春風は嚔をした。
窓がガタガタと揺れた。世間から取り残されたこの廃屋に相応しい揺れだった。
春風というのは、名前では無い。
祖母が、幼き孫を勝手にそう呼んでいただけだった。由来は不明である。
鼻をすすりつつ、ドレッサーに置いてあったマグカップを手に取る。もう冷めきってしまって心がつっけんどんになる。唇に感じるキスは素っ気ない。埃の味はいつだって馴れない。
溜息をついては、マグカップを色褪せた桃花心木にくっきりと残る輪郭線に合わせて置いた。そこで脛そして足裏が細かい針が撫でて神経を逆撫でて来ることに気付く。
そのままふらつく足取りで尻もちをつくようにして安楽椅子に座る。背を尻を、抱擁されているのにも関わらず未だ素っ気ない。
「そんなに気に食わないのか」
春風はそうぶっきらぼうに言い放った。伽藍堂の室内に、細かな硝子の破片と埃と酸素にぶつかり合う。
また嚔をする。今度は酷かった。
名前を呼ばれた時の事を思い出した。
あの時もそう、嚔。
幼い身に合わない酷く汚いそれは、全身を震わせ、体の内部が飛び出してしまいそうな辛さを伴うものだった。
その度その魂と内蔵を食い止めてくれたのが、暖かい手だった。祖母は自分を抱きしめ、何かと優しい声をかけてくれた。
もう覚えてはいない。
あの時から春風だった。
体重を後ろに掛けて、安楽椅子の揺れにを身を任せる。飽きるまでそれは続けた。キッチンの火を消したか唐突な不安が脳裏を過ぎったが、それがいつだったかの記憶は思い出せない。いや、持ってきた茶を入れただけだからキッチンに用はない、という数時間前の事を思い出したのは、つい先程。春風は揺れが手前に来るタイミングを見計らって、立ち上がった。背中は灰色になっていた。
灰色が舞う。雪ならば良かったのに、と春風は思った。
身を震わせる嚔がまた飛び出した。
虚しい気持ちが穿たれた。あの頃の続きだった。
祖母の瞳に写る自分自身は、春風本人から見てみれば自分がただ写るだけであるのに対し、何故か祖母が捉える自分は何か別の者である、その些細な違和感を幼き春風は得ていた。子供故の野性的な勘である。
口を抑えていた指先が、次は埃に沈む。ドレッサーに手をついたからだ。長年の冷たさがやはり壁を作っているようで、心細い。
鏡に映るのは、母。
少し目を伏せて、何か唇は動いているが春風には分からない。
そのまま鏡に触れた。指紋は波紋だった。
冷たさはほんの一瞬で、指の腹が一センチでも沈めばたちまち広がってぬるま湯に沈むような心地良さが、次第に手を呑み込んで行く。全身が傾いて、爪先が浮く。机ががたついた。白っぽい化粧品の瓶や小物達が落ちて、けたたましい音を床先で披露していた。
春風はグッと身を引いた。
頭の先が鏡に浸かっていたが、そのまま引き戻す。
右手は固く握られ、指先を、掌を、そして手首から腕を血管が脈打っている。一気に咳き込んだ。肩が上下する。息をしてなかったせいだった。無意識であったが。
辺りに完熟した甘く芳醇な香りが漂い始める。遠いリビングにある暖炉の煤の香りと咽る埃を押し退けて春風にまとわりつくいていく。足先から腰から胸までそれは覆う。犯人はその掌に握り込んだなにかである。
不思議と鼻は通るようになっていた。視界は開けて、世界は繊細になっていく。
甘い精にまとわりつかれるまま、春風は少し抵抗してくる足の裏を這う冷気を無視して室内を歩いていく。慣れた手付きで菱形の錠と錆臭い鍵を開けて、部屋を出た。
年月を経た木材の湿り気と素っ気なさをより圧縮したかのような、廊下を歩いて行く。
赤黒いヴェルヴェットのカーテンが並ぶ窓を覆う。それでも、一部はその暗闇に沈まず、雪化粧をされたかのようにちらり、あるいはきらりと淡くなっていた。
この家にドアなんてものは、先程の部屋にしか無かった。
舞台幕の様な重厚なカーテンが廊下の先に待ち構えている。先程の窓に掛けられてるのと同じもの。明確に違う点といえば、此方はただ闇に沈んでいること。
指先をほんの少しだけ入れて、そこから丁寧に手の甲にカーテンをのせてはらいつつ、頭をその先へ潜り込ませる。左手は汗ばんでいた。
中は明かりなんて無縁だった。春風は足先にコツンと当たった洋燈を手に取る。
リビングに入る時用にいつも置いてあるものだ。六角形で黒い鉄が中の灯りを囲う見た目。小さな扉を開けて、中の蝋燭に火をつける。右手が塞がっている為、今日はライターである。
そのままパタンと閉じて、辺りをほのかに照らす程度の灯と共に、中を進む。
ソファ、そして六人用の椅子が並ぶテーブルを無視して、床がフローリングから柔らかい質感に変わる。ペルシャ柄の絨毯である。
その上を進んでもう煤も埃も灰も見分けの付かない暖炉の前に来た。春風は右手をやっと解放した。一層甘くて春風が思わず口を塞ぐ。身が曲がる。
少しうずくまった後、ふらつきながら立ち上がると暖炉の前に立つ。その中にある唯一新品の薪にライターを取り出して火を付けた。
パチパチと小さな火の子達が踊って、次第に大きな輪を描いていく。近くで見過ぎたせいで、春風の頬に一つ飛んできた。愛おしかったので春風は避け無かった。火傷はした。
何かが黒焦げになっていく。春風は耳を押さえてはいなかった。
火が落ち着くまで、春風はその場にしゃがみ覗き込んで居たが、肌がピリピリとしだしてかち割るような気がした為その場から立ち上がった。足の違和感。また痺れていた。
そのまま頬に手を当てて、この家の中でいちばん大きな窓に近付く。
ここだけは銀色に輝く、そして光を受ければ薄くしかし星が走るような繊細な装飾が隠れて施されているカーテンが掛けられている。今はそれを今か今かと待ち望んでいるかのように、暗く沈み、銀色は鈍色に変化している。
まずは左側のカーテンを半分ほど、開ける。そしてゆっくり歩いて真ん中へ戻り、次は右のカーテンを開ける。
背後の暖炉の火の音が強くなる。
破裂音が増してくる。
その音に合わせて光が照らし、また大きく照らした。
カーテンが踊る。
春風は一瞬手を止め、それを身に巻いた。
頬の痛みは無かった。ただその安らぎに身を任せた。抱かれていた。
いつしか伽藍堂に戻っていた。静謐な世界に、独りぼっちだった。それでも温もりは隣に背後に全てを満たしていた。
そのまま銀布を連れて、窓を開けた。留め具が外れていく音が、ワルツになるのが耳に安息を与える。
そして窓を開け放った。風は一切無かった。
春風はそのまま飛び込んだ。青草の香りが
鼻腔をくすぐる。
嚔をした。
銀色のドレスは大きく舞った。
星が踊り明かした。
後ろで窓が鳴っていた。
草花がただ揺れていた。
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