指窮於爲薪 火傳也 不知其盡也
指を薪と為すこと窮(きわ)むれば、火傳(つた)わりて、その盡(つ)くるを知らざるなり。
(火が消えそうなときは)その指先を火に近づければ、火は伝わって、消えることがない。
――――荘子
ヴェクサシオンはエリック・サティの書いたピアノ楽曲であり、憂鬱で難解なメロディーが八百四十回くりかえされる。きちんと演奏しきるには長いながい時が必要だ。しかし果てしなくはないだろう。ところで、この小説はメタフィクションである。つまり書いているわたしが読んでいるともいえるし、読んでいるあなたが書いているともいえる。
『ヴェクサシオン』は言葉によるいくつもの断章からなりたっている。読者は断章同士の関連を気にしてもいいし気にしなくてもいい。
ようこそ、『ヴェクサシオン』の世界へ。
さっそくで悪いのだが、まずは、私の独り言を聴いてはくれないだろうか? なんだって? 時間がない? いや、ほんの少しの間だけで構わない。たぶん、五分とかからないさ。けして、〝お暇な読者よ〟――なんてことは言わない。今は、そういう時代だ。
それはそうと、私は今、おかしなことを諸君に頼んでいる。『独り言を聴いてもらう』――これは、明らかに矛盾した言葉の表現ではないか?
そう、それこそが私の悩みなのだ。
私の頭から常に次のような疑問が離れない――なぜ、人は時に矛盾した表現をするのか? 特に言葉の領域で……。
そして、それがこの小説の主題だ。
世の中には実際に〝心地良く退屈な音楽〟があり、〝胸のすくほど下手くそな絵画〟がある。しかしながら論理というのは矛盾を許さないから、言葉も必然として矛盾を許さない。つまり〝魅力的なほど胡散臭い小説〟などありえない。そのはずだ。
だが、ありえないと言われていることに情熱を費やすことでしか発展はない。人類の悲願とは竟に〝完全に矛盾した矛盾〟を自らの手で創り上げることではないか?
たしかに〝神々しいほど不気味〟だとか、〝明確に意味不明〟だとかいった概念を表現するには、非常に長い時間と労力が必要である。この小説に読者がそのような矛盾した感慨を抱いてくれるかどうかはわからない。解釈は諸君に任されているということは言うまでもない。
ただ、〝無理難題に対して努力する〟という命題自体は、けして矛盾ではないだろう。それが矛盾だとしたら、人類の歴史そのものがすべて矛盾にまみれたものということになってしまうではないか?
そんなはずはない。少なくとも私はそう信じる。堕落した皮肉屋ではないから。かといって達観した覚者でもないから。上から見下ろしても、下から見上げても、どちらにせよ、世の中は正しく見えない。もちろん、正しく世の中を見ることが必ずしも人生の目的なのではないが。〝独自の視点〟という賞賛の言葉もあるにはある。それに、……。
おっと、話が脇にそれてしまった。私の悪い癖だ。
結局のところつまり、この小説の主題は矛盾しており、錯綜しており、恐らくは破綻しかかっているだろう。多少、あるいはひどく馬鹿々々しい筋立てもあるかもしれない。登場人物が何を言っているかわからない場合もありえる。しかしそのことが、まさにそのことこそが、この小説の本当に表現したい事柄なのだ。是非ともそこを諸君にも理解していただきたいのである。どこから読んでもいい、どこで読みおえてもいい……。
さて、独り言はここまでとしよう。なんにせよ、この小説は一つの試みである。そう、賽の目は投げられた!
第一章
*
えらい神様、よい天使、わるい悪魔。
子供の頃は、この世界に様々な神秘を感じていたものだが、今になって思うと、神秘などというものはこの世に存在しないのかもしれない。子供の頃感じた神秘とは、ただ認識の誤謬から生じたものだったのではないか? 未熟な、無垢な魂の見せる幻。永遠に美しい、幼き日の夢。
――しかし、〝大人〟のそうした認識も、やはり誤謬でしかないのかもしれぬ。なぜなら、大人もまた、神や天使や悪魔を心のどこかで求めている。求めているということは、それがどこかに存在するはずだ!……そうではなかろうか? 存在しないものを求めるほど、大人は愚かではあるまい。それとも、やはり愚かだとして、その愚かさこそが、やはり人間の証だとでもいうのだろうか?
「我々は我々の認識の真偽など、永遠にわからないし、また永久に審議すべきではない。たとえそれが幻想だったとて、現実であったとて、いったい何の意味があろう?」という声がある。
「歴史とは、我々の認識を広めるための、そしてまた、確かめるための闘いの記録であった。それはけして無駄ではなかったし、また忘れてはならない」という声がする。
はたしてどちらが正しいのだろう? おそらくどちらもおおむね正しいことは正しい。そしてやはり、どちらも同じ距離だけ真実から遠ざかっている。もしもどちらか一方を選べと言われたら、私なら、双方を否定するだろう。これは一体全体、重大問題なのだ。そう簡単に決着のつく問題ではない。
〝我々は我々に知られていない〟――ある哲学者が遺した言葉である。我々は我々自身をこそもっとよく認識すべきではないだろうか? たとえそのことによって、永遠に苦しみ続けることになるとしても!
……そこまで思索を拡げたところで、彼は我に返った。考えがまとまらず、うなだれていたら、いつの間にか眠ってしまい、夢を見ていたようだ。
「まったく、おれらしくもない夢だったな、すこぶる無益で、すこぶる高尚な! なんだって夢なんか見る必要があるんだ? 神? 天使? おまけには、悪魔だって? けっ、笑わせてくれるもんだぜ、ほんとに! おれは神なんて信じちゃいねえし、求めてもいねえ、天使だって、もちろん悪魔すら信じてねえんだからな、まあ、悪魔を求める心はもっているかもしれないがな!」彼はそう独りごちた。
ただ、彼の頭の中には、夢の中で聴いたある一つの言葉が響いていた――『我々は我々に知られていない』。
自分でこの場所に来ることを選んだにもかかわらず、彼――『宮田望(のぞむ)』は、自分がなぜここにいるのか見当もつかなかった。
彼はそれほどの不安と焦燥に襲われていた。悪霊に取り付かれたかのように、ひどく風邪をこじらしてしまったときのように、あるいはひどく長くてつまらない推理小説を読んでいる最中のように、なんのためにこんな無駄な時間を過ごしているのか見当もつかず、彼の全身を不可思議な倦怠が覆っていたのである。
彼のいる部屋は薄暗く、そう広くない、何の変哲もない部屋だ。隅には、からからに乾いた観葉植物が入った白い植木鉢が置かれており、彼はその層をつくりながら中空へ細長く伸び絡み合っている、無数の瀕死の葉に目を向けていた。部屋のもう一方の隅に置かれた、木製で古びてはいるが、案外にしっかりとしているうえ、細かく編み込まれた背と、座と一体になった毛布団が心地いい、ほとんど装飾のない茶色の四脚椅子に陣取って、ずいぶん長いことそうしている。時たま外の様子もうかがうのだが、窓からはけして美しいとはいえない、ぼんやりとした景色が広がっている。曖昧な輪郭線、子供が絵具で無邪気に塗りたくったかのような色彩……そこには彼の心を楽しませるものがなにひとつない。
《風景、か! このとりとめないもの!》彼は思った。《なんでも、愉快な時とか、落ち込んでいるときとか、風景もその機微にしたがって、恐ろしく変わってしまうそうだな。ふん! いったい、誰がそんな風に決めたというんだ?……ひょっとして、おれのこの陰鬱な精神がお外の風景も暗くしちまっているのかなあ?》
彼は、独りで何時間もそうして不毛な問答を続けているのだ。それが彼の心の慰めであり、また日常的に行っている遊戯の一種らしかった。
宮田が本当に興味をもっているのは、隅の観葉植物の方だった。
《はてさて、これなる植物はいったいなんぞ? おれにはどうしてもこのオモシロい形をしているやつの名前が知りたいんだけどなあ。確か、ここからずっと遠くの方から持ってきたらしいけど! どうしても思い出せないし、知らないな……ちぇっ! 駄目じゃないか、これじゃ……そうそう、大事なのは教養! 本当に大切なものです。ある詩人がこう言ってたっけ、『教養をつければつけるほど……それだけ永遠に近づく、それだけ犬から遠ざかる』、永遠、か! 悪くない。でも犬なんてごめんだ! おれだって馬鹿じゃない、なんにせよ一度覚えたら、きっとそう易々とは、いや、二度とは忘れないはず……》彼のとりとめない思考はまたそこでぷッつりと途切れてしまった。そしていきなり大きく貧乏ゆすりをはじめた。無機質な音が部屋の隅々まで響いた。
このあたりで彼、宮田望の外見を素描(スケッチ)してみよう。
まず、特徴的なのはその髪型である――子供が消火(け)し損ねて大きくなりすぎた焚火のごとく逆立っており、さらに毛髪の若々しい黒さは深い苦悩の刻まれた皺のある額と対照的で、彼の年齢をいささか計りがたくしている。その額に繁る眉は下のほうがぎざぎざに波打っていて、対になった様はまるで蝙蝠の羽のようである。ぎょろぎょろと油断なく動く目玉、インクを落とした染みのような黒い瞳。鼻はハイヒールの踵のように高く尖っており、これが彼の国籍を推しがたくしている。横長の唇はルージュを塗ったように真っ赤であり(もちろん彼は化粧などするような種類の男ではなかった)、その間から折に触れちらちらと垣間見える歯は意外にも磨き抜かれて輝きさえ放っている。口元や顎に髭もなく、縦長のその輪郭も鑑みれば、十分整った顔と見なすこともできそうだが、よくよく観察してみると、実物というより、我々が頭の中で把握した部分(パーツ)たちが、我々の空想のなかでその髪にしろ、瞳にしろ、唇にしろ、そして歯にしろ、それぞれ妖しく、勝手に主張を始めてしまうので、これは整った顔であるという整った意見が、どうしても肯定できないという、いわく度し難い顔(かんばせ)の持ち主であるこの男は、それを知ってか知らでか、自身の顔を最も平凡な種類のそれであると決めつけていた。
彼にとって顔は苦悩や諧謔を閉じ込めている下水の蓋に過ぎなかった。それを開けば、たちまち禍言が飛び出すパンドラの箱であった。
誰かがその体格から彼の職業を類推するとしたら、おそらくある程度、もしくは相当の肉体的な労働を必要とするものである、と考えるだろう。そう断定できる根拠が彼の身体にはあった。肩幅はやや広く、胸板は厚い(彼のすこし濁ってはいるがおおむね聞き取りやすいバリトンは、この堅固なゆるぎない構造からつくり出されるのらしかった)。彼が裸体を人前で見せることは決してないが、もしもそのようにしたならば、上等な筋肉質の肉体を認められよう。長い手足は鞭のようにしなやかで(先ほどまで、この鞭をだらしなくぶらぶらと揺らしながら熟睡していたのであった)、太い指は掴んだものをけして放しそうにない。その指はいま、なにかを求めるように執拗にうごめいていた。
少々着古した黒い上着に紫色のネクタイ、膝のあたりが擦れて色褪せている黒ズボン姿のこの男は、そういった服装や履いている革靴からすると一見、平凡なサラリーマンのようにも思われるが、それにしては指輪や腕時計の類(たぐい)を一つも身につけていなかった。
彼は人を待っていた。それは家族ではない、友人でもない、ましてや恩師などでは絶対になかった。
人を待つということがこれほど悩ましいものであるということに、宮田は、ようやく、初めて気づかされたのであった。自らの〝時間〟を、他者の〝時間〟に内包せねばならぬとは! それは横暴で傲慢で不器用なこの男にとって、全くの苦痛であった。
机の上には砂時計が置かれている。砂時計、時を流動的に測る装置……。
砂時計が時を計る唯一の手段だとしたら、世界はなんと美しいものであろう。砂は零れ落ちて、その一つぶ一つぶが、世界を分割する。一つぶ一つぶに、分割された世界が刻印されている。砂時計こそ、刹那をもっとも純粋に保つ戒律である。
世界が果てしなく分割され、また、それらが余さず砂粒に刻印されたかのように思われる、ながいながい時間がたち、ついに、扉をノックする音が聞こえた。
トン
トン
トン 三回。
「いちいち確かめなくてもいいだろう。どうせおれしかいないさ、入りたまえ」
宮田は扉に向いぶっきらぼうに言った。
丁寧に扉を開けて入ってきたのは、背が高く、多少痩せた(しかし決して病的とは言えない)、物静かな感じのする男だった。
さて、こういった種類の人物をどのように形容するべきだろうか? 確かにそこに存在しているのに、妙に実体感覚のない、幽霊のような人物を――彼は大きめの黒い山高帽を深く被っており、一本の頭髪も帽子の縁からのぞいていなかった。眉毛はとても細く、怜悧な鋭い眼をしている。鼻は宮田よりも長くすっきりと伸びており、小さな唇は少し歪な形で、血の気がなかった。話す時もほとんど歯を見せず、つるつるとした白い肌が生気に乏しい(しかしくりかえすが、決して病的と言えるほどではなかったのである)。尖った輪郭は知性的な印象を彼にもたらしたが、むしろ彼の知性が凝固してこのような外見を形作ったのではないかと錯覚させるほど、その顔(かんばせ)は用途の知れぬ人形(ドール)のような、作り物めいた完成品だった。
しかし、たとえば彼の心に、他者に対する愛情があったとして、愛された恋人は果たして彼の表情の一つ一つを愛するだろうか? 愛せるだろうか?……もしも彼が美しいとすれば、彼の美しさには、「寛容」という、誰からも愛される人間の持つ最高の美徳が、ぽっかり欠落してしまっているのかもしれなかった。
つまり、彼にはなにか魅力があるが、どこか愛敬がなかった。そもそも、彼は初めからそんなもの必要としていなかったのだ、といわれてしまえばそれまでであるが……。
宮田は男の前に立った。こうして向き合い並んだ彼らは、はたから見ても十分に釣り合った外見をしていた。この様子を見て、二人が血を分けた兄弟であると思う者もいるだろう。もっとも、その場合、どちらが兄でどちらが弟かの判別はつけ難いだろうが。と同時に、なにか絶対に相容れない、お互いにお互いがその部分だけはどうしても受け入れがたい、そんな要素をもっていることも、二人の醸す雰囲気からどことなくうかがい知れるのだった。
「やあ、すまないね。待たせてしまって」
男は、見た目よりも老けた声で謝った。宮田は舌打ちして低い声で、
「すまない、か! いや、まったく結構、結構! 君が、おれをいらつかせようとしてワザと遅れてきたのを、いちいち咎めるつもりはない。だがね、なによりおれをいらつかせたのは、君が、落ち着いた風をして、丁寧におれに詫びたことだよ。なあ! これ以上に腹の立つことがあるかい? 盥屋(たらいや)」と呻(うな)った。
盥屋と呼ばれた相手のその男――珍しいことに、それが名字らしい――は、微苦笑して答えた。
「やはり、君は相当の天邪鬼だね、宮田。いったい、謝られて余計に怒り出すやつがどこにいるんだい。まったく、君ほどの男が、こんなチンケなことで腹を立ててどうする」
「そう、それが問題なのだよ。自分でも悩んでいるのだがね、このおれの『ごく小さな範囲でのエゴイズム』は、たといひどくチンケなことでも許せないのだ」
「そうかい、そうかい、ならそれでいい。確かに、自分の――ごく小さな範囲でだが――エゴイズムを自覚しているのであれば、どんな天邪鬼であっても、最後には救済されるはずさ。なぜなら、世界はやがて、微小なエゴイズムなど問題にならぬくらいの、巨大なエゴイズムによって支配されるのだから。神が存在するのなら、それが神に違いない。圧倒的な自我の塊。それこそが唯一、私がこの世界の結果として望むものだ。愚かな宗教家やら哲学者やらは私の考えを穢れた舌で侮辱するであろうが、そんなものは犬の唾(つばき)だ。なんら意味などない」
「ほら、ほら、はじまったよ、例の弁舌が!」
宮田はうれしげにその場で跳ねた。
「まったく、君の舌こそ穢れているよ、盥屋。いきなり神を侮辱したかと思えば、次にはあらゆる宗教家やら哲学者やらを侮辱するんだから! それもほとんど意味のないおしゃべりでね! おれが天邪鬼なら、君は詭弁家だぜ。ほんの小さなおれの告白を、あっという間に神への冒涜のだしにつかうんだから! まあ、おれの先ほどの告白の中に若干、神への呪いが含まれていることは、否定しないがね」
宮田はのんきに邪悪な笑みを浮かべた。
「つまり私と君とのつながりはこうなんだ」
盥屋は人差し指を立てながら(このとき、既に二人は向かい合って椅子に座っていた)、
「自我、自我、自我、このけったいな重荷! 重荷なのに、これをどこかに捨てられない私たち。神、神、神、この浅ましき幻惑! 幻惑なれど、なぜか心は求めてやまぬ。これを如何に解決すべきか? 肯定的解決がなければ、否定的解決もまたあり得ない。ここまでは二人とも一緒なんだ、そうじゃないかい?」彼は、せっかく高く積み上げたトランプのピラミッドが、無残にも崩壊する様子を眺めているかのような表情をしながら、そう述べた。
宮田はうなずいた。目は盥屋のほうを見ていなかった。窓の外を見ていた。遠く遠く広がる風景。認識しきれない情報量。すこぶる不快で、すこぶる美しい自然……盥屋の声が聞こえてくる。
「だけどここからが違う。私は他者としての神を肯定する。絶対的な他者としての。つまり私たちのちっぽけな自我など超越してしまうような巨大な、緻密な自我。集合的なものであれ、孤高のものであれ、それは確かに顕現する。歴史の最後のページに」
盥屋は熱っぽい口調で語る。しかしその顔を見ても、人の眼にはあまり昂奮しているようには感じられないところが、彼の性質らしかった。彼は明らかに変人と見做されるような口調で、常軌を逸したことを話している。だが彼の狂気は静かに、彼の内部に沈殿しているのだった。
「ところが宮田、君は違う。他者としての神を許せない。なにがそうさせる?『ごく狭い範囲での君のエゴイズム』がそうさせる。神を信じられない。許せない。だが自我はある。この自我は誰から与えられたもの? 親? 友人? それともやっぱり神? いや、違う、と君は思っている」盥屋は宮田の横顔をまじまじと見た。
「自我を与えたのは己だ。君は、自分が神だと思っている」
「おれが神だと思っているって? 自分のことを? それは……」
宮田は盥屋のほうを向いた。
「まるで面白くないな」
「ははは、面白くないに決まっているさ! 真相とは本人にとって面白くないものだ。わからないかね? 君は認めたくないだろうが、君みたいなタイプの人間は、えてして自分のことを超越者だと思っているのさ」
「ちょっとまった、おれみたいなタイプの人間は、だって?」
宮田は目玉を蛙のようにギョロリと動かした。
「そうさ、わからないかね? 君はまあ、いってみれば、そういうタイプの人間の、わかりやすいモデルなんだな。自我をぶくぶく肥大させて、神をあっさり裏切り、ついにどす黒い権力への意志を芽生えさせたところの」
盥屋はつづける。
「君はある意味ではありふれた人間だ。平凡な人間だ。ただしうまく見つけられないんだな、なかなか。こうした人間はだいたいは脆いからね。……だが君は驚くほど図太い。そういう意味では、君みたいな人間は、ロシアか、アフリカあたりに一人、ことによったら二人いるかいないかの存在なのだよ」
盥屋が宮田を称賛しているのか、嘲弄しているのか、それとももっと込み入った企みのためなのか――たとえば、彼を何かに向かわせるために焚きつけているのか――それは判別し難かった。
「ロシアか、アフリカに一人や二人、だって? こいつは面白いな、のむか?」
宮田は懐から煙草を取り出し、盥屋に勧めた。
「いや、けっこう」
「おれものまない」
宮田は煙草をしまった。
「要するに君は、荒々しい図々しさと、繊細な思想とを併せ持った、変人なんだよ」
盥屋はそう言って笑うと、奇妙な表情をしている宮田を鋭く一瞥し、それから部屋をきょろきょろと見回した。
「失礼、時計は無いのかな?」
「そこに」
宮田は机の上の砂時計を指さした。それが大理石でできている、ごく精緻なものであることは、盥屋にもすぐに理解することができた。
「ほうほう、これは、なかなかいいものだね。……いやいや、そうではなくて、普通の時計はないのかね?」
「ああ、そういうのは嫌いなんでね、置いてない」
宮田は窓の外を見つめながらつぶやいた。
「そうか」
少し驚いたような顔をしたあと、盥屋はすぐに紳士的な微笑を見せた。
『それからは部屋を沈黙が支配したのである。』
……ここまで入力して、キーボードを打つ手が止まる。
なんだか、この小説は、もうこれ以上続ける必要はないのではないか? という気がしたからだ。物語が、もう、なんとなく落ち着くところに落ち着いたような感じがする。それに、登場人物である二人組の男が繰り広げる神やら自我やらの談義に、我ながら、付き合いきれなくなっていたのだ。神? それは君たちをつくったこの私ではないのか。自我? そんなもの君たちにはない。君たちのいる世界も、外面も、内面さえ、私の手によるものなのだから……。
よし、もうやめよう。この小説はここで終了。残念だが、打ち切りだ。もう、次の作品にとりかかろう……次はもっといい作品を……お、地震かな? 今、少し揺れたぞ。本棚から落ちて来やしないかな?
高い本棚に囲まれてはいるが、せせこましい感じはなく、むしろゆったりとした余裕が感じられる書斎。住人はマメな性格なのか、部屋は極めて清潔に保たれている。北側には大きな机があって、その上に一台のパソコンが置かれている。その前には一人の小説家が座っていた。
その人物の名前を『A』という。まぎれもない、この小説の主人公である。
それでは、彼をどのように素描(スケッチ)するべきだろうか?
これといって特徴のない男である――かといって影が薄いということもない。何らかの印象は人に与える人物なのだが……いかんせんそれが「名状しがたい」のだ。
といっても不気味な印象でもなく、かといって底抜けに愉快な雰囲気を醸しているわけでもない。中肉中背、理髪店に行って「おまかせします」と注文したような髪型、貝殻のように丸い耳、くりっとした目玉、そこそこ聡明そうな瞳、本人は形が良いと思い込んでいるが、実際のところなんの変哲もない鼻、そして本人は下品だと思い込んでいるが、人には顔の部分でもっとも上品な印象を与える薄く血色のいい唇、全体としてなにか統一した主張が感じられるわけでもなく、かといって不揃いの、ちぐはぐな印象を受けるわけでもない。
彼が先ほど書いていた小説……その中の登場人物たちなどに比べると、彼が虚構(フィクション)の人物ではなく、現実の存在だとということを鑑みても、やはりあまりにも目を引く魅力のようなところがないし、また「あまりにも平凡すぎて人の目をかわすことができる」ほどには個性に欠けていないところが、彼の最大の不幸かもしれなかった。
たとえば、鷹揚で社交的な人々からは「平凡人」扱いをされ、逆に目ざとく陰湿な連中からは「カモ」にされやすい、といったちょっとした悲劇も彼の風貌からは起こり得た。
もちろん、そうではない可能性、彼にとって幸福な結果をもたらす可能性もなくはなかったが、(これは後で詳しく述べることだが)彼のこれまでの半生は全体として引算(マイナス)の方が多かったとも言えた。
そしてその『小説家A』――いや、彼のことは、今のところ、ある都合上こう呼ぼう、〝神〟と――は大きく伸びをし、『ヴェクサシオン』と題したファイルを保存して閉じると、さっそく次の作品の構想を頭の中で練り始めた。脳内で、とりとめなくもつれ合う、形のない想念が、不規則に繋がっては離れる。創作の前は、いつもこのような状態になる。なにかが生まれる予兆、高まる霊感――――と、不意に、扉をノックする音が聞こえた。
トン
トン
トン 三回。
まったく、誰だ? いい時に。まァ、きっとマネージャーだろう、と神は思った。まずいぞ、まだ碌に原稿もできてない。さて、どう仕事の言い訳をするか? ああ、きっと怒られるだろうなあ……。
「いちいち確かめなくてもいいだろう。どうせ私しかいないさ、入りたまえ」
宮田が扉を開けてぶっきらぼうに入ってきた。
次に入ってきたのは、背が高く、多少痩せた(しかし決して病的とは言えない)、物静かな感じのする男だった。
「やあ、すまないね。待たしてしまって」
男は、見た目よりも老けた声で謝った。宮田は舌打ちして低い声で、
「すまない、か! いや、まったく結構、結構! 君が、神をいらつかせようとしてワザと遅れてきたのを、いちいち咎めるつもりはない。だがね、なによりおれをいらつかせたのは、君が、落ち着いた風をして、丁寧に神に詫びたことだよ。君! これ以上に腹の立つことがあるかい? 盥屋(たらいや)」
盥屋は微苦笑して答えた。
「やはり君は相当の天邪鬼だね、宮田。いったい、謝られて余計に怒り出す神がどこにいるんだい。まったく、神ほどの男が、こんなチンケなことで腹を立ててどうする」
「そう、それが問題なのだよ。自分でも悩んでいるのだがね、このおれの『ごく小さな範囲でのエゴイズム』は、たといチンケなことでも許せないのだ」
「そうかい、そうかい、ならそれでいい――」
「おい、やめろ‼」神は叫んだ。
「やめてくれ。いったい何者なんだ、君たちは? 何が目的で、こんなことをする? そもそもどうやって――とにかく、ここから出て行ってくれ!」
神は、その後も頭が痛い、だとか気が狂いそうだ、というようなことをわめいていた。
その間に宮田と盥屋は顔を突き合わせて何か話し合っていた。そしてふいに盥屋が神のほうを向いて、大げさなそぶりで弁解した。
「おお、神よ、どうかお許しください。我々は、なにもあなたを困らせようと来たわけではない。ちょっと、びっくりさせようと思っただけですよ、あの登場は。我々の精一杯の模倣(パスティーシュ)、なかなか洒落ていたでしょう?」
盥屋はにっこりとほほ笑んだ。
「すると、君たちは、あれか、やはり……」
神は喘ぎながらかろうじて言葉を絞り出した。
「そのとおり。おれたちは、あんたのつくった小説の、『ヴェクサシオン』の中からやってきたのさ。あんたの想像の通りの姿をしているだろう? できれば、もうちょっとハンサムに創って欲しかったな」
宮田は邪悪な微笑を見せた。
「まったく、何回考えても難解ですな、そのタイトルは。もっとキャッチ―でポップな題名は思いつかなかったのですか? 私ならもっとうまいタイトルをつけたな。そうだな……『失われた神をもとめて』なんてどうだろうか?」
「まったく、大した詭弁家だよ、君は! オリジナリティーあふれる、とてもいいタイトルじゃないか! そんなセンスのいいタイトル、フランス人だって思いつかないぜ!」
宮田がゲタゲタ笑い出した。
これは幻覚に違いない。狂っている。何もかもが、狂っている。おかしい。なぜだ。何が原因だ。そうだ、あの小説だ。あの小説を書いてからこんな変な幻覚を観だしたんだ。あの小説をどうにかすれば――――
神はすぐさまパソコンの画面を覗き込んだ。先ほどのファイルを開こうとする。……ない! さっき書いたはずの小説がどこにもない。確かにあったはず……。
「そんなところ探したって無駄だよ。第一、おれたちはここにいるじゃないか、こっちをご覧よ」
「神よ、無駄なことです。なぜなら、『ヴェクサシオン』の世界と神のいる世界は一つになってしまったのですから。熱い餅と餅のように、二つの世界は今、完全にくっついてしまったのです」
神は二人を見た。そしてもう一度パソコンのほうに向きなおった。
「のむかい?」
宮田は煙草を懐からとりだし、神に勧めた。
「いや、けっこう」
神はそういってからなにかに気づき、ハッと息をのみこんだ。
「これは私が小説で書いたことだ! くりかえしている」
「いやはやまったく、傑作ですな! これでは、我々の世界と同じじゃあないですか! それは私の台詞でしょう? あろうことか、神が我々の真似をしておられるように見える。ところで、神よ、なぜ宮田は煙草を持っているんです? 彼は「煙草をのまない」んでしょう。どうしてそんな矛盾を我々の世界にもちこんだのですか?」
盥屋が宮田からもらった煙草に火をつけながら言った。どうやって火をつけたか? 神にはよく見えなかったが、何やら煙草の先を指で揉み始めたらすぐに煙がたちあがった。……
「あれは」
神はふるえていた。なんとか言葉をしぼりだす。
「ただ書きたくて、書いたんだ。もしかしたら、なにかの伏線になるかもしれないし。理由なんて、後からいくらでもつけられる」
神は正直に告白した。
「ほう! それは」
盥屋は煙草をふかしながらうれしそうに言った。
「興味深いですな。まさか、根拠のない、単なる思いつきとはね! 宮田、君のその煙草は、なにか重要な意味をもっているのかもしれない……(宮田はおどけて煙草をさも大切そうに懐に隠した)おっと、まだそれはただの煙草さ、価値はこれからわかる、ここにいる神が教えてくださるはずさ」
「そこらへんにしておきたまえって、盥屋」
宮田は陰気な笑みをうかべながら言った。
「神の顔色を見ろ。我らが神は、産みの苦しみに疲れておられる。そりゃそうだ、とんだ難産だったんだものな! くくく! 神よ、あんたはよくやってくれた。本当によくやってくれたよ。あんたは父にして母、恩人にして仇だ。とても借りを返すことなんてできないね! ……今すぐには。だから、待っていてくれ、近いうちに、また会いに来るから。その時は、おれたちも、こっちの世界の礼儀ってものをもうちょっと学んでいるだろうよ!」
「本当だ。少しお疲れのご様子ですね? これは失礼。ならば、そろそろ消えるとしますか」盥屋は微笑を浮かべて言った。「では、ごきげんよう」小さく礼をして、部屋を後にする。
「ごきげんよう!」宮田もそれに続いて出ていく。
ドアを丁寧に開けて、乱暴に閉める音。
二人の悪魔が去った後、神は部屋を見回した、まだ小悪魔でもどこかに潜んでいるような気がしたから、それこそ隅々まで見回した。増築を重ねている本棚には、大量の、様々な本。大聖堂の設計者の手記、探偵小説のペーパーバック、辞書・事典のたぐい……そして、つい最近読み終わった、セルバンテスの『ドン・キホーテ』、ちょっとだけ読んだ、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、まったく全然読んでない、プルーストの『失われた時を求めて』。そういえば、盥屋の野郎、『失われた神を求めて』だって?……くそ、あいつら、ふざけやがって!
神は屈辱の邂逅を思い返して激怒した。
しかし、部屋には、特になにも変わったところはない。それでは、さっきまでのことは、すべて幻だったのか? それとも、誰かの悪質な悪戯? いや、記憶にしっかりと刻まれている、夢じゃないし、あんな奴ら、現実には、ロシアにだってアフリカにだっているはずがない! しかし、信じがたいことに、これはまごうことなき現実だ!……よし。
……神はなにか覚悟を決めた様子で、再びパソコンに向かうのだった……。
*
神の家を出た二人の男は、何処かへと速足で向かっていた。通りをゆく人々の、誰も彼らに気づかないようであった(しいて言うなら、某名家の大きな邸宅の、よく訓練された番犬が二三匹、怪しげな臭いを嗅ぎつけて、彼らに対して低い唸り声を上げたくらいのものだ)。二人はどこか不服そうな、それでいてなんとなく気のぬけたような表情を浮かべて歩いていた。
「いやしくも、小説を書いて、生計を立てようだなんて、お下劣だ!……そうは思わないかな、盥屋さん」不意に、宮田が吐き捨てるように言った。「神たるものが、紙によってご飯を食べているだなんて、どうも、気にくわないな。まあ、だからこそ、気まぐれに、おれたちが生み出されたんだがね!」軽口と悪態をつく時こそ、この男がもっとも活き生きと見える瞬間だった。
盥屋は相変わらず煙草をふかしながら、頷いた。
「残念ながら、完全に同意せざるをえないね、その意見には。少なくとも、売文業なんて、神のやる仕事じゃない。あまりにも卑劣で、低劣で、愚劣だよ。まあ、それをいうなら、君も、詩の一つか二つ、書いていたっけ……前にちらっと拝見したような気がするな」
そう言ってどこか蔑むような目で宮田を見やった。
「そんなことより」
宮田は突然気が付いたことのようにしゃべり始めた。
「君は煙草をのまないのではなかったかい? おれは確かにそう聞いた気がするな。それが、こっちの世界に来て(まあ、もはやこっちもあっちもあったもんじゃないがね、実際!)いきなりのむなんて、一体どういう了見だい?」
「それはね、神がどんな反応をするか気になったのさ。我々はもはや自由だということを、彼に教えたかったんですよ。神様も、たいそう驚いていたな、ああ、セイセイする!」
盥屋は愉快げに笑った。
「セイセイする?……すると、君は、神が嫌いなのか? あんなに神を求めていたのに? 今、『まさに約束の時は果たされた』んだぜ? へへへ、まったく天邪鬼だね、君も」
「まあ、嫌い、というより、憎し、の感情だな、これは。僕はね、我々を創造した神が、あんなちっぽけな自我しか持たない、我々並の、いや、ことによると我々以下の存在だという現実が、ゆるせないのですよ。こんなことがあっていいのだろうか? 現実に」
「まあ、こりゃあ驚いた! 詭弁家の君にも、許せないことがあるとはね! いや、思ったより、おれたちは気が合いそうだぜ……神、か! この上なくうっとうしくて、されど求めずにいられぬものよ! あれほど悩まされた至高の存在に、ついに、拝謁できたんだものなあ……へっ、しかし、まあ、君の失望も当然だよ、盥屋! 彼の住んでいるのは大理石の宮殿ではなくて、本棚に囲まれた(それも下らない「文学書」ばっかりの!)、俗悪なる書斎なんだし、それに、彼は信者の喜捨じゃあなくて、売文業で糊口をしのいでいるときた。おまけに、せっかく遠くから会いにやってきたおれたちかわいい被造物を見て、あのやろうは、喜ぶどころか、怖がって口もきけないありさまだったんだからな」
宮田の哄笑があたりに響いた。
「神は、自分の生み出した単なるフィクションの産物を(だって、実際のところ我々はそうじゃないか?)、怖がっておられるのか。寂しいことだ、まったく。愚劣だ、愚劣!」
盥屋も笑い声をあげた。乾いた、陰気な笑い声だった。電柱の上で鴉が鳴いた。
「盥屋、それはちょっと違うぜ。おれたちはもう、血と肉と骨を持った、実体のある存在なんだからな……そういう意味では、神が驚くのも無理はないさ」
と、宮田はどこか感慨深げに言った。盥屋も同じような顔をした。それきり二人は黙った。
二人の男は並んでいくつもの道をあゆんだ。いくつかの林を通り抜け、いくつかの川を渡った。そのあいだにも彼ら……主に宮田は神を罵倒し、侮辱の言葉を吐いていた。いわく、詐欺師。売文屋。アンポンタンのスットコドッコイ……。
やがて、なんとも説明のつかない景色の場所に出た。そこには荒々しいデッサンのような、もしくは一種の抽象表現のような風景が広がっていた。眺める者の心情で、その印象はまったく変わっていくのであった。怒りの赤。悲しみの青。喜びの黄。二人にそれはどのように見えていたのか? それはどうにも知れない……。ここがいわゆる「現実とフィクションの境目」なのだった。
小屋がようやく見えてきた。この物語の冒頭で二人が対話していた、あの建物である。小屋の外観は粗末なものであった。一見、プレハブ小屋のようであり、木でできているようにも見える。とにかく、ひどくあいまいで、なにか急ごしらえで作ったような趣があった。それがこの異様な風景の中に、輪をかけて異様な雰囲気を醸し出していた。
「やっと着いた。なんだか、帰り道の方が長く感じたな。少々疲れたよ」盥屋が呟く。
「なにか、気のきいた曲が聴きたいな。盥屋、なにかないかい」宮田が言った。
「ジムノペディなんかいいのではないかい」
「知らないな。音楽にはうとくてね! 誰が作曲したんだ?」
「サティという人間さ……」
「へえ。偉人かい?」
「変人だよ」
「それならおれにぴったりだな! きっと部屋にレコードがあるだろう、聴いてみるか……」
「それがいい」盥屋はほとんどうわの空で言った。
「あれ、これは一体にどうしたことだろう?」
宮田はドアに手をかけた途端なにかに気づき、口を丸くして小さくつぶやいた。
「どうしたのかね?」盥屋が訊ねた。
「おかしい、鍵をかけておいたはずなんだけどな。開いているよ!」
「そうかい、ならひょっとして、泥棒でも這入ったのかな?……違うな、おおかた、君が鍵を閉めたつもりになっていただけだろうよ、宮田くん。気をつけたまえ」
「いや、そんなはずはないな。だって、おれがこう見えてけっこう用心深いキャラだということは、きみもよく知っているだろう? そんな『凡ミス』を犯すはずないぜ! あ、信用してないな?……」
宮田はそういいながら中に入った。そして口をつぐんだ。
室内は滅茶滅茶に荒らされていた。椅子も机もあらぬ方向に投げ出されている。観葉植物の鉢も叩き割られていた。壁にはひっかき傷のようなものまである。宮田の足になにかが当たった。床に転がった年代物のワインボトルだった。よかった、割れてないぜ! 一杯やるか? というのんきな宮田の誘いを、盥屋は手を振って断った。
二人は室内を見分し始めた。
しばらくして、盥屋は静かに言った。
「……本当に泥棒が這入ってきたようだね。それに、ただの泥棒でもなさそうだ。これはいけない、どうにも、荒々しいね」
「無い」
と宮田も静かに言った。どうしたことか声は震え、顔は蒼ざめている。
「無いって、何が?」
「砂時計が無い」
「砂時計?……ああ、あの砂時計か。あれはおそらく値打ちものだものな。君が気にするのも無理はない……まあ、こんなに散らかっているんだ、なにかの拍子に落ちて転がって、隅の方に隠れているのかも」
「盥屋、ここはおれの隠れ家だぜ、どこに何があるかくらいすぐにわかる。砂時計は、この家のどこにもない……侵入者は、おれのあの砂時計を狙って盗(と)ったんだ」
「ということは、この場所をしっていて、なおかつ、ここに何があるか知っている誰かが、君の大事な砂時計を……」盥屋はぼんやりと独りごちた。
盥屋と宮田は顔を見合わせた。
しばしの沈黙。
「神の奴だ!」
宮田は怒鳴った――その顔は興奮で真っ赤に染まり、瞳は憤怒に燃えている。
*
神はいそいそと書斎を抜け、廊下を通り、玄関を出て、鍵をかけ、いまだ何の変哲もない街中へはいった。人々は平穏に歩き、自動車を運転し、犬の散歩をしていた。
そのとき、彼はある種のやましさを感じた。この世界に何かあったら、その時は私のせいだ――神として(自分ではそんなたいそうな存在ではないとおもっているのだが)あるまじき粗野な創造を行ったことにより、きわめて歪なもう一つの世界が出来上がってしまった。そしてあろうことか、その世界は、何故かわからないが、こちらの世界とくっつき、一つになってしまったのだ。
何かが起こるに違いない……彼は呪文のようにつぶやいていた。「えらい神様、よい天使、わるい悪魔……」先ほど自分で作り上げた物語を、必死に思い返そうとしていた。「えらい神様か! えらくない神様もいるけどな」彼は額に汗を浮かべながら考えた。「それがこの私さ。中途半端な思い付きで、奇妙な小説を書いてしまったせいで、とんだ災難にあったもんだ。……いや、もう後悔しても遅い。それより、えらくない神様はここにいるとして、よい天使はどこにいるっていうんだ? 神様を早く助けてくれ。わるい悪魔の行方は、大体予想がつくけどな。おそらく、あの小屋に戻っているんだろう!」神は小走りになって息をはずませていた。会わなければいけない人間がいる。私の身(あるいは彼の身)に何かある前に、このことを伝えなければ。何か起こってしまう前に!
となりに大きな池のある、あまり豪華ではないが、洒落たつくりのアパートの三階に彼は住んでいた。
神は扉を強くノックした。
トン
トン
トン 三回。
「どなたですか? え? ああ、先生? どうぞ、どうぞ」
気のない返事が聞こえてきた。
神は扉を乱暴に開けて中に入った。小奇麗な部屋だ。マネージャーはパジャマ姿で熱心にテレビを観ていた。
「先生、見てください、これを! 大事件です。それも、あちこちで。先生、これって、新しい作品のネタになりませんかね?」マネージャーは神のほうを振り向いて言った。
まだあちこちにニキビの残る顔に形のいい目がきょろきょろ動く、若々しい葉っぱが、風雨にさらされ、くたびれ果てたような風貌の青年。だがその声はまだ活力に満ちていた。そう、今はただ疲れているだけなのだ。あの禿頭の編集長にこき使われているから……。
神はテレビの方を見やる。次のような放送がくりかえし流れていた。
「臨時ニュースです。全国各地で、異常な事件が多発中。人々が次々に行方不明になり、家畜はどこかに連れ去られ、庭の木はばっさりと伐られています。……これらは、悪質な悪戯でしょうか、いや、それにしてはひどすぎる……犯人と思われる男は「奴らはどこだ」と誰かをしきりに探している様子で……云々」
それを聞いて、神は次のような妄想、妙に現実味のある妄想を頭に浮かべた。
幼い娘が一人、親とはぐれたのであろうか、心細そうに歩いている。人通りの少ない、さびれた商店街の路地裏である。子供は迷うことにかけては一流だ。あてどなくさまようこの娘の眼にも、心配そうな影こそあれど、次の一歩は確実に母に近づく一歩であるという、確信の光がある。
しかし彼女の前方に長く伸びた影――二人組の怪紳士――が、その光を遮った。
「おや、おや、おや、迷子かな? お嬢さん! 心配なさんな、怖い人じゃないよ!」怪紳士の片割れがそう言うと、恐怖の色に染まった娘の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。怖い人ほど、怖い人じゃないって言うのよ、覚えておきなさい。母親の声がよみがえったのである。
「いけないよ、君、そんなことを言っては……お嬢さんが泣き出してしまったじゃないか……お嬢さん、泣かないでくださいな、お詫びに宝物をお見せしましょう」そう言うと長身の男は懐からカラフルなストローを取り出した。
もう一人の方はそんな相棒をにやにやしながら横目で見ている。
背の高い男ががストローを吹くと、筒の先からたちまちいくつもの七色に輝くシャボン玉が飛び出した。少女は思わず眼を見開いて「わあ」と言った。
不思議なことに、そのシャボン玉は地面に落ちても、建物の壁に当たっても割れず、むしろそれによって勢いをつけて再び空中に舞い上がるのだった。少女はそれを見ていっそう驚き、喜んだ。
「どうだね? すごいものだろう」
すてきなシャボン玉。七色に光る表面は、辺りの景色を映し出しながらくるくる回っている。まるで、地球がひっくり返ったみたい。もし、シャボン玉の内側に入れたら、どんな景色が見えるのかしら?……
「ねえ、シャボン玉の中に入ってみないかい? 内側から覗く世界は、大層きれいだよ」蒼白い顔の男が丁寧に、優しく訊ねてくる。
「うん」と元気よく頷いたのが運の尽き。
ノッポが指を鳴らすと、たちまち少女はシャボンの中に閉じ込められてしまった。内側から見る外の景色は、油が浮き、光が屈折する表面を透して醜い。
「ねえ、ちっともきれいじゃないよ! おねがい、もういいから、ここから出して!」
「残念無念お嬢ちゃん、一回入っちまうと、シャボンが割れるまで出られないのさ! まあ、しばらくは、その中で、一人でおままごとでもしているんだね!」陰気そうな方がそう言い放つと、シャボンの主も、
「そういうことです、お嬢さん。怪しい人に近づいてはいけないと、これでようくわかったね? ところで宮田、君の言う通り、この世界では、我々の力は魔法のようなものらしい……確かにうまくいった。不思議な話だ、架空の存在である我らの方が、力を持つことになろうとはね! さて、この力、善きことに使うか、悪しきことに使うか、それとも……?」
男たちはその場を去った。あとには、割れないシャボン玉だけがいつまでもゴム毬のように弾んでいる……。
「先生、どうしました?」マネージャーの声。
神ははっと我に返り、テレビ画面を凝視しながら、静かに、震え声で言った。
「奴らだ。奴らが、私たちを探しているんだ」
「え? いまなんて? それより先生、このニュース、新しいネタに……」
「もう書き終わったよ! 今度の作品は傑作だぜ。登場人物が現実に飛び出してくるほどのな!」神は叫んだ。
「え? 先生、もしかして、もう書いちゃったんですか? さすがだなあ。しかもご自分から持ってきてくださるなんて、いや、相当の傑作とみました! さっそく原稿のほうを……」
マネージャーは口元に微笑を浮かべ、揉み手しながら神にすり寄った。
「いいか、君、よく聞いてくれ」神は人差し指を立てマネージャーを制した。
神はことの次第をすべて、丹念に説明した。事の発端となった小説のことから、現実に宮田たちが現れたこと、その会話の詳細、そして今この世界で起こりつつある異変の正体を、丁寧に、丹念に。ただ、マネージャーはとぼけたような顔で、目を丸くして聞いていた。
「いいかい、あの悪魔どもは、私たちを探しているんだ。そして、復讐しようとしている。この混乱は、おそらく、奴らの仕業だ!」
「なるほど、それは大変! しかし、先生、なんでこのわたしまで狙われなきゃならないんです? その……悪魔どもに?」
マネージャーは笑いをなんとかこらえながら問うた。先生はきっと疲れて少しおかしくなっているのだ、と思ったからである。これは新作に期待できそうだ。それにしても、先生もたいそうごくろうなさって……先生には休暇が必要だ。それもとびきり長めの。編集長にもよく言っておこう。
「私と付き合いがある人間なんて、君くらいしかいないからね。君も、まとめて消される。それにしても、見境がないな。あいつら、あんなに乱暴だっただろうか? 慇懃無礼な紳士、といった感じだったが」
マネージャーはごくりと唾をのんだ。先生の中で、現実と空想の境が曖昧になっている。これは相当重症だぞ。きっと新作は、相当の傑作に違いない!
「先生、はやく原稿を見せてください!」
いやがるマネージャーを着替えさせ、無理やり連れだした神は、二人で街をさまよい歩いた。すでに混乱はこの街にもおとずれていた。人々はあてもなくあちこち走り回り、自動車はクラクションを鳴らし、犬は何かに吠えていた。道すがら、神はなにやら焦げくさい臭いを嗅いだ。あれ、先生の家の方じゃないですか? マネージャーが怪訝そうに言う。なんと、自宅の方角から、高く、高く、もくもくと黒煙が上がっている。
「Aさんの家が燃えたらしいよ。放火だって……でも死体とかは見つかってないみたい……」
道ゆく人のうわさが聞こえた。
Aだって? 私の名前だ。私の家が燃やされた?――彼の中で、家を燃やされた怒りよりも恐怖が勝った――奴らだ! 奴らがここまで来た! 神は天に祈った、はじめは神に祈ろうとした。しかし、今回の場合、神は自分であることに気がついた。神が神に祈る、これは、矛盾だ。では、なんでもいい、……そうだ、天使、天使よ、どうか私に力を!
*
「やい! でてこい! ぬすっと!」
「出てきた方が身のためですよ、主よ。この男は一旦怒りだすと、どうにも手がつけられませんからね」
神がマネージャーのアパートについたころ、二人の悪魔は神の家にたどり着き、宮田は怒りをなんとか三割ほどに抑えながら叫んだ(盥屋はというと、いたって冷静な様子だった)。
しかし、返事はない。
「お邪魔するぜ!」
宮田は低い声でそう言い、入口の扉に手をかける。鍵はかかっていない。これは、居留守か? それとも……。
二人は神の家に侵入した。人のいる気配はない。そこで真っ先に書斎へと向かう。神は居ないまでも、なにか情報を得られるかもしれない。
書斎は暗く、やはりそこに神は居なかった。しかし神ではない何者かはいた。
パソコンの置かれた大机の前に、小柄な影が佇んでいる。
「ん?……誰だ? おれたちを待っていたのかな? へっ、ぞっとしねえ。……神の代わりに、一体、どなたが、哀れな子羊の懺悔を聞いてくださるんでしょうかね?」
宮田は道化ぶった口調で影に問いかけた。
返事はない。
「どなたでしょう? ひょっとして、泥棒かな? ……まあ、人のことを言えた義理ではないが。私たちも泥棒のようなものだ。正確に言うと、泥棒から取り返しに来たのだが。……ちょっと失礼」
盥屋は部屋の灯りをつけた。
そこには燃えるような栗毛の、かわいらしい娘がいた。
年頃は十五、六だろうか、それにしても少々小柄である。だが、顔の造作も小さく整っており、身体全体としては均衡がとれ、美しいとさえ言えるのだが、その佇まいには、妙に大人びたところがあるし、その瞳には、なにか油断ならぬ光が瞬いていた。
また、悪魔たちには、その佇まいや目の光がとても煩わしいものに思えた。理由はわからないが、恐らくは、彼らの本能のようなものが、必死に警鐘を鳴らしているのだろう。
「まぶしい」
と言って、娘は目を細めた。
「失礼、失礼。お顔がよく見えなかったものでしてね、人探しをしているのです。ところでお嬢さん、こんなところで何を? ここには神……いや、一人の小説家の男が暮らしているはず、こんなところに一体なんの御用でしょう?」
盥屋が丁寧に訊ねた。
「お二人をお待ちしておりましたのよ」
澄んだ娘の声がそれに答えた。
「我々を待っていた?」盥屋は首をひねった。「それは不思議ですな。なぜなら、我々二人のことを知っているのは、ここに住んでいる小説家くらいなもののはずですから。その小説家にしたって、今は行方知れず。それに、あの男は一人暮らしだ、娘もいないでしょう、あの人は孤独です。……質問ばかりで失礼ですが、あなた、一体何者です?」
盥屋は慇懃な態度を崩さずそう言った。
しかし娘はなぜか顔を歪め、吐き捨てるように言った。
「やっぱり、悪魔というのは頭が鈍いのですわね。それに、見た目も醜悪ですわ。とても表現しきれないくらい。こんなに救いようのない方々だとは思わなくてよ」
「それは心外ですな、お嬢さんよ!」
宮田がとうとう口を挟んだ。
「これでも、頭の回転は速い方だと自負しておりますよ、これでもね。それに、初対面の人間に対して悪魔呼ばわり、おまけに醜悪だなんて、ちょっと失礼にも程があるんじゃあありませんかねえ?」
「人間に対してならね。でもお二人とも人間じゃなくてよ」
娘はあっさり否定した。
男たちは急に暗い目つきになった。盥屋が静かに言った。
「お嬢さん、冗談はここまでにして、小説家がどこにいるかだけでも、教えていただけませんか? あなたは随分と物知りのようだ」
「教えることは何にもありませんわ。何も。お二人には、もともといた場所へ、すみやかに還っていただきますわ」
娘は自信たっぷりに言った。
「もともといた場所? それはどこに?」
盥屋が落ち着いて訊ねた。
「ここですわ」
娘はつけっぱなしのパソコンをゆびさした。
突然、甲高い哄笑が聞こえた。宮田が笑っていた。地が裂けるような、悍(おぞ)ましい笑い声だった。
「なんだ、あんたは、すべてご存じってわけか。ただの人間じゃないな。何者だ? まあ、なんでもいいが。おれたちが悪魔なら、さしずめ、天使ってところか」
宮田はそう言って娘を睨みつけた。
「そうね、そういっても差し支えなくてよ。わたくしたちは、よいことをするためにいるんですもの、まあ、天使というのが一番ちかいでしょうね」
娘は真顔で答えた。
「誰の差し金で来た? 神の野郎か?」
宮田は声を荒げ、いまや食い入るような目で天使と名乗る娘を見つめている。隣の盥屋はただ黙ってことの成り行きを見守っている。
「神ではありませんわ。わたくしたち一人一人自らが、よいこととはなにかを考えて動いていますの。あなた達と違ってね」娘はかわいらしく微笑した。
「なんで、おれたちをどうにかするのがよいことなのかな?」
「悪魔はわるいものですわ。わるいものを追い払うことが、よいことと考えるのは普通でしょう?」
「けっ! 埒があかねえ! おれたちを追放する? やれるもんならやってもらいたいね! この世界にも飽き飽きしていたところだから。ところで、天使さんよ、おれたちを追い払うってんなら、そのための『裁きのメギドの炎』とやらは、いつ降り注ぐのですかね?」
「裁きの炎? 安心なさいまし、それなら、もうあなた方の頭上に降り注いでいましてよ」
天使は高笑いした。
盥屋は不意に永い眠りから目の覚めたような顔になって、宮田の手を思い切り引っ張った。その途端、宮田は書斎が燃え盛る炎に包まれていることに気づいた。あたり一面の火焔流。炎になめられ、灰になって消えてゆく、本棚の本……。
二人は驚くべき速さで家を飛び出した(彼らにはただの人間から見れば超人的と思えるほどの身体能力があるようだった)。飛び出したとき、凄まじい轟音とともに、二人の背後で神の家が崩れだした。もくもくと煙があがる……。
「あの少女に、二人とも幻覚を見せられていたんだ! その間に、火を点けられた! 危うく黒こげになるところだったね、君! あの娘、本当にただの娘ではない……なるほど、『天使』か!」
盥屋は多少興奮した調子で言った。
「これは厄介なことになったね、どうも」
宮田は自分の体を見た。服がところどころ焼け焦げている。大きく息を吐き出して、
「ああ、厄介なことになった」
辺りは薄暗い。いつの間にか夕刻になっていた。
*
「はあ、これで私も流浪の身か……燃えてしまった、なにもかも! そんなに長いあいだ住んでいたわけではなかったが、それでも愛着のある家だった。Home, sweet home !」と神は嘆いた。
「そんなに気を落とさないでください、先生。だって、現に命は失わずに済んだじゃないですか? だれかが本当に先生のことを狙っているというのは、よくわかりましたが……。まあ、家の一軒や二軒、すぐに建て直せますよ。だって、先生が本気になって書けば、きっとベストセラー間違いなし!」とマネージャーがそれを慰める。
「ベストセラーなんて、書こうとしても、そうそう書けるものじゃないさ……たぶん、私には絶対にムリだ。それに、君は一軒家に住んだことがないからそう言うがね、実際、この喪失感というもの、それはそれは強いものなのさ。なんせ、自分の生活の基盤を失ってしまったんだ、それも無理からぬことだろう? 君にもわかる時がくる……」
「なるほど、そんなものですかねえ? まあたしかに僕もあのアパートが燃えたら、少しばかり悲しい気持ちになるかもわかりませんね。一体全体、住処(すまい)というのは不思議なものですね。普段はその存在を気にも留めないのに、いざ失ってみると、その大切さがわかるのですから!」といってマネージャーはなにか納得したように独り頷いた。
「ありがとう、君と話しているとなんだか元気が出てきたよ、不思議だな、悲しみも人と共有するとその本質が見えてきて、かえって活力になるとは! 『旅は道連れ、世は情け』か! よく言ったものだ。マネージャーくん、なんとかこの苦難をともに乗り切ろう」
「そうですね、それしかありませんね」と青年はまたしても殊勝に頷く。
彼の自宅を燃やしたのが実は「悪魔」ではなく、他ならぬ「天使」であったことなどつゆ知らず、神はマネージャーとともにいまだ街をさまよっていた。辺りには目つきの悪い男や腹をすかせた犬がうろついている(世の中には、大きな混乱に乗じて何処からともなく現れる、謎めいた怪しいものたちが存在するのだ)。
いまやこの街を支配している唯一の法則は「無秩序」であった。マネージャーはようやく事の異常さに気が付いてきたようで、「先生、早く今晩の宿を見つけましょう!」などとくりかえしささやいた。神はその進言には耳を貸さず、二人はひたすらに歩いた。歩きに歩いた。
――この狂った街を抜け出すために。安息の地を探すために。
《それにしても、悪魔ってどんな奴らなんだろう?》マネージャーはずっと考えていた。《先生によると、二人組の紳士、って話だけどな。なんだか、まるきり想像がつかないな。ニュースの通りの、凶暴で恐ろしいやつらなんだろうか? だとしたら厄介だ。……それでも、できれば、一目見てみたいもんだ! 実在するなら、ね》
この青年は、いつでも現実に生きていた。悪魔など少しも信じてはいなかった。少なくとも今までは。今は?……先生のこの狂乱ぶりに、何かしらの根拠があるのは間違いないと思っている。
しかし、悪魔とは……。借金取りか何かのことじゃないのか? とにかく、悪魔っていうことはなくて、なにか、別のものなんじゃないか? それなら、少しは納得がいく。先生は少し疲れているだけだ。自分も疲れている。二人とも、休暇を取るべきだ……少々長めの。どこか静かな浜辺にでもいって、のんびり過ごそう。それがいい。そうしよう。そうしないと、いつか自分のところにも悪魔が訪ねてくるかもしれない。
悪魔を信じるなんて、まるで昔話の世界だが(子供のころ読んだ『イワンのばか』もたしかそんな話だったっけ)、人間の心の中には悪魔がいる、という考えには確かに一理ある。なにかの拍子に、そいつが、心の中から抜け出して、目の前に現れるのだ。「やあ! 僕、悪魔! よろしくね!」そしてむしゃむしゃと人を食い殺す。
ああ! 僕は疲れているんだ、きっと。休みを取ろう。それも長めの。そういえば、もう半年も働きづめだ。半年前、風邪をこじらして休んだきりだ。そのときは、先生が看病してくれたっけ……。うん、やっぱり先生には恩義がある、もちろん義務も。彼についていくしか道はないのだ、今の自分には。……
いくら歩いても一向に街から出られないことに気がつき、神は立ちどまった。
おかしい。こんなに大きな街に住んでいただろうか。たしかにここは名のある地方都市だが、それでも所詮は一地方都市。これではあまりにも広すぎやしないか。
そこで神は、ここ数年、自分が街から一歩も出ていない事実に気づき、少しばかり驚いたが、すぐに気を取り直して、街が奇怪に膨張している原因を考えた。
……いや、考えるまでもない。これは絶対に悪魔どもの仕業だ。
神はそこまで考えた後、自らの思考を反芻して愕然とした。「これは絶対に悪魔どもの仕業だ」だって? まるで、中世の迷信深い人々の言いぐさじゃないか? 私はどうかしている。だが、現実はそれ以上にどうかしているんだ!
「どうやら、この街からは出られないらしい」マネージャーの方を振り向いて言う。
「えっ? それはどうしてですか?」
「悪魔……さっき説明した性悪の二人組のせいだ。やつらが何かまじないをして、この街をばかでかく膨張させたのだ。我々は閉じこめられた!」
「はあ。……はあ。にわかには信じられませんが、なんだかこのごろの世の中の混乱ぶりをみると、それもあり得る話だと思えてきますよ。悪魔かなにかが蛮行をふるっているとしか考えられない」
「よし。今日はここらで、どこか泊まれるところを探そう。無理なら、野宿だな」
「野宿はヤダなあ……さっきからなんだか物騒だし。ホテルか、親切な人を探しましょう」
「それはいいが、泊まらしてくれた人が悪魔だった、ということもありえる。慎重に探そう」
二人は宿泊場所を探した。しかし当然のごとくホテルなどはみな閉まっており、こんな非常事態に、いかにも胡散臭い二人組を泊めてくれる「親切な」者もいなかった。
途方に暮れ、あてどなくうろついていると、マネージャーが突然立ちどまり、整然と並ぶ街路樹の一本を指さした。
「先生、あの木、なにか変じゃないですか? ほら、あの根元、空洞になっている」
たしかにその木の根元にだけ、不自然な洞(ほら)があった。人ひとりが丁度くぐれるほどの大きさだった。
神には思うところがあるらしく、率先して木のそばに寄った。彼にはなにか懐かしい予感が芽生えていた。記憶のどこかにこの空洞があった。「いったい、どこで見たんだ? ……いや、見てない、実際にこの目では……けれど、いつか、心に思い描いたことがある。たしかきっと、作品に書いたんだ……でも、なぜ、ここに?」神は思わず空洞を覗き込んだ。
そして、だれかの声を聴いた。あるいは遠い音を。
「危ないですよ、先生! 蛇でも潜んでやしないでしょうか」
「いや、なにか潜んではいるが、少なくとも蛇じゃないな。……いま、中から誰かが私を呼んだ」
「またまた突拍子もないことを! 幻聴じゃないですか、先生? それとも、例の、悪魔のやつらか」
「いや、確かに突拍子もないが、少なくとも幻聴じゃないな……。ん、いま、もう一度私を呼んだ。この声は悪魔のやつらの声でもない」
「それは良かったですね。それで……一体、どうするんです?」
答えるよりも先に、神は洞の中に入っていった。マネージャーは急いで洞に駆け寄った。想像以上に深いらしく、神の姿はすぐに見えなくなった。
「こういう時、マネージャーって仕事がつくづく嫌になるよ」と青年は独りごちる。
そして、未知の領域へと足を踏み出す。彼も洞の中へと、深いふかい場所へと落ちていく。
*
『悪魔』二人は街を彷徨う。あの、栗毛の少女の印象を懸命に思いうかべながら。
それにしても、奇妙な少女だった。可愛らしい外見の裏には、人をぞっとさせるような何かがあった。少なくとも宮田と盥屋はそう感じた。それが、少女が本当に天使のような神聖な存在だから、邪悪な彼らにとって戦慄すべきものであるのか、彼ら以上に少女が邪悪さを隠し持っているからなのかは、二人にとって計り知れない謎である。「ああ! 忌々しい。ただひたすらに」と宮田は思った。
……無様に焦げた二人の服は、一体どのような素材を使いどのような技法で織られているのだろうか、人が、ちょっと嗅いだだけでも忘れがたい印象を残すであろう、とてつもなく奇妙な異臭を放つのであった。まるで、特殊な薬品の塗られた紙を焼いたような、いや、何らかの化学物質が反応を起こした結果とでもいおうか、とにかく、人工的な、不可思議な臭気であって、まばらにせよ、通りすがる街の人々は、その臭気に、思わず顔をしかめたり、あるいは恍惚とした表情になったりするのだった。
二人は、口裏を合わせずとも、いつのまにやら、まるで、今回の全世界的な混乱に巻き込まれた、哀れな一般市民のように振る舞っていた。彼らの演技は役者のように見事で、無残に焦げついた服もその助けとなっていた。
また、二人の気の持ち方も、今回の件で(つまり天使を名乗る少女との接触によって)少しばかりの変化を見せていた。つまり、この『遊び』の主導権は必ずしもこちらが独占できているわけではない、ということだ。『神(実はぱっとしない作家)』とその被造物たる『悪魔(実は小説の中から飛び出した二人組)』との対決を気取っていた二人だが、そこに第三の勢力(と呼ぶべきかどうかわからないが)、『天使(実は……あどけない少女?)』が現れて、その力関係を大きく揺り動かした。天使というからには、神の側に立つ存在に違いない。物語の常識である。つまり彼女が現れたことによって、悪魔たちは非常に「やりにくく」なった。――神を嘲り、被造物は創造主を超えうるということを証明するという目的(ただし、他にも目的はあるが、ここでは明らかにしない)が。
もっと慎重に、狡猾にならなければならない――それが、二人の統一した意見であり、赤裸々な心情であり、暗黙の了解であった。
辺りももう暗い。二人は、人気のない、街の中心から少し外れたところにある市民公園にいた。公園のベンチに腰を下ろし、体を休めている。
と、もしも彼らを逐一観察する物好きがいたら、次のような奇妙なことがわかっただろう――彼らの服装は、まるで傷口が癒えるかのように、小奇麗な、新しいものへと変化しつつあった。どうやら彼らの存在は、その服装も含めて、容易に滅ぼし得ないものであるらしい――自己再生する衣服。おそらくはその肉体も……。
宮田は拾った石を池に向かって投げた。座ったまま、それも池はベンチから十メートルほど離れているにも関わらず、石は吸い込まれるように池まで届き、十数回もリズム良く、見事に水面を蹴り上げ、跳ねて、向こう岸まで渡り切った。「十三メートル」宮田がふてくされたように呟いた。「割と小さな池だな」盥屋が言う。そして次に彼は信じられないほどのスピードで石を投げた。またしてもそれは池に吸い込まれ、今度は派手な音を立てて飛沫が上った。「五メートル半」宮田はまた呟く。「深い池だ」盥屋が続ける。「小さくて、深い池だ。子供が入ったら危ない」真顔で呟く。
「まったく、ため息とあくびが同時に出るね。ところで、さっきくすねてきたんだが、読むかね?」宮田が懐から一冊の本を取り出した。
「なんだい、それは? 本? いつか君が書いていた詩集かな?」
「いや、そんなんじゃあない。これは、神が書いた小説さ。本棚から拝借したのさ……ええと、タイトルは……『街の教師』だってよ。ふん! まあ、ありきたりな題だな。三点!」
「それ、何点満点中だい? ちょっと貸してくれ。……どれどれ? ふむふむ、いや、なかなか……ほう! これは感動したよ」
「お前さんは本当に皮肉屋だな。ろくに読んでもいないくせに」
「いや、わりあいに短い小説なんだが……つまりこれは短編みたいだね。この表題作には興味深いテーマが隠されている……我々の行く末にも関係があるかもしれない」
「おれたちの行く末? ……へっ! ますます面白くないな。おい! 盥屋、そんな本、燃やしちまえばよかったんだよ」
「持ってきたのは君だろう、それに、マッチだって君が持っている」
「なるほど、違いない。一本とられたな! まあ、なにかに使えるかもしれない、とっておくとするかね……ところで、盥屋君、これからどうしますかね?」
「天使から逃げ、神を追う」盥屋は極めてまじめな表情で言った。
「天使から逃げ、神を追う! まるでおとぎ話のような台詞だな! しかし、今は確かにそれしかないな。癪な話だが、あの娘っ子には、歯が立たない……少なくとも、今のおれたちでは(今後の頑張り次第では逆転するかもしれないが!)。とにかく今は、神を探すしかない……おれの砂時計を盗みやがったあいつを」
盥屋は答えない。宮田がそれをいぶかって顔をやると、盥屋は硬直してある一点を凝視している。立ち並ぶ街路樹の方である。静かに風が吹いている。木の葉が揺れる。
「おい、どうした?」
「いま、だれかが、あそこの木の根元から地中に入っていった。というより、落ちて行った」
「なんだと? 世の中には、変なこともあるもんだな。……それで?」
「二人組だったが、そのうちの一人は、神かもしれない。背格好がよく似ていた。もう一人は知らないが」
「なんだと? 神のやつが? ええい、こん畜生、仲間を増やしやがって! それにしても、一体この世界はどうなってやがるんだ?」
「それは」盥屋が受けて、
「私たちが言っていい台詞ではないね、少なくとも。……とにかく、あすこに行ってみよう」
二人がその街路樹のところまで行ってみると、そこにはただ、何の変哲もない木々が生えていた。どの木の根元を調べてみても、なんの異常なところもない。宮田は地面を蹴って舌打ちした。
「はっ! 盥屋君、君が嘘をついているとまでは言わないが、あんまり話が荒唐無稽すぎるんじゃないのかい? さすがにさ! どこにも、なんにもありゃしませんぜ」
「それをいうなら、我々が存在すること、それ自体が荒唐無稽だよ。宮田、さっきの本をまた貸してくれ」
盥屋は受け取った本をめくると、不意に、この男には似つかわしくないほどの大きな声で朗読し始めた。辺りに人が誰もいないのが幸いだったが、だれかいたらまちがいなく変人扱いされてしまっただろう――――実際に彼らは変人というたぐいのキャラクターなのかもしれないけれども。
『街の教師』 作・A
Aは、流れる雲を見ていた。雲は少しづつその表情を変えながら、空をゆっくりと通り過ぎていく。はるか遠く消えてゆく雲をながめながら、何も考えずに空き地を囲う柵の上に座っていた。早春の冷ややかな空気を胸いっぱいにすいこみ、やがて大きなため息をつくと、次に小さくあくびをして、柵から思いきりよくとび降りた。といっても柵はずいぶん低かったので、Aはまったく苦労せずに降りることができた。この街に来てからというもの、Aには何もすることがない、つまり仕事がない。かといって、思うがまま、力のかぎり自由に遊ぶということもできかねる次第なのだ。ふつうの場合、重力よりも重い或る強制力によって、人は勤勉に働き、自由に遊ぶものだが、ただその力がないという理由によって、Aは街をぶらぶらとあてなくさ迷うだけの日々を過ごしていた。街の人々はたしかにAをこころよくもてなしてくれはするが、その実、ちっとも心を許してくれず、たとえ目の前にいても、まるで薄いカーテンごしに対面しているかのような印象を受ける。ひとり、酒場の給仕で、Aに対して思わせぶりな、優しい微笑を投げかけてくるやせっぽっちで目の大きな女の子がいるものの、こちらがそれを勘ちがいして、親しみのこもった笑みを返そうものなら、釣り上げた魚に対する嘲りのようなけたたましい笑いがAの周りでどっとわきおこるのだ。そのときすでに少女の姿はなく、Aはただ周囲の陽気な悪意の渦に身と心とをまかせるしかなくなってしまう。そしてどうやら、自分にとってそれが苦痛でなくなってきたことに、Aは声すら出せないほどの恐怖と焦りを感じていた。
Aがこの街にやって来たのは一か月前、臨時教員としてこの村に派遣された。Aは一流とはいかないまでも、「そこそこ名の知れた大学をでた」、「活力にあふれ」、おまけに「教養ある」、そしてなんといっても、「聖職としての自負と誇りをもった」教師だった。「私から教職を取り上げたら」とAはしばしば周囲に吹聴するのだった、「何ものこらない」中央都市の学校で教鞭をふるっていたときなどは、明解な講義と公正な人柄で同僚や生徒から高い評価を得ていた。しかし誠実すぎる人格が災いし、上司との間で小さからぬいさかいを起こしてしまい、浅からぬ恨みを買い、とうとうとある意向によって、この片田舎の街まで左遷させられてしまったというわけだった。中央からの命によると、Aは、街に着いてすぐに街の学校の教員として働きはじめることができるはずであり、本人もそのつもりだったが、街に到着した日にはその見通しが立たないことがわかった。これは頭頂部の禿げあがった、気の小さそうな副校長の口から直々に聞かされたことだが、実は、何の手ちがいか、Aの到着する一週間前に別の教師が街に派遣され、あろうことかAの就くべき地位に居座るという事態になっていたのだった。Aはこれに対して並々ならぬ憤りを感じ、断固抗議した。「どういうことなのでしょう。私はどうすればいいというのですか。もちろん、何らかの措置はとってくださいますでしょうね?」「措置といいますと?」副校長は豆粒のような目をぱちぱちさせて訊ね返した。「たとえばその私より先に来たとかいう教師をどこかへやって、私をそのしかるべき地位に立ててくださるとか、そういうことです」Aはきっぱりと正直に言った。「しかとは解せませんな」副校長はなおも目をぱちぱちさせて、「ということはつまり、あなたの代わりに来た新しい先生を、わが校から追放して、あなたをその後釜に据えろとおっしゃるんですか」Aは答えた、「一つ訂正させていただくと、私の代わりにその教師が来たというわけではまったくないでしょう。きっと中央かどこかの、総務部のだれかの手ちがいで、ほんらい別の学校に送られるはずだったその人が、この街の学校に来てしまったのですよ。しかしながら、私こそがもともとこの学校に赴任する予定だったのです。ほら、ここにちゃんと証書があります」とAは四角い鞄から一枚の紙きれをだそうとしたが、副校長は右手でそれを制するしぐさをして、「いま問題となっているのは証書ではなく、実際に二人の教師が中央から送られてきてしまったこと、さらにあなたにとって都合の悪いことには、あなたより前に来たもう一人の教師がすでに業務をはじめていて、とっくの昔に同僚や生徒からのあつい信頼を得て、わが校の中で確固とした地位にいるということです。それに上司とも……」「まってください」Aはあわてていった、「もうお仕事をされているんですね。それはいいでしょう、かくいう私もそのつもりでしたし。でも、早くも一週間かそこらで人々の信頼を勝ちとり、確固とした地位についてしまっているなんて(しかもそれがとっくの昔だなんて)、どういうことなのでしょうか。あなた方にとってはけっこうなことかもしれないが、私にとっては大迷惑だ。第一、仮に彼がどれほど才能にあふれた良い教師だろうと、それに劣る働きをするつもりはまったくないですし、なにより、教師の地位につく権利はこちらのほうにあるのです。中央から任命されたのはまぎれもなくこの私なのですから」といって証書をとりだそうとするAから副校長は目をそらして、「どうやら、すぐには回答できかねる問題のようですな、これは。申し訳ないが、しばらくこの街で、あなたの処遇が決まるまでは、何もせず静かに暮らしてもらえないだろうか。その間、仮の住居や生活はきちんと保障しますので。とにかくたのむから、何も余計なことはしてくださるな」
Aはなおも証書を見せようとしたが、この副校長には大きな権限はないことを察し、いいかげん反論する気も失せていたので、その提案を了承し、当面の宿としてあてがわれた独身者のための寮「大人荘」に案内された。Aは玄関に取り付けられた板に書かれた文字を、おとなそう、と読んだ。それは木製の二階建てで、かろうじて電灯がついているような建物だった。Aは二階のいちばん奥の部屋に入ると、灯りをつけた。何か、掌くらいの黒い虫がかさかさと目の前の窓の上の方の狭い壁の部分をよじ登っていった。「掃除をしなくてはいけないな」と言ってAは小さくため息をつくと、大きくあくびをして、粗末で汚れた寝床についた。
Aは夢を見た。石造りの古い城が、山のてっぺんにそびえていた。あるいはもしかしたら、雲が濃いから正確にはわからないが、城はおのずから天空に浮かんでいるのかもしれない。その内部は果てしない無限の迷宮になっていて、その中を何か考え事をしている大勢の人々がさ迷っていた。Aは正しく夢の中にいたので、本来知りえないそうしたことが手に取るようにわかり、それを不思議にも思わなかった。その城は世界のどこからでも、だれの目にも見えた。下界には雪が降っていた。山のふもと、深い銀世界の中を、城めざして歩き続ける男がいた。何故かはわからないが、Aはそれが、あたかも天地をひっくり返すような驚くべき試みであるかのように感じ、男に向かって声にならない声を叫んだ。男は城の近くまで来たと思ったら、とつぜん道なりに曲がって遠ざかってしまうのだった。Aは(これも理由がわからないが)この男の力になってやりたいと思った。気がつくと、Aは男のとなりにいて、その手を引っ張ってどこかに連れていこうとしていた。不思議なことに、男も安心してAに身をゆだね、疲れた足を先導者の力強い歩みと必死に合わせようとしていた。やがてAは見知った街に着いた。それはAが今後しばらく住むことになる街だった。「ようこそ」Aは上機嫌で言った。「わが街へ」「わが街だって?」男は注意深く訊ねた。「村ではなくて?」「ええ。私も来たばっかりなんですがね、村というにはずいぶん立派すぎますよ。都市というにはわびしいですが」Aは自分でも不思議なほどにこにこして言った。「城まで行くには、この街を通る必要があるのかい?」「城?」Aは声をだして笑った。「城なんて知りませんよ。あんなところに行く必要はまったくない。仕事も娯楽も、きっとここにあるはずです。ほら、着きました」目の前には、さっきまでAが寝ていた独身寮があった。「汚いし、虫がいますが、いいところですよ」男は首を振った。「ここじゃない。ここじゃないんだ。俺は城を目指しているんだ」「そんな、何を言うんですか。雪の中をさ迷うよりは、いいでしょう。それに、あの城にはなにもないですよ。中は、あなたみたいな人であふれてます」「城の中身をみたのか」Aは城の内部の様子を説明した。「違う。俺の目指す城は、そこじゃない。別の城だ」部屋に入ると、知らない男が寝ていた。男は目を覚ましてAに訊ねた、「あなたが噂の教師ですね?」Aは答えた。「Aです。あなたの名前は?」「Fです。そちらの方は?」「Kだ」「以前、どこかでお会いしましたか」「いや」「不思議ですね。どうも他人の気がしない」それからKとFはじっと見つめあって互いの素性ををさぐりはじめた。しばらく時間が経ち、Aは頃合を見計らい言った。「実は、これは私の夢なのですが、そろそろ目覚めてもいいでしょうか」「あなたの夢ですからご勝手にどうぞ。しかし状況が好転しているとはかぎりませんよ」FはAの心を見透かしたように言った。「誰も夢の中の幸福を外には持ち出せないのだから。それに、あなたにこの街の教師の座は渡しません」
目を覚ますと、すでに昼間だった。しばらくうとうとと夢の驚異的な魔力に逆らって覚醒し、理性をはっきり明らかにしたAは、あわてて身支度をととのえると(といっても寮には風呂もなく、便所の脇の洗面台で顔を洗うくらいのことしかできなかったが)、きのう副校長と面談した事務所にむかった。この施設は学校に用のある訪問者のためにあって、まだ許可を得ていない者はここで担当者と面談し許可をもらう決まりになっていた。恐ろしく小さく、簡便なつくりの建物であって、Aはこの施設がどうしても好きになれなかった。ここで対応を受けるということは、それだけで何か自分がいいかげんにあつかわれている気がするし、薄い肌色の建物を目にするたびに、わけもなくいいようのない不吉な感じをもった。「Aという者です。副校長様と、昨日のお話の続きをしたいのですが。今後の処遇についてお聞きして、すみやかに現状を解決したいと考えております。お忙しいとは思いますが、どうかお聞き届けくださいますようお願いいたします」Aは窓口に用件を話すと、受付の女がてきぱきと業務をこなすのを横目で見ながら真新しい長椅子に腰かけて待っていた。これといった特徴のない女で、濃い化粧が唯一の特徴かもしれないが、その化粧こそが彼女の特性のすべてを(良いところも悪いところも)打ち消してしまっているのかもしれなかった。Aは朝ご飯を食べ忘れて腹が減っただの、銭湯は近いのだろうかだの、さっき道端にいた猫は若いのか年寄なのかわからないだの、とりとめもないことを考えていると、やがて自分の名が呼ばれた。応接室に通されると、そこには副校長ではなく、Aのまだ知らない男が退屈そうに机の前に座っていた。「Aです。はじめまして」困惑を隠しながら、つとめて爽やかに明るくそう言うと、「どうも。主任の田口です、よろしく。私は副校長、つまりはその副校長に命じたところの校長の命によってここに遣わされました。Aさん、あなたに今後の生活の中における二、三の注意点をお伝えするためです」Aは期待に胸おどらせながら、「では、私の処遇が決まったのですね」と言った。「いえ、そうではありません。その逆です。むしろ、逆より悪いと言えるかもしれない」田口はAの顔をちらちら見ながら宣告した。「結論を申しますと、Aさん、あなたがわが校において教師の地位を得ることはとても難しい」「どういうことです?」「いま言ったままの意味です」希望が急に失望へと変わり、Aは思わず声を荒げながら、「話が違うではありませんか。だって、中央から任命されたのは私だと申し上げたはずです。それに、証書だってちゃんとある。いったいなぜ、私がこんな無情で不可解な処遇を受けなくてはならないのですか」と言って証書をとりだそうとしたAを制した田口は、あなたのお気持ちは十分にわかりますともといった顔で、「ですから、せめてもの罪滅ぼしに、といっても我々の側に法律上の明確な罪などないのですが、とにかく、今後しばらくはこの街で暮らしていただいて結構です。人並みの生活には苦労させません」Aは腹が立った。「こんなよく知らない街で職もなくひとり暮らさなくてはならないのですか。私は中央から任命されたのですよ。このままでは、私がその命に従わないつもりだとみなされるかもしれない。そうしたら、つまり中央に愛想をつかされでもしたら、新たな働き口をどう見つけろというのですか」田口はあくまで冷静に、というよりも冷ややかに、「それにつきましては、よく存じていますとも。さらにいえば、おそらくあなたが存じているよりも子細にわたって、もれなく存じています。そしてそういった事情をふまえてこそ、こちらの言い分もわかってくださるかと思います……つまり、この問題は、あなたの勝手な都合でどうこうできる類いの話ではないし、私の一存ではどうにもならない性質のものですし、副校長にもどうすることもできない。ただ全ては校長のお心一つで決定されるのです。ですから、もうこの件に関してはあなたのできることはなにもないのです。Aさん、あなたはたしかに運が悪い。何せあなたがはじめに事情を打ち明けたのは、校長ではなく副校長だったのですから」「それはいったい、どういうことです?」「ほかならぬ、そのままの意味です。はじめから校長に全てを話していれば、どうにかなったかもしれない。しかし、もう遅い。あなたは順序を間違えたのです。あなたはわが校において永久に教師をつとめることができないでしょう」「そんな決まりがあるなんて、少しも知らなかった。では、校長ははじめから私と会う気だったのですか」「そんなはずがないでしょう。校長がたかが採用未決定の、教師未満の人間に会うはずがない」「わけがわからない。それだったら、そんな馬鹿な話はないでしょう。いまからでも、校長に会わせてください。全ての事情をお話しします」「だから、もう遅いのですよ。誰もあなたの話を聞こうとはしないでしょう。Aさん、あなたは教師になることができない人間だとみなされたんです」Aは頭に血がのぼり、憤然として立ち上がった。「私はもう失礼します、田口さん。あなたと話していても埒があかない。もっと上の人と話をしなくては」田口は軽蔑をかくさず訊ねた。「上の人というと、どなたでしょうか」「たとえば、校長です」「ふむ、なるほど。Aさん、あえてあなたをお止めすることはしませんが、あなたはあくまでも校長、いや副校長、正直にいってしまえば私などよりさえもまったく下の人間、けして人にものを教えることのできない人間、つまりわが校においてこれっぽっちも使い道のない人間だということをお忘れなきように」Aは田口の忠告に答えず、さっさと事務所をあとにした。胃がむかむかとした。外は強い風が吹いていて、猛烈な勢いで黄色い砂ぼこりを巻き上げ、Aの目をちくちくと刺した。涙があふれ、視界が曇った。ふらふらとたよりない足どりで、どこか、ひとまず休憩できるところ、心をまぎらわし休めるところを探し求めた。
Aは腕で砂ぼこりから目を守りながら、通りの適当な喫茶店に入った。入口の看板には黒地に黄色く『喫茶酒場・袋小路』と書いてあった。古びたつくりの、いかにも人入りの少なそうな店だった。Aが自棄ぎみに店内に足を踏み入れると、そこは意外にもごった返していて、酒の匂いがあたりに充満していた。昼間から大勢の客が酒を目当てにいりびたっていた。酒場も兼ねたこの喫茶店は、がやがやとさまざまな声が入り乱れ、Aはその雰囲気に圧倒されそうになったものの、気をまぎらわせるにはいいわいと、むしろずんずんカウンターの方へ歩みをすすめた。客はAに気づいた者からなぜだかにわかに口をつぐみ、すなおに道をあけた。しぜんとAの周りはもの言わぬ人々の環となり、沈黙の波は店全体へとすっかり浸透していた。カウンターまでたどり着いたAは、あたりの静けさに不気味な感じを覚えつつも、かまわずビールを注文した。店主である白髪の男は給仕を呼んだ。高い声で、元気な返事があった。それは黄色いエプロンをした、やせっぽちで目のたいそう大きな少女だった。Aはなぜか、その少女の目を見るとどぎまぎとした。けして強く印象に残るような美しさはなかったが、その少女を見ていると心が妙に落ち着かず、ジョッキを手渡されたときには思わず取り落としてしまいそうになったほどだった。おまけに彼女から優しい微笑を投げられたので、親しみをこめて笑みを返すと、横から低いがらがら声がした。客の一人だった。「あんたは、新しく来た教師だね」Aはぐいっと一飲みしてから、間をおいて答えた。「そうだよ。でも、それもどうだか」「なんだい、変なことを言うね。あんたは一週間くらい前にここに来てから、ずいぶんと評判になってるよ。校長の覚えもめでたいって話じゃないか」「それは別の人間だ。私は遅れてやって来て、教師の地位をつかみ損ねた」「すると、あんたが噂の先生か。校長には会えたかい?」「いいや。でも、副校長には会った」「それじゃ、もう望み薄だな」他の客は一斉に笑った。Aと話している客も我慢できずに笑いだした。「とにかく、今日は飲めや。明日になったら心持も変わるさ」Aはジョッキの中身を一気に飲み干した。嘲り、笑い、悪態、さまざまな反応をごった煮にした喚声が上がった。おかわりは、と少女がやってきてAに訊ねた。
Aはしこたま飲んで、それからどこをどう歩いたかわからないが、気づけば独身寮の部屋で朝を迎えていた。ちなみに、この寮は「たいじんそう」と呼ばれているらしい。Aは伸びをすると、今日一日の計画をぼんやりと考えた。しかし、それはすぐに霧のように立ち消えてしまった。「もう望みは薄いのだ」Aは思った。「きっと、この街で飼い殺しにされてしまう。戦傷者がモルヒネ漬けにされるような、苦痛を苦痛と感じない日々がやってくるだろう。だが、いったいなぜ。私が何をしたというのか」ため息とあくびを同時に出して気分が落ちつくと、外へ出る気になってきた。「あの少女に会おうか。しかし、まだ時刻が早い気がするな。では、だめでもともと、校長に会いに行ってみようか。だが、どうやらもう遅いに決まっているらしい。つまり、私はどこにも用がない男だ。そして誰も私に用がない」Aは笑ったが、どん底な気分そのまま自分を笑う気にはなれなかったので、かわりに主任の田口の顔を思い出して笑った。すべてが食べ物でできているかのような顔だった。ウエハースのような眉毛、団子鼻、たらこ唇。Aはだれかに似ていると思った。しかしその名は思いだせずじまいだった。笑いつかれて、時計を見ると、もう一時間が経っていた。「出かけるか。よし、行くぞ、聖職者Aよ!」自分を奮い立たせて、這うようにして外へ出た。もう風は吹いていなかった。ふと見上げた空には、雲がじっと浮かんでいた。Aは城の夢を思いだした。「Kは、いまこのときも城を探し求めているのだろうか。それにFは、――果たしてFは、本当に私の前に教師の地位についた人物、つまり(そう言ってさしつかえなければ)私の「にせもの」なのだろうか。そして城は、あの考える人たちの迷宮は、この世界のどこかに存在するのだろうか。存在するとしたら、この世界のどこからでも城が観察できなければならない。つまり、この街の淀んだ空からでも、浮かない顔をして浮いているあの雲の切れ目から、ちらりとその姿をかいま見ることができなくては……私は、何もできないまま終わってしまう」夢にまで見たあの城を、もう一度、この街の空で見たいという願望が、Aを完全に支配した。空にへばりついたまま動かない暗い雲をただひたすらながめて、Aはその日一日を過ごした。
それから一か月がたち、Aは雲をながめるだけの生活を続けていた。街の学校からも、中央からも新たな「お沙汰」は下されず、働くでもなく、遊ぶでもなく、Aはただひたすら無為に過ごしていたのだった。そしてここにきて最初の晩きり、夢を見ることがなくなり、ぐっすりと眠れるようになったはいいものの、健康的な身体はかえって単調な生活の中で意欲を失っていく速度をはやめた。気休めに酒場に行っても、街の人々にもの珍しそうにじろじろ見られるし、給仕のあの目の大きな少女は常連の若い男との恋に忙しくてAのことをめったに見ない。それでも、あの微笑を受けたくて、いまでもときたま、酒場に足を運ぶのだった。「いらっしゃい」と客の一人がAを冷やかした。「注文はビールでいいかい、いいよな。おい、ビール、ビール!」勝手に注文されたビール片手に、Aは娘の近くまで歩いた。彼女は、首からタオルをかけた若い金髪の男と、仕事そっちのけで楽しそうに話していた。店主はお人よしそうな形のいい鼻をときたまそちらに向けるが、しかたなさそうにため息をついて微笑するのだった。Aも同じだった。娘が例の微笑を若者に見せるたび、ため息をついて情けない笑みを浮かべるのだった。嫉妬はすでに羨望に昇華されていた(あるいは堕落していた)。「私も年寄ではないが、彼ほど若くはない」Aは考えた、「おそらく、彼女のあの不思議な微笑みを受け取るのにふさわしいのは、私よりも彼なのだろう。私もけっして(これは本当のことだが)彼女に恋をしているわけではないし、魅力的にも思っていないから、ただあの笑みにだけ興味があるだけだから、あのタオルに縫いつけられたハートの刺繍を見ても、なんとも思わない。でも、この街に来て間もない頃のように、会うたびにあの微笑みを彼女がしてくれたら、こんなに刺激的なことはないんだが!」客の一人がAの心を覗きこんだかのように言う、「先生、やめときな、それはかなわぬ恋だぜ!」と笑いながら、「純子ちゃんはタカシくんのもの、いや、タカシくんは純子ちゃんのもの。これは天地がひっくり返ったって変えられねえ相談さ。あんたもわかってるだろ、タカシくんは毎日汗水たらして働いて、毎日暇そうなあんたとは大ちがい、おまけになかなかの男前じゃないか、なあ」Aはタカシの容貌についてはいささかも同意できなかった。なるほど、切れ長の目はいかにも彼の性格を物語っているようだが、それまでである。小さく引き締まった口元は意志の強さを感じさせるものの、はたして、それ以上の深い意味、ましてやそこに美しさがあるかは大いに疑問だった。率直にその旨を話すと、客はふいにきょとんとしたあと、そっぽをむいてどこかへいってしまった。店主につまみをたのむと、殻つきの胡桃だった。Aは考えた。この殻の中に、世界があるとすれば、どうだろう。殻を割った瞬間、衝撃に驚いたり、外気が肌にあわなかったりして、中の生き物たちは軒並み死んでしまうのではないか。そうだとして、どうすれば殻を割らず、世界を覗けるのだろう。私には、胡桃の中の宇宙を想像してみることしかできない。しかし殻を割っても、中身は干からびた脳みそのような実が入っているだけだった。ジョッキの中身を飲み干して代金を払い(ツケにする客が多かったのでAは店主からありがたがられていた)、鈴つきの扉を開けて、店から出ていくときに、後ろから純子(というらしい少女)の甲高い嬌声がきこえた。
寮への帰り道、Aはふと「学校」を見に行こうと思った。学校は街はずれの山の頂にあり、生徒と職員は全員寮生活をしていた。学校の人間が街まで「下りてくる」ことは滅多になく、Aに会いに副校長や主任の田口が事務所を訪れたのは驚くべきことであり、街でもちょっとした噂になったほどだった。Aは半月ほど前に直訴のため登山を決行したが、どこから情報がもれたのか(考えてみればそんなことは決してありえず、もしかしたら袋小路で酔っている間に誰かにもらしたのかもしれなかった)、山のふもとへ到着する前に警備の男たちに捕まってしまった。屈強な男と、脆弱な男の二人組だった。Aは断固抗議した。「あなたたちは、いったい何の権利があって私の行手をはばむんです。私がどこに行こうが勝手でしょう」屈強な方の警備が答えた、「じゃあ、あなたはいったい何の資格があって学校へ乗りこもうとしているんですか。学校には、とても繊細で感じやすい子供たちもいるし、先生方だって業務に忙しい。そんなところに、あなたのような何の資格も持たない人間を侵入させるわけにはいかない」脆弱そうな警備が付け加えて、「それに、僕たちがいくらあなたを捕縛しようと、それはほら、僕たちは警備員ですから、怪しいひとはつかまえなくてはいけないものですから」Aはこんな待遇ももう少しの辛抱だと考えて、泣く泣くその場は折れた。そうしていまむかっているのは、山とは反対の方角にある小高い丘だった。もし丘のてっぺんに何もなければ、その地点から山の方をあおぎ見れば、木々や山の稜線や雲に邪魔されずに、学校の姿を一望のもとながめることができるのではないかとAは思っていた。「丘はだれの所有物でもない」という話を酒場の常連客から聞いたとき、Aはそんなことはあるはずがないと思ったが、その帰り道に寄ってみると、はたして丘には所有者を示す何の立て看板もなく、さしたる手入れもないまま草木の伸び放題にしてあった。丘に着いたAは、雑多な植物が自由に、生えるがままで林のようになっている中をかきわけかきわけ斜面を登っていった。丘のてっぺんは案の定、副校長の頭のように禿げあがっていて、視界をさえぎるものは何もなかった。Aは学校の方角を見た。高い山の頂に、無数の建物が入り組みつつ複雑にかたまっていた。塔のようなほそながい建築物が幾本か天に向かって伸びていて、その尖端が雲に隠れて見えないものもあった。全体として白い印象を与えるその建築群は、しかし個別に見ると多様な色の集合体でもあった。ただしそれぞれがそれぞれの色を阻害しあって、ごく薄い印象しか残さないため。結果としてありもしない白の印象を見る者に与えるのだった。Aにとって、その姿は吸いこまれるように美しかった。しかしそれと同時に、これほどおぞましい校舎もないのではないか、とさえ思った。その建築群の崇高さは、もはや宗教的な領域にまで達しているように見え、Aの教師としての個人的な倫理観とは相いれないものだった。「崇高な美を、教育の道具にするなんて、何と不毛な行為なのだろう。それはほんらいそれぞれの心にあるものだ。自由な魂をあのような怪しげな建物に閉じこめて、いったい何を教えこむつもりなんだ?」むくむくとAの心に怒りが満ちた。決然と掌を銃の形に模して、いちばん高い尖塔の、雲に隠されて見えない頂を狙った。見えない架空の銃弾は雲の中に吸いこまれ、いまだ見ぬ校長の胸を打ち抜いたように感じた。ただしそれは書斎の壁に並んだ肖像写真かもしれなかった。Aは、大きなため息をついて(もうあくびはでなかった)、これでもう私はこの街から離れることはできないだろう、罰とは罪を犯したものと犯されたものの間における一種の絆なのだから、と思った。
その晩、Aは久しぶりに夢を見た。城の迷宮の中にいて、Kもとなりにいた。Aはなんだか安心して、なれなれしくKに語りかけた。「ねえ、Kさん、ついにあなたも城に入れたじゃないですか」KはAに気づくとぎょっとしたようだったが、落ち着きをとりつくろいながら「ここは俺の探してる城じゃない、ちがうんだ。俺は長い間考えて、城というのは入れないから城だということに思い至った。それまでは城は攻略することができる、なにか現実の城だとおもっていたんだな。ところがそれは間違いで、俺は無駄骨折っていたんだ、なんのことはない、城は幻だったのさ。でも、たしかに城はある。これを説明のつかないことと思うかもしれないが、それはこういうことなんだ。つまり、現実にある城は、俺の探していた城じゃなかったのさ。俺の探す城は、はるか天空に浮かぶ、想念のようなとりとめないものだ。でも目に見えるのは現実の城ばかり、これじゃあ勘ちがいするのも無理ないことだ。Aとかいったな、どうか、俺のことばの意味をよく考えてくれ。そして理解してほしい、城に対して気を許してはいけない、それが幻でも現実でも。でも一方で、城なしで生きていけるような心のない人間にならないでほしい。あのFのような……あの男は、俺の昔の知りあいによく似てるが、中身はまるきり別物だ。あの男に気をつけろ、そして勝とうなんて思うな!」Aは、いまや迷宮にKとふたりきりであることにやっと気がつき、思わず叫んだ。「これはおかしいな、まるでおかしい!」
目を覚ましたAは、顔を洗うと寮をでて、近くの銭湯へいき、ひとまずさっぱりとした。そしてその足で事務所へむかった。受付の女はAの顔を見ると一言、「応接室でお待ちしている方がいらっしゃいます」Aは微笑して、「わかりました、ありがとうございます」はたして、応接室にはFがいた。手足の長い、ほっそりとした、全体として鋭い印象を与える男だった。それが夢で見たFそのままの姿なので、Aは思わず頬をつねった。Fは笑って、「まあ、おかけください」上目づかいに「どうして私がここにいるか、解せないようですね」Aは気を取り直して、「そんなことは、どうでもいいことです。説明なんて後からいくらでもできるじゃないですか」「なんの用です?」「宣戦布告にきました」Fは大きくため息をついた。「あなたは教師に向いていない」続けて、「まず、まつげの形が美しくない。そして、声が見た目より高すぎる(あるいは低すぎるかもしれない)。なにより、教師は城の夢なんか見ない」Aはあくびをして言った。「あなたは、いままでの副校長や田口主任より、よほど手ごわいようですね」「この世では、あなたよりも敵の方がはるかに偉大で強大なのです。それが常識です。ご存じのはずでしょう」「とにかく、私はこれだけを言いに来た、……」Aが言いかけるのFは制して、「そんなことはどうでもいい。あなたは敗者だ」「そうです。それがいいたかった。私は敗者だ。だが、現実として、勝負に挑むのはこれからだ」Fは面倒くさそうに手を二回たたいた。「この男をつまみ出せ!」Aは警備員に両側からつかまれ、事務所から追い出された。そして中央にコンクリートブロックの積んであるだけの人気のない空き地まで連れてこられると、こっぴどく痛めつけられた。「君たちはこう考えたことはないかね?」Aはぶたれながら、なぐさみにいま脳裏に去来してきた適当な思いつきを言った。「我々の住んでいるのは胡桃の殻の中にすぎず、その外側の宇宙は果てしなく広い、と」警備の一人が手をとめた。「それはいったい、どういうことだい?」「それ自体はどうってこともないさ。ただ、胡桃の殻は恐ろしく硬くて、絶対に内側からこわすことはできない」「それじゃ、どうするんだ」「簡単なことだ。殻の外側の宇宙を想像するのさ。それによって外側の無限の可能性をもつ宇宙と内側の無限の想像力をもつ宇宙が相震え、重なり、響きあう。想像することで殻を破らずに外の世界と通じることができるんだ」警備はにたにた笑って、「下らない妄想は、日記にでも書いとけ。くたばれ、この野郎!」とびきり大きな一発を喰らってのびたAは、ばったり倒れ、その場にしばらく横たわっていた。一見死んだようなその姿は、まるで空に浮かぶ雲を見ているかのようだった。あるいは、また城の夢を見ているのかもしれない。 どちらにせよ、ものごとの終わりというものはなく、始まりというものもどこにあるのかよくわからない。そうか、始まりの前にあるのはいつも「完」、つまり終わりなんだ。Aはぼんやりした意識の内で、はっきりとそう考えた。
「これで終わりだ」
盥屋は読み終わると、そう言って小さくため息をついた。
すると突然、木の根元のあたりに、人ひとりが何とか通れそうな洞(ほら)が開いた。
「おい、これは一体全体どういうことだい? 君は魔法使いだったのかな? おみそれしたよ!」宮田は内心ひどく困惑しながら言った。
「お褒めにあずかり光栄だな」盥屋は微笑して答えた。
「それと、なかなか朗読がうまいじゃないか、迫真の演技、感動したぜ!」
「……やはり、この世界は、もはや我々の物語と一体となってしまっている。だから、こんなわけのわからない仕掛けがたくさんあるのさ。自分でも、まさかとは思ったけどね」
「ほう、ほう、ほう、つまり、部外者なのは、もうおれたちだけじゃないってわけだ。この世界自体が変質しつつあるわけだね」宮田はへらへらと笑った。
洞はうつろに二人をのぞき返している。恐る恐る足を踏み入れる宮田、いや、踏み入れると間もなく吸い込まれ、墜ちてゆく――盥屋がそれに続く――洞が二人を飲み込むと、たちまちのうちに樹の皮が広がってそれをふさぎ、跡形もなくなった。
第二章
*
幾何学、幾何学、幾何学……床一面の幾何学的紋様。そして空は不気味なほどに青い。
《ところで、今、何時なんだ?》神は頭がクラクラとしていた。《とにかく、時間が知りたい。我々はもう何分、何時間、いや何日間、歩き続けているのだろうか?》
神は並んで歩くマネージャーを横目でチラリと見た。青年もヘトヘトに疲れているようだ。肩で息をしながら、やっとのことで歩いている。
道はただただ一つきり、ひたすらに続いている。広い道の両脇は絶壁になっており、見下ろすと結構な高さになっている。ちょうど道の幅くらいの高さであろうか。
床には三角形、四角形、五角形、……様々な図形が組み合わさった複雑な幾何学模様が刻まれており、子供のころから数学が嫌いだった神は、それを見つめているとクラクラと眩暈がした。《ああ、悪夢のようになってしまった世界から逃れようとして、今度は正真正銘の悪夢のような世界に足を踏みいれてしまった!》神はこっそりと心の中で嘆いた。
「まったく、いやになるね、この世界は。一体、どこかの誰かは
、私を、何の目的でこんなところに呼んだんだろう?」
「ほら、言ったじゃないですか、幻聴じゃないかって。その声っていうのはやっぱり空耳だったんですよ、先生!」
「……仮に空耳だったとして、それじゃあこの世界は一体なんなんだ? 私たちの見ているこの世界は」
「そりゃあ、おおかた、夢か何かじゃないですかね?……僕たちのどちらかの見ている」
「じゃあどうして二人がこうして考えて話しているんだい? 君は、やけに話を現実的にしたがるね。ちょっと茶化しながら……もう少し、真面目になって考えてくれよ」
「先生、それはひどいなあ……真面目も真面目、大真面目に考えているから、いやでも現実的になるんですがね」
「いや、そもそも現実的という意味はだね……」言いかけて神は議論が馬鹿らしくなってきて口を閉ざした。《こんな不毛な議論、時間の無駄だ。時間?……今の我々には、時間さえわからない……》
二人はそれきり黙った。
あとは一本道をただただ歩き続けた。
何か道しるべになるような、看板のようなもの、それさえも無かった。もっとも、道は一つであるから、迷うこともなかったが。この道はどこへ続くのか? 不思議なことに、二人は腹も減らなかった。神はそれに気づくと、いよいよもって今置かれている状況の異常を思った。マネージャーはといえば、きっと極度の緊張で胃腸の動きが悪いのだろうと解釈した。確かに長い間歩いていても汗の一滴もかかない、これも不思議だが、それがどうしたというのだろう? 彼はあくまでこれは自分の生理現象の異常であると「現実的」な判断をした。
空はひたすらに青く透明である。どこまでも見晴るかせそうだ。気の利いた風流人なら、この素晴らしい空について、なにかいい感じの詩句を引用するかこしらえるかして、披露してみせただろう。しかし神もマネージャーも一言も発さず、ただただ歩き続けていた。
とくべつ、なにもおこらない。時が止まったかのようだった。二人は果てしない距離を歩いたような気がしていた。また、実際に果てしない距離を歩いた確かな感覚がある。この空間が、いわゆる一般的な物理法則を超越していることはあきらかだった。
神は暇つぶしに、今までの人生の出来事を短いスパンや長いスパンなど、さまざまに反芻したり、出会った人々の顔を思い出したりしていた。だがどうにもうまく思い出せないことに気づいて、苦笑した。《私の記憶力も鈍ったのかな?》はじめはそう考えての苦笑だった。やがて《これはただ事ではない、元の世界のことを忘れはじめている!》という驚きの苦笑に変わった。それが上から墨を塗られているのか、消しゴムでこすられているのか、正確な喩えはわからないが、この世界に来てから記憶というものが刻一刻と失われ始めていた。その事実に彼は身震いするほど恐怖した。
マネージャーはこれがまだ夢であると信じていたが、同時に秘かな胸算用もしていた。《こんな重労働、聞いてないぞ。第一、この一連の逃避行にまだ納得がいっていない。先生と編集長の板挟みになって日常に疲れ切っていたところに、この非常! 特別手当は出るんだろうな? それなりの対価はいただかなくては……》彼は編集長の禿げ頭をしっかりと思い起こしていた。
「あの……」「なあ……」
二人は同時に口を開いた。
マネージャーがすかさず「先生からどうぞ」と譲った。
「……もうそろそろ、なにか見えてきてもいい気がするんだが……なにも見えないね」
「僕もちょうどそう思っていたところです。なにか、こう……夢にしちゃしつこいな、と」そう言って困ったように微笑した。
「どうしようか? もう少し進んでなにも無かったら、引き返すことにしようか? あの出発地点まで」
「戻る? うしろに戻ったって、どうせなにも無いじゃありませんか。落ちてきた穴も、きれいさっぱり消えてしまったようですし」
「確かに。では、どうするかね?」
「もうこうなれば、やけのやんぱちですよ……前に進みましょう」《あとでたんと報酬をいただこう》
「そうか……それもそうだね……いや、そうするしかないか」《彼の言うことももっともだ。ただひたすら前に進むしかない。答えは道の終わりにあるだろう……》
そのように話していた時だった。二人の前に、まさしく『道の終わり』といえるものが見えてきた。あわててそこまで走ってゆくと、二人はともに絶句した。突然あらわれた道の終わりには『あるもの』があって、それがことの不可解さを一層増していた。《不可解、不可解、すべてが不可解!》神は目が回りそうになりながらも、必死に自分を保とうと努力した。
道の終わりにあったのは、床から生えた大きな時計の針と、それをのせる文字盤だった。それはまさしく精巧な出来で、今も(おそらく)正確に一定のリズムで時を刻んでいた。ただし、水平に。
「そうか、わかったぞ」神は唸った。
「わかったって、なにがです? いまの時間ですか? こっちは一層わけがわからなくなりましたよ」
「この『道』は、巨大な時計塔だったんだ。ただし、横たわった時計塔だ。それを道だと思って、私たちはここまで歩いてきたんだ」
「それはなんとなくわかりますが」と、マネージャーが言葉を受けた。
「一体、なんで時計塔が横向きに置かれているのか、そしてまだ変わらず動いているのか、そもそもなんでこんなに長いのか? これじゃあ、横たえることを前提にしたつくりじゃありませんか? なんにも、説明がつきませんよ」彼は顔をしかめた。
「そんなことはどうでもいいことだよ。重要なのは、こちらの世界では、時間というものが我々の世界とは違った流れ方をするものだということが、これではっきりしたことだ。おそらく、空間の概念も違うのだろう。それは、いままで歩いてきた道のりでなんとなくわかる。道の終わりを話題にした瞬間、それが目の前に姿を現したことからもね。そしてもう一つ重要なのは、いま、我々二人はその時間の果てへ来てしまったということだ。つまり、この世界の時間の基準の中心へ。時間の果てとは中心のことだからね(ここで彼はちょっとした独自の時間論を仄めかしたが、相手はよく聞いていなかった)。さあ、これから、我々はなんとかしてこの世界の空間としての中心、つまり空間の果てまで行かなけりゃならない。さもないと、元の世界には永遠に帰れまい。もっとも、我々を呼んだ人物や、悪魔どもにもいずれ会うことになるだろうが」
「つまり」マネージャーは神の言葉を要約して言った。「もっと歩かなきゃ帰れない、ってことですね?」
*
……さて、あの二人の悪魔は一体どうなったのだろうか。
身体全体がねじれるような、奇妙で不快な感覚のあと、彼らもまた確かに、あの木の洞から、神一行と同じ世界へたどり着いた。しかし、降り立ったのはまったく異なる場所だったのである。
「……ここはいったい、どこなんだ? 天国かな? それならすぐに帰ろう。それとも、地獄? それにしては人気(ひとけ)がないな、地獄ならもっと混雑しているはずだ。……じゃあ、ここは、どこだ? 物知りの盥屋君、どうかお答えくださいよ」宮田が苛立たしげに言った。
「申し訳ないことに、まったくもってわからないね。まあ、さっきまでの世界じゃないだろうし、私たちがもといた世界とも少し違う」盥屋はいたって正確に、そして冷静に答えた。
「……盥屋の旦那、あんたはこんな時でも、まるで仮面をつけているようにすましているんでござんすね、まったくもって不可解なことに!」宮田は吐き捨てるように言った。
「こういう性分なんですよ。おそらく、生まれつきの冷血漢なんだな。まあ、この身体に、血が通っているかどうかさえ、疑わしいものだが! 確かめるのも、なんだか気が引けるしね……ところで」盥屋が唐突に話題を変える。
「この三方を取り囲む壁は、どこまで続いているのだろうね……?」
彼らの周りを、途方もなく高い壁が取り囲み、遠い空は美しく晴れているのに、辺りは不気味に薄暗い。といっても一方だけはひらけて道が続いており、その先の方で道は左右に分かれている。
「さっきのおれの質問と似ているねえ! じゃあ、おれの予想を述べようか?……どこまでも、さ! きっとね」と宮田は皮肉気に言う。
「君にしては、素晴らしく聡明な意見だね!……君にしては」と盥屋。
「二度も言う必要があるかね? まあいい、こうなったら、とにかく、歩くしかないようだね、あの分かれ道まで。もっとも、普通の状況じゃないから、それだけでなんとかなるとは思えないけどな。ちぇっ、まったく、いやになるぜ! なんのために、こんなところをさ迷わなくちゃならないんだろう? なあ、盥屋さんよ」
「我々の身の安全と、君の砂時計のためですよ。それ以外に何か理由があるかな?」と盥屋は冷徹に呟いた。
「ああ、畜生め! 少なくともおれには、神を呪う正当な理由(ワケ)があるな……そうだろ、盥屋君!」
盥屋の方はそれに答えず、なにか考え込んでいるような風だったので、宮田もそれきり口を閉ざした。
宮田の思った通り、分かれ道を左に行くと、そこにはまた分かれ道が待っていた。それを右、次も右、その次を左。いくつもの、いや無数の分かれ道――二人は、巨大な迷路にいることを認識した。
「いやはや、これはどうにも困ったね」盥屋が落ち着き払って言った。
「どうする? 次の分かれ道は? 右に行こうか、左に行こうか?」
「いや、この際、ずっと一緒の方向でいい」宮田が面倒そうに言った。
ちなみに、盥屋の「いやはや」などという紳士ぶった態度が気になった。
「どちらかを選び続ければ、いつかかならず末端に着くからな」
「君にしては、賢明な考えだ。君にしては。……しかしそれは」と盥屋は続ける。
「この場合そうとは限らないな、宮田くん。……なぜなら、この世界にはどうやら『無限の空間』がありえるようだからね」
「『無限の空間』だって? 君、それは本気で言っているのかね、え? 急激な環境の変化でおかしくなったか? ……それともおれをからかっているのかな?」宮田が問う。
「いやいや、まじめに言っているのさ。この世界は、私たちの最初にいた世界に似ているようだ。神の創った小説世界、私たちの故郷にね。つまり、荒唐無稽な、滑稽な、子供騙しが、まかり通るような世界なのさ。だから『無限の空間』も『無限の時間』も十分にありえる。そうだろう? もっとも、神がいた世界、いわゆる現実世界にだって、それは在り得るのかもしれないが。その存在をだれも証明していないだけで……。ところで、何故この世界が我々の故郷に近いということがわかるのかという話だが、それはね、匂いだよ。このいかがわしげな匂い、雰囲気、そして壁の間からかすかに見える、あのあきれるほど青い空! 間違いなく、この世界はまやかしだ……私たちと同じようにね。そして、神の世界よりもここでは自由でいられるはずだ、我々は」
「ほう、それで?」宮田は愉快そうに訊ねた。
「お前さんの言う通り、神の世界より『自由な』世界なら、どうやってこの迷路から抜け出すことができるんだね? また、適当な呪文でも唱えてみるかい?」
「呪文か……案外、それに近いかもしれない、私の考える脱出方法は。その方法とはね、まさに、そのことについて『考える』というものさ。この分かれ道の終わりについて、丹念に考えるのさ。それだけだ。それによって道は定まるだろう!……私の予測が正しければ」盥屋は心なしか昂奮した面持ちで述べた。
その様子は、宮田には、盥屋の沈殿した狂気が、少しだけ表面に浮かび上がったようにもみえた。
宮田と盥屋はいくつもの分かれ道をゆきながら、この不毛な選択の終わりについて考え続けた。ぶつぶつと独りごちては立ち止まり、狭い空を見上げ、また歩き出し、迷路を進み続けた。
果てのない時間が流れた(あるいはそのように思えた)。
やがて、二人の前に、今までと趣向の異なった分かれ道があらわれた。
交差地点の真ん中に粗末な木の看板が立っており、そこには白いペンキで無機質に「最後ノ選択ナリ」と書いてあった。
あまりにもあっけなく、また馬鹿げた終わりに、若干二人は拍子抜けし、失望さえしたが、すでにこの迷路にもうんざりしていたので、思わず顔を見合わせた。
「ついに最後か。長かったような、短かったような。……まあ、とにかく」盥屋は続けた、
「これでなにか、新しい風景(ばしょ)へ行くことができるよ。……まったく、物語とは風景と風景の連続だ!」
「お高く喜んでいるところ悪いが、盥屋」と不意に宮田が真面目な調子で言った。
「おれから提案があるんだがね」
「提案?……聞こうか」
「どうだい、この最後の分かれ道、別々の道を選ばないかね? おれが右、お前が左。まあ、それはこの際どっちでもいいんだがね!」
「ほう! それは」盥屋は心なしか愉快そうに答えた。
「極めて興味深い提案だね。だが、いったいなぜ? それに、本当にいいのかな? ここで別々の道を選べば、もう二度と会うことはないかもしれないのですよ、宮田殿」
「いやなに、例の、宮田殿お得意の、気まぐれな思い付きってやつさ。そんなに意味はないんだがね、いや、ことによると、まったくないかもしれないな! だけど、いままでずっと二人で行動してきたから、発見できなかったこともあるんじゃないかね? 一人ずつ行動すれば、視点は二倍だ。四人より二人、二人より一人、だ! 単純な理屈だろう!」そう言って宮田はゲタゲタ笑い出した。
「君の提案を受け入れよう」盥屋は口元を歪めながら承諾した。
「ただし、条件がある。どちらかが神と会っても、二人そろうまで、その処遇については保留しておくということだ。勝手に神を尋問したり」人差し指をつき出し、盥屋はさらに口を歪める。
「自由を奪ったりしてはいけない。これは絶対だ」
「了解、決まりだな! あばよ! 達者でな!」そう言いつつ、宮田はすでに右のほうの道へ大股に歩き出していた――
「どうせ約束を守る気はさらさらないだろうが、まあいいさ。一応、釘は刺しておいたからな」という盥屋のつぶやきも聞かずに。
「それでは。これが最後になるかもしれないが。まあ、我々にはそんな別れもよかろう!」盥屋は宮田の背に向け、大きな声で言った。
右方の道へ消えてゆく宮田の後姿をしばらく見送った後、盥屋は左の道に向かって静かに歩み始めた。
*
いよいよもっておかしな世界へ来てしまったものだ、と神と青年は思った。しかし二人とも絶望はしなかった。絶望するためには、あまりにも現実感(リアリティー)がない光景だった。黒い煙を吐くには石炭が足りなかった。そこで二人は結果的に、ただ目の前の問題に対処しようと、それだけを考えることができたのである。もっとも、白い煙を吐くための燃料もどこにもなかったので、手探りでことを進めていくほかないのであるが。
「さて、ではこの時計の針をなんとかして跨(また)いで、向こう側に行かなきゃならないぞ。空間の果てへ行くために」神はそう言って、大きくため息をついた。
「長針と短針に挟まれたら危ないですね。大回りに行きましょう」マネージャーもそう言って、大きくため息をついた。
何しろ巨大な時計であって、それを大回りしていくには結構な距離があった。
空から見下ろせば、この時計が五時一〇分を指していることがわかっただろう。二人は回りきる少し前、一度長針をまたいだ(正確に言えば、文字盤との隙間が大きかったので、そこをくぐり抜けた)。実際にはそこまで危険なことはなかったものの、素早く時を刻んでいく秒針がなぜとなく恐ろしかった。
そして、なんとかⅫの文字の上に立つと、お互い顔を見合わせほっと胸をなでおろした。
「先生、見てください、いい眺めですよ!」マネージャーが目を輝かせながら言った。
横ざまになった時計塔の頂点は、まるでバリアフリーを志向しているかのような緩やかなスロープになっており、その先には鬱蒼と茂った森、さらにその先には峻厳な山々が聳え立っていた。
「すごい景色ですねえ。現実にもなかなかないですよ。でも、どうして今まで気づかなかったんだろう?」
「それがこの世界の魔力さ。心が何かに囚(とら)われている限り、ほかの何かに気がつくことができない」
「なんだか、元の世界でも、そんなことがあるような気がしますね……僕も、この世界に来てから、故郷の世界の素晴らしさに気づきましたよ。なんだかんだ言って好きだったんだな」
「君も、なかなか哲学的なことを言うようになったじゃないか。そう、心はいつも何かに囚われているのさ。恋、仕事、夢、つねに何かにかかずらっていて、そのほかのことに対して盲目で、思わぬところで、思わぬものにつまずいて、転んでしまうのさ。そういうものだ。……さあ、行こう」
「さすが先生、僕の言いたかったことはまさにそういうことだったんですよ!」マネージャーは本当に感激したように高い声で言った。「……でも、その前に、少し休憩しませんか?」
神もその考えに同意して、二人はⅫの文字の上で小休止をとった。その場に寝そべって、せわしく時を刻む秒針をみつめていた。しかし、二人ともさほど疲れていないことがわかり、この世界の異常さに改めて気づかされたのだった。
「先生、おかしくないですか? これだけ歩いたのに、汗ひとつかかないし、いや、かけないし、足も痛みません、いや、痛むことができません」マネージャーは混乱のあまり少々おかしな言葉遣いで訴えた。
「どうやら、この世界では、体の代わりに、心が疲れていくらしいね。その証拠に、私の記憶はだんだんと曖昧になってきている」
「心が? 記憶が薄れる? それはいったい、どういう仕組みなんです?」
「くわしい仕組みはわからないが、やはりここでは意志の力が重要な役割を担っているらしい」
「自分にはあまり向いてない世界だなあ。僕っていわゆる、意志薄弱ですから」
「そうかい? 君には、案外図太いところがあると思うけどね」
「そうですかねえ?……とにかく、これからは気を強く持たなくちゃならない、ってことですね?」
「まあ、そういうことだね。なにがあっても、落ち着いて、冷静にいなければ」
そんな会話をしているうち、にわかにポツポツと雨が降ってきた。はじめのうち二人は気にせず話し続けていたが、刻一刻と雨は強くなっていった。
「参ったな、この世界でも雨は降るようだ。おまけにやっぱり冷たい」
「どうしましょう? このままじゃ、風邪をひくかもしれない。命取りになりかねませんよ」
とうとう彼等は観念して、緩やかな長いスロープを急いで駆け下り、目の前に広がる、鬱蒼とした暗い森を目指した。
「だんだん強まってくる。急ごう!」
「なんだか不吉な雨ですね、舞台の裏方が降らしているような」
二人が森の境に着く頃には、雨はバケツをひっくり返したようなどしゃ降りに変わっていた。深い森である。見上げるほど高い木々の枝には蔦が複雑に絡んでいる。森の奥の方は、無数の葉に光が遮られてとても暗い。ここなら雨をしのぐこともできるかもしれない。少々、不気味ではあるが……。
「あいつだ、宮田だ!」神が突然森の奥を指さして叫んだ。
恐るべき追跡者、憎き悪魔、宮田の姿を森の奥、かろうじて見かけたような気がした。
いや、あるいは気のせいだったのかもしれない。しかしなぜか彼は宮田の存在を確信した。それは視認した、というより、その臭いを嗅いだ、といった方がいいかもしれない不思議な感覚だった。彼と悪魔たちの間には、なにか言葉では言い表せない繋がりのようなものがあるのかもしれなかった。もちろん、そのようなことについて深く考える余裕など、今の彼にはまったく無かったし、そんな絆のようなものを彼が認めたがるはずはなかった。
《ここまで追いかけてきたのか!》神は前方を見据えたまま、しばし黙考した。急激に頭に血が流れ込んだ。《……ようし、いつまでも逃げているのも癪だ、ケリをつけてやる!》
「宮田って、例の悪魔の? どこです? まったく見えませんね。あ! 待ってください! 先生!」
マネージャーは一心不乱に駆けだした神を追いかけようと足を踏み出したが、奇妙にぬめりけのある木の根に運悪くあたってしまい、つるりと滑って転んでしまった。ひどく膝をぶつけ、じんじんと痺れるので、すぐに立ち上がることが出来ない。
「先生! 待ってください! 僕を置いてかないでください! 一人で行くのは、危ないですよ!」マネージャーの声が森に不気味に木魂した。
神は宮田の影を追って森の奥深く駆けていった。自分でも信じられないほどの速さで。
なにが彼を突き動かしたのか?……いかに冷静な人物でも、いったん窮地に陥ると逆上して、突飛な行動をとってしまうことがある。この場合は、そういった心理の不思議な仕組みによるものなのだろう。
とにかく、神とマネージャー君の二人はここで、期せずして離れ離れになってしまったのである。
これは一つの別れの形としてみればましな方と言えるかもしれなかった。友人同士の、お決まりの湿っぽい茶番も、白けた会話もなにもない別れだったから。しかしあるいは、降り続く雨が涙の役割を果たしているのかもしれなかった。これがほんのひと時の別れとなるか、今生の別れとなるか、それは青年にも知れなかったが、言い知れぬ不安が彼の心を襲っていた。運良くまた再会できるとしても、それはもとのままの先生ではないような気がした。《怪しげな悪魔どもに誑かされて、理性を失ってしまうんじゃないか? 悪魔を首尾よく退治できたとして、それは悪魔より恐ろしい存在なんじゃないか?》そんな考えが慌てふためく頭にかすかに浮かんだ。
いずれにせよ、青年はそうとは気が付かなかったが、一種の通過儀礼とでも言えるような運命が神と青年の間に立ち現れ、無情にもその行く道を分けた。
*
道の先には扉がある。まさしく扉だけが立っていた。裏に回ってみても、そこにはなにもない。おそらく盥屋も今ごろおなじ物を眼にしているにちがいない……と考えながら宮田はためしに扉を開け、一歩足を踏み入れる。
突如まばゆい閃光、ゼンゴフカク、アイマイになるカラダのカンカク……まるでみず知らずのだれかに身体をのっとられゆくかのような不気味で無様な感覚。
《チェッ! きにくわないなこりゃ。俺だって人のことを言えないほどの超現実的存在だが、こういう超現実的な体験ってのはどこかウサンくさいところがあるぜ。まるでコドモ騙しだ、馬鹿にしてやがる》
宮田は堅い豆を噛みつぶすかのように歯軋りした。彼にとり超現実的な現象とは近親憎悪の対象でしかなかった。
やがて完全にうしなうみずからの身体の感覚。はてしない虚脱。くわえて、夢と現(うつつ)のあわいをすりぬけるかすかな満足。転移が終わる。
宮田の目に飛び込んできたのは、ゾッとするほど荒涼たる風景だった。思わずうしろをふりかえる。だがそこにはさっきの迷路のあとかたもない。深くため息をつき、周囲をみまわす。
……まるで月のクレーターのような乾ききった窪地だ。あたりには生命の痕跡がみあたらない。枯れた木々がまばらに立ち、いっそうの侘しさをかもしている。
一つの枝に、名もしらない、しれようもない鳥が止まっている。ちらとみためは鴉。しかしその足は三つ。
《ウウム。ヤタガラスだ。空想の生きもの。ふん……》
宮田は憎らしげにその怪鳥を見やった。まるで血をわけた相手を見やるような生々しい視線。
どこだここは。まったく、と乱暴に独りごちた。
「まあ、どこか、とんでもないところにとばされるだろうってことは、こちとら重々承知の助だったけどな! それにしたって、こんな辺鄙な、地獄の最果てみたいなところじゃなくてもいいじゃないか? なあ? カラス君」
宮田はそう怪鳥に呼びかけたが、鴉は知らぬ存ぜぬの風で、その三本足でただじっと枝にとまっている。大げさに舌打ちした後、宮田は窪地の端まで歩いてみた。窪地の中心に落とされた(この表現が適切かはわからないが)らしく、大きな窪みだったので、端まで行くには時間がかかった。もっとも、この世界で時間を気にすることはないことを彼も承知していたから、それについて悪態をつくことはなかった。
窪地を抜け出すと(クレーターの境を登るのは骨が折れた)、峻厳な山並みが見えた。どうやらここは山脈の一部が何らかの理由で奇妙にえぐれてできた窪地らしく、かなりの高地にいるということがわかった。そして山の麓には、鬱蒼とした森が広がっていることもわかった。
《けったいな場所に召喚されたもんだ、まったく! ……とりあえず、神の奴めを探さなくちゃあ》と宮田は考える。
「こんな、変な鳥しかいないところで待っていたって、奴は来やしないだろうな。第一、こっちの気が滅入る! さて、まずはあの森まで降りてみようかね」
彼は一度決めてしまうと早い。すぐさま「山下り」に取り掛かった。正確に言うならば、取り掛かろうとした。ふと誰かに呼ばれたような気がして、窪地をもう一度振り返ったのである。そして彼はぎょっとした。
もう遠くなったクレーターの中心、あのヤタガラスのとまっていた枯れ木の近くに、誰かが立っている。
《誰だ? あれは? あれが、おれを呼んだ?》宮田は様々な考えを巡らせる。それを破るように、
「おおい、君、こっちへ来なさい」と、かすかな老人の声が確かに聴こえた。
かなりの距離である。老人のつぶやきなど聴こえてくるはずもない。だが宮田は声の主が「あれ」だとなぜか確信した。なぜなら、「相対的に」一番近くにいるのは、あの『老人?』なのだから。
宮田がまた窪地の中心を目指して向かってくる間、声の主と思われる老人は枯れ木の下でずっと立っていた。空には燦々と太陽が輝いている。雲一つない青空。呑気に時は過ぎていく。やがて宮田と老人は対峙した。
観察すればするほど、奇妙な老人である。
そこらの枯れ木と見間違うような弱弱しい体躯と裏腹に、細くあけた眼の奥には碧く淀んだ大河のような深い輝きを湛えている。それは彼の持つ生命力と、叡智の非凡なことを示すのに十分すぎるものであった。その顔は、見る人にどこか懐かしさを与える温和な表情と、近づき難い印象を与える幾筋もの峻厳な皺とが対立せず、お互いに複雑に絡み合って存在している密林であった。彼に出会った誰しもがこう思うに違いない……《彼は彼自身の中に我々の想像もつかない、実に豊かな果てしない世界を持っている》と。とにかく、そういった不思議な姿の老人である。
「骨折りですまなんだなあ、ごくろうじゃったなあ」優しげな声で先に口を開いたのは、老人の方だった。
宮田は機転を制されて少したじろいだが、すぐに、
「いやいや、ご老人。なんのこれしき、大したことはありませんぜ! まあ、あと二三倍の距離があったら、おれも怒ったでしょうが、こんな距離、うちの便所より近いですよ! ああ、自己紹介がまだでしたね、わたくし、宮田、宮田の望と申しますです、はい!」と切り返した。しかし、
「ああ、なにも、道化なくてよろしい。誰もいない、なにもないこの場所では、おぬしと二人きりじゃてな」と諭された宮田は、いきなり声の調子をガラリと変えて、
「では、単刀直入に聞くが、爺様よ、一体全体、このおれに、なんのようですかね? 他人のために時間を使うのは、あんまり好きじゃないんだ、手短にお願いしますよ、あとね」と彼は枯れ木の枝を横目でジロリと睨んで、
「あすこにとまっていた鴉は、どこにいっちまったんですかね? たしか三本足の、汚らしい鴉だったが。知りませんかね?」と不躾に訊ねた。
「その鴉なら」老人はゆっくりと答えて、
「心配せんでもよい。餌を求めて、どこかに飛び去ったよ。まったく、あんな老鴉でも、腹は空くと見える」と言って呑気に笑った。
《この爺さん、ただものじゃないな》宮田は腹の中で直観した。
「用というのはね、宮田君、君らは、一人になってはいけないということじゃ。それを教えに来た」
「一人に? おれに、盥屋と一緒にいろと? それはどういうことです? 大体、どうしておれたちのことを?」
「いや、盥屋だけではない。あの小説家ともじゃ。あの小説家の書いた物語の中の存在が君らじゃ。君らは、あの作家の物語の中にいるべきじゃ」
「ほうほうほう、こいつは驚いた! あんた、いったいどこまで知ってるんです? おれたちのことを」宮田は邪悪な笑みを浮かべた。そして、
「じゃあ、おれの砂時計を盗んだ奴も知らないかなあ? それさえ戻れば、おれも元の世界に帰るんだけど!」
「それについてはよく知らぬ。あの作家が盗んだのかもしれないし、そうでないのかもしれぬ。そんな小道具のことは、わしは存ぜぬ。とにかく、あの作家に会うことじゃ。それと」老人から突然、表情がなくなった。
「これは大事なことじゃが、盥屋……あの男には気を付けろ」
「あいつに? へっ、もちろん、言われなくても、そうしてらあ! あいつに言いくるめられないように、減らず口では負けないようにね!」
「違う、違う、そうではない。奴は物事をとても深い目で見ている。おぬしよりもっと高い次元の洞察力を持っておる。奴には奴の考え、奴の企み、奴の悩みがある。おぬしがそれを理解するのは難しかろうし、先の話じゃろう。だが、それを忘れるな。あやつはおぬしの考えているより……うむ、まあ、そんなところじゃ」
「わかった、わかった、わかりましたよ! じいさま、さっさと神を探させてくれ。どうせなら、神のところまで連れてってほしいくらいだ!」宮田は煩わしげに答えた。
「ならば、目をつぶってみよ」老人は小さく笑ってから言った。
「ははあ、なにやら、ぼくをペテンにかける気ですな。乗り掛かった舟だ、もう、こうなったら、なんでもしますよ。……こうですかい?」宮田は素直に目を固く瞑った。
「十数えたら、目を開けよ。それとな、もし天使に会ったら、とにかく逃げよ。今のおぬしにはどうすることもできぬ。では、また会おう」
「一……二……三……」宮田は正確に十まで数え、それからゆっくりと目を開けた。
そこは森の中の、小さな泉だった。その森は、その不気味さからして、先ほどまで見下ろしていた森に違いなかった。あのはげ山の方から清らかな水が滔々と流れ、宮田の足元に小さなたまりをつくっている。彼はしばらく沈黙していたが、やがて独りごちて、
「あの爺さんが森まで運んでくれたのか!」と喜びに口を歪めた。
「ふむ……どうやら、ペテンじゃなかったようだ! あの爺さんが何者にしろ、このことについては感謝しなきゃなあ! まったく、すごい奴だ、底が知れない奴だ! ああ、世の中、底の知れねえ奴ばかり! ……あっちの方に尾根が見えるとすると、だいぶ飛ばしてくれたようだな。ああ! おかしいな、喉が渇いてしかたねえ! なるほど、なるほど、これが『渇き』というやつか! 感じる、初めて感じるよ!」
宮田は泉に直接口をつけ、その乾いた喉を潤した。むしろ毒かと疑いたくなるような、甘く舌触りの良い水。夢中で貪る……。
と、にわかにポツポツと雨が降ってきた。すぐにそれはどしゃ降りとなり、泉はあふれだした。宮田は木々の間に逃げ込んだ。と、向こうから声が聞こえてくる。声は徐々に大きくなり、
「あいつだ、宮田だ!」
……この声は、間違いない、神の声だ!
どうやらこちらに向かってくるらしい。本当に? 本当だ! 向こうに、神の野郎が見える。何故か、宮田は駆けだしていた。声とは逆の方向に。これは一体どういうことなのか? 普段は傲慢な人間でも、不意を突かれると蚤の心臓、臆病な姿を露呈することがある。おそらくそういった意識の不可思議の類ではなかろうか? といっても、これは単なる推測でしかないのだが……。
いずれにせよ、こうして「追うもの」と「追われるもの」とが入れ替わる形になったのである。
*
地面はとたんに泥濘(ぬかるみ)となって、執拗に足をすくう。まるで悪意を持っているかのようだ。たまらず必死にもがく。もがいたおかげで、服がすっかり汚れてしまった。
《この組み合わせ……けっこう気に入っていたのに!》
だが、今はそれどころではない。マネージャーは起き上がると、すぐさま駆けだした。
しかし、森は信じられないほど鬱蒼としていて、方向感覚をむちゃくちゃに狂わされた青年は、実は神の向かった方角とは全くあべこべに進んでしまっていた。
絡みついてくる蔓草を掻き分け、掻き分け、なんとか「先生」に追いつこうとする彼であったが、かえってその距離を広げていることにはまったく気がつかなかった――それも無理はない。彼の頭はすっかり動顛していたのだから。
「先生……先生!」彼はありったけの声で叫ぶ。しかし返事などあろうはずがない。先生は、遥か遠く。
《くそっ先生はどこだ。どこに行った。……どうしてあんなに慌てていたんだ? なにがあの人をあそこまで駆り立てたんだ? ……わからないことだらけだ。とにかく、離ればなれになるのはまずい。早く先生を見つけなければ!》
彼はむちゃくちゃに動顛しながらも懸命にそんなことを考えていた。
やがて雨も止んだ。
マネージャーはへとへとに疲れてしまった(彼の精神が疲労したため、肉体もまた疲労したのだ)。体中の筋肉が固くこわばった。
一休み……一休み……どこか休めるところを心が求めていると、やがて、小さな、きれいな泉にたどりついた。例の、宮田が喉を潤した泉である(もちろん彼にそんなことは知る由もない)。
《こりゃあいい感じの泉だ。助かったぞ! 服も汚れたことだし、少し休んでいこう。先生のことはちょっとのあいだ後回しだ。まずは英気を養うべし》
まずは少しだけ、水面に口をつける。喉が渇きすぎていたのである。
……甘く、心地よい喉越し。
《よし! これはいい水だ》
すでに空からはあたたかな木漏れ日が降り注いでいる。
マネージャーは服をすっかり脱いでしまうと、小さな泉に足をひたした。なぜか泉の水はなまぬるかったが、スコールに冷えた体にはそれが心地よかった。
泉は案外に深く、ちょっとかがめば全身をすっかりひたすことができた。湯船のように泉に浸かりながらマネージャーは考えた。《このわけのわからない世界にも、小さな天国はあるじゃないか。この場所を先生にも教えたいなあ。きっと喜んでくれるだろう……一人はやはり心細い。も少し浸かって、服を洗ったら、また先生を探しに行こう。あの人の身になにかあるかもしれないし。……なにかあったら、僕はクビだ。あの鬼編集長め……いやいや、仕事どころの話じゃないんだ。これはいわば僕の使命だ!》
青年が勇んで思わず右手を高くつきだすと、突然、左足を誰かにひっぱられたような気がした。気のせいかとも思ったが、また、ぐいとひっぱられる。彼はふいに恐怖に駆られ、足をばたばたと動かした。だがひっぱってくる「何か」は抵抗にかまわず今度は彼の両足を強くつかみ一気に泉の底へ引き下ろした。いきなりたくさんの水を飲んだマネージャーの意識はそこで暗転した。
夢の中で、彼は鳥だった。
鳥? 僕は水の中に沈んだんじゃなかったのか。いまの僕の境遇は、どっちかっていうと魚に近いはずなんだけど……。
あ。もしかして、いったん死んでから、生まれ変わったのかな?
こりゃいい。飛んでる、飛んでるよ。身体に重さをこれっぽっちも感じない、僕は間違いなく、重力から自由になったんだ。すいすいと風を泳ぐ感覚は、例えようもなく気持ちいい。眼下に見える景色は水彩画のように霞んでいる……たとえ死んでも、いいことはあるもんだなあ。
でもこの身体、なんだか少し変だぞ。まず翼が真っ黒だ。それだけじゃない、身体中が真っ黒。僕は今、カラスかなにかなのか?
それに、脚の感覚が「一本多い」。どう考えたってこりゃあ三本脚だ。おまけに飛んでいる高さもハンパじゃないし、スピードも普通の鳥に比べたら断然早い。さっき遥か下の方にのろのろと飛んでいく小鳥の群を見かけたばかりだ。
おかしいこれじゃあまるで自分が幻の鳥になってしまったみたいだ。神の使いだという、あの伝説の鳥に……おや? 誰か話をしている……。
「……ひょっとして、彼は死んでいるのか? ちょっと乱暴だったかな」のんきな声がする。
誰かがマネージャーの脚、ではなく手を取って脈を診た。とても冷たい手で。彼は少し身震いした。
「いえ、彼は生きています。気を失っているだけです……」冷静な声がそれに答える。
青年の耳に最初に入ってきたのは、そんな静かな会話だった。彼は飛び起きた。『そう、僕は死んでない! ……そして、ここはどこだ?」というようなことを叫ぼうとしたが、かすれて声にならない。のんきな声が語りかけてくる――
「おはよう! 旅人さん。寝覚めはいかがかな? ようこそ『ヴェクサシオン』の世界へ」
*
『皆さん、おはようございます。さあ、新しい朝です。新しい朝がはじまりました。本日もいい天気です。皆さん、おはようございます……』
声は淡々と同じ文句をくりかえす。
白い柱の上に取り付けられた拡声器から、おちついた、それでいてそこはかとなく上機嫌な男性の声が、あたりの空気が振動するほどのかなりの音量で聞こえてくる。まるで、空高くまた地中深くまで響き渡らせようとしているかのように、拡声器はただひたすら端正な男の声を周囲に伝えている。
しかし、少なくとも、盥屋の耳に不思議とやかましくは聞こえなかった。はたしてそれは彼がいま、孤独であったからだろうか? 否、そうではあるまい。彼は考えた――《おそらく、この声の読み上げる文句がいいのだろう。朝。一日の始まり。朝をたたえる言葉。朝は好きだ――そこには何もないから。朝には過去がない。まるで私と宮田のように――それは素晴らしいことだ! ただ未来のことだけ考えていればそれでいいのだから――そして『いい天気です』――とは! たとえば、雨は憂鬱だ。おそらくそれはあまりにも私の気質と似通ったところがある――だから、同族嫌悪してしまう。それにひきかえ、この声は希望に満ちた明るい宣言を伝えている。何一つ、何一つとして私を暗い気持ちにさせない、福音にも等しい言葉を。いま、私はついている。ラッキーだ。この運が逃げてしまわなければいいのだが!》
盥屋はしばらくうっとりと柱に寄りかかり、恍惚にひたっていた。足で何やらトン、トン、と拍子をとる仕草さえ見せていた。彼は自らの観念世界に閉じこもった。やがて(それが流れたのはほんの数舜かもしれなかった)『放送』は終わり、声はぴたりと止んだ。
《もう終わりかな。残念だが朝は短い。本当に短い。しかしそれも仕方がないことだ》盥屋はそう考え背筋をのばし、迷路の出口をぬけたさきにあったこの奇妙な「しゃべる柱」と別れを告げ、この寂しげに腰まで届く丈の草原から遠くかすかに見える『街』にむかって歩きだした。
『街』と彼が思うのも、ただの勘。それは四方を大きな壁で囲まれていたから、あるいはどこかの軍隊の駐留する巨大な厳めしい要塞かもしれなかった。
だが盥屋の優れた視力は、その壁の一方にある大きな門に一人の門番も確認しなかったので、彼は、それがおそらく、自由に出入りできる大規模な街であると考えた。
彼には行くあてなどなにもなく、また特に明確な目的もなかった。ひょっとしたら、神か、その相棒がいるかもしれない、遠くに見えるその街に行く以外、することもなかったのだ。先々のことはそのあいだに考えることもできる。
彼はゆっくりと草を踏みわけ道なき道を歩んでゆく。
頭では、あの冴えない作家――神のことを考えていた。
《あの男が神、か》ふんとひとつ鼻を鳴らす。
《彼の職業とは、つまり、売文業。ありもしない『大衆』という偶像に対し稚拙な技巧でなんらかの『精神』や『物語』をでっちあげ、流布する、思考存在最後のパラドクス。紙に印刷された文字は蝋燭にゆらめく魔性の踊りで読み手を幻惑し、彼らが思ってもみない・また考える必要のない些末なあれこれを、おせっかいにも胸の奥にざわつかせる。まるで台所の油虫のように。精神とやらを獲得した大衆は新たな『言葉』を求める。麻薬のように。そして最終的には空疎な言葉に踊らされる。犬のような人間が無数に出来上がるというわけだ」彼は酔ったように考え続ける。「まったく稚拙、まったく愚劣!……だが、それによって生み出された私と宮田とは、いったい何者なのだ? ひょっとして、いわゆる〝言葉の綾〟、単なるちっぽけな誤謬に過ぎない存在なのではあるまいか? だとしたら、己の存在をしっかりと地に足つけた状態にまで確立するためには、あのような愚かな(そう、救いようもなく愚かな)神でさえ認めなければならないと? おおっと! なんたる皮肉な運命……だが、その『真実』の残酷さに気づくことができるほどには、私は賢いようだ……もっとも、宮田の奴はどうだか知らないが》
小さくため息をつき、盥屋の思索は宮田望の方向にむかう。
《宮田! なんといっても哀れな男よ。私にはわかる、彼は、自分が神だと思っている、あるいは神になりたいと。神を憎みながらも憧れる、あの哀れな道化! しかしそれが一体に、叶いうる夢なのだろうか? 彼が一篇の小説、一篇の詩でも書けるならば、いやしくもひとりの創造者であるならば話は別だが(たしか、そんなものを書いていたような気もするが……)、彼は神というにはあまりにも道化た道化だ。もしも、道化が神になったとしたら、その被造物たちは混乱し、世界は『混沌の坩堝』と化すだろう。当たり前の話だ。であるからして、彼が神になるなんて、どだい無理な話なのだ。本当は。だが彼には、『無理な話だ』とも言いきってやれないところが、私の甘さ。なんたって、われら二人、これでも、〝血を分けた〟兄弟なのだから!》
盥屋は突然ペシャンコになったように肩をだらりとぶら下げ、立ち止まった。まるで枯れたまま千年間ほど死に続けている木立のように、絶滅した時のまま繁栄の夢を観続けている古代生物の骨のように、彼は彼の中に閉じこもり屹立していた。その姿はもはや本質ではなく、本質の影だった。だがそれを取り囲む『世界』さえ、やはり一種の影であるのではないか? そのような自問自答を観察者に与えかねないほど、盥屋の寂寞たる静止状態は周りの空気を、大地を、あらゆるものを、歪んだ風景(ヴィジョン)へと腐食させていた。
やがて無限のような時間が彼の観念の世界で過ぎ、また意識は形而下へと戻った。観念の世界での無限、現実にはそれが一瞬でしかないとわかると、全てがなにかすこぶる可笑しいことのように感じられ、やはりほんの一瞬間、ナイフで薄く入れた切れ込みのような微笑を、仮面のような相貌の上に見せた。同時に、周囲の全ての景色が彩りをとりもどした――まるで、首を絞められ窒息しかけた者が、不意に喉を締め付ける手を緩められ、たちまちなけなしの生命力で再び精力を漲らせるように。
そして男は溶けかけた氷がもういちど凍りだしたかのごとく、背筋を少しばかりのばし、厳かに全身へ統一した命令を下し、その力でもってゆっくりと歩き出した。
もはや、先ほどまで福音を甘く囁いてくれたあの拡声器の方など、振り返りもせず。
太陽が眩しい。
足元を、地表に縫い付けられた自分の影を見ながら歩いていると、不意に、天に向けた首にぞわぞわとした奇妙な感覚を覚える。
盥屋は空を見上げた。
《―――――鴉か》
漆黒の(当たり前のことなのだが、なぜかその黒さが際立っていた)、老いた鴉がゆっくりと太陽を遮るようにして盥屋の頭上を飛んでいた。
一般的なそれよりもひとまわり大きな、威厳のある、あたかも鷹やら鷲のような風格のある鴉である。そして何より特筆すべきは、その異形――三本の脚をその怪鳥はもっている。
盥屋はそれに気づいて立ち止まり、悠々と盥屋の進んできた方向から街の方へ、羽ばたいてゆく鴉の姿を見送った。
やがてそれは街を通り過ぎ、遥か彼方、大気の層が厚くなり覆い隠す距離に消えていった。
《あれは一体なんだ? 少なくとも、普通の鴉ではない。三本脚の、なんといったか、そう、八咫烏か――鴉と似て非なるもの。奇妙なものは多く見てきたが、あそこまで奇天烈なものは初めて見た、いや、まさか実在するとは》
そこまで考えて、彼は顔を歪めた。
《実在? フィクションの産物たる私がなにを言っている? それに、その実在する世界とはいったいどこのことを指しているのだ? まったく、呆けているな》と自嘲気味に笑う。《あの鴉の身体に蚤が集(たか)っていようがいまいが、関係のない話だ!》
「この世界で起きていることなど、私には何もわかりはしない。同じように、私の考えていることなど、ほかの誰にもわかりはしない。そして、どこにも出ていくための扉はない。望みの光さす窓さえも。この世界という牢獄……」盥屋はそうつぶやくと、また歩きはじめた。なにかを確信したように、先ほどより歩調を強めて。
まだ壁は遠い。
*
走りながら、小説家A、もしくは神は思う、走馬灯のように、おのれの半生を。
文壇をとりまく状況はグロテスクだった。利害は錯綜し、頽廃のムードが全体を覆い、誰もが誰かにおもねっていた。彼はそんな「ばっちいたまり」に背を向けた。
孤高のポーズ。孤低? そういった方がいいかもしれない。
確かに。ともかく彼は書いた。描いた。夢を。希望を。理想を。けれど黙殺された。失笑を買った。彼はずたずたにされた。一度ではない。けれど彼はめげなかった。
彼は多くの短編集と、二、三の長編で知られていた。稀に詩も書いた。まあ、やっぱり売れなかったが。
最近では、マネージャーもついた。はげた編集長の使い走りの青年。彼はすっかり大物らしくなった。おかげさまで、立派な家も建った。……悪魔の魔手によって燃えたけども。
燃え尽きた。彼はこの頃そう感じていた。創作のための力が、光が、ヴィジョンが、彼の全身から消え失せていた。ルネ・マグリットに、鳥の巣の上に卵と蝋燭がある光景が描かれた絵がある。創造力とはそんなものだ。巣の中の、卵を暖める蝋燭の火はもう消え失せた。……暖めない限り、いつまでたっても卵は孵らない。あたりまえのことだ。
いったい、どうしたというのだろう? 結婚でもしてみるか? いや、やめておこう。そんなに簡単な話でもない。
ほかの同時代の作家たちは、相変わらず新作をバンバン書きあげる。だが、面白いかどうかは別として。創作とは自分のために行うものだ、本音を言えば。読者は新作を待ち望んでいる。
誰が書くんだ? 私が、奴らが言うところのこの『神』が書くしかない! なんだと? われながらふざけているのか? ハハハ!
おや、なんだか今日は頭がさえているな。追われる側から、追いかける側に変わったからかな? おかげでずいぶんと楽になった。誰かを追うのは気持ちがいい。なんだか、狩りをしているみたいだ。でも、この狩りはなんだか終わらない気がする。
宮田のやつを追い詰めて、どうする? 追い詰められた奴は、また牙をむいてくるんじゃないか? 役目を交代して、また狩りのやり直し。これじゃ、仮初の狩り、か。うんざりする! なにが目的で追われているのか、追っているのか。私には皆目見当がつかない!
また、パソコンの前に座って、とりとめのない夢想を綴りたい。綴り続けたい。紡ぎつつけたい。物語を。……自分はなにを言っているんだ? これじゃあばっちいたまりに漬かってたほうがマシじゃないか……。
とにかく、奴を捕まえて、話を聞こう。じっくりと。こっちにも言いたいことが山ほどある。なんせ、私が創った存在なんだから。少しはイニシアチブをとっていいじゃないか?
ところで、もう一人の方はどこだ? どうやら、一緒じゃないようだが……まあいいさ、そのうちひょっこりと出てくるだろう。
それに、二人いっぺんに相手をするのはつらい。疲れるだろう。マネージャー君がいれば別だが……いつの間にかはぐれてしまったようだ。やらかした!……まあいいさ、彼なら、そのうちひょっこりと出てくるだろう。……ひょっこりと……。
あらゆるものが日に照らされている。いい加減な造形の岩、ひしゃげた枯れ木立、機械仕掛けの玩具と見まごうような甲虫の這いつくばるやつ、どこまでも広がる砂のカーペット……ここは砂漠。茫洋たる砂の海。
神は宮田を追いかけ、陰気な森を抜け、いつかの山を越え、どこかの砂漠を駆けていた。もう辺りには誰もいない。宮田の姿も、何処に消えたか、見えない。鴉がどこかで鳴いている。鴉は好きじゃない。黒猫みたいに、不吉だ。E・A・ポーが言うには、あいつらは「ネヴァモア! ネヴァモア!」とないているらしいが。それにはなにか、高尚な意味があったはずだが、忘れた。鳴き声に意味なんてあるか?
彼はあてもなく砂漠を彷徨った。
照りつける空の下、鴉の鳴く声がする以外、他の生き物の姿かたちとてなく、むしろ毒蛇の一匹もいれば、彼は懐かしさに胸を一杯にしたであろう。それほどまでに生命の存在が希薄であった。
なにか得体の知れない爬虫類の骨や、ぎらぎらと光を反射する甲虫の殻などが時たま砂にうずもれているのを眼にするたび、Aは言いようのない罪悪感に苛まれた。一体に、この世界には生命の循環がない。死んだものは砂となってゆき、新たに生まれ来るものはいない。ただそこには物体が微小な粒子に成り果ててゆく一連のプロセスがあるだけだ。
ここは、あの宮田たちのいた世界に似ている。ただすべてが砂になっていくだけの、虚しい世界。このような空虚な世界を作り上げてしまったのは、私の乏しい想像力と、創造に対する無責任さではなかったか?
……もちろん、単なる遊戯こそ創造の源の一つであることは間違いないから、この胸の苦しみは本来無用のものであるはずだ。しかし、あの怪紳士たちの言い表しようのないグロテスクさと、薄気味の悪さ、そしてこの不毛な大地を彼らが確かに踏みしめたのだという思いは、彼の心の底に澱の如く沈殿した。
「私が彼らを創り上げてしまったのだ。責任はとらなくてはならない」Aは独り呟いた。
そのとき、神はただならぬ気配を感じて、空を見上げた。頭上に、なにかが飛んでいる。鴉ではない。白い、真っ白な、純白の、大きな、美しい翼。それが生えているのは、人の体。
「天使だ!」神は叫んだ。「本物の天使なんて、生まれて初めて見たぞ!」
天使は悠々と空を飛んでゆく。「ネヴァモア! ネヴァモア!」鴉の鳴き声がまた聞こえた。神はそんなものにはかまわず、天使を追いかけて走った。
「おおい、ここだ、ここだ!」声のかぎり叫ぶ。「ここだよ、おれは! 助けてくれ! 手伝ってくれ! 悪魔を、退治するんだよ!」
「おれは、神だ! 神なんだ! だから、どうか、助けてくれ!」と、ついつい道理に外れたことを口走る。
天使に叫びは届かなかった。だが別のものには届いた。ちょうど、天使のことを恐れて、近くの手ごろな窪みに身を隠していた悪魔の片割れ――宮田望その人である。
「おい! おれを退治する、だと? すいぶんと大きく出てくれるじゃねえか!」彼は怒りのあまり顔を赤黒くしながら窪みから飛び出した。彼は神に追われていたはずでは? ……しかし、彼の心は秋の空のように変わりやすかったのである。
「おうよ! でたな、この、あくたれめ!」神も若干、おかしなテンションになってはいたが、とにかく吠えた。
両者は向き合う。そして思う。こいつ、こんな顔してたっけ。
「ネヴァモア! ネヴァモア!」鴉がけたたましく鳴く。
こうして、神と宮田の世にも奇妙な一騎打ちが始まったのである。
*
《それにしても、ここは鏡に映し出された虚像のような世界だ。それも、きわめて質の悪い鏡に……》
と、盥屋は思った。
本来の世界によく似てはいるが、どこか微妙に違う。
なにもかもが出鱈目だ、とまではいわないが、なにかがねじれている。歪んでいる。もっとも、この世界の視点から見たら、本来の世界のほうが歪んでいる、とも言えるが、それはどちらでもいいことだ。
とにかく、似ているということが厄介なのだ。もしも、この世界の住人が我々と同じく、未完成な言語を話すとしたら? 愚かな思考をめぐらせるとしたら? 哀れにも、敬虔な信仰をもっているとしたら?……うんざりだ。このせっかくの長旅が、さぞかし息苦しいものになってしまいかねない。
しかし、もしもここで骨を埋めるしかない羽目に陥ったとして、どこで死のうと(第一に私は死ねるのかという問題があるにせよ)、一体なんの違いがあろうか?》
盥屋はひとり、首を横に振った。なにも変わらない。そうだ、なにも。
《私がいまいる、おとぎ話のような世界。確かに、この世界には妖しい魔法がある――しかし、それは子供騙しだ。
この世界の神は――そんなものがもし存在するとすればの話だが――愚劣きわまりない。私の求めているものは、少なくともここにはない(この世に答えなどどこにもない、と言えるほど私は詩人でも哲学者でもない)。と同時に私は思索する者だ。考えることをやめない(おそらく、宮田もそうだ。我々の繋がりはその点にしか存在しないのだ)。
宮田。あの男はどこまで考えているのだろう? どこまで? 私ほど深くなにごとかを考えているとはどうも思えない(そう考えるのはひょっとしたら私の驕りであるのだろうか?)。しかし彼には、『行動する』という選択もある、常に。彼は行動家だ。
対して、私にはそのような選択はない。いや、私だって、その時になればあるいは……。》
盥屋は、神の創作した自分の『故郷』が、今いるこの世界とどこか似ていることに気がついた。そしてなにか言い知れぬ寒気を覚えた――それが一般的に「恐怖」と呼ばれるものであったということには、ついぞ気づかなかったが。
そうだ……。
「君は、自分が神になりたいと思っている」
そう言ったとき、盥屋は、内心、宮田に次のように答えて欲しく思っていた。
「(固く握りしめた拳を高々と空に振り上げながら)おやおや、どうして、どうして、君というやつは油断ならないね!」そして宮田は驚きを隠しもせずに続ける。「その通りさ! 君が神、と呼ぶところのものに、俺はなりたいのさ! 絶対的な自我の支配者にね! ただ、あらゆる因果の及ばない、『ごく小さな範囲でのエゴイズム』さえ守られたなら、俺はそれでいいんだが! 俺が虫も殺せないような善人であると同時に、大量殺戮もまた辞さない悪漢であることが許されるような一点! その、『拳一握り分のロマンス』が、神への欲求、いや、正確に言うと、神への呪いが、被創造物としての嗚咽が、俺に闘えと呼びかけるんだ……汝、汝が呪うところの神となれ! とね」と。
何故なら、これが彼の無意識に違いないから。
それに対して盥屋はこう呼びかけるのだ。
「同志よ!」高らかに叫ぶ、「われらその目指すところは違えど、他者と自己の違いはあれど、神への欲求と呪詛の面ではこの上ない同志よ! 共にゆこう! 遥かあてなき道を、この朝日に誘われて!」
朝日なんて実際に出ていなくてもいい、ただ何らかの景気づけが欲しかった。この、傍から見れば単なる茶番と捉えられかねないような、奇妙な門出に対しての。
宮田の不幸の最たるものは、己の本質的な欲求の無自覚である、と盥屋は思っていた。彼が自らの志向を明確にすることが出来れば、あの無軌道なふるまいもなくなり、我々は易々と目的達成のために手を携えてゆけることだろう。……手を携えて? それはあり得ないか。われら二人、いくら兄弟と言っても、腹違いの兄弟だ、彼は神の情念の子、私は神の理性の子。きっとそうに違いない!
いずれにせよ、悲劇を演ずるには大根役者過ぎるが、喜劇を演ずるにはお似合いの二人だ。なんと滑稽な復讐譚! 彼にも私にも、適役があるはずなのだ……この茶番劇の内に。
《ふむ……それは、果たして……》
彼はなおもとりとめなく考え続ける。
誰かが言った、人間は考える葦である、という。では、私は?
少なくとも、人間、まったくの人間ではあるまい。それなら私は一体何者だ?
とにかく、私は考える者だ。
だが、私が考える何者であるかを、私自身に上手く説明することができる者が、私自身にしっかりと教え諭すことができる者が、どこかにいるのだろうか?
私には存在するとは思えない。私は孤島だ。ならば、自ら考えるしかない、自らが考える理由を。
解明したいことは山ほどある。例えば、私はなにを求めているのか? そしてなにを恐れているのか? 私以外にわかるはずがない。わが「無二の相棒」の宮田にだって、わかりはしないだろう。
ましてや、あのニワトリのように愚劣な男――「神」――には、私を理解できるはずがない。彼は私達を誤解し続けるだろう。単なる鬼っ子だ、悪魔だと、ただひたすらに、頑なに。
しかし、それでいい。いや、それがいいのだ。そうでなくては始まらない。神が愚劣だからこそ、被造物は必死になって考える――この誤謬だらけの世界をどのように生きていくべきか? いかに存在し続けるべきか? と。
我等を生んだ神は白痴で、なにも教えてはくれないのだ。ただ創造――いや、想像し、妄想し、夢想するだけだ……そして同時に被造物の命を奪ってゆく、無造作に。だからといって、神をどうこうすればすべてが解決するわけではない。なにも変わらない。むしろひどくなってゆく。我々自身が変わらなくてはならない。そのために考えなくてはならない。
私は善人なのかもしれないし、悪党なのかもしれない。どちらにせよ、白痴の被造物の地位に甘んじているよりかはましだ。なにも気付かず、ただ眠っているよりかは。皆、眠っている。なんと、神さえも! 私ひとりは目覚めていなければならない。
こんなことをひたすら考えている、当の私は、宗教家だろうか? それとも哲学者? それとも……狂人?
おそらく、そのいずれでもない。私は思索者、孤独な思索者の一人に過ぎない――――『ごく小さな範囲でのエゴイズム』……私にとってそれは、考えること、考え続けることだ。
たとえ神であってもこの自由を侵すことはできない!
そして私にとっての『拳一握り分のロマンス』とは……全部とは言わない、少なくとも、私の思索する幾つかの問いに対しては、「明確で・調和した・良い加減」の答えを見つけることができるという、微かな、淡い、個人的な希望に他ならない。……
《この世界、あるいは牢獄、あるいは孤島、あるいは問い……を越えていくための、私なりの、はっきりとした扉……つまり答え……》
そのうちだんだんと、壁が近づいてきた。壁の方から迫ってくるかのような感覚。ただの錯覚だ、と盥屋は冷酷にその認識を切り捨てた。石を積み重ねてできた、堅牢そうな壁。いったい、何発のダイナマイトがあれば、この壁を崩せるのだろうか? 彼は意味もなく計算した。まったく速度を変えず、歩き続けながら。
ついに、門の前に立つ。光を吸いこむ黒色の、巨大な門がそびえている。陰気な門だ、と彼は思った。それとも、見る者によってその印象は変わるのか? これも一種の鏡のようなものなのか。辺りにはやはり人気がない。
「さて、どうすればいいのかな? また呪文でも唱えるか?」盥屋は微かに笑った。彼お得意の皮肉よりも、疲れから生まれた、どこか諦めたような澄んだ微笑だった。
しかし、何もする必要はなかった。試しに手で触れると、門は自然に左右へ開いた。音もなく。盥屋が通りすぎると、門は静かに閉まった。
《まったく、便利な仕組みだ!》
今度こそ皮肉気に口を歪める。
壁の内側には何があったか?
そこは街だった。壁の規模からもわかることだが、大きな街だ。
大小さまざまの家が場所を争うように出鱈目に立ち並び、寺や教会や、商店や、役所、その他諸々の施設もあった。街の中心部の方に、ドーム屋根やヘルム屋根、小塔屋根が見える。人々は活気に満ち溢れ、この広い街並みのそこここを行き来していた。
住居の形もさまざまで、イズバのような丸太小屋や、藁屋根の小さな家、杭を打って床を高くしている家屋など、とりとめがなかった。ある家の庭先では、鶏や羊、豚がめいめい好き勝手鳴きながら泥の上を蠢いていた。ある家はまったく近代的な住宅で、駐車場とガレージらしきものがあったが、自動車はどこにもなく、おまけに家そのものが荒れ放題だった。
つまりこういうことだった。その街はまるで誰かの記憶の箱をひっくり返して、なにもない空間を無理に埋めようとしたかのような、混沌とした街だった。
壁の内側の、ごちゃ混ぜの街――《いよいよおとぎ話めいてきたな》盥屋は思った。
誰も彼の方を振り向かない。《私の姿が、見えていないのか?》しかしふと、頭に荷物をのせた一人の少年と目が合った。《どうやらそういうわけでもなさそうだ》つまり壁の向こうからの訪問者も、さして珍しいものではないらしい。
門から続く大きな通りを歩く。ただその場に立って辺りを見回すもの。家族で買い物をするもの。裏路地に急ぎ足で入るもの。彼はさりげなく、いろいろと観察した。……人間の姿は、この世界も変わらない。話している言葉も理解できる。
悪夢のような世界だ、と彼は思う。せめて頭から角の生えた、三本足の、逆立ちで歩く人間だったなら、もう少しマシだったのに。宮田なら、はっきりとこう言っただろう。「また人間か。もううんざりだ!」
《人間とは何だろう。結局のところ、自分を人間と信じているか、他人から人間だと思われているかしている者のことを言うのだろう。その線でいくと、私はどうだろうか。おそらく、自分を人間と認めたくない人間なのだろう。道行く人々は、私を単なる人間だと思っている。私はそれを不快に思うが、今の私に他人の考えを変える術はないし、そうしようとも思わない。私は悲しいほどに人間だ。きっと人間の中にも、自分が人間であると認めたくない連中が随分いるに違いない。だけれども、そんなつまらなくて小難しいことを考える彼らこそ、本当に人間らしい人間だ。人間らしさとは、矛盾に満ちたものだ。ないものねだり、いや『あるものいやがり』だ。確実に存在している事実(自分が人間であること、何か特別な存在ではないこと、etc.)が、我々を苦しめる》
「どうです、一杯?」いきなり目のでかい小男が盥屋の目の前にひょっこり現れ、話しかけてきた。酒場か何かの客引きであろう。「お疲れでしょう?」しわがれた声で囁く。
「疲れないみたいなんですよ、それが」盥屋は真顔で答えた。「この世界ではね。私は、こことは違う、別の世界からやってきたんです。異次元からの来訪者といってもいいかな。だから、少々元の世界との差に驚いているところで……」
「え? ああ、はい、そうですか、そうですか、それは失礼……」
男は奇異の目で盥屋を見上げた後、話もろくに聞かず、そそくさと去っていった。もうすでにしこたま飲んでいると思われたのだろう。それにしても、酒を飲む時間でもないだろう。まあ、それも、時の概念が元の世界と一緒ならの話だが……。
盥屋は考える。どうしようか? あの、懐かしき神を探すか? だが、この人ごみから誰か目当ての人物を探し当てることなど、到底できはしないだろう。そもそも私は、誰かを探していたのだろうか? ここにいるのも、元はといえばただの付き合いだ。が、しかし、別にすることもないのだ――考えること以外は。
「ここは随分と明るいな」と独りごちた。
通りすがりの誰かが怪訝そうに彼の方を見やる。しばらく、その場にただ立っていた。
「ずいぶん、明るすぎる」
やがて彼はゆっくりと通りを横ぎり、突然うす暗い裏路地へとすばやく姿を消した。
*
マネージャーの目の前に立っていたのは、よれよれの背広を着た、熊のような男だった。
毛むくじゃらなわけでも、鋭い爪や牙を持っているわけでもないが、なぜか彼は会う人に必ず熊のような印象を与えるのだった。それはもしかしたら、顔の中心が見事に盛り上がっていて、そのくせ先端の鼻はつぶれた三角形をしているからかもしれないし、とても小さく気弱そうな眼や、それと対照的に大きく、よくしゃべり、よく食べそうな口のせいかもしれない。とにかく、魔法で熊にされた人間、いや、人間にされた熊のような外見と仕草で、恐ろしいような、愉快なような、ちぐはぐな印象を与える人物……あくまで人間と考えた場合だが……であった。
「ようこそ! ヴェクサシオンの世界へ。お目覚めのようですね」男はくりかえした。
「はあ、おはようございます。……それにしても、いったい、ここはどこです? あの世かな?」青年は辺りを見回した。
白を基調とした室内。薬品の臭いが鼻をつく。どうやら、病室のようだ。……少なくとも、あの世ではない。彼は粗末な寝台に横たわり眠っていたのだ。まるで病人が着るような味気のない服を着せられて。
「ははは、冗談がお上手ですね! ここは、『ヴェクサシオンの街』の病院ですよ。あなたを引っ張り寄せてみたら、意識不明だったもんだから、急いでここに運んできたのです。まあ、なかなか良いところでしょう?」熊男は笑みを浮かべた。
「もっとも、あなたにはまだ、状況が呑み込めないのも仕方ないことです。あなたは、なにも知らないのだから」熊は真面目な顔つきになった。
「そういう私も、そんなに多くを知っているわけではありませんがね!」
「いろいろと聞きたいことはありますが、まずお聞きしたいのは……ここにはあなた一人なのですか、ミスター? 他に誰か、ぼくの脈を量ってくだすった人がいたはずですが」恐る恐る青年は言った。
「ああ、その人は、医者です。彼なら、あなたが飛び起きたときに、そそくさとここから出ていきましたよ。恥ずかしがりやなんですよ……それと、私のことは『市長』とでも呼んでください。この街の長(おさ)をやっております」熊は言った。
なぜ町長でなくて市長なのか? それはマネージャーにはうかがい知れないことだった。
「そうですか、市長! それでは、よろしくお願いします。ぼくのことは『マネージャー』で結構です。いや、これにはワケがありまして……そう、人がぼくのことをさんざん『マネージャー』と呼ぶので、とうとうぼく自身が本名を忘れてしまったのです!」
青年は苦笑した。
「なるほど。了解! マネージャー殿。それでは早速、参りましょう」そう言って微笑し、市長はマネージャーに立つよう促した。
「参るって、どこに?」彼は立ち上がって、大きく欠伸をした。「失礼」
「街を案内しましょう。あなたを危険な目にあわせてしまいましたから、せめてもの罪滅ぼしです」
「じゃあ、ぼくの足を引っ張って、ここまで連れてきたのは、あれはあなたなんですか?」
青年は混乱してきた。
「……とても人間業とは思えない」
「ああ、そうです! ま、まあ、市長の権限ってやつでね、それくらい、お茶の子さいさいですよ。いやあ、申し訳ないことをしました。……あなたの力が必要だったのです!」
「ぼくの力? 一体どういうことです?」
『ぼくには、隠された超人的な力があるのか?』
「あなたが沐浴していたあの泉――あすこはとても「神聖」な泉なのですが――あの泉に、汚らわしい誰かが、口をつけたのです。歪な精神の持ち主です。恐らく他の世界からやって来て、なにかよからぬことを考えている……心当たりはありませんか?」
「そいつこそ、ぼくらが追われている、いや、追っているのかな……とにかく、見たことはありませんが、憎むべき敵です、恐ろしい奴だということは知っています!」
「そこで、あの泉を訪れたあなた――とてもわかりやすい心の持ち主ですね――いや、失礼――あなたが何か事情を知っていて、解決策を案じてくれるのではないかと。つまり、奴をこの世界から追い出してくれるのではないかと……実は、この街では近々、大規模な祭りが予定されていましてね……伝統の、大切な祭りなのですが。そこに、怪しい輩が現れて、すべて台無しにしてしまったら、トンでもないこと、私の面子も丸つぶれです」市長は神妙に言った。
「なるほど、少しだけわかりました!」マネージャーは目をパッチリと見開いて言った。「つまり、このぼくに悪魔退治をしてほしいと、そういうわけですね?」
「その通り!」
「それは無理!」
「なぜです?」
「こわいからです、元はといえばぼくたちは奴らから逃げていたのです!」
青年はいままでの経緯を説明した。突然訪ねてきた先生に引きずられるがままに、この世界に来てしまったこと、そしてはぐれてしまったこと、無断欠勤して、禿げた編集長がなんというかわからないこと、などなど。
「こまりましたね、それは!」熊は眉をひそめた。
「どうしたもんかね……では、その『先生』とおっしゃる方は、今、悪魔どもを追っかけているのですね? それは頼もしい。その方が退治してくれることを祈りましょう。おお、神よ」
市長は真顔で祈った。
「ところで、ぼくはどうすれば?」青年は恐る恐る訊ねた。
「よかったら、ぜひとも、街を案内してほしいんですがね……せっかく来たんだし」
いくら現実的な青年とはいえ、やはり好奇心には勝てないのである。
「もちろん、もちろんです! さあ、行きましょう」
熊はにっこり笑った。
夕暮れの街はにぎわっていた。テレビや写真で見る異国の歴史ある街のような、古風な建物、それに混ざって近代的な建築物、そしてとめどない喧騒。
衣類は返された。マネージャーは新品同様きれいに洗われた服を着て、市長の案内を受けながら、大通りを歩き回った。《賑やかなところだ、まったく! この世界には人っ子一人いないかとも思われたのに、ここには人、人、人、人の山だ。様々な人にすれ違う。少年、中年、老人……。ここも変わらない、何も変わらないんだ。ここにはここの、平和な時が流れている。この平和を、悪魔どもに、滅茶苦茶にされてたまるか!》彼の心は純粋な正義の炎に燃えた。そう、彼には無意識の英雄願望があるのである。現実家の顔と英雄に憧れる無意識――これがこの単純な青年の唯一のこみ入った部分であった。
と、青年の脇を、男が通り過ぎる。上等な外套を羽織った、背の高い男。歩き煙草だ――男はこの人ごみの中、平気で煙草をふかしていた。もしかして、こいつが悪魔か? 青年の直感がそう告げる。よく観察しようとしたが、群衆に紛れてしまった。……それにしても、危なっかしいったらありゃしない!
「ちょっと、ここらで用がありますので、待ってていただけますか? 適当に暇をつぶしていただくということで」熊市長が言った。返事を待たずに大きな建物の中に入ってゆく。郵便局だ。
「わかりました。ごゆっくり」熊の背中に声をかける。さて、どうしよう?
青年はぶらぶらと商店街を歩いた。香辛料のきいた肉やら、新鮮で鱗が光っている魚やら、丸々太った野菜やらが、店頭にうずたかく積まれている。「安いよ! 安いよ! 買ってけドロボウ!」威勢のいい声が飛び交う。彼はすっかり魅了されて、真剣に商品を物色し始めた。物珍しい品ばかりだし、こうした人気(ひとけ)のある場所にいるのは久しぶりだったので、神経が昂ぶってしまったのである。
そのうち、郵便局から遠く離れて、裏路地の方へ来てしまった。路地は毛細血管のように広がり、果てもなく続く迷路だ。人気も、だんだんとまばらになってきた。心が落ち着いてくるとともに、逆に体は疲労を感じるようになった。いままでになかったことだ。なにかよくない前触れだろうか? と青年は思った。
壁伝いになんとか元の道に戻ろうとする。空が狭い。もう夜だ。
突然、誰かが彼の右手をつかんで、強く引っ張った――――
《おいおい、今日はやけに引っ張られる日だな!》
建物の間の細い隙間に連れ込まれる――口を強く抑え込まれる。
マネージャーが必死に抵抗すると、相手は意外にもすんなり力を抜いた。
「やはり、こういう手荒な真似は私には合わないよ、宮田! それに、ルール違反をしてしまったな」その人物はなぜか少し愉快そうに(そして青年ではない誰かに)呟いた。
声の主を見る。それは、暗闇にもぼうっと浮かび上がる、青白い顔をした、背の高い、黒い外套を羽織った男。まるで亡霊のようだ。さっきの歩き煙草によく似ている……。
それよりも、今、この男、宮田と言ったか? 先生から聞いた、悪魔の片割れの名前。まさか、こいつが――――
「はじめまして。……君は神と一緒にいた人だね? おそらく、マネージャーか何かだろう? 今は独りでいるのかな? それは好都合、好都合。いや、いきなり乱暴なことをして申し訳ない。大声を出されると困るのでね」
男は仮面のような表情のまま話しだした。続けて、
「私は盥屋、君たちの言うところの、悪魔だ。といっても、君たちが思っているほど大したことはない、小悪魔だがね。フム、もっと正しく言えば、君のにとっての……そうだ、『先生』と言えばいいかな?……その息子……のような者ですな。どうぞよろしく」
「ああ、どうも……お噂はかねがねうかがっております……」青年は相手の丁寧な態度に、妙な気持になって、小さく頭を下げた。
「そうです、僕は先生のマネージャーです。こちらこそよろしくお願いします」
悪魔の片割れと不幸な青年はこうして出会ったのである。
*
超自然的な現象の数々をさんざん語った後に、いまさら申し上げるのは少しばかり気が引けるのだが(冒頭にも少し触れたのだが)、この物語にはそういった荒唐無稽な要素が横溢している。たとえあなたが夢で観たといっても、誰も聞く耳をもってはくれないような信じがたいことが……。だから、天使だとか悪魔だとか怪鳥だとかが出てきたところで、どうかその現実性(リアリティー)を気にしないでいただきたいのである。もちろん、たとえ彼らがちょっとした活劇のたぐいやら、お涙頂戴の茶番劇やらを演じ始めたとしても、なおさらのこと。
架空の存在なりに、彼らは彼らの思うように行動していくのである。
考えてみたまえ、いくら厳しく見積もっても、架空の存在である彼らにだって、ある程度の自由はあるといえないだろうか? そしてその自由の中に、『己の思うままに存在する』という自由が入っていても、不思議ではないのではないだろうか。一見して夢の残り香にすぎないような彼らにも、ほんの少しばかりは居場所があってもいいのではないか……。おそらく、彼らのおこないによって、これからますます物語は混乱し、とりとめなく賑やかになっていくだろう、しかしそれは秋の空の気まぐれのようなもので、突然静かになったり、また荒れだしたりするかもしれないのだ。そう、役者の即興(アドリブ)で、物語は変化していく……それがいくらひどい舞台、衣装、演技であろうとも。当たり前の話だが、即興劇の規則と言えば、台本がないことだけなのだ。
*
一方、神と宮田が対峙しているその上空で、天使はその様子をうかがっていた。
灰色の外套に身を包んだ、痩せた長身の男だ。痩せてはいるが、その均整の取れた顔のつくりは、まるでよくできた彫刻のような美青年。小さく形のいい耳、鼻筋はスッと通り、瞳は燃えるような赤。唇はこの整った顔の中でも特に美しいかたちをしているのだが、血の気が異様に悪い。そして、外套の背面には、周りを縫って補強を施した、縦長の穴が開いており、その穴から伸びた白い翼は、天鵞絨のような光沢を帯びて、仄かに美しく輝いている。
左手はポケットに突っ込み、もう片方の手で一般的なそれの倍はありそうな長さの煙草を燻らしている。チリチリと先端は徐々に灼けてゆき、くすぶる灰色の煙がほわりほわりと虚空に長く伸び、やがて消えていく……。
はたして、それがこの煙草によるものなのか、他になにか原因があるのかどうかは知れないが、この美男子はどことなく健康を害しているような、病的な兆候を全体として見せていた。生気の感じられるのは、内部で密かに激しい野心を燃やしている、大きな赤い瞳だけである。勿論、はたして天使に寿命や病が存在するのか知れないが、確実に虚無的な要素を多く持っている彼の身体の中で、この瞳だけは生の気概を失わずに在った。
「さて、さて、さて。これは見ものだ。どうなることやら」彼は天使らしからぬ歪んだ微笑を血色の悪い口にたたえながら、呟いた。「しかし、その前に、誰か、私に用があるようだ。まあ、要件の、大体の見当はつくがね。ここはひとつ、挨拶をしなければ礼儀に反するな。もっとも、相手にそんな気は毛頭ないようだが!」
そう言うと、不意に天使は勢いよく翼を羽ばたかせ空中で大きく宙返りをした。
と、先ほどまで天使のいた場所を、正確に、黒い影が通り過ぎてゆく――それは漆黒の巨大な老鴉だった。……その脚は三本あった。例の八咫烏である。
「ネヴァモア! ネヴァモア!」天使に向かって、威嚇するように、執拗に鳴き叫ぶ。
「危ないじゃないか、カラス殿。もう少しで空の交通事故を起こすところだったよ。その場合、誰がどう見たって君が悪い。酒でも飲んでいるのかね? 飲み過ぎは身体に毒だよ」天使は静かに、侮蔑を込めて言った。
「ネヴァモア! ネヴァモア!」鴉は天使に向かって一声鳴くと、一気に加速して再び天使の方へ突撃をした。
それを天使は先ほどと同じように宙返りして避けると、大きな声で言った。
「ほほう、カラス殿、君はあくまでも、この熾天使(してんし)に喧嘩を売ろうというのかね? やめておきなさい、すぐに黒焦げになってしまうよ。もっとも、君はもともと真っ黒だがね!」
男は、高笑いしながら、鴉の方に向けて煙草を放り投げる。
と、たちまちにそれは内側にめくれて丸く形を変えると燃え上がり、轟音とともに巨大な火の玉となって爆ぜた。
炎を自在に操る天使――熾天使の妖しげな魔術は、辺りを煌々と照らす。
老鴉は咄嗟に身をよじってなんとか直撃を避けたものの、少しだけ羽が焦げ付いた。
「そういえば、腹が減ってきたな……焼き鳥は大好きなんだ。覚悟してもらおうか!」天使の口にはすでに新たな煙草が燻っている。
「ネヴァモア! ネヴァモア!」鴉がやかましく鳴く。どうやら、鴉の方にもなんらかの手があるようだ――――
「おい! うるさいぞ!」地上から怒鳴り声が聞こえてきた。神とあれこれ言い合っていた宮田が、上空の闘いに水を差したのである。いや、二人の論争に水を差したのが熾天使たちだといったほうが正しいのかもしれない。どちらにせよ、宮田は叫ぶ。「静かにしろ! できないなら、どっかに行っちまえ! なんたって、おれはこいつと、この神様野郎と、極めて重要な話があるんだからな! 私(わたくし)、宮田望は、あんたらがこの場からさっさと去ってくれることを切に願う!」
「おや、これは失礼!」ペチンと自分の額を大げさにたたくと、天使は小さく頭を下げた。「私だって、こんなつまらない喧嘩をして、騒がしくする気は初めから無かった。では、悪魔殿のお望み通り、目障りな天使は消えますよ。君たちの世にも奇妙な喧嘩を観戦できないのは、少し残念だけどね。まあ、私には仕事があるし、仕方がないか。……さて、カラス殿、この勝負はお預けだ。しかしまた、私の邪魔をするというのなら、今度こそ、焼き鳥定食だ!……さらば!」
そう言った天使が胸を何倍にも膨らませながら大きく息を吸い込み、吐き出すと、たちまちその全身を真っ白な煙が覆い、それが晴れると、翼を生やした怪しげな男、天使の姿は、すっかり消えていた。
鴉は男が消失した辺りをじっと睨んだあと、突然なにかに気づいたように、びくりと身を震わし、大急ぎでどこかへ飛び去って行った。
こうして空中の、短く、熱い戦いはひとまずの終わりを告げた。だが地上では、相変わらず二人の男が対峙していたのである。
「一体全体なんなんだ、あいつらは? まったく、最近の鳥どもは!……まあ、とにかく、邪魔者は去った。さあ、ゆっくり話し合おうじゃないか?……神よ!」と宮田が毒々しげな微笑を浮かべて言った。
*
「おおい! マネージャー君! マネージャー君! どこだい? どこにいるんだい?」
郵便局から出てきた市長は、辺りに青年の姿が見えないのに気づき、大声で彼を呼んだ。しかし、五分ほど経っても、一向に彼は現れなかった。いやな予感がした。額から汗がにじむ。それからさらに一〇分経った。青年の姿はどこにもない。全身から汗が噴き出す。
しまった、なんてことだ! マネージャー君が消えてしまった!
「おやおや、どうしましたかな? 市長」
途方に暮れている市長のもとへ、立派な軍服を着た、狐のような男が近づいてくる。どこか狡猾そうな印象を与える、細い目と裏腹に、その声は明朗で勇ましい。だいぶ年配のようだが、その足取りはしっかりとしている。その顔は全体としてよく狐に似ているが、どうやら人間のようである。
「ひどくお困りのようですが、祭りの準備に手間取っておられるのか?」彼は親切そうに言った。
「ああ、隊長。こんにちは」市長はポケットからハンカチを取り出して、顔を拭った。だが汗はいくらでも噴き出してくる。「いや、なに、一緒にいた人とはぐれてしまいまして。その人、この街は初めてなので、迷ってしまわれたんじゃないかと。それが心配で心配で」彼は本当に心配していることがらについては一切口に出さなかった。
「それはそれは! では、吾輩にお任せあれ。さっそく、部下たちに探させましょうぞ」狐が慇懃に言った。
「本当ですか? ありがとうございます。……いや、見つかるといいのですが」と熊市長。
「我々自警団を甘く見てもらっては困りますな! この大切な時期に、市長のお手を煩わせるわけにはまいりませぬ。とにかく、その方の特徴を教えていただきたい」狐は自信たっぷりに言う。
熊は狐のような男――自警団の隊長なのだ――に、マネージャーの外見の特徴を説明した。狐は胸ポケットから取り出したメモ用紙に一々うなずきながらそれを書き込んだ。かなりの癖字である。一通り聞き終わり、「わかりました。お任せあれ!」と、ポケットにメモ帳をしまう。
「ところで市長、その青年は一体どこからやってきたのですかな? 広い街とはいえ、ここで育った者なら、あまり迷うようなこともないでしょうからな」
「ええ……まあ……なんというか……遠い、遠い街です。おそらく隊長もご存じないような、遠い辺境の街からやってきたのです……そう、私が呼んだのです」
「ほうほう。吾輩も知らぬような、遠い街ですな? なるほど、それで合点がゆきました! きっと、祭りの新しい出し物の、手伝いをしにやって来たのでしょうな? だからこの街にも初めて来たのですな? いや、この辺りで、この街に来たことのない者は、おりませんからな! そうですか、そうですか……これはなんとしても、その青年を見つけてやらねばいけませんな? この街の評判に傷がつきますからな、特に裏通りなど歩かれてはね!」と狐男は市長に鋭い視線を向けた。
熊市長はその言葉に対して曖昧な微笑を浮かべたまま、何も答えなかった。狐隊長は闊達に笑って、市長に挨拶すると、さっさと去っていった。
「行方不明の青年が、違う世界から来た、だとか、悪魔にさらわれたかもしれない、なんて正直に言ったら、隊長は一体どんな顔をするだろう?」と熊顔の市長は思った。
「私が、まるで正気でない、と思われるのが関の山だろうな……とにかく、話がややこしくなる前に、私が見つけ出さなくては。そうだ、彼の言う通り、裏路地などに行ってしまったとしたら、あの青年が危ない!」
市長が自らマネージャーを探そうと一歩を踏み出したちょうどその時、遠くの方からであろうか、
ボオオォォォンン……
ボオオォォォンン……
という重い音が響き渡った。教会の鐘を誰かが鳴らしたのである。
「火事だ! 火事だ! 役場で火事だ! 激しいぞ!」誰かが走りながら、叫んでまわっている。
騒がしくなった群衆の中、うろたえている熊のところへ、男が急ぎ足で近づいてきた。
「市長! こんなところにいたんですか? 探しましたよ。役場が燃えているんです! さあ、さあ、一緒に行きましょう」それは、役所の会計係の男だった。「人がまだ中にいるんです! とにかく、来てください!」
遠く、役場の方面に、長く伸びた黒煙が上がっていた。そちらの方角から、人々が群れをなして逃げてくる。言葉にならない悲鳴を上げる者さえいた。その人の波に真っ向からあらがうように、市長と会計係は走り出した。
役場までの混雑した道を汗だくで駆け抜けながら、市長はすっかり混乱していた。いったいなんて日なんだ? まったく、この忙しい時期に、青年はいなくなるわ、隊長に借りをつくるわ、役場は火事だわ……。これもすべて、悪魔の仕業なのだろうか? いや、そのうちの半分は私のせいだ……ああ!
教会の鐘は無情に、ひたすら鳴り続けている。
*
さて、事件はこれっぽっちもひと段落していないが、このあたりでまた新たな挿話(エピソード)を語っていくことにしよう。いったん気になるところでやめておいた方が、あとで面白みも増すというものだ。
新たな挿話とは、正確には新たな挿話ではない。神やマネージャーがもともといた世界の物語である。読者にこの騒動の全貌をご理解いただくためには、ぜひとも二つの世界のことを並行して語る必要があるのだ(まずはそこをご理解いただきたい)。
神やマネージャーが不在の世界の住人、彼らもまた、それぞれ問題に直面し、悩み、そして行動する。誰もが答えを見出そうとする。ひょっとしたら、その問題には答えがないかもしれないのに。だが答えのない問題などありえるのだろうか? それこそ一種の『矛盾』ではないだろうか?
おそらく実際のところは偉い数学者に訊いてみなければわかるまいが、しかしこの物語の主軸は『矛盾を創造すること』と序文で既に説いたので、読者には役者たちの奮闘ぶりが意味のない、虚しいものに感じられることはないだろう(おそらくは)。私とてそこまで残酷ではない、鼠を車輪に入れて走らせ続けるような真似はしないつもりだ(なるべくは)。
かといって容易に答えを用意するようなことも避けたい。なぜなら、なんとしてもこの手で確固たる『矛盾』を創り上げたいから。たとえこの小説自体が空虚な、惨憺たる結末に陥る危険があるとしても、である(必ずそうなるとは断言できない)。
私は役者たちが素晴らしい演技をみせてくれることを望む。どうにか、彼らの目の前に立ちふさがる問題の数々を解決してほしい。もちろん、その為にはまず自分たちの直面している問題を明らかにしてもらいたい。話はそれからだ。多くの役者はまだ、その問題さえも認識していない。読者諸君、現実の我々だってそうではないか? 問題とは何か? それが問題なのだ。
なんにせよ、私が密かに心配している、例の『空虚な、暗澹たる結末』というものは、杞憂に終わるに違いない。それがどんなに問題のある脚本を持とうと、物語の炎は役者を糧にして燃え続ける。彼らの指から指へと伝わってそれは消えることがない。役者たちはやがてみな燃え尽きて消えていくが、舞台には次々と新たな糧が登場する。困ったことに、物語の炎はあらゆるものを飲み込んでゆく。それは裏を返せば、あらゆるものが役者になりえるということだ。そして物語がひと段落し、舞台の幕がひとまず降りれば、燃え尽きた役者たちもまた、灰の中から不死鳥のごとく蘇るであろう。
これは夢想だろうか? おそらく半分は。しかし半分はこういえよう、どんな荒唐無稽な物語にも潜んでいる、一つの真実であると。
さあ、新たな舞台の、新たな役者たちによる、新たな芝居をお見せしよう……。
第三章
「ああ! まったく! こんな時に、なにをやっているんだ? あのヘボ作家とポンコツマネージャーは!」
怒り狂った声が事務所に響きわたる。社員たちは首をすくめそれをやりすごす。その声の主――五十代くらいだろうか、でっぷり太った腹をサスペンダーで抑え込み、口元にちょび髭を生やし、なにより目立つのはてかてか光るその禿げ頭、毎日自分で磨いてでもいるのだろうか――この地方都市に拠点を置く小さな出版社の編集長は、なおも怒りを爆発させて、
「おい! 誰でもいいから、さっさとスクープをもってこい! スクープだよ、スクープ! 読者が欲しがっているのは、この騒動のそもそもの原因なんかじゃない、今実際に起こっている、事件そのものの状況なんだよ! わかったら、さっさと取材して、記事を書いてこい!」と檄を飛ばした。
「あの、お言葉ですが、編集長」編集者の一人が震え声で言った。顔色の悪い、貧相な男だ。
「取材に行った者が、誰一人帰ってきません。おそらく逃げたか、あるいは……とにかく、もう誰も取材に行きたがりません。それに、ある程度筆が立つ人材はもう社にはいません。主力の記者やらライターやらがもう全員出払っちゃってるんです。……肝心のAさんはさっきから行方不明ですし。自宅が火事で全焼とか。幸い、誰もいなかったらしいですけどね。だから、今日はもう遅いですし、ひとまずは社で記者たちの帰りを待ちましょう。……この状況で家に帰るのも怖いし」
「ほうほうほう、君、なかなか言うじゃないか、え?」禿げた男は歯ぎしりしながら呻った。
「しかしだね、君は本当に記者の端くれか? もし記事を書けないっていうんなら、お前がAを探してこい! それが筋だろうが、え? それとも、貴様、怖くて外に出られないのか? そういうことなら、ここで、もっと怖い目にあわせてやろうか? このフヌケ!……それにしてもAの奴め、こんな時に、どこにいきやがった? せっかくこの騒動についてのルポの一つや二つ、いやもっとだ、とにかくしっかりたんまり書いてもらおうと思ったのに」
「あの、お言葉ですが」貧相な男がまたもや口を出す。
「今回の混乱はあまりにも不可解です、人知を超えています。……人間の仕業とは思えません。たとえ我々がこの事件の真相をつかんで記事に書いたところで、それは一般読者に信じられるものではないのでは?」
「だから、言っとんだろうが!」禿頭は猛々しく吠えた。
「真相なんてつかむ必要ないの! 読者はとにかく現状が知りたいの! テレビに映らない現実を! だから何が起こってるか、それを書くだけで、いや、でっちあげるだけでいいの! 真相を覆い隠す、薄っぺらい表層、ただそれだけを読者は知りたいんだ! ああ! 本当に、こんな時に、Aがいてくれたなら……あいつ、途方もない話をでっちあげるのだけは得意だからな。空虚な空想を、さもあることのように肉付けする技術には長けてやがるんだから……もっとも、『本業』の小説の方は、からっきし駄目だが……この前の、街の教師……だっけ? そんなタイトルのやつも、あんまりさばけなかったしな……なんでも『コアなファン』にはバカウケらしいが……今は、とにかく、リアリズムの時代なんだよ、リアリズムの……それが奴にはわかってない……今の文壇の現状を、憂いてるとかなんとか言っていたが、カッコばかりつけてないで、自分の現状を心配しろよ……とにかく、どこへ行ったんだ? あいつは決して遊び人じゃない、酒、煙草、女にうつつを抜かす、そんなことできるようなタマじゃない。仕事をほっぽりだして蒸発する類の人間じゃないと思っていたんだが! ひょっとして、あれかな、自分の書いたおとぎの世界に、逃げ込んじまったのかな? いやいや、なにを言ってるんだ俺も! 第一、Aの専属マネージャーの奴はどこでどうしているんだ? 仕事をほっぽりだすようなやつじゃないはずだが……そう、なんせ、この俺がきちんと躾けてやったんだからな」
編集長は一人でいろいろわめいているうちに、だんだんと落ち着いてきたらしく、いくぶん理性的な言動を行うようになってきた。大きくため息を吐くと、それからはテキパキと編集者たちに指令を下し、大声で怒鳴るのも部下のミスを叱る時だけになった。しばらくして、例の貧相な男にコンビニで買わせた(この混乱で品物はほとんどなかったが)軽い晩飯をあっという間に食べた後、彼は不意に部下たちに向けてこう言った。
「よし、俺が外回りをしてこよう。取材がてら、Aを探してくる。いや、Aを探しがてら、取材をしてくるのか? ……どっちでもいい、とにかく、行ってくる。戦闘開始だ!」
「編集長! そんなの危険すぎます」顔色の悪い男はさらに血の気の引いた表情で言った。
「それに、ここもすでに戦場です!」
実はすでに取材に行った記者のうちの数人がデスクに戻って――無事生還して――きていた。彼らの話はほとんど支離滅裂だったのだが、とにかく皆でそれを記事にしようと社員一同躍起になっていた。生還者たちは「不思議な少女が空を飛ぶのを見た!」だとか「背中に翼が生えた男が煙草を放り投げると、それが爆発した! その男は木の洞からどこかに消えた」だとか「とんでもない大男が家畜を丸のみするのを見た! その顔は人間のものではなかった」などと口々に語り、社内はてんやわんやの大騒ぎ、それらの話を基にした記事は、常識的な観点から見て前代未聞、荒唐無稽な代物になりつつあった。
「そいつら(帰ってきた記者たち)の話が本当か、確かめてくる。なにか、起こっていることは起こっているようだが、どうにも得体が知れん。こうなったら、この目で見てみないと気がすまん! 止めても無駄だぞ、俺は行く」鼻息も荒く禿男は言った。
上着をひっかけ、食い下がる部下を押しのけ、彼は表の通りへ出た。そして考える。それにしたって、こんなに血が騒ぐのは、久しぶりだ!
辺りは人気もなく、閑散としている。そして、やけにガスった大気……背筋がぞっとした。夜も更けたとはいえ、いつもならもう少し人がいるはずだ。それにこの街でこんなに霧が出たこともない。これはただごとではない――記者としての長年の勘が、そう告げていた。思わず武者震いをする。
味気ないコンクリートの通りを速足で進む、Aの家の方へ。確か、大きな火事があったとか……とりあえず、どんなことでもいい、手掛かりを探さなければ……。まるで探偵になったような気分。
しばらく歩いた。不意に、なにかの気配を感じて立ち止まる。向こうから、なにかやってくる――なにか、とても巨大なものが。霧の向こうから、影だけが見える――――
「ナンダ、オマエ。ウマソウナ、ニオイ。……オマエ、アクマ、カ?」
鈍重そうな、いくつもの固い金属をすり合わせたような、人のものとは思えない声が、やけに生臭い息とともに禿頭をその場に射竦めた。
「違う、違う! 俺は悪魔なんかじゃない。それに、美味くもなんともないぞ。お前の方こそ、何者だ? 姿をもっとよく見せろ、お前が悪魔じゃないっていうんなら」なんだか昔話の台詞のようだ、と思いながら、声を必死に絞り出す。
しかしすぐに彼はそんな不用意な要請をしたことを後悔した。
霧の中からぬっとあらわれ出たのは、身の丈三メートルはあろうかという筋骨隆々の大男だった、上半身裸で、革製の腰巻のようなものを着けている。その手足は丸太のようである。
《こんな人間、ロシアかアフリカあたりを探しても、一人か二人くらいしかいないだろう!》
しかしそれ以上に驚くべきは、「それ」が人間の頭を持っていないことだった。人間の頭があるべき場所に、代わりにあったのはまだら模様の、巨大な牛の頭部だった。
《こんな人間、世界のどこを探してもいない、いや、いてたまるか!》ここまで考えて、理性はぷっつんと切れ、哀れな編集長はまったく意味のない悲鳴を上げた。さんざん叫びに叫んだあと、
「やっぱり悪魔はお前の方じゃないか!」とかすれた声で呟いた。
すぐさまくるりと後ろを向き、禿頭に汗をしたたらせ、全力で走る。しかし牛頭はのしのしと近づいてきて、あっという間に彼を追い抜く。こちらを向き、仁王立ちになった牛頭の身体に激しくぶつかった禿頭の意識が、にわかに遠のく――――
夜も更けて、街は霧に包まれている。
*
ブウウウゥゥゥンンンンン……ブウウウゥゥゥン……。
「あっ!」
「アジャパー……またやっちまった……」
つまらないミスから、またゲームオーバー。
いや、これは違うんだ、周囲を飛びまわる蠅に気を取られた。
まあ、といっても、テトリスの話なんだが……。
紹介が遅れた。俺は木安四朗。こう見えて「一応」私立探偵だ。
「一応」とアタマに付くのは……俺がまだ実際には依頼を一件も解決したことがないからだ。だから、ただの自称。
今日も朝から依頼人を待っているものの、誰も来ない。まあ、この混沌とした状況で、わざわざ探偵に会いに来る奴などいない。ちょっと、探偵家業を始めるタイミングが悪かったかな……とにかく、することがないから、ただっぴろいこの事務所で、充電器がささったままの携帯をいじっている(きっと、バッテリーが弱ってきてるんだよな、たぶん。早めに取り替えなくちゃ)。
こんな現状の俺のことは、まあ、古臭い言い方だが、『カストリ探偵』といった方がいいかもしれないな。依頼料の安さだけが売りの、粗悪な探偵。
今は七月。記録的な猛暑に加え、謎の霧が街中を覆っている。うだるような暑さの中、蠅が一匹、さっきから俺の周りを飛び回っている。こんな風に。ブウウーン……。ブウウーン……。五月蠅(うるさ)くてたまらない。いや、七月蠅(うるさすぎ)て、か。俺はただテトリスがやりたいだけなのに。蠅は疲れも見せず飛び回っている。
気まぐれに、俺は蠅の方へ意識を集中する。
蠅の意識と俺の意識が入れ替わる感覚。
俺の意識は蠅の体に移った。
ミラーボールのようなでっかい眼で、部屋を見回す。
依頼人専用のドアはちょうど南にある。ドアの両脇には観葉植物の鉢植え。南洋から取り寄せた植物には、ちょうど今ごろどぎつい色の花が咲いている。入ってきた客の目には、まず、向かいにある無駄にでかいデスクが飛び込んでくる。いつもなら、そこにふんぞり返っている俺。今は、蠅の精神で、目をぐりぐり回し、「ぶう~ん」といいながら両手両足をバタつかせているが。それは置いといて、机の上には週刊漫画雑誌のだいぶ古いやつや、ちょっとマイナーな詩人の詩集、それにチャンドラーの「大いなる眠り」が飾るようにして置いてある。え? これじゃ、カッコがつかないって? しかたないだろ? 実家にあった本は前の二冊だけ、ハードボイルドの世界を知りたくて買った「大いなる眠り」は俺には難しくて、読んでる途中で意識を失い、それから大いに眠った。いいんだ、いいんだ。べつに俺はハードボイルドじゃない。
机の上には他にデスクトップパソコンが一台、写真立てには、海亀が泣いている写真。プラモに使う接着剤、それから小銭が散乱。たぶんゲーセンで使える、変なメダルも混じっている。いつ紛れ込んだ? あと、雑多なメモが書かれた紙きれがたくさん。犬の顔が大きく描かれたCDジャケット。鮮やかな赤い犬が牙をむき出している。おそらくうなっている。顔のフォームとカラーが画面からはみ出るような表現で、周囲のものにギラギラと反射されていくかのようだ。
東の壁には日本地図、西の壁には世界地図。落ちないように、四隅をしっかり釘で打ち付けておいた。大家には内緒だぞ。床には毛羽立つヴェルヴェットの赤い絨毯。人の顔をしたけっこう大きい黒シミがある。知り合いからもらった。探偵というよりマジシャンぽい感じもするが、気にしない。天井にはこれも知り合いからもらった、直径1メートルくらいのシャンデリア。いよいよもって探偵らしくなくなってきただろう? これでも一番小さい奴をもらったんだが。トイレの天井にあったやつだ。知り合いって誰かって? とある成金の息子なんだが、そいつの親父の会社が破産して、急遽、家を売りに出すことになった。でも誰も気味の悪いカーペットとトイレにあったシャンデリアなんて買わなくて、見かねた俺が買ってやった。そして、そいつはある日突然家族そろって失踪した。
そうそう、忘れちゃいけないのが部屋の真ん中にあるでかいソファ。依頼人はここに座ってもらう。己の悩みを素直に打ち明けてもらうためには、ゆったりくつろいでもらう必要がある。……実はこれも例の知り合いのお古で、二束三文で手に入れた。……少し汚いし、ところどころにほつれがあるけど。
目ぼしいものはもうないかな。いつまでも蠅の姿でいるのはゴメンだ、元の体に戻らせてもらうぜ。意識を、手の平を懸命にこすり合わせている俺の体に集中する。意識が混ざり合う……。無事、元の姿に戻る。右側の、世界地図の横の窓を開けて、蠅を外に逃がしてやる。一度は体を交換した仲だ、殺すには惜しい。
さて、開いた口がふさがらないようだね? ご覧になった通り、俺には「カメラアイ」という特殊能力がある。蠅などの小さな生き物と意識を交換して、その視点を手に入れることができる能力だ。もっとも、小虫以上の大きさの生き物にこの能力をためしたことはないが。理由は簡単、意識を交換するんだから、俺の身体の方は相手の意識に乗っ取られるわけだ。だから、そうそう知能の高い生き物に使うわけにはいかない。俺の身体を「持ち逃げ」されるかもしれないからな。そういうわけで、あんまり便利な能力じゃない。まあ、俺のⅠQがもうちょっと高ければ、もっと有効に、一財産築けるくらいには使えるのかもしれないが。いいんだ、いいんだ。何事も、自分のペースでいこう。
不意に、ノックの音。身構える。
トン
トン
トン 三回。
「はい、どうぞ。お入りください」
俺は掌をすり合わせ、若干緊張しながら、丁寧にドアに向かって呼びかけた。
「失礼します」
おずおずと入ってきたのは、顔色が悪く、ひどく貧相な男だった。せかせかと部屋に入ってくるなり、所在なさげに辺りを見回しているので、「さあ、どうぞ。そちらのソファへ」とうながす。「はい、失礼します」男はもう一度言って軽く頭を下げると、来客用のソファへ腰かけた。
「ようこそ、木安探偵事務所へ。さて、まずは、お名前をお聞きしましょうかね?」
「小松と申します」
「小松さんですね。……よろしければ、ご職業を?」
「出版会社の事務方をやっております」
「つまり、編集者?」
「ええ、まあ、そんなところです」
小松と名乗る男はぎこちなく微笑した。
「なるほど。それで、ご用件は?」
「はい、実は……」小松は大きく息を吸って、
「編集長を見つけ出し、助けてほしいのです!」と思い切ったように言った。
「はあ、人探しですね? おたくの出版社の編集長が行方不明なのですか?」俺は極めて冷静に訊ねた。
「そうです」
「助けて欲しいというのは、もしかして、誘拐の可能性があると?」
「可能性があるというより、確実なことです。この目で誘拐されるところを見ました!」
「いつ?」
「昨晩」
「どこで?」
「○○四丁目あたり」
「ひょっとして、誘拐犯の顔を見ましたか?」
「ええ、しっかり見ましたとも! 昨晩、私は取材のため外出した編集長の跡をつけていきました。世の中がこの混乱でしょう? あの人が心配でたまらなかったのです。この霧ですから、気づかれませんでした。しばらくは何も起きませんでした。そして不意に編集長が立ち止まったのです」
「……そうしたら、誰かが向こうからやってきた?」
「そうです。……そいつと編集長とは、なにやら言葉をひとこふたこと交わしました。そしていきなり深い霧の中からそいつが姿を現したのです!」
「その人物の特徴を詳しく教えてください。それと、単独犯ですか?」
「そいつは一人でした、いや、『一匹』かな……なにせ、それは三メートルもある、筋骨隆々の、生臭い息を吐く、牛の頭を持った怪物なんですから!」
「今、なんと?」
「三メートルの……」
「いや、最後におっしゃった特徴です」
「そいつは牛の頭をもってるんです、牛頭なんです!」小松は真顔で答えた。
「ウウム……どうやら、俺の手には負えないようだ。他をあたってくれ」
俺はそう言って目をつむりながら首を振った。
「本当のことです! ……他の興信所もあたってみましたが、どこにも信じてもらえなかった! 一笑に付されましたよ。肝心の警察はそれどころじゃないし! ああ! 一体、どうすればいいんだ?」小松は明らかに狼狽していた。しかし薬(ヤク)をやっているようには見えない。俺はため息をついて、
「わかりました、わかりました。とりあえず、編集長が行方不明だということは確かなのですね?」
「間違いありません。自宅にも戻っていません。私はこの目で見たんです、気絶したあの人を軽々と担いでどこかへ連れてゆくあの化け物を! ああ、今頃は奴の腹の中かもしれません」
「しかし、世間がこんな剣呑なときに、どうして編集長自ら出かけて行ったのでしょうね? 危険な取材なんて、部下に任せるべきでは?」
「あの人の中の記者時代の血が騒いだのでしょう。それに、Aといううちの専属作家が行方不明でして、彼を捜索するという目的もあったのです。彼に記事を書かせようと思ってね。まあ、ミイラ取りがミイラになってしまいましたが!」
「なんですって? いま、Aとおっしゃいました?」俺は椅子から身をのり出した。
「ええ、まあ、売れない作家ですよ。ご存じないとは思いますがね」
「いや、よく存じてます。よおく、ね」俺がそう言うと、小松は不思議そうな顔をする――俺はやけに真剣な表情をしていたに違いない――あいつ、作家なんてやっていたのか! 行方不明、だと? 変わったやつとは思っていたが、まさか第二の人生からも失踪するとは……そう、例の、俺がシャンデリアやらなんやらを買い取ってやった、消えた成金の息子の名前も、Aなのだ。もちろん、単なる同姓同名の可能性もあるが……。いや、違う、間違いなくあいつだ。俺の直感がそう告げていた。こういう時の勘はよく当たるんだ。……俺の心はすでに決まっていた。
「この仕事、お受けいたしましょう」俺は依頼者の目をしっかり見ていった。小松の眼は途端に輝きだし、
「ありがとうございます! ありがとうございます! もうあなたにしか、頼めないんだ! あなたにしか!」と小さく、震える声で叫んだ。
俺はその他詳しいことを聞いた。編集長の特徴――でっぷりした腹をなんとか抑えているサスペンダー、口元のよく手入れされたちょび髭、そして磨いたような禿頭。Aの専属マネージャーも行方不明のこと、そして仲間の記者たちがうわごとのようにくりかえすおかしな話。
「あっ、そうだ。三人が映っている写真があります。皆で旅行に行った時の。はじめからこれをお見せすればよかったですね? こちらです」といて小松は持っていた鞄から写真を取り出した。
俺はその写真を受け取る。多くの人が映っていたが、しっかりと三人の顔を確認することができた。まず、編集長。特徴のある風貌なので、見間違うことはおそらくないだろう。次に、A。やはり間違いない、多少やつれてはいるが、俺の知っているあいつだった。覚悟しろよ。そして最後にマネージャー君――彼の顔は特徴があまりなく、どうにも厄介だった。しかし、どこかで見たことのあるような気もした――だが結局思い出せなかった。
「これは、素晴らしい。いい手掛かりになります。この写真、お貸しいただけますか?」
「もちろんです。ご自由にお使いください。……できれば返していただきたいものですが。思い出の品なので」
「わかりました。ありがとうございます。なるべく早くお返しできるように努めます。……それと、Aさんのお宅はどこですか?」
「Aさんの家ですか? ……もうありません」
「というと?」
「火事で全焼しました。焼け跡からは、手掛かりもなにも見つかりませんでした。もちろん、遺体も! ああ、Aさん! 生きているのかどうかさえわからない」と言って小松は首を振った。
俺は思わず唾を飲み込んだ。俺の知らないところで、なにか大きな事件が起きている。あるいは、なにか巨大な陰謀が蠢いている……こりゃあ、テトリスなんかやってる場合じゃない。初仕事は、とんだ大物だ!
「では、一応、家があったその場所だけでも教えていただけませんか?」俺は再度、小松に訊ねた。
……小松が去った後、俺はしばらく問題の整理をした。それが済むと、机の脇にあるカラフルな蛸をかたどった衣類掛けから、ちょっとくたびれた上着と帽子をとり、部屋から出て、鍵をかけた。
外は室内より余計に蒸し暑かった。上着を脱ぎに戻ろうかとも思ったが、これが仕事着だ、というポリシーが勝って、結局そのまま通りに出た。……辺りは濃い霧に包まれている。常とは違う、怪しくユウウツな街。
ここから三人の男を見つけ出すなんて、骨の折れる話だ、まったく! たとえ一人は知り合いだとしたってな。
*
そこは、荒野である。
……Aが、見知らぬ男と向き合って、なにか激しく言い争いをしている。「おい! そんなところでなにをしているんだ! はやく記事を書くんだ!」必死に叫ぶが、Aにはまったく聞こえないようだ。向き合った相手の方がむしろ、怪訝な顔で辺りを見回した。「お前さんにはわかるのか? おい、この声が聞こえるのかい? ここだよ!」彼は、まるで鳥にでもなったかのように、上空から二人を俯瞰していた。「だれでもいい、こっちに気づいてくれ! ここにいるんだよ! ここに……」そのとき、彼は自分が鳥ではないことに気がついた。俺は鳥なんかじゃない。編集長様だ!
目が覚めた。
彼は牛男に片手で抱きかかえられていた。生臭い息が顔にかかる。体中が痛い。あばらの一本や二本はおれていそうだ。彼――編集長は、夢の酔いから醒め、ようやく今までのことを思い出した。「そうか、すると、牛男については夢じゃなかったんだな? くそっ! できればただの悪夢であってほしかったよ!」彼は苦々しく思った。なんとか自由を得たくて、体を必死に動かした。すると、牛男がそれに気づき、
「オキタナ。マア、アジトニツクマデ、オトナシクシテロ。サモナイト、クッチマウゾ」と例の奇妙な声で言った。
「クッチマウゾ、だ? 冗談じゃない! こんな奴に喰われてたまるか! それに、アジトだって? こいつには他にも、仲間がいるのか? ああ! ぞっとしない」哀れな編集長は心中で叫んだ。
それでもおとなしくすることにしたので、さしたる会話も出来事もなく、二人(一応そういっておく)は霧の中を進んでいった。この悪条件でも、牛男は「アジト」への道を容易に進んでいるらしかった。彼の嗅覚のなせる業なのか、それとも、人間には計り知れない化け物の勘なのだろうか?
とにかく長いこと、編集長は牛男に抱きかかえられたまま、霧の中を移動した。正確なことは何もわからない。視界は悪いし、体中が痛むし、なにより頭がひどく混乱していた。
「おい! いつになったら着くのかね? そのアジトとやらに」とうとうしびれを切らして禿頭が訊ねた。
「モウスコシダ、チョットマッテロ」牛頭がのろのろ答える。
やがて、二人の前に、もうだいぶ昔に持ち主がいなくなったとみられる、打ち捨てられた大きな洋館が姿を現した。立派なつくりだったが、だいぶガタがきているようだ。ときどき怪しく軋んでいる。その時代がかった不気味さは、まさに化物どもの巣窟というのにぴったりの雰囲気を醸し出していた。
「ツイタゾ。ココダ」と言うと、牛男は片手で大きな門を軽く叩いた。すると漆黒の門は音もなく左右に開く。
「けっこう古い建物みたいだけど、これは自動ドアみたいなものなのか?」編集長が不意に沸き起こった好奇心から聞いた。
「サア? オレモヨクシラナイ。オレ、ソウイウノニ、キョウミナイ」牛男が知性をまったく感じさせない声で答えた。
庭も広かった。植木のようなものはすでになく、雑草がぼうぼうと生えているだけなのだが、それが一層この庭の規模を大きくみせている。
洋館に入ると、禿頭はぎょっとした。建物の中にはなにも無い。家具も、絨毯も、シャンデリアも、こうした館にはつきものの調度品その他もろもろが一切存在しないのだ。エントランスはがらんどうで、化物屋敷のようだった。いや、実際にそうなのだ、ここは確かに化物屋敷には違いないのだ……。
「ずいぶん殺風景だな。ここがアジトか?」と編集長が聞くと、
「ソウダ。ココガアジトダ。ソシテ、ココガアジトダトイウコトニイミガアル」と牛男にしてはどこか思わせぶりな返事がかえって来た。
「いらっしゃい。お待ちしておりましたわ」エントランスの階段を下りながら、そう語りかけてくる者がある。
それは華奢な、不思議な雰囲気のする少女だった。長い栗色の髪の毛は炎のように渦巻いており、フリルのついた可憐な服を着ている。
「手荒な真似をしてすみません。あなたが神……いや、Aさんのお知り合いだということを聞いて、ここまでお越しいただいたのですわ」少女は言った。それを受けて禿頭は、
「お越しいただいた? 大層な物言いだね、まったく! こんな、体の自由を奪われて、そんな、丁寧な歓迎を受けるなんて、変な気分だよ!」と怒鳴った。
「申し訳ありません。……その人を楽にしておあげなさい」
楽にしておあげなさい? 意味を取り違えて、一瞬、殺されてしまうのではないか、と編集長は思ったが(無理もないことだ)、牛頭はすぐに彼を解放し、床に立たせた。長い間そうしていなかったので、ふらふらと眩暈がしたが、なんとかこらえ、すぐに体中を点検した。骨は折れていないようだ。彼は一安心した。
「それで?」編集長はあえて強気に出た。
「君たちはAの行方を知っているのかね?」
少女はしばらく沈黙した後、答えた。
「知っていますわ。でも、彼は遠いところに行ってしまった。遠い、遠い、ヴェクサシオンの世界に行ってしまいましたの」
*
俺の足は、自然にAの家の跡へと向かっていた。場所は小松に聞いたんだが、どうしても気になった。なにか手掛かりがありはしないか。こういう時の勘は信じるべきだ。じゃないと、信じる時がなくなっちゃうからな。
A……あいつのことは俺もそこまで詳しくは知らない。
同じ大学の同期なんだが、文芸愛好会というクラブで一緒だった。正確に言うと奴の方から誘われた。会員は俺とAを含めて五、六人。つまり俺は人数を埋めるための幽霊メンバーだった。だから別にブンガクに興味があるわけじゃなかった。他のメンバーもそんなに熱心に活動はしてなかったから、実質、Aが一人奮闘していたようなものだ。ただAと話すのは楽しくて、活動場所の狭い空き部屋やら大学の近くの喫茶店やらでよく話した。前に言った通り、あいつは金持ちの息子で、小さいころから好きな本を好きなだけ買ってもらえた。だからブンガクにも詳しかったんだな。
「木安、素晴らしい一節をみつけたぞ! 朗読するから、まあ、しばし聞いてくれ……。
『Kは城に眼を向けたまま、歩みつづけた。ほかには彼の気にかかるものは何もなかった。ところが、近づくにつれ、城は彼を失望させた。それはほんとうにみじめな小さな町にすぎず、田舎家が集ってつくられていて、ただおそらくどの家も石でつくられているということによってきわだって見えるだけだった。だが、家々の上塗りもずっと前にはげ落ち、石はぼろぼろとくずれ落ちそうに見えた。Kはふと、自分の故郷の町を思い出した。故郷の町も、このいわゆる城なるものにほとんど劣ってはいなかった。Kにとって城を視察するだけが問題であったのなら、この長旅はもったいない話で、それくらいならもう長いあいだいったことのない昔の故郷をもう一度訪ねたほうがりこうというものだったろう。そして彼は、故郷の教会の塔とかなたにそびえる塔とを頭のなかで比べてみた。きっぱりした恰好で、尖端がためらうこともなく上空をめざしていて、屋根は広く、赤瓦につながっているあの故郷の教会の塔。それはたしかに地上の建物だが、――それ以外のものをどうしてわれわれは建てられるだろうか――低い家屋のむれよりはずっと高い目標をもち、陰鬱な日常の日々がもっているよりはずっと明るい表情をもっていた。ここで上のほうに見える塔は、――それは眼に見えるただ一つの塔だった――今わかってみると、住居の塔、おそらくは城の母屋(おもや)の塔であり、単調な円い建物で、その一部はきづ(・・)た(・)によってうまく被われていた。小さな窓がいくつかついていて、それが今、太陽の光のなかで輝いていた。――その光景には何か気ちがいめいた趣があった――さらに塔の尖端はバルコニー風になっていて、その胸壁が、まるでおどおどした子供の手か投げやりな子供の手で描かれたように、不確かな様子で、不規則に、ぼろぼろに、青空のうちにぎざぎざの輪郭を浮かび上がらせていた。それは、何か正当の理由で家のなかのいちばん離れた建物に閉じこめられねばならなかった悲しい家の住人の一人が、わが身を世間に示そうとして、屋根を突き破り、ぐっと身体を起こしたような恰好だった。』
……どうだい? 長編小説『城』、書いたのはフランツ・カフカ、原田義人による翻訳だ。素晴らしいじゃないか? これ以上に美しく哀しい文章をいったい誰が書けるっていうんだろう?」
あいつは分厚い文庫本を朗読してから、興奮した様子で俺に言った。
「そうだな。まったくだ」俺は投げやり気味に言った。なんだかすごい感じはしたが、難しいことは、わからない。
「木安、しっているか? カフカって作家はな、死ぬ前に友人に『ぼくの原稿を全部、燃やしてくれ』って遺言したんだぜ」
「へえ? そりゃあ変な奴だなあ。普通、作家っていうのはどんな形であれ、作品が後世に残るのを望んでいるんじゃないのか?」
「そう思うだろ? ところが、カフカは違ったんだ。彼は全ての原稿を燃やすことを望んだ。木安、何故だかわかるか?」
「さあ? 理由は俺なんかにはわからないな。でも、本当に燃やしたかったら人には頼まないよな。俺なら、生きている間に、自分で燃やすぜ」
「たしかにな。俺もそうする……」といってAは笑った。「思うに、カフカは試したかったんじゃないかな……」
「試す? なにをだ?」
「なにかを、さ。自分でもわからなかったんだと思うよ。でも、とにかく、彼は試してみたかったんだ……自分の全人生をかけて。そしてそれは誰にも理解されない試みだった……」
そう言ってAは黙りこんだ。
ある日、あいつが血相を変えて相談しに来た。なんでも親父の会社が倒産寸前で、是非とも金が要るという。俺はバイトでためたなけなしの金であいつの家のシャンデリアやらカーペットやらを買い、引き取った。ありがとう。ありがとう。この恩は忘れない。あいつは何度も俺に言った。あの時のくしゃくしゃになったAの顔を、今でもたまに思い出す。
それから間もなくして会社は倒産。Aの一家は蒸発した。……
焼け跡、つまりかつてのAの家はひどい有様だった。よっぽど燃えたんだろう、建物の骨組みが丸見えだ。……それでも、立派な一軒家だったことはよくわかる。あいつは一度ならず二度までも、住む家を失ったことになる。しっかり者だが、肝心なところで少し抜けているあいつ……俺はAの身に降りかかった不幸を思って、ちょっとだけ沈鬱(ブルー)な気分になった。いや、だめだ、だめだ、捜査に私情を挟んじゃ……私情? 考えてみれば、この依頼を請け負ったのだって、Aの名を聞いたからじゃないか? すでに私情をはさんでる、いや、はさみまくりだ。いまさら自制してなんになるってんだ……。Aのやつ、絶対に探し出してやるからな。そうして、ゆっくりお互いの武勇伝を語り合うんだ……あいつはいままで、相当に苦労したろうからな。俺だって負けないくらい、いろいろあったんだ……。
あたりでは警察が現場検証をしている。制服姿の男たちが、立入禁止のテープの内側であれこれ作業中だ。
そして大量の野次馬。これは老若男女。暇で暇でしょうがなく来たようなやつもいれば、本当に心配している感じの人もいる。口々に「物騒ねえ」とか「放火で間違いないらしい」「Aさん、まだ見つからないってよ」などと囁き交わしている。
俺は雲霞のような野次馬の群に加わって様子を見ることにした。家の様子はわかった、知りたいのは警察の捜査状況だ。でも俺はまだ警察関係者に知り合いはいないから、こうして遠目に様子を見るしかない。情けない話だ、まったく!
「どうやら、書斎の焼け方が特に激しいようです」捜査員の一人が上司らしき男に言う。
「そうか。ではそこが出火元だな」上司が断定する。
「そのようです。それと、こんなものが見つかりました」捜査員はもう一人――これは彼のさらに部下だろう――に目で合図を送った。部下はなにやら黒焦げになった四角い物体を重そうに抱えてくる。
「これはなんだね、真っ黒だが」
「Aさんの使用していた、デスクトップパソコンのようです。なにか情報が得られるかもしれません。……もっとも、この状態じゃあ、あまり期待はできませんが」捜査員はそう言って顔をしかめた。
「フウム……よし、鑑識に回そう。とりあえずそこに置いておいてくれ」上司は道の脇に停めてある大きなワゴン車を指さすと、
「それにしても、事件が多すぎる……おかげで、どこも一杯一杯だ。放火、略奪、誘拐……世の中どうなってるのかね? まあ、その原因を突き止めるのが、我々のしごとなのだが」と言って苦笑した。
部下の部下が黒焦げのパソコンを車に運んでいくのを見て、俺は現場を一旦後にした。
近くの自動販売機まで歩き、その脇のごみ箱を漁る。甘い、すえた臭い……人間様って本当にいろんなドリンクを飲むよな。俺も一時期、線路脇の、なぜだか異常に安い販売機に並んでいる、得体のしれない商品を、新商品が出るたびに飲む遊びに、けっこうハマったな……まあ、そんなにおかしなやつは無かったが、結局かなりの金を使ったんじゃないか? なんで自販機にこんなのが売ってるんだよ、とか言いながら、缶入りおでんの小さな具を一緒に食べたっけ……一緒に? そうか、あれもAとだったな……いま思い出したぜ。なんだかんだ言って、あいつとは仲良くやっていたんだな……。しまった、少し湿っぽくなっちまった。私立探偵にあるまじきことだ!
気を取り直して、異臭を放つごみ箱を揺さぶると、案の定、大小さまざまの蠅が何匹もブンブン飛びまわる。そのうちの特に大きい奴と目が合った。
すかさず意識と意識を交換する……。
次の瞬間、俺は蠅。俺は飛ぶ。焼け跡へと……。
幸いワゴンの後部扉は開いたままだった。僥倖、僥倖。
Aのデスクトップパソコンはそこにあった。見事に真っ黒こげで、使い物になりそうもなかった。だが俺の狙いは別にあった。パソコンの下部に付いているUSBメモリ。この身体だと、馬鹿でかく感じられる……これが目当てだったんだ。
さて、これを、この非力な体でどうやって抜き取ろうか?
そこで一旦、パソコンから離れ、勢いをつけて、斜めにUSBメモリに体当たりする。思った通り、焼け焦げてもろくなったポートはミシミシ音を立てた。何回かぶつかると(これがけっこう痛かったが)、ボコンとポートが割れた。落ちたUSBメモリをすばやく六本の脚でつかみ、自動販売機の方へ急ぐ。
「あれ? このパソコン、こんなに壊れてたっけか?」
「ホントだ。まァ、あれほどの猛火だったんだ、熱で脆くなっていたんだろ。もっと丁寧に運べよ」
なんていう警官たちの会話を後ろに聞きながら。……
精神をもう一度入れ替え、元の身体に戻ると、フラフラ飛んでいく特大蠅にサンキューと呟く。
ふと誰かの視線を感じる。見ると、野次馬の一人だろう、ジャージ姿の親父が、こちらを怪訝そうな目で見ている。
「あんたあ、さっきまで手足バタバタさせて、ブンブンうなっていたけど、大丈夫か? 救急車呼ぼうかと思ったど」親父が訊いてくる。
「え?……いや、ここの酒を飲んでいたら、思ったより酔っちゃってね」
「酒? ここには酒なんて置いてねえよ」
「ああ、そう……じゃあ、ジュースで酔っちまったのさ」
「そんなやついるかあ? あんた、やっぱり病院行った方がいいって」
俺はそれには答えず、速足でその場を立ち去った。
変なところを人に見られたが、まあ、計算外(ハプニング)は捜査につきものだ。
確かな収穫はあった。Aが行方不明になる前、最後に記録したもの……何が入っているかわからないが、このUSBメモリは重要な手がかりになるはずだ。
*
禿頭は応接間に通された。といっても、数多くの空き部屋のうちの一室に、どこから運び込んできたのか、パイプ椅子が数脚置かれているだけの、ただっ広い空間だった。
「スワリナ」牛頭に勧められて、壁際の一脚に座る。錆びた連結部がぎしぎしと音を立てる。反対側の壁の窓から、なにか、大きな倉のようなものがぼんやりと見えた。霧のせいではっきりとは視認できない。天井は大量の糸のようなもので覆われていた……よく見ると、無数の蜘蛛の巣である。編集長はあらためて身を震わせた。
「さて、なにから話しましょう?」彼と向かい合うようにしてパイプ椅子に座った栗毛の少女が、ごく穏やかに訊ねた。
牛頭は椅子には座らず(もちろん、座ったとしても、たちまち椅子の方が壊れてしまっただろう)、所在なさげにのろのろと部屋を歩き回っていた。
「お前さんたちが何者なのかは、あえて訊かん。君子危うきに近寄らず、っていうじゃないか? まあ、もう十分、近づいちまってるようなきもするが、とにかく、あんたらと深くかかわると、ろくなことが起きないような気がするんでね……俺が知りたいのは、Aの安否と、その居場所、それだけだ」編集長は吐き捨てるように答えた。
「わかりましたわ。ああ! それにしても、わたくしたちは今、本当に大切な話をしようとしていますわ。そうじゃなくて? 力(パワー)」少女は牛頭の方を見た。
パワーと呼ばれた牛頭は神妙に同意の頷きをしてみせた。
「君たちにとっても重要な話なのかね?」編集長はおそるおそる訊ねる。
「ええ。これはわたくしたち〝天使〟にとっても切実な、のっぴきならない大問題なのですわ」
「〝天使〟だって?」禿頭は思わず噴き出した。そしてべらべらとまくし立てる、「いや、失礼! 君たちがフツウじゃないってことはわかるが、まさか天使とくるとはね! いやはや、幽霊の正体見たり、ならぬ、天使の正体見たり、だな。これは、壮大な悪戯なのかい? そうだろう? そこの牛頭のパワーくんとやら、その頭だって、よくできた被り物なんだろう? それとも、精巧につくられたロボットかな? ……そもそも、この悪戯の黒幕は誰だ? Aか? そうだろう、Aの奴だ、Aの奴に違いない! 俺に日頃の復讐をしようというんだな? 手の込んだことをしやがって、まったく!」
沈黙が訪れた。パワーも少女も無表情のまま、何も言わない。やがて少女が口を開いた。
「残念ながら」彼女はいたわるように言った。「彼の頭は被り物じゃなくてよ。ロボットでもありませんわ。……もっとも、Aさんが黒幕、というのは、半分当たっていますわ。なぜなら、彼がすべてのことの発端なのですもの……」
「メシヲクッテクル!」突然、耐えかねたように、パワーが唐突に叫んだ。
「いってらっしゃい。食べ過ぎに気を付けて」と少女が答えると、彼は窮屈そうに入り口をくぐって部屋を出て行った。
「……俺の見当違いだったようだ」それを眼で見送って、禿頭は言う。「やっぱり、あれは本物の怪物だ。あの緩慢な動き、奇妙な声、息の臭さ、被り物やロボットじゃあ、あんなリアリティは出せない。こりゃあ、まいった! まさしく、あんたらは天使……とは言い難いにしても、ただの人間じゃないな。もっとも、さっき言ったように、俺はあんたらの正体を詳しく詮索する気はないんだ……Aだ、Aの行方が知りたいんだ。あんた、今、こう言ったね、Aがこの事件の発端だと? そもそも、Aはどこにいるんだ? まだら……とかなんとかの世界に行ってしまった、とさっき言っていたね? それは一体どういうことなんだい? なんだか、こことは次元の違う場所、まさしく異次元に行ってしまった、というようにきこえるのだがね、まさかそんなことはないだろう? おとぎ話じゃあるまいし!」
「そのまさか、ですわ」少女は人差し指を立てて言った。「彼は悪魔を生み出してしまった。そしてその悪魔たちに追われていると勘違いをして、遥かヴェクサシオンの世界まで逃げていってしまったのですわ」
「まて、今度は悪魔か!?」編集長は慌てて言う。「まあいいや、俺なりにその話を翻訳させてもらうと、Aは悪魔……少なくとも、そう呼ばれるようなタチの悪い奴らと面識を持って、そいつらに追われていると思った。だから異次元に逃げた。しかしそれは勘違いだった。こんな感じかね?」彼は必死にあらすじを組み立てたが、自分で自分の言っていることが信じられなかった。《悪魔に、異次元か、こりゃあ参ったな!》
「大体合っていますわ。今はそれでよろしくてよ」少女は微笑した。「話の続きを……でも、実際に追われていたのはAさんではなく、悪魔たちの方だったのですわ!」
「……つまり、悪魔を追いかけるやつがいたってことか? そんな奇特な輩がいるのかい?」
「いますわ。それが私達、天使ですわ! 邪悪な悪魔を退治するのが、我々の務めですわ」
禿頭はなんだかくらくらとしてきた。それでも頑張って、声を絞り出した。
「天使ですわ! だって? 冗談じゃないよ、本気かい? いくら君たちがただものじゃないといったって、悪魔と呼べるようなタチの悪い奴らを退治するだなんて、正気じゃない……君なんて、まだ年端もいかない子供じゃないかね? それに、君たちとAの関係がわからんな。ああ! こうなってくると、もう何もかも知りたくなってきた!」
「何もかもお話しいたしますわ。でも」少女はにっこり笑った。「Aさんについて、あなたもお話ししてくださいませんこと?」
*
俺は濃い霧の中を、急ぎ足で事務所まで戻った。
誰もいない道路をひとり淡々と進む。それにしても濃い霧だ。まるで百人の重度(ヘビー)喫煙者(スモーカー)がふかしているような……。なんだっていうんだ、この状況は? 改めて考えると、ことの重大さに思わずため息が漏れる。いいさ。いいさ。さっき手に入れたこのUSBに全ての謎を解く鍵が詰まってるんだろうから。俺の勘が正しければ……。
郵便受けには当然のごとくなにも入っていなかった。帰ってくるとき、いちいちチェックするのが癖になっている。それから、例のちぐはぐな愛すべき部屋に入る。むあっとした熱気が押し寄せてくる。当然のごとく、誰もいない。こういう時、本物のハードボイルドだったら、侵入者の一人や二人いてもおかしくないんだが……。そしたら、侵入者の野郎と見事な格闘戦を繰り広げてやるのに……少し残念だ。冒険には危険が付き物だからな。スパイスのないカレーは不味い。
さっそく机の上のパソコンのスイッチを入れて、パスワードを入力(これ入力しなくてすむ方法はあるのだろうか? 俺にはわからない)。整理のついてないデスクトップ画面が映し出される。どうも機械は苦手だ。というか、文明の利器全般が苦手だ。テトリス以外は。USBを脇のポートにセットして、中身を確認する。いくつかの、文章データのようなものが入っていた。てっきりビデオメッセージか何かだと思っていたが、まあいいだろう。わかりやすく『SOS、あるいは遺言』と題されたファイルがあったので、クリックしてそれを開く。すると、こんな文章が出てきた。
『この文章を読んでくれた人へ。この文章を最初に読むことになるのは誰だろう? 編集長? 警察? それとも、私の思いもよらない誰かだろうか。おお、どうかあの恐ろしい悪魔どもでないことを祈る!……もし悪魔でなかったら、悪魔でないあなた、あなたに伝えたいことがある。これから話す話は、まったく荒唐無稽、信じがたいものだろう。実際のところ、何度、自分を疑ったか知れない。だが、これはまぎれもない事実なのだ。どうか信じて欲しい。……
今日はいつもと変わらない一日になるはずだった。さっきまでは。私は、一篇の小説を書いていた。タイトルは『ヴェクサシオン』。知っての通り、私の職業は小説家だ。しかしこの作品は特に世に出すつもりもなかった。なんだか、自然にキーボードをうつ手が動いたのだ。内容は……どこか知らない世界で、二人の男が小難しいことを語り合う話だった。ここでは詳しくは述べない。あまり重要なこととも思えない……。私はキリのいいところでその小説を中断した。なぜだか、それ以上書くのに飽きてしまったのだ。私は椅子に座ったまま伸びをした。そのとき確かに、カタカタと、わずかな揺れを感じた。地震かとも思ったが、今考えれば、それがただの地震ではなかったのだ……。インターホンが鳴った。マネージャーかと思った。私は入りたまえ、と言った。しかし乱暴にドアを開けて入ってきたのは、マネージャーではなく、まさに今の今まで私が執筆していた『ヴェクサシオン』の中の登場人物だったのだ! 一切が変わってしまった。
信じられないかもしれないが、続きを聞いてほしい。その二人の男――宮田望と、盥屋――は、私のことを「神」と呼んだ。だがそこには敬意などまったくなく、何の恨みがあるのか、私を散々愚弄した。すべてが私を主役とした、茶番だった。そのとき、私はなにより――恐ろしかった。自分の創造した存在が、実体をもって牙をむいてきたのだ、恐ろしくないはずがなかろう? とにかく、二人は好き勝手にやったあと(幸い、物的被害はなかった)、書斎から立ち去った。……
以上がことの顛末だ。まあ、自分でも気が狂っているのではないかと思う。なにか夢でも見たのかもしれない。しかし私にはこういったことについての「前科」がある――今回のことが初めてではないのだ。……それはまだ若いころ……いや、この話は今はやめよう。時間がない。私は旅立つ。理由は? あの二人から逃げるためなのか? それとも追うため? はっきりとはわからないが、腹の底から言いようのない使命感が湧いてきた。私はこの文章を残し、消えるだろう。しかしそれもしばらくの間だ! また帰ってくるだろう。こんなおかしな怪文書を、もし最後まで読んでくれた方がいたら、ありがとう。探さないでくれたまえ、私にせよ、悪魔どもにせよ。きっとあなたにも危険が及ぶから。危ない目にあうのは、私だけで十分だ。いや、やはり、旅の道連れに、マネージャーのやつでも誘っていくとするかな……。――――Aより。最後まで読んでくれたあなたに感謝を込めて』
はァ……Aのやつ、相変わらずだな、まったく! 決断が早いというか、せっかちというか……。この文章も、ところどころ端折ってあるから、話の全体がわかりにくいったらありゃしない。しかし、それにしてもこの話、荒唐無稽。普段ならまったく信じられないが、世の中のこんな混乱を見ていると、信じるしかないような気もするな……。この騒ぎが「悪魔」どもの仕業ってンなら、大体の辻褄は合う。悪魔、あくま、アクマか……。こいつは参った。手強そうだ……まあ、いいさ。いいさ。何事も、なるようにしかならないんだから。
それにしても、『物的被害はなかった』とあるが、じゃあ、誰がAの家を焼いたんだ? それに「宮田望」に「盥屋」だって……? どこかで聞いた名前だな……思い出せない、確かにどこかで……いや、そいつらはAに創作された人物、俺が知っているはずないな。考えるだけ無駄だ。
さて、どう出るか――手掛かりは掴んだ。だが、これじゃあ、ほとんど、なにも掴んでないのと同じだ。だって情報が少なすぎる。一体どこをどう探せばいい? ……小説家のくせに、説明不足なんだよ、Aのやつ。思ったよりも、事件の核心に迫らなかったな。大体の話はわかったが――とりあえず、手短なところから当たってみるか? Aのマネージャーの住所……小松から聞いていたな。そこであいつの足取りを探るとしよう。そう決めた俺の耳に飛び込んできたのは、例のブゥゥゥンンンンン……ブゥゥゥンンンンン……という羽音。また蠅か! どこから入ってきた? どうやら、おれはこいつらとは切っても切れない関係にあるらしい。
俺は霧深い路地に再び繰り出した。もうこの霧にも慣れっこだ……と言いたいところだが、なんでかわからないが、どうもこの霧は好きになれない。なにか、得体のしれない不快さをもよおすというか、飲み込まれそうになるというか……。ガア、ガア、遠くの方で不気味にカラスが鳴く……エンガチョ、早く事件を解決して、ゆっくりテトリスに浸ろう。
*
「なに、Aについてだと?……実のところ、やつのことは、俺もよく知らん」
編集長はぶっきらぼうに言った。
「……では、あのAという人物とは、いつ、どこで出会ったんですの?」
「それはだね……まあ、こうなっちゃどうしようもないし、話すとするか。嘘みたいな話に聞こえるかもしれないが、信じてくれよ(少女はこっくりと頷いた)。
十年くらい前に、そう、あれは、俺がまだ今のポストには就いてなくて、ただの一編集者だった頃の話だ。会社のむかいに、広い空き地があったんだが、まあ、今じゃもうそこには新しいビルがいくつも建って跡形もないがね、なにか、俺の知らない理由で、その空き地の管理者が、はっきりとわからない時代が長く続いていてね、勝手に、子供が秘密基地をつくったり、野良犬が群れたり、誰かがゴミを不法投棄したりしていて、それはもうやりたい放題、滅茶苦茶な場所だったんだよ。
たとえば、何か用事がある時、会社から出て、ふとその空き地を眺めるとするだろ、すると、とつぜん、石が飛んでくるんだよ! あるときなんか、頬をかすめて飛んでいったくらいさ。もちろん、やったのは近所の(あるいはどこかからやって来た住処を持たない)子供達だよ。こら! 出てこい! やったのは、どこのどいつだ! ってすごい剣幕で怒鳴ったって、広くて草ぼうぼうの空き地だから、目を凝らしてみても、なかなか正体がつかめないんだね。相手方もそれを知っているから、こっちを影から覗いて、クスクス、キャアキャアの忍び笑いさ。まったく、子供ほど陰険な存在もないよ! だから小心者の社員は、裏口から出入りしたりしていたくらいで、まったく、こまったもんだった。
ある日のことだ。俺がいつも通り会社を出て、飛んでくる石を警戒しながら空き地をちょっとながめると、なんだか、いつもと様子が違うんだな。なんというか、ほら、わかるだろ? いつも見慣れている光景のほんのわずかな変化に、見慣れているからこそ、気がつくということが。
まず、石が飛んでこない。これはおかしい。いや、本当は飛んでくる方がおかしいんだが、そう考えてしまうほど、その頃のがきんちょどものイタズラは増長していってたのさ。それに、なんだかでかい声で朗々と演説しているやつがいる。その声だけしか聞こえないんだが、明らかに子供の声じゃない。しかも、なんだか教師が授業をしているときのような、自信たっぷりの、堂々としたはなしぶりなんだよ。
俺は不思議におもって、ふと、青空教室かな? なんて妙なことを考えてみたりもしたが、とにかく、道をわたって空き地に近づいたんだ。道と空き地の境界線には、申しわけ程度に細い鉄条網がはりめぐらされていて、誰でも入れる状態だった。でも、少し仕事着をひっかけちまったけどな、その鉄の縄に。よくおぼえているよ、大事な、お気に入りの服だったから! まあ、今着ているのと、少しも変っちゃいないんだが……それで、空き地に足を踏み入れたはいいが、まずおそってきたのは、強烈な悪臭さ。あらゆるものが腐りきった臭い。酸っぱい、苦い、それにこれが一番嫌なんだが、甘い臭いが混ざった空気。俺はその空き地に入ってから数メートルのところ早くもで吐き気をもよおした。小僧めら、よくもまあこんなところでごっこ遊びができるな! と思いながら。だが、それも、しばらくしたらずいぶん慣れた。俺は、演説の語り手が気になってしかたがなかった。それに、子供たちが石を投げてこないのも気になった。長いこと、背の高い雑草をかきわけかきわけ、声のする方にむかって、懸命に進んだよ。久しぶりの激しい運動に、もう汗だくで、なんでこんなことをやっているんだ、と自分で思いつつ、声の方に吸い寄せられるようにして歩いたんだな。
……どれくらい経っただろう、途中で方向転換をしたりしたから、ずいぶんと遠回りをしたんだろうが、やっとこさめざす演説台までたどり着いた。そこは、草が刈り取られた、というより、生えなくなった場所で、というのはゴミの大量投棄場所だったから、滲み出る毒素で雑草すら生えないんだな。空き地の中の空き地、といったところだった。けっこうな広さだ。へんに黒ずんだ土がむき出しになっていて、生ゴミ、粗大ゴミ、得体の知れないゴミ、いろんな種類のゴミがそこら中にうち捨てられている。異臭はもうすごいことになっているようだったが、すでに「鼻がもげて」いたからなんとか耐えられた。後で家に帰ったら、家内に、どこをほっつき歩いてたのよ! あんた、からだ中、くさくさ虫がついてるわよ! って言われたっけな。結局、下着から何から全部、捨てることになったよ。その家内も、五年前に死んじまった。
……そうそう、話の続きだな。その「空き地の中の空き地」の真ん中には、かつては立派だったんだろうと思わせる、みすぼらしい外車の残骸が置いてあった。紫色の、しゃれた車さ。いや、かつては立派な車だったんだろう。まず俺がおどろいたのは、その外車の前に、十数人の子供たちが、きちんと立膝ついてすわっているんだ。こいつらが「石投げ」の犯人にちがいないが、それよりも俺はまず、その状況が理解できなかった。さらにびっくらこいたのが、例の外車の天井に、髭や髪を伸ばすままに伸ばした、つぎはぎだらけの浮浪者然とした服装の、今時珍しいほどにみすぼらしい男を認めたことだ。そいつは、外車の天井を演説台にして、指揮者のように手を大げさに振って、目を輝かせながら(不思議なことにその目は宝石のような光を放っていたんだ)、子供らに向かって一演説ぶっているんだな。こいつが演説者の正体だったんだ!
これはどういうことなんだ、と思ったよ。思ったとも! いったいなにを話せば、こんなみすぼらしい男が、いたずら小僧たちの注目を一身に浴びることができるんだ? ってね。いや、それ以前に、いろんな疑問が、この浮浪者は何者なのかだとか、どうしてこの場所に一同が会しているのかとか、十分考えたうえでだよ。もちろん、具合のいいちゃんとした答えは見いだせなかったがね! 俺は二、三歩下がって、また草むらにかくれた。いったい、あの男は何を話しているんだろう、そう思って様子をうかがうことにしたのさ……」
「それで? 彼は何を話していましたの?」少女は目を輝かせながら問うた。その目の光を、編集長はどこか懐かしいものを見る心地で眺めた。
「……そいつは、お堅い議題を題目のようにとなえていたんじゃなかった。ましてや、政治の話をして、『将来有望な若者』を秘密結社にひきずりこもうという魂胆でもなかった。やつが一生懸命に、そして滔々と語っていたのは、……ほかでもない、物語さ。それも自分の身の上話でも、ましてやおとぎ話でもない、いや、正確に言えばそういったものが混ざり合った話……現実と夢物語が、うまく調和した話……奇妙だが、けっして不快ではない、なんだか、途中から聴きはじめた俺でも、その物語の中にすんなりと入って、優しく抱きとめられる、そんな話……その浮浪者は、正真正銘の、語り部だったんだ」
「素晴らしいですわ!」と天使を名乗る少女は叫んだ。「あの方は、やはり変わらなかったのね、試練に遭っても。自らの役割を自覚していたんだわ……ああ! それが、どうしてあのような醜悪な悪魔を生み出すようなことに? あの人に一体なにが?」
「そう、あいつは語り部だった……まさしく。夜も更けて、子供たちが家に帰ったあと(家なしの子供でも、そのゴミためをねぐらにしているやつはさずがにいなかった)、俺は外車の上で満足そうに仰向けにねころぶ男に近づいた。男はすぐ俺に気づいて、横になったままこう言った。警察ですか? 警察だったら、どうか放っておいてください! おれはいまのままで、十分幸せですから。警察でないのなら、おれの話を聴きに来たんですか? だったら、明日、ここにきてください。疲れが取れたら、またいくらでもお話ししますから……。じっさい、男はずいぶんと疲れているようだった。
俺は言った。俺はしがない出版社の編集者なんだがね(そこで男はぴくりと身を震わせた)、君の話を聴かせてもらった。君の話は大変面白い。君は人に物語を語って聞かせることが好きなようだが、俺はより多くの人に君の話を聞かせたい。それに、君は今定職に就いていないとみえる。どうだい、小説を書いてみる気はないかい? それがもしおもしろければ、うちから出版するよう打診してみてもいいんだが……。男の目が、あの物語っている最中のように、きらきらと輝きだした。そして言った。よろこんで! ああ、なんと幸運なことだろう! まさか、こんなことになるなんて! 夢が、こんな形で叶うなんて! 俺は男のそんな喜びように多少面喰いながらやさしく言った、まあ、期待しないでくれよ、一編集者の独断で決まるものじゃないんだから……それにしても、今になって思えば、あいつの才能を一番買っていたのは俺だったんだな」
「やはりパワーに厳しく言っておいて正解でしたわ」少女が言う。「決して食べないように、と。なんといっても、あなたはあの方にとっての、ひいては我々にとっての大恩人、……いや、救い主ですもの!」
「……やっぱりあの牛頭は人すら食べるのか。そんな気はしていたがね」編集長は苦笑しながら言った。
「あら、でも滅多に食べなくてよ。万が一のためですわ」少女はそう言って微笑した。
*
俺は、事務所から歩いてすぐのイタ飯屋『アルティジャーノ』に向かっている。マネージャーのアパートに直行しようと思っていたが、急に消化器が悲鳴を上げだしたんだ。何よりもまずは、腹ごしらえからだな。武士は食わねど高楊枝? いいんだ、いいんだ、俺は武士じゃない。
驚くべきことに、そしてまた当然のように、アルティジャーノの扉は開いていた。
しゃれた雰囲気の店で、結構気に入っている。いつも客は俺と一人か二人くらいで、ガラガラなんだが、それがまたいい。すぐさま、若くて痩せた男が注文を取りに来る。わざとゆっくり時間をかけて注文をくりかえすのは、相当暇な証拠だろう。
今日は一人も客がいない。寂しげに椅子とテーブルとが並んでいる。そりゃそうだ、こんな霧の深い日にわざわざ外食するやつもいないだろう。……俺みたいなのを除いては。適当な席に座ると、空のガラスコップと、水のなみなみ入った透明な緑色の瓶を若い男が持ってきた。
「こんな日に、よくやってるね」
「ええ、まあ。いつまでも休んでいるわけにはまいりませんからね」
たしかに、とうなずいて、メニューを見る。どんと目に飛び込んできたのは、血も滴らんばかりの、ローストビーフ丼の写真だった。イタ飯屋なのに、なぜか丼物がおすすめメニューになっているところが気に入った。よし、ここはいっちょ精をつけるか。
「これ、大盛りで」と写真を指さす。
「かしこまりました。くりかえします、ローストビーフ丼、大盛りで(俺はそうは言ってないけどな)。よろしいでしょうか? では、少々お待ちください……」
俺はコップに水を注いで一気に飲み干した。今までの状況を頭の中で整理し始める。どうやら、カギになるのは「悪魔」と呼ばれている二人組の男らしい……やっぱり、そいつらを見つけるのが最優先だろうか? だが、いったいどこにいるんだ? 有力な手掛かりは何もなし。雲をつかむような話だ。祈祷師(エクソシスト)にでも聞いてみるか?
早く来るだろうとは思っていたが、それよりも早く丼は来た。大盛りの白米の上に、血の滴る半生肉、その上にはなんだかわからないが白いソースと葉っぱがかけられている。中心には半熟卵がトロリとのっかっている……。
たまらず口にかきこむ。これは……ウマい!
「お味はいかがでしょうか」
若い男が味を聞きに来た。相当暇なのだろう。
「かなりうまいよ。ここのシェフはいい腕だね」
「ありがとうございます」
「それにしても、よく肉が調達できたね。この辺の家畜も、だいぶ盗まれたんだろ?」
「ああ、それでしたら、ご存じありませんか? 盗まれるのは、決まって、『牛以外』なのです。山羊とか、羊とか、豚とか。鶏なんかもそうですが、なぜか牛だけは盗まれず無事なのです。それで」と男は血の滴る肉を手のひらで示して、「こうしてお客様にご提供させていただけるということです」
なるほど、と俺はうなずいて、少し考えるようなそぶりをした。暇そうな男は奥に戻っていった。
さて、腹ごしらえもすんだし、マネージャーの住んでいたアパートにいくか。
俺は小松から教えてもらった住所を頼りに、深い霧の中を犬のように歩いた。骨が折れたが、そこまで遠いところにはなく、一時間ほどでたどり着いた。
大家は話の分かる人だった。マネージャーの友人だと言ったら、簡単に部屋を開けてくれた。
「心配なんですよ、失踪するような人じゃないから」大家――パンチパーマの中年女性――は本当に心配そうに言った。
「僕も心配しています、ここになにか手がかりがあればいいんですが」と俺は努めて清く正しい感じで言った。
マネージャーの部屋の中は不気味なほど整然としていた。つまり、無理やり拉致されたとは考えにくい。すくなくとも住人はけっこうマメなタイプのようで、隅から隅まで丁寧に掃除されている。キッチンの様子からみるに、自炊もよくしているようだ。感心、感心。やけにオーディオ機器が多いところをみると、趣味は音楽鑑賞だな。本棚にはAの本がずらっと並べられている。あいつ、こんなに本を出していたのか。なんで今まで気づかなかったんだ?……そうか、俺があんまり本に関心がないからだな。……
部屋をそれなりに物色してみたが、日記などは見つからず、役に立たない日常のメモなんかが見つかるだけだった。パソコンを調べてみると、やっとそこに日記のようなワードファイルが入っていた。こいつ、彼女でもいるのか? 仕事と関係なく頻繁に、誰かと会っているぞ。だけど、その名前はついにわからなかった。さらに言うと、失踪の原因がわかるような記述も一切なかった。
パソコンをシャットダウンして、あたりを見回すと、小さな作業机の上の、小さな鍵が目にとまった。なんの飾りもついていない、地味な鍵だが、いったい何の鍵だ?……探偵の勘が訴えてくる。探せ。探せ。鍵穴を。
洋服箪笥の脇の壁との僅かなスペースに、それはあった。灰色の、小型で頑丈そうな金庫。オイオイ、これはなにか……やばい予感がする。覗いてはいけない他人の秘密を、あえて覗き見るような。でも、覗き見ることこそが探偵の仕事なんだよな。因果な商売だが、仕方ない、仕方ない。
鍵は鍵穴にぴったりと合った。ゆっくり慎重に回す。もしもこれが罠で、開けた途端爆発するような仕掛けがしてあったら?……しょうもない妄想が頭をよぎるが、もうどうしようもない。静かに扉は開いた。
しばらくして。
「よし、帰ろう。小松には、手に負えないといって、断ろう」俺は言う。
「何を言っている? いまさらビビってるのか? お前はそんなタマかよ? がっかりさせるな。それに、これはチャンスだぜ」と、もう一人の俺が言う。
「チャンス? どういう意味だ。むしろこれはピンチだ」
「ピンチをチャンスに、だよ。この意味が分からないのか? こんなブツが絡んできたということは、この事件、相当デカいぞ。かつて経験したことないほどな」
「これが初めての事件だぞ」
「とにかく、この事件の真相をつかめれば、俺もいっぱしの探偵として認められる、そうじゃないか、兄弟? それに、このブツは武器になる。文字通りの、強力な武器にな!」といってもう一人の俺が笑う。
「頭、大丈夫か? お前。コイツはちょっとばかし、危険すぎるぜ。俺の手に余る仕事だ。確かに今後はこいつのお世話になるほどのヤバい奴らと関わらなくちゃいけなくなるかもしれない。だけど、それは依頼をクソ真面目に遂行しようとしたらの話だ。なにせ、こっちは一人なんだぜ?」
「二人じゃないか、兄弟。俺たちが力を合わせれば……」
「ちょっと待った! お前は何者で、何様のつもりなんだ? 俺たち、だと? これはあくまで俺一人の体だぜ。エイリアンにも、妖怪にも、悪魔にだって乗っ取られちゃいない。お前はどこから来たんだ? それもいきなり」
「俺は最初からいたさ。俺たちが生まれた時からね。いや、むしろ、俺たちの人生は、俺によるところが大きいんじゃないかな? 兄弟」
「どういう意味だ?」
「俺は俺たちの中にある、スリルと冒険を求める心さ。俺たちが探偵になったのだって、それを求めていたからじゃないのかい? このまま尻を向けて逃げ出したら、あの、クソつまらない日常にカムバックすることになるんだぜ? いいのか? 兄弟。それに」もう一人の俺はにんまり笑った。「あの蠅と意識を交換する力、あれも俺のおかげなんだぜ。自由を求める心、それがあの力を俺たちにもたらしたのさ」
「クソッ!」と俺。「小狡いやつめ。あの力はこちらにも入用だ……しかたない、イニシアチブはそっちにやるよ……好きにしな、でも命だけは大切にしろよ、お前一人のもんじゃない、俺のものでもあるんだからな」
「さすが兄弟! 話が分かるね。じゃあ、好きにさせてもらうよ。……もっとも、命の保証はないけどな!」
「おい、まて……」
こうして「安定と安全を志向する俺」は「スリルと冒険を求める俺」に負け、当面の行動方針は固まった。
俺は大家に軽く挨拶をした後アパートを颯爽と出た。俺の自我が分裂した直接の原因である、金庫の中にいくつもの袋で厳重に保護されていた、黒びかりする拳銃と実弾のずっしりとした感触を懐に感じながら。
第四章
「……それにしても、俺を退治する、だって? へっ! よくぞ言ってくれたな、神様よ! まったく、そこまで馬鹿にされちゃあ、こっちだって黙っちゃいられないってもんだ、なあ、そうじゃないか?」
そう毒づいたのは、奇妙に盛り上がった髪型に、とがった耳と鼻、鋭い眼、そしてすらりとした体格で、黒い外套姿の男――宮田望その人だった。
こいつ、こんな顔してたっけ。メリーゴーラウンドのような距離感で対峙した、神――そしてまたの名を小説家A――は再びそう考えた。
《最初に見たときと、随分印象が違うような。……おかしな話だ、私が奴を創ったんだから、私のイメージ通りの顔をしているはずだ。ならば宮田の顔は、多少の誤差もなく、頭の中の像と瓜二つのはず……なんだか、以前より、存在から発する威圧感のようなものが、増してきているような……まさか、時間が経つごとに、どんどんその存在が現実味を帯びてくるとでもいうのか? その一方で、、この私の記憶はだんだんと薄れていく――まるでこの男に記憶を食われているかのようだ。……もうこれ以上、記憶は失いたくない。今の私にとって、記憶こそ最大の宝、時間こそ最大の敵なのだ……》
「まあ、まずは久しぶりの再会を祝おうじゃないか、宮田。元気そうで何よりだよ。……だって、そのほうが、懲らしめ甲斐があるってものだ。なあ、そうじゃないか?」
神はそう言って挑発した。だがこの男をどうやって懲らしめようというのか、彼自身もわかっていなかった。
「ふん、そうやって、俺を怒らせる気だな? 神よ! 残念ながら、その手は効かないぜ、俺にはな! いいかい、いつも俺が怒っているように見えるかもしれないが、それはそう見えるだけさ。実際、怒ってることなんざ、滅多にないからね!……ただただ、怒ったふりをするのが、楽しいのさ。それだけのことよ!」宮田はにやつきながら言った。
「なるほど、やはり君は相当の天邪鬼だね、宮田」神は盥屋を真似て言った。「君ほどの天邪鬼は、ロシアかアフリカに一人か二人しかおるまいよ!」
「なんだって? ……こいつは面白くないな。盥屋のことを思い出しちまったじゃないか」と宮田は苦々しげに言った。
「彼はどうしたんだ?」
「奴か。……俺の方から、いったん二手に分かれようと提案したのさ。なんせ、お前とは一度、サシで話したかったからな」
「では、彼もこの世界のどこかにいるのか?」
「ああ、そうだよ、ふん、どこでなにをしているか――今頃、呑気に考え事でもしているんだろう、それが奴の趣味だからな」
「まあ、なんにせよ、好都合だな。俺もお前と二人で話をしたかった。……一言いいたかったんだ」神は大きく息を吐いて落ち着いてから、続けた。「言いたいのはこういうことだ、俺たちを追いかけるのはいい、勝手にしろ。だが、見境なく大暴れして、関係のない人々まで巻き込むのはやめるんだ。これはお前と盥屋、そして私だけの間の問題だ。あと、燃えた家の弁償はしてもらう」神は力強く、拳を握りしめながら言った。
しかし、宮田はポカンと気の抜けた表情になり、呟いた。「なんのことだ?」
「説明しないとわからないのか? お前、自分のやっていることがわかってないのか?」
「違う、違う! そうじゃないってば。むしろ、お前の言っていることの意味が、ちっともわからないのさ!……お前を追いかけているというのは、確かにそうだ。例のものを返してもらうためにな。まあ、ちょっとくらい痛い目にあわせてやってもいいが……だが、次がわからないな、俺が赤の他人に、どれだけ迷惑をかけた? なにをしたっていうんだ? まあ、この宮田さまも、いたずら心は大いに持っているが、今はそれどころじゃない、そうじゃなけりゃあ、こんな訳のわからないところまであんたを追いかけたりはしませんぜ!」
今度は神がポカンとする番だった。
「例のもの? なんのことだ?」
宮田の顔が少し蒼ざめた。
「冗談はよした方がいい、そのことについては俺も真面目になるしかないからな!……これは多分、本能的なものなのさ」
「いや、いや! 本当に、心当たりがない。お前からは、煙草一本、受け取ってないぞ」神はなだめるように、ゆっくりと静かに言った。
「そはまことか?」宮田は眼を細めて、まるで公家のような、とぼけた口調で言った。だがその道化っぷりとは裏腹に、全身がわなわなと震えている。
「まことだ」神もなんとなく、それにのって答えた。
「ふざけるな! じゃあ、いったい、誰が盗んだっていうんだ? 他に俺の住処の場所を知ってるやつがいるかよ? お前さん以外に、誰がいるっていうんだ?」宮田の感情は爆発した。これが彼の怒りだった。彼は自分の思っている以上に怒りやすかったのである。
「なにが盗まれたっていうんだ?」と神は眉をひそめて訊ねた。
「へっ! とぼけるのもいい加減にしやがれ! お前は俺以上の悪漢だな、まったく! いいか、お前は、俺の命の次に大切な、いや、命に等しい、いや、命以上の価値を持つ、あの砂時計を盗んだんだよ! 覚えてないとは言わせんぞ、盗人が!」
「あの砂時計が盗まれたのか?……そうか、あの砂時計が……宮田、それはいつのことだ?」
「……俺たちが挨拶から帰ると、部屋が荒らされていた。ひどいもんだった……だがそれはいい。よくないのは、砂時計がどこにもないということさ。鍵は閉めてあったはずなんだがね!」
「それなら、やはり俺にはどうやっても無理な話じゃないか? 考えてもみろ、あの後、俺が君たちの先回りをして、正確な場所を知りもしない住居に忍び込んで、なおかつ何らかの方法で扉の鍵を開けて、短時間のうちに部屋を荒らしまわって、砂時計を盗む……こんなことをする理由、技術、時間、すべてが俺には無かった! 俺はあのあと、パソコンに向かってちょっとした作業をしていたんだからな……なにをしてたか、君に言う義理はないが。もっとも、そのパソコンも、お前たちによって家ごと燃やされてしまったがね! 証拠隠滅って奴か? それとも、見せしめか? なんにせよ、弁償はしてもらう。何年かかろうとも……」
「まて、まて、わかった、あんたがやったんじゃないってことはな。そんな荒業、確かにどう考えても、不可能だ。たとえ神にでもな……あとな、あんたの立派なマイホームのことだが……俺たちがやったんじゃない。そこを勘違いされると困るな!」
「なに? お前たちじゃない? なら誰が燃やしたんだ?」
「さっきまで、ここらを飛び回っていた奴の、仲間さ。ことによると、さっきのが張本人かもしれないが! 火の扱いには慣れてるみたいだったからな!」宮田はまたにやにやした表情になり、得意げに言った。
「……すると、あの、天使みたいなやつがやったっていうのか?」
宮田は神妙に頷いた。
「そうだ。犯人の正体は、天使だ。自分でそう言っていた……」
神は呻った。
「……にわかに信じられないが、嘘だと言い切れもしないはなしだな、それは。だって、君みたいな悪魔的な男が、よりによって天使に罪をなすり付けるだなんて、出来過ぎてるし、滑稽だし、なにより、君はそういう男じゃない。露悪的だが、偽善的ではない。まあ、あまり評価できないがね……とにかく、家の件については、保留だ。盥屋や、その天使とやらにも話を聞いてみなければ……重要なのは、お互いの認識に、かなりのずれがあるということだ」
「認識、にんしき、ニンシキ! そう、それ、それなんですよ、神様!」宮田は嬉しそうに言った。「どうやら、俺たちは、お互いドツボにはまっていたらしいぜ。あるいは、誰かにはめられたのかもしれないが……そんな奴には、盥屋特製のダイナマイトをお見舞いしてやりたいね!……まあ、自分で自分を騙していたにせよ、誰かに騙されていたにせよ、同じこと。つまりは、創造主と造物主、そろいもそろって大マヌケ! この世を創ったのは偽の神で、その子供達もすべて偽物だという考え方が巷にはあるが、まさに俺たちのことじゃないか? まったく、ばかばかしいよ」宮田は舌をペロリと出して、「一体、俺たちは車輪の中のハムスターさ!」
これには神もたまらず笑って、寂寥たる荒野に二人の哄笑が響いた。
さんざんぱら笑いあった後、そこらへんにあったちょうどいい高さの岩に、それぞれ腰を下ろして向かい合った二人の距離は、だいたい二メートルほどである。神は膝の上に手を置き、しっかりと前を見た。宮田は足を組み、右足のその黒い靴の裏を神に見せている。泥の下に砂や枯草が付着して、厚い層を成していた。胸の前で掌を水平に重ね、手相でも見ているような神妙な顔をしている。やがて指を昆虫の脚のように動かし、疲れのためか、安堵のためか、ほおうとため息を一つついた。神はその様子になにとなく懐かしさを覚えた。
「さて、取っ組み合いでもしようと思っていたが、どうやらその必要もなくなったようだね? お互い、誤解は解けた。これは、この上なく素晴らしいことだ! あるいは、とんでもなく馬鹿馬鹿しいことだ……」宮田はうつむいたまま言った。
「そうだな。握手をする気にはなれないが、平手打ちをする気にもならない、そんな感じだ」神は宮田の燃えるような頭髪を眺めながら言った。
「同感だ!」宮田は顔をあげた。「俺たちはなにか、蟻んこに似ている。お互い餌を奪い合って、気づかぬうちに二匹とも蟻地獄に囚われてる蟻んこだ」指はまだもぞもぞと動いている。
「そうだな。なにか罠にかけられている。そんな気がするよ。大きな罠に!」
「まったく滑稽だな。神様と、自分のことを神だと思っている奴が、同時に同じ網に絡めとられるなんて!」宮田は少し笑った。
「おや、すると、君は本当に自分が神だと思っているのかい?」
「いや、盥屋のやつがそう言ったことが忘れられないまでさ。もっと正確に言えば、お前さんが書いたんだがね……つまり、あんたがそう思ってるってことだろう?」
「どうかな。……そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
「神様、俺は、そういう答えは嫌いだね!」
「いや、私は、書いているとき、なにか、自分の意志で書いているような気がしないんだ。この身体を借りて、なにかが降りてくるような……」
「それじゃあ、いわゆる『憑依型の書き手』、ということかね? こいつはすごい! そんなあんたは、まごうことなき天才だよ」と宮田は冷やかした。軽口だけはいつでも飛び出すのである。
「まあ、そういう風にしか書けないからね。なんでも好きに解釈してくれ」
「ほうほう! つまり、俺も盥屋も『降りてきた』ってわけか……どこから降りてきたものやら! ところで、じゃあ、しらふのお前さんはどう考えているのかな? 俺のことを」
「君のことを?……わからないな。少なくとも、今は」
「だから、そういうコンニャクみたいな答えは嫌いなんだってば!」
「そうだな……実際こうして話してみると、君には何か、近しいものを感じる……思ったより、ということだよ。たぶん、あの盥屋という男よりは、ずっと私たちは似ているんじゃないか?」
「続けてくれ」そう言う宮田は再びうつむいていたので、神に表情を読み取ることはできなかった。
「盥屋の指摘した、君は図太いということは私も同意するよ。君は『一本うどん』なみに図太かろう。だけど、君が自分を神だと思っているのかどうかは、わからないな。むしろ……君はそう信じていないかもしれないけど、盥屋の方がそう信じている、そんな気がするよ」
「盥屋が?」
「君が神であるという命題(テーゼ)、それは、君の無意識の確信というより、彼の無意識の願望なんじゃないかな。盥屋は君を神に祭り上げようとしている……そんな気がする。その目的は残念ながら作者の私にもわからないけどね」
「ところで、あんたを追って、この世界を放浪してるとき、珍妙な爺さんにあったんだが……」
宮田は唐突にあの荒地の老人について語りだした。彼と宮田の会話の内容や、彼の風貌をことこまかに神に説明した。神は「ほうほう」とか「それで?」などと頻繁に相槌をうちながら、注意深く熱心にその老人についての話を聞いた。
「なるほど、興味深い話だいったい何者なんだろうか……つまり、その老人も、盥屋には気をつけろと忠告したんだね?」神は宮田が話し終わったあとしばらく考えて言った。
「そうさ、それでいま、なんとなく思い出してね……まさか盥屋本人に話すわけにもいかないから、ここで吐き出したのさ。王様の耳はロバの耳!」
「それで、君は盥屋をどう思っているのかい?」神は機を逃さず訊ねた。
「俺が?」
神は頷いた。
「……奴はただの詭弁家さ。それ以上でも以下でもない」
「嘘だな。そういう答えは私も嫌いだ」
「ふん、こりゃあやられたな。まあ、正直に言って、兄弟、それも全然似ていない兄弟だな。あるいは同志!……なにか奴と俺には目の見えない繋がりがあることは間違いないが、だからといって似たところは全然ないな」
あたりに冷たい風が吹いた。二人はそれに構わず会話を続ける。
「君たちは確かに兄弟だ。だけど本当の兄弟じゃない」
「だから、そういう答えは嫌いなんですがね……」
「とにかく、今はそうとしか言えない。私はまだ彼としっかり話せていないから。しかし彼は……なにか不思議な違和感があった……君たちが私の家に挨拶してきたときの話だが……やっぱり直接確かめてみないと……なにしろあの時は驚いていたから」
宮田は笑った。「そうかい。それは結構、けっこう……ところで」
「誰かに見られている感じがしないか?」
二人は辺りを見回した。広大無辺に感じられる荒野、人影はない……しかし神もまた、誰かに見られているような気配を感じていた。
「私もそんな気がしていた。気のせいにしては気が合うね」
「どうする? 念のため、場所を変えるか? 歩きながらでも話すか?」
「……いや。もう、疲れたよ。たとい移動したって、その『誰か』も、ついてくるだろうし……それに、べつにだれが聞いてたって、構わないさ。そうだろう? だって、お互い、類推を述べ合ってるに過ぎないんだから。なにか、秘密の企みを計画してるわけじゃないんだし……私たちはまだ『仲間』ではないだろう?」
「ほほう、なかなかどうして、あんたもけっこう、図太いな! まあ、それもそうだ。こんな話、だれが聞いてたってかまいやしない、そのとおり! 客観的にきけば、こんなに素っ頓狂な話もないものな。むしろ、誰かが聞いてくれていた方が、張り合いがあるってもんよ……そうさ、俺たちはまだ『仲間』じゃない……まったくのエネミー、ってわけでもないけどな。……それじゃあ、まあ、得体の知れない聞き手のために、話に花を咲かせるとしようぜ!」
宮田はゲタゲタと笑って、ぽんと一つ、大きく手を叩いた。
それからしばらくの間、二人はとりとめのないことを語りあった。お互いのこれまでの経緯や、盥屋やマネージャー、荒地の老人など、今ここにいない人物について、それからこの奇妙な世界についてのことなどを。それにも飽きてしまうと、無言で枯れ草などをいじっていたが、どちらともなく岩に寝転がり(それほどの大きさのある岩だったのである)、そのまま深い眠りに落ちていった。両者とも、しばらくまともな睡眠をとれていなかったのである(宮田の場合、本当に睡眠が必要なのかは議論の余地があるが)。――――と、誰かが呟いた。そして再び冷たい風が吹いた。それから、八咫烏が飛び去った方向、遥か遠方から、もくもくと黒煙があがった。かすかに鐘の音が聞こえる。神は静かな寝息を立てて、宮田は大きないびきをかいて夢の中にいる。物言うものは誰もいない。
それからは辺りを沈黙が支配したのである。
妙な夢を見た気がして、宮田が目を覚ましたとき、あたりはすでに薄暗くなっていた。
彼は上半身だけ起こして、周りをきょろきょろ見回していたが、やがて何かに気づいたように岩の上に立ち上がった。そして大きく伸びをしてから、手足を念入りにストレッチし始めた。肩をぐるぐると回し、首を前後左右に振った後、満足したような表情を浮かべ、岩からぴょんと飛び降りると、まだ向こうの岩の上ですやすやと寝ている神を見やった。
なにか大きな悩みがとれたような、安心しきった神の顔は宮田の初めて見るものだった。《今までは、驚いてたり、怒(いか)ってたりする顔ばっかり拝んできたからな!》と宮田は思った。《安心しきってらっしゃるぜ、神は! どうする宮田? このままこの幸せそうな寝顔を見守るか?……いやいや、おれはこいつの親じゃない、そんな気味の悪いことはすまい……では、文字通りこいつの『寝首を掻く』とするかな?……といってもこいつは敵(かたき)じゃないし、そんな卑劣な真似をしてまでも消したいほどの理由があるわけじゃなし……ああ! じゃあ、ひょっとして、あれかな? ここに寝てらっしゃる神様の起きるのを待って、起きたら、一緒に仲良く、このわけのわからない世界を歩いていくしかないのか? それだけは勘弁だ!……この男といたら、俺の『自由』ってやつは一体どうなっちまうんだ? なんせ、俺を創った存在なんだぞ? いろいろと厄介だし、なにより恐ろしいったらありゃしない! 俺のことを俺よりも知っていて、俺よりもそれを勝手にできる存在なんてな! うん、こりゃあ、まずいことになったかな? どうする宮田?……おや? あれはなんだ?》
あれこれ考えながら視線をあちこちに巡らせていた宮田の目に留まったのは、彼から50m程の距離に立っている人影だった。どうやら宮田と似た背格好の人物のようだ。宮田はいくら人間離れした能力を持っているとはいえ、その人物の詳しい様子までは視認できなかったが、なぜか彼は微笑しているような気がした。
「誰だ?」と宮田は呟いた。当然むこうに聞こえるはずもなく、また聞こえたとしても無視されたのだろう、その人影は踵を返してすたすたと歩きだした。薄暗さが邪魔をして、このままでは見失ってしまいそうだった。
「待て……」宮田はまた呟いて、思わず人影を追い始めていた。この荒野に人とは、それだけで怪しいものだが、彼はなにかもっと切実な感情、ありえないことだが、懐かしさに胸を襲われて、その人物を追い始めたのである。もちろん、一度、神のことをちらと振り返った。《こいつはどうする?……まあ、猛獣すらいないようなところだし、一人でも大丈夫だろう、おそらく! それに、こいつと仲良く歩いていくのだけは嫌だと、今の今まで考えていたことじゃないか? こりゃあいいチャンスだ……じゃあな、あばよ神様! また会おうぜ!》と心の中で別れを告げて。
宮田は人影と一定の距離を保ちつつ、荒野を歩き続けた。この世界は時間の経過が遅いらしく、長いこと同じ薄暗い空間の中を追い続けた。なにか懐かしい感じがするのは確かだったのだが、一気に近くまで走り寄って、「よう、久しぶり!」と挨拶をかわしつつその顔をみる、というところまでいくのは、なにか躊躇われた。今追っている人物の顔を見ることが躊躇われるとは、いかにも滑稽だが、しかしその躊躇いは恐れにも似ていた。《ああ、まったく、忌々しい! なんでこの宮田さまが怖がらなきゃならないんだ? そんな相手はこの世にいるのか?……まあ、けっこういてもおかしくはないか……なんせ、この世は魑魅魍魎!》彼はそう考えて一人微笑した。
と、突然、人影が消えた。
宮田は慌てて消えた場所まで駆けた。地面に、ぽっかりと大きな穴が開いている。
《やれやれ、また穴か! ここに落ちたのかな? 案外、間抜けな奴だな……いや、これは罠か?……この世界まで来たのも、いってみれば、罠にはまったようなものだし……まあ、もう一度罠にはまってみるのもいいか!》
と宮田は思考を巡らしながら穴に飛び込んだ。
しばらく、あの自分の感覚があいまいになる、不快な感覚。自分が徐々に細かく分解されてゆくような……。《相当深い穴だな、こりゃあ着地が難しそうだ……》
しかし着地は楽にできた。宮田の体は重さを全く感じさせなかった。そして、降り立ったのは先ほどまでと同じ荒野だった。正確に言えば、先ほどまでの荒野と同じ要素を持っていた。もっと正確に言えば、世界はすべて3Dポリゴン化された図形空間だった。
宮田は自分の凸凹した手を、胸を、足を見た。四角三角丸、様々な大きさの図形が簡単に組み合わさって巧妙に彼の体を構成している。色のグラデーションも粗くなっていた。あたりの枯草も、薄暗い空に浮かぶ雲もみな、図形化されている。「初期のプレステだな、こりゃ!」と宮田は悪態をついた。
例の人影は、やはり五十メートル先にあった。彼もまた、幾何学的図形化している。そのためその風貌は余計にわかりにくくなった。
《こりゃあただ事じゃなくなってきたぞ》宮田の頭を思考が巡る。《一体どうなってる? 世界が一回りグレードダウンしたみたいだ。……あいつに聞いてみるしかないな》
宮田は走り出した。人影も走り出した。宮田の追いかけるのと同じ速さで。「待て! おい! これは一体どうなってる?」宮田が叫ぶ。
また人影が消えた。
そこにはやはり穴があった。その形は、先ほどより多少凸凹していたが……「またか!」宮田はかまわず飛び込んだ。
また単純になってゆく自分という感覚……。
そこはすべてが無数の細かな色をもった点によって構成された世界だった。精緻な点描によって世界は先ほどまでより美しく表現されていたが、《つまりはファミコンの世界ってやつだ。また一回りグレードダウン! ああ! はたしてもとに戻れるんだろうか?》
しかし、宮田にははるか遠いその人を追いかけるより道がなかった。ポップな絵画風にアレンジされた宮田とその人はひたすらに今までと同じ荒野を、しかし違う世界を追いかけ、追われていた。
また消えるその人。そこには穴が。宮田は飛び込む。単純化する世界。そして追いかける。また消える。そこに穴。飛び込む。単純化。追いかける。消える。穴。飛ぶ。単純。追う……。
何度目のグレードダウンだろう? 世界はもはや、二次元空間における黒い点で表現されていた。宮田は点だった。その人も点だった。枯草も、雲も、風も、光も、何もかもが点だった。天なる点にはふわふわと点が浮かび、点にそよぐ点の中、点が点を追いかけていた。
「……」宮田は点語でなにかを呟いた。
「……!」そしてなにか叫んだ。
「……」これは追われているその人のセリフ。もっとも、最初からなにも喋ってはいなかったが。
突然、前を走っていた点がぴたりと止まった。今度は消えはしなかった。もう一つの点は間もなく追いついた。二つの点は向かい合った。
「……!」
「……」
「……?……!」
「……。……」
「……! ……」
「……」
「!」
「……。……。……。……。……」
「……………………………………………………」
読者諸君、私は決してふざけているのではない。実際に、以上のようなやりとりが点と点との間で行われたのである。もちろん、その内容は、このような形でしか伝えることができないが。言葉というものは、原則として、その用いられている世界の方法で表すべきではないだろうか?……なんだって? そもそも、人が点になるなんて信じられない? 考えてみたまえ、はるか天空から見下ろせば、現実の我々だって単なる点に過ぎないではないか。観察する位置によって対象の形態は変化するのだから、存在する空間が変わってもまたその形態は大きく変わるだろう。私がまったくのでたらめを言っているわけではないことは、賢明な読者諸君にはすぐにおわかりいただけるはずである……。
とにかく、それらの一連の『会話』のあと、沈黙が「点の世界」を支配したのである。
*
一陣の冷たい風が頬をなでるのを感じて、神は長い眠りから目覚めた。目をこすり、大きなあくびをした後、軽く伸びをする。
辺りはすっかり暗くなっていた。
《ああ! なんだか昼夜が逆転してしまったみたいだな》
神は独り考えた。独り?……そういえば、ついさっきまで話していたあの男、宮田の姿はどこにも見えない。《宮田……奴はどこだ? ひょっとして、どこかへ逃げたのか?……しかし、なぜ? 別に、一緒にいたいわけじゃないが、だからといって、奴を一人にしておくと、何をしでかすかわからない……といっても、探す当てなんてどこにもない……まったく! やれやれだな》と、大きなため息を吐く。
とにもかくにも、寝ているあいだに、なにかが起こった。それだけは疑いようがない。神は疲れた身体(実際には心が疲れていたのだが)を無理に使い、よろよろと岩の上に立って辺りを見回した。
《なんといっても暗いな。何も見えない!》
月明りも何もない、まったくの暗闇である。黒い絵の具を塗りかさねたような。
これでは宮田を探しに、あるいはこの世界をさらに探索しに動こうにも、動くことができない。はたしてこの世界はどのような気候なのか、気温は暑くも寒くもないのをさいわいに、彼は再び岩の上に横になった。ばたりと倒れこんだと言った方が正しいかもしれない。なにしろ、この世界でのたび重なる奇妙な冒険の疲れが、まだ完全に癒えたわけではなかったのである。彼はそのまますぐにまどろみはじめた。自然と、頭の中に、とりとめのない想念が広がってゆく。なすすべもなく、そこに身をゆだねる……。
ああ、疲れている。いま、自分は疲れている……もっとも、疲労が苦痛を与えるのではない。疲労した身体にさらに鞭打つ痛みこそが苦痛なのだ(そこでは時間はただただ冷酷な拷問者の役目を担っているのだ)。……むしろ疲労自体は、宿主を安らかな眠りに誘う、効き目のいい、安価な薬なのだ……。
休息を許された全身の、張りつめた氷のような神経が溶けてゆき、徐々にその五感が、自らにはあずかり知ることのできぬ、巨大な、しかし無数に微細に分かれたなにものかの感触のない手にゆっくりとゆだねられていく、あの感覚……。実感としての世界の全てが曖昧になり、同時に、今度はいままで観念として感じていた、自分と関係ある・もしくは関係のない、遠い過去やら、未来やら、あるいは平行した現在の世界の全感覚が、逃れようもなく明確に蘇ってくるあの起点と終点の重なる時……。
まるで心中ひそかに秘めた感情の束のようなそれを、誰もが多かれ少なかれその生の根底に受け持っているのにもかかわらず、けっして見ることができず、知ることもできず、感じることすらできないもの……あの『死』に近しいものとしてとらえるのは大きな誤りだろうかと、よく彼は考える。
だが毎回のように彼の問いには答えが出ない。なぜなら、まるでその問い自体が禁忌であると誰かが決めたかのように、とりとめない想念のなか、答えを見出すその前に、極めて速やかに、あの優しい「疲労」が彼をいくつもの可能性の裏側へ送ってしまうから……。
まどろみの中、こうした思索の数々が脳裏に顕れるが……その多くは、完全に忘却の彼方へと消えてしまう。いつもはそれを必死につかみ取ろうとするのに、それを特に惜しいものに思わなくなるほど、いまの彼の心は疲れていた。
とうとう彼は安らかな、深い眠りについた。
そして夢を観た。大きな鳥になって、大空を飛んでいる夢……。
これは夢か。夢にしても、ありきたりな夢だな! まるで子供の観そうな夢だ……。と彼は飛びながら思った。なぜだか、これは夢である、という自覚がはっきりとあった。また、この夢が誰かの現実であるという予感もあった。つまり、誰かの視点を夢を通して自分も見ている。……あるいは、見せられている?
荒地の向こうに、巨大な街があった。夢の特権だろうか、街にあるものすべてが手に取るように観えた。中心あたりの建物から、もくもくと黒煙が上がっている。鳥はそこへ向かって飛んでいるようだった。
しかし神の注意はそこにはなかった。街の外れの方、薄暗い裏路地を、二人の男が並んで歩いている。両方とも知った顔だった。そのうち一方は、最近までともに行動していたほどだ……神は鳥から離れて、二人のところへ降りていきたかった。しかし鳥と彼の意識は一体となっていた。
「おおい! おおい! きみ! その男といったい何を話してるんだ?」神は叫んだ。
……もちろん、夢の常で、その声は心の中で反響しただけであったが。
「この夢が覚めたら、必ずそこまで行くからな! きみを必ず見つけ出す! それまでの辛抱だ!」彼はなおも叫び続けた。
しかし、彼らの表情からして、その対話が険悪な雰囲気でないことには、ほっと息をつき、胸をなでおろした。……
遠くから何やら話し声が聞こえてくる。
神は目を覚まし、耳をそばだてた。幾つもの足音や、幾人かの話し声がする。どうやら大人数の集団がこちらに向かってくるようだ。人か。この世界の住人と会うのは、初めてだな……どんな対応をすればいいのか? また、向こうはどんな態度を見せてくるのだろうか……神は安堵と不安を同時に抱えたまま、身軽に岩の上に立って声の方向を見やった。
仄かな灯りが一つ、二つ、三つ……少なくとも十はある。長い棒の先に取り付けられた灯りが、きちんと整列したままこちらに向かってくる。その様子は、神の眼には夢の中の出来事のように映った。身体の疲れは大分とれたものの、まだ頭の整理がついていない状態であった。
《ありゃあ、なんだ? さては……狐の嫁入りかな?》神は寝起きの頭でぼんやりと思った。
灯りは徐々に近づいてくる。隊列者の姿もあきらかになってきた……先頭にいるのは、はたして、年老いた狐だった。
「ほら、思った通り、やっぱり狐だ……狐の嫁入りだ。あれが仲人か」隊列に指をさしながらそう独りごちて、神はのんきに笑った。
ところがよくみると、その狐、二本足で歩くし、手には五本の指がある。おまけに赤茶けてはいるが立派なしつらえの甲冑を身にまとっている……それは狐によく似た人間であった。このわずかな灯りの中ではなかなか見分けがつかないほど狐によく似た、まぎれもない、人だった。
さらに、その狐人間の後ろには、犬に似た、猫に似た、雀に似た、蝙蝠に似た、蛸に似た、蟋蟀に似た、……まことさまざまな動物に似た人々が、列をなして歩んでいるのだった。
《おや、これじゃあ、狐の嫁入りじゃなくて、百鬼夜行だな。彼らはなんだ? 人か? 獣か? 鳥か? 魚か? 虫か? いやいや、これはまいったな!》
神は奇妙な隊列を細い眼でいぶかしげに見やりながら、ぽりぽりと呑気に頭を掻いた。
「……おお、いたぞ! あそこにおる!……臭う、臭うぞ、異邦人の臭いじゃ! あれなるが市長の探し求めておられる青年、『まねーじゃー』殿に違いない! とうとう見つけたぞ! おそらく、彼が此度の一連の混乱について詳しく知っておるはず! よし、では、皆の衆、吾輩についてまいれ!」と例の先頭の狐が叫ぶのが聞こえた。神にはその叫んでいる意味はよく理解できなかったが、自分のことをマネージャー君と間違えていることだけはなんとかわかった。
隊列は行進速度を速めて一直線に神の方に向かってくる。彼らはどうやら訓練された集団のようである。敵意をむき出しにして来るわけではないが、そこまで友好的な様子にも見えない……おそらく、長く面倒くさい尋問が待っていよう。神としては、見つかってしまった以上、もはやすたこらと逃げるわけにもいかず、どうしようもなく、ただ岩の上にじっと立って、一行がやってくるのを待つしかなかった。
*
ここは『ヴェクサシオンの街』である。
読者は覚えているだろうか、マネージャー君と盥屋は突然の邂逅を果たしたところを。
「少し歩こうか」と盥屋が言った。「ああ、しかし大声は出さないでくれたまえ! 人の注目を浴びてしまうと、少し面倒だから」
マネージャーが頷いてそれを了承し、二人は人気の少ない路地をゆっくりと歩きだした。
しばらくの沈黙。不意に、遠くで鐘が鳴りだした。
ボオオォォォンン……ボオオォォォンン……。
それはどことなく、不吉で陰鬱な印象を与えるものだった。
「あれはなんだろう?」マネージャーが振り返ろうとすると、
「気にするな。この世界で起こることなど、まったくどうでもいいことさ……この、歪んだ鏡に映った虚像のような世界で、いったい注目すべき何が起ころうというのかね?」と盥屋がそれを制した。
薄暗く、薄汚い路地である。何者が潜んでいるかわからない建物が並ぶあいだを、二人は歩んだ。そのうちに並びもまばらになり、やがて目の前に現れたのは、なだらかに弧を描く石造りの入り口を持つ、辺りのドブから汚水が流れ込む、腐臭ただよう洞窟だった。
「ここを降りよう……心地よい、芳(かぐわ)しい香りがする」盥屋が降りよう、といったのは、その洞窟が奥にいくにつれて徐々に下っていく構造になっているのがうかがえたからである。
「ここをですか? なにがいるかわかったもんじゃありませんよ。それに、ひどい臭いだ……」
マネージャーは中指と親指で鼻をつまむしぐさを見せた。
「相手が誰だろうと、どこの馬の骨かわからない我々のほうこそが、怖がられるとおもうがね。それに、あまりわれわれの話を聞かれたくないのさ……第三者に」盥屋は洞窟の入り口のアーチを見上げながら言った。
「わかりました、わかりましたよ! ここまできたんだ、もうヤケです」マネージャーはぶっきらぼうにそう呟き思った、《僕に自由はないのだろうか?》
しばらくして、彼らは或るじめじめした小部屋にいた。机が一つ、椅子が数脚、壁際には中にわらをつめた革袋が積んであった。盥屋は粗末な椅子にゆったりと座り、マネージャーは革袋の上に落ち着かない様子で腰を下ろしていた。革袋の方が入り口に近いのである。この部屋の中では、あの鼻をつくいやな臭いはあまり感じられない。
「ちょうどいい部屋が見つかった。なんという都合のよさ。まったく、神に感謝だ!」盥屋が言った。
「いったい、何に使う部屋なんだろう?」とマネージャー。
「誰かが管理のためにここをつかうことがあるのではないかな」
「管理? なんのです?」
「わからないが、汚水の水質検査でもするのではないかな」
マネージャーは盥屋が適当に自分をからかっているのに気づき、それ以上質問するのをやめた。
しばしの沈黙。やがて盥屋が口をひらいた。
「そうだな……君にはいろいろと聞きたいことがあるが……そちらもいろいろ聞きたいことがあるだろう。まずは私が質問に答えよう……なにか、私に聞きたいことはあるかな?」
マネージャーは少し間をおき、やがて呟いた。「いいんですか?……なんでも?」
「もちろん」
「それならお聞きしますが、……どうして僕たちをつけ狙うんです? それになぜあちこちで乱暴狼藉をはたらいているんですか?……それが本当だとしたら、ですが」マネージャーは恐る恐る訊ねた。
盥屋はしばらく机の表面の木目を凝視していたが、やがて青年の方を向きこの上もなくやさしい声で囁くには、
「私たちの間には大きな誤解がある。大きな断絶が、大きな矛盾が。……しかしどちらか一方が誤っている、どちらか一方が悪いなどという認識は、それこそ危険なものではなかろうか? いや、言ってしまおう、そんなものは猫の額ほどの価値もない、聡明な私たち二人の間に横たわる隙などありはしない。マネージャー君(そう呼ばせてもらうよ)、どうかその質問を君から引き出してしまった私の過失を許してほしい。愚かなのは君ではなく、私の方なのだ……もっと愚かしいのは、この状況(シチュエーション)だ。信じてもらえないかもしれないが、私はこう見えて、半分、もしくはそれ以上、人間ではないのだ……私や、私の相棒の宮田は、君の担当しているあの『先生』の作り出した、虚構(フィクション)に過ぎないのだ。……わかってもらえるかね? それとも私の気が狂っていると思うかね?」そして蜘蛛の脚のように細く長い両の手の指を虚空にざわめかせた。
「いえ、信じがたいことですが、信じます。先生とあなた、二人が同時に、それも同じ狂い方をしているなんてもっと信じがたいことですから。……それと、宮田という人も」青年は断言した。
「君ならそう言ってくれると」盥屋は両の手を組み合わせて祈るような格好になり、「信じていたよ!」
「でも、あなたの言い方だと、僕はもうこれ以上の質問をしづらいですね」
「それは、私のことを邪(よこしま)な悪魔だと思っているということかい?」
「それはまた答えづらい質問ですね」マネージャーは苦笑いした。
「君はなんて賢いんだろう! でも私は悪いことを実際にする類の悪者ではないよ、まあ、誰も人の頭の中はのぞけないがね!」
「では、頭の中で考えた悪事を、宮田という人にやらせているのですか?」
「鋭い質問だ。もしそうだとして、それは別に卑劣なことだと思わないが、残念ながら、違う。宮田は案外にみどころのあるやつでね! 駒にして使うような類の男ではない! おかげさまで、代わりにうごく手足を持たない私はただの妄想者さ!」
「……僕は現実に戻りたいだけなんです。あなた方が何者であろうが、何を考えていようが、関係ないことです。でも、……」そこで、マネージャーはぷっとふきだした。「盥屋さん、あなたのおっしゃる通り、これはおかしな状況(シチュエーション)ですね! だって、ここにいるのは僕たち二人だけで、肝心の二人はどこかに行ってしまったんですよ? 先生と、宮田という人は。いったい、僕たち二人で、なにを話せばいいんです?……少し話しただけでわかりましたよ、先生と僕に興味があって、用があるのは、宮田って人の方ですね?」
「なぜそう思う?」盥屋はまた木目をまじまじと見つめている。
「あなたがまったく僕に関心がないのがわかるからですよ!」
「いや、そんなことは無いのではないかな?」
「なら、僕を人質にして先生を脅す気ですか?」
「脅す? そんな予定はないよ。……」そこで今度は盥屋が微笑して、「今のところはね。だけど君は面白い。……思った以上に面白いじゃないか? これほど私に面白いと思わせるということは、さては……君はなにか大きな秘密をもっているね? そうに違いない」
「秘密? なんのことです?」青年は汚い壁に寄り掛かった。
「君さえ気づいていない秘密が君にはあるのだよ。おそらく、ほとんど荒唐無稽な……すべて秘密とは荒唐無稽なものに他ならぬ、と言えばそれまでだが。……それよりも、君は先生のことををどう思っているのかね?」盥屋はマネージャーの方を見て訊ねた。
「先生のことを? どういう意味です?」
「そのままの意味さ。あれはどういう人間だと思う?」
「答えづらいことばかり聞きますね!」青年はやるせなく笑った。「二重に答えづらいことはわかっていただけますか? 第一に、先生という人がなにかこう、とらえどころのない人だし、なにより、あなたにそれを答える必要があるのかどうか……」
「悪魔に人の悪口をしゃべるなかれ、かい?」盥屋は朗らかに笑った。「それでは、先生の悪口を言う気なのかい?」
「誰もそんなことは」マネージャーはつばを飲み込んで続ける、「言ってはいません。でも、あなたを信用しようにも、あなたが信用して欲しいとこれっぽっちも思っちゃいないんだから、どだい無理な話です。そうじゃないですか、盥屋さん?」
「まったくそうとも言える!」悪魔は小さく拍手した。「では、こうしよう、私が宮田という男のことを話すから、君も先生について少し……どうかな、悪い暇つぶしではないだろう?」
青年は部屋から出ていこうかと思った。しかし盥屋はいまやこちらを見つめていた。それが酷薄な、殺気にあふれた目であったら彼は実際にこのような茶番から退散していたに違いない――それがどこか優しげで、慈悲にあふれた、それでいて、青年を通り越して遥か彼方にあるものを凝視する目でなかったら。
「君は煙草を喫わないのかね?」盥屋が唐突に訊いた。
「喫いません」
「私も喫わない!」
盥屋は愉快そうに言って笑った。
《奇人だ!》とマネージャーは思った。
「さて、いいかな? では、始めよう。お互いに、お互いの相棒を、どう思っているのかを、告白しようじゃないか? なに、単なる興味さ、深い意味があるわけではない……」と、机の上を人差し指でトントンと小突く。
「私から話します」
「そうかい、では、どうぞお先に!」と両掌を青年の方に差し出す。
「……僕は『現実』の信者です」と青年は静かに言う。
「ほう? 現実の信者? ふむふむ……しかし、それをいったらだれでも、そうなのではないのかね?」
「つまり、僕は平凡で常識的な、普通の人間だということです。ありふれた凡人なのです。しかも、それを残念には思っていません。むしろ、これは美徳ではないかと考えています。他でもない現実こそ、我々が大切にしなければならないものなんです。現実をおろそかにしてしまうと、夢を見ることすらできなくなる、というのが僕の持論です」
「なるほど、なるほど? 現実を正しく認識しているからこそ、理想を語ることができるというわけだね? しっかりとした意見だ!……しかし、君の尊敬している先生は、それこそ空想(フィクション)の世界に生きて、まさにそのおかげで腹を満たしているような人種であるように見えるのだが?」
「そう、問題はそこなのです。先生が(そして、マネージャーの僕が)メシの種にしている小説なんて、どこまでいっても空想譚、おとぎ話、虚構の産物。先生はいい人ですし、尊敬できる方です。でも虚構(フィクション)の力で現実を養っていく、こういう生き方で本当にいいのだろうか、それだけでいいのだろうか? という感じがするのです。そういう考えを僕は隠していますが、きっと先生もそんな僕の心に気付いているでしょう」
「いや、これは痛い!」盥屋は軽く手をたたいて微笑した。「私と宮田なぞ、まさに虚構の産物以外の何者でもないのだから! 考えてみれば、偽りの空想で世の中をだましだまし生きていくということは、正気の沙汰ではない。だが、こうも言えないかね? つまり、虚構や空想や嘘イツワリ、こういったものが存在しなければまた、人は正気でいられないと?」
「……難しいですね。難しい話だし、少しは嘘がなければ、世の中を正気で生きていくのは難しい。でも、僕が言いたいのは、僕らが生きている社会とか、自然を含めた宇宙、そしてまぎれもなく、僕のいる今ここという場所、そういったものを常に大切に心に留めておかないと、僕らはすぐに何が虚構(フィクション)で何が現実(リアル)かということを忘れてしまうんじゃないかということなんです」
「君の意見は凡庸で、ありふれたものだが、ある種正しいし、それにしっかりと『地に足の着いた』ものだ。その点は保証しよう。しかし君はつまり神……いや、先生……が虚構と現実の境目を忘れてしまって、それこそ正気を失ってしまった、だから我々悪魔も本当は……まったく、これっぽっちも存在しない、と言いたいのかな?」
「いいえ、そこまで言ってません! 先生は正気ですし、あなた方も存在します!」青年は首を振った。「ただ、僕は元の世界に帰りたいだけなんです、盥屋さん。わかりますよね? 先生は本当にいい人で、尊敬できる方です。でもだからって心中する気にはなりません! この、『ヴェクサシオン』とか言いましたか、不思議で奇妙な、わけのわからない世界で、いつまでもさまよっているわけにはいかないんです。まるで先生やあなた達悪魔のために創られたようなこんな世界で……終わるわけにはいかない!」
「神や、悪魔たちのために?」盥屋は青年のそのあたりの言葉に反応した。「我々のための世界? なるほど……そうか、そういうこともあり得る……」そうつぶやくと何か考えこみ始めた。
「すみません、僕自身の話になってしまいましたね」しばらくの沈黙の後、マネージャーは謝った。
盥屋はそこでやっと青年に気づいたような顔をして、「いや、いや、いや! 良い話が聴けたよ。非常に有意義な話が! つまり、君は元の世界に戻りたいのだね? 先生を置き去りにしてまでも? いや、何も言わなくていい、普通に、『現実的に』考えれば、そうなる……よくわかるよ。では、次は私が話す番だね。いいかな?」
「どうぞ」と青年は不安げに言った。
「なにから話そうか……そういえば、さっき、宇宙という言葉が出てきたね? それなら、そこから話そうか! 君は不思議に思ったことは無いかね、その……われわれを包み込んでいる、この宇宙について?」と盥屋は切り出した。
「宇宙ですか?……漠然とした質問ですが、まあ、なんとなくは」
「漠然とした答えをどうもありがとう。そう、宇宙。宇宙はスポンジのようになんでも吸収して、それら吸い込んだものでいっぱいのはずなのに、同時に巨大で空虚なカラッポでもある。……これを不思議に思ったことはないかね?」
「まあ、確かに、考えてみれば」
「矛盾を感じないかね?」
「矛盾?」
「矛盾に他ならないではないか! 腹いっぱいに食っているくせに、同時にいつも腹ペコにしている……そんな化け物が我々の生きている空間の本質だ。そして我々は化け物に孕まれた小さな化け物だ。いいかね? 宇宙が埒外の化け物であると同時に、我々もまた想定外の化け物なのだ。我々は巨大な空虚の中、なぜだか存在している。意味もなく! つまり、我々はやがて無に還る運命にある」その口調は徐々に熱を帯びてきた。
「ムニカエル?」青年は恐る恐る訊ねた。
「そう、無に還る。いつか人がみな希望を失って、神にすがる時がおとずれる、しかしその時かれらが願うのは人類の救済ではなく、その滅亡だ。人類がみな滅亡を願えば、それは必ずや成就されるだろう!……もちろん、それが一秒後のことなのか、一億年後の話なのかは知らないがね」男は妙に響く声で宣言した。
《やっぱり奇人だ!》と思いながら、さらに訊ねる、「神が? それはどんな神なんですか?」
「宮田のような男こそ、神を復活させることのできる存在かもしれない」盥屋は質問に直接答えることを避けた。
「宮田という人には会ったことがないのでなんとも言えませんが、きっと、相当変わった、あなたより変わった方なんでしょうね」
「ああ、宮田のふるまいは、正直、私にさえひどく滑稽に見える。しかしそれはさして重要なことではなくて、彼がああ見えて、常に極めてまじめに考え、まじめに行動しているのだということが重要なのだよ。……そこには彼なりの奇妙な情熱がある」盥屋は青年の皮肉に対して「まじめな」表情で答えた。
「もし、その宮田さんが神を蘇らせたとして、いったいなぜ人間は滅びなければならないんですか? 人の生きる意味はたくさんあって、それぞれがかけがえのないものなんじゃないですか?」青年は真剣に抗弁した。
「よく聞く意見だね。君は優等生だ! 確かに、生きる意味は様々だ。しかし、その多くが、実は単なる惰性にすぎない」
《間違いなく奇人だ!》そう思いつつも青年はさらに問わずにいられなくなってきた。僕の信じる現実が、惰性にすぎないだって? そんなことがありえるのか?
「あなたは何を信じているのですか? 宇宙を? 神を? それとも自分を?」
「信じてはいないよ、何も。何も信じられないのではなく、何も信じるに値しないという自覚。これこそが旧き思想と新たな思想の違いなのだ」
「それは寂しいことではないのですか?」
突然、盥屋は立ち上がった。両手を広げて、掌を閉じたり開いたりしたあと、胸の前で祈るように両手を握り合わせ、大声でこう叫んだ。
「おお、君の言うとおりだ! すべてを軽蔑し、すべてを信じない、確かにこれは宇宙に対する、神に対する、そして何より自らに対するこの上ない侮辱だ。そんなことを志向してなんの意味があるのか? 私の征(ゆ)く道すがら、様々な人々の心に、癒しがたく深い断絶を生むだけではないのか?……しかし、これは私なりのけじめのつけ方なのだ。ちっぽけな私という存在の、大いなる孤独! それこそがこの世に私が残せるであろう、唯一の置き土産だ。言うなれば、私の思考する、いくつかの問いへの、明確で・調和した・良(よ)い加減の答えを見つけるための、大いなる歩み……」
それから、二人は長いこと黙っていた。盥屋は再び座り、青年は反対に立ち上がって狭い部屋をうろうろと行ったり来たりしていた。やがてマネージャーが口を開いた。
「そろそろ……外に出てみませんか? いつまでもこんなじめじめしたところにいたら、体に毒ですよ。それに、僕らのことを探している人がいると思うんです……」
「それもそうだね。このような薄汚い場所、さっさとおさらばしよう」盥屋はあっさりそう答え、立ち上がった。そしてゆっくりと、だがしっかりとした足どりで、扉の方に歩き出した。
その時だった。扉を誰かがノックしたのである。
トン
トン
トン 三回。
「誰だろう?」マネージャーはぎょっとして扉を見つめた。
「おお、こんなところに来客とはね! いや、むしろ来客はこちらかもしれないが……」
盥屋は少しのあいだ涼しい目で扉を見つめていたが、
「いちいち確かめなくてもいいだろう。どうせ我々二人しかいないさ、入りたまえ」
と慇懃に言った。
*
「だから何回も言ってるでしょう!……私は別の世界から来た小説家で……悪魔に追われていて……でもそれは勘違いで……ついさっき、悪魔の片割れと仲直りしたと思ったら、今度は動物みたいな人たちに、ここに連れてこられた……それだけの話ですよ」神は懸命に何度目かの弁明をしていた。
「なるほど、なるほど? 別の世界から来た……よし、それは信じよう。別の遠い街から来たにしては、あまりにも臭いが違い過ぎる……我々『ヴェクサシオン』の住人と。それに、小説家だって……まあ確かに、その夢みるような瞳は、そう見えなくもない。しかしだね、悪魔に追われていた、そして仲直りした……ウウム、それはなかなか信じがたい……我々には、あなたも悪魔に見えるのだが……そして一等よくわからないのは、我々が動物のように見えてしまうということだ。どこからどう見ても我々は人間じゃないかね? まったく、失礼な話だ……それに、我々がいちばん聞きたいのは、あなたがこのたびの大火事やらなんやらになにか関わっているんじゃないかということだ。いや、どう考えても間違いない、……あくまで白を切るつもりかね?」
そう詰問したのは、どこからどうみても、少なくとも神の目には、犬にしか見えない男だった。男は疑り深い眼をあわれな小説家に向けている。
ここは、『ヴェクサシオンの街』にある、自警団の詰め所である。神は一時間ほど前から、狭い取調室のよく軋む椅子に座らされ、机越しに向かい合って座るこの犬男からあれこれと尋問を受けているのである。しかしお互いの主張は食い違い、尋問というよりもただの押し問答に成り果ててしまっていた。
「その大火事やらなんやらですが、私は関係ありません。第一、私はさっきまで宮田という男とあの岩のあたりで話し合ってたんです。この街でなにかコトが起こせるわけがないでしょう!」
「その宮田はいま今どこにいる? 答えられまい。それに、あなたの仲間が指図を受けてコトを起こしたということも考えられる」
「仲間とははぐれましたよ!」
「だから、それが『まねーじゃー』殿だろう? 彼は市長によってこの街に呼び出されて、突如、この街で姿を消した。つまりまだこの街にいる可能性が高い! ……彼がどこに行ったか、あなたならよく知っているはずだ」
「馬鹿馬鹿しい!」神は叫んだ。
その時、例の狐の隊長がノックもせずに部屋に入ってきた。
彼は神に対して慇懃にお辞儀をしたあと、彼を見るや急に立ち上がり、気をつけの姿勢をとり始めた犬男に、面と向かってこう言った。
「フンド君、ご苦労。もう尋問は結構じゃ。その方は危険な人物ではない」
「了解いたしました、ストローヒム隊長! それと、彼はやはり別の世界からやってきたようです。市長は嘘をついていました!」犬顔はそう答えて敬礼した。そして角々しい動きで扉の前まで歩くと振り返り、「失礼します!」と言って部屋を出で、扉を閉めた。
「少々頭の固い男でな、そこがむしろ信用できるのだが。窮屈な思いをさせて申し訳ない」ストローヒムと呼ばれた狐顔の男は丁寧に謝った。この男が神を取調室に監禁する命令を出したのだった。
「いえ、こちらこそ、あなた方の役に立つ情報を持ち合わせず、面目ない。……しかしなぜ急に私の身の潔白が証明されたんですか?」と神は訊ねた。
「たった今、火災現場を見に行ったら、何のことはない、実行犯がそこにおったのですよ。飛び回っていた、といった方がより正しいかな」
「実行犯? 飛び回っていた?……いったいどんな奴なんです?」
「あれは、白く美しい羽をもった男、一言でいうなら……天使ですな」
「まさか、天使とは!」神は思った――《私と宮田が対峙しているとき、空で鴉と小競り合いしていた奴じゃないか?》
「さよう。あのような存在は見たことがない。まさか実在するとは。おおかた、貴殿のいた世界にはたくさんいるのでありましょうが」
「とんでもない! 我々の世界でも、本に書いてあったり、夢に見たりするだけです。まさか実在するとは!」
「左様でござるか。……いや、これがなかなかの強者(つわもの)でありましてな! なにせ、烏(う)有(ゆう)先生と互角にわたり合っておるくらいですからな!」
「烏有先生とは?」
「おや、……そうか。先生をご存じないのも無理はない。烏有先生とは、この世界の守り神のようなもの。ときに人の姿をとり、ときに三つ脚の大鴉の姿をとる、ウタァタの使いじゃ」
「ウタァタ?」
「いかん、いやはや、まさかウタァタも知らぬとは! 失敬、失敬……ウタァタとは、この世界の神、いや、この世界そのもの、といってもよいかな?」
「この世界そのもの?」
「うむ。よく、このように言い表される。『この世界はいままでウタァタであったし、いまウタァタであるし、これからウタァタであろう』とな」
「しかし、たしかこの世界は『ヴェクサシオン』の世界と呼ばれていたような……『ウタァタの世界』ではなく」
「左様、この世のことを、我らは『ヴェクサシオンの世』と呼んでおります。それはつまり、古来からの習わしで、ウタァタに対する捧げものは、ヴェクサシオンであるとされてきたゆえ。それともこういったほうがよいか、『ヴェクサシオンはウタァタへの捧げものに他ならぬ。それはいままで捧げられてきたし、いま捧げられているし、これから捧げられるだろう。ヴェクサシオンは捧げられることによってウタァタと同一の存在となってきたし、なっているし、なるだろう』とな」
「なるほど」とだけ神は言った。
「とにかく、そのような神の、その使いじゃから、烏有先生が天使ごときに負けるはずがありませぬ。拙者の手助けも無用とおもい、まずこちらの誤解をとくことを先決としたわけですな!」
「なるほど」またしても神はそう呟いただけだった。
「なにか考え事ですかな?」狐は眼を細めながら訊ねた。
「いや、……どこかで聞いたことがあるのです……その……烏有先生やら……ウタァタの話やら……しかしどこで聞いたか、だれから聞いたか思い出せない……失礼……この世界に来てから、過去の記憶が曖昧でして……いや、そもそも過去の記憶というものがあったかさえも……」
「時差ボケのようなものですな!」
「おや? ここにも、時差ボケという言葉があるのですか?」
「左様。烏有先生が教えてくださった言葉じゃ。たとえば、遠い距離を『水鏡』で移動するとそうなります」
「水鏡……? ひょっとするとそれは、水辺から他の水辺へと、瞬間移動する技のことではありませんか?」
「ほう、よくご存じで! その技、そちらにもあるのでござるか」
「いえ、そんな技、ありませんよ、ありえません! でも、なぜ私は知っているのだろう……」
「まあ、いまは色々と騒がしいが、それが落ち着いたら、この世界を見て回るのもよかろうて……ちょうど『ヴェクサシオン』も催される時期だしのう」
「ヴェクサシオンですって?」神は思わず大声で訊いた。
「左様、左様、左様!」ストローヒムは威厳をもって答えた。「『周期』の終わり、すなわち始まりに、ウタァタへの捧げものとして『世界』をお供えする、大切な、いや、この世の成り立ちのために必須の儀式でありますな!」
《なんてことだ、私の書いた小説と同じ名を持つ儀式が存在するだなんて!》と神は思い、必死に冷静を取り繕いながら重ねて訊く。「それはいつ行われるんです?」
「『時計』が時を告げる時ですな」
「時計?」
「この世界の中心にあるという、巨大な時計です。その時が来れば、その『時計』が時を告げるのですな。もっとも、今度の『周期』は、少々長すぎるようじゃが……」
《私たちが最初に降り立った場所だ!》神は咄嗟に考えを巡らせた。
「ひょっとして、その時計は……いつも、大地に横たわっているのではありませんか?……まるで眠っているかのように」
「とんでもない! 伝説によると、それはもう立派に、天空にそそり立っているのでござるよ……わが街自慢の鐘塔も比べ物にならないほど、長々と、しっかりと、まっすぐに」
しかし神はもはや、ストローヒムがうっとりと語り続ける話をほとんど聞いておらず、また真実(あるいは少なくとも神の見た光景)を彼に述べる気にもなれなかった。これまで自分たちが見てきたもの、それが本当のことなのかどうかさえ、おぼつかなかったからである。ただ一つ言えたのは、彼――小説家A――は、この世界のことをかつて知っていたし、いま再び知ったし、これからさらに知るだろうということだった。
彼にはもうすがるものが無かった。天使でさえ信用ならなかった。
ウタァタ――彼の心にまだ見ぬこの世界の神が曖昧な像となって表れた。それはあやふやな輪郭をもった、どろどろの塊だった。そこにどこからともなく八咫烏が飛んできて、三つの脚を塊に突き入れた。鴉が足を抜くと、そこに三つの穴があった。次に宮田がやって来て、ぎゅっと握った拳を突き入れ、四つ目の穴ができた。盥屋はそのあとにあらわれて、静かに人差し指で五つ目の穴を作った。走ってきたマネージャーが足を滑らせ、頭から突っ込んで六番目の穴となり、今やAだけがウタァタの前にいた。彼は震えながらそっとウタァタに息を吹きかけた。七つ目の穴が開き、そこには目と耳と鼻と口とをもつウタァタがあった。その顔を見て、Aはあらかじめ予想した驚愕を味わった。
それは神そのものだった。彼はいつの間にか水面をみつめる少女に変わっていた。「水鏡――」と思う間もなく彼女はどこか遠くに飛ばされてしまった。
ウタァタだけが残された。だが、それもすぐにまたどろどろとした塊に戻って、あるいは水面に溶け、あるいは蒸発して天に上り、あるいは大地に吸い込まれ消えてしまった。
「……もし、もし! A殿、どうされましたかな?」
神はストローヒムの言葉で白昼夢から引き戻された。
《ただの夢か?……では、ウタァタもなにもかも幻想だったのか? いや、あるいは……》と考え、
「いえ、なんでもありません、失礼しました!……それで、話はどこまでいきましたっけ?」
「話? それどころではありませんぞ! たった今、彼が重大な知らせを持って来ましてな」と彼はいつの間にかとなりに立っている犬男――フンドと呼ばれていた――の方を向いた。
「ご報告します。烏有先生が辛くも放火魔を退治し、事態は沈静化に向かっております!」
「ということです。A殿、さっそく現場に急ぎましょう」
「……私も行くのですか?」神は微妙な顔をして言った。もうすっかり(心が)疲れていたのである。
「もちろんですとも! 天使の奴めがなにか有益な情報を持っているかもしれませんぞ。それに貴殿を烏有先生に会わせたくもあるからのう」
「わかりました」と言って神は大きなため息をつき、席を立った。
自警団の詰め所は街の中心から少し外れたところにあるので、神とストローヒム、そしてフンドの三人は自然と周囲の状況を確認することができた。
街はいまだ混沌とした様相を呈している。人々は右往左往し、あちこちで噂を囁き合っていた。多くの者が恐怖に怯えた目をしている。しかし幸いにも、炎は市街地まで広がらずに済んだようであった。一行はとにかく、依然として煙の立っている方角へ向かう。
「おお、なんと痛ましい!」
隊長が見上げた先には、黒く焼け焦げ崩壊した鐘塔があった。その鐘は地に落ち、熱で半分溶けかかっていた。
「わが街自慢の鐘塔であったのだが。無念!」と狐男は嘆いた。
火は役場から鐘塔へ燃え移ったのであって、その惨状たるや凄まじかった。木造だったらしく、建物はほとんど原型をとどめていない。火はほとんど消し止められたようだったが、依然としてそこら中で燻っていた。
一行はその焼け跡をもっとも近くで眺めている二人の人物の方へ進んでいった。一人は熊のような男だった。そしてもう一人は、頭には少し焦げついた白髪、顔には深い皺が刻まれた老翁だった。悲しげな、愁い深い眼差しで焼け跡を静かに見つめている。
「これはこれは、隊長殿! それに隊員の方々」熊男が一行に気がつき、丁寧に挨拶した。
「うむ、市長どの、無事で何より!……こちらは別世界からやって来た、A殿でござる」と言ってストローヒムは二人に神を紹介した。
「ほう! ひょっとすると、あなたが『先生』ではありませんか?」と熊は笑顔で言った。
「初めまして。しかし、どうしてその呼び名をご存じで?」
「マネージャー君から話は聞いておりますよ」
「マネージャーですって? 彼はどこにいるんです?」
「それがいまだ、行方不明でして。申し訳ない!」
「そうですか……」
落胆した神に、老人が静かに近づき、軽く会釈をした。神も会釈で返すと、
「初めてお目にかかる、わしはただの名もないじじいじゃ。人からは『烏有先生』と呼ばれておるから、そう名乗っておるがのう」と老人がどこかひょうきんに挨拶した。
「初めまして。……しかし、なんだか初めての気がしませんね! 違う姿の時にお目にかかったような」
「まあ、それは後じゃ。まずは彼に話を聞こうではないか」
そう言って烏有先生が指し示したのは、縄でぐるぐる巻きにされている例の熾天使だった。一行はいままで石のように黙っていた彼に気づかなかったので、多少驚いた。
「やい! 何のつもりでかような乱暴狼藉の数々、……ただでは済まさんぞ!」と啖呵を切ったのは隊長である。
天使は薄笑いを浮かべただけだった。よく見れば、端正な顔のあちこちに生傷がある。
《間違いない、こいつだ! 宮田と睨み合っていた時に飛んでいた奴……》と神は確信した。
「……誰の差し金で火をつけた? まさか気まぐれに行ったわけではないじゃろう」と静かに訊いたのは、烏有先生だった。
「一人でやったんだ、気まぐれに。面白そうだったからさ……」と天使は呟いた。
「嘘をついていると碌なことにならんぞ」老人はその瞳に、厳しさと優しさの両方を湛えた輝きを見せながら、彼を諭した。
天使はしばらく俯いていたが、やがて顔を上げて、
「……名前も知らない奴だ。目的もわからない。ただ、暇と力をもて余していた私に、話を持ち掛けてきたんだ。役場に火をつけて騒ぎを起こせば、面白いことが始まるってね……それが終わった後には、なんでも好き放題できる世界が待っていると」
「それで放火したと?」
「今から思えば、あんなの嘘っぱちに決まってる。誑かされたんだ、くそっ!」といって男は唾を吐いた。
「まて、それならなんで私たちのことを空からうかがっていたんだ?」と神が訊ねた。
「君たちのことをできるだけ監視するようにも言われていたんだ。君や、……宮田とかいったか? あのうるさい男のことをね」
「そいつは――君をそそのかした奴は――私たちのことを知っているのか?」
「よく知っているようだった。私にはあまり教えてくれなかったが。……もういいか? 尋問されるのに慣れてないんだ、なんせ天使だからね。さあ、さっさと牢屋にでも入れてくれ!」
「そうはいかんぞ! 貴様はその前に、百叩きだ! 幸い、死者が出なかったから、それで済ますのだぞ!」とストローヒムが顔を真っ赤にして言った。
「死人なんて出るわけないさ。これでも火の扱いに関してはプロだぞ! 何の恨みもない人間を、焼き殺すなんて、天使の誇りが許さない」と天使は彼なりの矜持を見せたが、その場にいた誰の共感も得られなかった。
「お前のほかにも天使はいるだろう」神は質問した。
熾天使はにやりと笑った。
「もちろん。たしか、君たちの世界に行ったのは、智天使(ケルビム)と、力天使(パワー)あたりか。ケルビムには、欲しがるから、煙草を一本、くれてやったっけ。私たちはそれぞれ独自に、違う思惑をもって行動しているから、彼女らの目的は知らないがね。それに、どうでもいいことだ! 天使なんて、何のためにいるかわからない」
「それは……正義を行うため、では?」神は慎重に答えた。
「……『奴』に言われたよ、その存在理由が、ただ正義を成すためだけの、我々天使というのは、場合によっては悪魔よりタチが悪いのではないか? とね」
その口上はありきたりな懐疑ではあったが、状況が状況であるから誰もそれに答えようとせず、一同の間に沈黙が訪れた。
熾天使が自警団の二人に引っ立てられていき、市長が被害を確認しに立ち去ると、後には神と烏有先生だけが残った。
「あなたは何者なんです?」神は単刀直入に訊いた。「それに、ウタァタとは? この世界は一体どうなっているのですか?」
「いくつもの質問、それも難問に答えるのは骨が折れそうだのう」と老人は微笑して言った。「じゃが、そなたの質問は一つにまとめられる、『わしはウタァタの使い、ウタァタとはこの世界、そしてこの世界がどうなっているのかはわしにもわからん』もっとつづめて言えば、『何から何まで、わしにもわからん』」
「その答えを予想していました」神はため息をついた。「そして、同時に期待してもいたのかもしれません! 真実を受け止めきれる心がまえが、まだ私にはないだろうから」
「そうか、そうか……では、こちらからも問わせてもらうぞ」と老人は言った。「おぬし、宮田には……あの男には会ったのじゃな?……盥屋の方ではなく」
「はい、会いました。宮田から聞きましたが、それもあなたのお導きなのですね? おかげで誤解がとけて、悪魔に寝首を掻かれる心配は減りました」と神は感謝の気持ちを表した。
「いや、まだ片割れが残っておるぞ。もっと厄介な方が……」烏有先生は低い声で警告した。
「ああ、あの男……盥屋ですか。彼は宮田よりも理性的で、おそらく話しやすいでしょう。危険なことは無いのではないでしょうか。まあ確かに、何を考えているかわからないところがありますが……」
「それがのう、奴は宮田よりも危険かもしれないのじゃ。よいか、この世界は奴にとってとても都合がいい」老人は変わらず低い声で言う。「この世界では『心』が重要なのだ。自分の心を見つめて、しっかりと錬り上げること……それは盥屋の得意とすることじゃ。まだ完全な形でないにせよ、奴の考えていることは災厄の種となりうる」
「しかし、それなら一体どうすれば? 誰も他人の心の働きを制限することはできません」
「さよう。究極的にはそれは不可能じゃ。心の激流を止めることはできぬし、心の激流に打ち破れない堤防もない……この世界では」
「彼は何を考えているのでしょう?」
「それを知ることは、わしにとっても越権行為じゃ。本人か、この世界の『創造主』でもない限り、それを捉えることはできん。……表に現れるまでは。ただ、おそらくはおぬしにも関係のある事じゃろう。深い、深い関係が……」
それから、神と烏有先生は長い間向かい合い黙ったまま考え事をしていたが、なにやら呼ぶ声がするのでそちらを見やると、駆け足で市長が二人の方に向かってくるのがわかった。
「烏有先生! Aさん! 大変ですよ!」熊男は真っ青な顔で叫んでいる。
「一体どうしたのじゃ?」老人は大声で訊ねた。
「街はずれの洞窟から、なぜだか汚水が逆流して! 多分、制水弁が壊れたんだ! あるいは壊されたか……とにかくひどいもんです、なんでも飲み込んでいくんだから!」
「街の者は大丈夫かのう?」
「それが、汚水に飲み込まれたまま、戻ってこない者も大勢いるのです! ああ! 炎の次は泥水か! 勘弁してくれ!」
「わしが行こう。なんとかしてこの心の世界を守らねば」烏有先生はそう言うと大きく両手を広げた。するとみるみるうちにその腕に漆黒の羽が生え、顔からは鋭く尖った嘴が生え――あっという間にその姿は巨大な三本脚の大きな老鴉となった。
「私も行きます!」神は老人の突然の変身に驚きつつも、叫んだ。
「いかん! それよりも、ここに居れ! 奴らは、ここにくるはずじゃ」しわがれ声で八咫烏は命じた。
「奴ら?」
「その時が来ればわかる。ぬかるなよ!」
そう言うと、怪鳥となった烏有先生は力強く翼をはためかせ天に飛び立った。
「ネヴァモア! ネヴァモア!」という鳴き声を響き渡らせながら、遥か彼方へ。
《そういえば》神はそこでやっと気が付いた。《私をこの世界へ呼んだ声に似ている……いや、間違いない! 私は烏有先生の導きでここにやって来たんだ、こうなったら、あの老人の言うことに従おう……》
神は密かに覚悟を決めるのだった。
*
時は戻って洞窟の中、盥屋とマネージャーの二人のいる小部屋、その戸を叩いたのは誰であったのだろうか? 大方の読者の予想通り、それはあの男だったのである。
「いちいち確かめなくてもいいだろう。どうせ我々二人しかいないさ、入りたまえ」と盥屋が慇懃に言うと、扉を乱暴に開けて一人の男が入って来た。
「よう! 久しぶりだな」と男は威勢よく言った。
「確かに久々だ。また会えて嬉しいよ……」と盥屋は表情を変えず静かに答える。
「ちぇっ! そんなこと、これっぽっちも思っちゃいないくせに! まったく、白々しいことだぜ……熱き抱擁もないのかい? 嫌になるね……」
男はそう言ってからやっと、机の前のあたりで目をまんまるにしてこちらを見ている、どこか気弱で正直そうな青年に気づいた。
「おや? そちらのお客さんは? 初めて見る顔だな。それとも、もう何度も会っているのに、このおれが綺麗さっぱり忘れちまったのかな? それほど存在感の薄い……おっと失礼! ついつい軽口が出ちまうもんでね……」と男はニタニタと笑いながら揉み手をして謝罪した。
青年は何も答えなかった。男の道化た振る舞いに、すっかり呆気にとられて、口がきけなかったのである。
「お客さんは君じゃないか、この場合。……それに、こちらの方はだね、我らにとって大切な存在なのだよ。見どころのある若者だ!」と盥屋がうやうやしく言った。
「大切な存在? 誰だ? もしかして、おれたちの兄弟?……には見えないな。じゃあ、おれたちの先生? それとも、おれたちの僕(しもべ)? おれたちの上司? おれたちの友達? おれたちの宿敵? おれたちの先祖? おれたちの末裔? おれたちのペット? おれたちの応援団(ファン)? おれたちの観葉植物? おれたちの酒? おれたちの医者? おれたちの教祖? おれたちの他人? おれたちの夢? おれたちの崇拝者? おれたちの影? おれたちの分身? おれたちの神? おれたちの……」
「やめてください!」青年は大声で叫んだ。「……やめてください。あなたが僕を知らないってことと、絶対に普通の人じゃないってことはよくわかりましたから!」
「彼の言う通りだ!」盥屋が青年の方をちらりと見て言った。「大切な『証人』を困らせるのはやめたまえ……」
「これはとんだご無礼を! でも許しておくんなまし、おれは考えたことをそのまま表に出しちまうのが、どうしようもない癖でね! 直そうとはしているんだが」
「紹介しよう」盥屋は落ち着き払って、「マネージャー君、ここにいる男が『宮田望』だ。仲良くやってくれたまえ。……そして宮田、この青年はマネージャー君だ。もちろん、マネージャーというのは本名ではないが、どうやら名前を忘れてしまったらしい……こんな狂った世界では無理もない話だ!……とにかく、礼節をもって接したまえ」と二人をそれぞれに紹介した。
「マネージャーというと……なんだ?」
「神のマネージャーだね」
「ほう! なるほど、なるほど! お噂はかねがね! よろしくどうぞ!」と言って宮田はマネージャーに溌溂として握手を求めた。
青年はそれに応じ、「こちらこそ、お話は伺っております……」と尻すぼみに答えた。
「なかなか見どころのある青年だ!」宮田は適当に考えもなく言った。「……ところで盥屋、どんなことをこの青年の耳に吹き込んだのかな?」
「あんなことや、こんなこと。つづめて言えば、君の男っぷり、さ!」と盥屋はうそぶく。
「お前さんもつかみどころがないね!」と嘆いた宮田は続けて、「ところでおれは悪夢を観たよ!」と二人に言った。
「悪夢?」と盥屋は聞き返した。
「悪夢なんてあなたが観るんですか?」とマネージャー。
宮田は青年を不思議そうな顔で見つめた。
「いや、すみません! あなたはおよそ、悪夢を観る側というより、人に悪夢を観せる側だと思っていたので……」
「なんとなく、失礼なことを言ってないかい?」と盥屋が青年に優しく囁いた。
しかし宮田は青年の言葉を聞き、けたたましく笑い出した。
「こりゃあ、やられた! 確かに、あんたの言う通りだ! 華の宮田たるもの、そうでなくっちゃなあ……いや、こりゃケッサクケッサク、うっひっひっひ……」
「どんな悪夢だったんだ?……いや、まず、ここまでどうやって来た?」と盥屋が訊ねる。
「うっひっひ……八咫烏のじじいがおれを……ひっひ……神のところまで……ひひひ……そんで、逃げて……て、天使……うひひ……神と話して……それから……は、はー!」宮田は苦しそうなほどに奇妙な笑いを喉から出しながら、とぎれとぎれの、説明にならない説明をした。
「この人が逃げた云々と言ってるのは本当です。先生は宮田さんを見つけてどこかへ行ってしまったんです。あとはよくわかりませんが……」とマネージャーが補足した。
「なるほど、ありがとう」盥屋は青年に礼を言うと、鋭い目つきで宮田に訊ねた、「八咫烏? 八咫烏を君も見たのかね? それと、天使も? 奴らになにかされたのか?」
「いや……いや……なにもされてない。たしか、鴉と天使が闘ってたが、結局、なんでかはよくわからなかったな」宮田は気分を落ち着かせながら言った、「問題はそれからだ……しばらく寝て、起きてみると、変な人影が見える……」
それから彼は身振り手振りを交えながら、みずからが落ちていった不可思議な穴の中の世界の話をした。二人はそれを初めは注意深く熱心に聴いていたが、だんだんとその内容の荒唐無稽さにあきれて、気のない相槌を打ちながら、話の終わるのを待った。
「それで?」盥屋が訊ねる、「その『…………』とかいう会話の内容は、どんなものだったのかな? その馬鹿馬鹿しい悪夢の中でも、そこら辺が、あえて重要と言えば重要なのではないかと思うのだがね」
「いや、それが、まったく覚えていないのさ。悲しいことに! なにか、重大な話だった気がするんだが……まあ、これは夢の常なんだろうが、これっぽっちも思い出せないよ!」宮田はすでに真面目な表情になり、嘆息さえしていた。
「やれやれ! とんだ茶番だな、これは」盥屋は溜息を吐き、両掌を払う仕草を見せた。「盥屋教授の診断結果!……ただの変わった悪夢だよ、それは。おねしょはしなかったかい? ストレスが溜まっているんだな、相当……」
「なんだか、お前もおれに似て、遊び半分の、どうでもいい戯れ言を言うようになってきたな……」宮田は少しばかり心外な面持ちで反論する、「これは結構、まじめな話ですぜ。あるいは本当のことかもしれないんだ……なんせ気づいたら、この洞窟の前に横たわってたんだからな! おかげで服に臭いがついた……」と自分の身体を嗅ぎ始めた。
「それは本当ですか?」青年が口を開いた。「不思議な話ですね、僕も夢を見た後にこの街まで来たんです!」
「そういえば、私は夢を観ないね」盥屋は首をすくめた。「何故だろう?」
「夢も希望もない詭弁家の盥屋君の代わりに、誰かが観てくれてるんじゃないか?」と宮田が剽軽に言う、「どこかに、あんた専属の夢見代行人がいるんだろうよ……」
三人はここで初めて揃って笑った。もっとも、盥屋の笑いは極めてひそやかな、なにかを考えながらの笑みであったが……。
「とにかく、これは『神』のお導きだ!」と盥屋は宣言した。「この三人で出来る鼎談、いや『鼎茶番』を楽しもうではないか?……それにしても、最も重要な人物がここには欠けている気もするが……」
「あいつとはもう会ったからな、しばらくはいいや」宮田は呑気に言った。
「誤解もとけたかい?」盥屋は珍しくウインクしながら宮田に訊ねた。
「エンガチョ、ガラにもないことやるなよ……まあ、それについては、お察しの通りさ」と低く言う宮田。
「それで? 鼎茶番というのは?」マネージャーもどことなく柔らかくなったその場の雰囲気にのせられて、のんびりと言った。「一体何をするんです?」
「ウム……神への復讐と挑戦、かな」盥屋は平然と呟いた。
「え?」
「いや、神への復讐と挑戦。そして来たる大混乱。やがて世界は混沌(カオス)に包まれる……」
「いやいや、なにをおっしゃってるんですか?」青年はうろたえて、宮田へ視線で助けを求めた。
当の宮田は大きく伸びをしながら、「おっ、いいね、それは! おれもそろそろ、身体が鈍ってきたところだ……運動! 大切なものです」
「安心したまえ、マネージャー君。決して危害を加えたりはしないから……きみがほどほどに、おとなしくしていればね。君には君なりの役目がある」と盥屋は再び緊張した様子の青年をなだめた。
「あなたたちは」マネージャーは大きく息を吸い込んで、それを吐きだした。「やっぱり悪魔なんですね!」
その場に一瞬の沈黙が訪れた。
そして、二人の哄笑。
まるで、三人きりの部屋とは思えない、やかましい笑い声。
「今更、何を言うのだね。悪魔?……まあ、私たちは別に、そう思ってはいないが、見る人によっては、そのように見えるかもしれない」痩せた男は笑いながらそう答えた。
「なぜあなたたちは」青年は微かにふるえながら訊ねる。「そんなにまで先生……いや、あなたたちにとっては、自分たちを創った、神……その神を怨んでいるのですか? これじゃあまるで、これっぽっちも理由のない反逆だ……先生だって、こんなことは予想してないと思います……あんまり不条理です……」
「先ほど、君にはっきりと言わなかったかな」盥屋は答える。「怨んでいるというよりも、信じるに値しないと確信したのだよ、私は。神は実在しないし、実在したとしても、それはこの宇宙になんらかの誤謬が生じた結果による、ただの錯覚だ。その『宇宙』さえ巨大な虚無なのに、それより矮小な『神』がなぜ空虚でないといえるのだね? もちろん(ここで彼は小さく咳払いをした)、『神』が『宇宙』を創った、と定義する方法もあるがね、それも同じことだ、やはり双方とも、いや、すべてが空虚なのだ。宇宙が、神が、我々が、本質の充溢した確固たる存在であるということは、だれにも証明できないのだ……」
「でも、それなら空っぽだってことも証明できないじゃないか?」ここで口をはさんだのは、以外にも宮田であった。「考えてもみろよ! この宇宙は星に満ちてる、太陽は爆発するガスの塊だ、海は塩水のでっかい溜まりだろう、おまけに、人間の頭には脳みそが詰まってるし、あらゆるものには中身があるじゃないか! これは一体どのように説明するのですかね?」
「それは物質的に見たこの世の様相だ」痩せた男は落ち着いて答える。「確かに、頭で考えれば『もの』の全てには中身があり、その中身にもまた中身がある。万物は無数の構成要素が内包し合うことで存在している……しかし、我々の頭の中が実は空っぽだ、と仮定したらどうだろう? そら、みたまえ、すべてひっくり返るではないか。つまり海は空っぽ、すると太陽も空っぽ、だとしたら宇宙も空っぽ……なにもかも空っぽだ。そして私はそういった認識の方がより正確だと思っている」
「何故だ?」
「心がそう感じているからだよ……」痩せた男はそう言って天井を見上げた。青年もつられて上を向くと、一面に蜘蛛の巣が張っている。精緻な織物が時の流れとともに怠惰となり、腐りへたばった様にも似て、なにか言い知れないおぞましさを感じた。
「こりゃあ詩人だな、お前にしちゃあ珍しい! Don’t think, feel!」
「いや、まさにそうなのだ。勘違いしてもらっては困るが、私は別にこの世が空っぽでいい、あるべきだと思っているわけではない。ただ、私なりに考えた末に、このような結論に達したのだ。それでも絶望にあらがって、私は『時間』に注目した」そこで盥屋はため息をついた。「しかし駄目だった。むろん私だって、私がより私である時間が欲しい、少なくともそう思っていた時期もあった。時間とは言うまでもなく流れ続けるものだ。だから私もうまくその流れに乗って旅をし続けなければならない。しかしそれはいわゆる『自分探しの旅』とは違う。自分探しの旅は文字通り自分を探すことに目的がある、つまりまだ自分をしっかりつかんでいない。あやふやな自分という概念を確固としたものにしたいという願いの表れだ。対して時間の流れに乗ることは、人の運命のようなもので、それ自体が目的なのだ。時間は我々に優しく接してくれるときもあれば、厳しく語りかけてくることもある。時間のきまぐれについてゆくのは、難しい。まるで果てしないことのように思われる。だが『私がより私である時間が欲しい』という願望を持ってしまったものは、絶えずこの挑戦を試みなければならない。つまり、私は時間を信じていた。時間こそ神のようなものだと思っていた!」
「ところがどっこい、そうじゃなかったわけだ」
「そうだ。君の持っていた砂時計を見て感じたのだ、『時間は無い』と。砂時計、日時計、腹時計……この世には昔から様々な時計があるが、正確に時を捉えることのできる時計は存在しない。これからも存在しないだろう。なぜか? 時とは我々が虚無に還っていくまでの道のりだからだ。つまり、時間もまた虚無に属する」
「それはどういうことです?」青年が口を開いた。「もっとよく説明してください」
「つまりはこういうことだ。われわれ存在していると信じられているものすべては、巨大な、いや広大無辺な砂漠にいる。くりかえして言うが、残らずすべての存在が、だ。そして我らの足元の砂粒は徐々に崩れてゆく……ゆっくりと、確実に我らは『ある一点』に近づいている。よく見たまえ、それは巨大な、やはり広大無辺な蟻地獄の縁なのだ。やがて我々はその一点に落ちて喰われるだろう。蟻地獄は虚無だ。宇宙の真の本質と言ってもいい。そして、時間とはこの砂粒なのだ」盥屋は微笑した。「わかるかね?」
「一応きいておくが、お前がおれの砂時計をぬすんだんじゃないよなア、兄弟……? その考えが自分でも気に入って、記念に持ち去っちまったとか?」宮田はそう言って盥屋をじっと睨んだ。
「いや、いや、君が疑うのもわかるが、盗んだのは私ではない。砂時計の行方については私なりの考えがあるが、ここで話すことではない。まだ仮説の域を出ない……」
「それで?」マネージャーはなおも好奇心を隠さず問う。「宇宙も、時間も信じられなくなったあなたは、いったいどうするんです?……なにを信じて生きているんです?」
「何も信じるに値しないという自覚……そういったはずだがね」思索家はどこか蔑むように青年を見つめた。
「それでも、たった今、あなたはこう言ったじゃないですか……『心がそう感じているからだ』と? それはつまり、あなたはまだ、心というものを信じているということじゃ?」
「ハハハ、鋭いね。それが私の最も言いたいことかもしれない……つまり、なぜ神を信じないか、ということに繋がってくるのだ」
「何故です?」
「君は先生の作品を読んだことがあるかね?」
「もちろんです」
「それで、何を感じた?」
「何って……素晴らしく、面白いですね。大部分の作品は……」
「なるほど、まあ、人間はああいうのを興味深く感じることもあるのだろう……しかし」男は青年に近づき、目をのぞき込んで、「君は先生の作品に、なにか『空虚』を感じなかったかね?」
「空虚?」
「なんとなく、胸にポッカリと穴が開いたような、風に吹かれる秋の木の葉を見たような、誰かと死に別れたような、孤独と寂寥……」
「詩人だな!」宮田が茶々を入れた。
「ありがとう。しかしマネージャー君、きみにもそんな経験はないかね?」
「あります! 確かにありますね……でもそれは、先生の作品だけじゃなくて、ありとあらゆる物語に言えることなんじゃないですか?」
「そうなのだ!」盥屋は叫んだ。「ありとあらゆる物語……ありとあらゆる事象……ありとあらゆる可能性……それらが通りすぎたあとに『空虚』はある。ナメクジが這ったあとに残る、銀色の粘液のように……私はそれを感じている器官を『心』と名付けているに過ぎない。だから、いわゆる一般に言われている、心、精神、魂というものが存在するとは信じていない。ただ、この寂寥……宇宙が我々を孕んだ時から在るこの孤独……だけは感じることが許されている、『心』でね……いや、むしろこう言おう、われわれ『全存在』は、そう感じるように呪われた『神の子』だと!」
「神の子? じゃあ、どうして神に反逆するんです? それならむしろ、感謝すべきじゃないですか?」
「わからないかな、これは嗚咽なのだよ。われわれ全存在の、全存在をかけた、止めようのない嗚咽なのだ……お互いがお互いを憐れみ、蟻地獄へ堕ちまいと必死に群がり合う、われわれ全存在の怒り、哀しみ、疑い……それらが込められた、神への一発の銃弾……それは神の眉間を貫通し、彼を蟻地獄の底へと叩き堕とすだろう……」盥屋は徐々に声の調子を落とし、ついにはぶつぶつと呟くまでとなった。
「あなたは考えすぎじゃないですか?」青年は努めて陽気に言った。「もっと単純に考えましょうよ、気楽に生きましょうよ……」
「物事を単純に考えた神が産み落とした我々は、皮肉なことに、気楽に生きることを許されていない」盥屋は憎悪を込めて言った。「残念ながら、これが性分なのだよ!」
「それで、いったい何するんだね?」宮田は苛立つ声で訊ねた。「話は分かった。よおくわかったよ! ちなみに、おれにもおれなりの考えはあるが、それはまあ、置いておいて……あんたの考えはわかった。問題なのは、実際のところ、どうやって神に復讐するんだ?」
「それには」盥屋は落ち着いた声で言った。「宮田、君の協力が是非とも必要だ」
「別にかまわないぜ! そんな気がしてたしな……」と宮田もこともなげに答える。
「決まったな!」
盥屋は一声叫ぶと、部屋の隅に積んである革袋の方まで行き、上から三番目の袋に手を突っ込んだ。
「念じよ、さらば与えられん、か……見たまえ……どうかね? なに、ちょっとした手品さ」
次の瞬間、青年は驚きのあまり叫んだ。
「なんでそんなものが!」
盥屋の手には、筒型の爆弾……ダイナマイトが握られていた。マネージャーにとってそれは、テレビや映画でしか見たことのないものだった。
*
その男は一編の小説も書かない。しかし彼は作家と呼ばれていた。古机の上の、黄ばんだ原稿用紙の前で、男は静かに黙していた。
――小説を書くのですか、と私はその男に訊ねた。
――矛盾についての小説です、と男は答えた。どうして矛盾というものが生じるのか、どうして矛盾は人を魅了するのか。それに答える小説です。そして、これは狂気についての研究でもあります。
――狂気。
――矛盾に関心をもつことは、いわば一種の狂気です。また、自分は無矛盾の岸辺に立っていると確信しているという点において、彼はすでに狂人です。しかし矛盾が、狂気が、前進もしくは後進の原動力となり得るということも一つの現実です。現実というのは、私の認識することができる時間と空間のことではなく、感覚と知覚でとらえられぬある法則の集積、または体系です。矛盾はこの現実の中に存在しています。私が狂気と呼ぶのは、決してとらえ得ぬことを、あえてとらえようと欲するからで、実はその探求こそが答えであり、やはり矛盾であるのです。
――あなたは、決してとらえられぬものをとらえようというのですか。
――いや。矛盾をつくり、目の前に置くことはできます。矛盾したものや状況というのはつくり易いものです。相当の注意を払わないかぎり、矛盾は意図せずして目の前に現れます。では、こうして現れた矛盾のことを、あの人を魅了する矛盾と同列に置くことはできるのでしょうか。それが、真につくり出されたものであると言えるのでしょうか。私はそのことについて考えました。言葉の上での矛盾。論理の矛盾。修辞の矛盾。しかしこのような矛盾は、悪魔の側から来た影に過ぎません。
――悪魔。
――それは、いわば言葉の魔というものです。人が言葉を認識する、その仕組みの中に宿命的に潜んでいる魔で、それを言葉によって拒絶したり追放することなどできません。ですから、一見、つくり出されたようにみえる矛盾は、法則の影であって、その虜となることは、現実への探求の断念です。
――やはりあなたは、とらえられぬものをとらえようとしている。
――いや、むしろ黙っていた方がよいのです。そうすることによって、私はとらえようとすることを続けることができる。一編の詩も、一編の小説も、私の渇きをいやすことはないでしょう。しかし一杯の水にしても、喉を潤すだけで、さしたる違いはありません。生きている限り矛盾を探求することを選んだ以上、私はまぎれもなく狂人です。そして沈黙によって暗示をすることだけが私の現実的な方法になった。この机は私が時を止めた時から腐り始めています。このまっさらだった紙も、端から徐々に黄ばみ始めました。私はもう老いず、死ぬこともない。しかしこの肉体は朽ちるでしょう。肉体は狂わないから。病と狂気は紙一重のところでやはりくい違っているのです。病は究極的に肉体を死滅させるが、狂気は永続的に矛盾を志向し、暗示し続けます。私という個の特性は時とともに消滅しますが、現実という体系の中に私だったものは一滴の汚点として残る。
――私には、あなたが若いのか老いているのか判断がつきません。
――私は亡霊です。時間と空間の推移を拒絶してしまった狂人です。あなたが私と話しているということもまた矛盾です。言葉の上での、悪魔の影に過ぎませんが。問いかける人よ。あなたは問うこと、私は答えることしかできないのです。
――それは、何故なのでしょう。
――私が黙する者で、あなたが語る者だからです。
――私に問いかけはしないのですか。
――いや。あなたの答えはまさに問いの中に含まれていますから、私は問う必要がなく、あなたは答える必要がないのです。私は問わないことで答えている。あなたは答えないことで問うている。問う人よ、あなたは必ずや小説を紙に書くことができるでしょう。しかしどんな小説の一編も、狂人を満足させるには足りないのです。私はあなたを決して狂人だとは思いません。私という狂人にむけて問いかけていることがその動かぬ証拠です。
――矛盾しているのではありませんか。私は作家ではありませんよ。
――いや。小説を書くことのできる者を作家と呼ぶことは、悪魔の放った影なのです。私を作家と呼ぶのは狂人だけですが、私はあなたを作家とは呼びません。言葉の矛盾に黙して対峙する者こそ、作家であると思うからです。決してとらえられない現実を、矛盾を、追及することが、作家の唯一の原動力なのです。
――しかし、私は何を書くべきなのでしょう。
――悪魔の影と戯れることです。私は作家であり、亡霊であり、悪魔であり、狂人なのです。これは、矛盾しない唯一の現実です。さあ、そろそろ夢も終わりです。さようなら、おやすみなさい。
第五章
《今なら逃げられる》と編集長は不意に思った。《今、例の牛の化物はいない。彼女も油断している……。あの扉から部屋の外へ出られれば、自由になれる!》
「あら、お逃げになりたいの?……別に、逃げてもよろしくてよ、そうしたいのなら」男の表情を読み取り、少女は涼しい顔で言った。「もう少し、お話ししたかったけれど!」
「そういうことなら、おいとまさせてもらう!」
禿頭は勢いよくパイプ椅子から立ち上がると、腹を突き出し、全速力で扉まで駆けた。少女は相変わらず平気な顔でその様子を見ている。男は扉までたどり着くと、あまりにも妨害がないことを不安に思い、息を切らしながら訊ねた。
「いいんだな?……本当に行っちまうぞ!」
「たったいま言いましたでしょう、お好きなようになさいませ」少女は男には興味なさげに、自分の手の爪をまじまじと見つめている。
「それじゃあ、さらば! 短い間だったが、昔話なんかもできて、まあ楽しかったよ! このことは記事に書かせてもらう!」
そう叫んで彼は部屋から飛び出した。
どこまでも続いていそうな長い廊下を全速力で駆ける、駆ける、駆けていく……。
だが一向に出口(ゴール)は現れない。左右には無数の扉が規則正しく並んでいる。なぜだかその様子は立ち並ぶ墓石を思わせた。
編集長は一つ身震いして独りごちた、「おかしいな、方向を間違えたか?……それにしても変だ、この廊下はあんまり長すぎる!……本当に無限に続いているんじゃなかろうか……?」
そう言い終えた次の瞬間、右の扉の一つが開け放たれ、牛頭――力(パワー)と呼ばれていた――がそこからぬっと現れた。牛頭は編集長を見るとニタリと笑った。
「ひえっ!」
禿頭は踵を返して、もと来た道を走り出した。もう年だとおもっている自分でも、驚くほどの速さだった。
しばらくすると、再び右方(つまり先ほどとは反対の位置)の扉から牛男が出てきた。
咄嗟に後ろを振り返る。やはりそこにもニタニタと笑いながら近づいてくる牛頭が。前を見る、三たびニタニタ笑う牛頭……。
彼の意識はそこで途切れた。
気が付くとまたパイプ椅子に座っている。結局、俺は捕まったのか?……しかし、考えてみると、汗一つかいていないし、疲労感もない。あれほど走ったんだ、もう年だから、本当ならだいぶこたえているはずだ……それが……やっぱり、ただ眠っていただけのような感じもする……。
「お気づきになりました?」少女もまた目の前に座っている。何も変わらない。
「俺は夢を観ていたのか?」ベテラン編集長は目をパチクリとさせた。
「悪い夢を観ていたのですわ。しかたありませんわ、疲れていらっしゃるんですもの……」
「いや、違う、違う!」男は喚いた。「断じて違う! あんたが何かしたんだろう? わかってるぞ! 俺はきっと、怪しげな術に誑かされたんだ……話が違うじゃないか、俺は自由じゃなかったのか?」
「あなたが自由なら、私も何をしようが勝手ですわ」と少女は微笑した。
「こりゃまいったな!……あくまでも、俺はあんたらと仲良く談笑してなきゃあならないと言うんだな……」
「物分かりがいいですわね。でも、これはあなたのためでもありますのよ」
「どういうことだ?」
「この世界には、悪魔よりも恐ろしい輩がいるということですわ。Aと近しいあなたも、狙われる可能性がありますの……」
「悪魔より恐ろしい?……そんな奴らいるのか?……俺はそんな奴らとお近づきになった覚えはない!」
「私たちも、まだ確実なことは何も言えませんの。だけれど、私たちが目覚めたということは、相当の悪党がのさばり始めた、ということですの」
「あんたら、今まで寝てたのか?」
「ええ。……そうですわね、十年くらい寝ていましたわ」
「それはそれは、健康的だな!」男は言ってからやけくそに笑った。《もう何でもこい!》
そのとき、奇妙なことが起こった。彼の視界はぐにゃりと歪み、くらくらと眩暈がした。吐き気さえ覚えた。聞きなれた声が鼓膜をうつ――「助けてください! 助けてください! 僕はここにいます!」思わず頭を抱え、呻いた。
「いかがしましたの?」少女が心配そうに訊ねる。
すると幻聴は消え、吐き気も眩暈も去った。《今のはなんだ? なんだか、マネージャーの声に似ていたな……》
「いや、なんでもない……でも、知っている声が聞こえた……なんだか、助けを求めているようだった……」
「いいですこと……」少女は神妙に囁いた。「どうやら、神……いや、Aという存在を中心にして、彼に関係ある人々が、なにか目に見えない糸のようなものでつながっているような気がいたしますの。それが単なる『絆』とか『縁』というようなものなのか、あるいは誰かが張った『蜘蛛の巣』なのかは、判然としないのですけれど……」
「ああ!……記憶喪失のあいつを拾った時から、なんだかこんなことになるような気はしてたんだ! なにか秘密があるとは思ってたが……ここまで大事になるとはな……」禿頭は大きくため息を吐いた。
「やはり、彼には過去の記憶が無かったのですわね?」と少女は確かめるように訊いた。
「無かった。あの物語作者は、過去の記憶をすっかり忘れていたんだ。あいつの生い立ちやらなんやらも調べたが、どうやら金持ちの息子だったってことくらいしかわからなかった……いま思えば妙な話だ、人一人の素性(プロフィール)があんなにつかめないだなんて! なにか圧力がかかっていたとしか……それに、あいつの才能は本物だと思ったから、俺も詳しく調べなかったんだ……あいつには悪いことをした……」
「記憶が戻ったら、彼がどこかに行ってしまうような気がして?」
「そうだ。『謎の覆面作家』ということにしたから、あいつの唯一覚えていた名前を使っても、誰も正体に気づく読者もいなかった。変わった名前だしな……まあ、今じゃ、少しくらい本を読む人間なら、だれでも知っているほどの名前にはなったがね……」
「……記憶を失ったことが、今回の悲劇の遠因になったのですわ。いえ、直接の原因といってもいいかもしれません」
「どういうことだ?」
「編集長さん、驚かずにお聞きになって……Aが創り上げてしまった悪魔というのは……その名を『宮田』と『盥屋』といいますのよ」
編集長は目玉がぽろりと落ちそうになるほど目を見開き、「宮田に、盥屋だって?……久しぶりにその名前を聞くな……しかし忘れもしない……あれは俺の担当した事件だったからな……あの『芸術的テロリズム』事件は……偶然というわけでもないだろうな……特に盥屋なんて名前、滅多にあるもんじゃない」
「目覚めてから、この世界のことをよく調べましたわ。そうしたら、あの二人に関する事件の数々が次々と目に入るでしょう?……驚きましたわ、寒気すらしましたわ……まさかあの悪魔たちの原型(モデル)になった人物がいたなんて……それに、彼らもまた、同じように世の中を騒がせていたなんて……」
「ちょっと待て、悪魔どもはなにか事件を引き起こしているのか? 聞いた限りだと、まだAのやつを追っかけているだけのような気がするが」
「それは、こちらの世界での話ですわ。『ヴェクサシオンの世界』では、彼らはきっと大きな混乱を招く所業を重ねるはずですわ。いえ、もうすでにしているかも……」そう言った少女の顔に僅かだが影が差した。
「でも、待てよ」編集長は首を傾げて、「いったい、Aとあの二人(もちろん原型の方)の間に、何の関係があるんだ?……Aはノンフィクション・ライターじゃない。実際の事件をもとにして小説を書くことは、ほとんどないんだ。多くは荒唐無稽な、おとぎ話の類さ……まあ、それが受けるといえば受けるんだが……。とにかく、あんな奴らについて何か書こうなんて気持ち、Aは持ち合わせてなかったはずだ……」
「それは」少女は人差し指を立てて、「おそらく彼の過去に関係があるのですわ。私たちもそのことについて調べたのですけれど、収穫は乏しいものでしたわ。あなたの時と同じで、何らかの情報操作が行われているような……それがどういう意味か、今ははっきりとした答えを持たないのですけれど」
「ああ!」禿頭は嘆息した。「謎は深まるばかり。いったいにこの事件、収拾がつくのか?」
*
マネージャーのアパートからの帰り道、誰かにつけられているような気がして、わざと遠回りに歩く。こんなサエないカストリ探偵を尾行するなんて、どれだけ倒錯した趣味の持ち主なんだ?……まあ、本当につけられているとして、たぶんそれは、俺の追ってる事件と関係があるんだろうが……。ここはいっそ、逆にとっちめてやろうか?
霧深い中、追跡者の気配を背中に感じながら、俺はゆっくりと歩いた。そりゃあもう、蝸牛並みにゆっくりと。相手がしびれを切らして、距離を縮めてくるのを待つ。だがそいつが不用意に近づいてくる気配はなかった。
俺は街の中心から少し外れたところにある市民公園の方へ足を向けた。さすがにこれだけ方向転換すると、やつも訝るだろうか?……だがそいつは予想通り、俺についてきた。わかった、よっぽどの用があるんだな! 望むところだ……。
公園付近まで来たところで、一気に走って園内に入る。そいつも不意を突かれて、少しの間の後、俺を追って駆けてくる。
俺はちょうどいいところにあった土台に身を隠す。なんの土台かって? いや、土台なのは間違いないんだが、今は何にも乗っかってない、岩を四角く削って作られた土台だ。結構な大きさで、俺の身を隠すには十分だった。土台の裏にはこう刻んである……『秩序と調和の象徴、×××……』だが表面にはびっしりと苔が生えていて、途中から読めない。気になるな……。
おっといけねえ、そんなことはどうでもいいか。
やつはまんまと公園まで入ってきた。霧のせいでその姿はよく見えないが、それはこちらも同じだ。完全に俺を見失っている。あとは待つだけ……。
ついにやつは土台の反対側まで歩いてきた。どこかで見たような背格好だが、かまわず後ろから近づく。
「動くな」俺はそいつの背中に銃口をつけた。「背中に当たってるのがなんだかわかるな?」
やつはびくっと身を震わせたが、妙な動きはせず、大人しくその場に静止した。
「賢明な判断だな。じゃあゆっくりとこっちを向け……」
そう言いながら俺は、少し馬鹿らしくなっていた。相手の反応を見て、そいつの正体が何となくわかったからだ。
小松はおびえた表情でこちらを見ている。
「……やっぱりあんたか。どうしてつけてきた?」
「いえ……べべっ、別に、尾行する気はなかったんです。ただ、たまたま、木安さんのような人影を見かけて、後をつけていって……気づいたら公園で、物騒なものを押し付けられていた、というわけです」
「それなら、俺がゆっくりと歩いたとき、どうして近づいてこなかったんだ?」
「それは……むしろ、なんとなく木安さんじゃない気がしたからですよ。でも、こんな時に外を出歩いているなんて、怪しい人物なのは間違いないですから、ネタになるかと思って、それからは慎重についていったんです」
「ずいぶん仕事熱心だな!」俺はとってつけたような笑顔を見せてやった。
「ええ、まあ……」
「まあいいや、そこらで話そうぜ……なに、調査結果、中途報告だ」
俺はぼんやりと見えるベンチを指さした。
「まず、編集長の行方だが……今はまだ、まったくわからない。後述する、Aの件とも直接的な関係があるかわからない。手がかりがあんたの『牛頭』しかない状況だ……」
「そうですか」小松は俯きながら呟いた。「他の方は?」
「ああ、マネージャーとAだな……二人は今、一緒に行動している可能性が高い。そして二人とも同じ存在に狙われているようだ……」
「それはいったい何者です?」
「『悪魔』と呼ばれている者たちだ」
小松は少し青ざめて、「木安さん、あなた……」
「正気だよ、正気! 俺だって信じたくないんだが、どうやら悪魔みたいに恐ろしい奴ららしい。明確な目的は現在不明……」ここは適当にごまかす。
「それで、二人は今どこに?」と小松。「それが一番の問題です!」
「正確な場所は、わからない。だが、すでにだいぶ遠くへ行ってしまった可能性がある。悪魔から必死で逃げているのだろう」
「それは大変だ」小松の顔はまた青くなる。「二人に何かあったら、編集長になんと言えば……その編集長も行方不明だし……いったい、誰に何と言えば」
「気をしっかり持つんだ」と小松を励ます。「自分まで行方不明になっちまわないように……」
「ところで、そんな物騒なもの、どこで手に入れたんです?」と小松は俺のポケットの膨らみを横目で見て言った。
「これか? 拾ったのさ」
「拾った? どこで?」
「マネージャー君の家だ」驚愕の表情を浮かべる彼にもう一言、「くりかえすが、気を付けた方がいい。この件は思ったよりもデカい。そして複雑だ……人を尾行するとか、記事のネタを探すとか、そういうことは止した方がいい。できれば、家に閉じこもっているんだ。なに、だれも文句は言わないさ」
「こんなことに巻き込んでしまって申し訳ありません!」小松はそう言って手を合わせた。
「気にしないでくれ、こういうのは好きなんだ、じゃなければ探偵なんてやってられないよ」余裕を見せるため、カラカラ笑う。
でも内心では二つの『俺』がまだ戦ってるんだよな。
「とにかく、中途報告は以上だ。なにか質問はあるか?」
「質問といいますか……これは聞いた話なんですが、街はずれの古びた洋館に、怪物が入っていったというんです。まったく、おとぎ話みたいですが、牛頭を見てしまった身としては、否定もできず……それが編集長を攫(さら)った怪物かどうかは、わからないんですが……」
「街はずれの洋館?……なんだか知ってるような気がするが、思い出せないな」
「思い出した!」小松が突然叫ぶ。
「驚いたな、どうしたんだ?」
「さっき木安さんが隠れていたあれ、あそこには昔、なにかありませんでしたか?」
「ああ、あったかもしれない」
「ずいぶん有名な話ですよね?」
「ああ、かなり有名な話だった……たしか、なにか事件が起きて……」
俺は違和感を覚えた。ひょっとして、記憶が曖昧になっている……? 小松にも同じ症状が起きているようだ。
だが同時に、複数の謎(パズル)の欠片(ピース)が繋ぎ合わさりそうな予感もしていた。思い出せ、思い出せ。名探偵木安の名推理だぞ……いや、思い出すだけでいいんだ……。
公園で何かがあった……事件が……ひどく荒唐無稽な事件が……荒唐無稽……そういえばAのやつ、悪魔に追われてるとか言ってたっけ……それこそ荒唐無稽だぜ……それで? そいつらの名前は何て言った? たしか、宮田に盥屋……。
宮田……?
盥屋……?
「思い出した!」今度は俺が大声を出す番だった。
「どうしました?」と、目を丸くして小松。
「宮田と盥屋! そうだ、あいつらだ、『芸術的テロリズム』だよ!」
「ああ……そういえば、そんな変人たちがいましたね……昔」
「ここだよ。奴らはここでやったんだ。それで……あの事件は闇に葬られたまま……」
「ああ、そうか……そうでしたね……でも、思い出したところで、別に捜査には関係ありませんよね……」
「実は、悪魔と呼ばれている男たち……そいつらの名前が、宮田と盥屋なんだ」
「えっ?」と喉になにか詰まらせたような声。「彼らが? 確かに悪魔的な奴らでしたが……まだ生きていたんですか?」
「そこだよ! そこなんだ!」と俺は小松の両肩を掴んでゆすぶった。
「あいつらは、地獄から戻ってきたんだ。なにが目的かはわからないが……」
小松はまた青くなり、「そんなことが……信じ難い……いや、もうすでに信じ難いことだらけですが……」
「ありがとう、小松さん」俺は立ち上がって言った。「あんたのおかげで、この事件の核心に一歩近づけたかもしれない。感謝するぜ!」
そして俺は、深い霧の中ベンチに佇む小松の、困惑した表情に見送られつつ、公園を後にした。
*
街を覆う深く奇妙な霧は、依然としてその規模を広げていた。隣の街、そのまた隣の街……と、霧は悪夢のようにすべてを飲み込んでいった。霧に包まれた街の人々は、どことなく顔色が悪くなり、全身から生気が失われるのだった。それは単に陰鬱な霧のせいで気分が落ち込んだだけではなく、他ならぬこの霧こそが人々の生命力を吸い取っているのだ、とだれもが感じていた。これについては証明のしようもなかったが、しかしそれ以外に原因のありようもなかった。
そのうちに、奇妙な噂が立った。街はずれの古びた洋館から、夜な夜な不気味な呻き声が聞こえるというのである。
素行の悪い若者たちがその噂の発信元だった。彼らの未熟な血はこの状況下でも騒ぎ、新たな遊び場を求めていた。そこで目をつけたのがその洋館だった。ある夜、彼らはバイクで大きな門の前まで来た。一人が扉に手を触れようとした時だった。おおおおん……おおおおん……と、獣の雄叫びのようなものが聞こえた。彼らは度肝を抜かれて一旦その場を離れた。それからもしばしば怖いもの見たさに洋館を若者たちが訪れたが、やはり誰もがその不気味な雄叫びを聞いたのだった。
さっそく街の有志が集い、調査団を結成した。その理由の半分は街の治安のため、半分は好奇心のためである。彼らは門の前に立った。おおおおん……おおおおん……本当に聞こえた! 彼らは顔を見合わせ、覚悟を決めて頷いた。
一人が門に触れると、それは勝手に開いた。不思議がってあたりを調べたが、仕掛けのようなものはなかった。広い庭を進む。そこには雑草しか生えていなかった。濃い霧の中で、彼らは人魂を見たような気さえした。
入り口の前に立った一行は、しばらく手入れのされていない、外壁には蔦が絡み放題の、朽ちかけた洋館の姿を見て息をのんだ。
一人が大声で言った。もし、誰かいませんか。少しお訊ねしたいことがあるのですが、かまいませんか。
返事の代わりに、扉が軋んだ音を立てて開いた。やはり仕掛けは見当たらなかった。
おそるおそる館内に足を踏み入れる。一同はぎょっとした。建物の中にはなにも無い。家具も、絨毯も、シャンデリアも、こうした館にはつきものの調度品その他もろもろが一切存在しないのだ。エントランスはがらんどうで、幽霊屋敷のようだった。
一階には多くの部屋があった。食堂、書斎、大広間、服の収納部屋、応接室。どこにも誰もいなかった。
彼らはエントランスの階段から上にあがろうとしたが、先頭者が十数段のぼったところで、腐った足元が抜けてしまい、諦めた。こんなところに誰かいるわけがない、皆でそう判断した。
恐らく、呻き声はどこか別の場所から聞こえてきたのだろう。あるいは、社会の混乱によって、集団ヒステリーが引き起こされているのかもしれない。誰もが幻聴を聞いていたのだ。きっとそうに違いない。大体、怪奇現象というのは、多くがそのようなものなのではなかろうか? 調査団一行は恐怖心と馬鹿馬鹿しさが一体となった頭で、以上のような結論を導いた。
門をくぐって外に出たとき、しんがりの一人が後ろを何気なく振り向いた。彼は前を向いて叫んだ。おい、見ろ。館の窓、二階だ……。皆は振り返った。窓を見る。どの窓も閉まっている。ほとんど割れている所もある。しかし何も異常なことはなかった。何かあったのか? 誰かがしんがりに訊ねる。見たんだ、屋敷中に灯りがついていて、二階の窓から、少女がこっちを見ていた……。笑っていたんじゃないかな。
笑ったのは一行だった。この霧のせいで、いよいよおかしくなったか。これはますます、錯覚だということが確かになってきたぞ。おお、怖い……。
調査団の話は瞬く間に噂として広まった。この怪談は始まりのように、終わりもまた速やかだった。
それきり館に近づくものもいなくなった。皆、内心はなんとなく不気味に思っていたのである。
編集長を失った出版社では、相変わらず涙ぐましい取材の試みが続けられていた。そこはまさに戦場だった。しかし敗色濃厚、誰もが沈んだ表情をしている。とにかく、いま起こっていることを大雑把に、ざっくりと伝えるだけで精一杯だった。実際はそれすらもおぼつかず、筆者の想像、はっきり言えばでっち上げで記事を盛ることも当たり前のように行われていた。しかしそれが明るみに出ることはなさそうだった。現実ではそれよりも驚くべき事件ばかり、日常茶飯に起こるのだから……。
ある日、慌てて帰社してきた若い男が言った。小松さんが大変です。誰も驚かなかった。こっちだって大変だ。それに、あいつはいつだって大変そうにしているじゃないか……問題ない。青年は首を振った。違うんです。小松さんは誘拐されました。誰かが青年の方を見た。誘拐? まさか、またか?……いったい誰がそんなことをしたんだ?
青年の話はこうだった。
僕は取材のために小松さんと出ていました。市民公園の近くに来た時、小松さんは何かに気づいて、唐突に息を荒くし始めました。その視線の先には、あの、なんていうんですか、あの土台みたいの。そこで青年は社員たちに聞いた。ああ、あれね、わかるよ、なんだっけ……。首を傾げる。まあいいや、続けますね……とにかく、あれです。あれの前に、男が一人立っていました。見たこともない男です。遠目に見ても、なんだか恐い感じがしました。小松さんがその人のところまで小走りに行くと、男は何か言いました。小松さんは必死に頭を下げていました。二人はしばらく何事か話し込んでいましたが、男が小松さんの肩をぽんと叩くと、彼はびくりと震えて、僕の方まで歩いてきました。そうして言いました、申し訳ない、ちょっと用があるから、しばらくいなくなるよ。彼は青い顔をしていました。僕はびっくりして、どこへ行くんですか? あの人は誰です? と聞きました。彼は少し考えた後、場所は言えない。他の人には、キヤスシロウさんに用があると言っておいてくれないか。……そう言って彼は、いつの間にか近くに停まっていた黒い車の方に、しずしずと歩いていきました。車の前のドアが開いて、黒服の男が出てきました。そして小松さんに一礼すると、後ろの扉を開けました。その時ちらっと、例の男が乗っているのが見えました。僕はその人と目が合ったような気がしました。とても冷たい眼でした。あれは普通の人間ではありません……いまでもぞっとします。
青年の話を聞いて、みな黙ってしまった。
キヤスシロウって誰だ? 一人が口を開いた。途端に社内はざわつきだした。知ってます、と女の声。たしかその人、私立探偵です。といっても、開業したてみたいだけど……。とにかく、警察に連絡だ。誰かが言う。誰かがそれに答えて、今のご時世、警察がまともに取り合ってくれるかな? 編集長とかAさんの時だって駄目だったし……。もちろん、あの人たちの場合、誘拐かわからないけど……犯人からの電話もないし。
結局、いちおう連絡はすることになった。今回は連れ去った人物の名前がわかっているし、その顔を青年がしっかり覚えている。それに、温厚だが平凡な社員である小松まで、いきなり連れ去られてしまったということは、誰しもが同じ目に遭う可能性がある、ということを意味する……。
夏のうだるような暑さのなか、霧の中で、次々と奇妙な事件が起こっていた。しかしだれ一人として、それらの事件の糸を手繰り寄せて、一つにすることはできていなかった、皆そうすることを望んでいたにもかかわらず。
やがて霧はすべてを飲み込むだろう。そして人々から生気をすいとり、窒息させるだろう。かつての秩序を失った世界は、いまや悪夢に蝕まれつつあった。
この様相を見て、誰が笑っているというのだろうか?
*
あれから、俺はいろいろな方法で二人の「悪魔」(と言われている男)……宮田と盥屋について調べていた。どんなことでもいいから、この曖昧な記憶を呼び起こしてくれる情報が欲しかった。
ところが、なかなか集まらないんだな、これが!……インターネットで検索しても、不思議に一件も引っかからない。昔の新聞記事をあたろうと、街の図書館(けっこう大きい)まで足を運んだが、『このたびの混乱により無期限休館』だってさ! まるで、二人の情報を誰かが隠蔽しようとしてるみたいだぜ……おっと、過度の陰謀論は禁物か、でも探偵は、疑うのが仕事だとも言うし……。まあ、どっちでもいいか。
肩を落として、図書館から家に帰る。それにしても、この霧はなんとかならないのか?
事務所に戻ると、扉の前に二人の男が立っていた。宮田と盥屋か?……いや、違う。話はそんなにうまくはなかった。
「木安さんですね?……少しお話をお伺いしたいのですが」
彼らは刑事だった。そのうちの一人の顔は知っている。Aの家の焼け跡で、捜査を仕切っていた男。いまはあの時よりさらに目つきが鋭くて、刑事じゃなければ犯罪者と間違えちまいそうだ。
「ええ、そうです……わかりました、とりあえず中へどうぞ。散らかっていますが……」俺は丁寧に言った。
どうしたっていうんだ? いったい俺に何の用が?……もしかして、俺がAや編集長(ともう一人)を探してるって聞いて、何か有益な情報を教えに来てくだすったのかなア? いや、いや、そんなことがあるはずがない……なんで警察が見ず知らずの私立探偵に情報をやるんだよ……それに、今回の依頼を知ってるのは、俺と小松くらいなもんじゃないか? 小松が警察に顔きくわきゃアない……。とすると、もしや……。
「もしかして、俺を逮捕しにきたんじゃありませんか?」
これぞ逆・単刀直入。ソファに腰かけて一息ついた二人にそう訊ねて、先手を取る。
「ええ、まあ、そうです」目つきの悪い刑事は落ち着いて答えた。「あなたに小松竹梅(こまつたけめ)さん誘拐の容疑がかかっています」
あいつ、タケメって名前だったのか。少し、親の顔が見てみたいな。いや、それよりも、俺が小松を誘拐? 冗談じゃない、そんな事態をややこしくするようなこと、するもんかよ!
「しかし、ヨシさん。この人はモンタージュとずいぶん……」ともう一人の男が妙に甲高い声で言った。
「ああ、違う。全くの別人だ。少しも似ていない……」
「その写真をみせてもらえませんか」俺は咄嗟に聞いてみた。
「これです」ヨシさんは一葉の写真を懐から取り出して、机の上に置いてくれた。
写真を見た瞬間、俺はなぜか鳥肌が立った。……知らない男だ。モンタージュだから、完全に本物と同じ顔とはいかないだろうが、どこか冷酷で、残忍そうなその表情は、さっきヨシさんのことを犯罪者なんて思ってすみません、と謝りたくなるほどの悪人面だ。といって、その容姿が決して醜く歪んでいるわけじゃないところが、余計に恐ろしく、またなんとなく腹が立った。
「知らない顔ですね……少なくとも、木安四郎ではなさそうです」と軽口で恐怖と苛立ちを誤魔化す。
「そうですか。ありがとうございます」ヨシさんはそう言って、少し笑みを浮かべながら写真を受け取った。
「実は俺、小松さんから依頼を受けているんです」俺は正直に言った。
「本当ですか」甲高い声の男が叫ぶ。
「吃驚するじゃないか、レバー……」ヨシさんが言った。
「すみません、つい……」レバーと呼ばれた男はへこへこと詫びる。
「どういった依頼を受けているんですか?」とヨシさん。
「小説家のAさんと、出版社の編集長、それにAさんのマネージャーの青年。この三人の行方を追う……とまあ、そんなところです。そしてこの事件には、あの『芸術的テロリズム』を標榜した危険人物、宮田と盥屋が関係していると思っています。少なくともAさんは、この二人に捕まったか、まだ逃走し続けているものと思われます」この際だ、洗いざらいぶちまけよう。
ヨシさんの顔色が変わった。
「そうですか……そういうことなら、我々は協力できそうにありませんね……」
「どうしてです?」
「その三人……特にAさんについては、捜索願も出ています。我々も行方を追おうとしました……ですが、上層部から待ったがかかったのです」
「上の方から、ですか」
「私のような者には、その裏は知れませんが……とにかく、なにか大きな……それに、宮田と盥屋の名前まで出てきてしまうとは……私立探偵もなかなか侮れませんな……」と、そこまで言って、「これはいけませんな、しゃべりすぎました!」ヨシさんは笑う。
二人について聞きそびれた。くそ!
「つまり、警察の方では、三人の行方については追っていないと?」
「まあ、そういうことです」
「変な話ですね。俺の名前で別人が誘拐犯として指名手配されている。その被害者が他ならぬ俺の依頼主……。どうして俺の名前が挙がったんです」
「小松さん本人の証言です」と言って、ヨシさんは経緯を簡単に説明してくれた。
「そりゃおかしい! 小松さんはなにを考えてたんだ?」俺は思わず叫んだ。
「目撃者の話では、犯人は複数いたといいます。見たところあなたは、ずっと単独行動ばかりしている様子……」ヨシさんは部屋を見回して言った、「案外に綺麗な部屋ですね。あまり人も来ていないようだ」
少し心外だったが、事実だからしょうがない。我慢ガマン!
「誤解がとけてよかったです。聞きたいことはそれだけですか」俺は半ば安堵してお開きにかかった。
「実はもう一つあります。調査を進めたうえでわかったのですが……」レバーが答える。
「なんでしょう」
「あなたの名前……木安四郎、ですが……ないのです」レバーは慎重に喋っているようだった。「この街の戸籍謄本のどこを探しても、そんな名前、存在しない」
部屋に沈黙が訪れた。
「それは」俺はなにか言わなければ、と思って、でたらめを口にした。「なにかの間違いでしょう。たまたま事務上のミスかなんかで消えちゃったんじゃないですか」
「それはないですね。いろいろ確認しましたから」レバーは言う。
「だから、ここを探すのに手間取りました。……あなた一体、何者です?」
ヨシさんは俯いたままじっと俺たちの会話を聞いている。
「俺は……」唾をのむ。「俺は……私立探偵です」
「職業じゃなくて、あなたの正体です」
「だから……」
「おっと、こんな時間だ。レバー、そんな話、今はいい。木安さんは、誘拐とは関係ないようだ……もう行こう……帰ったら、事件が山積みだぞ!」助け舟を出してくれたのは、意外にもヨシさんだった。
「え?……わかりました。では木安さん、この件はまたの機会に」レバーは残念そうに言った。
「俺の方でも確認してみますよ」と一応言っておく。
「では、木安さん、失礼しました。捜査にご協力いただき、感謝します。小松さんの行方についてなにかわかったら、あなたにも連絡します。そちらも是非」
「もちろんです。なにかあったら連絡します。小松さんが訪ねてくるかもしれないし」
「本当にそうなったらいいのですが」ヨシさんは力なく笑った。
「やっぱり、なにか掴んでいるんですか?」
ヨシさんは立ち上がって、俺の目を正面から見た。
「探偵さん、私はなんとなく感じるんです……これはきっと、刑事の勘だな。つまり、この一連の事件は、裏ですべて繋がっていて、それを操っている何者かがいると……もっと言うと、たった今も、私ごときじゃ解決できない、なにか途轍もない、荒唐無稽な因果が巡っているんじゃないかってね……」
俺は暗に、「お前にはまだ役目がある」と言われているような気がした。
二人を見送ると、俺は「小綺麗な」事務所に戻り、大きく伸びをして、ぶらぶら揺れるシャンデリアを見上げた。A……あいつは一体なにをしているんだろう?……なにを俺に託したのだろう?
そして、足元の毛羽立つヴェルヴェットの赤い絨毯を見つめた。そこには、人の顔をしたけっこう大きい黒シミがある。……いったいなにをこぼしたら、こんな不気味な模様になるんだ? 考えがまとまらないときは、いつもこのシミと睨めっこしている……と、その黒シミの部分だけほんの僅か、生地が盛り上がっているのに気が付いた。まるで、それが本物の顔であるかのように……じゃなくて、まるで、その中になにか仕込んであるかのように……。
俺は直観的に動いた。机の引き出しから小型ナイフを取り出して、黒シミの上にしゃがみこんだ。シミを囲むよう、四方に切れ目を入れて、丁寧に引き剥がす。案の定、そこだけ布が縫い込んであって、その隙間に、なにか薄いものなら収納できるようになっている。
そこには一冊のノートが挟み込まれていた。
ノートを手に取ってみる。十年以上前のものだろうに、不思議とイタミは少なかった。
その表紙には花の絵と、柔らかで、慎ましく下手くそな字でこう書いてある。
『愛するKに捧ぐ。Aより』
*
結局、われらが編集長は館に閉じ込められ、いくつもの眠れぬ夜を過ごしていた。それは心理的な不安のせいもあったが、なにより夜な夜な聞こえる力(パ)天使(ワー)の唸り声が原因だった。《悪魔にせよ、天使にせよ、同居するにはよくない相手だな》彼は思った。《恐ろしいことには変わりがない!》
パワーの叫びを聞き、怪しんだ人々が、館に訪れることもあった。しかし智(ケ)天使(ルビム)――例の少女の名前である――の呪(まじな)いによって、彼らはものの見事に誑かされ、煙に巻かれた。彼らが見たのは古びた幽霊屋敷(それはあながち間違いでもなかったのだが)だけであった。
そうだ、少女の名はケルビムというのだ。禿頭はふとした拍子にそれを彼女から聞き出したのだった。「あだ名じゃなくて、本当の名前を教えてくれよ!」というと、彼女はもう一度くりかえした。「智(ケ)天使(ルビム)といいますのよ、それ以外に呼び名はありませんわ」にわかに信じがたかったが、まじめな顔でそう言われてしまっては、彼もそれを信じるほかなかった。
館の日々は憂鬱だった。毎日の食事は豚肉や鶏肉をつかった大味なものがほとんどだったし、寝るときはただっぴろい部屋の中、用意された小さく汚い布切れ一枚にくるまった。おまけに始終、生活を誰かに見られている気さえした。
「もううんざりだ! こんな暮らしは……俺は一体いつまで軟禁されていればいいんだ? そろそろ自由にしてもらえないかな? この館の秘密や、君たちの存在、悪魔どもの話、そういったことみな誰にも言わないから……それがだめなら、せめてなにか時を忘れさせてくれるような慰めをくれ! どうしようもなく暇で、暇で、仕方ないんだ」哀れな編集長はある日の午後、何かが心の中ではじけ、少女に嘆願した。
「そうですわね、さすがに気の毒ですから、心の慰めに、こちらの『乏しい収穫』をお渡ししましょう」
そう言った少女の手にはいつの間にか、ホチキスで留められた数枚のA4紙があった。
「それはなんだね?」
「わたくしがAの家におじゃましたことはお話ししたでしょう。その時に、書斎で見つけたものですわ。このままの形で、机の上にありましたの。他にもいくつかありますわ。なぜかわからないけれど、これらは手書きで書かれていました。つまり、『作家Aの書き溜めた手書きメモ』ですわね」
「それは」禿頭を興奮のあまりの急激な発汗でひからせて男はいった。「是非とも読みたいな! 事件の手がかりになり得るかもしれない希望と、編集者としての興味と、個人的な関心と……とにかく暇つぶし以上の作業になりそうだ、貸してくれ!」
「手始めに、これを」といって彼が少女から手渡された文章は、以下のようなものだったのである。
……ところが彼ったら、感想を書かせるとこんな具合なのだ。曰く――「ああ! なんと悲しい、つらい物語だろう! 読者諸君にあらためていうことではないのだが。――しかしそれでも伝えたいこの心! 言うまでもなく、この「話」(そう、まったくただの『話』なのだ!)のキモは、ああ、まさに、「あの部分」である(断腸の思い!)。しかしながら、少し待って欲しい――この部分にこそ、この物語の、いや、一つの悲劇のたったほんの少しのエッセンスのうち、もっとも偉大で傲慢なおかつ不遜なテーマ(笑)が隠されてはいないだろうか?? そう、あの場所で彼が、彼女が下した決断、それは何物にも代えがたいものであったに違いない。しかし、それでも、やはり考えてしまうそう……『IF』を。『IF』! なんと珍妙な話であろう! まったく、このせいで台無しになることもあるのだ……まったく、多弁は無知の証しという。先を急ごう。ぶっちゃけて言えば、私はこの結末が気に入らないのだ。あの愚かな決断。なにが倫理だ、なにが道徳だ、なにが世間だ! 最後の決意を促すのは内的因子であって、外的因子ではない。そのことは作者だって重々承知のハズだ、にもかかわらず――ああ! これは皮肉だ! とてつもない皮肉! しかも、笑えぬ皮肉だ!」
「こんな風に、なにやら長々と書いてありますわ」
「……おそらく、というより確実に、いわゆる習作だろうな、これは」と読み終わった編集長は禿頭を掻きながら呟いた。「いろいろ実験したり、思いついたことを書き留めていたりしていたんだろう! それはわかった」
「そうですわね。でもそれだけですの?」と少女は訊ねる。「他になにかわかりませんこと?」
「書きあぐねているところもあるし、意味がくみ取りにくいところもあるし、作者が途中で飽きているところもあるし、まったくデタラメなところさえあるが、よく読むと背後には作者なりの大真面目な主張も隠れているような気がする。……直接事件には関りがないかもしれないが、間接的な関りはあるかもしれない」
「わたくしも同じ意見ですわ。こういった断片が、他にもいくつかこちらの手の内にありましてよ」
「なかなかの収穫じゃないかい? それは」男は機嫌よさげに微笑んだ。「なにかの手がかりになるかもしれん、どうか他のも読ませてくれ!」
こうして哀れな禿頭の編集長にも「慰みの暇つぶし」ができたのである。
*
俺はAが密かに絨毯に忍ばせていた一冊のノートに、すっかり心を奪われていた。これは、きっと俺へのメッセージだ、間違いない! まあ、それだと『愛する』の意味がわからないが……とにかく、何らかの暗号が、この中に隠されてるんだ……。
ノートを開くと、そこには几帳面だが下手くそな字でこんなことが書いてあった。
……
こういうことを書くのは少し気が引ける。やっぱりぼくにはもっと傲慢さが必要だ、自分にもそれと気取られぬ程度の。いまのぼくには、どんな命題でも、長くながく問いと思索を続けていけば、いつか証明することができるだろうと固く信じて書くしことしかできない。ただしその可能性も、こちらに永遠の時間が与えられていればの話だが。逆に考えてみれば、結論から先に出してしまえば果たしてどうなるのだろう? 証明を飛び越えて、それが前提だと決め込んでしまう。世間でもよくある手だ。だがおそらく、それを本当の意味で人に語ることは、真に跳躍することと同じく、とても難しいことなのだ。
いったん失われた時間を取り戻すことはできないが、過去を振り返ることによって、ある程度の感動と、ほんの少しの教訓なら味わうことはできるかもしれない。未来を完全に予測するということは無理な話だが、ぼくたちがしばしばしでかす突飛な行動は、ひょっとすると無意識のうちに未来を覗いてしまったことによって引き起こされるのかもしれない。
あるいは、人はその人生の結末までとっくの昔に知っているのかもしれない。知ってはいるものの、それを真正面から考えずに日々を正気で暮らしていて、なにか己の運命を大きく変えるような、異常な事件が起こったとき、その人生の裏側に潜む狂気が明らかにされる、こうしたことを理解して、常に一定の心構えをしておくことこそ、本当に必要な準備なのかもしれない。
ぼくのいままでの人生を簡単に概観すると、『つまり何も起こらなかった』といえる(あまりにも簡単だが、事実だ)。だが、自分でもあらかじめ予想していたのかもしれない、今回ぼくの周りで起きた出来事の数々を。なにが起こったかは詳しく述べない。君も知るべき運命なら、然るべきときに知るだろう。
端的に言って、ぼくはこの世がそろそろ終わってしまうのではないかと思っている。それは一秒後かもしれないし、一億年後であるかもしれない。どちらにせよ特に変わらないことだが。別になにか大きな不安があるとか、そういうことではない(それは、いまさらのことだ)。ぼくの意識が漠然とそう感じている。いちばん奇妙でおかしいのは、それがひとえにぼく自身の問題であってみれば、そのことをぼくが特に深く悲しめないということだ。どうやら、心の奥の暗やみの部分で感じたことは、感情で表現することができないものらしい。幼いころ、夜中に急に目が覚めて、それまで観ていた夢の残り香がやけに胸を突いて、嗚咽のようなものがこみ上げたことがあったが、子供というのは大人より残酷な面がある分、少しだけ素直なもののようだ。
ぼくはごく小さな範囲の意味で、いわゆる『神』になりたかったのかもしれない。おかしな話だ、ぼくは神なんて信じていないのに。実際、それについて、「ぼくは知っている!」ということができるのだろうか。ぼくの心はそれを感じることもあるかもしれず、それが存在していると判断すらするかもしれない。ぼくがこの世界に確かに存在し、なにかに触れることができ、それが存在すると判断できるように。だが、そこでぼくの理性・知性・悟性のいっさいは停止する。ぼくはその地点から踏み出すことができない。長い間瞑想した結果、正気を失って「自分以外の人間は狂人である」とおかしな悟りを開いてしまう人のように、こういったことはどんな結論にたどり着くのかわからないし、恐ろしいのだ。多分、神とは幻想である、としておくのがいいのだろう。そして幻想に対する憧れとは幼い動機に過ぎない。「大人」の考えというものは、もっと確実なものでなくてはならない、人生を「まし」に生きるためには……。でも仮にぼくたちの頭上にそういったものを置くとすると、なかなか面白い実験を行うことはできるだろう。ぼくらにいま必要なのはすべてを焼き尽くすメギドの炎じゃなくて、明日を占う蓍(めどぎ)の棒なのだ。それにしても、ぼくは神になりたいと望んだばっかりに、誰が決めたかもわからない戒律を確かに破った!
ぼくはこのような告白をすべきでないのかもしれない。もう一人のぼくが耳元でこう囁くのだ――「やめたまえ! なぜって、人になにかを言いふらすというのも、淫靡なことだよ。だいたい、君の発見した、発表したくてたまらないことというのは、他のみんなが、とっくの昔に知っていてなおかつあえて口にするまでもないとわかっている事実なのだからね。君がなにを言おうとしても、結局は、単に冷笑されるだけのはずだよ。そんなささいなことを考えまとめて世間に曝すなんてことは、あんまり賢いこととは言えないからね。せいぜい仲のいい友人が「おお、なんて斬新なアイデアなんだい、それは!」なんていってくれたら、まあ、上出来かな。とにかく、これだけは忘れちゃいけないよ、君。なにか自分の考えを口に出すということ、これは、本当はとても恥ずかしいこと、恥ずべきことなんだよ。大切なのは、考えるより感じろ、さ。実感、実利を重んじることだ。なぜかって? 君、君だって生きたいだろ? 君が口に出す、その無駄な雑音は、公害に等しいものだから、口外しちゃあ、だめさ。君のために言っているんだぜ、こっちも。ぺちゃくちゃいい加減なことを言われたって、迷惑なんだよ。ちゃんと、考えてから、ものを言わなきゃ。いや、黙らなきゃ。黙る理由っていうのは百くらい思いつくけど、なにか口に出すわけってのは一つも思い浮かばないね、本当に。誰だって、新しい真実なぞ知りたいものかよ。目も鼻も耳もふさいで押し殺す、これが正しいやり方さ。それを惜しげもなく、言葉にしちゃうっていうんだから、困っちゃうなあ。求められていないってこと、気づかないかなあ。そんなことより、やるべきことがあるはずだろう、君にも」
そもそも、こう書き始めるべきだったのかもしれない。いや、いっそのこと、ここは本心をさらけ出してやろう。
「拝啓、晴ればれとした陽気の続くこの頃でございます。お変わりございませんか。単刀直入に申し上げます、お慕い申しておりました、わたくしの想いにお気づきになられてはおられぬかとと思いますが、命を懸けて申し上げております。ご迷惑おかけすること重々承知いたしております。ただ一言、ただ一言申し上げたく思い筆を走らせております……」
こんな恋文のような書き出しで。……
はあ。ここまで読んでいたら、ため息が出てきた。やれやれ、とんだブツを託されたもんだな! これは間違いなく俺に向けた文章じゃない、全く意味がわからん! いったい、これを誰に渡せばいいんだ? 内容も、告白なのか、独り言なのか、それとも恋文なのか、判別しかねるぜ! とにかく、俺には関係のないもんだな……。
まあ、あいつの孤独は、十分伝わったけどな。そもそも文学というのは、誰かの孤独をわかるためのものなんじゃないのかな。門外から恐縮だけど、さ。
*
ひとりパイプ椅子に座ってAの遺した原稿を読み漁っていた編集長は、牛頭の大男、パワーの部屋に入ってきたことに気が付かなかった。長い影が紙上にまで伸びて、やっと禿頭を振り向かせた。
「おお、お前さんか。どうした、鳴き疲れて腹が減ったか? あいにく、俺は食い物なんて持っとらんよ……それくらいは理解できるだろう。それとも、俺を食っちまうのかい?」
牛頭が黙ったままでいるので、禿頭はどきりとして、馬鹿にした口をきいたことを悔いた。
「すまない、すまない! 冗談だよ、悪気はなかったんだ、こっちも腹が減っていてさ」
実際、彼はしばらく何も口にしていなかった。
パワーは黙ったままである。
「なにか嫌なことでもあったのかい? あの娘に怒られたか?」そわそわしながら訊ねる。
「なにか嫌なことでもあったのかい、か……」そう言って牛頭はなにか思案するかのように静かに顎へと手を添えた。その声は意外にも聞き取りやすく、理性的でさえあった。
禿頭は相手の物腰の変貌ぶりに、思わずぎょっとしたが、さして意に介さないふりをして、
「そうオウム返しにされちゃこっちも困る。まずいことを言ったかね?」
「いや、そうではない。じつは、私は君に同じ質問をしたかったのだ」
「同じ質問?」
「そうオウム返しにされても困る。……君はなぜ、いつもそんなにイライラしているのか。それが訊きたかったのだ」
「そう見えるかい? 悪かったね」編集長はなぜとなくいらつきながら返事をした。
「君だけではない、これは人間一般の問題だよ」牛頭は部屋を行ったり来たりしながら語り始める、「人間は、常にイライラしている。ほとんどの人間がだ。イラついていない人間は、馬鹿だと思われる。思慮の足りない者と見做されるんだな。つまり、人間にとって考えることとはイラつくことと同じだ。そもそもイラつくとは、怒りの種を育てることだ。怒りを育て、いつか花開かせる。つまり、人間にとって、思索を深めてひらめきを得るということは、怒りを貯めに貯めて、ある時いきなり癇癪玉を破裂させることと等しい」
「そんなはずはないだろう」眉をひそめて反論する。「素晴らしいアイデアが癇癪玉と同じだって? そんなはずはない」
「そんなはずがあるのだ」牛頭は続ける、「人間が考えをめぐらす時というのは主にこういった時だ。誰かと言い争う。何かを創ろうとする。自分というものの正体を知ろうとする。そして、誰かと言い争った結果、相手を論破する薄汚い屁理屈が生まれ、何かを創ろうとした結果、簡単に無数の人間を殺すことのできる兵器を創り上げ、自分というものの正体を追い求めた結果、自ら命を絶つ羽目になるのだ。これらは怒りと何も変わらない。あたりかまわず喚き散らし、周囲のあらゆるものに手をあげ、ついには自分自身も滅ぼしてしまう怒りと」
「お前さんは」と諭すように訴えかける、「人間じゃないからそう言えるんだ。人間ってもんはなかなかどうして楽じゃない。お前さんにはわからないだろうが、生きている限りいやでも緊張を強いられる動物なんだよ。まず、社会というものがあってだな……」
「だからその鬱屈を」牛頭は低く笑った。「思考にさえ反映するのか? 私たちのような人間の想像力から生まれた存在にしてみれば、いい迷惑だよ。君たちの気分次第で、我々は美しくも醜くもなる。正確に言えば、美しいとみなされたり醜いと決めつけられたりする。どちらにせよ、自分たちが創ったのに。我々も、我々に対する価値基準も」牛頭はため息をついた。「倫理基準もそうだ。君たちは道徳というものを不用意に定義しすぎだよ。おかげでこの世界では、コンマ一秒ごとにその意味合いが変わっているじゃないか。だから道徳を守れるものもなければ、破ることのできるものもこの世界にはいない。これは人間が道徳を自覚した時からすでにそうだよ。昔は道徳があった、などと考えている人間や、未来に新たな倫理を創り上げよう、なんて考えている人間もいるようだがね。両方ともバカバカしい話だ。預言者が神の啓示を受け、必死に岩に彫った戒律の前で、異端者が黄金の牛を担いでどんちゃん騒ぎ、という挿話の書かれた書物を読んで罪を悔いる信徒、の描かれた絵画を眺めてその値踏みをする守銭奴……いったいに人間は何がしたいのだろう。君たちの最終目標は。訊いても無駄だろうがね」
「お前さんこそ何が言いたいのかね?」いまや腕を組んで神妙な顔つきで訊ね返す。「そんな批判は今までも、そしてこれからも無数にあるだろう。それを乗り越えて人間はやってきたし、またやっていくはずだ。確かに俺にも人間が何をやってきたのか、結局なにがやりたいのかはわからん。しかしこれまでそれを考えてきた立派な人は無数にいるだろうし、これから生まれてくる赤ん坊のなかにも数えきれないほどいるだろうということは、お前さんもよくわかっているんじゃないかね」
「まさにそれが君たちの陥っている誤謬だ」とパワーは指摘する。「俺たち人間が天に輝く星々だとして、この空のどこかに、他の星を明るく照らし出す大小さまざまの恒星がいくつも見つかるはずだ、とね。だが私は君に聞いている、なぜ君たちは怒りを思考と混同し、夥しい数の創造物と、それを評価する価値基準をつくりあげるのか……それらがすべて一瞬のうちに消え去り、意味のないものとなるにも関わらず。それに対する君の答えはこうだ、この夜空を見上げてごらんよ、きっとどこかに、それを知っている偉大な星が光っているはずさ、とね。私は他の星にも質問する。すると同じ答えが返ってくる。それこそ星の数ほどくりかえすことができるだろう、この問いは。しかし答えは通り一遍、一様の金太郎飴だ。人間は全体として見ればなにか薄ぼんやりとした光を放っているように見えるが、一つ一つ眺めていくとただの石ころに過ぎない」
「ただしそれは考える石ころだ!」編集長は上気した顔で叫んだ。
「ただのイライラした石ころだ」と牛頭はのんびりと汚れた壁を眺めながら言った。「なんの意味もない。いや、いつ破裂するかもわからないから、少し危険だな……ちょっとは処分した方がいいか」
「お前ら天使も、やっぱり敵だな?」興奮して問いただす。「人間をおまえらの勝手な論理で、粛清しようと思っているんだ!」
「そう喚いてくれるな。冗談も通じないとは、やはり人間は知的動物ではないな。自分の置かれた立場をわかっていなかったり、過剰に意識してしまったりする。私たちはいま、特殊な状況下にある。人間全体をどうにかするというような『高等な議論』をすべきなんじゃないのかい?」
「それは」鼻息を荒くしつつ静かに答える。「俺にはとてもできんな」
「何故だ?」
「人間じゃない奴と今後の人間の処遇について議論するなんて、俺のプライドが許さないのさ!」
「そんなプライドは」牛頭は小さくため息をついた。「捨ててしまえよ。義理人情も捨てるべきだ。だいいち、あの神にすらプライドがないのに、どうして人間はプライドだなんだとしきりに騒ぐんだ?」
「神にプライドがないなんて、あんたがどうして知っている」
「その神を知っているからさ。永遠に変わらないもの、変わるはずのないもの、なおかつ変わり続けるもの、変わらずにいるはずのないもの」
「その神はどこにいるんだね」
「ははは、君の後ろにでもいるんじゃないか。よく周りを見てごらん」パワーは禿頭の方を向いていった。「さて、そろそろ時間だ。君がそのつまらないプライドを捨て去ったら、教えてくれたまえ、また会いに来るから」
「時間? 時間ならまだまだ、たっぷりあるぞ。ほら……」そう言いかけて、彼は時間のことを考えようとした。しかしなぜかそのことについて思考の触手が伸びていかないのである。
「おかしいな? これじゃ、まるで」
「夢……」
目を覚ました時、はじめに認めたのは少女、ケルビムだった。愉快そうに微笑している。
「ずいぶんお休みでしたわよ。疲れていらっしゃったのね」
先ほどまでの一切が夢とわかっても、なぜか居心地が悪かった。
「原稿を読んでいたら、いつのまにか……」と言い訳がましく言った。
「よい夢は見られましたこと?」
「ハラヒレホロヒレ。なんだか、妙な夢だった」
*
Aの遺したノートがあんまり訳のわからない内容だったので、読んでいるうちに頭が痛くなってきた。少しクールダウンするために外へ出る。まあ、外の方がむし暑いんだが……。
霧深いなかを、適当にうろつく。そういえば、駅の方とか、今はどうなってるんだ? ちょっくら行ってみるか。
広い通りをしばらく歩くと、公園が見えてくる。俺と小松が会った公園だ。その近くには以前、中規模のデパートが建っていて、俺もたまに使っていた。でも、(今回の騒ぎの前に)もう閉店した。今はもう何もない、ぽっかり空いた更地だ。今度はその跡に複合商業施設とかいうのが造られるらしい。フクゴウショウギョウシセツ? けったいな呼び方だ。
その跡地を左にみながらゆくと、公園の終わるところに交差点がある。歩行者信号が青のとき「パッポー・パパポー」とか「チュンチュン」とか鳴くタイプのやつだ。
そこを渡れば繁華街。オキニのラーメン屋、新しい古着屋、古い古本屋、普通のコンビニ、しゃれた美容室、困ったときの質屋、とか、ごたっと、いろいろある。賑やかな時は、イカした兄ちゃんやら姉ちゃんがブイブイしわしてたが、いまじゃ誰も歩いてない。特にイカした人種にシンパシーがあるわけじゃないが、なんだか寂しい気もする。
長い繁華街を過ぎて、駅への道に入るんだが、なぜだかここら一帯は狭く、ごちゃっとしていて、なんともイカガワシイ雰囲気になっている。流しやら、ホームレスなんかも多い。たまにここらで百円の「お古」の週刊誌を買うぜ。といっても、やっぱりここも、いまは人っ子一人いないけどな……。
で、そこを通り抜ければ駅だ。最近改築したばかりで、けっこう近代的な、魚みたいな形のつくりになっている。大手百貨店が近接していたりして、なかなか利用者は多い。本当ならナ。いまはそこかしこガランとしていて、霧の中で魚がむなしくくたばってるって感じだ。
駅に着いた俺は、階段を上って、構内をのぞいてみる。案の定、「全車両運行停止中。運転再開の目途は立っておりません」の看板。まあ、そうだろうと思ったけど、これじゃあ、いったいどうやっていまの世の中回ってるんだ? 細かいことはどうでもいいか、気にしない、気にしない。
さて、駅の様子も見たし、やることもなくなったぞ。どうするか?
そういえば、さっき来た道、交差点の角に、知り合いのやってる画廊があったな。のぞいてみるか?
画商といっても、怪しいもんだった。最初は絵描き志望で、美大を出て、数年間外国で修行して、勇んで帰ってきたが、まったく絵は評価されず、おまけに身内の不幸が続き、とうとう画商の道へ。ところが絵を見る目はからっきしで、変な絵をつかまされては大損、でかい借金をこしらえるしまつ。数年前、俺がとあるバーで出会ったとき、やつはそんなひどい状況に陥っていた。泣きながら愚痴を言う鳥川――そいつの名前だ――に俺はこう助言してやった。
「俺のきいた話じゃあ、なんでも、そういう絵とかなんとか価値のうつろいやすいもんを扱う店は、繁華街の近くの四つ辻に出すといいとよ。まあ、聞いた話だけどな」
「へえ、本当ですか? 知らなかった。たしかに今の店は、袋小路にあって、なかなか人が来ないんですよね。そうですね、きっと店の位置が悪いんでしょう。よし! 画廊の場所を変えます。ぜひあなたも来てください、新しい店に」
「ああ、きっとお邪魔するよ」
結局それから一か月後、俺のところへ便りが来た。鳥川からだった。ああそういえば、別れ際に名刺を交換したなと思いつつ、読んでみると本当に四つ辻に画廊を移転したとのこと。俺は喜んでいいのやら悲しんでいいのやらわからなかった。だって酒の席での話は、ほとんどデタラメだったからな。あっちも冗談で受けているのかと思っていたんだ。
画廊は当然、新しくて清潔だった。ピカピカの店内に入ると、妙な匂いがした。
「これ、なんの匂い」
「来てくださる方の気分を和らげるために、アロマを焚いているんです。いい香りでしょう」
「絵に匂いがつくんじゃないか?」
「それは考えていませんでしたね」
店の一番目立つところにあったのは「孤高の石」という作品で、白くて一面にぶつぶつ穴のあいた石がでっかく描かれていた。
「おそらく石と意志をかけてるんじゃないか」
「さすがお目が高い。そうです、石と意志……素晴らしいでしょう」
「これはいくらなの」
「これくらいで」
「あっそう」
東側の壁には、「木曜日の淑女」というあっさりした水彩画が架けられていた。これはまあまあ、少なくとも「孤高の石」よりは理解できた。
「これは誰が描いたの」
「わかりません。作者不詳です」
「なんで買ったんだ」
「この印象派とロマン派のアイノコみたいな感じがたまらないでしょう」
「そういうものかね」
西側の壁で一番気になったのは、「冬」という絵だった。白、青、そしてほのかな黄色、それとなく冬っぽい色で構成された、ぼんやりとした抽象画。
「これの作者はなんて言うの」
「笹村貞吉さんです。御年八九歳の抽象画の大家です」
「なかなかいい感じがするな。抽象画なのに意味が伝わるというか」
「そこが気に入らないんですよね」
「え?」
「抽象画なのに、なんとなくでもメッセージ性をもってしまう。そういうのって、本当の抽象画とは言わない感じがするんですよ。ああ、「孤高の石」なんかは違いますよ。はっきりとした具象画ですから。「木曜日の淑女」も、曖昧ですが、まあいいでしょう。問題は、この作品のように、せっかく事物の形から自由になっておきながら、その表そうとしていることが読み取れてしまうもの、もっといえば作者の意図が見え透いてしまうものです。これはもったいない。非常に惜しいことです。だってそう思いませんか、木安さん? 現実に形があるから意味を持っているんです、それを、現実から自由にした形のないものに意味を持たせるというのは、明らかな矛盾ではないですか?」
俺はこんな質問をされるとは思ってなかったから、少しうろたえたが、
「さあ、どうかな。でも、世の中には、形のないものに形を与えて、それに意味を与えようとする人種もいるんじゃないか」
「たとえば?」
「文筆家とか」
「文筆家! もっとも唾棄すべき人種ですよ。あいつらが適当な観念だとか精神だとか道徳だとかもちだすから、絵描きもそれに呼応して作品なんか描くじゃないですか、そのひどいことときたら! ああ、その「冬」も、笹村さんがあの古典的名作とやらを読んでインスピレーションを受けた作品らしいですよ」
鳥川はそこで有名な(俺でも知っている)ある人物の名作といわれる作品の名前を口にした。
「意味が付いちゃっていますよね、作品に。だめですよそんなのは。むしろ「孤高の石」の方が素晴らしい。くだらない洒落ですが」
「あ、やっぱりくだらないんだ」俺はついついそう言った。
「ええ、でも芸術的にくだらないですからね! いいんですよ、そういうのは。芸術的にくだらない、そういう新しい価値を、作品に付与する、それが画商の真の使命だとは思いませんか」
なんだか、「芸術的」「新しい価値」「真の使命」といった言葉に気圧されてしまった俺は、適当に答える。
「そうやって考えてみると、鳥川さんも作品に意味を付与してないか。だって、価値って意味ってことだろ。なんの意味もないものに価値は存在しないよな、普通」
「なんの意味もないものにこそ価値があるという言葉が……」
「でもさ、それ言った人は絶対に価値を信じてないよね、意味のないものの。価値があると思っていたら、意味がないなんてわざわざ言わないだろ」
鳥川は、首をかしげてちょっと考えた。考えないでくれ、こっちはあんたを煙に巻こうと思ってるんだから!
「とにかく、僕の言いたいのは」とやっと口を開き、「作品の価値よりも、作品を見る人の価値観を変えたい、ということなんです。純粋な作品の価値なんて誰にもわかりません。でも鑑賞者の価値観というものは明らかにそこに存在する。僕はこれを転覆させたいんです。そして道端の石ころを美しいと思う人々を少しでも増やしたい」
「石ころを美しく、か! 名言だね。覚えておくかな」
そのあとは、鳥川の描いた絵なんかも見せてもらった。たしかに、俺のような凡人には理解できない、「意味のない」抽象画だった。あんまり訳がわからなくて、夢に出てきそうだ。
ところで、やっぱり画廊は閉まっていた。人のいる気配もない。捜査の行き詰っているときは、気分転換が必要だ。鳥川みたいな面白い人間に会えないのは残念だが、しかたない。扉の隙間に名刺を差し込んどいた。
第六章
街はそこらじゅう泥びたしだった。盥屋と宮田は軽快に小走りしながらそんな街中を進んだ。奇妙なことに彼らの服がはねた泥で汚れることはなかった。
「宮田、なんだか楽しみじゃないか?」と盥屋が言った。
「ああ、楽しみだ! ひどくわくわくするよ」と宮田が答えた。
「ところで提案なんだが、この一連の茶番が終わったら、一緒にジムノペディを聴こうじゃないか」
「へへへ、盥屋さん、お誘いありがとう! たいそう珍しいことで……そうだな、なにもかも終わったら、ゆっくり変人のつくった名曲を聴くのもいいな」
「グノシエンヌも」
「なんだいそれは?」
「曲名さ。私はそっちのほうが好きなんだ」
「オーケー、じゃあそっちも聴こう……」
神は役場の焼け跡で悪魔たちを待っていた。不安だった。冷たい風が吹いた。長い時間が経った。それともほんの一瞬のことだったか。
二人がやってきた。
盥屋が神の前に立った。
「お久しぶりです、神よ。再び会えたことをうれしく思います」
「やあ、盥屋。少し背が伸びたかな?」
「そう見えますか」
神はそれには答えず、盥屋の隣でにやついている宮田に言った。
「停戦協定は破棄されたのかい?」
「そんなものは結んでないな」
「確かに、そうだったな。いきなりいなくなったと思ったら、今度は何の用だ?」
「お礼を言いに来たのですよ」と盥屋が言った。
「それならもう十分だ」
「いや、まだ言い足りてないね」と宮田。
「お前たちを創ったのは私だ」神は自分に言い聞かせるように語り始めた。「だが、君たちには感謝されたくはない。なぜなら、創った私が創ったことを後悔しているからだ。もちろん、君たちが本当に感謝する気はない、どころか私を憎悪していることもわかっている。だからこそ聞いてくれ、君たちは自由だ。感謝することも憎悪することもできる。だからこそ私などにかかわらないでくれ」神は叫んだ。「放っておいてくれ!」
「では何のために我々はここまであなたを追いかけてきたのです? まるで馬鹿な話じゃありませんか」
「馬鹿なのは私だった!」
神はその場に這いつくばった。
「君たちを勝手に創って、勝手に逃げてしまった。君たちは被造物であり、被害者だ。創造行為の害悪を、私は知らなかった」
「三文売文業だかなんだか知らないがね……」宮田は愉快気に神をなじった。「いい加減なことしてくれると、困るんだよ! このトンチキ!」
「彼をいたぶるのはよしたまえ」盥屋は静かに言った。「彼はもう神ではないし、我々は自由なのだから。そもそも、確かに我々は彼のおかげでこうしてここに存在している。そのことだけでも考慮してやらなくては」
Aは涙でぐしょぐしょに濡れた顔を上げた。
「なんだ、私はなにをしている?」
「なにって、謝ってるんだろ。自分で分からないのか」宮田がいぶかしげに言った。
「盥屋、お前なにをしたんだ」
「なにって、ただ念じただけですよ、あなたが我々にひれ伏して、懺悔するようにね」
「念じた?」
「意志の力ですよ」盥屋はつまらなそうに呟いた。
「この野郎!」
Aは盥屋に殴りかかったが、たちまち宮田がその間に入ってAの腕をひねりあげた。宮田は「暴力反対!」と言うとAの額を指で弾いた。Aはその場にしりもちをついた。
「……マネージャー君はどこだ」Aはそのままうつむき、低い声で訊ねた。
「さあ。知っているか宮田」
「そういえば、はぐれちまったな」宮田は興味なさげに答える。
「この野郎!」
Aは宮田に殴りかかった。が、盥屋が「停まれ」と命じると振り上げた手をピタリと停め、そのまま動かなくなった。
「意志の力ってやつか?」宮田はゲタゲタ笑い出した。
「この作家は意志薄弱なんだね」盥屋もまんざらではないようだった。
「この野郎!」
Aはそう言うと自分を拳骨で殴り始めた。鈍い音が響いた。
「これはお前の指図か? それとも自分に腹を立てているのか?」
「さあ、どっちかな」
「ところで、なんでここまで来たんだっけか?」
「これのためさ」
そう言った盥屋の手には、白い羽が握られていた。
「なんだ、それは?」
「天使の羽」
「天使なんているわけないだろう」宮田はふたたびゲタゲタ笑い出した。「この世界はみんな嘘っぱちさ!」
「そうだ、嘘っぱちに違いない。では終わらせてしまおう」
盥屋は役場の焼け跡の方に歩いてゆき、なにかを探し始めた。
「さすがにないか」
「なにを探しているんだ?」
「紙さ」
「神?」
「そう、紙。書くための……」
「なんだ紙か。ほら、ここにあるぜ。やるよ」
そう言うと宮田はポケットを探り始めた。
「そういえば、紙なら私も持っていたな」
そう言った盥屋が懐から取り出したのは、『僕たちのなにげない愛の終わり』という本だった。しかしすでに声に出して読んだことを思い出し、再び懐にしまった。
「あった!」
宮田は様々なゴミくずを落としながら、一冊のノートをポケットから取り出した。
「ほらよ」
盥屋はノートを受け取ると、何の気なしに繰(く)っていたが、やがてほんの少しの笑みを漏らした。
「宮田、これはなんだい? 詩人・宮田の傑作が収録されているじゃないか。どれどれ……」
「いけねえ! 破り捨てるのを忘れてたぜ。いったん返してくれ」
「ほら、どうぞ。……しかしせっかくだから、いま読んでくれよ」
宮田はノートを受け取りながら、苦い顔をしたが、一瞬かんがえて、
「まあせっかくだし、いいか。こいつへの鎮魂歌(レクイエム)だ」と言ってAを見た。
Aはいまやぐったりと地面に横たわっていた。それは呑気に寝そべっているようにも見えたし、病に伏せっているようにも思えた。
「じゃあ、いくぜ……」
宮田は大きく咳払いをした後、すこし濁ってはいるがおおむね聞き取りやすいバリトンでノートの文字を読み始めた。
稲妻が指先によぎる
インクを透して紙を焼く
焦げた紙の上の跡を
失われた木霊として聞く
やがて時が経ちまた
雷の日が訪れたなら
忘却を忘却し
泥の中から再び
許された余韻が
姿を顕わす
乙女の花冠に祝福を
道を厳かに けれど優しく
彼女らは歩み来たる
神秘の小道から踏み入れた深い森を
「聞こえるか
その声の声が言祝ぐ静かで賢しき声が」
大地の底から
どよめく霊たちが
なべて圧し上がってくる
果てし無い夢のまどろみを
泡立つぶどう酒の酔いを
覚まし来たる
現れたのだ 時は
果てから来て果てを知らぬ者たちよ
そして先に先に先に行くことで
後に後に後になってゆく
大地と天の結婚は遠く
永遠の未だ成され得ぬ
遁走の喜劇 友情よ
願わくば共に この
神々の演じる宴を
ほほ笑みながら
うち興じようではないか
砂漠から生き伸びた
蝶よ その弱々しくも
気高い羽で 俺たち
の乾いた泉を
あおいでくれ たちまち
穴は豊かに満ち
すがすがしい冷気が
山のあなたから吹き
降りる その時
蝶よ お前が静かに
休める場所を俺の
影に見い出して
くれたなら……
また万象は廻り出す
「しかしそれにしても、君はいい声をしているんだね。よし、五点をあげよう」と盥屋は無表情で言った。
「何点満点中の話だよ? しかしまァ、恥ずかしいけど、いい弔いにはなったぜ!」
「これは神へささげた詩なのかい?」
「それは読者の解釈にゆだねる」
「そういった態度は無責任じゃないかね?……まあ、とにかく」盥屋はため息を吐いて言った。「これで本格的にお仕舞だな。もうひと踏ん張りだ」
宮田からふたたびノートを受け取ると、彼は羽の先っちょを舌で湿らせ、紙の上に滑らせた。蚯蚓のような文字が躍ったが、なにか気に入らないのか顔をしかめた彼が、フッと息を吹きかけると、それはあっという間に吹き飛んでしまった。吹き飛ばされた文字はしばらく虚空を舞っていたが、冷たい風が吹いてそれを遥か彼方へと運び去ってしまった。
「ちょっと、手伝ってくれないかね」
「なんだ?」
「君の文才を見込んで頼みがある。ある小説の序文を書いてほしい。私には難しくて」
「唐突な話だな! なんていう小説だ?」
「……もちろん、『ヴェクサシオン』さ」
宮田はきょとんとした顔を見せたが、すぐさまにやりと笑った。
「くくく、どういうことだ?」
「ふふふ、私はずっと考えていたんだよ、どうすれば、彼を超えられるか、ケリをつけられるか。そこで思いついた、書いてしまえばいいんだ! 『ヴェクサシオン』を。簡単なことさ。我々が我々にふさわしい小説を書いて、何が悪い? いいじゃないか、作中人物が作品を書いたって? いや、むしろ珍しいことではない、書くべきだ。我々の手で、我々なりのロマンを書こうじゃないか」
「考えてみればもっともな話だな!」宮田は答えた。「何もかも嘘、ということになれば俺たちだって自由になれるというわけだ。でも、こんな中途半端に終わらせちまったら読者が消化不良を起こすんじゃないか?」
「『ヴェクサシオン』に読者はいない!」盥屋は笑いながら叫んだ。「これは我々だけの話じゃないか。第一、読者がいたとして、ここまで読んでいる人なんていないさ」
「まあ、それもそうか!」
「さあ、書いてくれたまえ!」
宮田はしばらく思案した後、ノートに宮田流の『ヴェクサシオン』を書き始めた。それはこういうふうにはじまった。
指窮於爲薪 火傳也 不知其盡也
指を薪と為すこと窮むれば、火傳わりて、その盡くるを知らざるなり。
(火が消えそうなときは)その指先を火に近づければ、火は伝わって、消えることがない。
――――荘子
「なんだね、その文句は」
「さあ? 意味は読むやつの間でも意見が分かれているらしいぜ」
宮田はつづけて書き進める。
ようこそ、『ヴェクサシオン』の世界へ。
さっそくで悪いのだが、まずは、私の独り言を聴いてはくれないだろうか? なんだって? 時間がない? いや、ほんの少しの間だけで構わない。たぶん、五分とかからないさ。けして〝お暇な読者よ〝――なんてことは言わない。今は、そういう時代だ。
「いいぞ、その調子だ。インスピレーションだぞ」
「なかなか楽しいもんだな」
「どんな話だったっけか」
「たしか、こんな話だぜ」
高い本棚に囲まれた、せせこましい書斎。住人の無精のあらわれか、部屋にはものが散らかっている。南向きの大きな机があり、いろいろなものに囲まれて、一台のノートパソコンが置かれている。その前には一人の男が座っていた。
これといって特徴のない男だった。かといって影が薄いということもなかったが、人に形容しがたい印象を与えた。
けして不気味な印象ではなく、かといって愉快な雰囲気を醸しているわけでもない。中肉中背、理髪店に行って「おまかせします」と注文したような髪型、貝殻のように丸い耳、ぎょろぎょろした目玉、少しばかり聡明そうな瞳、本人は形が良いと思い込んでいるが、実際のところなんの変哲もない鼻、そして本人は下品だと思い込んでいるが、人には顔の部分でもっとも上品な印象を与える薄く血色のいい唇、全体としてなにか統一した主張が感じられるわけでもなく、かといって不揃いの、ちぐはぐな印象を受けるわけでもない。
彼は先ほどからパソコンのキーを叩いて、一編の小説を書きつつある。
彼は不愉快だった。スマホの振動がここ三分ほど止まない。
相手はわかっている。うんざりした。諦めてくれればいいと思っている。
「はい、もしもし」
しぶしぶ耳にあてると、思った通りの快活なテノールが返ってきた。
「只今留守にしております。用件のある方は……」
「用件なんてない。きるぞ」
「いやいや、冗談にきまってるじゃないか」
「ジャイナ教徒も冗談を言うのか」
「俺は心のジャイナ教徒だよ。ただ、憧れてるだけだ」
「また、遊ぼうっていうのか。巷には感染症が蔓延してるんだぞ」
「まだ、小説を書いてるのか? いいかげん、完成させろよ」
今書きだしたところだ、と言うと、相手は笑った。
「公園でおちあおう」
友人の浦島と会うため、道行くマスクの間をすり抜けて、宮田は公園へと向った。
令和になったんだなあ、と宮田は考えた。平成が終わるなんて信じられなかったよ。感染症が世界中で蔓延してはじめて、平成が終わったことを実感した。不意に目前に令和なる時代が来たのだ。令和なる時代が来てもピンとこなかったが、令和はすべてを一変させてしきりに鈍感な宮田の気を引いてくるのだ。
公園には裸の桜が寒そうに震えていた。なぜ日本人はこんな植物を好きになるのだろう、と宮田はあらためて疑問に思った。恐らく情緒的なものだから、誰も論理的には答えられないだろう。でも裸の桜の枝や幹や根は、やっぱり論理そのものじゃないか。散る花にも理由があるはずで、それを単なる情緒だと想う発想は宮田にない。桜が好きかと問われれば、気まぐれな宮田の答えは八割がたノーだった。
浦島は先にベンチに待っていた。
「寒いな。家に帰ろう」
「帰ろうったってどうせ俺の家だろ」
「そうそう、お前からみて帰るってことになるだろう」
公園までは徒歩で二十分あるから、また部屋を暖めなおすのには時間がかかった。
面白い小説を書けよ、と浦島が親のような微笑で宮田を鼓舞した。宮田は俺に彼女がいれば、と心の中で口惜しく思った。こんな無責任な応援は甘んじて受けなんだ。
「芥川龍之介のような小説を書け」
「無理だよ。お前が書けよ」
「人間、失格」
「それは違う作家だよ……」
テレビをつけると、大統領選挙の結果が出ていた。民主党の代表が勝ったらしい。大統領も交代だ。
「おめえはクビだ!」
浦島は渋い顔をして宮田を指した。軽薄さは本物より上だった。いや、本物も間近で見たことがないから、本当に軽薄かどうかはわからない。人がそういっているのを聞いただけだ。
「今日、書きだしたのか? 前から書いてなかったか?」
「前のはボツだ。これから新しく書き直すんだ」
「俺たちを待っている時間は有限だぞ」
宮田は浦島の方を見た。テレビにくぎ付けになっている。
「桜の花はまた咲くぞ。時間は無限だよ」
宮田は心にもなく言った。
「二度と咲かない花もあるさ。二度と咲かない花の咲く年もあるのさ」
演歌調で答える浦島に、宮田は興味を持った。
「でもジャイナ教の世界観では、時間は循環し続けるんだろ」
「でっかく見ればな。小さく見れば一瞬一瞬に終わりがあるってもんじゃあねえか」
歌舞伎かなにかのマネゴトを始めた相手をみて、宮田は落胆した。
そのとき、不意に浦島の脳裏に黙示録的なビジョンが到来した。
「スベテノ花ハ咲カズ、二度ト咲クコトモナイ」
浦島は思った。俺の天才的な思い付きは、いったい誰が俺にくれるんだ? だがそれ以上には思い至らなかった。
浦島はけして愚鈍で軽薄な男ではない。これは浦島の持論だ。そもそも、すべての人間は何らかの概念で形容できるような代物ではない。そこには、様々な、あらゆる視点があるだけだ。
宮田は浦島のそんな考えを「ジャイナ教的」と評したことがある。浦島の多面的な見方をのみみて、そう言ったのだが、はたして彼はそれを鵜呑みにして、「心のジャイナ教徒」と自称するようになった。彼はジャイナ教についての書籍を読んだり、ネットで調べては、狭い部屋でひとり感心している。彼にとって初めての体系だった思想だったのである。
対して、宮田には核となる思想がなかった。思想のようなものさえなかった。思考することはしたが、それが何らかの形となって現れたり、例えば聖書などを読んで雷に打たれたような錯覚を覚えることも無かった。ものごとについて感動する力は平々凡々そのものだった。そういう点で彼は友人たちを尊敬していた。よくも臆面もなく感動できるものだ。そうやすやすと、寛大に。
「二度と咲かない花もある、か。その通りだ。俺の花は二度と咲かない」
「一度モ咲カナイヨ」
一度くらいは咲くだろう、と宮田は呑気に考えた。
テレビでは、大統領選に勝利した代表が現職を感染症のことで批判していた。速やかな政権移行が無ければ感染症による死者が増えてしまうということだった。
「多面的に見て、大統領は誰なんだ」
浦島はしばらく考えていたが、何も言わなかった。テレビを見ながらアメリカの国家を鼻歌でうたっていた。代わりに関係のない事を言った。
「小説のタネとネタは同じか、違うか?」
「タネは執筆のきっかけになるヒントだろ。ネタは肉付けのための要素さ」
「小説書くんだから、もっと小説的なことを言えよ」
「お前はどう思うんだよ」
「俺が読んだ本にはな、こう書いてあった。小説では、タネとネタは違う。違う上に、反発し合ってる。それで、小説というのはその反発の繰り返しなんだ。絶対に解決しないのさ」
「終わんねえじゃねえか」
「終わるだろ。俺たちに残された時間は有限なんだから」
「俺に小説を書く時間はあるのか?」
最高に面白い小説を書けよ、と言って浦島は微笑した。終わりなんてどうでもいいじゃねえか。どっちにしろ終わるんだからよ。
「何が終わるんだよ。どっちにしろ、ケリをつける必要はあるだろ」
浦島はテレビから目を離さず、牛のような返事をした。あるいは蛙のようだったかもしれない。牛蛙かもしれない。だとしたらやはり蛙だ。蛙牛というと、字面だけみれば蝸牛に似ている。ちょうど、テレビの向こうの窓ガラスにカタツムリが這っているのが見える。裏側からのぞく形になっているから、殻の渦巻は見えない。
「終わりが見えないような、絶望的な小説を書けよ」
と宮田は浦島に言った。
「え、俺が?」
「ジャイナ教徒だろ、輪廻の軛を衆生に知らしめろよ」
「どういう意味だ。どうせ窓のカタツムリの渦巻を見て連想したんだろ?」
「こっちからじゃ渦巻は見えねえよ。外からなら見えるだろうけど」
「外に出て確かめろよ。渦巻なんてないから」
「お前、ジャイナ教徒じゃないのかよ」
「いや、心のジャイナ教徒だよ。カタツムリ教じゃねえよ。カタツムリ教だとしても、渦巻は何物をも表してねえよ。これは輪廻、これは輪廻じゃねえってことはねえよ」
「どういうことだよ」
「知らねえよ。そろそろスマホが震えるぞ」
はたして本当に震えた。
「よくわかったな」
「はい、もしもし」
あわてて耳にあてると、予想外の快活なテノールが返ってきた。
「只今留守にしております。用件のある方は……」
「これが輪廻か!」
恥ずかしさと混乱で、宮田はゲラゲラと笑い出した。浦島はその前から笑っていた。……
「こんな話だったっけか」
さて、そのうちに盥屋も執筆にくわわった。
こうして二人は『ヴェクサシオン』を書いていった。そしてとうとう二人が神をやっつけた段になり、彼らは先ほどまでの出来事を細大漏らさず記述していった。
そして、小説はまさにこの時点まで来た。
「いいぞ、その調子だ。インスピレーションが大事だぞ」
「なかなか楽しいもんだなァ」
「古典調でやってみよう」
「ほいきた」
やうこそ『ヴェクサシオン』の世界へ。
さつそくで悪ひが、まづ私の独り言を聴ひては呉れないだらうか。何、「時間がない」と。いやほんの少しの間だけで構はぬ。多分五分とはかかるまい。セルヴァンテスの如く「お暇な読者諸君」なんといふことは言はぬ。さういふ時代に吾吾が住まうてゐることは百も承知である。
其れはさうと、私は今可笑しい事を言うてそのうへ諸君に求めてゐる。「独り言を聴ひて呉れ」これは明かな矛盾、少なくとも言葉として酷いほど矛盾してゐはすまいか。いや吾が孤独を嘲笑ひたければ好きにして呉れ給へ。さうぢやなくてこの命題自体の矛盾である。さうさう。此れこそ私の究極にして最終の苦悶である。
常に私の頭からかういふ難問が離れぬ。
――何故人間は矛盾を絶えず生み出すのであらうか。言葉にせよ行為にせよ。……
蓋しかやうな問いこそ當に此の小説の主題となる。
此の世界には確かに「夢ごこちにさせる程退屈な交響楽」があり「胸のすく程下手な肖像画」が在る。併し乍ら言葉は論理といふ骨格をもち、論理は原理として矛盾を許さぬ。詰まり「魅して離さぬ支離滅裂なる珍小説」など決して決して在り得ぬ。断じて不可能である。
併し、在り得ぬと言ふ其の唯一点一事に情念の薪をくべ摩擦力で以て炎と成し、全天を覆ふ狼煙を揚げるのみが前へ前へ進みゆく我我の発展を引導する。人類の悲願とは竟に「全き矛盾」つまり「超矛盾せる超矛盾」を自ら作り仕上る事唯一点に盡きる。
成る程「神神しき不気味さ」だ「明証せらるる意味不肖」だとかいふ概念を浮かび揚がらすには莫大な苦悩の時と非常な労力が要る。此の愚かな試みに読者がさうしたやうな矛盾せる重みを受け抱くかは知らぬ。解きほごすのは諸君のはうであるから。
愚かではあらう。が併し「無理無体に対し突き進みゆく蛮行」を矛盾とは言へぬ。矛盾とは盾に突き進む矛の荒荒しき靈である。人間の荒廃する歴史は全て盾にうち負けて来た屍の山である。次こそ次こそはと肉と靈はそこに己を賭けて猛進する。堕落せる皮肉屋も達観せる覚者もそこのけ。蓋し彼ら勝利せるはやがて敗者なるべし。天より見下ろすも深淵より見上ぐも片手落ちの相を呈すべし。なんとなれば矛盾を創り上げる魔の工場は地上にのみ立つ。
無限の瞳が未だ為さざる吾吾を宇宙より眼差す。
――人類、何程の事やある。
畢竟この一大散文の主題は矛盾其れ自体であり矛盾せる主題である。錯綜、奇妙、破綻を孕み運行せる暗箱である。
黒笑と暗愚に充ちた筋立てと役者連の繰出さるる一大茶番劇たる事を約束し断つて置く。
理解せる読者は理解せられたし。無理解せる読者は其れも又或理解なり。
以上。賽は虚空に放たれぬ。
「いいぞ、その調子だ。インスピレーションが大事だぞ」
「なかなか楽しいもんだなァ」
「ところで、これはさっき拾った本なんだが、これを書き写そうぜ」
「ほいきた」
名はわざと省くが、ラ・マンチャのある村に、久しからぬ前、長押(なげし)の槍、古い楯、痩せ馬、狩りのための猟犬などを備えている紳士の一人が住んでいた。羊肉よりも牛肉の多いゴッタ煮、大方の晩は肉(にく)生菜(サラダ)、土曜日には屑肉、金曜日には扁豆(なたまめ)、日曜日には小鳩か何かの添え皿、これで所得の四分の三は使った。その余りは、安息日に似合わしい地の好い胴衣、天鵞絨のズボン、靴となった。そしてただの日には、一番よい地織りもので豪気な風をした。家には四十余りの家婢(ばあさん)と二十に届かぬ姪と、馬に荷駄をも積めば山刀(なた)をも振り、畑に出で市場に通う若者がおった。我がこの紳士の齢は五十歳になんなんとしていた。肉落ち面痩せはしていれど、体質は強壮で、すこぶる早起きでまた大の狩猟家であった。苗字はクィサーダであるとも、またクェサーダであるともいう。(これについては、このことを記している著者たちの間に多少意見の相違がある)もっともまた然るべき推測によれば、クィサーナと呼ばれたことが明白らしくもある。しかしこれはわれわれの物語りにほとんど要がない。物語りをするにあたって、髪毛(かみのけ)一筋も真実を逸れねばそれで十分であろう。
さて人々聞きたまえ、上に言う紳士は、いつも暇のあるときは(一年中大抵そうであったが)熱心に貪るように騎士道物語に読み耽って、野外遊猟の楽しみも、家産を治めることさえもほとんど顧みなくなったほどであった。はてはその熱心と惑溺とのあまり、騎士道物語の読み本を購うために多くのエーカーの耕地を売り払って、手に入る限りその類の書物を寄せ集めるにいたった。なかにも有名なシルヴァのフェリシアーノが仕組んだ物語ほど彼の好んだものはなかった。その文章の明晰と錯雑せる奇想とが、とりわけ読むうちに恋の睦言や口説に出っくわすと、彼の眼には真珠とも見えたからである。そこにはしばしば「わが理性を悩ましめたる理外の理は、いたくわが理性を弱めたれば、われ君が美貌をかこつも理なり。」とか、あるいはまた、「星辰をもって神々しくも君が神々しさを守る崇高なる上天は、君をして、君の偉大がまさに受くべきむくいを受くるに足るの人とこそならしむれ。」などいう文句を見いだした。このたぐいの奇想のためにこの気の毒な紳士は正気を失った。そしてそれを会得しその意味を探し出すためには、いつも夜の目も寝ずに苦心した。これ、たといアリストートルその人が、ただこのことのためばかりに甦ってきたとしても、とうてい解くことも探り出すことも出来ないことであった。彼はドン・ベリアーニスの負わせたり受けたりした手創については、まったく心を安んじなかった。彼を療治した外科医たちは名医でこそあったとはいえ、彼の顔と全身とは一面に創痕や縫い目をもって蔽われたに違いないと想われたからである。けれども、かの果てしない冒険を予約して物語を終っている作者のやりかたを彼は褒めた。そして幾度か自ら筆をとって、作者予約のままに物語りの終りを書こうという気になった。もしそれよりも大きな、それよりも心を奪う考えが彼を妨げなかったら、彼は必ずそれをなし遂げもし、また出来ばえのよい作を得たでもあったろう。
彼は村の牧師補(学者で、シグエンザで学位を受けた人)と、イギリス国のパルメリンとゴールのアマディスとは、どちらが優れた騎士であるかということについて、たびたび議論をした。しかし村の理髪師ニコラス親方はいつもこう言った。――どちらも「太陽の騎士」には叶わぬ。それに比べられる人があるとしたら、それはゴール族のアマディスの兄弟ドン・ガラオルだ。なぜといえば、ガラオルはどんな場合にもひるまぬ精神をもってある。そして服装をしゃれる騎士でもなければ、その兄弟のように涙もろくもない。ところで武勇の道にかけては、少しもその兄弟に引けは取らぬと。とにかく彼は読み本に凝って、夜は日の入りから日の出まで、昼は明け方から暮れ合いまで、一心に読み暮らした。こうしてろくろく睡らずにむやみに読んだため、頭は乾上ってしまって、とうとう正気を失うようになった。彼の空想は、読み本の中でいつも読む魔法、争闘、戦争、挑戦、負傷、言い寄り、恋、苦悩、その他あらゆる荒唐無稽のことで一杯になっていた。その空想に心を奪われて、彼が読んだ作りごとや空想の仕組みはことごとく真で、彼にとっては世界中のどの歴史でもこれほど事実に近いものはないのだと思いこんでいた。……
こうして二人は『ヴェクサシオン』を書いていった。そしてついにはこの場面となり、彼らは先ほどまでの出来事を細大漏らさず記述していった。まで書いた。と書いて、そのつづきを、書いた。と記している。と天使の羽は乾くことなくノートに紙魚を、ではなくて染みを、つけていく、この一連の作業は空白の無くなるまで続いていくであろう、いつまでも、どこまでも、だれかによって。
(数ページ空白)
そのページにはべったりとした紅い文字でこう書かれている。
『嘘』
*
これで終わりかね? この小説は。
――編集長がこちらを見ながら言った。そのまなざしからも、私の作品がひどく退屈に感じられたであろうことがわかる。……私は我にかえった。考えがまとまらず、うなだれていたら、いつの間にか眠ってしまい、夢を見ていたようだ。自分でこの場所に来ることを選んだにもかかわらず、私は自分がなぜここにいるのか見当もつかなかった。
「ええ、そうです。好きなように書いたのですが。どうですか」
――聞かなくても、答えはすでに知っていた。
「ボツだ。まったく話にならん」
「一生懸命書いたのですが」
「お前の頑張りと小説の出来と、何の関係がある」
――確かに。
「もういい、お前にはマネージャーをつける。さいきん入社した小僧だ。それでも、いるといないとじゃ大分ちがうだろう」
――もう、彼の言葉への興味は、失っていた。それほどの不安と焦燥に襲われていた。悪霊に取り付かれたかのように、ひどく風邪をこじらしてしまったときのように、あるいはひどく長くてつまらない推理小説を読んでいる最中のように、なんのためにこんな無駄な時間を過ごしているのか見当もつかず、私の意識は、部屋のすみの観葉植物のほうへむいていた。層をつくりながら中空へ細長く伸び絡み合っている、無数の瀕死の葉に目を向けていた。木製で古びてはいるが、案外にしっかりとしているうえ、細かく編み込まれた背と、座と一体になった毛布団が心地いい、ほとんど装飾のない茶色の四脚椅子に陣取って、ずいぶん長いことそうしている。ずいぶん長いこと? いや、そうかもしれない。時たま外の様子もうかがうのだが、窓からはけして美しいとはいえない、ぼんやりとした景色が広がっている。曖昧な輪郭線、子供が絵具で無邪気に塗りたくったかのような色彩……はたしてそうか? そうなのだろうか……。心を楽しませるものが何一つないような。そうだ、きっとそうだろう。
世界が果てしなく分割され、また、それらが余さず砂粒に刻印されたかのように思われる、長いながい時間が経ち、ついに、扉をノックする音が聞こえた。
トン
トン
トン 三回。
「どうぞ」
書斎に入ってきたのは気弱そうな青年だった。彼はおずおずと頭を下げたあと、意外と大きな声で言った。
「どうも初めまして、このたび先生……先生とお呼びしてよろしいですね? のマネージャーを務めることになったものです。よろしくお願いいたします」
——この青年が私のマネージャーか。こうして向き合い並んだ彼らは、はたから見ても十分に釣り合った外見をしていた。この様子を見て、二人が血を分けた兄弟であると思う者もいるだろう(もっとも、その場合、どちらが兄でどちらが弟かの判別はつけ難いだろうが)。……と同時に、なにか絶対に相容れない、お互いにお互いがその部分だけはどうしても受け入れがたい、そんな要素をもっていることも、二人の醸す雰囲気からどことなくうかがい知れるのだった。そうだったっけ。私は窓の外を見ていた。遠くとおく広がる風景。認識しきれない情報量。すこぶる不快で、すこぶる美しい自然……。
「先生の作品をいくつか読ませていただきました。とても興味深く、また面白く……」
――彼は熱っぽい口調で語る。しかしその顔を見ても、人の眼にはあまり昂奮しているようには感じられないところが、彼の性質らしかった。彼は明らかに変人と見做されるような口調で、常軌を逸したことを話している。だが彼の狂気は静かに、彼の内部に沈殿しているのだった。そんなやつだったか? 覚えていないな……。
覚えていない? では、これは、記憶か。
誰の? それは私の記憶以外にあり得ない。
私とは? 思い出せない。誰かではあるはずなのだが。
――そういえば、これといって特徴のない男である――かといって影が薄いということもない。何らかの印象は人に与える人物なのだが……いかんせんそれが「名状しがたい」のだ。
といっても不気味な印象でもなく、かといって底抜けに愉快な雰囲気を醸しているわけでもない。中肉中背、床屋に行って「おまかせします」と注文したような髪型、貝殻のように丸い耳、くりっとした目玉、そこそこ聡明そうな瞳、本人は形が良いと思い込んでいるが、実際のところなんの変哲もない鼻、そして本人は下品だと思い込んでいるが、人には顔の部分でもっとも上品な印象を与える薄く血色のいい唇、全体としてなにか統一した主張が感じられるわけでもなく、かといって不揃いの、ちぐはぐな印象を受けるわけでもない。
彼が先ほど書いていた小説……その中の登場人物たちなどに比べると、彼が虚構(フィクション)の人物ではなく、現実の存在だとということを鑑みても、やはりあまりにも目を引く魅力のようなところがないし、また「あまりにも平凡すぎて人の目をかわすことができる」ほどには個性に欠けていないところが、彼の最大の不幸かもしれなかった。
たとえば、鷹揚で社交的な人々からは「平凡人」扱いをされ、逆に目ざとく陰湿な連中からは「カモ」にされやすい、といったちょっとした悲劇も彼の風貌からは起こり得た。
もちろん、そうでない、彼にとって幸福な結果をもたらす可能性もなくはなかったが、(これは後で詳しく述べることだが)彼のこれまでの半生は全体として引算(マイナス)の方が多かったとも言えた。
と、そんなふうに書かれたこともあったっけ。書かれた? 誰に? なぜ? どうやって?
書かれたことはすべて正しい。ただしそれは浸食だ。
私も浸食しよう、書くことによって。ただしすべて正しいとは限らないが。
私は血をたっぷりと吸った八咫烏の羽根先でしずかに、しっかりと刻み始めた。
《私は薄れゆく意識の中で、いつのまにか右手で握りしめていた黒い羽根に気づいた。私は咄嗟にそれを左手の甲に突き立てた。鋭い痛みが襲った。羽根は私の血をぐんぐん吸い取って全体が真っ赤に染まった。私は這って二人の男のほうに近づき……二人の男はもうその場にいなかった。天使の羽根だけがノートの上をむなしく踊っていた。私は天使の羽根を血まみれの左手で握りつぶした。それから赤く染まった八咫烏の羽根でノートにこう書いた。『嘘』》
そうだ、私はそれでここにいるのだった。私はA。或る、しがない小説家……。
では、ここはどこだ? 『ヴェクサシオンの街』のはずだが……。
そうだ、書こう、街の様子を……。
《あたりは一面の焼け野原。遠景は泥の海。まるで世界の終わりと始まりが同時に存在するかのようだった。実際に、そうなのだろう。これは一つの「祭り」なのだろう》
実際に、そうなった。私を取り巻く風景は『私が書いた』風景。
あれから、いったいどれほどの時間が経ったのだろう?
時間が知りたい……。
《私は目を細めて、はるか遠くの山々を眺めた。それは見えないはずだったが、見ることができた。そして私は見た。山々を抜いて聳え立つ巨大な「塔」を……》
「『時計』が時を告げる時ですな」
「時計?」
「この世界の中心にあるという、巨大な時計です。その時が来れば、その『時計』が時を告げるのですな。もっとも、今度の『周期』は、少々長すぎるようじゃが……」
《私たちが最初に降り立った場所だ!》神は咄嗟に考えを巡らせた。
「ひょっとして、その時計は、いつも、大地に横たわっているのではありませんか?……まるで眠っているかのように」
「とんでもない! 伝説によると、それはもう立派に、天空にそそり立っているのでござるよ……わが街自慢の鐘塔しょうとうも比べ物にならないほど、長々と、しっかりと、まっすぐに」
あれこそが『時計』だ。私の目指すものだ。
あるいは幻かもしれない。いまだに時は大地に横たわっているのかもしれない。だが私には見えた。たしかに見えた。たしかに私は「見えた」と書いたのだ。けして嘘ではない。
あの場所に行かなくてはならない。
口笛を鳴らす音がした。振り向くと、熾天使がこちらをじっと見て立っていた。
「わたしの取り調べはすんだのか?」
「緊急事態だ。釈放の代わりに、あなたの手伝いをしろと言われた」
「そうか。それなら話は早い。私を乗せてあの『塔』まで行くんだ」
「『塔』か。わたしには、そんなもの見えないがね……まあいいか、乗りたまえ」
天使は後ろを向いて少しかがんだ。私は彼の背におぶさった。
『そして彼はたちまち大きな白い鷲になった。この鷲は私の言うことならなんでも聞くだろう。そして私はその巨躯を自在に操って見事「時計」までたどり着くだろう』
「こんな時に、なにをまあぶつぶつ言っているんだね? もう飛びたつよ」
私は彼に気にしないでくれ、と言い、彼は人間の姿のままゆっくりと羽ばたき始めた。
*
夢から覚めても、まだ夢は続いていた。感覚でそれはわかった。もしくは、感覚がそう思わせた。あるいは、目覚めるべき現実など予めなかった。
Aの目の前には、広い、荒涼とした大地がある。途方もなく大きな薄灰色の石、棺のような形をした石が確かな「物」の質量を持って荒れ果てた大地に自生していた。並びそびえ立つそれらは、点々と荒野に生え薄青い明かり――それがはたして太陽の光と呼べるのかはわからない――を受けて影なして在った。Aが試みに手を叩くと、ひびきは木霊して重なり合った。世界は眠っている。石石の群れは夜のように音を跳ね返し、やがて吸い消していくのだ。足元の草草をAは見た。雑草――名のない草草、しかしそれはいずれにせよ自分の頭の中の話だ――は少ない光を食みながら痩せてみずみずしく香っていた。腹が空けば、これらを摘み、噛み締め、苦しみを誤魔化すこともできるだろう。しかし、いずれにせよこの草草を名付けることはしなかった。棺のような石石の如く、やはり草草も彼の生命を吸い取ることで萌え出た夢の産物であるように思えたから。夢に名を付けるのは危ないことである。彼はかつてそうしすぎたのだ。世界が反転して別の可能性として走り始めた。覚めない夢、つまり現実から目覚めてしまい、眠る現実、つまり夢へと落ち込んだ。石は棺のようで、丸みを帯びてもいたが、全て彼の見方次第だった。あるいは人の形をしていてもおかしくはない。だがAはそれを人とは思わなかった。人と考えようとしても、馬鹿馬鹿しく感じてしまう。それは彼の内部にはっきりとした求める像が既にあるからだ。彼の内奥の網のようなものに、像はからまり残っていた。眠った現実の記憶、一人の人間の、かりそめの名をもった影をまだ宿している。
「Bを探さねば」
そう言うや否や、Aは恍惚とした一つのヴィジョンに襲われた――それは戦場だった。全てが全てに挑みかかり、血を流しあっていた。つまりそれこそが夢と現実の境目に他ならなかった。その二つは、永久に終わらない干渉を続けていた。あらゆる「物」が、意味が、異なる形状で息づいていた。それぞれがそれぞれのその異なりようを許さず、絶えず否定しようとしていた。だが同時に新たな物と意味の混ざりあいをその干渉は引き起こしていた。
声がする。
「私は恐るべき真実を発見した。我々が認識している世界というものは何か幻のようなものに過ぎず、かといって本当の世界というものもまた存在しないのだ。私は第一の真実よりも第二のそれを恐れる」
Aにはその声がある老作家のものに聞こえた。彼はAに忘れることのできない経験を残したが、その声は今、Aに向けられたものではなく、虚空に寂しく嘆いているように感じられた。
「考えてみれば、どうして幻と幻でないものが同じ世界に存在できよう? 幻があるとすれば、我々もまた幻なのだ」
そして声は弱まり、
「全ては靄のようなもの。空しいし、また空しい」
Aは消え入りそうな声に試みた。
「知性に見えるものも、細かく見ればまったく知的なものではない。なんにせよ細かく、細かく見ていけばあなたのように全てが空しく思えましょう」
声は応えた。
「はじめ、私は世界を細かく見た。そして空しさを発見し、それに対抗するため世界を大きく見た。そしてやはり空しさを感じたのだ」
「急がないでください。空想はすぐに原型をとどめなくなるもの。あなたは知りすぎた、と錯覚しているだけです」
「若者よ。ありがとう。だが異なる知識の質があるのであって、量が質の代わりをすることはあり得ないことを私は知っている。知りすぎたのではない、知っていることの意味が変わったのだ。突然、理由なく、銀行に預けた金がみな異国の通貨に変わってしまったかのように」
「それでも、相対的な価値は同じではありませんか」
「相対的な? 絶対も相対もない、意味の違いはほとんどない。どちらも在るなら、どちらもあり得ない」
老作家の声は、石石の間を反響しつつ抜けていく木霊に過ぎない。叩いた手は左右どちらが鳴ったにせよ、Aに記憶との戯れを強いた。
「私たちは現に存在しています」
Aは半分だけ嘘をついた。自分でも信じがたいことを言った。
「では、いまの戦場の幻は誰が見せた? 神か?」
「神が存在するのかはわかりませんが、恐らく超越的な何らかの要因で私が閃いたのだと思います」
「物と意味が固定されると、そこに低次の価値が生まれる。神はその最たるものだ。神を考えるとしたら、それは常に流動する力の元ではないかな」
「そうですね」
「では神は絶対にとらまえられず、同時に相対的な存在であることになる」
はい、とAは言って、寒気を感じた。
「それは物と意味を越えて、価値すらないものだ。同じように、世界は幻であり、空しい。私は真実に気づいた」
「あなたこそ、物と意味を固定しています。神がとらまえられないのなら、世界も空しいというのは、固定された低次の考えです。それなら、世界は空しくはなく、それゆえ神はとらまえられない、という言い方もできましょう」
声は笑った。
「君はそれを確かめに行くのだね、あの男に会う旅へ」
「そうです。私はBに会いに行く」
「よろしい。だが必ず、君はこういう結論に達する、すなわち『私は夢から覚めるべきだ』と」
「それは、私が死を試みるということでしょうか?」
声はすでにやんでおり、あたりは静寂につつまれていた。Aはもう一度手を叩いたが、響きは空しく反響して、そびえ立つ石石や大地に繁る草草に吸われ消えていった。
「私は旅の終わりに、死を試みることになるのだろうか?」
Aは心に問うてみた。心ははりつめた水面のように問いを反映し、幾重にも同心円上の波を立たせたが、やがてそれも遠く水平線上に消えていき、戻り来る答えはなかった。
点々と並び立つ石石の表面に刻まれた文字や絵図に気づき、また草草が多く繁り道になっていることを発見し、Aは道すがらの石を眺めながらBに会いに行くことを決めた。
「私はなぜあんなことを言ってしまったのだろうか?」Aは歩きながら考えていた。「なぜ、しばしば何の意味もないことを考えてしまうのだろう?」
だが、ほんの少し前まで自分がなにを考えていたのかすら、彼は思い出せないのだった。印象に残っているのは思考のざわざわとした感触、それは時に無上の栄光の感触と言い知れない不安の感触とを同時に内包していた。つまり彼は夢みるように考えていたのである。
「夢のように考えない人間が存在するのだろうか」彼にはそれが疑問だった。「現実的な・まっとうな意見を述べる人々は、夢と現実を区別している。夢と現実を区別するのは、当然の義務だという。そしてその根拠の一つに、夢と現実の記憶の強度をもちだすのだ。つまりよく覚えている方が現実で、よく思い出せないのが夢だと! なるほど確かに素朴な実感に即した、比較的反論の少なそうな意見だ。だがこうも考えられるだろう――我々は現実の記憶を忘れることと、夢の記憶を覚えておくこと、この二つを怠っているだけなのではないかと。だからこうもこういえまいか――実際には、そこに二種類以上の夢があるだけであり、現状として、人間はいまだ現実めいた厄介な夢の一つから目覚めていないだけなのではないかと。吸着力の強い夢、とでも呼ぼうか――観ている者を誑かし、そこから離さない一つの夢――そこに我々は寝起きしているというわけだ」
どこからか、やさしげな歌が聞こえてきた。竪琴の調べにのった、澄んだ中性的な歌声だった。何らかの言語によって歌われているとみえたが、Aにはその詩の意味は解らなかった。
「それにしても、今の私に残るのは、後悔だけだ」彼は歌にさして興味を示すこともなく考え続けた。「あの歌のように意味のない、意味も解らない小言をぶつぶつと呟いているだけだ! そこらに転がっている石、彼らの方が黙っているぶんだけたちが良い。少なくとも、その呟きは私には聞こえない。私は読書が好きだった。書物が好きだった。まだ自分が空っぽだったころ。書物はなにも語らず、私の耳にはなにも聞こえなかった。だが言葉ではないものが、私の中に生まれ活動した! 私はそんな静かな時間を愛した。もっとも幸福な時間だった。しかしそれも永くは続かなかった。私の内部に誰か滔々と語りだすものが生まれた。やせた批判者。言うまでもない、大人びた私の自我めいたものだ。なにかを読むたび、なにかを語りだす。それは書物ではなく、私だった。私に聞こえるようにそれは話す。それからは読書も苦痛になり、大嫌いになってしまった。やせた批判者! 忌々しい、縊り殺したいやつ。だがそうすることは今の私にはできない。そう、まさにこの語っている私こそがそいつだからだ。書物が、読書が私をつくったのか? それはわからない。だが私が生まれて、書物の声が聞こえるようになったとき――真実をいえばそれは私のおしゃべりに過ぎない――私はあの静かな時間を恐れるようになった。私自身が滔々と語りだすから」
歌声は進む先の一つの石から聞こえてくるのだった。そしてそれは甘美な歌声だった。Aはそれに気づき、顔をしかめた。
「石すらもここでは歌うのか! 石が黙っているぶんだけ、現実の方がましかもしれない」だがすぐに考えた、「いや、そうではない。ここではすべてが静かだから、石の声も聞こえてくるのだ。そして、ここでいちばんうるさいのは間違いなく私だ」
Aは先ほどまで考えていたことを思い出そうとした。「思い出すことだ。さっきまでの思考が夢と等価なら、それを思い出すことは夢と現実を均(なら)して等価にすることにつながるのではないか?」彼はこの考えにいたり、試みることにした。しかしなにも思い出せなかった。確かになにか考えてはいた。かつて誰かと対話していたような気さえした。それも今や無に帰した。「なにがいけないのだろうか。思考の強度が足りないのだろうか? それともその質が? だがこの持続力のなさはいったい……?」
ここで石から聞こえる歌声が彼の記憶をあやふやなものにせしめる魔術的な効果をもっていたならば、この挿話もさぞ物語としての豊かさを帯びよう。だがそういうったことはここでは起こっていなかった。その証拠に、なにかの拍子で歌声が消えても、彼は決して思考の綾をとりもどせず、かといって歌声がまた聞こえるようになっても、彼がますます忘れっぽくなるというようなことはなかったのである。Aが探し求めていたのは、決して彼の外にはなく、彼の内にあった。だから、彼は周りの風景にかつて得た感覚をあてはめようなどとは思わなかった。実際に、彼はこのような場所を夢見たことさえなかった。世界のすべてが息吹さえせず、静寂に包まれ、ある種の安らぎを得ていた。彼がよくよく歌声に耳を傾けると、それはまるで風のようなものだった。つまり存在してはいるものの、意味をもたず、ただとおりすぎていくものである。言語のようだと思っていた詩は、ただの複雑なざわめきに過ぎなかった。それは彼の内に鳴っていたかつての呟きの反映だった。
「やせた批判者! お前もいずれ憩うだろう、どこか山の頂で」とAは小さく叫んだ。
彼はもはや歌わなくなった石の前に来た。そこには「夜の歌」という言葉が刻まれていた。
「そうか! 必要ないのだ、こんな試みは」彼は不意にひらめいた。「夢を思い出そうとするなら、現実を忘れることも同時にしなければならない。そうしなければ、夢と現実の位置が入れ替わるだけで、けっきょくは意味のない試みだ。そして、私の内なるやせた批判者すら、仮定されたかつての『白紙としての自我』の対立物にほかならないのだ。これらの対立は、試みにその調停を計ってもついには位相を逆転させるだけであって、この世界の実相、関係そのものを明らかにすることはできない点において、何らの違いは無いのだ。ということは、この石はもとから歌っていなかったということになる。そしてある意味では、つねに歌い続けているのだ」
Aはいつの間にか小高い丘に立っていることに気づいた。あたりが一望できたが、注目すべきなにものも見当たらなかった。「ここが憩うべき場所なのだろうか? いや、そうではないのだろう。まだまだ歩ける……」彼は静かに呟いて、小さな丘を下りはじめた。
*
宮田望は公園のベンチにもたれかかり、ドバトが残飯を食らっているのをぼんやりと眺めていた。せっかくの良い天気にもかかわらず、あたりに人気はない。これは喜ばしいことだった。せっかくの良い天気を他人と分かち合いたくはない。そこらに植わっている名も知らない高い樹が優しく影をつくり、宮田のまわりにさわやかな風を吹かせていた。いい気分だった。人を待っていることをのぞけば、これほど快適な午後は久々のことだった。久々? あるいは初めてのことかもしれない。
懐の通信機が振動した。とりだして耳に当てる。
「誰だ」
「僕です」
「知らないな」
「新入りです」
「じゃあ切るぞ」
「お待ちを。アジトに来い、と伝えろと言われました」
宮田は切って、ゆっくりと立ち上がった。そして立ち上がったことを後悔するかのように、なごり惜しげにあたりを見回した。
入り口で『坊ちゃん』とすれ違った。
「どこへ行くんだ? そんなに急いで」宮田はなるたけ優しく訊ねた。
「どこでもいいじゃないですか」坊ちゃんはノートを小脇に抱えてじれったそうに言った。「お願いですから、そこを通してくれないですか」
宮田が身を引くと、青年は肩をいからせながら去っていった。
「天才はつらいねえ」宮田は坊ちゃんの耳に聞こえるほどの小声で呟いた。
……アジトは相変わらず陰気な場所だった。牛頭のマスクをかぶった人間が宮田を出迎えた。
「先ほどは失礼しました」
「誰だ?」
「僕です、新入りです。名前はまだないのです」
「そのふざけた格好はなんだ」
「まだら模様の、牛です」
「それはわかるが、それがどうした」
「組織の方針です」
「おれは聞いてない。かぶるなんてごめんだぞ」
「HFによれば、宮田さんは結構だそうです」
「で、牛の格好をしてどうする」
「たとえばですね、われわれアルチザンリバティーがヴェクサシオンの格好をしてなにか到底ゆるしがたいことをしたとします、するとですね、ヴェクサシオンという概念に世間一般的にはよろしくないイメージが付与されるわけです、しかしヴェクサシオンという概念ぜんたいについて考えますと、そのあらわす意味が膨らんだ、より豊かになったというわけです。もちろん、あるイメージだけがその概念を占拠してしまうような事態は、避けねばなりませんが。つまり、ヴェクサシオンというイメージに多様な意味をもたせようという試みです」
宮田は怒りと混乱で顔を赤らめた。「おい、組織の名前は簡単に出すな。仲間うちでもな。それと、お前の言っていることがイマイチわからん」
「HFの考えは僕にもよくわかりません。坊ちゃんのためですよ、きっと」
「お前は都合のいい人間だな。きっと与えられた規範の中で行動することに喜びを感じるタイプだろう」
「自分ではどうとも。盥屋さんには会われましたか?」
「おれはいまここに来たばっかりだぞ」
「あの人と話すのは面白いですね。あちらのほうは、僕のことなんて見ていませんが」
「あいつは誰に対してもそうだよ。死んだって変わらないだろう」
「死ぬっていうのは、そもそも変化じゃないですよ。終わりですから」
「どうかな」
宮田は新入りから離れ、盥屋を探して歩き回った。組員が数人一組でそこらに集まり、小声で語り合っている。宮田の方をちらと見て会釈する者もいれば、まるで彼が存在しないかのように、まったく見向きしない者もいた。
とつぜん、宮田は眠気に襲われた。それと同時に、奇妙な考えが頭をよぎった。これはいつかすでに見た光景で、もう一度それをなぞって体験している。つまり夢のようなものだ。ただ一つ夢にしては生々しいのは、自分という存在がまったくの他人のように感じられることだった。つまり自分ではない者の夢を見ている、だが浮かんでくる自分の名前は『宮田望』だった。
「宮田、どうしたんだね。そんなに顔色を悪くして」
長身の痩せた男が声をかけてきた。
「さんざんさがしたぞ、おれを盥回しにしやがって。いや、それが名前の由来だっけか?」宮田は愉快そうに言った。「盥屋……ひとつたのめるか」
盥屋は片方の眉をあげて、「もう仕事かい? 今月のノルマはとっくに果たしているだろう……」
「ああ、でもひと暴れしたい気分なんだ。いいか? 借りはかならず返す」
「かまわないよ」
「ところで、新入りに会ったか? ありゃ、なんだ」
「HFがどこからか捕まえて、教育しなおしたらしい。空っぽの男だが、そういう人間こそいざというとき役に立つ」
盥屋は口の端をゆがませた。
「組織の名前を軽々しく口にしていたぞ。それはまあいいとして、ヴェクサシオンがどうとか……たぶん、HFの考えだろ? HFはあの若造、『天才くん』にどこまで執心なんだ」
「天才くんか、いいえて妙だね。だって、執心するのも無理はない、息子のようなものじゃないか」
「息子じゃないだろう、どう考えても。ありゃまるで……」
「まあ私も信じられなかったさ。話を聞いたときはね。本当にそんなのがいるとは。でもその荒唐無稽さに惹かれて、われわれもここで活動しているんじゃないのかい?」
「違いない」宮田は小さく笑った。「おれはどこから、どうしてここに来たのか、忘れたよ。だけど、ここにいる理由はわかってる。暇つぶしにはなるからさ」
「少し待っていてくれ」
盥屋は奥の方へ歩いていき、しばらくして何かを手に持ち現れた。
「ほら」盥屋は宮田に革の袋を差し出した。「確認してくれ。汚い袋ですまない。やはり、桐の箱に入れて持ってくるべきだったかな?」冷たい笑み。
「仕事が早いな」宮田は冗談を流して、袋の中を見ながら言った。「本物なのか?」
「偽物を渡したことがあるかい? それが偽物だったとして、いちばん損をするのは私さ。花火を見られなくなるんだから」
「なんだか、あまりにもリアリティがないな。こんなにことがうまく運ぶとは」と宮田は呟いた。「もっとも、どこまで運ばれているかわからないが」
この世でもっとも憎いもの
それはすべてを運ぶもの
それはすべてを包むもの
偽りの時よ、はじけ飛べ
ダイナマイトでお仕置きだ
散らかるお前の残骸を
鴉じゃなくて、ドバトが啄む
「命は大切に使ってくれたまえ」
いつの、どこでだったか、HFが言っていた。
「わたしには君を生き返らせることはできない!」
「でも、あんたは何でもできるんじゃないのかい?」
「いや、いや! わたしにできることはわずかだ。わたしはもう、何者でもない……」と、ひとつ溜息。「そうだ、こんな話を聞いたことがあるかい?」
HFはおもむろに語り始めた。
「世は末世、繁栄を極めた人間は酒池肉林の限りを尽くした。
神々は愚かで信仰心なき人間たちに業を煮やし、ついに天上界から人間界へと攻め入った。
決着は早々についた。
地上は神のものとなった。
成人となった人間はみな神の従者となることを強いられた。
男どもはすべて神の地上での住居や食物をつくる奴隷となった。もっとも、美しい少年たちは別だったが。
女たちは二つの道を選ぶことを許された。すなわち神に祈りを捧げ続ける貞淑な聖職者の道と、神に快楽を提供し続ける淫蕩な娼婦の道とである。
つまり神は無限の信仰と快楽を求めた。人の創造者たる存在の本領発揮である。
そう、今や神には男しかいなかった。その中でも、愚かな神々しか。
女神はとっくの昔に神と人の争いに愛想をつかして外宇宙へ去ってしまった。賢明な神もまたどこかへ去った。
やがて男たちは物言わぬ人形と化すだろう。
やがて女たちは、何代もかけて、聖職者は精神の、娼婦は肉体の至高へと昇りつめ、それは神にも匹敵するだろう。そこから人間たちの復讐が静かに始まるだろう。」
「なんだ?……女は強いってことか? 聞いたことがあるかもな」
「人間たちのことはこの場合、どうでもいい。重要なのは、女神はみな愛想をつかして出て行ってしまったいうことだ、賢い神々も。ここには、愚かな神しか残っていない」
「あんたが愚かな神か」
「そうだ。私はひとり残された。いや、ここに残ることを選んだ。そして妻もいない身でひとり……あとは知っての通りだ」
「それももう終わろうとしているわけだな」
「だからわが子のために懸命にやっている」
「あいつがそれに答えなかったら?」
「宮田くん、それに盥屋くん、そして仲間たち……君たちはその時のために存在しているんだ。すべて私の考えたとおりにことは運ぶ」
《そうだ、HFの言っていたことってのは、こういうことだったのか! いま思い出した。いまわかった》
宮田はまだらに混濁した意識の中で、己の正体を知った気がした。しかしそれはどうしても知りえないことのはずだった。なぜ知りえたのか。謎はあるところでは謎であり、別のあるところでは謎ではない。謎で織られた文字の迷宮の生地は、コトバである。宮田は、あのいけ好かない若造……坊ちゃん……天才くんの顔を脳裏に浮かべた。あいつがまた、なにかやらかしたな。そしてそれはすぐに別の記憶と結びつき、宮田の頭はじょじょに明晰さをとりもどしていった。
「さて、さて、さて! やっとスッキリしたよ。謎が少しばかり解けたぞ。これから起こることもな。……なら、おれはどうする?」
*
熾天使の背に乗ったAが地上を見下ろせば、そこにはかつて宮田を追ってたどり着いた不毛な砂漠や、マネージャーを追って迷い込んだ陰気な森があった。いま彼は、盥屋たちを追って塔へと向かっている。「誰かを追ってばかりだ!」とAは思う。「あるいは、追われていたか。いずれにせよ、せわしない冒険だったな」
熾天使がAを降ろしたのは、あの山の上の広大な乾いた窪地だった。月のクレーターのようなその場所には、いまや一本の枯れ木さえ見えず、ただ「それ」が――果てしない高さをもつ塔だけがそびえていた。塔の根元部分は、まるで大聖堂のようなつくりになっていた。いや、まさに大聖堂といっていい代物だろう――その大きさ、重々しさ、精密さと歪さが調和した超越的な構造からいっても。
正面の壮麗な放射状の模様が描かれた虹色の薔薇窓は、尖頭アーチに嵌め込まれた形で大聖堂の中心に存在し、巨大な飛(フライング・)梁(バットレス)は聖堂の側面を力強く支えている。いたるところ執拗に彫られた人や動物の彫刻は具象的で、かなり独立した形で立っている。細部まで精緻につくりあげられているにもかかわらず、全体としての印象はどこか歪なのは、それが神に祈るために造られたというよりも、神が自らを祈らせるために創ったかのようなその大きさ、重々しさだった。そしてその全体は、信じがたいことに、漆黒に染め上げられていた。光のない、いや光を喰らう禍々しい大聖堂がそこにはあったアーチすべてが神のために、ただ一なる神のために造られたのだ」と熾天使が呟いた。「かつて、都市々々の人々はこぞって天高くそびえる大聖堂を建てた。ただ一なる神のためだけに。そして無数の人々が一なる神に祈ったが、それによって無数の神々のイメージが生まれることとなった。なぜなら、人間は不完全で、その理性では至高の存在である一なる神をとらえることなど、決してできはしないのであるから。無数に残った大聖堂はそのなごり。しかし、これは本当の、唯一の建造物だ。なぜなら、神が創ったのだから」
「神が創った?」
「私にはそれ以上、答えられない。答える舌がないからだ。本当なら、私はここで死ぬべきであるような気がする。なんとなくね。しかし、あなたはそれを望まないだろう」
Aは思わず頷いた。
「ありがとう、私をこの物語に登場させてくれて。しかし同じ理由であなたを憎む。もう会うこともないだろう……チャオ!」
そう言うと熾天使は翼を広げ、Aの前から飛び去って行った。一度たりともこちらを振り向くことはなかった。
Aは入り口の前に立つ。飾り(アーキ)迫(ヴォール)縁(ト)には無数の天使および人間が意匠され、タンパンの彫刻には、光輪などによってひときわ聖性を強調して描かれた人物を囲んで獣の顔をした人びとが集っている様子が描かれていた。大聖堂の大門はAが近づくと音もなく開いた。Aは内部を一通り歩いた。観察によると、穹窿は肋骨穹窿(リブ・ヴォールト)であって、代わりに壁面はほとんど窓に費やされており、存外に明るかった。後陣は二重の周歩廊をもっており、また九つの祭室を持っていた。周歩廊の外側に、放射状に祭室は置かれていた。そしてその形は半円形と方形が交互に並べられていたのである。
「この後陣部分は、師匠とずいぶん討論したのですよ」
声のほうを向くと、そこに奇妙な格好の男が立っていた。男は続ける、
「どれだけ清貧の思想に準拠しつつ、一方で超越的な神の御業を表わすことができるか……いわば、《然り》と《否》のあいだの弁証法的解決を求めたのですな。結果として、ほとんど建築とは呼べない代物になってしまいましたが。ある男が、『哲学的弁証法は、建築的な考えを、ほとんど建築的であることをやめさせるような点にまで追いやっている』と言っていましたが、あるいはそうとも言えるかもしれない。しかし、神を求める理性、というのは矛盾してはいないでしょう? 理性は絶対的な、統一的なものを求めずにはいられないのです。『狂人とは、理性のない人間ではなく、理性しかない人間のことだ』とかいうことを別の男が語っていましたが、いやはや、うまいことを言ったものです。理性万能主義者は、もうほとんど狂信者です。あと一歩、神に近づけるかどうかというところまで行った、紛れもない狂人なのです。そういう意味では、私も狂人でした。馬鹿馬鹿しい妄想を、紙切れにスケッチするだけで満足していたのです。だが、それも昔の話。《あの人》は私の妄想を、神の御業を表わす偉大な計画であると認めてくださったのです」
「あの人?」Aは話がよく呑み込めないままに訊ねた。
「そうです。私の口からその名を呼ぶのは憚られますが。あの人はその力によって、不可能を可能にした。ただの紙切れに書かれたスケッチを、こうして在らしめたのです」
「あなたの名前を知っている気がする」Aは静かに呟いた。「ヴィラール。そうではありませんか?」
「そうです」男はにこりと笑って頷いた。「ヴィラール。かつてはそう呼ばれていました。いまでは私の名を呼ぶものはいませんが。ここでの呼び名は、そう、《建築家》です」
ヴィラール、《建築家》と名乗った男――その姿はAの目には奇妙に映った。頭には四角い植木鉢のような被り物をして、片目だけ黒いレンズの入った銀色の眼鏡をかけており、ぴっちりした全身タイツの上に細かく編まれた鎖帷子を身に着けたそのまた上に、粗末な布の服を着ている。足にもやはりよく編みこまれた金属製の靴下を履いている。
「ところで、暑くありませんか」
「ああ、この格好ですか? 問題ありません。第一、この格好じたいが後世の想像にすぎませんし」
「後世の想像とは」
「私は相対的に言って、昔の人間なのです。もうずいぶんと時が経ちました。客人よ。この『ヴェクサシオンの世界』では、さまざまな不思議なことが起こりうるのです。見てください」
ヴィラールの指し示した祭壇の後ろの途方もなく大きなステンドグラスには、あらゆる色彩と技法によっていくつもの大聖堂が描かれていた。それは外部からの光を透して神々しい輝きを放っている。
「私の存在した時代、それぞれの都市はこぞって大聖堂を建てました。それ以前に造られていたのは主に修道院でした。つまり修行の場です。それが大聖堂に代わっていった。なぜだかわかりますか? そう、人々に説教をするためですよ。都市の人々をまとめ上げるにはなにか、宗教的な影響力が必要だった。それに教会も結託した。われわれはどんどん大聖堂を建立し、次々と新たな工夫を重ねていった。構想と技術はさらなる高みを目指し、徐々に理想的に調和のとれた、それでいて荒唐無稽な代物へと変貌していったのです。われわれの構想、いや妄想は、われわれの生きている時代ではまだ実現できなかった。おそらく、現代でも……ですから、ヴェクサシオンの世界は、私にとって、そういった意味で理想郷なのです。全ての可能性が花開く……まるで泥の中から萌え出た蓮の花のように」
「それを聞くと、私もなんだかうれしいです。関係はあまりないのかもしれないが。ところで、ここを二人組の男が通りませんでしたか?」Aはふいに要件を思い出して問うた。
するとヴィラールはとつぜん高笑いをはじめた。なんとか笑いやむと、
「いや、失礼。まさかあなたからまたそんな質問を聞こうとは。記憶を失うということは、ほんとうに恐ろしいことですね。あるいは、記憶自体が恐ろしいものなのかもしれないが」
にわかにAの脳裏に戦慄が走った。たしか、ここで、この男に、同じ質問をしたことがある。
「私は、何度も同じ質問をしているのですね?」Aは恐るおそる訊ねた。「そしてある一点でそれを忘れてしまう。そう、例えば、次にあなたが見せてくれるものによって」
「大窓をごらんになってください」
Aが再び中央のステンドグラスに目をやると、そこにはもはや大聖堂ではなく、微小な、しかし精緻な一連の図画が描かれていた。まず、粗末な部屋で二人の男が話し合っている。そして次に書斎のようなところでその二人ともう一人の男が言い争っている。そして次に……Aはこれが『ヴェクサシオン』の戯画であることに気が付いていたが、もう目をそらすことはできなかった。中にはAには理解できないことがらも描かれてはいたものの、Aはその絵を最初から最後まで見通した。いや、読み通した。しかしその最後の部分はAがステンドグラスを見つめる場面、つまりステンドグラスの向こうからもう一人のAがこちらを見返しているということ、それはつまり――
「これは鏡だ」
「ご名答! やっとおわかりになりましたか」ヴィラールは嬉々として叫び、「あのヒントがよかったのかもしれませんね。ちょっとした蘊蓄も。とにかく、客人よ、これであなたは次に進める」
「次の階にもこんな仕掛けがあるんですか?」
「次の階? 仕掛け? 違います。これはただの儀式、そしてこの塔に階(きざはし)などない」
ヴィラールは急に真面目な顔になって、ステンドグラスを透した光が集まるある一点を指し示した。
「お行きなさい。心配することはない、すべて鏡なのです」
「つまり、すべてが虚像?」
「いや、そう言うあなたもまた虚像です」
Aは光の中心に立った。自分が自分でなくなっていく、不快な感覚――しかし《建築家》の言葉の後では、その不安はほんの少しやわらげられるような気がした……ほんの少しではあるが。
*
紅いソファに腰かけながら、宮田はぼんやりと虚空を見つめていた。
応接室のような部屋で、薄暗い。
盥屋はどこにも座らず、部屋の隅から隅へと行ったり来たりしている。
「君はこれからどうする? 宮田」盥屋は訊ねた。
宮田は答えない。
「私はAを待つ」盥屋はかまわず語り始めた。「あの男はおそらく、ここにやってくるだろう。その時、なにがおこるのか私にはわからない。宮田、私の記憶は曖昧なんだ。まるで、だれかに半分持っていかれたように」と苦笑する。
「それでも、欠落しているということはわかる。不完全なんだ……私は。だから宮田、君が羨ましくもある。なにか思い出したんだろ?」
宮田は相変わらず、虚空を見つめている。
盥屋はあまり光の入ってこない窓から外を眺めた。目の前を雲がゆっくりと横切っていく。厚く垂れこめて、日の光を吸収しているのである。
「この塔の周りに雲が集まっているようだ」痩せた男は言った。「雷でも落ちるかな? 焼き尽くしてくれるといいが。このヴェクサシオンの世界を」
宮田はかつて、自分が死んだときのことを思い出していた。
あの後、彼は公園まで引き返し、ベンチに座っていた。手には盥屋からもらった革袋と、ここに来る途中で買った豆菓子の袋を持っていた。
この世でもっとも憎いもの
それはすべてを運ぶもの
それはすべてを包むもの
偽りの時よ、はじけ飛べ
ダイナマイトでお仕置きだ
散らかるお前の残骸を
鴉じゃなくて、ドバトが啄む
そう唄いながら、袋の中の豆菓子を無造作につかんでは投げる。たちまち無数のドバトが宮田の前に群がってきた。遠くのほう、遊具で遊んでいた子供たちも、その様子を見て近寄ってきた。
「わあ! すごい。ハトがたくさん集まってるよ」
「おじちゃん、もっとまいてよ」
宮田はやたらとにこにこ笑いながら、魔除けでもするように次々と豆をまいた。そのうち、ハトは異常なほど集まり、あたりには足の踏み場もないほどになった。子供たちは大はしゃぎでハトを追いかけまわしていた。
袋の豆をすべてすっかりまきおわると、宮田はゆっくりと立ち上がり、しっかりした足取りで公園の中心まで歩いていった。そこには新しい、立派なつくりの大きな時計塔があった。時計塔の裏側にまわった宮田は、土台部分にこう刻んであるのを見た。『秩序と調和の象徴、時計塔。この街へ愛を――A寄贈』
宮田はそこに唾を吐くと、表側にまわり頭上の時計を見た。時間は五時十分。そういえば、さきほど鐘が鳴ったばかりだ。そして彼は時計塔に背を向けた。
目の前には広場があって、夕方の涼しい空気を楽しむ人々がまばらに憩っていた。なんとなく、皆も宮田のほうを向いた。
宮田は不意に大声で語り始めた。なにやら一世一代の演説のような、宣言のような、とにかくそういったたぐいの口調とテンションで。
「諸君、諸君、聞いてくれたまえ! 俺は宮田望。ミヤタのノゾムと申すもの! 俺の話をする。俺には、俺がこの世に存在する限りでの、ごくわずかな範囲でのエゴイズムがある。これは誰にも理解されえないだろうし、また決して変わることのない、かけがえのないものである、と仮定する。するとどうだろう、俺の胃と腸はひっくり返り、急激な摩擦熱(まあこれは過度の知的欲求というものなのだがね!)によって脳髄は沸騰すると同時に、友情も愛情も義理人情も豹変して、焼き尽くされた他者への認識が、互いに互いを燻しあい、ついには鋼のような連帯感を生みだす。生きるよすがとしてむさぼるように眠気と闘いながら書物を読みつくし(そう、まったく苦々しいんだ、気付けの珈琲は!)ぷっくりと膨らんだ頭のこぶを懸命にいたわり、さする。それは俺にとっちゃ、本当に有意義だし、その答えが他の誰にも望めないということこそが、俺みたいなやつの至高性をぴくぴく反応させるんだ。もっとも、これらのことは一瞬にして人々の顔から血の気を引かせることだろう(かくいう俺もその一人さ!)、けして理由なき反抗を気取るというわけではないんだ、少し間の抜けた発言もしよう、黒々とした宣言もしよう、これらのことをくりかえしもしよう、しかしね、ただで終わるということは、とてもじゃあないけどできないし、踵を返してあの温かい部屋へ帰ってゆくこともできないんだ! とりあえずは、こうしてこの地点に立って、道を決めあぐねているそぶりをするだけさ、虫一匹殺せない俺の憐憫は、魂の執拗な野望への渇きと裏腹に、ぽっかり他者との共感を欠如させてしまいかねない。食いつくされた倦怠と安定した余白について自分と対話し始めたら、そこでエクリチュールは終わったということだ、くっくっく! ああ笑けてしまう、中心を失った自我はあまりにも脆い、これこそ問題の本質であったということに、生まれて初めて、今更ながらに気づくとは! 聞いてくれ、今の俺には、自己の心の叫びより他者の疑念の雄たけびのほうが強く感じられてならないんだ、不思議なことに! さても恐ろしいことだと思わないかね? 新しい球技の掟(ルール)を考えついたかのように、俺の心は沸き立って狂おしく切ない。とおり一遍の思惑なんぞは脇にのけて、真なるイデエの元へと向かう食欲にも似た感情がものの見事に咲き誇るんだ! 興奮しすぎてしまったようだ、とにかく、新言語だよ! 新言語を創り出し、我らの活動のために新たな発言をくりかえす、くりかえす、くりかえす。これこそ俺が勇気と尊敬と美徳を生贄にして生み出してしまった、まったくやくざな手腕なのさ。キュウスレバドンスというが、決して躓きの石となしてはなるまいよ! なあ、君ら。行動と連帯だよ、欲しいかね、自由と平等が。なさねばなるまい、残念ながら我々には毒にも薬にもならない胸のざわめきしか残されていない。俺が殺しつくしたんだ。そのまま待っていたまえ、いつか約束の日が到来して、究極の瞬間が訪れるまで。すべて俺が何とかするよ、待っていてくれ、それまでは食いっぱぐれないようにするんだね、働こう! 働くのだ、みんな。ついに安寧の時は来ることなく、鴉は我らの骸を食らいつくすであろう。魔術(まじない)のたぐいが愚かな人々を誑かし、性急な科学はおもいきり耳をひっぱってくる(それはそうさ、おつむのきく奴は俺たちなんて見ちゃいないからな!)、まったく、うるさい限りだ、でも、それも仕方なかろうよ、人の性とはそういうものだ!……長くしゃべりすぎたな、俺の言いたいことの序章は、まあこんな具合さ、わかっていただけたかね?」
けれども、広場はまったくの沈黙でみたされていた。子供たちはふるえて、ある子は泣いてさえいる。
わるい男――宮田望はつづける。
「ああ、わかっている。わかっているよ、わかっているんだよ、俺のこんなタワゴトが理解されないということは! まったく、中身なんてこれっぽっちもありゃあしない、それどころか、はじめとおわりもアイマイな演説なんて、誰が聞くっていうんだろう? 俺の言いたいことはこうさ、おれは叫びたい、でも俺には叫ぶ内容がみつからない。だからって、俺に獣のように意味もない雄叫びをあげろっていうのかい? それは残酷が過ぎるってもんだろう。とにかく、俺は考えに考えた結果、こういう結論に達した。俺は時間が嫌いなんだ。時間が! 考えてみてくれ、このかっちりした時間というものがなければ、いつまでも俺は存在し続け、考えつづけられる。しかしそれとともに、それだからこそ、つまり時間があるせいで俺はこの演説の原稿の締め切りに追われることになったんだ! この、宮田望の最後の演説だ。だれも理解する者がいない(もちろん、それには俺も含まれる)、さびしい演説さ! さあ、問題はこの長閑な公園のど真ん中に鎮座まします、これなる大きな大きな時計塔だ。いったい、こんなもののどこが秩序と調和の象徴なのだろうか? いったい、秩序と調和とは時間の息子なのだろうか? いや、断じて、断じて違う! 時間は、いつでも新たな混沌の父に違いない。すべてを乱雑に、ごたまぜにする力、カオスの原動力、うごめくカオス、ひたすらむさぼり食う化け物、それがほかならない時間さね。だが、それはまあいい。許そう。そんなことはとっくにわかっているのだから。問題は、この時計塔のような極めて偽善的な、馬鹿馬鹿しいシロモノが時間の代表者のようになっていることだよ! あの悪と混沌を象徴する時間が、かように機械的(メカニカル)な、そして大聖堂(カテドラル)のような聖なる形態(フォルム)をしているだなんて、真理に対するこの上ない侮辱だ! そうは思わないか? いや、答えなくていい。俺はにはもう、聞く耳なんてないんだから……さらば、世界よ! しばしのわかれ。でも、これで終わりじゃない気もするぜ!」
『演説』を終えた宮田は、厳粛な面持ちで革袋からダイナマイトを取り出し、もはやまばらな人々に向かい掲げた。
「近づくんじゃないぞ! 誰かと心中はごめんだからな」
そして恐怖に逃げだす人々をよそに、懐から出したライターで導火線に火をつけた。
「おっと、面白いアイデアを思いついたぞ!……いつまでも進まない導火線、ゼノンの導火線ってのはどうだ……思いつくのが遅すぎたかな?」
しかし導火線はみるみる短くなってゆき、ついにあと数センチとなった。人々はみな逃げていた。
「最後に一言いわせてもらうが――」
宮田がその一言を言い終わらないうちに、大爆発が起こった。爆音と炎と煙によって、宮田望と時計塔の姿は永遠にかき消された。
*
鳥川の画廊から事務所へ直行はせず、例のイタ飯屋『アルティジャーノ』へ向かう。けっこう歩いたから、腹が減ったんだな、これが。
ところが店へ足を踏み入れた途端に、俺はコトの異常さに気づく。荒らされた(といってもモノはほとんど置いてないから被害は少ない)店内、服をボッロボロにされ、本人もボッコボコにされた、給仕の痩せた若い男と、太ったシェフ(ここの店長)。あの透明な緑色の瓶は叩き割られ、床には水が飛び散っていた。
「どうした、大丈夫か。だれがこんな」
俺はあわてて二人のほうに駆け寄る。当然のごとくツルっと滑って濡れた床に尻もちをつく。うえっ、気持ち悪い!
「まあまあ、落ち着いてください。そんなにおたおたしては、せっかくの色男も台無しですよ……マア、水もしたたるいい男という言葉もあるにはありますが……」シェフが苦笑しながら言った。
「なんか違うような。でも、そんな軽口が叩けるようなら大事はないみたいだな」
「ええ、なんとか」
「じゃあ、なにから聞こうか。そうだな、まず、誰にやられた?」
店長、と給仕の若い男はなにか訴えるように呟いた。呼ばれた方はわかっているとばかりに小さくうなずき、語り始めた。
「黒服の男たちが店に突然やってきて、木安という男を知らないか、と詰問してきたんです。私は咄嗟に知らない、と嘘をつきました。いくら屈強な男の脅しのきいた詮索とはいえ、お得意様を危険にさらすわけには参りませんからね。するとやつらは私たちをタコ殴りにしたうえ、このとおり、店の中も滅茶滅茶に荒らしていったんです」
「なんだって? それは悪いことをした、俺の責任だ……。そいつらはなにか言っていなかったか?」
「ええ、俺たちは街はずれの館で待つ、と伝えろと言われました。ですが、これは明らかに罠です。そんな罠にはまるより、どこか遠くにお逃げなさい」と店長は心のこもった声で言った。
そうだな、これは罠だな。だが、俺の追っている事件の核心に迫る罠かもしれない。有力な手がかりがこれっぽっちもない今の状況を打開するには、危ない橋も渡らなくちゃいけないかもしれない。
とそこに、のこのこと新しい来客があらわれた。ぼんやりした目の、疲れ果てたような若者だ。服が所々汚れている。この店には、俺も含めて、まともなやつはこないのか?
「腹が減りました。なにか食べ物をください」そいつはか細い声で言った。
「あいにく、店が荒らされてしまいまして、どうにもならない状態なのです。またのご来店を……」
「あんた、どっかで見たことあるな。もしかして!」店長の言葉をさえぎって、俺は大声をあげた。
「僕ですか? 僕はしがないただのマネージャーですよ……泥の波に吸い込まれて、木の洞から戻ってきたんです。まあ、説明してもわからないでしょうが……」
「やっぱり、あんたAのマネージャーか? Aはどこにいる?」
驚くマネージャーに自己紹介と状況説明をして、彼からもいろいろと話をきく。なんだか信じられないような話ばかりだったが、俺は信じることにした。
「つまり、Aはその変な世界にまだいるってことだな?」
「ええ、おそらくは」
「なるほどな。じゃあ、俺と一緒にこい」
「え? 館にですか? 僕が、どうして」
「おそらくあそこに手がかりがあるはずだ。あんたがいても心強くはないが、なにかの役にたってくれそうだ」
またAに会えるかもしれないからと、しぶるマネージャーを説得して、店を出る。
「行ってらっしゃいませ」と店長と給仕が頭を下げて見送ってくれた。
「事務所に寄っていかないんですか?」
「絶対にもう手が回っているはずだ。同じ危険を冒すなら、館に行った方が手っ取り早い」
俺とマネは霧の深い中を苦労しながら歩いていった。相変わらず人影はまばらだが、心なしかピリピリとした空気が流れているように感じる。しばらく歩いていくと、とつぜん辺りの霧がぱっと晴れて、目の前に大きな館が姿を現した。
「木安さん、この場所を前から知っていたんですか?」
「親友の実家だ」
門扉が勝手に音もなく開く。薄気味悪い荒れた庭を過ぎて、館の前に立つ。不気味な洋館だ。前に来た時とはうって変わって、信じられないほど荒廃している。大扉が開いたので、中に入る。
「遅いじゃないか、木安!」
そこには俺が探していた一人、編集長がいた。
「なんで俺の名前を知っているんだ?」
「奴から聞いたんだよ、俺を探している探偵がいるって」
「奴って誰だよ」
「そのうちわかる。ところで、おい、マネージャー! お前はどこをほっつき回っていたんだ!」
「すみません! 実は、先生とはぐれてしまいまして……必ず見つけ出します」とマネは必死に頭を下げた。
「これで役者がだいぶ揃いましたわ!」
俺の知らない、小柄な少女がそう言いながら大階段を降りてきた。
「はじめまして、木安さん。わたくしは智天使。あなたの味方ですわ」
俺はなんとか今の状況を理解し、整理しようとしたが、正直に言ってなにがなにだかわからなかった。よし、とにかく情報交換だ。俺は二人の話を聞き、またこれまでの俺たちの運命を話した。お互いの情報を繋ぎ合わせて、なんとか一つの像を造り上げようともした。だがその最中、一人の男が階段を下りてきて、俺たちの会話と類推は中断された。
「A、Aじゃないか?」俺は叫んだ。
「先生!」とマネ。
「違いますわ」と天使。
「人違いだ」と編集長。
俺はそいつをよく見た。男は確かにAそっくりだった。だがよく見ると、決してAではなかった。なんだか、俺はイヤな感じがした。イヤな感じというのでなければ、妙な感じがした。Aも変なやつだったが、まだ人間味があった。でも、こいつに人間味はない。少なくとも、今まであったことのない種類の人間だ。
「ごきげんよう。脇役諸君」そいつは丁寧に失礼な挨拶をした。「よく来てくれたね。私の館にようこそ!」
「私の館?」俺は眉をしかめた。「ここはAの実家、それに今はだれも住んでないはずだぞ」
「それならなおさら私の館だ」そいつは微笑した。「私はAの父だからね」
ん? 何を言ってるんだ、こいつは。まず、雰囲気がぜんぜん違うし、年恰好はAそっくりなんだから、肉親としても兄弟だろう。Aの父親に会ったことはないが、こんな人物じゃないはずだ。
「本当の話だぞ」編集長が耳打ちした。「話を聞けばわかる」
「信じることが大事ですわ、探偵さん」と天使も言う。
そういわれると、なんだかそんな気がしてきた。そうなのかな。
「そんなはずありません、あなたが先生の父親だなんて」とマネが叫んだ。
うるさいなあ。静かにしろよ。なんでもいいじゃないか。
「私に銃をくれたのは、あなたじゃなかった」
マネのその言葉を聞いて、不意に懐の拳銃の重さをずっしりと感じる。そういえば、この銃はマネの部屋で見つけたものだ。
「いまのご時世、顔かたちなんていくらでも変えられる。ひょっとすると、別人だったのかもしれない」
「あなたが先生の父親なのかもしませんが、僕はそれを信じたくない!」
「俺も信じたくない」
懐から銃を取り出し、そいつに銃口を向ける。そいつはまったく怖がる様子を見せない。
「信じたほうがいいぞ。信じるべきだ。本当のことなんだから」そこで天使と編集長に顔を向け、「君たちも言ってやりなさい。私の話を信じろと」
こりゃ、二人は洗脳されてるな。おそらく、簡単な催眠術だ。俺も危うくかかりかけたが……。
俺は銃口を向けたまま後ずさりして、出口を探る。もちろん扉は開かない。マネに視線で合図を送る。どうやらわかってくれたようだ。
そいつの足元に一発、発射。
ひるんだところを駆け抜けて館の奥に行こうとしたが、やつは微動だにしない。しかたなくマネと俺は一か八かでそいつに向かって駆ける。男はおれたち二人を横目の涼しい顔で見送る。それを不気味に思いつつ、急いで大階段を駆け上る。
「でも、二階に上がってどうするんですか? 余計に逃げられないんじゃ……」
「少しくらいの時間稼ぎならできる。ここに来る前に一応、警察に連絡しておいたのさ……まあ、あんまりアテにならないけどな」
適当な部屋に入ってみる。パイプ椅子が乱雑に置かれている。そして、話に聞いた牛男がそこにいた。
「こいつが噂の牛頭か。本当にそのままだな」
「ナンダ、オマエラ?」
かまわず眉間に一発。案の定、カンと音がして跳ね返る。だが化け物はそのまま気絶した。
「僕のいた世界にもこんな化け物はいませんでしたよ」
「くわばら、くわばら。さ、いこうぜ」
それから俺たちはあてなく館をさまよった。とっくにこの館の構造が普通のブツリホウソクに則っていないことには気づいていた。階段を見つけたら、とりあえず上ってみる。とにかく、上へ、上へ。上に何かがあるはずだと、根拠のない信念で自分を鼓舞しながら。
とうとう、俺たちは行き止まりの大広間にたどりついた。ここが終点だということはなんとなくわかった。
広間の真ん中にポツンと全身鏡が置かれている。細かい装飾がしてあるもので、かなり年季の入ったものだろう。
鏡を見る。そこには俺とマネが映っている。いや、もう一人。例の不気味なAのパパさんだ。後ろを向く。だが、そこには誰もいない。俺はなんとなく仕組みが分かった気がして、懐から再び銃を取り出し、銃口を鏡に向けた。狙うのは、パパ。じゃない、俺の心臓。
銃弾は鏡の表面に吸い込まれた。ぽちゃん、という音。間髪入れず、鏡面から男がぬっと出てきた。
「ずいぶん探したぞ」俺はあらわれた男に言う。
男は俺の顔を見て、少し驚いたようだったが、
「ああ、久しぶりだな」と言ってほほ笑んだ。
Aと木安ははっしと、強く、かたく抱き合った。
「また会えてうれしいよ」
「どれだけ探したことか!」木安は泣いていた。
すぐそばに来ていた編集長が言った。「で、マネージャーの野郎はどこだ?」
「それが……」と言ってAは首をふった。
「ちくしょう!」と言って禿頭はうつむいた。
Aの背後の鏡が音を立てて砕け散った。
「あぶない!」
三人は身を守ったが、だれにも怪我はなかった。
鏡の前には、二人の男がいた。
「おれは宮田望」
「私は盥屋」
二人は声をそろえて、
「われら悪魔の二人組!」と言った。
五人はお互い一時停戦とし、いったん話し合うことにした。
「実は、HFがすべての原因なんだ」
「HF?」
「HUGE・FATHER」
「なんだそりゃ」
「A、驚かず聞いてくれ。お前の父だ」
「知っている。私から説明する。みんな、しばし拝聴せよ。
HF……もともとの本名A……は、むかしむかし――太古の昔から――存在してきた、非・人間だ。私にもはっきりした正体はわからない。とにかく、彼の唯一の定義は、人間でないものだ。人間の定義が曖昧だがね……。彼はずっとこの世界に存在し続けてきた。どうやってか。答えは、自分で自分を生み出すことによってだ。矛盾……考えてみれば、Aが生み出したものは必ず非・Aのはずだ。しかしAにはそれができた。AはAをつくり、AがAをつくる。そうやって、Aは存在し続けてきた。存在の更新こそ存在の前提だ。だからAはAとして存在しつづけられた。
私はAの息子――正確には違うが――なのだ。つまりAのつくったAだ。だが私はAでいて、Aではなかった。Aを拒否したのだ。正確に言えば、私をつくったAがAであることを拒否したのだ。父であるAは「自分の尾をくわえた蛇」であり、私は「尾を吐き出した蛇」だった。私はAの代わりに「世界」をつくった。それが「ヴェクサシオンの世界」だ。恐ろしい事が起こった。私はAになり、Aだった父は名を失った。代わりにHFなどと名乗っているが、それは自分でそう言っているだけだ。Aは怒り、恐怖した。私をどうにか始末したいと思うようになった。HFは手駒をつかってヴェクサシオンの世界を破壊し、私はショックで記憶をなくした。存在をかけた原稿用紙五百枚と、パソコンのデータ数キロバイトが失われたのだ。私は記憶をなくし、編集長に拾われた。あとは諸君の知るところだ。この館はHFの住処、天使は私の創作の名残だ。そして、宮田、盥屋。君たちは作家になった私がつくってしまった「新しい世界」の存在だ。私は自分の能力を忘れたまま、潜在意識に浮かぶ過去の記憶をそのまま小説にしてしまった。どんなことが起こったかわかるだろうか。起きてはいけないことが起きた。矛盾だ」
「つまり、本物のわれわれのどちらかがまだ存在していたのに、われわれは新しく存在してしまった。それが矛盾ですね」盥屋が言った。「そしてそれは私だ」
「どうしてそんなことがわかるんだ。おれかもしれないじゃないか」宮田が悲しそうに言った。「おれが矛盾かも」
「宮田、本物の君は死んだ。ところが、本物の私は生きている」盥屋は微笑して、「それに、私には名前がない!」
一同、盥屋を見た。
「盥屋はあいかわらず生きていて、HFと結託している」Aが言った。「いや、もはや、同一人物と言ってもいいのかもしれない。彼らの差異は曖昧だ。二人の力は互角だ」
「まてよ、なんで本物の盥屋はそんなに力があるんだよ」
「覚えていないのか?」、「部屋を沈黙が支配したあと、盥屋は矛盾律にひきずられて君たちの世界まで来た。そして状況を理解すると、君たちを襲った。不意をつかれた君たちは砂時計を奪われて、力を失った」
「砂時計!」、「おれの砂時計!」
「あれは象徴だ、力の……」、「たんなる暴力ではない、破壊と創造の力……」
「奴の名前を知っているのですね」
「奴の名は、廻、カイというんだ」
「盥廻し、か!」、「ふざけやがって」
「しかし私も姓だけは死守した」、「奴の力も完全ではない」
「そうだ。それに宮田、君の存在は特異点になっている。君は完全にフィクションのキャラクターだ。だから、廻の範疇を超える行動を起こしえる」
「同時に、A、あなたもHFを出し抜ける可能性がある」
「ない」、「いまは」
全員、Aを見る。
「私にはマネージャーが必要だ」、「彼は私の記憶だ。私の失ったいちばん大切な記憶は、彼が私だということだ」
「どうしようもない」と編集長。「彼はもういない!」
「方法はある」、「私が彼をつくることだ」
Aは木安四郎に言った。
「木安葉子、私に私の話をしてくれ」
そう言われた中性的な美しい人物、私立探偵・木安四郎――本名木安葉子は、ただ一回だけうなずいた。
「話し方はこのままにさせてもらうぜ」
そう断ると、木安は大学時代のAとの交流を語り始めた。重複する部分もあるのでここでは触れない。
「俺の知っているのはこれくらいだ」と言って、木安は口を閉ざした。
「ありがとう」、「それと、私の恋文は受け取ってもらえたかな?」
「あれが恋文?」、「ちゃんちゃらおかしいぜ」
「おかげで少し芽が出そうだ」、「彼の種から」
「どこにそんなものがあるんだ?」、「わしには見えん」
「私の心に」
そのとき、そこにいた皆がなにものかの気配を感じた。しかし姿は見えない。
「ヴェクサシオンが近い」、「急がなければ」
「そりゃいったいなんなんだ」、「結局のところ!」
「簡単だ。ヴェクサシオンの世界において、AがAを生むことだ。ウタァタとはAのことだ。HFと廻は禁忌を犯そうとしている。非・AがAを生み出そうとしている」
「なるほど、奴らの目的は自己増殖か。でもそれに何の問題が?」
「わかりやすくいえば、ビックバンが起きる」、「これは笑いごとじゃない。非・Aが生んだAは私とも、いままでのAとも違う。重要なのは方法だ。考えてみたまえ。非・Aとは、A以外のすべてではないか。とすれば、それは必ずすべてがAを生み出す契機となる。Aとは、いってみれば分割できない・つまり無限に分割できる一個の複合体だ。すべての存在がAを生成したとしたら」
「宇宙が一瞬で満杯だな」、「盥屋、問題解決だ」
「たしかに寂寥感はなくなる」、「だが詩情もへったくれもない」
「そうだ。宇宙が、『何もかもがある・何もないA』になる。そんなものは狂気の沙汰だ。だから私は彼らを止める」
「奴らはすでにそれに気づいているのでは?」
「手はうってある」、「この物語がそれだ。冗長な展開、意味深な挿話、複数の象徴、すべて彼らを撒くためにある」
「ということは……」
「彼らはこの小説に気づき、はじめからこの小説を精読している。そして私たちの居所を突き止めようとしている」
「ここは館じゃないのか?」
「館の中だと思っていてくれ。本当は別の場所なのだが」
「いまは、どこまで読んでいるのだろうか?」
「おそらく、彼らにとって途中で躓く部分が少しはあるはずだ。そして前の部分を読み返したり、最新の部分を読んでみたりするだろう。だが、それでは見つからない」
「どれほどで気づく」
「四分の三」、「もしくは、それ以下」
「じゃあ、それまでに問題を解決しなけりゃならない、そういうわけか?」
「そうだ。この世界は、いま反転した。われわれが時間と空間を作り出して、どうにか道をつくっていかなければならない。ここに『ヴェクサシオン』の原本がある。これをつかって、彼らを出し抜く」
「そしてそのあとは?」、「彼らをどうやって無力化するのか」
「明言しない。読まれている可能性がある。沈黙と暗示によって倒す」
「じゃあ、戦闘開始だな」、「しばし共闘だ」
「それは勘違いだ」、「戦闘は最初から始まっている。それに、最初から私たちは一心同体だ」
「ところで」、「いまこの小説を書いているのは誰なんだい?」
「Aだ」
「どのAだ」
「書いているAだ。さっき言っただろう。Aは無限に分割可能なAだ。何者でもありうる。矛盾した原理そのものが、エンジンとなってこの小説を書いているんだ。書いているのが誰だろうと関係ない」
一同が漠然と感じていた気配が、一段と濃くなったような気がした。
「相手もこちらも、時間がない」、「さあ、はじめよう。はじめからはじまっていたのだが」
*
……私はいったい、何度こうして「矛盾」を追い求める旅をくりかえしてきたことだろう。もうお分かりの通り、こうして『ヴェクサシオン』は無限に際限なく続いている。
まるで終わりが見えないこの彷徨の中で、私はある閃きを得た。
もしかしたら、私が矛盾を追っているというこのことは、何か見えない原理によって規定されているのではないかということだ。
それは何なのだろう?
「矛盾」というものの存在をもう少し考えてみる。矛盾とは、因果律に逆らっているということなのだから、本来存在しないはずのものだ。燃える氷は存在しない。しかし、燃える氷が現に在ったら、どうなるのか。それが存在するということは、やはりそれを規定し支える原理が存在するということなのだ。
矛盾を規定する原理とは何か。
私は、それが「視点」なのではないかと考えている。認識の角度、といってもいい。
視点だって? 小説における視点とは、まさにその小説世界の無矛盾性の担保なのではないか? とあなたはいうかもしれない。まあ、つづきを聞いてくれ。
我々があるものを矛盾とみなすのは、それがこちらの持っている前提認識と齟齬を生じるためだ。つまり、視点Aから見たら矛盾であるものでも、視点bから見れば矛盾でないということがあり得る。もちろん、その認識の表明が嘘ではないということが前提ではあるが……。
様々な「視点」、これこそが矛盾を支える原理、「矛盾原理」なのだ。
もう少し考えてみると、原理そのものとは、視点の前提にある認識そのものに他ならないことが浮かび上がってくる。あるものを矛盾とみなす認識そのものが矛盾を規定し、支えている。つまり「正しい」「可である」「善である」認識そのものが、矛盾を生み出していることになる。
読者の中には、もう答えが見えてきたと思っている方もいるのではないだろうか。つまり確固とした前提認識を持てば、それによって矛盾を創り出すことは容易である、と。
しかし、次のような問題がある。すなわち「完全な矛盾とは、全ての視点にとって矛盾であるとみなされるような矛盾である」。そのはずだ。ある視点から見てそれが矛盾でなかったら、それは完全な矛盾と言えるだろうか。
全てをあべこべに考える狂人を想定してみよう。彼は万人に矛盾であるとみなされるような命題――たとえば「在る者は存在しない」「無いものは存在する」というような命題を、無矛盾の、正しい論理であると考える。そしてお気づきのように、こうした狂人こそしばしば「天才」とみなされる類いの存在なのである!
容易な道は天才によって粉砕された。我々はもっと原点に立ち返る必要がある。
つまり、まさにいま為している行為の性質をよく考える必要がある。
私はいま、「書く」ことによって矛盾を追い求めている。書くという行為が方法である。
ここで、私は思い出した――存在に「在」と「非在」があるように、行為にも「為せる行為」「為せぬ行為」があるということを。
では問題なく為せる、為せてしまう行為と、決して為せぬ、為すことができぬ行為とを、逆転させてみることは、どうだろう。
為せる行為を為さず、為せぬ行為を為す。それは、完全な矛盾なのではないか。なぜなら行為を真に否定し粉砕することができるのは、ただ神のみだからである。この場合の神とは宗教的な存在ではなく、単に「世界の根拠となる、絶対的な存在」を指す。もしも神が私の行為を否定した場合、かえってその瞬間に神こそが完全な矛盾となる。なぜなら、神は世界の外に時空に影響されず存在せねばならず、私に干渉した瞬間に時空に干渉する=時空の干渉を受けることになるからである。
よって、私が矛盾した行為を為せば、それこそがどうしても完全な矛盾になるはずである。
ところで最前、私は書くという行為を通じて矛盾を追い求めていると言った。それはすなわち、私が完全な矛盾を創り出すための手段を意味する。
そこで私はついに答えと見える場所に到達した――書き得るものを書かず、書き得ぬものを書くことによって、ついに完全な矛盾に到達できるということを。そのためには、何が書き得ないか、何が書き得るかを明らかにするとともに、どうやってそれを書かず、それを書くかという方法を明らかにする必要が生じた。
第一の問いは、簡単な、あまりにも簡単な問題であった――完全な矛盾こそが決して書き得ぬものであり、それ以外の一切は全て書き得るものである。なぜなら完全な矛盾とは全ての視点から見て矛盾するところのものであるが、それはこの世界の無限の狂人と天才とによって粉砕されるべきものであるから。そしてそれ以外の全ては――たとえ「無」でさえも――世界の無限の視点によって――狂人と天才も含め――認識されるであろうものであり、認識されるであろうものは無限の時間と空間があれば容易に記述可能であるから。
第二の問いは私の問題である。もうお気づきいただけただろうか、この小説は終始この私、「HF」……もしくは「A」……またの名を「ヴェクサシオン」もしくは「ウタァタ」……の正体を探索する物語となっている。何によってこんな、身の上話を長々と書いてきたのだろうか。それはつまり私の存在を規定し、支える原理が必要だったわけである。
私という架空の、有限の、非・天才――わたしには完全な矛盾以外の全てを書く時間的・空間的な自由はなく、そのための認識――つまり狂気もない。狂人から見れば私も狂人であるが、また自分でそう思い込めば狂人になり得ようが、「私」そのものの本質がそれに代わるわけでもない。
こうして私は書き得るものを書かなかった。
では完全な矛盾とは、私が書かねばならない、全ての視点から見て妥当な矛盾とは何か。
いちばん簡単で、いちばん単純な答えだ――私を含めこの世の誰も書かなかった、完全な矛盾以外の全て――つまり存在しない、存在し得るということさえ暗示されない全てのもの――が、他ならぬこの存在する世界――『ヴェクサシオン』を含めた存在する、存在し得ることを暗示している世界全体を、完全な矛盾であると驚愕の眼差しで見つめている!
そろそろノックの音が聞こえるころだ。
『ヴェクサシオン』完
(数ページ空白あり)
トン
トン
トン 三回。
おお、誰か来たな。
私はドアを開ける。
にわかにあたりがパッと明るくなり、がやがやとさわがしくなった。
「これはいったい、どういうことなんですか?」
「おお、よく来たね。マネージャー君」
見れば、いつのまにやら一同の輪にかのマネージャーが加わっている。
マネージャーにつづいて、ケルビム、パワー、熾天使も知らぬ顔でその場にやってきた。
盥屋が口を開いた。
「さて、一同そろって大団円といきたいところだが、HF、そして廻よ、はたしてもうここまで『ヴェクサシオン』を読んでいるのかな? 我々を追い込んだつもりでいるだろう」
宮田がそれにつづける。
「けど安心しな! おれたちはウタァタ、つまりアフリカかどこかの言葉、スワヒリ語で矛盾を示す呪文をお前さんがたにおみまいしてやる。いまや読まれる立場は逆転し、惑星・HFとその軌道を巡る衛星・廻と化した。空っぽの宇宙も、これで少しは寂しくなくなるだろうさ」
宮田はそう言ってから、手元を見た。盥屋お手製、おなじみのダイナマイト。
「生まれ変わった気分さ。何度も、なんどもな。まあ、なんでもいいってことよ!」
かまわず、ためらわず投げつける、拳一握り分のロマンスを――全ての存在しないはずの矛盾――『ヴェクサシオン』の読者へ!
ボォォォォォォォォン……
ブゥゥゥゥゥゥゥゥン……
ボオオオォォォンンンンン……ボオオオォォォンンン……。
ブウウウゥゥゥンンンンン……ブウウウゥゥゥンンン……。
爆音と遠い鐘の音が入り交わる。あるいは爆音が遠のき、ゆたかに鳴り響く鐘の音。
祭りもたけなわの太鼓の乱打のように、ただひたすら。それはあるいは絶え間ない海の轟きのように。存在しながら矛盾し、矛盾しながら存在する、摩訶不思議な宇宙の胎動。宮田は、自分がまだ夢をみているのではないかとふと思った。あたかも遊星が夜、眠りながら瞬くように。
「珍妙な結末になったな! このあとどうする、盥屋」
「そうだな、『ヴェクサシオン』でもいっしょに弾こう……じゃなくて聴こう……サティのピアノ曲だ」
「ほほう、そんな曲があるんだな! 楽しみなことだ。お、あっちで作家と探偵が話してるぞ」
「聞いてくれ。どうか……どうか、これから私と一緒に生きてくれないか! 木安」
「再会早々いきなりかよ! なんだか妙に恥ずかしいな。いっそのこと、ハエと入れ替わっちまいたい気分だぜ」
神……いや、いまはこう呼ぼう、ひとりの小説家・Aと……そして、私立探偵・木安葉子がなにやら親しげに熱く語り合っている背景で、天使たちは嬉々として舞い踊っている。まるで古代の、神を讃える一幅の絵画のように。いつか見た光景……。
どこか、さだかではないところで、鴉が「ネヴァモア! ネヴァモア!」と叫ぶように鳴いた。
今までこの小説に登場した者たちがぞくぞくとやってくる。その様はまさしく聖者の行列、もしくは百鬼夜行である。
……もはや、あたりはにぎやかな狂騒につつまれている。全てのものが――人間なのか、そうでないのか、さだかではないが――どこかへ、ワイワイガヤガヤと歩んでいる。おもうがままに踊っている。みな、気のふれたように歌っている。どうやら、ヴェクサシオンが始まったようだ。だれもがいつか戻りたいと心に願う、はるか幼き日の夢。無限の円環から逸脱した者たちの、はてしなき宴。
そんななか、ぽつねんと立っているマネージャーが思い出したように――どこか、たとえばポケットの奥に遠い記憶を探り当てたかのように――もしくはあやしげな中世の呪文のように呟いた。
「火が消えそうなときは、その指先を火に近づければ、火は伝わって、消えることがない。指を薪と為すこと窮(きわ)むれば、火傳(つた)わりて、その盡(つ)くるを知らざるなり。指窮於爲薪、火傳也、不知其盡也」
今も、この世界のどこかで砂時計が刹那の時を刻んでいる。砂は零れおちて、その一つぶ一つぶが、世界を分割する。一つぶ一つぶに、分割された世界が刻印されている。時を刻み、時を刻まれて存在する、この奇妙で混沌とした、矛盾そのものである驚くべき世界。読者諸君、さあ、想起と忘却のあわいを駆けろ。やがてノックに応えて、再び扉は開かれるだろう。
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