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TITLE: Mooring to RED.
This work follows a HAMETUHA project aimed at countering the singularity.

ベースとした参考作品:「赤いランドセルと首つりロープ」

タグ: #サスペンス #ホラー #ミステリー #実験的 #純文学 #第41回文学フリマ東京原稿募集

小説

9,328文字

草いきれが死体の吐息のように鼻を刺した。

ドアを開け、車を降りる。一番安かった軽自動車を駅前のレンタカー屋で借りた。あとで迷惑をかけることになる。担当者は妙に愛想よく、旅行ならと青のミニバンを勧めてきたが断った。ひび割れたコンクリートに足を下ろすと、割れ目から茫々ぼうぼうと突き出した夏草が俺を絡めとるように腕を伸ばしてくる。それを足先で払いのけながら先へ向かった。俺がここに来たのは、この場所が「出る」と噂の心霊スポットだからじゃない。

死ぬのに相応しい場所だと思ったからだ。

すぐに、蝉時雨せみしぐれに包まれた木造の廃校舎が現れる。すっかり剥げ落ちた白いペンキ、斜めに折れた窓枠。陽に焼けて黒ずんだ木材にはつたが絡んでいる。屋根はまだ形を保っていたが、ところどころ大きく抜け落ち、むきだしになったはりは裸の肋骨のように空を仰いでいた。俺にはそれが、しずけさに取り残された巨大な獣の死骸にしか見えなかった。

リュックには新品の登山用ロープが入れてある。色は赤。今日のためにわざわざ上等な道具を選んで買った。人生という登山に失敗した男が命を預けるには、皮肉なほど頑丈なロープ。だが、これで失敗するわけにはいかない。失敗はもう、十分にやった。

鎖をまたぎ、破れたフェンスをくぐり抜けたせいで、汗ばんだ掌に鉄錆が張りつき、いくら擦っても落ち切らない。リュックを担ぎ直すたび、カラビナがカチャカチャと鳴った。流しで茶碗を洗う程度に軽くて乾いた音だ。

いつしか母は台所に立たなくなった。よく世話を焼く明るい性格だったが、人目を避けるように家に閉じこもってからはあっという間に弱っていった。俺が高校を出る頃には殆ど話さなくなり、ついには入浴もままならなくなった。医者はうつだといって薬を処方したが、自分では呑まない。ただぶつぶつと名を呼んでは、思い出したように泣くばかりだった。

(どうして雲って形が変わるの?)

また妹の声が聴こえる。小学校の帰り道、赤いランドセルを跳ねさせながら訊いた真帆まほの顔。俺は空を見上げて答えた。

(風が押すんだ)

正確じゃないが、そのうち理科でやるだろう。真帆は「ふうん」と笑って納得した。

(どこまでいくのかな?)

(さあね、ついていってみたら?)

真帆は流れる雲を飽きずによく見ていた。ゆったり泳ぐ雲を追いかけるように、川沿いの土手を駆けた。夕陽に透ける赤いランドセル。おさがりのシャツは首元がはだけがちで、肩紐がよく肌に食い込んでいた。白くて柔らかな幼い肌。その背中でランドセルの金具が「かちゃん」と鳴る――あの音は、俺と真帆の会話の余白にいつもぶら下がっていた。

あれから三〇年、遠く記憶の彼方に追いやっていたあいつから、突如として届き始めたメールを俺はまだ一度も開いていない。

「……さて、と」

誰に聞かせるでもなく、声が勝手に漏れた。

校庭の端に立ち、先を阻む雑草の海を見つめる。校庭はもはや校庭ではない。セイタカアワダチソウは膝まで伸び、雲梯うんていは傾き、掲示板には内容などとうに失われた紙片だけが、白さの残滓ざんしを曖昧にとどめたまま風化して張りついている。かつて子供たちの歓声が響いた場所。今は、蝉と風と俺だけだ。

死に場所の候補を探して俺は歩いた。どこだ、どこが相応しい? 大丈夫だ。じっくり吟味するだけの時間はある。焼却炉はダメだ。低すぎるし、錆びきっている。校旗を掲げるポールは逆に高すぎて足場に困るし、なんとか括りつけたとしてもロープごと滑り落ちるかもしれない。渡り廊下の手すりは恐らく俺の体重を支えきれずに崩壊して地に落ちる。

本命の体育館は後回しにし、校舎に向かう。昇降口のガラスは盛大に割れていたが、ガラス片は脇に寄せられていた。ハクビシンはそんなことはしないだろうから、どうせ肝試しに忍び込んだ人間の姿をしたイタチの仕業だろう。まあ丁度いい。体よくそいつらが俺の死体を見つけてくれれば、蛆や野生動物に食い荒らされる前に回収されるかもしれない。

音楽室は防音のために配管が特殊らしい。給食配膳室には太いダクトがあるはずだ。理科室は防火対策が必要だから頑丈なはずだ。高さ、太さ、強度。首を吊るには十分かを測るように、俺は一階から順に回っていった。

廊下は薄暗い。埃と黴の臭いが漂い、鼻腔がざらついた。窓から射す細い光の筋に塵が舞っている。どこか甘ったるく、抗生物質を呑んだあとの尿のような臭いがして、喉の奥がねばついた。野生動物がどこかに巣を作っているのかもしれない。一歩踏む床がギィと鳴るたびに「まだお前には重さがある」と告げられるようで苛立った。重さは落ちるために必要だ。俺は今、その計算しかしていない。

――かちゃん

なにか音がした。カラビナが立てる音に似ていた。その音に誘われるように先へ進む。

ザザッ……視界が一瞬ザッピングした気がした。昨夜は睡眠薬を二倍量呑んだ。運転前にエナドリを胃に流し込んだが、まだ薬が残っているのかもしれない。ノイズが消え去ると、階段の上から小石が一粒、音もなく落ちてくる。それを跨いで二階に上がった。

廊下の先に、赤いランドセルを背負ったおかっぱの女の子が立っていた。白いブラウスに紺のスカート、丸い襟には赤い花の刺繍がひとつ。ランドセルの肩紐には、カッターでついたような目立つ傷があった。半分透けた躰が蜃気楼のように揺れる。女の子はすうっと腕を伸ばすと、突き当たりの教室を指差し、中へ入っていった。無意識に後を追う。鍵は壊されて扉は開いていた。小さな机と椅子が、不自然なほど整然と、主の帰りを待つ忠犬のように並んでいる。女の子はその中ほどで、教卓を向いて立っていた。黒板にはうっすらとチョークの跡。

女の子がすっとこちらを向いた。ただじっと俺を見つめる。その瞳はガラス玉のようにくらく透き通っていて何の感情も映していない。赤いランドセルが不意にぬめるように光る。

「……迷子か?」

バカな言葉が出た。こんな場所に子供がいるはずない。少女が首をこてんと傾げた。口許から、ぽろりと何かが落ちる。雲が太陽を隠し、教室が影に沈む。俺が瞬きをした次の瞬間――その子は消えていた。

小さな白い石がまた一粒、床の上を跳ねて足先に転がる。斜めに射す光の柱に漂う粉塵と、耳の奥を塞ぐ蝉の声が戻ってくる。心臓が騒いだ。俺は認められたのか? この世ならざるものに迎え入れられたかのような高揚感と安堵に近い感情が湧いた。大丈夫だ。俺は死ねる。死にに来た人間が幽霊に怯えてどうする。もうすぐ仲間じゃないか。俺は自嘲気味に笑い、そこを離れた。

汗を拭いながら体育館へ向かう。張りついたシャツがひどく不快だった。ロープの強度は足りている。もやい結びもマスターした。あとはもやう先だけだ。外壁の下部には、地面すれすれに横長の窓が連続して並んでいた。採光のために造られたものだろうが、今はすでに半分以上がひび割れ、ガラスには苔が這っている。そこをバールで叩き割って体が通れる穴を作り、頭を突っ込むと茶色い空間が広がっていた。埃の溜まった板張りに這い出て、上を見上げる。

体育館の壁の高みには、人ひとりがやっと通れるほどの細い通路がぐるりと走っていた。思った通りだ。ただ高窓のカーテンを閉めるためだけに設けられた無人の回廊。当然手すりがついている。舞台袖にある扉を開けると、瞬間的に影がザッと四方に散った。鼠が巣作りするには最高の場所だ。キイィと音を立てて扉が閉まる。ひどく暗くて狭いが、目はすぐに慣れた。天井には滑車が張りつき、幕を降ろすための巻き上げハンドルや、照明を扱う操作盤が壁に並んでいた。それらの前を素通りして、回廊へと続く狭い梯子を上る。

細長いミラーのような隙間を潜ると、そこに圧倒的な見晴らしがあった。数十メートルに渡る空間が足元に広がっている。暗い梁の影が通路の下に格子のように落ち、それがさらに何筋もの光の柱を眩しく際立たせていた。通路はまっすぐ歩けないほど狭いが、軋むことはなく意外なほど頑丈だった。体を横にしながら歩を進める。南側からの日差しを正面に受け止める北側の通路までくると、俺はリュックを下ろした。時を刻むことをとうの昔に放棄した丸い掛時計が、体育館を統べる管理人のように全体を見下ろしていた。

リュックからロープを取り出す。てすりの支柱を何本か使ってロープを渡し、それを8の字状に括りつけてから、もう片方の先端に取り掛かる。もやい結びももう慣れたものだ。だが掌には汗と埃が混じり、縄の繊維がざらりと皮膚に食い込む感覚がやけに鮮明だった。ロープを引っ張って揺らし、強度を確かめる。耐えきるだろうか。もう一度、念入りに結びを締めた。息を吸い込み、視線を下へ落とす。褐色の虚空が口を開け、無数の埃が光の筋に舞っていた。静かだ。あんなに煩かった蝉の声さえもはやどこか遠い。胸が詰まって、喉が鳴った。同時に、あの女の子の瞳が瞼の裏で燻り続けていた。なにか伝えたかったのか? 「見ている」と言われた気もするし、「ここじゃない」と押し返された気もした。俺はなにを怯んでいる。足場を蹴って宙を踏めばすべて終わる。

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© 2025 虹乃ノラン ( 2025年10月3日公開

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