そこで眼を覚ました。何か夢を見た気がするが、夢の内容は思い出せない。それは思い出そうとすればするほど、曖昧になっていった。結局、何も分からず終いだった。こうして畳にへばり付いているだけでは、これでは分からず終いのままであった。
暫くして身体を起こすと、誘われるように窓辺へ立った。冬囲いの隙間から外を覗くと、景色は燦々と真白であった。
「お目覚めですか、朝食を食べにいらしてください…」
一畳向こうで端正に正座をしていたのは、渋江であった。渋江は民宿〔野田屋〕の一人娘である。
「ああ、だが今朝も結構だ」
渋江は、
「そうですか…」と、じっとりと私を見た。渋江は着物のよく似合う顔をしている。渋江が足を崩すと、濃紺の袷紬に十字絣の小紋の裾から、彼女の素肌が垣間見えた。
「大分降ったのかね」
「ええ、國道が閉鎖されました」
「なんと」
「大雪のせいで…」
「……」
稀に見る寒波が日本列島を襲っていた。私の居す、新潟のとある旧村も寒波の影響を大いに受けていた。旧村と市街地である柏崎を結ぶ一本道が、大雪によって閉ざされてしまったそうである。この山峡の旧村は、完全に孤立したのだった。
渋江が炭を移した。盆に乗せてきた薬缶を火鉢へ乗せ、静かに茶を沸かしている。
「いつ開けるのかね」
そう問うと、渋江が少し悲しそうな顔をした。もう一度外の景色を伺った。雪が止む気配はない。いつにも増して寂れた風景が眼に映っている。庭に立つ蜜柑の木は、眼を凝らさなければ見えてこないし、この時期咲いた椿の花は、この大雪で全て落ちてしまっただろう。枯渇していた田園は、和紙のように薄く伸び、西方に聳える米山は白い塊となって、向こう空からの境が、ほとんど見分けられなくなっていた。
薬缶の蓋が震え始めた。ちゃぶ台に向かい座布団へ腰を下ろした。煙草を取り出すと、
「お着けします…」と、渋江が身を寄せた。甘い香りがした。
「君、吸うだろう」
「ええ、よろしいのですか?」
渋江は悪そうな眼をした。実に白々しい目付きである。渋江が袂を抑えた。雪女のような白い腕が伸びた。渋江は箱を手に取り、煙草を一本咥えてから火を着けた。指の先にマッチの火が灯る。渋江の顔に薄暗い影が一瞬映った。まるで、何か後ろめたいことを思い出したかのよう。
この旧村に訪れたのは一週間ほど前であった。十二月に越後湯沢を出発し、それから長岡、新潟に一週間ずつ、柏崎に二日、そうしてこの旧村へやって来た。直きに柏崎へ引き返そうと思っていたところだったのだが、この状況ではそうもいかなくなった。
渋江が湯呑に茶を入れた。湯気が次々と立ち、仄暗い和室に馴染んでいく。渋江は煙を蒸しながら、その行き先を眺めていた。
「とにかく、もう少し世話になる」
茶を啜った。渋江がまた、悪そうな眼をした。次は淫らな目付きであった。
「この村には慣れましたか?」
「いいや、まったくだね…」
冬の部屋は静かである。こんな暗鬱な状況では、一層静寂だった。渋江は煙草を吸っては吐き、ただ私を見つめている。渋江の何か言いたげな表情を察しても、何か言ってやることさえできなかった。
暫くすると、渋江が口を開いた。
「二週間前の大雪が降ったときは…」
すかさず、
「あの時はだね…」と、渋江を遮る。そこまで言うと、渋江が煙草を押し潰した。そっと渋江に身を寄せた。甘い香りに煙草の匂いが混じっている。灰皿には、口紅の付いた煙草が数本朽ちていた。雪霰が音を立てて吹き荒れた。次の煙草に火を着け、今度は渋江を見つめた。渋江の黒い瞳がうるうるとしている。唇の薄紅が何かを待っているようだった。
「まだ吸うかい?」
そう言って、吸いかけの煙草を渋江に差し出した。渋江は黙って頷き、躊躇わず、私の煙草を咥えた。渋江は三度呑んでから、
「すぐに戻ります…」と、煙草を私の指に嵌めて立ち上がった。似つかないくらい暖かな手であった。
「偉いね、君は」
渋江の額が雪原のように果てしなく煌めいている。そうして、渋江はどこか燃えるように部屋を出て行った。衣擦れの音が、その場に置いて行かれた気がした。まだ渋江の色香は漂ったままであった。
茶を啜った。冷たい部屋では、熱など直ぐに温くなってしまう。私は指に嵌められた煙草の続きを呑んだ。何とも言えない冬の味がした。
二週間前の、新潟で過ごしていた時にも大雪が降った。明け方に眼にした、一夜にして街に現れた、人の背を優に超える積雪。それは忘れることのない景色であった。その際、日本列島北西の日本海側を中心に、甚大な雪害が起こった。死傷者もでており、家屋や建物の崩壊も報告された。人は家から出ることもできないほどで、それだけ深刻だったのだ。今朝直感したものは、二週間前の惨劇を上回っているのではないかということだった。
部屋が暗い。この天候では、今何時かを明らかにしようとはならなかった。橙色の電灯が消えかかっている。炭は小さく灰色に変わっていた。
気怠い全身で机に向かった。〔野田屋〕に着いてから、全く筆が進まなくなっていた。畳に転んでいる時は、腹は減るし、催すし、手は痺れる。書きたいことが生まれてくることさえあった。けれど、いざ身体を起こすと、途端に書けなくなってしまうのである。これに似たことが、新潟にいた時にも起こっていた。だから、積雪がましになってから、直ぐに柏崎へと居を移したのである。けれども、渋江に会う為に、この旧村に立ち寄ってしまった。それがいけなかったのだ。
「失礼します…」
襖が開けられた。渋江が傍の盆を持って立ち上がり、そっと敷居を跨いだ。着物の裾が張られ、縮まり、微かに畳表に触れた。
「お仕事中にすみません、朝食はこちらに置いておきます、ぜひ少しでもお召し上がりください…」
暖かな口調であった。机に向かい直して、
「ああ、すまない」と、背中で返した。
どうしてこれほどに書けないのか、ということから、いつしか背後にいる渋江へと私の気が移り始めた。渋江は息を殺して、そこにいたが、何かの擦れる音を発している。私の畳が微震する。新たに炭を焚いているのか。それとも、こっそりと煙草を吸っているのか。視界にいない筈の渋江の肉体が、全身全霊で感じられた。とうとう、万年筆に力が伝わらなくなり、卓上灯の明度が気になり始めた。部屋の室温は下がり、頭がぼうっとする。最早、何かを書く気力など皆無であった。
(…すまないが、君、席を外してもらえるかね)
こんな言葉を吐きそうになった。一体何のせいにしようとしているのだ。これは駄目だ。そもそも、こんな山奥にある旧村の民宿など虚構ではないか。一度でもこの旧村に幽玄を夢想したのがよくなかったのだ。ただ現実から逃避する過程で、この旧村へ行き着いたが、つまり、この旧村へやって来たことが間違っていたのである。全ては私のことだった。
「…進まないのですか?」
背後で声がした。背に緊張が走った。まるで、刃物を突き付けられたような鋭利。振り向いたら、その時点で終いだ。しかし、そうなると、振り向きたくなるのが私である。
「何故だろうか…」
振り返るのをじっと我慢した。眼の前の壁にか弱い声が跳ね返った。それでも低く、非常に通る音で反響した。
息を呑んだ。胸が苦しくなった。万年筆を取り替えても、言葉が浮かんで来ない。それなのに、尚も、渋江の肉体は伝導し続ける。
「…席を外したほうがよろしいですか?」
渋江が微かな声でそう言った。渋江にそう言わせてしまった。
激しな雪の音が内にまで届ききった。眼も開けられないほどの冷気も、ゆっくりと流れる部屋では、不自然に燃え盛る炎のように激烈になる。このままでは、書くことが叶わない。できることなら、この旧村から急いで立ち退きたかった。
「……」
いややはり、新潟で渋江に出会ってしまったのが、全ての元凶ではないか。
二週間前のことを思い返した。新潟の老舗旅館〔伊兵衛〕に着いてから、丸三日部屋に籠りっぱなしで執筆を進めていた。そうして三日目の夜、一区切りの付いた時分、〔伊兵衛〕に隣接している小料理屋〔喜助〕へ夕飯を摂りに立ったその際、初めて渋江と顔を合わせた。その夜、大雪が降った。今の日本は暖冬に猛暑だというのに、その日は雪国にも珍しい豪雪であった。
冬日は一層孤独になる。雪道に浮かび上がる足跡のような重くて暗い寂しさである。
渋江は新潟の生まれではなかった。だから、まだ冬の雪国を知らなかった。
渋江の父一寿は、新橋の料亭〔若水亭〕東京本店の次男に生まれた。八年前の渋江が十四歳の時、一寿は三代目である義父から勘当され、単身新潟へやって来た。顔馴染みを頼り、〔喜助〕で働き始めたが、二年前の春、親戚から旧村の百姓屋敷を譲り受け、定食屋を兼ねた民宿〔野田屋〕を開業したのだった。そして今年の夏、女房の美樹子と渋江は新潟へ移住した。渋江は二十二になっていた。
土壁は傷み、角のところが剥がれかけている。渋江はまだ静かにそこへいるらしかった。私に見えないものを渋江は見ていた。いやもしかしたら、私と同じなのかもしれない。
「ああ、君…」
驚いたのか、渋江の息が短く吸い込まれた。音がぴたりと止み、
「はい…」と、口から押し出されるように出た言葉だけが、部屋をふらふらとした。やがて、その言葉は寒さに耐えきれず、氷結することを受け入れる筈だ。炭が鳴いた。
「そこで、いったいなにをしているんだい」
「いいえ、なにも…」
(こちらにこないのかい…)
そう渋江に振り向きたかった。けれどそうはせず、尚も、あの豪雪が襲った白夜のような時間を思い出すことだけを続けた。それも、寒さに凍えながらも、燃えるような夜である。
小料理屋〔喜助〕には、数席のカウンターと離れの個室とが設けられていた。造りや設えは、素朴ではあるが、それが返って格式を高めながら、宿泊客が来店しやすい雰囲気を両立させているようだった。その夜は、離れの個室で宴会が入っていたようで、時折男の大きな笑い声が響いていた。
こちら側と離れの間には、小さな中庭が設けられており、そこを通って離れへと行くことができる。全面窓からは、小池に供する鹿威しや石灯籠の侘しさが見え、その先の離れが賑やかしい。よく見ると、脇の竹垣の裾から照明の明かりが染み出しており、薄く足元の石畳を照らしているが、寂しげに伸びた明かりは、奥隅々に広がる暗がりと対比されていた。明かりの届かない夜の砂利は、実に綺麗に流れており、まだ緑を保っている苔は、冬の様子を伺っているようであった。離れは、元々茶室だったものを造り替えたのだと、板前のひとりが語って聞かせてくれた。
暫くしてから、中庭の向こうから三味線の弾ける音が聞こえてきた。その音に耳を傾けるまでもなく、自然に意識が離れへ向く。板前曰く、離れは座敷になっているらしく、たまに新潟古町の芸者が呼ばれてやってくるのだそうだ。嘗て新潟古町は、京都祇園、東京新橋に並ぶほどの花街だったと聞いている。
飯台に飯が並び始めた。見たことのない先付を味わう。造りには日本海で獲れたもの。それらを新潟の燗酒で嗜んだ。そうして流れてくる三味線の音色や、微かな芸者の声が、中庭といい具合に調和しているのを堪能していた。それは寒い夜をすっかり忘れる一時であった。
越後湯沢を後にしてから、体調は優れていた。良質な飯や湯があるので、頭も軽くなっていった。持病の喘息は落ち着いているし、身体に出ていた、正体不明の発疹は引いた。危惧していた雪国の冬は、恐れるほどのものでもなかったので、全てが正解だったと、感嘆すらしていた。
心身は、寧ろ好調であると言えた。故に、よく筆が進んでいたので、酒も普段より美味く飲むことができていた。
外に粉雪が舞い始めた。飯台前に座る数組が、一斉に窓の外へ目線を向けた。二席隣の男が、庭に雪が積もるのもまた一興だと、連れの女にそれらしいことを言っている。三味線の溢れ音があることで、確かにそんなこともある気がした。ふと、離れの戸口前に立つ人影が眼に入った。丁度軒の陰に入り込んだ顔は認められなかったが、着物の袖から垂れた腕から指先が眼に入ったのである。それは、不自然なほど白く映った。中庭の暗陰に雪が降る。石畳の肌が濡れて、一層冷え込んでいるよう。竹垣の中から発せられる僅かな照明が、降り流れる雪にぶつかって行方を見失ったせいで、中庭が明るくなった気がした。それだから、私の眼は奥に立ち竦んでいる女だけを捉えたままであった。白いものは、非常に陰が目立つのである。
板前へ尋ねた。その女は、離れを行き来する仲居だと知った。女の父親が、旅館の支配人と古い仲だそうで、この頃、頻繁に手伝いをしにくるようになったらしい。正に、その仲居が渋江であった。
それから、渋江のことが気掛かりで仕様がなく、彼女を眺めるためだけに酒を飲み続けた。時折、渋江はこちら側へやって来て、長手に乗せた料理を離れへ持って行く。中庭を行く姿が美しかった。渋江へ声を掛けたのは、もう少ししてからのことであった。
店内奥の中庭へ続く戸の向かいに便所があった。そこへ小便に立った時である。偶然、離れから空瓶を下げて帰ってきた渋江と鉢合わせになったのだ。無心の内に、
「寒くないのかい?」と、柔らかに声を掛けていた。酔いが回っていたせいもあろうか、精神が安定していたせいもあろうか。言ってからすぐに、眼が覚めるような寒気を覚えた。
「ええ、平気でございます」
渋江は、慣れた口調で答えた。渋江は、わざわざ戸を閉めてから、
「何度も開け閉めをしてしまい、申し訳ありません…」と、頭を下げた。どんどんと酔いが覚めていく。戸の隙間から冷気が溢れているのかと疑うくらいに、渋江だけが麗らかであった。
「うむ…」
それでも、悪戯を働いた。
「だがね、君が綺麗だから許すのだよ」
そう小さく言うと、
「まあ、雪のおかげです」と、冷めた口調で言ってから、渋江は調理場裏へ続く暖簾をかき分けて消えた。
便所を出てから気付いたのだが、外の雪はすっかり大粒になっており、足跡の残るほどには積もっていた。しかし、これは大雪のたった前兆に過ぎなかった。
やがて、離れの勝手口から芸者が出て行くのが見えた。ともすると、真黒い背広を纏った中年の男らが、中庭へ群がり、ふらふらと雪を見上げて談笑を始めた。いつの間にか、カウンターに残った客は私ひとりとなっていた。
眼の焦点が覚束ない。顔の面が張るように熱くなっているのが感じられた。
渋江は座敷の片付けをしているらしかった。男ら黒一色が私の後ろを通り、玄関へ向かう。酒と煙草の臭いに、熱気を帯びた中年の体臭が、鼻にこびり付いた。騒がしく、大袈裟に笑い、悪そうな顔をしながら去って行った。あるひとりが、店先に出てから何か雄叫びを上げた。続いて、誰かが甲高く叫んだ。冷気が勢いよく店内に転がり込む。慌てて中庭の向こうを振り返ると、低木の腹中辺りまで積もった雪が視界に飛び込んできた。いつの間にこれほど降ったのかは分からない。突如真白となった庭一帯に、幻想を錯覚してしまいそうになった。時間の経過を知らしめる積雪。日本酒も随分と効いていた。一体何が起こったのかを理解するまで、暫く時間が掛かったことを覚えている。
外を出歩くのも困難に見えたが、幸い、宿が隣にある。ただ、では渋江はどうするのだろうか、という疑問が湧いた。
修行生のような風貌の若い男が調理場には残っていた。聞くと、
「住み込みなんで…」と、素っ気ない。すると、裏から板長らしき風貌の男が顔を覗かせ、
「お客さん、数年前にもこういうことがあったんですよ」と、呑気に笑って聞かせた。
「私も帰れそうになかったら、宿の者に言って泊めてもらいますよ」
板長はそう言いながら、また裏へ戻った。
修行生の手元から、包丁の音が続いていた。歩みを思わせる刻音。その歩幅は大きくなり、また小さくなる。しかし、歩調は決して乱れない。降り頻る白雪にも似たところがあった。
渋江は座敷に入ったまま姿を見せなかった。最後の杯は温燗になっていた。それをちびちびと飲み干した。渋江はまだ姿を見せない。
「あの娘は大丈夫なのかい…」
至って自然に尋ねた。修行生はまな板に視線を落としたまま、
「どうでしょう、よく分かんない人だから」と、興味のないよう。
「そうかい、それにしても着物がよく似合っているなあ…」
「……」
修行生は私の独り言に相槌も打たなかった。
「あの娘は芸者かなにかの出なのかい」
修行生は仕込みをする手を止めずに、
「さあ」とだけ。
修行生の顔を覗き込んだ。真白な筈の和帽子に、所々染みが認められた。黄や茶の汚れは修行生そのものである。和帽子からはみ出た縮れた髪の毛すらもそうであった。
「いずれ店を持つのかい?」
そう聞くと、修行生の右の耳がぴくりと動いた。
「いえ…」
「それじゃあ、どこか目指しているのかな」
「ええ、まあ…」
「どこかね」
「…若水亭です」
彼の調子が乱れた。顔が強張り、肩に力が入っているのが見て取れた。
「これはこれは…」
「……」
「京都のほうかい?」
「そうです…」
〔若水亭〕本店は、京都でも名の知れた料亭である。それだけに、料理人には相当な腕が求められる。〔若水亭〕本店を志す若い衆は、専門学校を出たあと、各地の支店で経験を積むか、それなりに確かな店で修行をしなければならない。
「あそこはよかった」
なるべく謙虚に伝えた。すると、修行生が、
「行ったことあるんすか」と、手を止め、初めて私を見た。
「ああ、何度かね」
「うそ、どうでした、やっぱ凄いっすか?」
言葉に少しの訛りがあった。
「京都随一だね、きっと」
渋江が雪を纏い、こちら側に戻って来た。器やグラスで敷き詰められた長手を持つ、渋江の手は震えていた。
「渋江さん、それそこ置いといて、もう上がっていいよ」
板長が暖簾から顔だけを覗かせた。
「板長、この方、若水亭の本店行ったことあるそっす」
修行生の言葉が跳ねるよう。板長が、
「本当ですか」と、軽く身体を乗り出す。
渋江は長手を飯台に置き、肩や腕の雪を払った。
「渋江さんのお父さんは若水亭に勤めていたんだよ」
「うそ…」
「なあ、渋江さん」
板長がそう言うと、渋江は中庭を振り返った。冷めきった唇には血色がない。顳顬に水滴が流れ落ちようとしている。きらきらとした微々たる雪が、白い粉のように、疎らにまつ毛を塗っていた。渋江の瞳は見えなかった。
「渋江さん、本当っすか」
修行生は、すっかり青年らしくなっていた。
「ええ、東京のお店ですけど…」
渋江が微かに震えているのを、見逃さなかった。
「凄い、凄いっすね、どんな感じなんすか?」
店内の明かりに照らされた修行生の瞳の輝かしいこと。まるで冬を忘れたような煌めきである。
「まあまあ、お前ももう上がっていいぞ」
外は豪雪。中庭はこちら側から照らされているだけで、竹垣の照明はとっくに雪に埋もれてしまっていた。真白な雪が溶け込んだ、真暗な庭へ出てみようと思った。渋江を連れて出ようと思った。
「君、一体帰れるのかい」
卑怯なくらいはっきりと言った。強さと弱さの丁度交わる部分で。
板長が裏へ姿を消した。それに気付いた修行生が前掛けを締め直している。
「どうでしょう…」
中庭を見ている渋江はひとりだった。
「僕の部屋をひとつ貸すが…」
漸く渋江が振り返った。なんとも言えぬ黒い眼をしていた。
翌朝、冬の音で眼を覚ました。渋江の寝息と、私の鼓音しかない部屋。四肢の先が固まっている。窓掛けから漏れた外光は淡く、海の中から空を見上げた時のような虚しさがあった。頭は重く、まだ眼が回っていた。それでも、外の景色は気になった。渋江が起きる様子はなかった。ひとりで立つのは止めた。渋江が眼を覚ましてから、ふたりで外を開くことに決めたのだった。
「やはり、私…」
背後で音がして、はっと我に返った。
「…なんだね」
「い、いいえ…」
渋江は二週間前のことを覚えている。覚えているというより、忘れないように、そっと胸の内に仕舞っている筈だ。
何を書けばいいのだろうか。机上の筆立ての影が傾いていた。一体どれくらいこうしていたのだろう。壁の外を見ることはできない。見続ければ見続けるだけ、身体が閉塞感を覚えてしまう。この壁の向こうには、きっと外があった。たった一枚の、今にも朽ちてしまいそうな、何てことのない壁である。
顔を左方へ背けた。その先の障子戸越しに廊下があった。廊下を進めば階下へ繋がる階段があるというのに、それを阻むような和紙の張られよう。しっかりと張られた紙の強さと、それ故に、いとも容易く破れてしまいそうな反発とがあった。端正に糊付けを重ねてきたであろう木枠の劣化や傷跡が認められる。この障子を指で突いてしまえば、宿の者はどんな顔をするのだろうか。まるで、老舗茶屋の店先の柱に残された、刀跡のような歴史が浮かんできた。鴨居に蜘蛛の巣が張ってある。敷居には埃が溜まり、畳の縁には黴が生えていた。
この百姓屋敷は三百年も続いている。渋江の父である一寿がこの屋敷を譲り受けた時には、今以上に悲惨な状態だったそうである。何十年も放置されていたので、庭の草木が生い茂り、門から屋敷の姿が認められないほど。中は埃と黴と、動物に荒らされた跡とで、一歩も踏み出せない廃れようだったらしい。
「いつまでそうしているんだい」
問い掛けを待っていたかのように、
「いつまでもです…」と、渋江が重ねた。
「寒いだろう」
「陽三様は寒くないですか?新しく炭を焚きましょうか?」
「私は大丈夫だ…」
渋江の吐息が頸に当たりそうなくらいに感じられた。渋江との距離を音で測る。そう遠くない筈であるのに、渋江が果てしなく思われた。背中に伝わる渋江の熱が、脇腹を伝って鳩尾に溜まる。そこを中心に四方へ分散され、身体のあらゆる部位が熱くなってくる。座椅子を軋ませると、畳を伝って、渋江に届いてしまいそうで、身動きをすら取るのも憚られた。胡座をかく足は痺れ始め、机に立つ左の肘先がじりじりと痛み、瞼が重くなっていることにも気が付いた。筆胼胝は萎み始めているかもしれなかった。
「いや、やはり炭を焚いてもらおう」
「分かりました、少しお待ちくださいね」
渋江が部屋を出て行った。振り返ると、そこに渋江はいなかった。不思議な感覚に陥った。先まで、見えていない渋江の存在に意識を集中させていた分、実際にいるべき所にいなくても、そのまま渋江の声が聞こえてこないのが不思議なのである。姿のないところで渋江を見つめ、姿のないところに渋江がいない。階下へ降りた渋江を追う気になった。座椅子を離れ、ちゃぶ台へ寄った。ゆっくりと歩いた。畳を擦るように、しかし音を立てないように歩いた。側に置かれた火鉢の炭が見えてきた。以前見た時から何もそのままであった。ちゃぶ台上には、渋江の持ってきた朝飯と、空っぽになった湯呑が重たそうに置かれたまま。湯呑の直ぐ隣にある硝子の灰皿にも、吸殻は増えていなかった。深緑に花柄の赤い刺し子が入った座布団も、変わらずそこにあった。朝から何ひとつ変わっていなかった。しかし、ただひとつだけ時の流れ、それも言わば渋江という女を知らしめるものが、たったひとつだけあった。それは、座布団の面であった。渋江の質量によって、激しく波打たれた面には、抜け殻のような薄い香、微かな体温、脈打つ音が確かにあった。そこに、静かな私の悲恋が映っていた。
渋江を引き寄せるように座布団へ座った。煙草を呑んだ。灰煙の馴染む部屋では、煙の行き先が分からない。真白な部屋だったら、きっと分かる気がする。白色は無限定である。だから無責任でもある。倫理的であり、実は最も無秩序だ。雪原に汚れはない。雪山は全てを吸収する。豪雪はこの旧村すらも、全てを飲み込んだ。
当然恐ろしくなった。二週間前のことを振り返れば振り返るだけ、段々と恐怖心が掘り返されるのだ。あの日見た雪景色。それと、今朝見た雪景色。遂に、本当にここから出られない気がしてきた。あの日は、一日中外に出ることが許されなかった。それも政府から雪害警戒がなされ、外出自粛命令が下された為である。外を知っている者と、外を知らない者とでは、見えている世界は違う。そして、外を知っているのに外を知れない者。これは苦しみである。陽の光に当たれず、ずっと曇った部屋に無心でいる。全てを失ったような喪失感と、投げやりな無気力とが身体の内側からゆっくりと蝕む。それは遅々と蝕むのであるが、実はもの凄く一瞬であった。当たり前の日常が壊れる瞬間を直に見たのである。
あの日と比べて、今日の方が遥かに積もっている。更に、これからが大降りだと言わんばかりに、雪の勢いは収まらない。一本しかない道は遮断された。きっとどこかでは既に被害が起こっているだろう。
あの日の朝のこと。二本目の煙草を蒸しながら原稿を読み直していると、渋江が暫くしてから眼を覚ました。薄暗い部屋に、渋江の、泉から引き上げた時のような肌の艶と髪の黒。乱れた寝巻きの股に太腿が翳っている。若い張りと、ほどよい曲線が、昨晩の手触りを想起させた。
渋江が口角を上げて、
「おはようございます」と、言いながら浴衣を整えた。私の目線に気付いていた。
昨晩着ていた薄藍の着物が壁に掛かっている。着物に丸に唐花紋が浮かんでいる。渋江の足元には、褐色の名古屋帯が畳まれ、その上に帯枕や帯紐が乗っていた。渋江は浴衣を整え終えると、もう一度口角を上げた。
「よく眠れましたか?」
「ああ、大分…」
負い目を感じる必要はなかった。罪悪感など、犯した罪に耐えきれない自身に対するせめてもの安らぎだ。だから罪悪感はなかった筈。
「さあ、おいで、景色を見よう」
そう言って、待ち望んだ外の景色を見る為、渋江を窓際に呼び出した。
「どれくらい積もったのでしょう」
渋江の胸の高鳴りが伝導してくる。そうしてふたりで窓掛けを開けた。その景色は、これ以上ない純白であった。
「……」
言葉を失うほどの積雪。感動、いやそれ以上に畏怖といった情が次第に湧いてきた。
「まっしろですね」
渋江は相変わらず若い。
直ぐに報道を確認すると、どうやら緊急事態であることが分かった。徐々に状況の理解が追い付き始めているところ、
「お外に出られないですね」と、渋江が、眼を擦りながら言った。寝起きの渋江の無垢な容姿に気を取られている場合ではなかった。
「外出自粛だそうですよ」
「…とは?」
「お宿にいなければならないということですよ」
「……」
渋江は無垢な眼で外を眺めながら、
「雪で遊びたかったのに…」と、ぽつり呟いていた。
窓枠の白景色に渋江が入ると、やはり違和感がなかった。絵画のような他人の風。それだから眼で楽しめるところがあるのだが、しかし、それ故に渋江を見ていることが出来なかった。
「…少し考え事をさせてくれ」
そう言って、煙草を呑んだ。ひとりで考えた。考えたというより、情報を処理していたというほうが正しい。何が起こり、何に恐怖を感じているのか。眼の前にいる女は誰だ。押さえ付けていた罪悪感というものが吹き出してきた。吐き気を催した。頭が冷たくなった。部屋の暗がりが気になった。そうして逃避をするように、再度、原稿の文字へ眼を落とした。
この時予感していた恐怖の正体は、やはりそうだった。それは、閉じ込められた途端、突如として筆が進まなくなったというものである。白景色のように頭がそうであった。何も情景が浮かんでこないし、文字にならない。その代わり、渋江が遠くから見つめてくる。まるで待つように私を見ているのである。
宿の者が事情を説明しに回ってきても、昼食の時間になっても、一向に無気力のままであった。そして喪失感。そのまま時が進み、ある時、渋江のせいにした。
今日の豪雪。それを目の当たりにした刹那、頭を掠めたのは新潟での雪日だった。豪雪の畏怖であった。そして、あの日、渋江を突き放したことでもあった。渋江が何かを犯したわけではない。ずっと静かに待っているだけであるのに、それが障害となってしまうのである。現に、ここに渋江がいた跡は殆どないではないか。座布団の皺でさえ、本当に渋江の跡なのかも疑わしい。それなのに、ずっと渋江のせいにしていた。
煙草の灰粉が逆さに舞った。眼を凝らして漸く視認できる細かさである。それを掌で掴もうとしても、風が起こって逃げていく。優しく包み込むように捕らえなければならないのだ。その時、不図視線を感じた。闇夜のような廊下からの眼差し。その正体は、一寿であった。
「あんた、おれの飯が気に食わねえのか?」
突然、そう放たれた。よく見ると、一寿の背後に渋江が隠れている。
「ここはただの民宿じゃねえ、飯にもこだわってやってんだあ」
「お父さん…」
一寿の乾いたような顔面に、みしみしと皺が寄っている。
「おめえは下へいってろ、病人を看病するみたいんに、こいつにつきっきりになんかならなくていいんだあ、第一、あんた歳はいくつんだい、小娘に看病されて情けないと思わないんかい」
「いいから、お父さん、わたしは平気だから」
渋江は非力である。だから、男を抑える術は知らない。そういう時、代わりに女らしさを見せればいいということは心得ているが、実の父親への見せ方は知らないようだった。
「三十二です…」
「ひとまわりんも違うじゃねえか、あんたがどれだけのモンかは知らんがな、部屋に篭ってだらだらと生きてるだけのやつは、所詮大した人間じゃねえんだあ」
「……」
「外に出ないから、顔が青白くなってるじゃないか、ええ?いい歳こいて不摂生なんてみっともねえぞ、ははは」
一寿の額に脂汗の反光を認めた。その時だった。
「やめて!」
一寿が一瞬動きを止めた。一寿は渋江を振り返り、
「な、なんだ?」と、恐る恐る。
「なにも知らないでしょ…」
眼の前で、親娘が互いに互いの距離を探っていた。推し量るに、この親子の関係は良好ではないのだろう。父親は動揺を露わに、がたがたと震えている。娘は父親の顔を見ることは出来ていない。その光景を眺めていると、不図外の白空へ逃げ込みたくなった。
「どうしたのさ…」
渋江は俯いたまま、一寿の袖を掴んでいた。廊下の奥にまで響きそうな、渋江の涙を飲む音がした。一寿の皺の模様が変わった。
「お父さんはなにも知らない…」
一寿が眼だけで私を見た。それも、訝しむ瞳だけで。
「わたしだって、こんな田舎にさえ来なければ今ごろ生き生きしていたよ…」
「…渋江?」
一寿は渋江に向き直り、今度は我が娘を見る眼付きになった。
「な、なにを言ってるんだ…」
「わたしはずっと待っているの、ずうっとよ、ここに来てからずっと…」
「……」
「でもわたしひとりじゃいけない、女だから、だから陽三様をずっと待っているの、陽三様ならわたしを連れ出してくれるかもしれないって…」
渋江が顔を上げた。眼は充血し、涙が鼻先を濡らしていた。素直に渋江の眼を見つめ返した。そうすると、何かを確信したように、渋江が廊下を走って行った。
「渋江!」
一寿は先へ呼び掛けたが、廊下は静まり返ったままであった。一寿が振り返り、和やかな表情を見せてから廊下を渡った。丸まった男の背中が闇に溶けていった。
開け放たれた襖を閉めに行くと、廊下の暗闇に見つめられた。そうして、渋江の涙目を思い起こした。あれは、新潟で一度渋江を突き放した日にも認めたことがある眼だった。
大雪が降ったせいで、〔伊兵衛〕から出られなかった日の夜分、渋江に一服を勧めた。
「…君、吸ってみるかい?」
渋江は、
「吸い方を教えてくださるなら…」と、断る気配がなかった。
「…なにもすべて受け入れる必要はないんだ、からかっただけだ、はは」
筆が進まないので、腹いせに純粋な女を汚そうとしていた。
「いえ、わたし吸ってみたいと思っていたのです…」
「どうして」
「陽三様こそ、どうして?」
〔喜助〕で渋江に出会い、〔伊兵衛〕の床を共にしてから翌朝の雪景色に至る一連の出来事は、すべて必然であるかもしれないと思っていた。その運命と言うべきものは、正に渋江のせいだと心に決めていた。そうすると、渋江に腹が立つのだ。だから、煙草を勧めた。私を犯したものを犯すべく。汚れを祓うために汚れを教える。それなのに、渋江はいつまで経っても純粋だった。
「火を着けて、そう、それから吸うんだ」
「…どうですか?」
運命に逆らうことは出来ない。だから、渋江を壊さなければならなかった。
〔伊兵衛〕の窓に広がる竹林の群がりが、夜に流離う幾本もの竹の連なりに映り変わった。硝子越しに淡い白が見える。遠い遠い雪。それは次第に見えなくさえなった。陽はすっかり沈み、開けっぱなしにされた窓掛けの向こうはただの暗闇。硝子には、反射したふたりが映っていた。硝子越しに眼が合う。しかし、互いに気付かない振りを続けていた。
暗闇に佇んでいるようで、実際は内と外とで明らかな区別がされている。
(いかにも外を切望する眼をしているな…)
そう気付かされながら、逸る心で、
「着いていない、もっと吸うんだよ、見ておいて…」と、見本の為に一本取り出し、火を着けた。
「…こうですか?」
「違う、まったく…」
歓喜を噛み締めるのはまだ早い。昨夜、ふたりで宿に戻ってきた時にも、そう繰り返し言い聞かせていたことだ。
「いいかい、こうして、火を近付ける」
眼が燃えているのを、自覚した。
「どうして、わたしも同じようにやっているのに…」
その刹那、どうして何故か、渋江が可愛く思えた。渋江の唇に咥えられた煙草が上下に揺れている。渋江が、
「もう一度いきます…」と、眼を伏せると、輪郭に沿った髪の束がゆらりと垂れた。煙草の匂いに渋江の香りが混ざる。
「お、着いたね」
「やった」
渋江が健気に喜ぶので、どうして何故か、またしても罪悪感が押し寄せてきた。
渋江の煙草の先から煙が上がった。やがて渋江の煙と私の煙は天井近くで絡まり合った。部屋がもくもくと曇り始めた。渋江が遠くにいるように感じられる。途端に、渋江を抱きたくなってしまった。
罪悪感を乗り越える為には、とことん破滅に突き進むしかないのだろう。例えば、渋江の身体を知り、渋江によくないことを教え、渋江を捨てるような。でないと、いつまで経っても外側に行くことが叶わないのではないか。独りよがりだとは分かっていても、そうすることしか許されないところまで参ってしまっていた。
灰の煙は、照明にまとわり、若干の黄味を帯びて充満した。しかし、依然として窓に映るのは私たちふたりの暗い顔であった。雪は小粒に変わっており、風が南に吹くのが分かった。
「見てごらん、じきにやみそうだ…」
そう言うと、一生懸命に煙草を蒸しながら、
「明日はお外に出られるといいですね」と、渋江が眼を細めた。
その時、遂に決心をした。吸いかけの煙草を消した。
「君、僕たちは今日きりだからね、明日からはもうない、僕も物書きだから…」
そう言っている途中から、渋江の表情が変わっていく。
「君がいると執筆が滞ってしまうんだ、分かるかい?」
「……」
渋江は、物分かりの悪い振りはしなかった。しかし、何か言いたげなのが渋江の瞳を通して感じられた。部屋はすっかり煙っぽくなってしまい、滝壺から弾けた飛沫が霧となるよう。側の大岩に黙座している日本狼の幻影がある。その影は、決して掴むことが出来ないのだ。
「明日になれば外に出られる、君は朝一番に家へ帰るがいい、きっと家の人も心配をしているだろうから、僕はもう少しここに籠る…」
「…のに」
「なんと?」
「お外に出られるのに…」
渋江から落ちそびれた煙草の灰が緩く曲がっている。その先から、煙が絶えずふたりの間を割って上がった。
渋江が小刻みに肩を啜っている。堪えるように、
「せっかくお外へ出られるのですよ、わたしは一緒に行きたいのです…」と、俯いたまま呟いた。
「ああ、だが分かってくれないか、またいつか、きっと会いに行く、君はいい娘だから…」
この言葉を境に、渋江は黙り込んでしまった。今になって残酷なことをしたものだと振り返る。分かりきった愛を囁いても、渋江に届いている様子はなかった。それもその筈。そんな愛など、自身を守るものでしかなかったからだ。
その後、新潟を後にし、柏崎へ着いてからも、頭から渋江が消えることはなかった。渋江を壊すつもりが、私の中での渋江を創ってしまったのだ。もう一度渋江に会い、今度はきっと破壊を終えよう。その想いで、少しして、渋江の元、〔野田屋〕へ立ち寄ったのである。けれど、やはり今度も破壊には至らなかった。
(すまなかった、僕と行こう…)
とうとう、この想いだけであった。閉めた襖を開けた。やはり先は遠く暗かった。階下に行ったであろう渋江の音に耳を澄ます。何も聞こえない。代わりに、
(君を外に連れ出しさえすれば、きっと僕は書けるようになるだろう…)と、眼を閉じ、力強く念じた。闇の中に深く信じたのである。すると、渋江の甘い香りが漂ってきた。物音は立っていなかった筈。しかし、確かにそこに渋江がいる気がした。眼を開けてもいいのか。渋江の鼻息すら聞こえてこないのに、しかし、確かに体温が伝わってくる。渋江も同じ想いかもしれなかった。
「そ、そこにいるのかい…」
眼を閉じたまま訪ねた。
「ええ、います…」
確かに渋江の音だった。
これほど直視したくなる瞬間はあっただろうか。いや、きっとこれ以上ない。しかし、眼を閉じていれば閉じている時間だけ、渋江を側に感じる。眼を開ければ、渋江がいなくなってしまいそうで、どうしても眼を開けることが怖かった。渋江の香気が全ての神経を鼻に集中させるので、瞼を持ち上げる力も残っていない。息が苦しかった。
「眼をお開きください…」
突如、そう言われると、鼻の力が抜けて、溜まっていたものが吹き出すように、息が漏れ出た。そうして、今度は耳が強張る。もっと渋江の声を聞かせてはくれないか。
「陽三様、きっとだと思っていました…」
「……」
「お邪魔はしませんから、どうか、どうか、お外に連れ出してはくれませんか…」
鼓膜を直に抱いてこようとする渋江の声。腹の中底から発せられているような低さが、言葉の明朗さを、意思を込めて伝えてくる。渋江の想いは、どうやらそういうことだった。危惧していた通り、というよりも、やはり思っていた通りだった。全ては私のことだったのだ。
「だが、僕は一度、君を遠ざけてしまった、それもすべてを君のせいにして…」
何者かに強制されているように、眼を開け放つことが出来ない。今更許されなくてもいいと思った。しかし、楽になりたい一心で心情を吐露し、尤も許されたいとは思っていた。愛がどうだとかと、様々に託け、結局は自身に正直になれなかった私の負けであった。
「…許します、だから、どうかお許しを」
渋江が、不図そう言った。瞼に掛かっていた力が、その刹那解けた。眼を開くことが叶ったのである。眼の前にいたのは、白く煌めく、紛れもなく渋江であった。
咄嗟に、
「すまなかった、僕とこの村を抜けよう」と、手を差し出した。
すると、渋江が眼を見開き、悪い表情をした。そのまま、
「ええ、ぜひ」と、私の手を取った。
それから気が付けば、ふたりは〔野田屋〕を飛び出していた。
「本当にいいのかい」
喉が凍てつく。視界を阻む風雪は、全身を横殴りで掠め、一瞬にして体温を奪い去った。指先の感覚はなかった。鼻水を何度も吸い込み、荒れる呼吸は、白息となって空に昇った。ただただ、夢中で駆けた。何かから逃げるように、いや、何かに立ち向かうように。
「ええ、すべて許します、あはは」
渋江は柵を捨てきって、いかにも自由のよう。渋江の白息が雪道に浮かんだ。
辺りは一面の真白景色。今朝、冬囲いから望んだ外を駆けていた。あの日、出ることの出来なかった外を駆けている。眼の前の雪原は、確か田圃だったか。向こう山は氷山の盛り上がり。降り頻る雪は、逃げる場所をも与えてはくれない。どこを見ても真白だった。
旧村から柏崎へは、恐らく二時間は掛かる。兎に角、まずは渋江を旧村から連れ出すことだけを考えていた。
「君、この村を抜けたらどうするんだい」
息が上がり、途切れ途切れになる言葉を、慎重に紡ぎ投げかける。渋江も、
「陽三様にお任せするのです、けどお邪魔はしませんから、必ずです」と、懸命に叫び答えた。
林道へ至ると、積雪の険しさが立ちはだかった。深いところは身長を超え、浅くとも膝の下まで雪が迫った。走り疲れてしまい、林道からは歩くことにした。崖に沿って歩を進める。落葉を終えた広葉樹の枝枝を抜けて、雪はふたりに降った。右手の口を開けて待っている急斜面から、顔面を刺すような冷風が噴き上げてきた。対して左手の絶壁は、より一層真白に積もっていた。その絶壁から太い木の根が、裂くように突出している。その根も空側にだけ雪を溜め、重さで撓っていた。奥まで続く白い壁に、根の色が浮かんでいた。
すっかり〔野田屋〕の影は見えなくなっていた。周りに民家は見当たらない。人の気配もなく、枯草も雪の下。あるのは私と渋江の想いだけだった。きっと、もう少し行けば、道を封鎖しているであろう何かが現れる筈。それは雪崩か、倒木か、甚大な積雪か。何にせよ、今ならふたりで乗り越えて行けるだろうと、その想いだけが私たちを突き動かしていた。渋江は私の腕に纏わり付き、決して離れまいと意志が感じられる。渋江が急斜面へ足を滑らせぬよう、渋江をしっかり抱き返していた。
渋江の濃紺の袷紬が段々と白に塗られていく。それには、夜に降りだす豪雪のような胸騒ぎがあった。渋江の肌が、一層と透き通るので、彼女を抱く力をぐっと強めた。若い女の体温は高く、肌は弾力がある。渋江の甘い香りが雪に乗った。柏崎へ着いたら渋江を抱こうと思った。
「柏崎は、あとどれくらいかね」
呼吸を整えながら聞いた。渋江の息が眼の前に吐かれる。渋江の胸を肘で触った。〔伊兵衛〕での夜の手触り。やはり捨てきろうと思っていても、忘れられないものなのだ。
「あと、一と半時間くらいです」
渋江の顔を見ると、彼女も満足気に笑ってみせた。
忙しない雪の香りもしなくなると、あとは凍えるのを待つだけ。白景色に眼が慣れ始めると、眼の奥がじんじんと痛み始めた。どこからともなく、吹雪の音が鳴った。
〔伊兵衛〕で渋江に別れを告げてから、心は軽くなっていた。まだ積雪の残る、薄暗い冬の朝を行く渋江の背中を見送っていると、何をしても許されるような気がしていた。何も失いはしない。何も得ることもない。ただこのまま、物書きとして孤独に生きるのだと、沁みて心に明かされたのである。
渋江は最後まで振り返らなかった。渋江は静かな空に下駄の音を弱々しく届かせながら、通りの角を曲がる時も、横顔すら曖昧にさせた。ただ、いく日振りかの日差しに煌めいた薄藍の着物だけが、最後までふたりの時間を忘れていなかった。着物には、時間を超えていく、そういう不思議があるものだ。
部屋に戻り、暫く振りに筆を走らせた。窓の外は、いつしか夢見た煌びやかな陽が昇っていた。更に、いつでもそれを手にすることが出来るようになったのだ。外に行きたければ外を目指し、執筆となれば部屋に篭る。いつでも外へ出られるという充足感が、私の孤独を駆り立てたのである。
新潟の雪も落ち着いた頃、それは渋江が行ってから二日経った時分、薄暮時に散歩を始めた。溶けきれずにいる薄氷を踏み、古町の名残を練り歩いた。〔喜助〕で食べた珍味の舌触りや鼻から抜ける香りをまだ覚えていた。諸地域の港から届く鮮魚、郷土の練り物、地酒も忘れられない味だった。だから、自然と渋江を思い出した。思い出すだけならば、まだ良かったが、その足で〔喜助〕へと出向かなかったのが良くなかったのだ。
〔喜助〕の正面玄関には、小さな門が構えられており、その脇に〔喜助〕と金字で書かれた看板が立てかけてあった。門の先は薄暗く、突き当たりにはへんてこな置物があった。その置物は、以前に訪れた時にも眼にしていたので、恐らく突き当たりで〔伊兵衛〕に繋がる裏道と合流するのだろう。
何故、そのまま門を潜りはしなかったのか。それは、渋江がいるかもしれないという思案から抜け出せなくなってしまったからであった。まるで、背後に渋江を感じながら、振り向きたくとも振り向けなくなってしまう、というものと似たものである。渋江に対する罪悪感などではない。渋江がいたら、一体遂には私の全てが壊されてしまうかもしれないという、一切の恐怖心からである。つまり、まだ渋江を忘れることができていない時点で、いつ何時も、その恐怖心が消えている筈などなかったのである。
そのまま部屋に戻った。〔喜助〕の置物の前を通り、小径を抜けて〔伊兵衛〕へ帰った。
またしても、思うように筆が進まなくなった。それは夕時の薄暗さのせいではない。寒さや、残雪のせいでもなかった。だから、もう一度渋江に会い、次こそは彼女を破壊しきろうと、旧村を目指したのである。途中、柏崎で休息を取った。〔野田屋〕では、渋江に一言、二言残して、直ぐに柏崎へ戻る手筈だったのだが、優しさとは名ばかりの、弱さが私の頭を鈍らせてしまったのだった。
「君、いろいろ本当にすまなかった…」
そう囁くと、
「いいのです、許したと言っているではありませんか…」と、渋江も囁いた。ふたりの声は雪の音に掻き消されそうなくらいに脆かった。
あんぐりと開かれた斜面の先に國道が見えてきた。ふたりは、山をひとつ越えようとしているところだった。國道に、車の轍は一切見当たらない。一直線に真白であった。
「國道、です」
渋江が下を指差し、語尾を上げた。
「もう少しかね」
「ええ、半分は来ました」
渋江が声を踊らせた。下に國道を眺めながら、少し山道を進んだ。そうして、斜面に認められる、下まで続く石段跡を降りることにした。ふたりで手を取り合い、陰の覗く石段をひとつひとつ確かめながら降りた。
側の大木に手を当て、身体を支えると、大粒の雪が降ってきた。それを渋江が被り、大きく笑った。
「すまない、はは」
渋江は、見たこともないくらいに燥いでいた。渋江が着物の裾を捲し上げるので、彼女の腕の輪をしっかりと掴んだ。
「平気ですか?」
「ああ、信じておくれ」
渋江は側道に向かって、身体を垂直にし、片足ずつゆっくりと行く。渋江の後ろを行き、右手で彼女を抱きながら、左手を大木に添える。刃物のような鋭い冷たさ。凍裂と言い、寒い地域の樹木は、寒さに耐えきれなくなると、音を立てて裂けることがある。私の手がそうなってしまいそうであった。それでも、渋江を旧村から逃す為に、とことん意地だけで動いていたのだ。
漸く石段を下り、國道へ出た。側道を見上げると、ふたりの足跡が認められたが、上の方には、次の雪が覆い始めていた。道路にもふたりの足跡が着いた。渋江の足跡は小さい。着物の裾が擦れた跡が、雪道に浮かぶ。ふたりは再度手を取り合い、前方を目指した。その時であった。細かな吹雪の白世界のその先に、微かに、巨大な氷塊が横たわっているのを認めたのである。
「あれは、なんだ…」
思わず、横にいる渋江を見ると、それと同時に、彼女が駆けた。
「き、君、待ちなさい!」
そう言ったが、渋江は何も言わないで、豪雪に向かった。急いで、渋江のあとを追った。渋江の着物が風を切り、雪を去る。可愛らしかった足跡に、無邪気さは残したまま、荒々しい盛り雪が私に飛び掛かる。女々しさは私のことで、今の渋江は雄々しく映った。
「危険だ!」
そう先に叫ぶも、渋江は振り返らない。
両脇の崖は聳り立ち、壁面の白銀は勢いよく後ろに流れる。顔に飛び込む数多の雪の粉が、渋江の背中を遠いものにしていく。手を伸ばし、叫ぶも、渋江はぐんぐんと走った。
遂には、渋江の濃紺の着物は白く染まりきり、雪に溶けた。無闇に、
「大丈夫か!」とだけ、何度も吠えたが、返ってくるのは雪音だけ。冬の寂しさ。白い景色だけである。
渋江が姿を消した。漸く、氷塊に辿り着き、渋江の名を呼んでも、駄目であった。辺りをうろうろとしたが、足跡はとっくに消えてしまって、何の手掛かりも見当たらなかった。
「渋江、ふざけるのはお止しなさい、私はここだ、出ておいでなさい」
氷塊の正体は、左手の崖から滑り落ちた雪崩であった。
「そこにいるんだろう、雪崩くらい、ふたりで超えていこう」
(…この雪崩をひとりで行ったのかしら)
そう思うと、この氷塊をひとりで越えなければいけない気がした。
「少し、そこで待ってなさい、今いくから」
声が雪粉にぶつかり合って、その場に留まった。國道は恐らくまだ続く筈だ。その先をひとりで行く気力はないではないか。雪山で遭難した際、脳が勘違いをして気を惑わせることがあると聞く。渋江の安否だけが心配になった。
雪崩の面に手を付くと、どうしても、ここを登っていくことが不可能に思われた。背のふた回りか、いいやそれ以上あるではないか。雪と言ったって、一度形を変えてしまえば、岩のように固くなる。そして何より、全てを拒絶する温度。脇道を回ろうにも、両端は崖。引き換えそうにも、渋江の元を離れるのは憚られる。刹那、嫌な予感がした。真白な雪道に色が着くような、そんなよくないことを思った。
「おおい…」
大声を出すのも、やっとであった。とうとう、そこで力尽きてしまった。
「おう、眼を覚ましたんかね」
硬い畳の感触が背にあった。側で囲炉裏が音を上げている。鉤棒に掛かった土鍋からは、汁が吹き出していた。
「おまえさん、起き上がらんでいいよお、じっとしときんなさいねえ…」
薄目に寂れた天井が見えてきた。老人のしゃがれた声は足元の方から聞こえた。
手足の感覚がなく、力が入らない。故に、身体を起こすこともできない。
「こ、ここは…」
そう言葉を発すると、それきり眼を瞑ってしまった。老人の喋る音だけが耳に入ってくる。老人は、何か鈍い音を立てながら、
「びっくりしたよお、こんな時にそんな格好で外に出るなんてなあ、おまえさん、死んでしまうところだったよお、本当に…」と、言った。
「なにをしていたんだえ、まさか、遭難かえ、まあこの辺じゃあよくある話だがよお」
(渋江は…)
「し、し、渋江…」
「え?なんだってえ?」
「渋江、は…」
「だあれだそれは、おまえさんしかいなかったよお」
渋江を助けなくてはならない。そう思うと身体が動いた。
「おいおいおい、嘘だあ…」
老人は、胡座をかきながら大根の皮を剥いていた。老人の姿を認めても、まだ男か女かの判別は付かなかった。身体を起こし切ると、老人が、
「おまえさん、変なことは言わないからあ、やめときねえ、おまえさん、自分の指、見てごらんなさえ」と、包丁で私の手元を差した。掌を見た。指は青黒く腫れ上がり、手の甲は真赤に染まり上がっていた。凍傷を負っていたのである。
「もう指の何本かは使えないかもなあ、お湯には晒したんだけどお、ううむ、手遅れかもしれないえ…」
掌を見つめながら、渋江の現状を危惧した。今頃、渋江はひとり雪の中だ。
「病院へなんかは無理だあ、分かるだろお、救急車もこれやしない、ええ、許してくれえ…」
「あの、一緒にいた女は、女性が近くにいたはずです!」
身体が動かせない分、気持ちだけが昂った。
「だからあ、いなかったってえ」
「いいや、必ずいたはず…」
「いいやあ、見てないなあ…」
「…本当に?」
「ああ、おらはここで何人も救ってきたんだえ、見落とすはずがないよお」
「……」
老人の民家は、〔野田屋〕より造りは新しいのに、〔野田屋〕よりも廃れていた。老人は包丁を握り直し、大根の皮剥きを再開した。冷静になると、鼻を劈く黴の臭いが漂った。得体の知れない汁物からは味噌の匂いがし、囲炉裏の熱が暖かい。それらが全て混ざり合うと、気色の悪さから嘔吐感を催した。頭の後ろが割れるように痛かった。腹はずっと転がるように暴れ回っている。
(渋江はきっともう…)
桂剥きを終え、老人は大根を短冊型に切り始めた。ともすると、突然に手を止め、
「そらあ、雪女だべ」と、呟いた。少しにやりと眼が笑っていた。
「は…」
「ここらではよくあることだあ」
「……」
そう言い、老人は包丁を刻み始めた。よく見ると、高窓に垂れる太い氷柱が透けていた。もう一度、掌を見た。どこからか凍風が入り込み、土間の落ち葉が鈍く悶えた。
囲炉裏の灰に汁が溢れると、老人は急いで土鍋を上げた。その辺に落ちていた布切れで、かたかたと土鍋の縁を吹きながら、
「あんたは罰が当たったんだろうよお、中途半端じゃいけないよ、へへ、そうそう、いずれ自衛隊が國道を開けにくる、自衛隊も到着に難航しているようだけどお、國道が開いたらああんたも行きなさいえ…」と、言い終わると、切り終えた大根を鍋に入れ、もう一度鉤に掛けた。魚の形をした横木を締め、今度は少し鉤棒を上げて吊るした。
全身に痛みと痒みが襲った。もう一度畳へ背を着けた。天へ腕を伸ばし、自身の醜悪な両掌を見つめ、これからのことを考えていた。
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