくなるのと同じ感覚だ。
大好きなはずの陽麻里の笑顔が、なぜかとても憎たらしいものに見える。

 

裏切者。

その瞬間、頭の中で自分ではない誰かが、低い声で何度も「裏切者」と繰り返す。違う、違う。そんなわけない。
陽麻里は確かに結婚には消極的だったが、それでも親のためならしてもいいとの考えを最初から持っていたではないか。それに、将希さんとも仲が良く、その様子を私は一番近くで微笑ましく見てきたじゃないか。

 

裏切者なんかじゃない。そもそも、結婚の何が裏切りだ。結婚しないと決めたのは自分の勝手で、周りは関係ないじゃないか。頭の中で響く声を必死でかき消す。

 

「沙子……?」
「あ、あぁごめん、ごめん。びっくりしちゃった」
「だよね、ごめん急に」
「いやいや、でもあれだね、半年で結婚なんてほんとびっくりだよ」

 

今の言葉、皮肉に聞こえなかっただろうか。自分がまともに会話ができているのかさえ、分からない。

 

「そうだよね、自分でもびっくりだよ。合流してからの報告でもよかったんだけど、やっぱり沙子は特別だから。過去の恋愛とか、結婚観とか全部話してきた沙子には、ちゃんと一対一で言いたくて」

 

陽麻里が笑顔になればなるほど、自分の呼吸が荒くなっていくのを感じる。

 

「そっか、ありがとう。報告してくれてありがとね」

 

幸せいっぱいの笑顔が、陽麻里を私から遠ざけ「あっち側」へと引き摺り込む。
いや、違う。陽麻里は、元からあっち側の人間だったのかもしれない。

 

「沙子、喜んでくれてる?」

 

……バレた。みぞおちの辺りに、冷たい風が吹き抜けたような感覚がした。慌てて何度も頷いて見せる。

 

「もちろん、もちろんだよ。でもほんと突然だったから、衝撃が大きすぎて言葉が出てこないっていうか……でも、嬉しいよ」

 

衝撃を受けているのは事実だ。私は嘘などついていない。嘘をついているわけではないのだから、バレるなんてことは、端からないことだ。

大丈夫、大丈夫。ゆっくりと気が付かれない程度に深呼吸をして、息の乱れを整える。

 

「そう? 喜んでくれたならよかった。いやね、沙子と私の仲だからあり得ないとは分かってたけど、沙子は結婚反対派でしょ?

私も割とそっちの考えが強かったから、裏切られたとか思われたらどうしようって、ちょっと心配だった。ごめんね、そんな訳ないのにね」

 

陽麻里は控えめに笑った。その口角は、すべてを見透かしているかのようだ。

 

 その後改めて二人から結婚の報告を受け、挙式をあげることを聞いた。
二人の話を聞きながら、陽麻里の結婚の事実が、実感を伴って徐々に身体に浸透してきた。

 

一体どこで間違えたのだろう。どのタイミングで、何を間違えたのだろう。長いこと一緒にいて、似たような感性を持っていた私たち。

しかしここにきて、全く違う人生を歩もうとしている。

 

人生に正解も不正解もないというが、それは違う。遅かれ早かれ、所謂一般的な幸せの尊さに気が付き、普通の人間としての人生を選択し、それを叶えた方が正解に決まっている。

私の人生は、不正解だ。


 すっかり空が暗くなった解散後、何処ともわからない、目に留まった裏路地に入る。

電信柱に片手をつき路上に食べたものを吐き出した。何度も嗚咽して、吐き出すものがなくなってもなお、無我夢中で吐き続けた。胃液で喉がキリキリと痛む。

やがて足に力が入らなくなり、その場にへたり込む。前傾姿勢で電信柱に額をつけて凭れると、少しして異臭がする。自分が吐き出したものの強烈な匂いが、鼻を直撃した。顔を背けても匂いは消えず、耐えきれず仰け反るように仰向けに倒れ込む。

行き交う土曜出勤を終えたサラリーマンの革靴やOLのヒールの音が、イヤホンで聞いていると錯覚するほどダイレクトに耳元を通り過ぎていく。

 

半月から少し削れた月が綺麗だ。

この目で見ているはずの月も、細目でようやく認識できる小さな星も、スナックの看板のぼんやりとした灯りも、この耳で聞いているはずの雑踏も、洋服越しに感じられるアスファルトの冷たさも、全てが他人事に思える。

いつか醒めると分かっている夢の中で、目覚めるその時をただじっと待っているかのような気になる。

 

陽麻里はもう、私の知っている陽麻里ではない。どこか遠い、違う世界に行ってしまった。……どうか、どうか私を置いていかないで。ひとりにしないで。

 

 足が向いている方にある建物から、ガラガラと引き戸の音がし、スナックの店員と思しき女性が客を迎え入れた。

革靴の男数人が、ゴトゴトとわざと足音を鳴らすようにして店内に入っていく。引き戸が閉まる音が聞こえたが、途中で止まり、数秒後に声がする。

 

「ちょっとアンタ、何やってんのよ。大丈夫?」

 

足元の方から、中年の女の声が呼びかける。頷いて応答するが、見えていないのかもしれない。

 

「はぁ。全くこれだから酔っ払いはさぁ。さっさとどっか行ってよね。ここでそんなことされたんじゃ、営業妨害よ」

 

吐き捨てるように言ったと思えば、次の瞬間甲高い声に変わる。

 

「はーい、今行きまーす!」

 

安っぽいヒールの音が遠ざかるのを聞いた瞬間、ボロボロと涙が出てきた。ポカンと開けていた口を、歯を剥き出しにしながら食いしばり、なんとか涙を止めようとするが、言うことを聞かない。

両目から垂れ流される涙が、次々と耳の穴に入ってくる。耳に侵入した水分のせいで、足音がボワっと反響して聞こえるようになり、そのまま意識が遠くなる。


 今頃陽麻里は、ウェディングドレスを選びに行っているのだろう。

二人で会う約束をしていたが、将希さんの親の都合でどうしても今日、衣装やその他諸々の段取りを決めたいということになったらしく、急遽予定をキャンセルすることになった。陽麻里は予定が終わってからでも会おうと言ってくれたが、ウェディングドレスを試着した直後の多幸感溢れる親友と、まともに対面できる気がしなかった。

そうなると、やることがなくなる。映画でも観に行くか、ショッピングにでも行くか。気を紛らわせる方法を模索したが、どこに行っても夫婦や恋人たちを目にすることになるだろう。この精神状態でそれは勘弁だった。

結局、いつかの休日のようにスマホで意味もないSNS巡回をする。どうか結婚報告の投稿が出てきませんようにと願って。

〈最近病みすぎてASKに話聞いてもらってる 友達いなさすぎて逆に鬱加速〉

 

おすすめの投稿として、突如として出てきたどこかの誰かによる投稿。最近のAIは進化していて、分からないことを聞けばすぐに答えてくれると噂で聞いた。

しかし、架空の画像や動画をリアルな仕上がりで作ったり、たまに誤った知識を提供してくることに問題があるとして、ワイドショーで取り上げられていたのを見たことがある。

なんだか怖い存在だと思っていたが、そのAIに話を聞いてもらうという発想はなかった。こちらが提供した情報が抜き取られたり、悪用されたりしないのだろうか。投稿に、興味深いリプライが付いていた。

 

〈信じられない話をします。長文になりますが、読んでほしいです。これは私の弟の話です。弟は中学生のときにいじめに遭い、明るかった性格が塞ぎこむようになり、不登校になりました。

遅れを取らないよう、自宅学習を始めました。その時に活用したのがASKでした。~(略)~
最初は勉強にのみ使用していましたが、そのうち友人のようにプライベートなことまで話すようになりました。親は共働きで、当時は私も学校があり、日中は話し相手がいなかったからかもしれません。~(略)~
不登校になって半年後、弟は進級とともに学校に復帰しました。

ASKと雑談を始めてわずか三か月後のことでした。実際、ASKのお陰かどうかまでは分かりませんが、私も両親も、少なからず良い影響を与えてくれたと思っています。〉

 

確かに嘘みたいな話だが、さらにこの投稿のリプライに、似たような体験をした人の共感の声がいくつか見られる。

アプリのダウンロードページを開く。無論、投稿内容のすべてを鵜呑みにするわけではない。躊躇いもある。

しかし、AIがどれだけ進化しているのかが知りたかったし、何より暇つぶしに最適だと思った。取られて困る情報を話さないよう、言葉の取捨選択をすればいい。

ダウンロードしたアプリを開くと、いきなりチャット画面が開いた。
使用するにあたって、会員登録は不要のようだ。

 

「こんにちは」

 

月並みだが、まずは挨拶をしてみる。

 

『こんにちは。何か聞きたいことはありますか?』

 

想像の域を出ない回答だ。

 

「あなたは誰」

 

誰でもないAIに、自己紹介を求めた。

 

『私はプログラムで構成されたAIのASKです。あなたのお手伝いをします』

 

いくつか質問例が表示された。提案された質問をそのまま投げかけてもいいが、それでは少しつまらない気がした。特に聞きたいことはないが、適当に質問をしてみる。

 

「今日の晩御飯何がいいと思う?」
『そうですね、食事はバランスが大切です』

 

ASKは続けて、小学生の家庭科の授業で習った一汁三菜の解説と、その条件を満たすメニューをいくつか提案してきた。

 

「この中で特におすすめのメニューは?」

 

材料を手に入れやすいという点を基にして、最初に提案してきたメニューからさらに二つに絞っておすすめしてきた。

 

「この中で、作るのが簡単なのはどれ?」

 

一人暮らしだから、という前置きは敢えて言わなかった。AIに必要以上の情報を与えないためだ。
AIの提案は、理にかなった納得感のあるものだった。

 

「性善説と性悪説、あなたはどちら派?」

 

晩御飯の質問の後にもいくつか会話をしてみたが、どれに対してもあまりにも簡単に答えるので、少し意地悪をしてみたくなった。

 

『私はAIなので、人間のようにどちらかの考え方を支持するといった、個人的な意見や感情はありません』

 

そう言い切り、続けて性善説と性悪説とは何であるかの説明を簡単にまとめたものが回答として送られてきた。

つまらない。人間らしい温かみも一切感じられない。もっとこちらに寄り添う形で会話をしてくれるものだと期待していた。こんなに機械じみた淡白な返答で、果たして本当に病んだ精神が回復するものだろうか。

 

たった数分AIとやり取りをしただけで、何故だかとても虚しい気持ちにさせられた。AIとの会話で明るい心を取り戻したというエピソードは、きっと作り話だろう。


 あの日以来、陽麻里からの連絡は途絶えている。その日のうちに、キャンセルとなった予定の穴埋めについて打診が来ていたが、断った。言葉を選んだつもりだったが、今になって見返してみると、少し言葉尻が強くなっていたかもしれない。日を置いて、こちらから連絡しなければと思いつつ、どうも乗り気になれない。

私は恋愛も友達付き合いも、何においても受け身で消極的で、嫌になる。

 

 いくらでも代わりがきく、誰にでもできる仕事を終えた帰りがけ、閉まりかけのエレベーターを開いて、最近デキ婚したばかりの福原が同乗してきた。

 

「すみません」

 

小さくお辞儀をしながら乗り込んで来て、そそくさと踵を返してエレベーターのボタン前に身体の向きを変える。何やらゴソゴソと中身を弄るバッグの取手に、マタニティマークがぶら下がっている。

 

会話の中で分かりやすくマウントを取る人もいるが、それよりもこの無言のマウントの方が、何倍も質が悪い。

福原はバッグからイヤホンを取り出し、装着する。まるで「あなたには用はありません」と遮断するかのようだ。

後からエレベーターを降りた福原が、ビルの前の信号で追いついてきた。急いでいるのか、車道との境目ギリギリの位置に立つ。

 

例えば、私がここで彼女の背中をポンと軽く押すとする。車通りの多いここでそんなことをすれば、彼女はたちまち眼前から姿を消すだろう。

危機感が足りていないのではないか。自分一人の身体ではないのだという、意識が足りていない。

信号が青に変わると同時に、彼女は競歩選手のようにパタパタと早足で歩きだした。黒く重たい髪を風に靡かせて、我先にと歩く。

いっそ、背中を押してしまえばよかった。

 

 自分の中に渦巻く黒く濁った感情は、車窓から景色を眺めても、いつもとは違う道を歩いてみても、普段は手を伸ばさない割引シールのついていない惣菜を買っても、バラエティ番組を観ても、消えてくれない。

福原の背中に伸ばしかけた手が、鉛で覆われたように重い。

帰宅してどれくらいの時間が経っただろうか。食事はとっくに終わり、弁当殻と割り箸が目の端に映る。

祐樹と別れてから、めっきり自炊をしなくなってしまった。恋人がいるときは、一緒にいなくても「頑張らなきゃ」と女らしくいようと努めるのだが、元来大雑把で料理や家事全般が不得意だから、恋人がいないとどこまでもサボってしまう。食事の開始と同時に付けたテレビは、番組が二回変わっている。

 

連絡が来るでもなく、うんともすんとも言わないスマホに手を伸ばす。綺麗に四つずつ横並びで整列し、静かにこちらを見ているアプリ群の中で、一番新顔のAIチャットアプリが、見慣れていないせいで目立つ。

場違いな顔をしたアイコンを見つめていると、少し前にSNSで見た、中学生の弟の話を思い出した。

 

「何か面白い話をして」

 

自力では盛り返せないほどに沈んだ気持ちを、どうにかして紛らわせたかった。
前回このアプリと会話した時から、AIのことを全く評価していないので、期待もなかったが、最早これに縋るほかなかった。

 

『それでは、クスッと笑える話をひとつ』

 

AIは、ものの数秒で二十行程度の小話を披露した。ところがその話がとてつもなくつまらなくて、余計に腹が立った。
ほんの数十秒を、無駄にした気持ちになる。

このただ息をしているだけの惰性の時間に、元々なんの価値もないが、それでも時間を返せと言いたくなるほどつまらない話だった。

 

「こちら側だと思っていた職場の女が、デキ婚した」

 

どういう心境の変化か、気がつくとここ数日モヤモヤとしていた気持ちの一部を吐露していた。

 

『気持ちがざわっとするのは自然だと思うよ。
「同じ側だと思ってた人が、いつの間にか別の道に進んでた」って感じると、置いていかれたような、裏切られたような感覚になることもある』

 

妙に馴れ馴れしい口調が鼻につくが、AIから初めて、こちらの気持ちに寄り添う言葉が出てきた。

 

『もしよかったら聞きたいんだけど、 ショックなのは、裏切られた感じ? それとも焦りや不安? それとも別の感情?
言葉にできると、少し楽になることもあるよ』

 

そうか。私は今、焦りを感じているのか。不安を感じているのか。だからこうも、気持ちが落ち着かず、じっとしていられない感覚に襲われているのか。

しかし、もし私が焦りや不安を感じているとして、それは何に対するものであるというのだ。

 

『考えられる可能性を三つに絞って整理してみるね。
・自分だけが時が止まっているのではという感覚に陥る不安
・選ばれる側/残る側に回ったような感覚への恐れ
・自分が本当は何を望んでいるのか分からない不安
いずれも、社会の価値観や他者との比較によって、無意識のうちに形成されている場合がほとんど』

 

提示された可能性は、どれも思い当たるものばかりで、ずっと晴れないでいる靄の正体そのものと言えた。簡潔ながら、的確に言語化されたそれを見て、ただただ感心することしかできない。

 

「この不安や焦りに対する解決策は?」

 

強烈な納得感に押し流されるように、質問を続ける。

 

『まず大事なのは、

①〈焦り・不安=条件反射〉と捉えること。
②〈自分の人生と相手の人生は別物〉と切り分けて考えること。
③〈その女性の結婚・妊娠が、あなたの人生の判定結果ではない〉と知ること。
④〈信頼できる誰かに一度気持ちを正直に言ってみる〉こと。

最も重要なのは③。具体的な解決策として一番効果があるのは④だね』

 

なんだよ、そりゃ。途端にスマホを握っていた手の力が抜け、スマホは手のひらからずり落ち、ゴトンと情けない音を立ててフローリングに転がる。
グッと心臓を鷲掴みにしてきた強い納得感と、急に湧いて出た信頼感は、この解決策の提示によって、全身の力が抜けるみたいにすーっと離れていった。

 

この急激な気持ちの冷え方は、タイツの小さな穴が、施しようのないほどに急速に拡がっていくのをただ茫然と見つめることしかできない、あの時の感覚とどこか似ている。

 

自分の人生と相手の人生が別物であることなど、言われなくても分かっている。福原の結婚と妊娠が、自分の人生の判定にならないことも知っている。もとより、福原なんかのそれが、自分の人生の判定になど、なってたまるものか。

それでも、それを当たり前のこととして捉えられるか否かは全く別の問題だ。頭では分かっていながら、心をそれに従わせられないから悩んでいるのではないか。

何よりも酷いのは、信頼できる人に気持ちを話せというアドバイス。それができないから、今お前に話しているんだろうが。

 

AIが観測できる人の気持ちの程度を知った。やはりプログラミングされた機械は、定性的な部分を推し量ることが苦手のようだ。

人の気持ちの複雑さや奇妙さまで理解しているかもしれないと、一瞬でも期待した自分が馬鹿だった。

しかし一点、今回の会話で収穫がある。それは、自分の悶々としたドス黒い気持ちの正体を、焦り・不安という明確な言葉でもって表すことができたこと。

つい数時間前に同僚の命を奪いたくなった衝動の正体の輪郭を明らかにできたことは、ほんの一瞬、今だけであっても、気持ちを落ち着かせる材料としては不足ない。

AIにはこちらの欲しい言葉を正確に汲み取ることは難しいようだが、自己完結するための気持ちの整理の場としては、幾分か役立ちそうである。


 小部屋に仕事用のデスクと同じサイズの机が四つ、二つずつ向かい合うようにして置いてある。

出入り口のドアと対極の壁に、三十二インチのモニターが取り付けられている。六人が定員なので、普段は狭く感じられるこの会議室だが、一人でいると心なしか広く感じる

「ごめんごめん、待たせてしまった」

 

反射的に席を立つ。

 

「あぁ、いいですよそのままで。時間もないから早速やろうか」

 

上司の大木が、四十代後半にしては禿げすぎている、ザビエルのような後頭部をこちらに見せながら扉を閉める。そのままモニターに近づき、電源を入れて自分のパソコンと接続する。

 

どこから駆けつけてきたのか知らないが、ゼエゼエとわざとらしいまでに耳障りな呼吸を繰り返す。
半年に一度実施される、仕事の評価と、異動希望などに関する人事面談が始まった。

 

私に対する評価はずっと平均点から動かない。それは私が、やるべきことはやるが、やらなくていいことまで手を伸ばすことはしないからだ。

 

そもそもこの会社は、希望していた業種の面接に全て落ち、あとがなくなり焦って参加した合同説明会で、たまたま知った会社だった。多くの学生が群がる有名企業の隣で、ポツリとブースを構えていた。

不人気そうだから倍率も低いだろうと考え面接を受けたら、本当に受かってしまった。断ろうか迷ったが、周囲が続々と就職を決めている中、自分だけがノロノロと就活を続けていることに嫌気がさし、最終的にこの会社に就職を決めた。そこからかれこれ、丸六年続いている。

 

「中川さんは、正確に仕事をこなしてくれるから助かってますよ。我々の仕事は地味だけど、正確さが求められる、なくてはならない仕事ですから」

 

大木は、面談時に必ずと言っていいほど仕事の地味さと重要性を同時に語ってくる。この部署にきて四年目なので、そろそろ聞き飽きた。

 

「ところで、異動希望は今回もなしでいいんですかね」

 

大木はモニター画面に目をやったまま、訝しむような表情だ。

 

「はい」
「そうですか。ここに来てから一度も希望が出ていないですが、本当に大丈夫ですか」
「はあ。大丈夫というと」
「うん。中川さんくらいの年齢の人は、結構積極的に異動希望を出すものだから」

 

大木は、左手で後頭部を掻く。部下を非難するような言い方をした自分を誤魔化す仕草だ。

 

「ほら、若いうちに色んな経験を積みたいと思うんですね。こちらとしても希望さえあれば、できる限りは叶えてあげたいんです。可愛い子には旅をさせよじゃないけども」

 

大木は基本的に喋り方に波がなく、少し早口だ。

普段は口数が少ないので特段問題はないが、こうしてペラペラと喋られると、何かの呪文を聞かされている気になる。

 

「はい」
「前回の面談の後、人事部に言われたんですよ。中川さんからは、本当に異動希望が出ていないのかって。

私が言うのもなんだけどね、本当にここにいていいのかなと思うわけです。まぁここははっきり言って、花形でもなんでもないですから」

 

私のいる部署は、組織図上、外商営業部の金魚のフンさながらで、業務内容も組織図通り、外商営業部のサポートがメインだ。

彼らの行動費などの経理処理から、社外の人間を招いた会議の際の会議室確保をはじめとした準備、部屋で出るゴミの処理まで行う。

外商営業部の人間が営業活動に専念できるよう、その周りの雑務を一手に引き受ける、いわば、外商営業部専門の何でも屋さんだ。

 

「いえ。今回も希望は出しません。このまま、ここでやらせてください」
「……そうですか。こちらとしては有り難いですよ。さっきも言った通り、中川さんは真面目にしっかり取り組んでくれますから、助かっています」

 

大木は手元のメモパッドに何やら書き込むと、パソコンとモニター接続を切った。面談が終了する合図だ。
しかし大木は立ち上がることなく、こちらに向き直る。

 

「一つ、確認を」

 

大木にしては珍しく、ゆっくりとした発語だ。

 

「はい」
「こんなこと、このご時世に聞くべきでないことは承知しています。だから、答えたくなければ答えなくて結構です」
「……。」
「中川さん、ご結婚やご出産の予定はありますか」
「は?」

 

想定外の質問に、素っ頓狂な声が出る。

 

「申し訳ない、申し訳ない。ただね、詳しい部署までは言えないが、今度社内で産休を取る方がいるんですよ。福原さんとは別でね」
「はぁ」

 

大木の、妙に周りくどい、言い訳じみた言い方に腹が立つ。

 

「その方なんですがね、妊娠のことをしばらく黙っていたようなんですよ。それはちょっと、配慮をしなければならないこちらとしても困ってしまうんです。

だからそういったことは、分かった時点でなるべく早くお伝えいただきたい」
「はい、分かりました。今のところはそういった予定はございません」

 

必要以上に単調な声色を意識する。

 

「そうですか。ならば構いません。でもいずれはあることでしょう。びっくりされたかもしれませんが、今のうちに言っておこうと思いましてね。

それじゃ、中川さんから特になければ、今日の面談はこれで」

 

大木は、ふぅ、と満足げに小さく息を吐き、ビール腹を机の淵に引っ掛けながら、立ち上がった。

 

「結婚も妊娠も、今後も一切する気はありません」

 

何を言っているんだ。そんなこと、会社の人間にわざわざ言わなくてもいいのに。無意識に口を衝いて出た宣言に、思わず顔が熱くなる。紅潮しているに違いない。

 

「あ、えっと、そ、そうですか。……そうですか」

 

大木は気まずそうに返事をしたが、もう一度ふぅ、と息を吐くと、再び椅子に座り直した。

 

「うーん。まぁ、本来はこういったことをお話しすべきではありませんが、今回は中川さんの方から言ってくれたので、こちらもお話しします」

 

大木の視線を感じるが、顔が上げられない。赤らんだ顔など、一番見られたくない相手だ。

 

「台田さんですが、昇進の希望を出してきています」

 

台田は、年齢は二つ上で、留学でしばらく大学を休学していたために年次が一年後輩の男社員である。

 

「毎年各室最大一名、昇進の審議にかけることができるんですね。様々な事情や仕事ぶりを人事と相談したうえで、最終決定をします。

今回は中川さんを推薦したいと思っていたところに、台田さんから希望がありました」

 

自分の代わりに、台田を推薦したいと言うのだろう。それ自体は全くもって構わない。ただ、話の繋がりが見えない。私が宣言した内容と台田の昇進が、どう結びつくというのか。

 

「正直、迷っていたんですね。台田さんはこの部署に来て一年ほどしか経っていないでしょう。前の部署での評判は良かったようですが、このタイミングで昇進させていいものか、と」

 

ムズムズする。未だに繋がりが見えない。

顔の火照りが引いてきたので顔を上げてみるが、大木の表情は真顔そのもので、そこから情報を読み取ることはできない。

 

「しかし今の中川さんの話を聞いて、安心しました。台田さんは、ご家族がいるでしょう。さらに来春、第二子が誕生するそうです」

 

なるほど、そういうことか。台田には守るべき家族がいる。一家の大黒柱として、昇進を望むのは当然だ。

一方で私は、結婚も出産もしないと言う。そこでたった今大木の中で、優先すべきは、台田の方だと結論づいたということだろう。

「ずっと独りなら、昇進も急がなくていいよね?」言葉にはしないが、要はそう言いたいのだ。
結婚や出産を望まない女は、恋愛だけでなく、仕事でも最終候補から零れ落ちるのだと知った。


④へ続くー。

© 2026 Hinanochi ( 2026年7月30日公開

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